23.
時計塔の鐘が鳴り終わるまで、ミスリア・ノイラートは灰銀色の屋根の塔を見上げて待った。
十回鳴った後で音が止まる。
その余韻がまだ耳朶に残っている内に、ミスリアは目を瞑って一呼吸した。
日差しが心地良い。どこからか風に乗って伝わってくる焼き立てのパンの匂いが香ばしい。足元で、鳩が食べ物を求めてレンガの道を突く音がする。
通りを行き交う人々の声に、雑踏に、活気が溢れていた。こうしていればその活気を分けてもらえる気がした。
(よし。私も一日頑張ろう)
両手で頬を軽く叩いて、ミスリアは目を開いた。
「おはようございます、聖女様」
開いた目に入ってきたのは黒い服と銀のアミュレット。真正面に、いつの間にか誰かが立っていた。聖女の制服を着ていないのにそう呼ばれたからには、知り合いなのだろう。
ミスリアは目線を上げて、茶色の巻き毛と垂れた耳たぶが特徴の、昨日出会ったばかりの中年男性を認めた。
「おはようございます、神父さま」
「まだ寝ているものかと思っていました。疲れていらっしゃるでしょう」
神父は元々細い目を更に細めて、のほほんと笑った。
「いいえ、そんな訳には」
ミスリアは頭を振った。
この町の朝は早く、既に一日が始まってから数時間経っている。旅の疲れがあったものの、周りより起きるのが遅かったことに対してミスリアは何故か申し訳ない気持ちになっていた。
「そういえば神父さま、聖地へご案内していただけませんか?」
思い出したようにそう訊ねると神父の笑顔が揺れた。
「聖女ミスリア、それはいけません。週の始めの赤期日と言えば聖職に携わる者にとっての正式な休日。今日は、のんびりと何もしなくて良いのですよ」
「で、でも……。ではせめて何かお手伝いします」
何もしなくていいと言われると余計に戸惑う。
教会に住んでいる人間は休日を利用して家事やら買い物やらに忙しいのに、自分だけ何もしないのは気分が落ち着かなかった。
「それも、いけません。貴女様は大切なお客様です。お手を煩わせるなど」
口元をむっと引き結んで、神父は取り合わなかった。
「私が望んでいても……ですか」
「困った言い方をしますね。では、そうですね。庭の方で薪割りをしていらっしゃるラノグさんに飲物を持って行って下さいませんか」
「勿論構いません」
ミスリアは笑顔で請け負った。
そうして、水差しとコップとスコーンの乗ったトレイを持って裏庭に向かうことになった。
庭は広く、ずっと先まで見渡せばやがて庭から野原に変わり、そして緑が途絶える。あそこが聖地たる崖なのだろう。いずれゆっくりと見て回る必要があった。
右へ進み、斧が木を打つ小気味良い音を辿って、ミスリアは探し人を見つけ出した。
しかし彼は木の株に腰を下ろしていた。ミスリアに気付いて顔を上げ、明るく手を振って来る。
「聖女様! おはようございます。いいお天気ですね」
「おはようございますラノグさん。休憩中なら調度良かったです、お水とお菓子をどうぞ」
ミスリアは薪割りを続行するもう一人の人物の姿に驚きながらも、まずは挨拶した。
差し出されたトレイをラノグが受け取ると、ミスリアは水差しからコップへと透明の水を注いだ。
「有り難いです。いただきます」
ラノグは夢中になってスコーンの山を一個ずつ崩し始めた。その間も、すぐ隣で薪が割られる音は続いた。
しばらくしてミスリアは薪割りに没頭する長身の青年を振り返った。
脱いだシャツを腰に巻いて、青年は傷跡だらけの褐色肌の上半身を日に晒していた。どれくらい作業をしていたのだろうか、黒髪から汗の粒が滴っている。
苦笑しながら、ミスリアはラノグに小声で問うた。
「……ところで、どのように誘って彼の協力を得たのですか?」
「僕から誘ったワケでは無いですよ。ここで薪を割ってたら降ってきたんです。えーと、ちょうどあの辺りの樹の上から」
ラノグは近くの大樹を指差して答えた。
(昨夜から姿を見ないと思ったら……樹の上で寝たのね……)
今更呆れるまでもなく、ミスリアはただ納得した。
(相変わらずな人)
内心くすりと笑って、気を緩めた。
祭壇の前で泣き崩れる所を見られた所為で気まずいかも、と心のどこかで心配していたけれど、おそらくゲズゥは気に留めていない。だったら、一方的に気にしても仕方のない問題だった。
「それで一言『かわる』と言って斧を取られました。おかげで休憩できましたよ」
「そうだったんですか」
ミスリアは黙々と薪を割り続けるゲズゥ・スディルを観察した。薪の山はどんどん積み上がっている。彼の手際がいいせいだろうか、あっという間に終わりそうである。勿論、顔には疲れの色など微塵も浮かんでいなかった。
(いつもと同じ無表情なのに。どうしてかな、ちょっと楽しそう)
手作業に没頭するという状況を楽しみたかったのか、それとも単に身体を動かしたいだけだったのか。正解は、本人にしかわからない。
「さて。そろそろまた僕がやりますよ。あと少しですね」
五個目のスコーンを飲み込んだラノグが立ち上がった。彼はズボンをはたいて食べカスを払い、近くに置いてあった手ぬぐいで指を拭いてから、袖をまくりあげた。
ゲズゥはラノグの顔を直視せずに斧を手渡した。そうして今度は彼が切り株に腰をかけた。
(あ、コップ一つしか持って来てないわ)
手元のトレイにはラノグの飲みかけのガラスコップが置いてある。同じのを使うのはゲズゥは嫌がるだろうか、と首を傾げていたら、横から褐色の手が伸びた。
ゲズゥはコップではなく水差しを片手に取った。それを頭よりも高い位置に持ち上げ、上向きに首を傾け、開いた口にとくとくと水を注ぎ込んだ。注ぎ口に触れることなく。
「き、器用な飲み方ですね」
などと感想を述べても、返事は無い。うっかり漏れたりしないかなー、とハラハラして見守った。
「………………町に」
ようやく水差しを下ろしたゲズゥが呟いた。前髪に隠れていない黒曜石に似た右目が、何かを問うようにミスリアを見つめている。
「町に?」
話が掴めなくて思わず復唱する。
「そいつが町の鍛冶屋で働いていると」
水差しをトレイに戻して、ゲズゥが答えた。「そいつ」とはラノグのことを指しているのだろうか。
「鍛冶屋ですか」
「そこから武器屋も近いらしい。俺は見に行きたいが、お前はどうする」
ゲズゥが立ち上がった。黒い瞳が返答を待ちながら見下ろしてくる。
「私は……」
武器屋に行きたいけどミスリアと離れては護衛の役割を果たせないから、一緒に来るかと誘っているのだとわかった。こちらとしては教会に残っていてもやることが無いし、ついていくのが妥当だろう。
「行きます。ラノグさんも、是非、ご案内お願いします」
ラノグを向き直り、ミスリアはきっちりとお辞儀した。
「勿論いいですよ!」
額の汗を布で拭いつつ、彼は気持ちのいい笑顔を返した。
数十分後には割り終えた薪を教会の中に持ち込み、三人は町に出る為に正面玄関に向かった。
ところが扉に手をかけた瞬間、階下から上がって来る人間に呼び止められた。
「どこ行くの?」
振り返ると、長い蜂蜜色の髪を一本の三つ編みに纏めた女性が階段の手すりに片手を添えて立っていた。この教会の女性の普段着である灰色のワンピースを着ている。確か彼女はイトゥ=エンキの生き別れた姉で、名をヨンフェ=ジーディと言った。
「やあ、ヨンフェ。少し早いけど、鍛冶屋の方に行くよ。聖女様方も行きたいそうだし」
明るい声でラノグが応じた。
彼女は一言、あらそう、と意外と身の入らない応答をした。
そして気難しい顔で手すりを睨んでから、また顔を上げた。
「ねえ。イトゥ=エンキを見なかった? あの子、昨日はどこ泊まったのかしら……晩餐にも来なかったわ」
「君の弟だという彼? 僕は見ていないな。聖女様は?」
そう言ってラノグはミスリアたちとも顔を見合わせた。
「いいえ、私も昨晩からは……」
自信に欠ける声でミスリアが答える。
昨晩、イトゥ=エンキが「町に消える」や「晩御飯を適当にどこかで食べる」と言っていたことは伝えるべきだろうかと迷う。本人は、あまり追われたく無さそうだった。
「朝は一瞬だけ聖堂に居たって司祭様の証言があるのだけれど。逃げられている気がするのはどうしてかしら」
「そこまで心配しなくてもそのうち戻ってくるんじゃないか」
「わからないわ」
ヨンフェ=ジーディは足早に残りの階段を上り切り、三つ編みを揺らしながらミスリアに近付いた。
「聖女様、お願いです。昨日は訊けなかったけど、教えて欲しいことがあります。イトゥ=エンキとはどうやって出会ったんですか? どうして一緒に旅をしてたんですか? あの子は今までどこで何をして――」
こちらに返答を挟む隙も与えず、彼女は次々と質問を並び立てた。
弟と言っても二十六歳の成人男性のことだ。普通なら、一晩姿を見なかったくらいでここまで気にかける必要は無いはずである。しかしこの姉弟は十五年も離れて生きていて、突然再会したばかりだ。決して普通とは言えないだろう。
「大体、身体が弱いのに一人で街中をふらついていいはずが無いんです」
「あ、そのことでしたら、もうすっかり健康になったそうですよ」
彼女のただならぬ気の揉み方に別の理由が垣間見えた気がして、ミスリアは思わず言った。
「強がりではなくて?」
ヨンフェ=ジーディが訝しげに眉根を寄せる。
「はい。実際、旅の道中も涼しい顔で長い時間ずっと走っていましたし」
「そう、ですか」
彼女は考え込むように口元を指先で押さえた。きれいな形に切り揃えられた爪が目に付く。
(改めてよく見ると、イトゥ=エンキさんにどこもかしこも似てない)
髪や瞳や肌の色だけでなく輪郭や顔のパーツですら似ている箇所が無い。唯一共通しているのは、紋様の一族である点だけだ。ここまでだと、いっそ血が繋がってないのかな、などとも考える。
ふいに背後で扉が開く音がした。皆の注目がそちらに集まる。
「……もしも街中で奴に会ったら、お前が探していたと伝えておく」
振り返らずにゲズゥが無機質に言った。その言葉をきっかけに、ラノグも動き出した。
「じゃあそういうことだからヨンフェ、また後で」
「わかったわ……。気を付けて」
頷いたヨンフェ=ジーディに、ミスリアは会釈した。
教会を出て通りに出るとラノグが申し訳なさそうに笑った。
「すみません、聖女様。ヨンフェは元から心配性なんですけど、今回はなんていうか……特別なんでしょうね」
「気にしていません。それだけ彼女は思いやりが深いのですね」
「そう、そうなんです」
彼はとても嬉しそうに破顔する。なんとなくこっちも嬉しくなってきて、笑みをこぼす。
ミスリアとラノグは並んで道を歩いた。大剣を背負ったゲズゥが無言で数歩後ろをついてきている。
レンガに舗装された道の手入れが行き届いていて歩きやすいことに、なんとなくミスリアは気が付いた。
「何を隠そう僕は行き倒れていたところを彼女に救われまして」
「行き倒れたのですか?」
「はい、その時は一人旅をしていて、この町に辿り着いて間も無く体力が尽きたんです」
「大変ですね」
「そうですね。でも皆さまの優しさに救われた、という大切な想い出なので……」
ラノグは急に手を広げて町並みを指した。
「この町、ナキロスは美しいでしょう?」
彼の動きに吃驚した鳩がパタパタと飛び交う。
美しいか、と訊ねられてミスリアは周囲に視線を巡らせた。
辺りの建物の輪郭が青い空にくっきりと浮かんでいる。黒または灰色の屋根が白とパステルカラーの外装の建物たちによく似合っていたし、植物の緑に彩られたベランダや丸く可愛い窓の形まで、すべて丁寧に設計されたのだと素人目にもわかる。
外観だけではない。設備がしっかりしているのだろう、汚水の漏れや汚臭も無い。町の清潔は生活水準の高さと結び付きが深いものだ。
この町は西に断崖、東に樹海と地理的に孤立していながらも栄えている。それはヴィールヴ=ハイス教団が多方面で支援しているからであって、一方で国家からはある程度の自治権を認められているらしい。
「確かに素敵だと思います」
ミスリアは強く肯定した。
その時、近くの建物の屋根を夢中で清掃していた中年女性が顔を上げて手を振った。ラノグが快く手を振り返す。二人は声を張り上げて世間話をし出した。
(きっと美しいのは見た目だけじゃなくて)
余所者を受け入れる心の広さ。ミスリアが教団から聞いていた話でも、ナキロスは何かと移住者が多いらしかった。ほとんどの者は何か或いは誰かから命からがら逃げてくるのだという――。
ふとゲズゥに視線をやってみると、彼は先の方の人混みを見ていた。どうかしたのかとミスリアが首を傾げる。ゲズゥは前方の一つの人影を指差した。
差された人物が早足に距離を詰めてきている。
「よ。何してんだ、嬢ちゃん」
「イトゥ=エンキさん! 何処から現れたんですか」
今ではすっかり見慣れた笑顔を認めて、ミスリアは驚きに声を上げた。
「んーと、あそこの人混みに揉まれてたんだけど、ゲズゥが見えたから来てみた感じ」
いつものハスキーボイスで、イトゥ=エンキは質問の答えになってない答えを返した。
どうして人混みに揉まれていたのか、向かう場所があったのかそれともふらふらと目的地も無く暇を潰していたのか。訊ける前に彼の方が先に問いを振った。
「どっか行くん?」
「鍛冶工房と武器屋」
これにはゲズゥが答えた。
「マジでー、いいなソレ。オレも行く」
「あの! その前にちょっと」
ミスリアは思わず声を上げた。この流れのままに進む前に、伝えるべきことがある。
「ヨンフェ=ジーディが探していましたよ。血相を変えていたと言ってもいいでしょう」
その先を、戻ってきたラノグが告げた。心なしか責めるような声音だった。
「へえ。そりゃ悪いことしたな、後で謝っとくよ」
対するイトゥ=エンキは含みのある笑みを作った。紫色の双眸を明らかな拒絶の光が過ぎる。まるで「身内の問題に他人が口出しするな」とでも言いたげだ。
「……なら、いいのですが」
ラノグは食い下がらず、むしろ気圧されたように僅かにたじろいだ。
「で、武器屋に行くんだって? オレも連れてってくれよ」
打って変わって、イトゥ=エンキの雰囲気が明るくなった。束の間張り詰めてた空気が和らぐ。
「…………そうですね。この道です。ついてきてください」
まだ何か言いたげな、複雑そうな表情を浮かべつつも、ラノグは一同を先導した。
_______
南端に並ぶ店の背後。緑茂る坂を下りた先に、一軒だけ建物がポツリと建っていた。
街から少し離れているのはおそらくはあの煙突から上るおびただしい煙が人の迷惑にならない為だろう、とゲズゥ・スディルは考える。
灰銀色の屋根とベージュ色に塗られたレンガは薄汚れ、街中の建物より全体的に華やかさで劣る外観だが、二階建てで広そうではある。
ハンマーが何かを叩く音が外にまで響いている。
これでは扉にノックをしたところで聞こえやしない、ということで全員はそのまま入口から入った。鍵はかかっていなかった。
工房の中心にて鉄を鍛える初老の男がいる。
「師匠、おはようございます! 昼前に起きてらっしゃるなんて珍しいですね!」
「おう、ラノグか。よく来たな。死んだ女房に怒鳴り散らされる夢見て、目が早く覚めただけじゃい」
ハンマーを下ろす手を止め、鍛冶職人は前歯の抜けた笑みを返した。その背後で、加熱炉の炎が激しく燃えている。おかげで屋内の温度はなかなかに高かった。
「んで? 客か、さっさと紹介せんか、バカ弟子」
「バカは余計です。えーと、こちらが巡礼の聖女様と護衛の方。こちらは……」弟子の男はエンに顔を向けて、口ごもった。「お二人と一緒に来た方で、まあヨンフェ=ジーディの弟さん? だそうですけど……?」
「ほお」
「よろしくお願いします。ミスリア・ノイラートと申します。それから、私の旅の護衛のスディル氏です」
スカートを広げる礼と共にミスリアは自己紹介をした。隣でゲズゥは特に何もしなかった。
「どーも。オレはイトゥ=エンキってんだけど、ヨロシク」
エンは片手をポケットに突っ込んだまま、空いた片手を振った。
「ほお、ほほお。聖女様、しかも可愛いお嬢さんは大歓迎だ。よろしくよろしく。にしてもそっちの兄ちゃんは顔にすごい刺青じゃな」
長いあごひげを撫でながら、値踏みする目で鍛冶職人は来訪者を一人一人見回した。
「コレは生まれつきですよー」
「生まれつき? ソイツは傑作じゃ」
何がどう傑作なのかよくわからないが、エンと職人が笑い出したので弟子もミスリアもなんとなく合わせて笑っている。
「さぁて。今日は何か特定の用向きでもあるんかいの。そのバカデカい剣なんてどうじゃ。鞘が無いのかね」
職人は腕を組んでゲズゥを見上げた。正確に言えばゲズゥの背中の大剣を凝視している。
ゲズゥは剣を下ろし、巻いてある包帯を手早く解いた。
刃が露わになった途端に職人とその弟子が真剣な面持ちになって近付いてくる。
「こりゃあ見たことの無い型の剣じゃな。しかも鉄も珍しい……」
指を刃の上に滑らせたりしている。
「こことか、所々に綻びが見えますね。修理しますか?」
弟子の方が顔を上げて訊ねる。
「ああ。いくらかかる」
金の管理をしているのはミスリアであるにも関わらず、ゲズゥは真っ先にそれを訊いた。
「まさか、受け取れませんよ。巡礼中の聖人・聖女様方からはお金を取らないのがナキロスでの原則です」
弟子は意外な返事をした。
いくら何でも気前が良すぎる。そう思ったが、口には出さなかった。こちらにとって都合が良いのだから敢えて不平を言うのもおかしい。
「そんな――」ミスリアは何かを言いかけて顔を伏せた。
逡巡してから、再び顔を上げる。
「教団との協力関係への感謝……そして代わりに、巡礼を必ず成功させて欲しいとの期待を込めてのことでしょうか」
「……町の偉いさんの考えはわからんよ。わしらが聖女様の成功を願ってるのは間違いないがね。とにかく気にせんでくれい」
職人は分厚い手で帽子を被りなおした。屈託の無い笑顔が印象的である。
「わかりました。ご厚意、有り難く頂戴します」
ミスリアが返したのは、民の期待を一身に背負った聖女に相応しい、使命感と誇りに溢れた微笑みだった。
鍛冶屋の師弟は反射的に手を合わせて頭を下げる。傍らではエンが物珍しげな顔つきをしていた。
「あ、でもそっちの兄ちゃんは何かして欲しいなら払わないといかんぞ。すまんな」
職人が祈祷の姿勢から顔を上げる。
「当然だな」名指されたエンはまったく気を悪くした素振りを見せずに笑った。「で、それなんだけどー」
エンは腰の鉄鎖を外し、先端についている細い
歯の二本が歪に折れ曲がっている。
「む。ぼきっといっちゃってるのう」
「いっそ直さずに取り替えてみては? 確か武器屋に似たものの完成品が置いてあるはずです」
「それが良いな」
職人は己の弟子の提案に首肯した。
「大剣は預けてもらえんかね。ちょうど今、手が空いててな。ちょっと向こうで時間潰してくれればその間に修理するぞ」
「できれば鞘も頼もうと思っていた」
ゲズゥは大剣を両手に乗せ、差し出す形で応じる。
「あぁ、なるほど。だったら合わせて数日かかるな。とりあえず代わりになる得物を武器屋から借りるといいぞい」
職人が剣を受け取った。
ゲズゥはミスリアを見下ろした――この町で何日を過ごす気でいたのか知らないが、一応同意を得る必要はあるだろう。少女は小さく頷きを返した。
「どうか私からもお願いします」
「うむ。この形だと剣を『引き抜く』タイプの鞘じゃダメだな……二つの面を合わせて留め金付けるのがいいじゃろう。それで後ろ手に外せれば……」
ブツブツと職人はひとりごちる。やがて、弟子の方も案を挙げていく。
「形はお前らに任せる」
二人の会話を遮るようにしてゲズゥは言った。彼は鞘の質にはこだわっていなかった。
それに、こういったものは玄人の考えに従うのが一番だ。この二人ならおそらく大丈夫だろう。工房の壁や床など至る所に積まれているさまざまな鉄器の試作品を見るに、腕は確かなようだった。
「おう、任せとけい」
「では後で教会でお会いしましょう」
「はい。案内ありがとうございました、ラノグさん」
簡単な別れの挨拶を交わしてからゲズゥたち三人は工房を後にした。
来た道を辿ると、坂を上ってすぐそこに武器屋があった。
品揃えはそこそこ良かった。ゲズゥは隠し持てるタイプのナイフと予備の短剣を新調し、ついでに曲刀を借りた。際立った特徴の無い、一般的な曲刀である。
ミスリアにも何かしら持たせた方がいいのか迷ったが、使いこなせないのならかえって危険だと考えて、止めた。
エンは鉄鎖に付ける新しいフック、直刀、そして黒革の手袋を買っていた。指の第二関節までの長さの、指先が空いた手袋である。
「ふー、いい買い物したな」
「私も何か買ってみたかったです」
「や、別にいーんじゃねーの、嬢ちゃんはそのまんまで」
「そう思いますか?」
昼も近い頃、三人はぶらぶらと町をふらついていた。ふいに小さな花壇の前でミスリアがしゃがみこんで、鮮やかな色の蝶を見つめる。
ゲズゥはその姿を背後からぼうっと観察していた。一眠りしたくなるようないい天気である。
その時、何か気になるものが目の端を過ぎった。首を振り向くと、横でエンが手袋を付けたり外したりと調整をしている。
奴の手首の内側、黒い革が途切れるすぐ下。そこにミミズが這うような皮膚の盛り上がりがあった。
――あれは……いつも手をポケットに入れているからあまり気付かないが、そういえばごくたまにチラリと目に入ることがあった――。
他人の事情に関与しない主義のゲズゥは、これまでは無視し続けていたのに、何故かその時声を出さずにいられなかった。
「……エン」
「んあ?」
「お前がやたらと姉を避けるのは、その傷痕を見られたくないからか」
治った痕を見る限り、それはためらい傷と呼ぶにはあまりに深かった。死ぬつもりだったというより、まさに死にかけたのかもしれない。
「めざといな、お前」気まずい空気をかもし出すことなく、エンはけらけらと笑った。「別にコレは理由の内じゃねーけど。見られたくないのは違いないな」
奴が手首を翻し、傷痕は視界から消えた。
「そうか」
とだけ、ゲズゥは返した。
花壇から目線を移したミスリアが、大きな目を瞬かせている。
暫時の沈黙が流れた。
往来の人々はゲズゥらに関心を示すことなく、忙しなく通り過ぎている。水瓶を頭に乗せた女がすれ違いざまに一瞬だけこちらをチラリと見たが、それだけだった。
ミスリアがゆっくりと立ち上がる。茶色の瞳はエンをしっかりと捉えていた。ところが、次いで発せられた言葉は心もとない。
「あ、あの、私にできることがあれば言ってください。古い傷を治すのは難しいんですけど、精一杯頑張りますから……」
オロオロとかける言葉に困るその様を、ゲズゥは今までに幾度も見てきた。
相手を気遣いたい気持ちを持て余し、どう言ってあげるのが一番いいのかわかりかねているのだ。それを「できることがあれば」の言葉に包む事で、何より相手を尊重したいという意思を示している。「お前にできることは無い」と相手がそう断じれば、大人しく従うだろう。
押し付けがましくない分、そういった想いが純粋に届くこともある。
エンは最初、驚いたようだった。次には、朗らかに笑った。
「……嬢ちゃんはホントお人よしだなぁ。そんなんじゃ早死にしそうでこえーよ。誰も彼も助けようとして、疲れないか?」
ゲズゥも何度か抱いてきた疑問である。今となっては、この娘の根本を成す性質だと受け入れて諦めている。
「私……私たちは、何度も貴方に助けられていますから。信頼に値する人物だと思ってます」
「カワイイこと言うじゃん」
「はい?」
次の瞬間、エンは大股でミスリアに近付いた。長身の男は少女を両手でひょいっと抱き上げ、子供に高い高いをするように空に放った。
「きゃあ! イトゥ=エンキさん!? 何するんですか、やめ、やめてください!?」
「ははははは」
エンは笑うだけで取り合わない。
きゃあきゃあ喚く少女を、道行く人々は好奇の目で見る。あらまあ仲良いのねー、と口元に手を当ててくすくす笑う女も居た。
あまり長引くと不審者だと勘違いされないだろうか。ゲズゥはふとそんなことを考えた。
少なくともミスリアに害が及ぶ予感は全くしないので、手を出さないでいる。
が、助けを求める目がこちらを向いた。タイミングを同じくして、エンはくるりと身体を巡らせた。
「ほれ、パス」
宙に飛ばされ、ミスリアが小さな悲鳴を上げる。
ゲズゥは飛んできた華奢な身体を素早く受け止め、地に下ろしてやった。
若干目を回しているのか、ミスリアはぼんやりとしていた。
「ごめんなさいっ」
我に返ると、すぐにゲズゥの腕から逃れた。何を謝ったのかは謎である。
「オレ妹欲しかったなー。来たのは姉だったけど」
エンは両腕を組んで、悪びれずに言う。
「……来た、ですか? やはり血は繋がっていないのですね」
「わかったか。っていうか全然似てないだろ? ヨン姉は父さんがこの町まで遠出に行ったある時、連れて帰ってきた孤児だよ」
「そうだったんですか」
「そ。たまたま同族だからか感情移入しちゃって、教会から引き取ったってさ」
それを聞いて、ゲズゥは色々と納得した。生き別れた後の姉の消息を、元々彼女と縁の深い教会なら何かわかるだろうと考えたのはそういうことか――。
そして、十五年前にあの女やエンが味わったであろう絶望をなんとなく想像して、冷風が吹いたような錯覚を一瞬覚えた。
「イトゥ=エンキさんは、どうしてお姉さんを避けるんですか? 会いたかったのでしょう……?」
少女の澄んだ声が静かに問うた。どこか、陰を内包した声だった。
「そりゃあ……ヨン姉は十五年前までのオレしか知らないんだよ」
ミスリアの様子に気付いたとしても、エンもやはり静かに答えた。
「……? 必然的にそうなりますね」
「つまり。これまでに何処でどうやって、何をして生きてきたのか、知らないワケだ」
即時にゲズゥは理解した。
隣のミスリアも、エンとの最初の出会いやユリャン山脈を思い出したのだろう。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
賊であった以上、人を恐喝した事も、拷問にかけた事も、殺した事もあるはずだ。生きる為だったとしても、世間が認める道徳に反しているのは事実である。何より、穢れた手で家族に触れていいものか迷う気持ちは、ゲズゥには自分の事のようによくわかった。自分がソレをするのはどうでもよくても、大事な人に伝染させたくはない。
「知った時にどう反応するのか、それが怖いんだよ。臆病者で情けないだろ?」
紫色の双眸が映し出す哀しみは深い。
その問いに、少女はぶんぶんと頭を振って否定した。
「そんなことありません。過程がどうであれ、貴方は危険を冒して行動に移しました。大切な人と再会できた今では、それを『遅すぎる』と批判できる人はいないはずです。彼女にすべてを打ち明けるのが正しいのかどうかまでは私にはわかりませんけど……」
語尾に向けて声が沈んでいく。
「でも、イトゥ=エンキさんがお姉さんの心の動きを恐れるのは人として当然のことだと思います。情けなくなんてありません」
「はは、ありがと。気休めでも嬉しい」
エンがミスリアの頭を優しく撫でると、ミスリアは益々複雑そうな顔をした。エンはミスリアから手を放した後はまた片手をポケットに突っ込んだ。
「……それはそうと、いい加減、謝りに行くかな」
時計塔の方角を見上げてエンは呟いた。
「多分、夕飯時にでもまた会うだろ。じゃーなー」
既に踵を返し手を振るエンに対してゲズゥは「ああ」と答え、ミスリアは「頑張って下さい!」と答える。
人混みに溶けて消える後ろ姿を見送った後、ゲズゥとミスリアは町の散策を再開した。
目に映る景色や道を記憶の内に刻みながら、二人は歩を進める。
「お昼、どうします?」
先を歩いていたミスリアが、振り返って訊ねた。言われてみれば、いつの間にか胃袋が空洞と化していた。
「食えれば何でもいい」
「ではあちらに見えるカフェで――」
道の向かい側を通る小さな集団を目に入れて、ミスリアは露骨に後退った。そして恐怖に鋭く息を呑んだ。
「え? な、何か問題が?」
向かい側を歩く男がこちらに気付いて、困惑している。だが少女の目が釘付けになっていたのは人間の方ではなかった。
三頭の山羊だ。
黒い毛皮のそれらは縄でできた首輪によって繋がれ、まるで飼い主の男に散歩をさせられているようにも見えた。実際は、男は山羊たちを売る為に移動させているのだろう。
「何でもない」
顔面蒼白で硬直したミスリアに代わってゲズゥが口を開いた。強引にミスリアの腕を引いて歩かせる。面倒臭い状況に発展しないようにさっさとその場を去った。
カフェまでの間、ミスリアは唇を噛み締めたまま何も言わない。何か苦々しい思い出に囚われている――山羊から連想できる、何か。
ユリャン山脈付近の集落。
瞬時に脳裏に浮かんだのは、無残に殺された赤い髪の少女。そう、その晩に襲ってきた異形どもは、身体の一部が山羊と羊の姿に似ていたのだ。
確かにあれは楽な退治ではなかったし、犠牲者も出た。
だが過ぎた事だ。トラウマという形で精神に影響を残していてはいずれ先に進めなくなるのも必至。普通に生活しているならいざ知らず、ミスリアは大きな目的を抱いて旅をしている聖女だ。
こんな調子で本当に聖獣まで辿り着けるのか。
ゲズゥがそれを思い悩むのもおかしいが、多少の疑念が沸いた。
_______
ドタバタと走り回る七、八人の子供の渦中に、探し人は立っていた。ここは教会の二階にある、いわゆる「子供部屋」である。床には木馬や人形などのおもちゃが散りばめられている。
「こら! 土足で部屋上がっちゃだめだっていつも言ってるでしょ! 言うこと聞かないと今日はご飯抜きにするわよ!」
腕に三歳くらいの子を抱くその女性は周囲の子供たちに怒気を放った。
「うっそだあ」
子供たちは聞く耳持たない。
「いいわ。人間は三日くらい食べなくても、平気だものね。悪い子たちには緑期日まで何も食べさせるなって、皆に言っておくから」
「ええー。ヨン姉ひどいっ」
「わかったら靴脱いで! それと、食事の前はちゃんと手を洗うのよ」
はーい、と誰もが合唱する中、一人だけ部屋を飛び出す少年が居た。
「やなこった!」
「あ、待ちなさい――」
そこで更に説教を畳み掛けたかっただろうに、腕の中の子供が泣きだしたため、ヨンフェ=ジーディはあやす方に意識を集中した。
(ふむ。手を貸すか)
さっきから廊下で静観していただけのイトゥ=エンキは、逃げ行く少年の足を引っ掛けた。少年は、どてん、と大きな音を立てて転んだ。我ながら単純な手段だ。
「なにすんだよっ」
転ばされた少年はイトゥ=エンキの足に殴りかかる。
「まーまー。ご飯三日も抜かれんのはマジでやばい。悪い事言わんから従っとけって、な」
イトゥ=エンキは少年を楽々と腕に抱えて、子供部屋に返す。抱えている間も何かと殴られたり蹴られたりしたが、気にならなかった。
下ろされた少年はふてくされながらも、他の子たちに合わせて靴を脱ぐ。皆はその後は部屋の片隅の水瓶に向かっていく。
ヨンフェ=ジーディのブルー・ヘーゼル色の瞳が、静かにイトゥ=エンキを見つめていた。彼女の肩に寄りかかる幼児は、眠そうな顔で親指をくわえている。
「…………えーと、ただいま」
なんとまあ、気まずい。ひとまず何か言おうと思って、無難な言葉を選んだ。今笑っていいものか自信が無いので、自分でもよくわからない顔になっている気がする。
「お帰りなさい」姉は眉根を寄せたが、応じてくれた。「言いたいことはたくさんあるけど。……お昼もう食べた?」
「や、まだ」
「作り置きで良ければ、温めるわ」
「ん。じゃーもらう」
ありがと、と小さく追加しておくと、ヨンフェ=ジーディは何も言わずに微笑んだ。
締め付けられる想いがした。
痛いのは喉なのか胸なのか、とにかく息が詰まった。微笑みを返そうにも顔の筋肉が言うことを聞かない。
一体それをどれ程の間、切望したことか。
彼女の笑顔を最後に見たのが何十年も前だった感覚がある。泣き顔ばかりが浮かんで、笑った顔を忘れてしまうのが怖くて、洞窟の闇の中で幾度と無く思い出した。おかげで思い出は薄れても、消えはしなかった。
もう二度と見られないと思っていた。
それを言うなら、二度と声を聞くことも、手を握ることも、叱られることもできないと思っていた。
今更、生きて再会できたのだという実感が全身を駆け抜けた。同時に、紋様がじわじわと広がっているのがわかる。
――会いたかったよ、ヨン姉。
そう伝えるのは、後の機会に取って置こう。これからゆっくりと、色々な話をしていけばいい。今はまだ話せないことも、いつかは――。
顎を引いて、くくっと喉を鳴らして笑う。
「どうしたの」
心配そうな声がかかる。
「あー、いや」
顔を上げた時にはもう、イトゥ=エンキはいつもの人を食ったような笑みを浮かべていた。紋様の広がりも引いている。
「アイツら、下まで連れてくんだよな。手伝うぜ」
「え? うんそうだけど……いいの?」
首を傾げたヨンフェ=ジーディは、どこか嬉しそうだった。
「もたもたすんなよ、ガキどもー」
ユリャンでもたまに子供の相手をすることはあった。イトゥ=エンキは嬉々として群れに混じった。
「おにいちゃんだれ?」
「さあ、ちゃんと二十まで数えて手を洗ったら教えてやるよ。ほら、せっけん」
「あーい」
少女が石鹸の欠片をイトゥ=エンキから受け取る。
(ま、今はこれでいっか)
まだ考慮しなければならない問題は多くあったが、これからどうすればいいのかの決断は先延ばしにしても大丈夫だろう。急ぐ必要は無かった。
どうせもう、他に行きたい場所も会いたい人も居ないのだから。
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