21.

 高い崖だった。

 崖下には深くて流れの速い川が沿い、水は不思議と澄んでいた。

 崖上は、まったく人の手が加わっていない伸び放題の草に覆われ――そのどこまでも広がる緑の中に、白い野花が混じっている。

 野原の端に一人の女性が佇んでいた。胸の辺りまでもある長い草に包まれ、安らかに微笑んでいる。

 彼女が野草の上に止まった大きなキリギリスに手を伸ばすと、虫は遠くへ逃げた。

 一瞬残念そうな顔をしてから、女性はくすりと笑った。蜂蜜色の長い髪が風になびいた。それを押さえるように右手を髪に絡める。

「ヨンフェ=ジーディ! いるー?」

 ふいに、誰か別の女性の呼ぶ声がした。

「私はここよ。どうしたの?」

 蜂蜜色の髪の女性は振り返り、返事をした。

(……え?)

 認識が急に広がった。

 その瞬間に――ミスリア・ノイラートは、自分がまるで鳥の体に入っているかのように、大地を見下ろし一人の女性を眺めていた事を知った。

(どうして? これは夢……?)

 だとしても益々鮮明になっていく。野原の香りも、風に草が揺れる音も、二人の話し声も、妙に近く感じられた。

「もう! またここにいた」

 後から来た女性が長い草をかき分けながら、ヨンフェ=ジーディに走り寄る。

「ごめん。だって落ち着くの」

 遠くて顔がよく見えないのに、彼女の空気が憂いを帯びたのが何故かよくわかった。

「……まだ悩んでるの? 一人になりたかったのね」

「うん、でも気にしないで。元より『聖地』はあんまり近づいちゃいけないんだし、そろそろ戻るわ。何か用事あったんでしょ?」

「そう! そうなのよ、司祭さまが呼んでるわ。準備手伝って欲しいって――」

 女性たちの話は尚も続いたが、ミスリアはそれ以上聞かなかった。

(もしかして、私……あの女の人じゃなくてこの場所に同調した……? 聖地だから?)

 もう一度よく周囲を見回そうとしたけれど、視界がぼやけ出して、できなかった。

(でも確かに崖の上だわ。司祭さまって言ったし、もしかすると後ろに教会があるんじゃ――)

 しかしそこで思考が途切れ、夢も解けた。


_______


「ふーん、片手抱きにしたか。てか、お前左利きだったっけ?」

「逆だ。荷物は左に集中的に持って、利き手は空けておきたい」

「確かに利き手の方が何かあった時に咄嗟に使いやすいな」

 二人の男性の会話が聴こえる。多分、イトゥ=エンキとゲズゥだ。

 ミスリアの両目はまだ形を映さず、下手な絵画みたいに色がたくさん混ざり合って見える。

「ところでさー。お前、天下の大罪人とか言われてっけど。実際会ってみて――ああ、噂が一人歩きした奴の典型かなって思った」

「ある程度は、その通りだろうな」

「オレとしては一番気になるのは、どうやって二回も脱獄したんだってトコだけど」

 ミスリアは二人の会話にただ耳を傾けた。身体が異様にだるくて動けない。

 何だか揺れている感覚がする、まるで、誰かに運ばれているような。

「お前を捕まえたのってあの国際的な対犯罪組織だろ? 凶悪犯罪者の為だけに、鋼でできた鉄格子の牢獄を開発したって聞いたぜ。お前もそういうの入ったんだろ」

「機を見て看守から鍵を奪った。左目を使って」

「呪いの眼って、使えるモンだったんか」

「滅多に使わん」

「ちょっと羨ましいぜ、オレの紋様にも何か力があったらなー、ってたまに思う。どうやって使うんだ? 何で滅多に使わないんだ?」

「……そこまで説明する気は無い」

「ふむ。まあいっか」

 声でしか判断できないけれど、二人はいつの間にか随分打ち解けているようだった。

 今しがた交わされた会話の内容も大変気になるが、ミスリアは自分の置かれた状況をまず飲み込もうと努めた。

(木と土の匂いがする。少し空気が湿ってるから、最近、雨が降ったのかしら)

 おそらく屋外、しかも緑の濃い場所にいるはずである。

 他には汗の匂いと頬に触れる熱。髪を撫でる風からは、速く移動していることがうかがえる。

 そして、何かを抱き込むような体制で両の手首が縛りつけられていた。拘束する為の縄ではなく、ただの布だ。きっと、眠っていたミスリアが落ちない為の措置。

 これらの手がかりを合わせると、やはり運ばれているのは間違いないだろう。

 やがて両目の焦点が合って、考えた通りの状況だとわかった。

 視線を感じ、ミスリアは頭を左へ巡らせた。右目は黒、左目は白地に金色の斑点に彩られた、左右非対称の瞳がこちらを見つめ下ろしていた。顔が、息が重なるほどに近い。

「んん? 嬢ちゃん、目が覚めたのか?」

「そう見える」

 低い声と共に吐息が額にかかって、ミスリアは思わず身震いした。

「おー、良かったな。オハヨー」

 リュックを背負ったイトゥ=エンキが飄々と笑った。旅のせいか、髪や服やリュックまで、全体的に汚れて見える。

「……おはようございます」

 どうにも動かしづらい舌を懸命に回し、ミスリアは彼に挨拶を返した。

「気分は」

 立ち止まったゲズゥが無機質に訊いた。心配や労わりを欠いた、事務的な質問だった。ミスリアは気にせず答えた。

「…………体が、とても重いように感じられますが……。あの、私、どれくらい眠っていましたか?」

 涼やかな空気と木々の間から差し込む日差しの角度からして、早朝のようだった。けれども身体の感覚で計れば、もっと長い間動いていない気がする。

「そうだなぁ、えーと」イトゥ=エンキは指を折り曲げつつ数えた。「五日ぐらいだな」

「いっ……!? そんなにですか?」

 こめかみを押さえていたミスリアが跳ねるように顔を上げた。

「おうよ。冷水浴びせたり気付け用の薬草焚いたりさー、色々試したけど全っ然起きなかったぜ。一応、脈と呼吸は普通っぽかったから大丈夫そうだと思って。でもこれ以上起きないんだったらどうしようって話してたんだよな」

「そうだったんですか……」

 生返事をして、ミスリアはゲズゥの鎖骨辺りに頭を休め、物思いに耽った。

 理由ならすぐに思い当たる。

(カイルの言った通り、離れた場所から聖気を送るのは、無茶だったのね)

 理論上は可能で、現実にも実現できた。

 しかしその都度何日も眠り込むのでは、割に合わない。無防備が過ぎるし、周りに迷惑もかかる。

(例えば大技の直後にゲズゥやお頭さんを治していなかったとしても、反動は大きかったはず)

 結局は友人の考え通りに、実用性の低い術なのだろう。

 よほどの状況でなければ使えない。それでも、使えると判明しただけでもある意味では収穫だった。

「……お前が助けた男が、礼を言っていた」

 いつの間にかまた歩き出していたゲズゥがぼそりと呟いたので、ミスリアは彼を見上げた。

「その方は、今はどちらに?」

 辺りを見回しても、話題に上った人物の姿がない。

「順調に進んでんならぼちぼち家に着いてんじゃないかな」

 ゲズゥと並んで歩くイトゥ=エンキが口を挟んだ。

「無事にご自宅へ戻れたのでしょうか」

「さあなー。でも嬢ちゃんはできるだけのことしたんだ。後は坊ちゃん自身の問題だろ」

「……はい」

 口で同意はするが、本音では、突き放した言い方だと思った。

(でもこの二人にしてみれば、きっと私の方がおかしいんだ)

 今のミスリアたちには見ず知らずの他人の世話を焼く余裕が無いのも事実だった。あったとしても、ゲズゥもイトゥ=エンキも自発的に人助けをしたがらない。利益に繋がらない限りは、他人が苦しむ場面では傍観に徹するだろう。

 それを勝手に冷たいと感じるのは、傲慢かもしれない。

「私たちが今ここに居るということは、あの後、うまく交渉できたんですね」

「まあな。ヴィーナ姐さんが気まぐれに味方してくれたのも大きいな。でなきゃお前らが揉み消されたかも。あのオヤジは自分の敗北なんざ何とも思っちゃいないが、外部の人間にそれを見られたのが面倒だと思ったんだろ。まあ、それで敗北した相手を消したら大々的に負けを認めてるってことにもなるけど……」

「そう、ですか。ヴィーナさんが」

 ミスリアは何と言えばいいのかわからず、あの妖しく光るサファイア色の双眸を思い出していた。

 それはともかく、揉み消す判断が下されなくて良かった――。

「ところで嬢ちゃん、腕に力入る? この布ほどいてやろうか」

 イトゥ=エンキが顔を寄せて問いかける。次いで温かい手がミスリアの手首に触れた。

「お願いします」

 驚きを隠して、答えた。

「ん」

 彼は頷いてから、手を動かした。濃い紫色の布を弄り、瞬く間に結び目を次々とほどいている。

 待っている間にミスリアはポツリと漏らした。

「イトゥ=エンキさんは、寂しくないのですか」

 ――十五年過ごした場所を離れたのに。

「別に。仲間意識はそれなりにあったけど、最初から部外者のつもりで接してたからなぁ。アイツらだって、オレが居ても居なくても同じだよ」

 と、顔を上げずに彼が言った途端、ゲズゥが怪訝そうな顔になった。

「どうしました?」

「……泣きつかれていた。老若男女に」

「あー、あれはー、ほら。その場の熱みたいなもんだから。一日経てば忘れて、元の生活に戻るだろ」

 尚も顔を上げずにイトゥ=エンキが軽くあしらった。表情が前髪に隠れて見えない。ゲズゥはもう一度顔をしかめたが、何も発言しない。

「よし、取れたぜ。今度は自力で捕まってるんだな」

「ありがとうございます」

 ミスリアは自由になった手首を、そっと撫でおろした。布に縛られていた箇所には薄い痕が残っている。

「さーて、あとちょっとだ。こっから三十分走ればもう樹海に着くぜ」

 イトゥ=エンキが親指で指した方向は、坂だ。ミスリアはついでにゲズゥの背後を見やり、そこにそびえ立つ山々を目にした。どうやら寝ていた間に随分進んでいたらしい。山越えがほとんど終わっている。

「捕まっていろ」

「あ、は――」

 ミスリアが返事を返し切らない内に、ゲズゥはもう走り出していた。首に手を回すのが間に合わなくて、ミスリアは彼の胸筋辺りでシャツを握った。

(凄まじい瞬発力ね)

 荷物などものともしない素早さで「静」の状態から「動」の状態に移ったのである。これから一生鍛えても、ミスリアが同等の身体能力を身に着ける日は来ないように思える。

 一方のイトゥ=エンキもゲズゥの右に並んで走っていた。黒髪を後頭部で束ね、上着を着ずに動きやすいシャツ一枚の姿である。

 ふとこちらの目線に気付いたイトゥ=エンキが、にっこり笑う。

 それをきっかけに、ミスリアは叫んだ。

「イトゥ=エンキさん! 一息ついたら、ご家族の話、聞かせてくださいね!」

 彼はにやりと口の端を吊り上げた。

「いいぜ! 樹海の中に入れたらな!」

「楽しみにしています!」

 坂の下に、根元から折れた大きな樹が横たわっている。先にゲズゥがそれを飛び越え、数秒遅れてイトゥ=エンキが続いた。再び走り出して間も無く、彼が口を開く。

「オレさー、実は子供の頃は家の外に出られないくらい体が弱かったんだ」

 こともなげに告げられた過去の話に、ミスリアは息を呑んだ。

 聞き間違いだろうな、と考えてミスリアは首を傾げた。

 何せ、山の中で出会った日から今までを顧みても、彼は健康そうだった。足の速さや体力や腕っぷしの強さまで、むしろ並の人間より優れて見えた。

「そこ、クサヘビ」

「おお? ホントだ」

 ゲズゥの短い忠告を受けて、イトゥ=エンキは斜め後ろへ跳んだ。この身のこなしでは、なかなか幼少の頃に病弱だったと想像が付かない。

「嬢ちゃん、その顔は信じてねーな? 医者に何度も診断されたかんな。内臓が弱くてさ、成長期を乗り越えられたら健康な大人になれる可能性は充分あるって言われてたけど、それまでは一人じゃ生活できなかった」

 と、彼は陽気に続ける。

「そんな……」

「でもまぁ、楽しそうに世話してくれる家族がずっと居たし。不幸自慢はココじゃないぜ」

「ふ、不幸自慢?」

 一瞬調子を落としかけたミスリアの声音が、今度は語尾に向けて跳ね上がった。

「そ。そいつに負けないくらい悲惨な人生送ってきたから」

 イトゥ=エンキはわざとらしくウィンクを送った。

 それまで無口無表情を保っていたゲズゥが、応じるように横を振り向いた。二人は、数秒ほど無言で目を合わせる。

「……なるほど。笑い話にして、そうやって乗り越えていくのか、お前は」

 ゲズゥの声には感心に似た響きが混じっていた。

「さー?」

 意味深な笑みを残して、イトゥ=エンキは更に速度を上げて先を走った。 

 ミスリアたちは、それからは言葉を交わさなかった。


_______


(禍々しい……)

 巨大な松の木が乱れ入る光景に呆気に取られていたミスリアは、やがてその感想にたどり着いた。

 流石は曰くつきの樹海と形容されるだけあって、これまで通ってきた森とは何かが本質的に違う。そう思うのは五感で感じ取れる情報を通してではなく、霊的な直感からだ。心なしか寒気もする。

(本来、松ってもっと離れて生えているものじゃなかったかしら)

 目の前の木々は、互いに寄り添い合うように幹が傾いでいる物や、枝同士が絡まっている箇所が多い。

「イトゥ=エンキさん、よくこの中に入ろうと思えましたね……」

 苦笑交じりにそう言った。

「オレもそう思うぜ。山上から見えるけど、ここだけ瘴気に侵されてるみたいに色が濃いんだ。長い間眺めてるとなんか背筋がぞわっとする」

 彼は肩をすくめて見せた。

「……山脈を越えた先の町に、聖地とやらがあると言っていたな。この向こうか」

 ミスリアを下ろしながら、ゲズゥが訊ねた。彼の両目は樹海の先を見通しているかのように細められていた。

「はい、よく覚えていますね。『岩壁の上の教会』の絵画では岩壁と川と教会だけが描かれているのがほとんどで、崖の上には教会しかないようにイメージされる方も多いそうですが、実際はすぐ近くに町があるはずです」

 自分の足で立つのが数日ぶりだからか、ミスリアは足元がふらついた。咄嗟にゲズゥの腕を掴んで支えにし、嫌がられるだろうかとすぐに不安を覚えた。しかしゲズゥを見上げても、彼は見守るだけで手を貸そうとも振りほどこうともしない。

(なら、別にいいのかな)

 少しずつバランス感覚を取り戻してから、ミスリアはゆっくり手を離した。

 支えを失った次の瞬間、膝が折れ曲がり、体が前に倒れ掛かる。どうにかしようという気力が無いからか、ミスリアは転ぶ心の準備をした。

 ところが、素早く脇下に差し込まれた手によって体が引き上げられ、宙に浮いた。

「ありがとうございます」

 毎度のように助けてくれたゲズゥに礼を言いつつ、ミスリアはまだぶらついている自分の両足に目を留め、状況を客観的に見てみた。

(子供を抱き上げる動作と同じ……何で?)

 彼にとっては癖みたいなものだろうか、それとも。

「小さいお子さんの扱いに慣れていたりしませんか?」

 ミスリアが訊ねるとゲズゥは驚いた顔になり、次には表情を翳らせ、予想外の反応を返した。

 それを、近くでイトゥ=エンキが面白そうに観察している。

「……昔の話だ」

 ゲズゥはそれ以上告げずにミスリアを下ろした。ミスリアは小さく、はい、とだけ答えた。「昔」が彼が故郷に居た頃ぐらい昔の話なら、気分を悪くして当然だ。

 思い出させて、申し訳ないことをした。

 それから何度か試して、ミスリアは自分の足で立つ事ができた。

 そして三人は、樹海をどう進もうか話し合った。

「ただ歩き回ってもしょうがないってのはわかってるよな? 嬢ちゃんなら何か抜け道知ってるかなって期待してんだけど」

 イトゥ=エンキにそう言われ、ミスリアは頷いて松の木が入り乱れる樹海の一歩手前まで歩いた。地図に添えられていた記述を思い出しながら、語る。

「かつて大陸の数多の信仰を聖獣信仰に統一した人物、ラニヴィア・ハイス=マギン……彼女は、ヴィールヴ=ハイス教団を興した直後に巡礼の旅に出ました。聖獣の息吹がかかったと伝えられている数々の地を巡り、『聖地』と定めて守り続ける為に。岸壁の上の聖地にも、ラニヴィア様はかつて訪れていたのです」

 ミスリアは肌身離さず身に付けているアミュレットを取り出し、親指と人差し指の間に握った。銀細工のペンダントは今まで服の下で胸元に触れていたため、温かい。

「この樹海は百年前でもいわくつきで、容易に通れなかったそうです。何度挑んでも迷ってしまうため、彼女は道を示す物を残していきました。濃い瘴気の中でも見失わない道しるべを」

 教え通りに、ミスリアは呪文を唱える。

 アミュレットに取り付けられている二つの紫水晶から淡い光が伸び、それはまるで何かを探るように空を彷徨った。

「光を追います」

 三人は樹海の中へ踏み入れた。瞬間、重い空気に撫でられるような感覚があった。まとわりついてくる空気は熱いのに何故か寒気がした。

 更に外が明るかったのに対し、樹海の中は薄暗い。絡まり合った木々が光を遮っているからか、それとも瘴気のせいかは知れない。

 そんな中、弱々しい光を追い続けると、やがて大きな樹の前に立った。

「何だ? 樹の根元が光ってる」

 イトゥ=エンキが指差した。その先に、親指の爪ほどの大きさの光の粒がある。

「ラニヴィア様が埋め込んだ水晶です」

 ミスリアが近付くと、アミュレットも樹の根元の水晶も一層強い輝きを放った。

「純度の高い水晶に共鳴するよう、何かの秘術がかかっていると聞きました。原理は私にもよくわかりませんけど……」

 秘術とは名の通り、枢機卿以上の人間にのみ伝えられている特種な術だ。何故秘密である必要があるのか、ただの一聖女であるミスリアのあずかり知るところではない。

 樹に歩み寄り、ミスリアはその幹にそっと触れた。聖気に触れて育った樹だからだろうか、周りの木々に比べて育ちが良い。形や大きさが、他のしな垂れた松とは比べ物にならない。心なしか、指先に微かな熱が伝わったような錯覚がした。植物に、体温など無いはずなのに。

「まあ、光を辿っていけばいいワケか。わかりやすくていいな。オレの親も二月ふたつきに一度は町に行ってたんだ、きっと案内人も同じようにやってたんだろーな」

「イトゥ=エンキさんのご両親は二月に一度町に行っていたんですか?」

 驚いて、ミスリアは振り返った。それはつまり、幼少の頃に彼はそう遠くない場所に住んでいたことを意味する。

「納品とか作品の売り買いとか、買い出しとか、色々と用事があってな。オレの父親はフリーの製本工で、母親はそこそこ売れてる画家だった」

 ニヤニヤ笑いながら、イトゥ=エンキが答える。

「製本工……ではイトゥ=エンキさんは字の読み書きが?」

「できるぜ。むしろ運動ができなかっただけに、本は結構読んでた」

 その返答に、ミスリアは目を丸くした。

(似合わない……と思ったら、失礼よね)

 ミスリアの知る本が好きな人間の筆頭は、想像力豊かで物語を引用しながら会話する人や、知識をばら撒きながら歩く人だ。

 直刀を振り回したり人を片手で殴り飛ばすような男性が実は隙間時間に活字を目で追っているなど、自分が知らないだけで、よくあることなのだろうか?

「嬢ちゃん、考えが顔に出てるぜー。別に本が好きだったんじゃねーよ? 他にできること無かったから仕方なく読んでたんだ。どっちかっつーと嫌いだ、もうあんまり触りたくもないな」

「なるほど……」

 そういう事情ならば、と納得に頷く。

「イトゥ=エンキさん、何だか前より饒舌になってませんか」

「機嫌いいからな」

 その理由は、聞かずとも察しがついた。彼ににっこりと笑顔を向けられて、こちらもつい微笑みを返す。薄闇の中、イトゥ=エンキの顔の右半分にもあの黒い模様が見えた気がしたけれど、断言はできない。

 水晶を埋め込まれた樹から手を放し、ミスリアは次の樹を探しにかかった。無口無表情のままのゲズゥと、未だ楽しそうなイトゥ=エンキが静かに後ろについてくる。

 苔に覆われた柔らかい地面をそっと踏みしめて進んだ。一歩踏み進むと、くしゃ、っという小さな音が大きく響き渡る。会話を止めたせいか、周囲の静寂さが際立った。

 背筋が冷えるくらいに樹海の中は生き物の気配が希薄だった。松の木からも、生気をあまり感じない。

 次の樹は、30フィート以上も先にあった。

 水晶の埋め込まれた樹を見つける度に、周りの闇が濃くなっていく気がした。時折、眩暈や耳鳴りも感じたけれど、立ち止まっていられない。

(樹海に入ってから何分経ったかしら。確か、一時間程度で抜けられるはず……)

 出口の無い迷路をうろついているかのように、まったく進んでいる気持ちになれない。

 ミスリアはただ黙然と水晶の光を探した。それらのおおよその数は聞いている。しかし、全ての水晶が今も残っているとは限らないし、後戻りしていないという確証が持てない。

 何せ太陽が隠れている為、方角がわからない。方位磁石も、樹海の中では正しく機能しない。

(光を見失ったらどうすればいいの)

 ミスリアは不安を覚える度に振り返り、背後の二人の姿を認めては安心した。

(だめ、私が導かないと)

 これは彼らにはできないことだ。聖気の加護なくして、この中で立ち続けることすらきっと不可能である。それほどまでに樹海には謎の重圧があった。

 己を奮い立たせ、アミュレットを握り締め、ミスリアは奥深くへと樹海を進む。

 が、数分後、立ち止まって空を見上げた。

 この地が引きずる災いはずっとずっと過去の出来事なのだろう。瘴気の濃さという一点ではゲズゥの村よりも薄い。とはいえ、この地の空気も相当に淀んでいる。浄化し切れない程の範囲と、教団が判断したのかもしれない。それとも、何か別の理由が――?

 そんな物思いに眉根を寄せていたら、イトゥ=エンキが耳打ちしてきた。

「……死体捨て場だったんだよ」

「え……」

「この辺り、大昔は埋葬の習慣が無くてな」

 イトゥ=エンキの言葉に、ゲズゥが目を細めるのが見えた。この静寂の中では耳打ちでも聞き取れたらしい。

「苔の下がたまに盛り上がってたのは、そういうことか。足音が違ってたのも」

 ゲズゥが静かに指摘した。

「足音って」

 あの、こつん、という音の正体に気付いて、ミスリアは青ざめた。無意識に口元を押さえる。

 唾を飲み込み、腹部に広がる不快感を抑えつけた。

 柔らかい苔の下に感じた硬さを、石か木の根かと当然のように思っていた。まさか、骸骨があろうとは。

「まあ、そういうことだか……」

 返事半ばに、イトゥ=エンキが急に黙り込む。

 ――びゅぅうん。

 風を切る大きな音と共に、物影が彼の面を過ぎったのである。

 数秒後に、何かが樹にぶつかる音がした。

 思わずミスリアは頭上を見回した。音を立てたであろう存在が見当たらない。

 更に数秒の間、誰も微動だにしなかった。

 無意識に堪えていた吐息を放した瞬間、また物影が過ぎり、今度は確信できた。

 巨大な何かが樹と樹の間を跳び伝っている。それも、急いでいるのではなく――

 もう一度、影がゆっくりと上空を通り過ぎた。滑空、しているのだ。原理はムササビの動き方に似ていた。

 状況を思えば魔物であることが最も可能性が高い。その場合、囚われた魂を救ってやりたいけど、自分一人の力で成し遂げられるとは思えない。

 ミスリアは残る二人に視線を移し、彼らの発言を待った。

「トビトカゲ」

 上方を見上げたまま、ゲズゥが一言告げた。

「って、南東の暑いとこに住む、樹から樹へ跳びながら蟻を食べるトカゲのことか? 膜のついた肋骨を広げたり畳んだりできて……でもこーんな大きさだよな」

 イトゥ=エンキは広げた右手を左手で指した。指の長い彼がそうしていると、親指の先から小指まで6~8インチはある。

「ああ。俺が見たことある一番大きいのもせいぜいこんなだった」

 人間の赤ん坊程の長さを、ゲズゥは両手を使って表現した。

 小型爬虫類にしてはそれなりの長さだが、それでも今飛び回っている物影の大きさには遠く及ばない。

「突然変異か、魔物か。生来のトビトカゲなら、雌が卵を産む時以外は樹の上から降りて来ない、ってどっかの本で読んだぜ。命を預けるには些か頼りない情報かな」

 ガサッ、という音と共に、また影が動いた。遥か上空を滑空していて、今のところは降りて来る気配が無い。

「走って逃げてみますか……? 下手すると樹海の中で迷いそうですが」

「背を向けるのは避けたい。でも逆にアレがすぐに降りて来なかったら、オレらはこっから動けないぜ。アレが襲ってくれないと、降下してくれないと、こっちにも反撃のチャンスが無い」

 あんな高さまで行ける飛び道具も無いからな、とイトゥ=エンキは付け加えた。ミスリアは一瞬だけ顔を伏せ、次いである方法に思い至った。

「では、聖気でおびき寄せられないかどうか試してみましょうか」

 ミスリアの提案に、イトゥ=エンキは「なんだそれ」と首を傾げ、ゲズゥが片眉を吊り上げた。

「……二つ、訊く。それが本当に可能なのか。それと、敵が一匹だけで間違いないのか」

「可能です。数に関しては、そこまではわかりません。でも魔物で間違いないなら、近くに居る全ての個体が引き寄せられるはずです」

 ゲズゥの問いに、ミスリアは順を追って答えた。彼が姿を見せていない敵にまで気を回すのは、山羊と羊の魔物を相手にした時の失敗を思い出しているからだろうか。

(遠くからも来るかもしれないけど……加減すれば、きっと大丈夫)

 ――と、その点だけは言わずにいた。

「やってみようぜ。詳しい説明は省いてくれていい。化け物相手に深く考えるこっちゃねーよな、倒すのが先だ」

 イトゥ=エンキはそう言って荷物を下ろしている。

 その言葉に、ミスリアははっとした。心のどこかで、相手と「対話してみたい」という願望があったのだと知る。

 ミスリアは目を瞑った。割り切れ、と何度も自分に言い聞かせる。対話はできなくても、浄化してあげれば十分のはずだ。対話して死者の事情を知りたいのは、覚えてあげたいと思うのは、ほとんど生きている側の自己満足である。

(それでもそうしてあげることで誰かが救われることだってある、けど)

 結果として三人分の命を危険に晒す選択になりうる。既に一生を終えている他人と、現在傍に居る生きた人間とを、天秤にかけたら――。

 急に手首を掴まれ、ミスリアは飛び上がった。

 ゲズゥが、いつもの無表情でこちらを見下ろしている。

「あれ、嬢ちゃん聞いてなかったんか? じゃーもっかい」

「すみません」

 今度はちゃんと、手筈を説明するイトゥ=エンキの声に耳を傾けた。

「……――大体こんな感じで行く。あんま時間取られねーようにさっさと片付けようぜ」

 イトゥ=エンキが再度の説明を終えて、ゲズゥとミスリアはそれぞれ賛同の意を示した。

 二人から少しだけ離れて、ミスリアは仁王立ちに構えた。

 頭上に居るナニカは飛び回るのを止めているが、仕切りなしに木の葉を揺らしている。樹の幹を上下に移動しているのかもしれない。

「では、始めます」

 要領は、普段の聖気の扱いとそう変わらなかった。アミュレットに触れ、聖獣と神々へ通じる力を感じ、それを掌を通して形にしていく。ただ一つ違うのは、そう、その「形」である。

 いつものイメージ――靄のよう膨らませたり、帯を重ねて何かを包んだり――と違って、針の形を作って天へ伸ばす。船にとっての灯台がそうであるように、魔物らの目指すべき目標となる。

 淡い黄金色の光が右手の掌から垂直に伸びた。

 そうして訪れたしじまに、全身が凍りつくようだった。無意識に、ミスリアは数え始める。

 一、二、三、四、…………十秒。二十秒。三十秒。

 静寂が絶えない。額に浮かんだ脂汗が湿気によるものなのか緊張によるものなのか、わからなかった。

 ミスリアは四十秒まで数え、そして――。

 木の葉が擦れ合う音がした直後、視界がゲズゥの背中によって遮られた。彼は前方から飛び掛ってきた影を大剣で真っ二つに切り裂き、紫色の血飛沫を弾けさせた。

 ミスリアは安堵のため息をつきかけて、しかし違和感が胸の中に広がった。

(こんなに小さいはずがない)

 切り裂かれた魔物は人間の子供とそう変わらない大きさだった。遥か頭上を跳んでいた個体はもっと、少なくとも成人男性よりは大きいように見えた。遠くから見てその大きさのモノが、近くで見てもっと小柄になるなんてあり得ない。

 じゃら、と鎖が動く音がした。左の方で、イトゥ=エンキがまた別の小柄なトビトカゲを捕らえていた。彼は鎖を引き――捕らわれたトカゲを、滑空していた別の個体にぶつけて二体とも倒した。

(これで三匹だけど、まだ一番大きいのが現れてないわ)

 倒れたトカゲたちを浄化しつつ、ミスリアは警戒を解かなかった。ゲズゥもイトゥ=エンキも、武器を構えて待っている。

(必ず来る)

 気力が削られるので針の形をした聖気はもう閉じているけれど、浄化に使っている分だけでも十分引き寄せられる。ミスリアは銀色の素粒子に包まれながら、静かに待った。

「右!」

 突如、鋭く叫んだのはイトゥ=エンキだ。

 言われた方向へ頭を巡らせた。

 真っ直ぐに、ミスリアめがけて巨大なトビトカゲが滑空している。間近で見ると、声も出なくなる大きさだ。

 跳んで間に入ったゲズゥが、舌打ちするのが聴こえた。


_______


 不公平、の言葉が浮かんだ。

 牙に四肢の鉤爪に長い尾に、長くて素早い舌。どれをも一斉に繰り出せる奴に比べて、ゲズゥは一度に一つの攻撃しかできない。それは自身がなるべく一つの行動に集中したい性分に起因している訳だが――剣と盾を持ち合わせたり二刀流や複数同時投擲ができる人間になりたいと考えた事は無い――それにしても、面倒臭い。

 特にあの舌は、触れたらまずい。根拠は無いが予感はする。

 横か背後に回ろうにも、タイミングが図りづらい。その間ミスリアを無防備にするのも得策と言えなかった。

 ゲズゥは視界の端で何やら動いているエンの姿を確認し、そちらの動きに期待することに決めた。

 青白く光る化け物との距離は、どんどん縮まっていった。

 開かれた顎の中から、棘に覆われた赤い舌が現れた。

 長い舌が伸びてきたが、ゲズゥはその軌道を見極めて避けた。すかさず剣を払ったが、奴の尾が防御に入り、腹を斬るには至らなかった。代わりに、尾の先端1フィートほどを切り落とした。

 次の反撃のチャンスを狙う為、鉤爪からの攻撃を喰らう覚悟を決めて、ゲズゥは逃げずにその場に踏み止まった。

 が、横から鼠色が入り込み、トビトカゲの肩口に巻きついた。エンの鎖だ。

 ――これは使える。

 次に起きるはずの展開を待って、ゲズゥは剣を構えなおした。腰を落とし、跳ぶ準備をする。

 魔物は怒りと痛みの金切り声を上げた。首を後ろに反らせ、太い喉を晒しながら。

 その隙にゲズゥは跳び上がり、回転の勢いを利用して、剣を振るった。

 トカゲの首が飛んだ。

 濃い緑色の光沢を放つソレは近くの樹にぶつかっては紫色の跡を残し、落ちた。

 それからゲズゥは何度か地面を蹴って勢いを緩和し、無事に着地した。

 辺りが再び静まり返っている。他に敵が居る気配はしない。

 振り返れば、エンが暴れ続けるトカゲの胴体を鎖で何重にも縛っていた。

「とりあえずこれで終わったんか? 思ったより呆気ないな」

「終わったと、思いますけど……」

 エンの問いかけに、ミスリアは歯切れの悪い返答をした。首の落ちた方向へと、こわごわと歩いている。その背中を追ってゲズゥも歩き出した。

 ミスリアはトカゲの首に近づき、4フィートの距離のところでゆっくりしゃがんだ。膝の上に手を揃え、真剣な眼差しで首の動きを凝視している。止まるのを待っているのだろうが、生き物と違って、いつ力尽きるか見当が付けられない。

「止めを刺す」

 ゲズゥは大剣を構え直し、「手伝え」とミスリアに目配せした。

 察して、ミスリアはそっと右手を剣の先に添えた。銀色の光の帯が剣を包み込む。

 しばらくして少女の白い手が離れると、ゲズゥは一歩前へ踏み出た。

 いつしかトカゲの首も大人しくなっていた。爬虫類の両目がこちらをひたと見据えている。聖気が近くにあることに、関係があるのかもしれない。どちらにせよ好都合である。

 ゲズゥは魔物の脳天に剣を突き刺した。剣先を覆う聖気がじわじわと魔物を粒子に変え、浄化してゆく。その間にミスリアが胴体をも浄化していた。

 全てが終わってもミスリアの顔が晴れず、むしろ眉間に皴が寄っているのを、ゲズゥは目の端で捉えた。

 何か不自然な点があっただろうかと一部始終を思い返し――魔物らの表面に人面が浮かばなかった事に気付いた。そこでミスリアが立ち上がって静かに話し出した。

「……どうやら人間をもとにしたのではなく、動物をもとにした魍魎だったようです。大昔はそれこそ普通のトビトカゲで……瘴気に当てられて生態が変質し、死体喰らいや共食いをする内に魔物になったのでしょう。ずっと分離と喰らい合いの悪循環を」

 魔物の生じる原理について聞いた事があるゲズゥはなんとなく納得し、事情を断片的にしか理解していないエンは考え込むように顔を歪めた。そして現状に関する重要な情報だけに焦点を当てた。

「分離って何だ? じゃあ同じようなのが何匹も居たのは大元からの分身だったってか」

「大元が居たかどうか、そこまではわかりません。分離した後はそれぞれの個体が独立して行動するのだと思いますけど……困りましたね、これでは樹海の中はもしかしたら……」

「似たようなのがまだうじゃうじゃ居るんだろーな」

 エンが淡々とその先を告げた。

 刹那、誰もが互いの顔を見合わせるだけで次の言葉を発さなかった。

「…………いちいち退治していては日が暮れる」

 ゲズゥは己の考えを提示した。

「だよなぁ。そうなったら状況が悪化する一方だし。突っ切るか」

 同意しつつもエンは戦闘中に手放した荷物をせっせと片付けだした。それに倣ってミスリアもゲズゥも支度を整える。

 またしても慌しく移動せねばならない現状に、ゲズゥは何も思わなかった。どうせこの大陸をうろつく限り、安寧の日々は遠い。

 ――そもそも安寧がどんなものであるのか、あまり思い出せない。

 村を失って以来、長く平和な日常が続いたためしが無かったからだ。

「なあ、オレ替わってやろうか?」

 ふいにエンは手で何かを背負う仕草を真似た。ミスリアの正面に立ちながらも、こちらを見て話している。

「たまには休みたいだろ。あーいや、嬢ちゃんが重いとかそういう話じゃなくてだな」

 ミスリアを背負って走る役割を替わろうか、という話らしい。休みたいとは特に思わないが、替わってくれるならそれも良いだろう。

「え、ええ、それはあの、できれば遠慮……させて頂きたく……」

 ゲズゥが口を開く前に、当人が何やら恥ずかしそうに頭を振った。

「えー? 遠慮すんなよ、まだ全快じゃないんだろ。それとも……」エンは顎に手を当て、ニヤニヤと口の左端を吊り上げた。「コイツが良くてオレが駄目な訳ね、ほほー。なーんかフラれた気分だな」

「そんな……本当はどっちも嫌……じゃなくて、えーと、ゲズゥの場合は仕方ないと割り切ったのですが、イトゥ=エンキさんにそんな迷惑かけるには心の準備が……」

「ふむふむ」

 挙動不審なミスリアに対し、エンは喉を鳴らして笑いを噛み殺している。

 結局、普段と変わらずゲズゥがミスリアを抱えて走ることになり、それからは三人は言葉を交わさずに黙々と進んだ。

 「道」を探し出しては先へ急ぐ――その繰り返しだった。

 魔物に遭遇しても大抵は戦闘に展開させずになんとか逃げ切った。

 静寂の中、平常より速まっている己の呼吸音がよく聴こえる。エンも息が上がって、たまに立ち止まっては顔に浮かんだ汗を服で拭っている。

 二、三度休憩を挟んではいるが、もう一時間近く走り回っている気がする。出口に近づけている感覚が全く無かった。

「あと少しのはずです」

 少女の吐息が、ゲズゥの黒髪に降りかかった。

 ゲズゥは返事の代わりにただ頷いた。ミスリアが指差す次の方向へ、走り出す。

「……イトゥ=エンキさん」

 ふとミスリアが呟いた。

「ん?」

「貴方が探しているのってどんな人ですか?」

「あー……」

 考えをまとめようとエンが唸る。

「姉だよ。長い蜂蜜色の髪で、はにかんだ笑顔が可愛い感じの」ふう、と一度空に向けてため息をついてから、エンは話を続けた。「岸壁の上の教会のコトを、自分にとって一番安らぐ聖域だって言ってた。だから別れた後、あそこなら何か手がかりがあるかもってオレは考えたんだ」

「お姉さまは、教会に行った事が?」

「行った事あるっつーか――」

 答える途中で、エンは口をつぐんだ。正面を向き直り、何かに耳を澄ませている風だった。

 ゲズゥも耳を澄ませてみた。

 微かに、長く伸びた音が聴こえる。よく聴き慣れた規則的な響き。最初は一つしか聴こえなかった音が、意識してしまえば重奏になった。

 蝉だ。

 生き物の気配が希薄だった樹海の中に、新たな空気が吹き込まれる錯覚がした。淀んだ瘴気に混じって生命と緑の香りが鼻腔に届く。

 無意識にゲズゥはペースを上げて走った。すぐ後ろにエンがついている。

 境界が近い。闇が解けてゆく――

 ぶわっと暖気が身体を包んだ。樹海の中の空気とは違う、正常な夏の風そのものだ。

 晴れ渡った空に目を眇める。時刻はいつの間にか正午近くになっていた。

 坂下に広がる町は白と黒と灰色の建物が多く、その上空にはカモメが飛んでいた。町は全体的に明るい雰囲気を発し、しかもかなり発展しているように見える。建築物のどれもが手の込んだ芸術品並に凝った外観をしている。

 市場や行商は賑わい、人々の表情は遠くから見ても楽しそうである。野菜売り場で、子連れの母が猛然と値切っている以外には。

 まるでゲズゥらを待ち受けていたかのように、ちょうどその時に時計塔が鳴り出した。重厚な音が蝉の声すらかき消す。

 視界の一番奥、つまり此処から最も遠い位置の建物からだった。

「今の四つの音の短い旋律は……四十五分って事ですね。あれが教会でしょうか」

 ミスリアの問いに答えずに、ゲズゥは目を凝らした。確かに時計塔は単独に建っているのではなく何かの建物にくっついている。

「時計塔が町の中心でなく端にあるのは教会に付いているからかもしれません」

 さあ、とゲズゥは少女を腕の中から下ろした。

「でもそれより、無事に着きましたね」

「……ああ」

 嬉しそうに話すミスリアに、ゲズゥは頷いた。

 これでまだ「最初の巡礼地」だというのだから、これからも当分旅が続くのかと想像して、ゲズゥはなんともいえない心持になった。ミスリアの旅が終わった暁には自分がどうなるのかなど、まだ考えなくていいはず――。

「イトゥ=エンキさん?」

 ミスリアの声で気付き、ゲズゥもエンの方を振り返った。

 左頬に複雑な模様がある男からは返事が無かった。奴は呆然と町を見下ろすばかりである。

「大丈夫ですか?」

「……あー、うん」

 再度の呼びかけに、エンは瞬きをして応え、一度深呼吸をしてから次の言葉を搾り出した。

「話には聞いてたけどちゃんと見てみるとスゲーなあ。や、そんなことより、やっとだ。やっと、ヨン姉の好きな教会に行って、手がかりを探せる。十五年は長かったぜ」

 黒い模様が徐々に触手を伸ばしてエンの笑顔を侵食した。抑えきれない程の喜びがあるのか、それとも単にもう感情を抑えるのを止めようと決めたのか。

 もしかしたらその現象を初めて目にするかもしれないミスリアは、目を丸くして彼を見つめていた。

「よかったな」

 一言、ゲズゥはそう言った。本心からだった。

「おうよ。行こうぜ」

 そうして三人、坂を下りた。

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