22.

「何としても僕は! 一生をかけて必ず君を幸せにする。お願いだ、もう一度考え直してくれないか」

「……ごめんなさい……あなたに落ち度があるわけじゃないわ。むしろ私は、あなたが私なんかに時間を費やしてくれてることが心苦しいの」

「何を言っているんだ、君は素敵な女性だよ。時間がどうとか、悲しいコト言わないでくれ」

「あなたを想ってる女性は他にもたくさん居るから、私よりもその子たちのどれかを選んで幸せにしてあげて……」

 雑踏の中、イトゥ=エンキは込み入った会話を交わす一組の男女とすれ違った。周りにまったく気を配らずに大声で話す二人を少し振り返って一瞥する。

 男の方は中背だが肩が広くがっしりとした体格で、清潔そうなシンプルな色合いのシャツを着ている。女は男の前を歩いているため、蜂蜜色の長い髪以外の後ろ姿は、男の身体に隠れていて見えない。

(こーんな大勢の人間が行き来する場所で、面白い話してんなぁ)

 イトゥ=エンキは手に持った焼き菓子をぱくっと食んで、もう一度二人を流し見た。男は決して美丈夫と言えるような顔つきではないが、眉の形などから誠実そうな印象を受ける。

(不満があるわけじゃあないのかー。あの断る理由はマジっぽかったし)

 男のプロポーズを女が丁重に断り、男が納得していない、というシナリオだろうか。

 世の中の女どもがどういう男と結婚したいのかはわからないが、イトゥ=エンキには男は良さそうな物件に見えた。家庭を大事にしつつ、しっかりとした職に就いて真面目に働きそうな、そんなイメージである。

 この場合、間違いなく女の方に理由があるのだろう。しかも話しぶりからして、何か問題を抱えていそうだ。

(なんだろーな。身体的欠陥? 泥臭い人間関係? 過去の罪?)

 大して意味の無い物思いにふわふわと思考をさまよわせながら、イトゥ=エンキは青空を仰いだ。綿菓子よりも柔らかくて美味しそうな雲がのんびり飛んでいる。

(焼き菓子も甘くてオイシイけど、これじゃあ綿菓子欲しくなるな)

 露天商から買った菓子を残らず口に放り込んだ。

 実はイトゥ=エンキは子供の頃から大の甘党だったが、残念ながら山賊団の仲間に味の好みの合う仲間は居なかった。

(某オヤジは辛い物としょっぱい物が大好きだったし)

 その影響か山脈にはなかなか甘い物は出回らなかった。もう他の人間に合わせる必要は無い、と思うと心躍る。

 次は何を買ってみようかと大通りに並ぶ露店を見回し、そこでイトゥ=エンキはとある二十歳前後の青年に視線を留めた。長身で黒髪と褐色肌、汚れた身なりに大荷物、などとかなり目立つ容貌だ。道行く人間の誰もが一度は振り返っているというのに、本人は面白いくらいに周りを見向きしない。

 そんな上の空な青年の傍では栗色ウェーブ髪の小さな女の子が露天商の商品を見比べていた。肥え気味の若い女が熱心に己の商品の素晴らしさを説いているのを、少女は相槌を打ちながら聞いている。

「蝶のはねで作った絵模様ですか。色鮮やかで、とても綺麗ですね」

 などと少女は微笑むが、口元が引きつっていた。多分、蝶が生きてる時に翅を抜かれたのか死んだ後に抜かれたのか訊きたいけど知りたくない、という心境だと思う。

 そうでしょうそうでしょう、どれも珍しい一点物ですよ、と露天商人は熱心に勧める。

 逃げるタイミングを計りかねている少女の首根っこを、青年が無言で掴んでは引き上げた。名残惜しそうに肥え気味の女が声をかけるも、青年は全く構わなかった。

(こっちはこっちで、なし崩し的に付き合いそーだな)

 ミスリアを引き連れたゲズゥが無表情にこちらに向かって来るので、イトゥ=エンキはへらへらと笑っておいた。

 二人が互いにそれらしく意識し合う段階に至っていないのは見ていてわかる。だが長い二人旅である以上は、機会はこれからいくらでもあろうというもの。しかもゲズゥの方は一旦目標を定めたら速やかに逃げ場を絶って相手を包囲しながら絆しそうなタイプだ。あくまでイメージに過ぎないが。

(大人しそうに見えて、絶対、攻めまくる側の人間だよな)

 と、やはり大して意味の無い物思いに耽った。

 長年追い求めていた答えがすぐ近くにあるかもしれないのだ。期待が膨らみ過ぎないよう、時間を稼ぎつつ気を紛らわせようとしている。

 お遊びもこのくらいにしてそろそろ教会寄ってこうか、と提案しようと思ってイトゥ=エンキは口を開きかけた。

「きゃああ! ひったくりー!」

 甲高い悲鳴。

 誰かが走り去る時にできる疾風を頬に感じ、イトゥ=エンキはたった今通り過ぎた複数の人影を目で追った。

「おお。集団でひったくりとかあんま見ねーなー。しかもアレ、三人ともガキじゃねーの? 完全に遊び心じゃん」

「何呑気なこと言ってるんですか、捕まえて下さいっ」

 と、目の前に立った少女ミスリアが懇願する。

「何で?」

 あんなん、盗られる方が間抜けだろ、とは言わなかった。

「何でって……とにかくお願いします!」

 今度はゲズゥに向けて懇願している。

「荷物見てろ」

 ゲズゥの対応には躊躇が無かった。大荷物を脱ぎ捨て、脱兎もびっくりな速さで走り出している。どう考えてもひったくられた人間を助けたい一心からではない。ミスリアに対する従順さからなのか、それはわからない。

(コイツ、絶対なーんも考えてないな。言われたから素直に動いてみた、ってなノリだ)

 それとも目の前を通り過ぎた小鳥をつい追いかける猫と同じ心理か。

 仕方なく、イトゥ=エンキも後に続いた。

 町の人間に恩を売るのもいいかもな、などと考えながら走る。

 人混みを抜ける少年たちの逃げ足はなかなか速かったが、何かと追っ手を気にかけて振り返っているのが敗因だ。一番遅れている少年ひったくり犯が前を向き直った隙を狙って、イトゥ=エンキは鎖を放った。

「うぎゃっ」

 情けない声が少年から漏れた。鎖はしっかりと右足首に巻きついて、少年を転ばせた。

「弱いくせに無理すんなよー」

 挑発とも受け取れそうなその言葉は、イトゥ=エンキにしてみれば本気の忠告だった。やり遂げる力量が無いくせに無茶をすれば、死に至るだけである。

 少年は言い返さずに唸った。「こんなはずじゃ……」みたいなことをひとりごちていたかもしれない。

「まあ、オレの知ったこっちゃねーけどなぁ」

 のた打ち回って恨み言を連ねる少年は食に困っている風には見えなかったし、大切な誰かの為に盗みを決心した、といった必死さも無かった。やはり遊び心だったのだろう。

(同情の余地なしってことで)

 イトゥ=エンキは屈み込んで買い物籠を取り上げ、元の持ち主の姿を探した。ついでに、転がり出た籠の中身を拾い上げて戻す。

 ふと前を見上げればゲズゥが地面を蹴っていた。

 彼は残る二人のひったくり犯が直線状に並ぶのを狙って、跳び蹴りを決めた。

 後方の少年が背中を蹴られて吹っ飛び、前のもう一人に激突した。その瞬間、最初に吹っ飛んだ方がぴたっと止まってぶつけられた二人目が今度は宙を飛んだ。

「運動量保存の法則じゃん」

 キャロム・ビリヤード――キューと呼ばれる棒で一個の球を打ち、二個目や三個目の別の球に当てる卓上遊戯――に用いる物理法則と同じだ。ぶつかり合う対象の質量が同等でないと発動しない。つまり、二人の少年たちの体重は同じくらいになる。

 イトゥ=エンキは思わず膝を叩いて拍手を送った。といっても、ゲズゥ本人はこのような生きていく上で不要な情報など知らないだろう。

「お疲れ様です。ありがとうございました」

「……疲れていないが」

 ミスリアが歩み寄り丁寧に頭を下げると、無機質な声でゲズゥが応じた。

 イトゥ=エンキは可笑しさについ噴き出した。

「単なる労わりの挨拶だろ、言葉通りに受け取るなって」

「……」

 ゲズゥは踵を返して荷物の方へ戻って行った。去る背中を見守りつつ、イトゥ=エンキはミスリアと顔を見合わせ、肩をすくめる。

「あの、本当にありがとうございました!」

 被害者たちも各々礼を言いに来た。金で礼をしたいと提案する者も居たが、ミスリアが頑なにそれを拒んだ。

 その間、周囲に集まっていた町人らが自ら少年ひったくり犯の身柄を確保し、役所へ連行している。

 三組目の被害者の番になった途端、イトゥ=エンキは「あ」と声を漏らした。自分より背の低い男を見下ろして確認する。

「さっきの結婚しないカップルの」

「はい?」

 歩み寄ってきた男が不思議そうな顔をした。

「すれ違いに会話が聴こえたんで」

 にっ、とイトゥ=エンキは悪戯っぽく笑った。

「……それはお恥ずかしいところを」察して、誠実そうな男が頭をかいた。「結婚ではなくお付き合いを申し込んでいたのですよ」

 それを聞いて、なるほど、とイトゥ=エンキは点頭した。

(しっかし恋愛もいいけど荷物はもっとしっかり持とうぜ)

 他人のことなのでどうでもいいが。ある意味、間抜けな人間が居てくれないと盗んで生きなければならない側も苦労する――そう考えかけて、内心苦笑した。ユリャンの連中だったら心配するまでも無いだろう。

「何はともあれ、本当に助かりました。僕たちにできることなら何でもお礼しますよ」

 ――この男、軽々しく「何でも」を口にするとは世間知らずな――。答えずにイトゥ=エンキは隣のミスリアを見下ろした。

「では、岸壁の上の教会に行きたいのですが、方向はあちらでよろしいでしょうか?」

 前方にそびえ立つ時計塔を指差して、少女が訊ねる。

「はい。それなら、我々は教会の縁者でちょうど向かっていた所です。お客様を迎え入れる予定ですので、晩餐の準備もしています。ぜひご一緒に」

「ありがとうございます」

 深々とミスリアが頭を下げた。

「君もそれで構わないね」

 男は、それまで空気のように静かに突っ立っていた相方の女に声をかけた。男の一歩後ろに居た女はずっと何か考え込んでいたのか、今までの会話に入って来なかった。

「ええ」

 短く返事をし、女は男の隣に並んだ。長く真っ直ぐな蜂蜜色の髪が、ふわふわと風になびく。

「さっきからやけに静かだけど、大丈夫かい」

 女の肩に手をかけ、心配そうに男が声をかける。ひったくり騒ぎで怖い思いをしたと懸念しているらしい。

「……そうね、大丈夫」

 ヘーゼルに青が混じった色の視線が、痛いくらいにイトゥ=エンキに突き刺さった。何をそんなに凝視してるのかと思えば、左頬に視線が集中している。

「その模様は生まれつきですか?」

 囁くような問いだった。

「コレ? そーですケド」

「……嘘でしょう」

 イトゥ=エンキが軽い調子で答えると、女は信じられないものを見る目になった。

「や、本当だって。何の言いがかりだ」

 初対面の人間がどうしてそんなことを聞いてくるのか不思議でならなかったが、女の次の行動の方が遥かに驚愕を誘うものだった。

 女は素早くこちらに歩み寄って右腕を伸ばした。

 ほっそりとした指が頬に触れる。突然の温かさに、肌が震えた。

 文句を言う間も無く、イトゥ=エンキはただ表情を強張らせた。

「ヨンフェ=ジーディ? 何を……」

 連れの男が動揺を隠せない様子で問うたが、女はそれには答えなかった。

「これは私の夢か幻に違いないわ」

 そう呟いた女の声音も、頬を撫でる指先も、愛しい者に向ける類のものだった。もしや知り合いだったのかと考え、イトゥ=エンキは女の顔をじっくり見直した。

 最初にヘーゼルに混じった青だと思っていた瞳が、よく見ればその逆だった。青い色の瞳の中に、瞳孔の周りだけ濃いヘーゼルの輪があった。

 キレイに反り返るふさふさの睫毛は髪よりも暗い色で茶に近い。顔は長面でありながら輪郭は柔らかく丸めで、全体的に温和そうな印象を受ける。

「イトゥ=エンキ……生きてたの……?」

 女の痛切な呼びかけは、氷水を浴びるよりも強烈に脳に届いた。

 ――何でその名を知っている――。問い詰めるつもりが、声が出なかった。

 遅れて脳が情報を処理し出したのである。

 この女の名前は、ヨンフェ=ジーディ、と言った。

 信じがたいが、確認する方法ならある。

 彼女の長い髪を手ですくい、その下に現れた形の良い耳の後ろに目をやった。

 細やかな黒い模様があった。耳の後ろに始まり、うねうねと蔦のように下に伸び、うなじ辺りで小さく丸まった形。ちょっと朝顔に似てるね、と初めて会った時に言った覚えがある。

(そんなはず無い)

 身を引いて、イトゥ=エンキは心の中で現状を否定した。

 やっと山と樹海を超えて町に着いて。手がかりを求めに教会を訪ねて、もう何年も経っているから詳しくはわからないと煙に巻かれて。そこから更に町中の人が集まる場所を回って、終いには人の家にまで聞き込みに行って。

 それぐらいの苦労をしてもなお、足取りを掴めないだろうと予想していたのに。

「……っ、ごめんなさい……」

 泣きながら謝るとその人の顔は、記憶の中の面影と重なった。

 イトゥ=エンキが息を止めたのと同時に、視界が暗転した。周囲の場景が闇に呑まれて消えた。


 ――ごめんなさい、ごめんなさい。あなたは生きて。お願い……!


 声が辺りに響いた。その時自分は、床を注視していた。

 足元に浮かんでいた光の窓が閉ざされていくのを認め、心臓が早鐘を打つ。

 がこっ、と音がするのと同時に、戸が閉められた。

 一切の闇。屋根裏部屋の中の生温く淀んだ空気。

 足音が、人の気配が遠ざかる。怖い。独りは怖い――。

 声を漏らさないよう、袖ごと手首を噛んだ。強く、強く噛み締めて泣いた。叶わない願いと知っていながら。


 ――嫌だ、嫌だよヨン姉。行かないで……置いていかないで……ヨン姉! 戻ってきて――


 肩を掴まれた感覚で、イトゥ=エンキは我に返った。ヨンフェ=ジーディが必死の形相で何かを言っているが、よく聴き取れない。

(ああ、何だ。記憶の再現だったんか)

 思い出すまいとあれから何年もかけて封じた記憶が鮮烈に再生されたのは、彼女の涙が引き金だったのだろうか。

 何にせよ今起きていることではないのだとわかって、小さく安堵のため息をついた。

「お前が求めていたのは、ソレじゃないのか」

 いつの間にか隣に来ていたゲズゥが訊ねた。

「……確かにそうだけど。オレはなー、ヨン姉の墓と対面する覚悟は前々から決めてたけど、こうもイキナリ生身の本人に会う心の準備はできてなかったんだよ」

 生身、の言葉を強調しながらイトゥ=エンキは額に掌を当てた。

 動揺に反応して紋様が広がっていくのがわかる。向かい合っているヨンフェ=ジーディも同じで、彼女の場合は顔の右半分と首周りに黒い模様が広がっている。元々彼女の紋様はイトゥ=エンキのそれと比べて感情の起伏に影響されにくく、それ以上は広まらなかった。

 やがて連れの男がそっと近付き、ヨンフェ=ジーディを引き剥がしてくれた。「落ち着いて」と優しく声をかけながら。

「積もる話もあるだろうから、教会に着いてからまたゆっくり続きを話そう」

 男の提案に、彼女は目元を拭いながら頷いた。イトゥ=エンキは心の中で男に感謝する。野次馬の注目がそろそろウザかった。

「では行きましょうか。僕のことはラノグと呼んで下さい」

 こちらに向かって男が手を伸ばし、握手を求めた。

 握りたくは無かったが、拒絶する訳にも行かなかった。ここはミスリアに代表してもらおうと考え、イトゥ=エンキはくるっと身を翻して少女の右手を取った。仲介人の真似事で、横に立って二人を握手させる。

 ミスリアは驚いた表情を見せたが、すぐに微笑みで対応した。

「ミスリア・ノイラートと申します。よろしくお願いします」

 心底嬉しそうな笑顔だった。何がそんなに嬉しいのか謎だ。

 こちらを一瞥したミスリアの茶色の大きな瞳には、「よかったですね」或いは「おめでとうございます」と書いてあった。ああ、それが嬉しいのか。

(良かったけど。素直に喜べねーし)

 と、イトゥ=エンキは作り笑いの下で苦々しく思った。


_______


 ゲズゥ・スディルは色の付いた窓を眺める内に既視感を覚えていた。少し後退って、縦長の窓をもう一度眺めると、それが一つの絵画のようになっているのだとわかった。

 ここが教会の聖堂という場所なら、絵は聖獣を描いているのだろう。

 ――そうか。林の中の教会も、聖獣の絵を飾っていた。

 あの時も静寂の中で宗教画を眺めていたのだった。

 印象派めいたあの天井の絵と違って、この窓の絵はもう少しはっきりとしていた。

 翼の生えたサンショウウオが野原に降り立っているように見える。ゲズゥは首を傾げ、聖獣はこういう姿なのか、と不思議に思った。

 ふいに入り口の扉が開き、長身の男がするりと入り込んできた。風呂に入って着替えたためか先刻よりも身なりはきちんとしている。黒髪を頭の後ろに結び、服は教会の人間が用意した無地の物で、小麦色の肌に合っている。腰に巻かれた太い鎖さえ無ければ、そこらの町人の群れの中に溶け込めるかもしれない。

「ステンドグラスか」

 エンはゲズゥが見ていた着色ガラスへと視線を向けた。聖獣の絵を一瞥してから、興味をなくし、どこからか小型の煙管を取り出した。

「教会って禁煙だっけか? ……まあどっちでもいいや」

 などと自問自答してから火を着けた。ふう、と灰色の煙を吐く。

「晩餐とか冗談じゃねーよ。堅苦しーんだよ。ガキの頃ならともかく……オレは頭の商談にだって参加したくなかった系だ」

 他に誰も居ない聖堂の中で、エンはぶつぶつと文句を垂れ始めた。ポケットに片手を突っ込み、煙管をゲズゥにも差し出した。

「意外だな。お前は社交性が高いと思っていたが」

 差し出された煙管を受け取り、ゲズゥも吸っては煙を吐いた。

 夕刻に近い今、教会の人間は特別な客とやらを迎える準備に奔走している。それが誰であるのかまでは聞いていないし、興味も無いが。既に巻き込まれたミスリアを放って、ゲズゥは掃除も済んでちょうど無人となっていた聖堂に逃げた。

 エンは姉によって巻き込まれたのかと思っていたら、こいつも上手いこと逃げたらしい。

「まあ、普通はな。でもヨン姉が居ると、どういう顔すればいいのかわかんないんだよ。起き上がれない度に麦粥を匙で食べさせてくれた人相手に、今更カッコつけられっか。年中同じ顔のお前には関係ない悩みかもだけど」

「……ああ」

 ゲズゥは煙管を返した。この男が、済ました顔を演じていられないほど精神的な余裕を奪われるなど。それだけ、家族は特別だということだろう。

 一つため息ついて、エンは広い聖堂の奥の方へ歩き出した。ステンドグラスの窓の前に演壇が置かれ、窓を挟む垂れ幕には、例の十字に似た象徴がそれぞれ描かれている。

「聖獣信仰の教えって何だっけか。善事に励めば天に昇れる、聖獣が蘇れば世界が美しくなる、って親が言ってたよーな」

 ゲズゥはゆっくり首肯した。

「……多分、ミスリアも似たようなことを言っていた。それと、罪人などが死ねば魔物になると」

 これだけは公にされていない情報だとも言っていた気がする。

「うげー、めんどくさそう」

 嫌そうな顔をしてはいるものの、エンの反応に深刻さは無かった。

「生きている内に全部償えば救われるらしいが」

 これも受け売りであった。

「曖昧だなぁ。人殺した罪とかは、生き返らせられないんだからどうやったら償い切れるか基準がわからないじゃん。誰かが上から見てて、たくさん良い事したんだからこのくらいでちょうどいい、って決めるのか?」

「――決定を下すのが『誰か』であると、そう考えられますか?」

 背後からした澄んだ声に、二人は振り返った。

 小柄な人間が通路の真ん中にちょこんと佇んでいた。長い黄金色の髪と、空よりも鮮やかな青い瞳が目立った。肌色は血管が透けそうなほど白い。喉仏からして男であるようだが、声が高めだ。幾重にも重なる刺繍の施された白装束が包む身体は、男にしては異様に華奢だった。

「お二人とも凛々しいお顔立ちですね」

 突然、感心混じりに男が述べ――そう思いませんか、と後ろについてきた二人の長身痩躯の男を振り返った。黒ずくめの男二人は最後列のベンチの後ろに直立して控えている。双子か兄弟だろうか、よく似ていた。兄弟は意見を挙げずにただ頷いた。

「それはどーも」

 煙を吐きつつエンが不敵な笑みを浮かべる。

 前を向き直り、へにゃり、と華奢な体つきの男は頬を緩めた。どこか気の抜けた笑い顔が、益々男臭さを遠ざける。ただでさえ眉毛が細く、肌がキレイすぎる。この男の顔にはニキビや日焼けの痕もシミも見当たらない。そのためか年齢が推測不能だ。

 腰上に巻かれたスカーフのような絹をなびかせ、男は歩み寄ってきた。教団の象徴を象った巨大なペンダントをかけている。人間の掌より全長が長く、嵌められている紫水晶も雀の卵と同等の大きさである。

「……神様ってのは人類を試したり裁いたりするもんだろ?」

 男が立ち止まるのを待って、エンが言った。ゲズゥは無意識にその「凛々しい」横顔に目をやった。

 当然のように掠り傷や僅かな髭の剃り残しがある。一層、頬に赤みすら無い華奢な男の方が病気に思えた。

「さてどうでしょう。神の在り様が――命を生むもの、世界を創造するもの、裁くもの、救うもの、と多く説かれています。神々は多くの事象を司る、人間の理解の範疇を超えた大いなる存在です」

 男の話し方は音楽的で、それでいて確信が込められていた。すべて、と発音した瞬間など、大袈裟に手を広げていた。

「摂理をお決めになるのが神様? それとも、理そのものが神様であらせられるのか? その答えは、誰にもわかりません」

 間近だと、男が斜視であることが見て取れた。真正面を見ているのに、左目だけがわずかにずれていた。

「オレにも訳わかんねーよ。このロン毛 優男ヤサオは何言ってんだ?」

 エンは軽く笑った。後半の質問はゲズゥに向けられたが、まさかこちらにもわかる訳が無く、頭を振った。

「基準なんて判然としなくても良いのです。命ある限り償い続ければ、いつかは聖獣の恩恵にあずかります。それが摂理なのですから、罪を犯した者にも神々へと続く道が照らされる日は訪れます」

 そう言って微笑んだ男の存在感に、ゲズゥは何か妙な引っかかりを覚えた。

 奴が現れた瞬間をエン共々に感じ取れなかった点から元々生命力が希薄だったのかと思ったが、少し違う。聖気を使う時のミスリアみたいな、この世とかけ離れた儚さに似ている。

「そして聖獣が我らを救う存在であると、それだけは確かです。わたくしはそれを説いて、人々を導くのが役目ですから」

「確かって言うからには、何か証拠があるんか?」

「難しい事をお訊ねになりますね。証拠や確信の有無について話すには、二日や三日ではこと足りませんよ」

「はは、今してる話だって十分難しいじゃねーか」

「それもそうですね!」

 二人が笑い合う横で、ゲズゥは欠伸をした。存外、エンも本気でこの雲の上の会話を楽しんでいるように見える。こっちはとっくに振り落されて飽きているというのに。

 その時、扉が開いて手ぬぐいを被ったエプロン姿のミスリアが入ってきた。

「ゲズゥ、イトゥ=エンキさん、やっぱりここに居ましたね。お腹空いてますか? 食事の準備が整いましたよ」

 呼びかける途中で、佇立した二人の黒服の男に気付き、ミスリアは振っていた手を下ろした。

 瓜二つの男を見比べて更に通路の先の華奢な男へと視線を流した。男は肩を振り返ってミスリアと目を合わせた。

「……おや。もしや聖女ノイラート――いえ、聖女ミスリアですね?」

 男は嬉しそうに目を細めた。何故呼び方を言い直したのかは不明である。

「教皇 猊下げいか! もういらしていたのですか」

 慌てて手ぬぐいを引っ掴んでは脱ぎ捨て、ミスリアはその場で跪いた。

「予定より早く着いてしまいましたので先に聖堂に寄ってみたのですよ」

 教皇と呼ばれた男は通路を歩き出した。一歩進む度に白い服の裾が床に引きずり、しゅる、しゅる、と小さな音を立てた。

 教皇は膝をついた少女の元へゆっくりと近寄り、右手の甲を差し伸べた。

 顔を上げ、ミスリアは差し伸べられた手を小さな両手で口元に引き寄せ――教皇の右手の中指に嵌められているごつい指輪に口付けを落とした。

 ゲズゥは片眉を吊り上げた。男が女の手にキスするのはそれなりによく見る挨拶だが、女が男にそうする場面は初めて見たかもしれない。

「よくぞ無事にここまで辿り着けましたね。安心しました。貴女は世に出た聖人聖女たちの中でも最年少ですし、何かと気がかりで」

 教皇は子供か教え子にするように少女の頭を優しく撫でた。ミスリアはくすぐったそうに身じろぎする。

「ありがとうございます、猊下。苦難あれど、何とか旅を進めています」

 ミスリアの返答に教皇は満足げに微笑むと、今度はゲズゥへと眼差しを移した。振り向く際に、低い位置で一つにくくられた髪が揺れた。

「左目がうまいこと黒い前髪に隠れていますけれど、貴方がゲズゥ・スディル氏ですね。お初にお目にかかります、私はヴィールヴ=ハイス教団を代表する者の一人。位は教皇。聖女ミスリアがお世話になっております」

 優雅に一礼してから教皇は右手を伸ばした。数フィート離れているというのに、まさか握手しに来いとでも言いたいのだろうか。ゲズゥは微動だにしなかった。

「ちなみに指輪にキス、は信徒の挨拶。信徒じゃないなら握手でいいんだよ」

 エンが楽しげに耳打ちしてきた。

「教皇っつーと最高責任者だな。そいつの握手を拒むのって、スッゲー失礼だと思うぞー? 従者の黒い兄弟に刺されるかも」

 そういうエンも失礼な口を利いていたはずだが、特に問題ないのか、教皇や兄弟からの反応は無い。

「俺に礼節を重んじろと」

「ココの飯食うつもりなら重んじた方がいーんじゃねーの。ミスリア嬢ちゃんの生活費とか教団からもらってんだろーし。お前も世話になってんじゃん?」

 声を小声から普通の音量に戻し、エンは肩をすくめた。

「貴方の釈放を許可したのも私ですけれどね?」教皇がにっこり笑う。「おかげさまで対犯罪組織の怒りを買ってしまいましたよ。とはいえ元々あの組織もシャスヴォル国もいちいち過激です。死は本当の意味では贖罪になりえませんのに」

「…………」

 どうやらこの男は死刑に対して反対のスタンスを通しているらしい。だからこそ「天下の大罪人」の釈放に繋がったのだろうが、それでも礼を言う気になどならない。

 ゲズゥは沈黙の内にいくつかの事項を考慮し、主にエンの意見を取り入れて噛み締めた。

 この優男と友好関係を築いた方が今後動きやすそうだろうという結論に至り、重い足取りで教皇の前まで歩いた。顔を見ずに、奴の骨ばった細い手に己の手を重ねた。想像通りの弱い握手が返ってきた。

「時に、スディル氏」

 何故かシーダーの香りが鼻をかすめた気がしたのと同時に、教皇の握手に見た目からは想像できない強い力が加えられた。反射的に抵抗しかけ、思い直して力を抜いた。相手の骨を折る結果を招きかねない。

「経過はどうです。貴方にとってどのような行路であるのかは存じませんけれど、我々の大事な人財に、まさか呪いをかけたりはしていませんね?」

 脈絡の無い問いかけにゲズゥは教皇の白い顔面へと目線を上げ、瞬いた。

 ――旅の途中でミスリアに呪いをかけたりしていないか――?

 普段のゲズゥならば馬鹿馬鹿しいと一蹴するか無視するような、くだらない質問である。

 そんな心配をするぐらいなら最初から釈放を許可しなければいいだろうに。そもそも「呪いの眼」という呼び名から派生する誤解と迷信を信じているなら、当人に面と向かって訊けないはずだ。冗談に過ぎないのか、教皇の意図が掴めなかった。

 ところが優男の鮮やかな青い双眸や掌を圧迫する握力が、何故か言い逃れを許さない雰囲気を湛えている。意図が何であれ半端な答えに納得するとは思えない。いっそ今からでも無視してやろうか、と奴の顔から視線を外した。

 不安と気遣いに表情を曇らせる少女の姿が目に入り、ゲズゥはしばらくミスリアの茶色の瞳を見つめて更に思考を巡らせた。

 気遣いの心が何を意味するのかはわからない。ただ、他でもないこれからも一緒に旅を続けなければならない聖女に、こっそりと化け物と疑われるのは面倒ではある。

「…………思い過ごしだ。左目に他人を呪う力は無い」

 やがてゲズゥは、これまでぼかし続けてきた問題について、今は真実を答えるべきだと判断した。

 ミスリアの顔に安堵の色が広がるのを目の端で捉えた。

 一方、教皇は胡散臭い笑みを浮かべている。

「そうですか、失礼しました。なにぶん少数民族に関する情報が少なすぎますから。聖女ミスリアは息災そうですし、私は護衛である貴方に感謝こそすれ責め立てる理由はありませんね」

 そう言ってやっと手の力をいくらか抜いた。

 奴はまだ何か訊きたそうな目をしていたが、ゲズゥはその隙に手を引いた。これ以上の会話をする気は無いとの意思表示で顔を逸らす。

 一瞬、黒い兄弟から鋭く睨まれた気がした。

「では、そろそろ私は皆に挨拶をして回ります。また後ほどお会いしましょう」

 意思が通じたのか、教皇は裾を翻してすたすたと聖堂を後にした。兄弟がその後ろに続く。奴は結局何の為に聖堂に寄ったのか、これではまるで雑談をしに来ただけである。

 残った三人の間に数秒ほどの沈黙が訪れた。

「じゃあオレは町にでも消えるかな」

 と言ってエンも出入口に向かい出した。

「イトゥ=エンキさん? 晩御飯はいいのですか?」

「パス。適当にどっかで食ってくるから」

「そうですか……」ミスリアは残念そうに俯き、次いで何か思いついたように顔を上げた。「余り分があったら夜食として出しっぱなしにされると思います。後で、誰も居なくなった時にでもどうぞ」

「おー、気が向いたら寄っとく」

 振り返りざまに一度笑ってから、エンは音を立てずに去った。

 おそらく姉を避けたい理由が口で言った以上にいくつもあるのだろう。事情は詳しく知らないが、複雑な心境であることは間違いない。ミスリアもそれを察し、寂しそうな表情を浮かべるも引き留めようとしなかった。

 しばらくして、脱いだ手ぬぐいを両手の間に折ったり広げたりして、少女は何か言いたそうに視線を彷徨わせた。

「大丈夫ですか」

 ミスリアがゲズゥを見上げて訊ねる。

「何が」

 思い当たる節が無くて思わず訊き返した。

「……その眼の話をするのは、好きではないのでしょう?」

 伏し目がちに、静かな口調でミスリアは言った。

「群れのボスより、俺を気遣うのか」

 気が付けばそう答えていた。

「ボスって、教皇猊下の事ですか? それは……立場も大事ですけど。身近……な人間を思いやりたいですから。ゲズゥを私の旅に付き合わせて、嫌な想いをさせたかった訳ではありませんし……」

 遠慮がちに答える少女を見下ろし、ゲズゥは得体の知れない優越感を覚えていた。

 頂点に立つ男よりも優先してもらえたから? 「身近」と言ってもらえたから?

 ――わからない。実に、得体の知れない――

「気にするな。ああいう誤認には慣れている」

「……本当に?」

 上目づかいで茶色の瞳が見上げてくる。

「一族も別に正そうとしなかった。『呪いの眼』と自称していたのは、ソレを持って生まれた人間が呪われているからだ。最初から、他人を呪う力など無い」

 だったら「呪われた眼」と呼ぶべきだったかもしれない。先祖の考えた事はわからない。

「なら……理不尽な差別に怒らないのですか……」

「無意味だ。何を主張した所で、見た目が気味悪いのは変わらない」

「私は綺麗だと思います」

「お前は少数派だ」

 そこで、会話がぱたりと止んだ。

 ミスリアはどこか居心地悪そうに辺りをきょろきょろと見回し――ある壁の前で唐突に表情が翳った。

 何を見たのだろうかとゲズゥは視線を追う。演壇から見て左隣の壁だ。台の上で蝋燭が列になってびっしりと並べ置かれている。蝋燭は全部に火が点いていない。

 急に我を忘れたように、滑るように歩いてミスリアはその台を目指した。ゲズゥは動かずに、目だけで後ろ姿を追った。

 蝋燭の一本一本に、銀細工のリングみたいな蝋燭立てが付いていた。何か彫られているのだろうか、ミスリアは指先でそれらを夢中で確認している。

 やがて目当ての一本を見つけ、白い指はある一本の蝋燭の前で止まった。ミスリアは片手で口元を覆い、空いた手をマッチ箱へ伸ばした。震える手で蝋燭に火を灯す。

 ことん、と音を立ててマッチ箱が戻された。

 少女はしばらく揺れる炎を見つめていた。

 次には両手を絡み合わせ、祈る姿勢で何かを呟いていた。それもしばらくして崩れる。ミスリアは力なく床にへたり込んだ。頼りなく細い肩が激しく震えている。

 すすり泣きが、聴こえた。

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