36.

 くすんだ青緑色の水面が遠い――。

 手摺りに身を乗り出すミスリアは無意識に唾を飲み込んだ。船首によって分かたれる川水は肌に触れたらさぞや冷たいのだろう。落ちたりしたら、数分としないうちに死に至るはずだ。

「面白い物でも浮かんでたー?」

 背後から呑気な声がした。

 ミスリアは手摺りにかけた両手に力を入れてシャキッと姿勢を正し、声の主の方を振り向いた。多くの人間が忙しなく動き回っている甲板の上で、輝かしい銀髪の美青年はかなり目立っている。

「いいえ、何も。高い……と思ってただけです。私、こんな大きな船に乗るの初めてです」

「まあ君は列島出身らしいから平気だと思うけど、念の為、船酔いに気を付けてね」

「今の所は大丈夫そうです」

「それはよかったー」

 笑いかけてきた青年は、全身をオレンジ色のブランケットに包んでいて随分と暖かそうである。

 ――突如、冷風が甲板を吹き抜けた。上着を羽織っていながらもミスリアは肩をすくめて震えた。

「寒いなら要る?」

「え、でもそうすると貴方が寒いのでは――」

 言い終わるより早くリーデン・ユラスはブランケットを脱いでミスリアの肩にかけていた。ウール生地に染み込んだ温もりが大変ありがたい。それに、ほんのりと爽やかな残り香が心地良かった。

「心配しなくてもまだあるよ」

 その言葉通り、リーデンは荷物の中からブランケットの束を取り出していた。今度は深紅色のブランケットを自らの肩にかけている。

 それが済むと少し離れた位置に佇んでいる長身の青年に声をかけた。

「兄さんは体温高いから要らないよね」

「…………」

 黒髪黒瞳の青年は目を細めた。袖も裾も長い漆黒のコートに身を包んでいる。肌色まで濃いため、下手すると夜には姿が背景に溶け込んでしまうかもしれない。

「うそうそ。たくさんあるから二枚でも三枚でもどーぞー」

 弟が兄に向けて濃い青のブランケットを投げた。兄は組んでいた腕を解き、片手で受け取った。

「持って来たんですか? 準備が良いですね」

 ミスリアは感心交じりに問うた。自分とゲズゥとイマリナを含めた四人の中で荷物が一番多かったとはいえ、これだけの大きさの毛布を何枚も持ってきていたようには見えなかった。

「ううん、港に居たお姉さん方がくれたよ」

「親切な方々にお会いしたのですね」

「んー、親切か。ちょっとお喋りして、別れ際に『私だと思って大切にしてください』ってノリで渡されたけど」

「は、はあ」

 面食らって、返事につまずいた。

「いやー、つくづく便利な顔だよねぇ。両親には毎日感謝してるよ」

 暗に顔が効して女性たちから貢物を巻き上げられたのだと彼は言うのだが、あまりに自然な笑みからは嫌味っぽさを感じない。

(自覚してる上に有利に働かせてる……いっそ清々しいわ)

 ミスリアはつられて笑顔を返す。

「ご両親と言えば、ゲズゥとは腹違いなんですよね。どういう事情か、教えてくれませんか? 興味あります」

 アルシュント大陸では貴族以下の民が複数の伴侶を持つ事例は極めて珍しい。珍しくはあるけれど、法やご教示で禁止されている訳ではない。一対の男女が添い遂げることの美学は確立されていても、それ以外の形も一応容認されている。

 ほとんどの場合は当人たちが嫉妬――から発生する暴力――などを原因に家庭を崩壊させるので、結果的に一夫一妻制が主流になっているだけだ。

「詳しい話は僕よりも兄さんがよく知ってると思うよ」

「なるほど」

 そこで二人の視線は同じ一箇所に集中した。

 落ち着いた眼差しが見つめ返す。

 現在、ゲズゥ・スディルの両目は揃って黒だ。リーデンの提案と手回しによって、ガラス玉を薄く伸ばして色を付けた、「カラーコンタクト」と呼ばれる代物を取り付けているからである。それによって彼らの血筋を表す「呪いの眼」が見事に隠されている。

「前にも言ったかな。実はある手段を通して僕は子供の頃の記憶を鮮明に呼び起こせたんだ。催眠術って知ってる?」

 ふとリーデンが補足するように語り出した。

「はい。使われるのを見たことはありませんけど」

 どういうものなのかは聞き知っているので、ミスリアは首肯した。

「催眠状態は、何らかの理由で思い出せなくなってる記憶を辿るのに役立つよ。だけど最初から記憶に無い事柄はどんな術をもってしても思い出せない。僕にとって家族は『母親』『父親』の他にも『兄』と『兄の母親』が居て、気が付けばそれが当たり前だったから、それ以上の情報は得られない」

 そう言って彼はゲズゥを一瞥した。

「てなわけで兄さん、バトンタッチ」

「ああ」

 とゲズゥは答え、ブランケットを持ったまま船内に降りた。ミスリアたちも後に続く。

 乗客よりも貨物を運ぶことを目的とした船なので、客室の数は少なく、部屋そのものも狭かった。風や水飛沫が当たらない分だけ甲板に立つよりは暖かい。

 四人が寝る部屋の中ではイマリナが荷物を整理していた。ミスリアたちに気付くと彼女は燭台をもう一つ灯してリーデンに渡した。

 長方形の居室のそれぞれ長い方の壁に二段ベッドが釘で打ちつけられている。ベッドと言っても台は藁の上にシーツを敷いただけの質素なものだ。大人が一人なんとか寝れる広さで、寝返りを打つ幅は無いかもしれない。

 ミスリアとリーデンは各々ベッドの下段に腰をかけ、間の狭い通路に木箱クレートを並べて座るゲズゥを左右から眺める形に落ち着いた。

 ゲズゥは膝の上にブランケットを広げた。そこに肘を乗せて前かがみになり、開口一番にこう言った。

「俺は逆子の難産だった」

「あー、うーん? そうだったんだ」

 リーデンは考えるように緑色の両目をさ迷わせた。

(突拍子の無い一言に聴こえて、実は質問の答えになってるかも)

 納得しかけるも、ミスリアは大人しく続きを待った。

「母は或いは二度と子供が産めないかもしれないと産婆に言われ……それだと族長――父に後継者が一人だけなのは甘受できないと、自ら二人目の妻を娶るよう提案したらしい」

「へえ、あの人らしいね。さっすが」

「そんな事情があったんですね」

 彼女が目星をつけた相手が、リーデンの母だったと言う。

 リーデンの母親はやや病弱な上に引っ込み思案で、自分にあまり自信が無い人だったらしい。妻や母としてうまくやっていけるはずが無いと思い込んでいたため、誰に求愛されても受け入れないまま歳を重ねていた。

 そんな彼女は仲の良いしっかり者の友人に「一緒に一つの家庭を支えて行きましょう」と強く薦められ、二人一緒なら自分でも大丈夫かな、とやがて折れた。

(リーデンさんは、外見はともかく性格はお母さまに似なかったのね)

 くすりと漏れる笑いを飲み込んだ。

(それにしても、そういう事情だったの)

 一人の夫と二人の妻は互いを愛し敬い、三人の子宝に恵まれた。

 いずれ崩壊する運命だったとしても、きっと幸せな家庭だったのだろうと想像する――

「そういえば」

 あることに思い至ってミスリアは銀髪の青年を真っ直ぐ見つめた。

「ん? なぁに聖女さん」

「ゲズゥはまだ話していないようですけど……」

 話の流れのついでにミスリアは村の跡地での出来事を話した。ゲズゥの母が魔物に成れ果てた姿と消滅した際の優しく穏やかな気配を思い起こしながら。

 静聴しつつリーデンは唇を引き結んで表情を翳らせ、聞き終えると小さくため息をついた。

「そんなコトになってたなんて知らなかったな。とりあえずありがとうと言っておくよ」

「いいえ。他にどうすることもできませんでしたから」

 ミスリアは頭を振った。

「実際に死んだ人が魔物になるもんなんだねぇ」

「驚かれないんですか」

 思えば仇討ち少年の騒ぎの時も彼は何も反応していなかったかもしれない。

「そういう疑惑があるってことくらい小耳に挟んでるよ。でもだからって僕には関係ないし」

「関係……ないとは言えませんけど」

 罪や穢れを背負った人間も魔物に転じやすいのだから、リーデンも無縁ではないはずだ。それを伝えるべきか迷う。

「もう一つ訊いてもいいですか」

「どうぞ?」

 美青年は僅かに首を傾げて微笑んだ。

「例の……『五人目の仇』を討つのは、お二人は諦めるつもり……なんですよね」

 兄弟を順に見やって訊ねた。二人はすぐに表情を強張らせた。

 燭台の炎が一瞬、揺らいだ気がした。なんとなくミスリアは足を組み替える。

 十秒ほどの沈黙を経て弟が答えた。

「ん。自分の手で始末するのは諦めるよ」

「ではもう殺しの類からは手を引いていただけます――」

「殺しはしないけど妥協案なら動かしたから」

 ミスリアの言葉は遮られた。

 妥協案って具体的に何を、と訊ね返そうとしてもできなかった。絶世の美青年の微笑の向こう側に、不気味な迫力を感じ取ったからだ。おそるおそるゲズゥの方に目を向けても、彼は瞼を下ろして口を挟まない。リーデンの「妥協案」を了承しているという意味合いだろうか。

 結局これも知らない方が幸せなのだろう、内心そう自分に言い聞かせた。この日を最後に、ミスリアは二度とこの件を話題に上らせることはしなくなった。


_______


 齢六十はゆうに超えているであろう尼僧の陽気な声を、ゲズゥ・スディル・クレインカティは話半分に聴き流していた。

 どうやらクシェイヌ城は聖地として教団からの支援を受けている身ながら、観光客を招くことで多少の維持費を自力で稼いでも居るらしい。入場料はティーナジャーヤ帝国で最も小さい硬貨を三枚、と安価である。

「右手に見えます別棟へ続く連絡通路は、かつてこのクシェイヌ城をめぐって争った武将たちの最期の決闘が繰り広げられた場と言い伝えられております。軍隊を壊滅に追いやられ、城内に逃げ込み、ついに闘いに敗れた武将は十五ヤード以上のこの高さから転落し丘陵を転げ落ちたと――……」

 古城の歴史の中に役立つ情報があるとは考えられない。熱心に聞き入る聖女ミスリアを尻目に、ゲズゥは三十人の観光客の群れの中に警戒を巡らせた。

 城の屋上庭園は見晴らしが良く、不審な動きをする人間はすぐに識別できる。

 ゲズゥは目を瞬かせた。最初は違和感に耐えられなくて左目を頻繁に擦っていたが、コンタクトとやらに段々慣れてきたのか今は落ち着いている。

 改めて見回せば庭園は濃い緑が大部分を占めていた。季節の移ろいに合わせて葉をつけては落とす種と共に、冬になっても枯れない常緑植物が植えられているからだ。

「……――以上でわたくしからの案内は終了でございます。次のグループが来るまでの間、今から三十分は自由に庭園を回っていただいて結構です。見終わったら逆側の階段を下りて一階に戻って下さいまし。何か質問がありましたらいつでもどうぞ」

 尼僧が愛想よく告げると、一同が軽く拍手をした。

 観光客は早速四方に散る。屋上から望める丘陵を静かに眺めたり、スケッチブックを取り出してベンチに腰掛けたり、尼僧に質問を持ちかけたり、詩集にペンを走らせたり、庭園の植物を触ったり――楽しみ方はさまざまである。

 そんな中、ミスリアは縁に立ち止まったまま庭園の中心を見ているだけだった。なので護衛についてきたゲズゥとリーデンも動かない。

「聖女さんは見て回らないの? さっき聞いた話が真実なら聖獣はこの庭園に降り立って城を浄化したんでしょ」

 リーデンが何気なく訊ねた。

「はい、でもナキロスでの経験を思うと……聖地に踏み込んでいきなり倒れたりしても困るので、後で誰も居ない時間にこっそり入れてもらえるよう掛け合ってみます」

 そう答えたミスリアの大きな茶色の瞳に、奇妙な煌きが宿った。そういえば城の前に着いた時も何故か恍惚とした表情を見せていた。これは気にかけるべき点なのだろうか、とゲズゥは一考した。

 ――ねーねーねー。ちょっといい?

 唐突に脳内にリーデンの声が響いたので思考を中断する。言われなくてもゲズゥには何の用件かわかっていた。全く動かずに返信する。

 ――……別棟の屋根に一人。はっきりとした敵意を発してる。群れの中にも一人……

 ――うん、変な気配が混じってるね。こっちは敵意っていうか好奇心っぽいけど。狙いは果たして君かな、僕かな、はたまた聖女さんだったりして――

「わっ!?」

 誰かの喚き声に続き、観光客の中からどよめきが上がった。何事かと騒ぎの方を向くと、同時に中年女の小さなグループが囁き合うのが聴こえる。「大の男が何も無いところで転ぶなんて……」「情けないですわね」などと、嘲るような言葉だ。

 当然、誰もが避けるその一点へと少女が駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 ミスリアは白い手袋に覆われた手で、地面に突っ伏した男の肩に触れる。その時点でもう周囲の他の人間の関心は遠ざかって行った。

「ずびばぜんー」

 返ってきたのは鼻声だ。男は身を起こし、立ち上がる。中肉中背で灰色のニット帽と長いマントを身に着けた三十歳未満の男だった。木炭と同じ色の巻き毛がニット帽からはみ出ている。他には若干の猫背と広い顎が印象的だ。

「どうぞ使って下さい」

 男が顎まで垂らしている鼻水を気にしてのことか、ミスリアはコートのポケットからハンカチを取り出して渡した。鼻水男は素直にそれを受け取った。

 マントの下から伸ばされた腕に、籠手ガントレットが嵌められているのが見えた。主に民間人が訪れる場所に武装して来るようでは、人畜無害に日々の生活を送っていないのだと予想できる。

 ただ者ではないと考えるのが妥当だろう。おそらくこれが、群れの中に感じた「変な気配」の正体だ。ゲズゥは無言で弟とアイコンタクトを取った。

 リーデンも同じ結論に至ったのだと目を見て理解した。

「重ねてずみまぜん。自分、寒がりなもんで」

 鼻をかむ合間にも男は喋り続けた。「このハンカチ、すっごく柔らかくて花みたいな素敵な香りがします~」

「そうでしょうか」苦笑交じりにミスリアは手を振った。「あの、失礼ながらそんなに目深に帽子を被っているから前が見えないのでは」

「被ってなくてもあんまり見えないんですよ~」

 ミスリアの指摘に応じて、男はニット帽を右手の親指に引っ掛けて引っ張り上げた。

 現れた双眸の内、右目は病で潰れたかのように濁った色をしていた。

「右目は子供の頃の病でこの通りです。左は一応使えるんですが極度の近眼でしてね~、伸ばした腕の先からはぼんやりとしか視認できないんですよぉ」

「そ、それでは一人で歩き回るのは危なそうですね」

 明らかに困惑したミスリアが気遣わしげに言う。嫌なことを訊いたのかと気にしていたようだが、杞憂に終わりそうだった。

「はい~。連れがなんかいきなりどっか行っちゃいましてねぇ。戻ってくるまでは一人でうろうろしてようかと思って~」

 対する男は能天気に笑う。どこか緊張感に欠ける態度が、かえってこちらの警戒心を煽る。ゲズゥは二人にそっと歩み寄った。

「実はこんなんでも得意の編み物で生計を立ててたんですよ~。親戚の雑貨屋に置いてもらったりして。編み物は手元が見えてればいいからむしろ近視で好都合なんです~」

 男は一時も口を閉じずに勝手に身の上話を始める。

「凄いですね。その帽子もご自分で?」

 とミスリアが愛想よく問えば、男はにこやかに頷く。やっと鼻水が尽きたのか、ハンカチを絞って丁寧に折り畳んでいる。

「あ、これ洗って返しますね~」

「よければ差し上げます」

「なんと! お嬢さんはお優しいですね~、まるで慈愛の女神イェルマ=ユリィみたいです」

 ミスリアの返事に男が表情を明るくした。大げさですよ、と当人は否定する。

「親切にしていただいて図々しいですが、もう一つお願いしても良いですか~?」

「何でしょう」

「別棟に行ってみたいんでご一緒してもらえませんか? あそこに吹く風は格別に気持ち良くて香りも良いって噂なんですよ~」

 別棟という単語にゲズゥの中の警告が反応した。男とはぐれた連れ、敵意を表している気配、それらを結び付けるのは自然といえよう。

 ――めっちゃ罠のニオイがするねぇ。

 頭の中に届いたリーデンの意見に同意せざるをえない。男の態度や話がまるごと演技で、目標を罠に追い込むのに一役買っているのかもしれない。

 ――敢えて飛び込むのも一手だ。手っ取り早く敵の正体を知りたい。

 ゲズゥはそのように答えた。罠に飛び込まない限りはずっと見えない相手を気にしていなければならないからだ。向こうが出て来ないのならこちらから行くしかない。

「別棟は一般人は立ち入り禁止だったはずでは」

「そんなに厳しくないと思いますよぉ。ご案内の人、今取り込み中みたいだし」男は右の指で耳をトントンと叩いた。確かに庭園の奥の方で、尼僧が騒がしい家族連れに囲まれて質問攻めにあっている。「誰かに見つかったら自分が猛烈に謝っときますから~」

 そこでミスリアが訊ねるような視線を向けてきた。ゲズゥは黙ったまま点頭しておいた。

「わかりました、行きましょう」

「ありがとうございます! 自分、フォルトへって言います。手繋いでも良いですか~?」

「どうぞ。私はミスリアと申します」

 フォルトへと名乗った男が求めるままに、ミスリアは右手の指を奴の左手に絡めた。二人は緩やかな足取りで連絡通路の方へ向かう。

 もしもフォルトへがゲズゥやリーデンの存在に気付いているとしたら、そんな素振りを見せていない。

 レンガを打つ足音をなるべく消しつつ、二人の後についた。

 何かが引っかかる。

 今しがた目に入っている、フォルトへの左手の甲に描かれた刺青だろうか。どうにもゲズゥには薄っすらと見覚えがあるような気がしていた。

 両刃斧――通称ラブリュス――にし掛かる目。何かの集団の徽章だったのか、或いは先程奴が口にした女神みたいな旧き神への信仰心を表す象徴だったか――。

 思い出せない。しかし意味するところは何であれ、己にとって不吉であろうことをゲズゥは潜在的に感じ取っていた。刺青のデザインの威圧感にただ当てられているだけかもしれないが。

「いやぁ、ホントありがとうございます。出会ったばかりの人に迷惑かけたくないもんですけど~、貴重な休暇中にこんなとこまで来たんで、立ち入り禁止でも諦めがつかなくて~」

「休暇……ですか?」

「はい! 去年辺りに転職したんですよぉ。縁あって助けた人に『お前素質ありそうだな』って勧誘されまして~」

 先頭を歩くミスリアたちが連絡通路を渡り切るまで残り十歩ほどだった。そんな時、ゲズゥは別棟の屋根に人影が上るのを見た。顔はフードに隠れており、全体の輪郭からして女のように思えた。距離はまだ四十ヤード以上離れている。

 飛び道具によっては十分に攻撃を仕掛けられる距離だ。ゲズゥは大剣などの装備が音を立てるのも気にせずに歩を速め、先を行く二人との幅を一気に縮めた。

 一方、ミスリアは隣の男との会話に気を取られていて状況の変動に気付いていない。

「素質、ですか」

「素質です。でも何のことか未だにわからないんですよね~。実は適当に言ってたんじゃないかって思いますよ。あ、でも仕事は結構肌に合ってます」

「何のお仕事ですか?」

「どう説明するのが良いでしょうか……勧誘してくれた上司を見てくれた方が早いかもです~」

 はにかみながらフォルトへが別棟の屋根を指差した。全員の視線が指された先に流れる。

 フードの女の手が動く――

 反射的にゲズゥは跳んでいた。空中で一回転し、ミスリアを庇うようにして彼女の前に降り立った。

 女がクロスボゥから発した矢が、ビュッと風を鳴らしてゲズゥの革靴をかする。最初から誰かに当てる気は無かったのだろう、照準は低い位置に定まっていた。

「君の上司はバイオレンスがお好きなのかな? その刺青どっかで見たことあると思ったら、もしかしてアレじゃないの、某対犯罪組織」

 普段と変わらない調子でリーデンが楽しそうに訊く。ゲズゥは振り向かずに話だけに耳を傾けた。

「知ってるんですか、うれしいなぁ」

「うん、だからサッサとその子の手を放してくんない? どうせ君らは罪人以外は傷つけられないでしょ」

「そうなんですよ~。間違ってかすり傷一つでもつけたら、もう始末書地獄でして。ここで彼女を人質にしてあなた方を従わせても良いんですけど、人目につきますし、なーんかそれも始末書コースになりそうですね~」

 一瞬、リーデンが左眼をリンクして映像を共有した。ミスリアがフォルトへから離れて連絡通路を後方に下がるのが視え、安堵する。

 次の一瞬には、屋根の上の女が駆け出していた。ゲズゥは大剣を構えた。

 走る勢いで女のフードがめくれて白い顔が露になった。

 まただ。また見覚えがある。この女、何処で会った――?

「国際的対犯罪組織『ジュリノイ』に所属してます、自分はフォルトへ・ブリュガンド……あちらの物騒な感じのお姉さんは先輩で上司のユシュハ・ダーシェンさんです~」

 奴が口上を連ねている間に、ゲズゥは通信を送った。

 ――リーデン、お前は女の方!

 ――わかった!

 この判断は勘からだった。自分が飛び道具を相手にするのが面倒なのもある。弟は特に異論を唱えず、手すりに飛び乗って前に進み出た。

 ゲズゥは前後反転してフォルトへに剣の切っ先を向けた。

「ずびばぜん」

 いつの間にかまた鼻水を垂らしてたのか、奴はのんびりと袖で鼻を拭いていた。

「自分は、正直あなた方に恨みは無いんですよ。でも上司命令ですから、休暇使ってでも『天下の大罪人』追うって頑ななもんで、仕方なく付き合ってるんです~」

 シャリリリ、と高らかな音がした。鉄と銅――剣と鞘が擦れる音だ。フォルトへは腰から三日月刀を抜き放っていた。目測二十インチの片刃の剣、それを胸の前で両手で垂直に構えた。そうしていると手の甲の刺青が正面に立つ者を睨んでいるようである。

「総ての悪事と嘘を見通し、正義を執行する神――ジュリノク=ゾーラ様の御名の下に、ゲズゥ・スディル及びその同行者をまとめて拘束・連行します。なお、既に抵抗の意思が見られるので、直ちに武力行使に移ります~」

 垂れ目気味のどこか締まらない顔で奴は告げ終えた。

 一秒後には互いの剣が衝突し、ゲズゥの顔前で火花の熱が飛び散った。

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