24.

 赤黒い空を背景に、見覚えの無い古城を見上げていた。むしろ、廃城か荒城と呼んだ方が似合うような歪な形である。

 人の気配はない。烏の鳴き声を除けば完全な静謐が辺りに流れていた。

 城の端にある瓦礫の山にて数羽の烏が戯れ、城の壁は蔦に覆われている。どこからか腐臭が漂っている気がした。烏たちが突付いているのは或いは何かの骸であるのかもしれない。

 瘴気が周囲に充満しているのは明らかだ。ならば、此処は忌み地だろうか。

 低い丘の上で、堀に囲まれた黒ずんだ城。これまでに見てきた絵画や記録を思い返しても、これに該当するものは無かった。

 ――それにしても、おかしい。

 自分はいつの間にこんな、まるで記憶に無いような地を訪れたのか。これより以前に何をしていたのか、どうやっても思い出せなかった。

「もしかして夢?」

 その言葉が舌を転がり落ちた途端、何かが足首を強く圧迫した。

「ひっ」

 ひどく冷たい感触に全身が鳥肌立った。

 鋭く足元を睨むと、そこには頭部の右半分がごっそり欠けた人間らしきモノが這っていた。

 恐怖とおぞましさで声が出なかった。魔物、だろうか。生死をさ迷う人間、だろうか。

 思わず、自由な方の足でソレを蹴った。足首にかかった力が弱まると、そこから逃げ出した。

 しかしあろうことか自分は古城に向かって走り出していた。間違った判断だと頭の中ではわかっているのに、どうしてか体が方向転換できない。

 かろうじて堀の前で停止した。

 すぐに吐き気を催した。

 堀の中は、腐敗した人の屍骸でぎゅうぎゅう詰めになっていた。

(夢なら今すぐ覚めて――!)

 心の中の叫びに応えてのことなのか、世界がフッと消えて別のものに入れ替わった。同時に意識から何かが抜け落ちたような、切り離されたような、妙な手応えを感じた。

 掌に触れる感触はひんやりとしていて柔らかい。視界の半分は緑色に輝いている。この匂い、草だ。

 目に映る空はやはり赤いけれど、つい今まで見上げていた重苦しい色ではなく、茜と薄紫が入り混じった優しげな模様である。これは夕暮れ時の色。

 どうやら夢の中と違って現実では自分は横たわっているらしい。

 ゆっくり身を起こすと、目に見える世界を野原が満たした。

「聖女ミスリア。気が付きましたか」

 離れた場所から、柔らかい声が響いてきた。気遣い、慈しむ声音である。

「あの……此処はどこで、私は……」

 だれ、と問いそうになって、やめた。

(ミスリア……そう、だわ。私はミスリア・ノイラート。教団に属する聖女)

 自分が身にまとっているのは聖女の着る純白の衣装で間違いなかった。

 そこまではわかる。が、そこからが曖昧にしか思い出せない。

 呼びかけてきた声の主は両手を組み合わせた丁寧な立ち振る舞いで、微笑んだ。

 真っ直ぐな黄金色の長髪が風にそよいでいる。男性だとは思うけれど、小柄で華奢な体型だった。ぼんやりとしか姿が確認できないほどに、その人は離れた位置に佇んでいる。

「では、わたくしが誰だかわかりますか?」

 彼はミスリアの問いかけには答えずに別の質問を返した。

「……私にとって身近な方でしょうか」

 失礼な物言いと思いながらも、ミスリアはそのようにしか返せなかった。見知った人間であることは薄っすらと感じられる。

「いいえ。あまりよく知らないかもしれません。困りましたね」

 金髪の男性は隣に立つ別の男性を振り仰いだ。裾の長い黒装束は、司祭の位を持つ者が着る正装に見えた。こちらの司祭の人は金髪の男性以上に、ミスリアには知らない人に思えた。

(ところでどうして彼らはあんなに離れているのかしら)

 助け起こして欲しいとまでは思わなくても、この距離の取り方は不自然に思えた。

 二人の更に後ろに、もう一人男性が立っていた。

 遠目にも長身とわかる、黒髪の青年だ。両腕を組んで静止している。

「ゲズゥ!」

 より自分にとって身近な人間の姿を認めて、ミスリアの脳は冴え渡った。

 思い出した。

(私は巡礼の旅をしている。そして、最初の聖地である岸壁の上の教会を訪れた)

 でも、それならどうしてあんな不吉なイメージを見たのだろう?

 聖地とはいったい何であったのか――

 前触れもなく息が苦しくなった。襟元を片手で押さえ込む。

 ひとつの想いが、目的が、全身を占め付けていく。他のことを考えようとすれば頭が激痛を訴えた。

 ――行かなければ! あの地へ! 直ちに! 行くのだ!

「聖女ミスリア」

 力強い、澄んだ声に、ミスリアはハッとした。

「落ち着いて。まずはこちらにおいでなさい。一緒に順を追って、思い出して行きましょう。あなたが経験した一切を」

「げい……か……」

 尚も混乱する心を落ち着けて、何とか立ち上がった。ゲズゥが、身動き取らずにじっとこちらの動向を見守っている。

 はい、と声を絞り出して、ようやくミスリアは三人に向かって一歩踏み出した。


_______


 朝、とある問いの答えを求めて聖地へ赴いた。

 聖地は最初に夢で視た通りの穏やかな場所だった。真っ白な綿雲に空は覆われ、草花は微風に吹かれて揺れる。野花の周りを蝶や蜂が元気に飛び回っている。

 四百年以上前――かつて聖獣が大陸を浄化する為に飛翔し、途中でこの岸壁を選んで休憩をしたと伝えられているのが、この地である。

 まさに偉大なる聖獣が降り立ち、丸一日の休眠を取ったらしいとされる崖に、ミスリアは向かっていた。

 空気は澄み渡り、聖気の暖かさとは異なる、何かの透明な存在感が周囲に満ちていた。

 ミスリアは五感を研ぎ澄ませて探した。一歩踏み出すごとに、僅かな変化でも感じ取れるように努めた。けれども未だに問いの答えに近づけそうにない。

 昨夜、ミスリアにその問いを課したのは教皇猊下だった――

「聖女ミスリア、我々が何故聖地を巡るのか、わかりますか?」

「聖獣様の安眠の地へ辿り着けるよう、繋ぎ合わせるべき情報を得る為ですよね、猊下」

「ええ。その認識に間違いはありません。教団でもそのように教えているのでしょう。ですが、言い方に多少の語弊があるかもしれませんね」

「語弊ですか?」

「情報がどのような形をしているものと考えますか? 地図の中の隠し文字、秘術によって作り上げられた迷路のような道……そういったカラクリや仕掛けによって偽の情報の中に真実の断片が隠され、ばら撒かれていると学びましたか?」

「はい。教団ではそのように……」

「確かにそれらもまた、実在するものです。ですが、その実、聖人・聖女であればそんな方法に頼る必要はありませんし、わざわざ聖地を訪れる理由にはなりません。『聖地を巡れ』以外の指示は受けていないでしょう?」

 言われてみれば、そうだった。

 聖地のどこに次に向かうべき場所の手がかりがあるのか、まったく聞いていない。教会の人が知っているのか、書物を調べればいいのか、詳しい指示は受けていない。

 そもそも旅に出る聖人・聖女が皆誰しも他の誰かと道のりが重ならないと言われているのが妙である。

 真実の情報を探す使命が共通し、それを見つける方法――対象に祈りを捧げ、水晶で照らす――までもが同じなら、少なくとも何人かは似た軌跡を辿るはずだ。

 ミスリアはこれまでに教えられた以上の真実に思いを馳せたことは無かった。

 ただ漠然と、偶然の働きで誰も同じ行路を辿ることが無いのだと思っていたし、よくわからない点は実際に聖地を巡礼してみれば明らかになるだろうと想像していた。

 なら聖地で得る情報とは本当は何か、と訊ね返すと、猊下はやはりこう答えた。

「まずは行ってみることです。こればかりは、誰かに伝え聞いただけでは理解が及ばないでしょうから」

 ――したがって、ミスリアは一人で崖上の草原に立つことになった。

 背後、かなり離れた位置にゲズゥがどこかの樹に寄り添って様子を見ている。

 彼はナキロスの神父と教皇猊下に絶対に聖地に踏み入れないよう言い聞かせられていた。理由は、魂の穢れた者が聖地に与えるであろう影響を怖れてのこと。聖女であるミスリアとて、入念に身を清めた。

 そして何が起きてもミスリアが自力で戻ってくるまで決して手を出してはいけない、と猊下はきつく言った。

(何も起こらないまま岩壁の先端まで来てしまったわ)

 足元に注意を払いつつ、ミスリアは崖下の川を見下ろした。なんて澄んだ水だろうと思う。

 瞬間、全身に何か強烈なエネルギーが流れ、髪の一本一本までもが浮上した――ように感じられた。次いで心の内にとてつもない重圧を感じた。

 今までの人生経験の中で、この重圧に一番近かったのは魔物と魂を繋いだ時だ。最近だと、ゲズゥの故郷で彼の母だった魔物の記憶を覗いたのがいい例である。

(でも……もう一つの、感覚は――聖気……!?)

 普段、自分が展開している聖気や他者から受けたことのある聖気とは比べ物にならないほどの強い力と流れである。

 ふいに映像が脳内に浮かんだ。

(谷? 城……塔? 山、と泉……)

 同時にいくつものぼやけた映像が重なったため自信は無い。どの場所も、これといった特徴を読み取れなかったので認識できなかった。

 そうしてその後に、廃城のイメージを視たのだった――。

 ミスリアがひととおり話し終えると、一同は教会の一室に移動していた。小さな会議室である。

「私が視たのは黒ずんだ崩れた廃城でした。堀があって、死体の積み重なった……。でもそんな場所は、現在保護されている二十九の聖地にありませんよね」

 一連の出来事を思い出しながら、次の聖地の手がかりをビジョンとして視ることが情報を得る方法では、とこっそり仮定を立てていた。だが、あのイメージの性質を思えば、これは見当外れだったのではないかとミスリアには思えてきた。

「ありますよ」

「え?」

 あまりにあっさりと否定されたので、思わず頓狂な声が出た。

「貴女が視たのは、今とは時を同じくしない聖地の姿です。ディーナジャーヤ国のクシェイヌ城ですね」

 教皇猊下はへにゃりと笑った。

 ディーナジャーヤと言えばアルシュント大陸で最も広大な領土を誇る、大帝国である。過去数度にわたる大規模な戦によって土地を勝ち取り、更に三つの属国を従えている。

 当然、それだけ広いのだから聖地の幾つかもディーナジャーヤ帝国内にある。

「でもあの城はもっと――」

 資料に目を通しただけで詳しく覚えているわけではない。ただ古城なのは確かでも、もっと手入れの行き届いた建物だった気がする。第一印象が涼やかとすら言えるような。

「貴女がご存じなくても無理のないこと。数百年前、聖獣が飛び立つ直前まではクシェイヌ城は忌み地でした。人間同士の激しい闘争の歴史を背負った場所でしてね、聖獣によって浄化された後に聖地に変わったのですよ」

「では私が視たのが忌み地だった頃の姿ですか?」

「と、私は考えます」

 教皇猊下は会議室のテーブルにそっと両の腕を乗せ、手を組み合わせた。

「同調、できたのですね。よかった。おめでとうございます、聖女ミスリア。貴女はもう得るべきものを得たのです。次に何をすべきかおわかりでしょう」

 満足げな表情を向けられて、ミスリアは頷きを返した。

(まだ不安も謎も残っているけど……)

 とにかく今は、あの場所に行かなければならないという抗し難い想いがある。

 おかげで他のことを長く考えていられない。次の聖地に辿り着くまでずっとこれが続くのだろうか、とミスリアは一抹の不安を覚えた。

「大丈夫ですよ。次の聖地に行けば、もっと色々なことがわかるでしょう。聖人聖女たちの道のりが重ならない理由も含めて」

 ミスリアの不安を汲み取ったのか、猊下はとても優しく笑いかけてくれた。

「最初に訪れた巡礼地でそれだけ明瞭なイメージを感じ取れた貴女なら、何も問題はありません」

「はい、猊下」

 励ましに、ミスリアはしっかりと返事をした。

 余計な考えを巡らせるよりただ進めばいい。自身にそう言い聞かせて不安を封じる。

「あの、ところで今は夕方ですよね。私はどれくらいの時間、意識を失っていたんですか?」

 おずおずとミスリアは訊ねた。

「それは私よりもスディル氏がご存知でしょう。私たちは朝から時々様子を見に来ただけですが、彼はずっと野原に残りましたからね」

 隣の神父と顔を見合わせた後、猊下がその柔らかい微笑みをミスリアの背後に立つゲズゥへ移す。

 数秒後に返答があった。

「三十分くらい崖っぷちで突っ立ってた」

「そんなに……。それからは?」

 続きを語るように促した。

 ゲズゥは思い出すように視線を天井へ走らせ、次に眉根を寄せた。

「よろめいて、膝をついて……しばらくして倒れた。二時間経ったら起き上がって、草の中をのたうち回って、這いずって、また意識を失った。それからは起きるまで動かなかった」

「そ、そうですか」

「全く覚えてないのか」

 いいえ、とミスリアは頭を振った。

 絶句するしかなかった。崖に立った以降の記憶が無い。そんなに動き回ったなど――確かに純白の聖女の衣装にあちこち緑色の跡があったのはおかしいと思っていたけれど、思い出せないものは思い出せない。

「スディル氏、あれほど手を出してはいけないと申しましたのを、ちゃんと守って下さったんですね」

 猊下が嬉しそうにゲズゥに笑みを向けた。

「……」

 それに対してゲズゥは反応を示さない。

(きっと猊下に言われたから動かなかったんじゃなくて、自分なりの理由があったのね)

 ミスリアはそのように想像した。

 穢れた魂の人間が聖地に踏み入ってはいけない、なんてルールは彼にとっては大した抑制にならないだろう。それよりも踏み入れば自分までどうなるのか予測ができないのだから、迂闊に動けなかったのではないか。

「さて、私はそろそろ失礼します。聖女ミスリア、貴女はまだこの町に滞在されますよね?」

 ナキロスの教会に勤める司祭が席を立ち上がった。

「はい神父さま、少なくともあと数日は」

 鍛冶屋からゲズゥの修理された剣などを受け取らねばならないのだから、この町には用事が残っている。

「ではまた後ほどお話しましょう。別件について、貴女の意見をお聞きしたい」

 そう言って教皇猊下も席を立つ。

「私でよければお話をうかがいます」

 立ち上がり、ミスリアは敬礼した。

「ええ。今晩はゆっくりお休みなさい」

「ありがとうございます」

 ミスリアが深く頭を下げる。どんな挨拶でも猊下が話すと音楽的に聴こえる、となんとなく思った。

 そうして二人は会議室を辞した。彼らは他に仕事が残っているのだろうか。今夜は晩御飯の席で顔を合わせることが無いだろうと予感がした。

 戸が閉まり、ミスリアは小さくため息をついた。半日過ぎた実感が無かった。自分では何もしていないと思っているのに、身体がまるで長時間運動をしたみたいにとんでもなくだるい。

(最近こういう流れが多いわ。これって、体力つけるべき?)

 どこか的外れなことを思いながらも、ミスリアは伸びをした。

 振り返ればゲズゥはいつも通りに腕を組んで、静かな目をしていた。凪いだ湖面と似た落ち着きを感じさせる。

 ふと目が合うと、意外なことに、彼の唇が動いた。

「お前は、よく崖から落ちなかったな」

 低い声がそう指摘した。

「そうですね……。聖地が総てこのような危険を伴う場所でないと願っています」

 ミスリアは苦笑を返した。

 崖から落下していれば大怪我は免れず、もしかしたら河に落ちて溺れていたかもしれない。今更遅れてやってきた寒気に、身体が震えた。

 何より、あの誰かに強制的に意識を占有されていたような感覚。自ら歌って魂を繋げた場合とは違う、実体の無い重圧。

 それは同時に聖気の清らかさと暖かさを伴っていた。近い経験を探すなら、聖女としての修行の最終段階が似ているけれど――。

 ――違う。あの時にも感じた圧倒的な存在感、それを今回はもっと身近に感じた。しかし決して喜ばしいと思えるような近さではなかった。

「……こわい……」

 気が付けば呟いていた。

 目を伏せて椅子の上で身を丸めた。何故だかわからない、ただ、先に進むのが怖い。

 覚悟は決めていたはずなのに。わけもわからず揺らぐ心を、無視できなかった。

「私は弱いですね」

「知ってる」

 か細い独り言に、変わらず落ち着いた声が相槌を打った。ミスリアが何に対して恐れを抱いているのか、彼は見通しているのだろうか。

「……軽蔑しますか?」

 組んだ腕の中に顔を埋めた。

「別に。それほど迷惑はしてない」

 無感動な声だった。気遣いなどではなく、本当に、ありのままの事実を話しているのだろう。それほどって言うからには、多少はしているはず。

「怖いならやめるか」

「いいえ! 私の気持ちは関係ありません、必ず目的を果たします」

 ミスリアは素早く頭を上げて振り返り、対するゲズゥは、左右非対称の両目を一度瞬かせた。

「お前の目的は蝋燭の壁と関係があるのか」

「!」

 彼が指す物に瞬時に思い当たって、怯んだ。

 揺らめく炎の列が脳裏をよぎる。

 よく考えたら隠す理由は無いはずである。数瞬の間、ミスリアは言葉を探した。

「そう、ですね。あの蝋燭立ての列は、旅の途中で消息を絶った聖人聖女を弔うものです」

 ゲズゥはただ目を細めた。

 一度深呼吸してから、ミスリアは続けた。

「彼らの為に私は旅に出ました」

 静かな会議室に、自分の強張った声がやたら響いたように感じられた。


_______


 聖堂に並んだ蝋燭の列の、蝋燭立てに彫られている文字は、消えた人間の名前を表している。

 隙を見て司祭に訊いたらそう説明を受けた。

 ゲズゥ・スディルは木の枝に膝からぶら下がり、腹筋を鍛えつつ考え事をした。

 真夏に相応しく気温の高い午後だったが、木陰に守られているためいくらか涼しい。湿気が多く、運動による汗が乾かずに滴った。全身がべたついて気持ち悪いが、南東生まれのゲズゥにとっては慣れればすぐに忘れられる程度の問題だった。

 腹筋に力を込めて上半身を折り曲げる。その間の筋肉の引き締まりが、苦しい。同時に、踏ん張る一瞬には頭の中が驚くほど空っぽになった。体を折り下げては繰り返す。

 数十の繰り返しを経てから、力を抜いて再びぶら下がった。着る者と一緒になって逆さになっているシャツを使い、顔の汗を拭う。

『私はっ……! 世界を救いたくて旅に出たんじゃありません!』

 以前聞いた叫びが、ここぞとばかりに記憶に浮かび出た。

 ――世界の為でないのなら、何の為に。

 消息を絶った聖人聖女、「彼ら」と言ってもミスリアが泣き崩れたのはたった一つの蝋燭立てに目が留まった時だ。ならばその人間が特別であると断じていいのだろう。

 件の蝋燭の位置は覚えていた。それについても司祭に訊いたら、そこに彫られた名が「聖女カタリア・ノイラート」であると判明した。

 そうと聞いて、多少の仮定を立てることができた。

「もし……」

 苗字は当然のこと、カタリアとミスリアでは名も似ているし、親類と考えて間違いないだろう。

「もし、そこの方。えーと……」

 まさか消息を絶った人間を探そうと――

「あの! お願いがございます!」

 さっきから呼び声が自分に向けられているのだと、ゲズゥはようやく気付いた。何度か瞬き、逆さの映像を分析する。

 全身を質素な衣で包んだ若い女が視界の中心に居た。作業用の被り物なのか、頭にはバンダナを巻いている。

「あの、お邪魔してすみません。手伝っていただけませんでしょうか」

 言いにくそうに女はもじもじした。

「…………」

 ゲズゥはとりあえず両腕を伸ばした。逆立ちになるよう樹の上から降り、次いで足を落としてしゃがむ形に着地した。

 ズボンを軽くはたいてからスッと背を伸ばした。直立してしまえば身長差はより際立ったものになり、女はあんぐりと口を開けたままゲズゥを見上げた。

 何か頼みたいことがあるのなら早く言え、とゲズゥは視線で威圧する。女はみるみる青ざめていったが、両手を握り合わせ、ごくりと喉を鳴らしては発話した。

「そ、その、男性の方が今誰も居なくて。窓の外側を拭きたいのですが、二階の窓は私たちだけでは届きにくいのです。貴方は十分に背も高いですし、もしお時間があればお願いします……」

 言い終わると女は恥ずかしそうに視線を地に落とした。

 ゲズゥは首を鳴らしつつ考慮した。窓拭きぐらいなら、メリットさえあれば手を貸してやらないこともない。

「……勿論、ただでとは言いません! お礼に焼きたてのケーキやクッキーをいくらでも」

 こちらが何か条件を言い出すより先に女が提案した。

「肉がいい」

 と、答えた。ゲズゥは味の濃い食べ物が苦手である。とりわけ、女が作る焼き菓子は甘すぎると決まっている。腹にたまりもしないくせに胸やけばかりする。

「わかりました。市場もまだ開いてますし、お好きな肉を買ってきます」

「じゃあ、鳩」

 この町で奴らが飛び回ってるのを見てる内に食べたくなってきた、というのは短絡かもしれないが、事実だった。

「はい! ありがとうございます!」

 女は快諾した。

 かくして、ゲズゥは長い梯子に上り、教会の窓を酢と古紙で磨くことになった。

 わざわざこちらの望む物を買って礼をするほどである。それに見合う労働をさせられるだろうと頭の片隅では予想していたが、まさしくその通りだった。変な形の窓や体勢的に届きにくい位置にある小さい窓、終いにはあの聖堂に面している大きな染めガラスの窓が、ゲズゥに苦戦を強いた。

 そして気が付けば夢中になっていた。ゲズゥは自分を結構大雑把だと評しているが、なかなかどうして、この類の作業だけは何故か本気で取り組まなければ気が済まない。

 剣の手入れも一度たりとも手を抜いたことは無い。毎度、刃が眩い煌めきを放つまで徹底的に磨いてしまう。

 もう陽も傾きかけているのに、ゲズゥは構わずに目の前の細かい汚れとばかり戦った。ガラスに顔を寄せ、酢の入った瓶を左手に、丸めた古紙を右手に握って。背後ではカラスがのんびり鳴いている。

「なあ、そんなに睨んだらせっかく磨いた窓に穴が開くんじゃねーの」

 聴き慣れたハスキーボイスが頭にかかった。

 チラリと視線を上へやると、にやにや笑うエンがいつの間にか屋根に立っていた。無造作な黒髪が微風に撫でられ揺れている。

「うーわ。酢くさっ」

「……お前もやるか」

「やらねーよ。それよりもうすぐ終わるん?」

 エンは時計塔の天辺を飾る教団の象徴に肘を乗せ、狭い面積の屋根の上でバランスを取っているらしい。片腕だけを十字架から離し、肩にかけたずだ袋から小さいボトルを取り出した。仄めかすようにボトルを振っている。

「コイツで最後だ」

「じゃあ待ってるから終わったら付き合え。この町で作ってるシェリー酒だってさ」

 そう答えてエンは時計塔から広い屋根の上へ移ってごろんと横になった。

 シェリーといえば果物の甘味が難点だが、強い酒で、しかも安くは無い。興味は惹かれる。

 すっかり興味の対象が窓から酒へと移ったことで、後は適当に拭いて終わらせた。

「こんなもんどこで手に入れたって訊きたそうだな」

 屋根に上ると、エンは上体を起こして言った。

「それより使える金があったのか」

 その隣に、ゲズゥはどかっと胡坐をかいた。

「んー? 日払いの工事の仕事とかで稼いだ」

「…………仕事?」

「後は町の端の麦畑が人手不足って言うから、行ってみたぜ。単調な作業ばっかだけどそれがまた面白いな。子供の頃は身体が弱かったから望んでもそういうの手伝えなかったし」

 心底楽しそうな笑顔を浮かべ、エンがボトルを差し出してきた。言われてみれば、前より少し肌が日に焼けている気がする。屋外で仕事していたからだろう。

 ゲズゥはボトルを受け取り、一口シェリーを喉に流し込んだ。次いでボトルの中を覗き込んだ。ドライタイプで、色は濃く、予想していたほど甘くない。嬉しい誤算である。

「実は夜も食物庫の門番の仕事引き受けてんだ。身元とか関係なく雇ってくれるのが助かるよ」

 エンは屈託のない笑顔を満面に広げている。

 働きづめな生活をこれほど喜べる人間を、ゲズゥは他に知らない。

 この男は余程賊の生き方が性に合っていなかったように思う。ぶっ倒れるまで働き、物を生産して恍惚になる種の人間の話しぶりである。というよりも、これまで働く機会が無かったからこその反応か。洞窟の中では時折退屈そうな目をしていた理由が、今ならわかる気がした。

「にしたって、いい町だよなー。安全だし」

「確かに、そうだな」

 後半に対してゲズゥは賛同した。町の良し悪しなどわからないが、治安が良いのは間違いない。強力な結界で魔物は中に入れないし、人々からは犯罪の気配が薄い。それはもう稀に感じる薄さだ。妙な町である。

「あ、あれって確か」エンは唐突に道を歩く人を凝視し出した。「おーい、鍛冶屋の弟子の兄ちゃん。ラノグ、だっけかー?」

 呼ばれた人物は頭を振り仰ぎ、意外そうな顔をしてから、笑って手を振り返した。

 エンが更に「あがってけよー」と呼びかける。

 するとラノグと呼ばれた男は微妙な顔で梯子を見つめた。

「イトゥ=エンキさん。屋根の上に……ですか?」

「だいじょーぶだって。こんな立派な屋根、大の男三人ぐらい支えられる」

「落ちたりしないんですか」

「この傾斜じゃ平気平気」

「はあ……」

 まだ訝しげな表情を浮かべるも、ラノグは最終的に梯子を上がり、この突発的な集まりに参加した。

 町の全景が、雲間から漏れる暮日の輝きを帯び始める。

 三人はしばらくこれといって会話を交わさず、無言でシェリーを飲み回した。地上では人々があちこちで店を畳む準備をしている。

 やがてエンが上半身を捻って隣に座す男を向いた。

「ラノグさんよ、あの十字架の意味わかる?」

 訊きながら時計塔の上を指差している。

「あれは厳密には十字ではありませんよ。意味は確か……縦棒の上の部分が神々へと続く道で、下部分が大地またはアルシュント大陸を指し、それと交差する左右のゆるやかな渦巻きは翼を意味します。つまり――翼を持った聖獣が、我々地に生きる者を天へ昇れるように導く、と」

「へえー」

「教団に興味があるんですか?」

 意外そうにラノグが訊ねる。

「さあ。罪を償えば聖獣が救ってくれるとかそういう話を教皇さんがしてたのは面白かったけどな」

 エンは空を向き直り、組んだ腕を枕にして再び寝転がった。

「……貴方には何か償わなければならない罪が?」

 ラノグはひっそりと声を静めた。まるで訊くのが憚れるように。

「まあ割とヤバいのの一つや二つな。償えるかわからんけど、気にはなる」

 しかしエンは両目を閉じ、普段通りの声色で答えた。

「そうですか……」

 ラノグの表情には同情が浮かんでいた。それでいて共感しているようにも見える。一方、『天下の大罪人』とも呼ばれるゲズゥは依然として他人事と割り切って会話を静観している。

「実は僕も償っているんです」

 数十秒後、一大告白をするように、ラノグは顔を上げた。

「そいつぁ驚きだな。どんな? そういえば行き倒れてたんだっけ。どっかから逃げてたとか?」

 エンは右目だけを開いて訊いた。発した言葉の調子は軽かったが、どこか優しい響きを含んでいる。

「傭兵砦からですよ。僕の父も祖父も曽祖父も、鍛冶師でした。人を害する為の武器や兵器を作って生計を立てていたんです。僕もまた、それを生涯の役割として受け入れていました」

 一度、ふうと息をついてから語り続ける。

「自分が何をしていたのか何の疑問も抱かずに生きていたら、ある時戦火が僕らの砦までに忍び寄ってきて。最初は、自分の作った物が役に立っていることにただ喜びを覚えていたんですが」

 顔が暗くなりつつあるラノグを気遣ってか、エンが口を出した。

「別に最後まで言わなくても大体予想はつくぜ」

「……いいえ。言わせて下さい。師匠にしか話したことが無かったんです」

「相手が数日前に会ったばっかのオレらでいーのかよ」

 紫色の瞳がほとんど空になった酒瓶を一瞥した。奴の舌がよく回るのが酒のせいかと疑っているのだろう。

「構いません。いつか、町の皆にも明かしたいのでその練習みたいなものです」

「ならいいけど。で、何があったんだ?」

 エンが促すと、ラノグは深いため息をひとつついた。

 ――激化する戦い、それ自体は傭兵砦にとって大して珍しいことでも無かった。砦の仲間は投石器を放ち、迫りくる敵を一掃した。

 だが戦闘も片が付いた頃、そこらに倒れていた敵兵がまだ十五歳程度の子供ばかりだったのだと気付いた――。

「何故それまで実感が無かったのでしょうね。僕は人がより効率良く人を殺せるような道具ばかり生産していたのに……。仲間だけじゃない。殺された人たちは、どこの誰であるのかこちらが知らなくても、皆、誰かにとっては大事な人だったはず。そんなことをして、お金を貰っていた僕は……」

「傭兵だったってんなら、戦を仕掛ける判断をしたワケじゃないんだろ。そればっかりはアンタの落ち度じゃねーよ。人が戦わなければいいだけだからな。どっかの性根の腐った奴が子供を兵士に使ったのだって」

「それでも、人を殺す道具を作ることが怖くなって、逃げ出しました」

「うーん、じゃあある意味悪いコトしたな」

 エンはちらりとゲズゥの方を見た。

 人を害する武器を、直して欲しいなどと言って鍛冶屋を訪ねたのが、嫌な過去を思い出させたかもしれないということだろうか。

「今は違います。確かに身を守る武器を作ってもいますが、大体の仕事は鍋や包丁や鍬など、人が『生きる』為に必要としている物の製作です。僕は、師匠と一緒にそれができるのがとても嬉しいんです」

 その笑顔が総てを語っていた。

「そーか。いい話だな。毎日の積み重ねは大事だ」

 そしてエンもまた笑顔で町を見下ろしていた。

「ありがとうございます」

 照れ臭そうにラノグが頬をかく。

 それまでゲズゥは変わらず傍観を貫いたが、心の中では何かよくわからない感情が蠢いていた。

 ――生き方、償い、更生。積み重ねる日常。自分も変わりたいと願うのか? それとももう、変わり始めているのか。

 刹那、今も聖堂の中で信徒に愛想を振りまく少女の姿が思い浮かぶ。

 行き場の無い感情の渦を抱えたまま、ゲズゥはすぐ近くで響き始めた時計塔の音色に身を委ねた。


_______


 こぽぽ、と小気味のいい音を立てて琥珀色の液体がカップを満たす。ミスリアにとっては珍しい陶磁器のティーセットだ。鮮やかな青い模様に塗られたポットから目が離れない。おそらくはディーナジャーヤ国産のものだ。

「どうぞ」

 教皇猊下はポットを優雅な仕草でテーブルに下ろし、お茶を勧めた。

 礼を言ってからミスリアは取っ手の無いカップをそっと手に取った。

 お茶なら私が淹れるのに、と抗議したものの猊下はやんわり断ったのだった。ティーセットや茶葉を集めるのが好きで、自ら淹れて人に味わわせるのが楽しみだから、と。

(ってことはこのセットも私物として持参したのかしら……)

 移動中にそれらを運んだのは護衛の人たちかもしれない。或いは、この町に来て買ったという可能性もある。そういう世間話も訊きたいと思う反面、ミスリアは今日呼ばれた用事が何であるのか知りたくて、先に猊下が話を切り出すのを待っている。

 二人は街中のカフェテラスの三階にて、曇り空の下で軽食を採っていた。サンドイッチやサラダなどの簡単な料理を運んできて以来、店員は話の邪魔をしないように配慮してるのか姿を消している。

 テラスの端でゲズゥは手摺に身を預けるように佇み、猊下の護衛二人はどこか目に見えない場所に控えている。町人の話し声や馬蹄の音は聞こえても、それは空間を形作る一部に思えた。

 会議室で話した時は神父さまも居たのに、今度は教団で最も位の高いお方とこうして向き合って二人だけで会話しているのだと突然に自覚して、ミスリアは胃が緊張に強張るのを感じた。

 和らげなければ。まずはカップを口元に運んだ。

「……おいしいです」

 一口飲んで、ミスリアは驚きに目を見開いた。

 微かに甘い香りは馴染みの無いハーブか花のもの、それがミントとよく合っていて互いの味の深みを引き出している。

「それは良かった。恥ずかしながら自作のブレンドでしてね。リコリスの根を使いました」

 静かに椅子に腰を掛け、猊下もお茶を一口飲んではカップを下ろした。

「さて、私はこの後発つ予定です。聖女ミスリア、貴女も近いうちに出発されるでしょう?」

「はい。午後は鍛冶屋に寄って、夜は支度を整えて、明日の朝には発ちます」

「クシェイヌ城への道のりは確かめましたか」

 猊下の問いにミスリアは首を縦に振った。

「そうですか。楽しみですね、貴女のこれからの旅路が」

「恐れ入ります」

 二人はまたお茶をそっと啜った。

 次に彼の碧眼と目が合った時には、猊下は何かを懐から出していた。ロウの印が既に開かれた書状である。

「手紙、ですか?」

「ええ。もう長いこと会っていない、隠居して久しい者からです――」

 教皇猊下が懐かしそうに口にした名は、何年も前に体力の衰えを理由に役職を引退した、元・枢機卿猊下のものだった。しかし何故その話をミスリアにしているのか、理由は全く見えない。

「聖人カイルサィート・デューセは貴女と同期でしたね。それに少しの間、旅を共にしていたとか」

「確かにその通りです」

 いきなり挙がったカイルの名に、ミスリアは戸惑いを隠せずにいた。

「どうやら彼は、貴女がたと別れた後にこの者を訪ねたそうです」

「そうだったんですか」

 初耳である。あれからは連絡取れるような状況ではなかったので仕方の無いことだけれど。

「魔物対策を改めて欲しいという、実に興味深い手紙です。正直のところ教団にそれだけの余裕があるかは断言できませんけれど……」

 猊下の話によるとどうやらその元・枢機卿の方は魔物対策についてカイルと似たような主張をし続けていたとか。しかし聖獣の復活を第一の優先すべき事項と考える猊下は、今は大幅な改革などしていられないと何度も答えたらしい。

 もう一度その案を振ってきたのは、カイルと話し合って何か新しい発見があったからだろうか。訊いていいのか、ミスリアにはわからなかった。

「余談ではありますが、この大陸に魔物狩り師を養成する機関が存在しないのは、何故だと思います?」

「魔物狩り師の? それは……試みた国くらい居そうなものですが……何故かなんて」

 少し考えを巡らせてみても、答えは思いつかなかった。

「誰もそんなコストをかけたくないからですよ。育てたところですぐに命を落とす人材などに、持続可能性はありません。わざわざそんな計画に投資するような物好きな国は居ないのでしょう」

「それは、そうですね」

 ミスリアは頷いた。魔物を積極的に探し出して狩るのが仕事であるだけに、彼らの魔物との遭遇率は一般人の比ではないし、それゆえに死亡率がとび抜けて高い。いかに訓練を受けていても、確率の問題である。特に単独で活動する者は危険だ。

「かといって全大陸の結界の強化や聖人聖女の派遣も教団には負担が重く……まだ、魔物に対抗する策は完全とは程遠いですね。しかしその完全を追い求める人間が居ることはとても喜ばしいと思います」

「では猊下は聖人デューセらの提案を受け入れると……?」

「いいえ、現段階ではできません。改案の実現性がより確固たるものとして提示されれば、また話は違ってくるでしょう。けれども私は彼らと色々とこれから話し合いを重ね、進むべき道を一緒に探していこうと思います」

 穏やかに微笑む猊下を、ミスリアはただ感心の瞳で見つめることしかできなかった。猊下だけではない。カイルやその元枢機卿の方も――誰かが聖獣を復活させた後の世界をどう収束させるのか、そこまで先を見据えている。

「して聖女ミスリア、貴女はこの点について、どう思われます?」

 猊下は手紙をテーブルに置き、ある一行に細く白い指をのせた。

 ざっと目を走らせて要点を拾うと、それはかつてカイルが話してくれた「魔物に怯えずに済む世界」に至る為の第三の条件と同じ内容だった。

「……魔物が生じる原理を、一般知識として広めるべきか、ですか」

 誰にも会話が聴こえないはずなのに、思わず声をひそめた。

「ええ」

 青い双眸は、探るように静かである。

「わかりません。聖人デューセがはっきりと答えを出せない難題に、私の考えが及ぶとは思えません。ただ、現状を変えようとすれば起こりうるであろう、混乱のいくつかは想像できます」

「そうですね。私にも混乱が視えます。ですがそれを乗り越えることが叶えば得られるものもあるでしょう。気長に、考え続けるとします。貴女も道中、何かわかったらお伝え下さいね」

 勿論です、とミスリアは深く点頭した。

 ふふ、と猊下は笑い、その後はサンドイッチの具が美味しい、とか、秋の訪れまであと何週間だろうか、とか他愛もない話を静かに交わした。

 お茶も飲み終わった頃に猊下はミスリアに立ち上がって頭を下げるように言った。

 しゅ、と袖の布が擦れる音がした後シーダーの香りが鼻腔をつく。次の瞬間、微かな温もりが額に触れた。

「どうかあなたがたに聖獣と神々の加護がありますよう。これからも長らく健やかに過ごせますように」

 古き言語での短い祈祷の後、温もりの波が額を通して心臓へ、腕や足へ、指先まで通った。

「ありがたき幸せにございます」

 ミスリアは何度か瞬いて顔を上げた。一瞬何かの秘術をかけられたのかと思ったけれど、普通の聖気だった。

 そして猊下の中指の指輪に口づけを落とし、別れの挨拶を交わした。

 それからしばらく後、ミスリアとゲズゥは鍛冶屋への道のりを歩み出す。なんとなく、道端の黒い石ころを数えながらミスリアは歩いた。

「明日には皆さんとお別れですか。寂しくなりますね。イトゥ=エンキさんなんて、ユリャン山脈から行動を共にしてきたのに」

 戦力としても心強かったけれど、何より彼のひょうきんさはどこか話しているこちらの気持ちを軽くさせる効果があった。ここでお別れかと思うと――別にゲズゥ一人との旅が心細いのではなくて、純粋に寂しい。

「気にするな。あの男ならあっさり別れるだろう」

 ゲズゥは断言する口調で返事をした。

「え、そ、そうですか?」

 しんみりしてくれると期待したわけではなかったが、寂しいのがこっちだけだと思うと切ないものがある。

 それも次の朝、結局はゲズゥの言った通りになった。

 ナキロスの神父やヨンフェ=ジーディ、ラノグらとの別れが済んだ後。

 イトゥ=エンキがミスリアにかけた言葉は「おう、じゃーな嬢ちゃん。色々ありがとな。あんま無理しないで、ちゃんと飯食って寝てすくすく育てよ~」だけだった。

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