37.

 旧き信仰とは、ラニヴィア・ハイス=マギンが「ヴィールヴ=ハイス教団」を立ち上げ、大陸中に聖獣信仰を浸透させる以前から存在していた宗派を指す。今でも各地にその残滓を残すも、総数は知れていない。

 いわゆる神格階級ヒエラルキーの中では神々が総じて「主」であり聖獣がその「御使い」に該当する。

 神々が既に地上を去ったと認識されている以上、神々そのものではなく御使いの方を崇めるべきだと人々の見方が変わったのだ。旧き神を信仰してもその加護を受けられるのか疑わしい、が現在の教団と大多数の民の考えである。

 だが加護を受けられなくてもいいから旧き神に倣って生きたいと願う者は今も居る。

 特にそれが顕著なのは対犯罪組織「ジュリノイ」だと言えよう。

 彼らの主神たるジュリノク=ゾーラは裁きを象徴し、罪を犯す者には同等以上の罰を与えるべきと説いた――

(――はずよね、確か。座学の内容なんてあまり覚えてないけど)

 聖女ミスリア・ノイラートはまだ急展開に頭がついていけず、思考の脱線は現実逃避でもあった。

 現在地はディーナジャーヤ帝国領土内、ヴィールヴ=ハイス教団が保護する二十九の聖地が一つ、クシェイヌ古城の屋上。

 そこで出会った、目が不自由な男性に頼まれて別棟に向かっていたはずが、彼とその連れは実はミスリアたちを捕らえに来たと言う。そして戦闘が勃発し今に至る。

「一体何事ですの!?」

 連絡通路での騒ぎに気付いた尼僧が早足に近付く。彼女の背後では、観光客たちが恐怖やら興味やら様々な反応を示している。

「説明は後でします! 念の為、皆さんを避難させて下さい!」

 ミスリアは振り向きざまに叫んだ。それから水晶の嵌め込まれたアミュレットを取り出して身分を明かした。

「わ、わかりまし……こ、の場はお任せしてよろしいかしら、聖女さま」

 尼僧は少したじろぎ、どもりながらも承った。

「はい」

 事態がどう収まるのか正直イメージが沸かないけれど、とりあえず是と答えた。そして戦闘の方に注意を戻す。

 ユシュハという女性が濃いパイングリーン色のマントを翻し、腰に提げていた武器を後ろ手に掴み上げているのが見えた。クロスボゥは右の前腕に装着したままだが、折り畳んで仕舞っている。

 彼女の攻撃はリーデンの動きを制限できなかったようだ。銀髪の美青年は矢を巧みに避け、ユシュハに接近していた。いつの間にか柱を駆け登り、屋根に跳び上がっている。

 リーデンは屋根に飛び乗ったのと同時に右手を光らせていた。

 ――ギャン!

 飛んできた円形の刃物を、ユシュハが手元の武器を回して防ぐ。

(何!? あの棒)

 思わず戦慄した。ミスリアには見覚えの無い凶器だ――両手で構えた長い棍棒の先から二本の鎖が伸び、その鎖の先にはそれぞれ黒い球が付いている。スパイクを生やした、恐ろしき鉄の塊だ。

「女の人がフレイル、しかも双頭のモーニングスターを振り回すなんてね! 物騒なお姉さんだよ」

 リーデンが冷めた笑いを響かせる。

 その一言に、ゲズゥが反応した。ちょうど彼がフォルトへの三日月刀を弾き、横に跳んで距離を取った瞬間だった。

「双頭のモーニングスター…………ああ、そうか」

「思い出すの遅いですねぇ。貴方はもうちょっと先輩を恨んでても良いと思いますけど~」

 フォルトへが軽い調子で口を挟む。

(どういう因縁なの……恨みって)

 ミスリアには見守る以外にどうすればいいのかわからなかった。

「俺を二度も牢に放り込んだ奴か」

 とゲズゥが無機質に言うと、屋根の上の女性は肉付きの良い胸を張った。ここからだと表情までは見えない。

「――そうだ。それだけじゃない、貴様のふくらはぎの肉を細かく抉るぐらいはした」

 ユシュハは更に何か言おうと唇を動かした。風になびく真っ直ぐなショートボブの髪が唇の端に引っかかる。

 その髪の一房が、シュッと通り過ぎた鉄の輪に切られ、風に散った。続けざまに押し寄せるチャクラムの弾幕をモーニングスターが弾く。

 弾き切れなかった二個の内一個は彼女の右脇腹を切り、残る一個は肩口に食い込んで停止した。

 しかし刺さった凶器を引き抜く暇も傷口を確かめる暇さえもリーデンは与えない――彼は舞うようにして間合いを詰め、右手から仕込みナイフを出した。

「面白い妄想話をどうもありがとう。お礼に君の綺麗な頬肉を細かく抉ってあげるよ」

「妄想ではない。実際の出来事だ」

 笑顔で毒を吐く美青年に対し、心外そうにユシュハは首を傾げた。

 黒い球のついた鎖が回転する。棒はうなりを上げ、複雑な軌道を描く。

「だとしたら当事者は覚えてそうなもんだけど?」

 二つの鉄球を素早く避けるリーデン。

 段々とペースの上がる二人の応酬に、ミスリアの目はついて行けなくなった。

 今度はより手前のゲズゥとフォルトへの方に視線を移してみた。

 湾曲した大剣と三日月刀が、衝突を繰り返している。

(気のせいかな)

 フォルトへの方が流れを制しているように見える。まるでゲズゥの次の行動、足が踏み込む次なる位置を、先んじて知っているのかと疑ってしまう。二人の距離に隙間が開く度に、電光石火が如く、有利な位置へと移動している。

「先輩は投獄された貴方に何度も会ったって言いましたよ。以前の仕事のパートナーを殺された恨みがあるそうで。ま、状況的には貴方にとっては自己防衛なんでしょうけど~。覚えてませんか?」

「…………記憶に無い。拷問も、そのパートナーとやらも」

 ちょうど三日月刀を受け止めたゲズゥが否定した。そのままフォルトへの手首にとっては辛い角度に三日月刀を曲げさせ、身動き取れなくしている。

 擦れ合う刃が軋みをあげる。

「ええ~? それじゃあイジメ甲斐ないです。なんかここまで手応えがないとなるとやる気失くしますねぇ」

 フォルトへはガクッと肩を落とした。次いで体勢を低く落とし、回転してゲズゥの呪縛を逃れた。

「ターゲットが忘れっぽいのも考えものですね~。もう今日は帰りましょうよぉ、先輩。目立ち過ぎましたし、これ以上騒ぎになったら……」

 ゲズゥの大剣の広い間合いから退いてから、彼は後ろの上司に呼びかけた。

「ダメだ!」厳しい声が返る。「諦めが早すぎる。何でお前はそうだらしないんだ、切り結んだ相手の動きを止めるまでは腕を休めるな!」

「え~。任務じゃないんだからそこまでする必要ないでしょう」

 その反論を聞いた途端、ミスリアはハッとなって会話に参加した。

「どういう意味ですか? フォルトへさん」

「えーと、先刻言った通りです。休暇使ってますんで、この件は上に話通してませんよ~。むしろ、教団と摩擦が生じるからくれぐれも追うなって命令を受けました」

「へえ? 私怨を使命と取り違えてる系かな」

 見上げれば、リーデンが屋根の上で側転していた。攻撃を避ける動作さえも優雅だ。

「取り違えていない。総ての犯罪者を裁くことが我々の存在意義だ。教団に邪魔はさせない」

 獲物を逃した双頭のモーニングスターが瓦を叩いて割った。

「ましてや死刑廃止を説く、当代の腑抜けた教皇なんぞ聞くに堪えん」

「――腑抜け!? 猊下を侮辱しないで下さい!」

 ミスリアは瞬時に憤怒の波が全身を駆け巡るのを感じた。

(あの人の強さを、聡明さを、懐の深さを! 何も知らないくせに!)

 なんて人だ。許せない、許さない。もっと怒鳴ってやらねば――

 だがそんな気持ちは男性の絶叫によってあっさり霧散させられた。

「ちょっと待ってえええ! 先輩、さっきの音ってまさか!? まさかじゃないですけど何か壊してませんよねぇ!?」

「チッ。屋根の瓦が何枚か砕けただけだ」

「な、何してくれてんですかああああ! 聖地ですよ、重要文化財ですよ!? 請求書の山が誰の机に回ると思ってんですか!」

「お前の机だが」

「ああもうこの人は! だから別の場所で待ち伏せしようって言ったのに!」

「取り乱すな、みっともない」

 ユシュハのその一言に、フォルトへからの返事は無い。

 彼はマントを翻して走っていた。あろうことかゲズゥから遠ざかり、屋根に向かっている。

(え? どういう流れ?)

 ミスリアは全員を順に眺めて回ったが、ゲズゥは目を細めるだけで追わない。リーデンは何故か笑っている。

「おいフォルトへ、何の真似だ」

 上司が問い質しても部下は足を速めるだけだった。

「こういう真似ですよ」

 彼はユシュハに向かって直行する。衝突する予感がしたのか、ユシュハは咄嗟に武器を構えている。だが彼女に体当たりする一歩手前で、フォルトへは方向転換した。ユシュハの肩に手を置いたかと思ったらサッと背後に回り、既に収めた三日月刀を鞘ごと振り上げた。

 鞘の装飾が煌めいたかと思ったら、宝石の彩りは宙に弧を描いた。

 短い呻き声を漏らした後、後ろ首を殴られたユシュハが前のめりに倒れる。その身体を、フォルトへは空いた右手で抱き抱えて支えた。そして軽々と肩に担いだ。

 ミスリアはあっという間に過ぎた出来事を、口を開け放したまま見守っていた。

「いっやぁ、すみません。教団相手に面倒事はごめんです。これ以上この人が暴れない内に撤収させていただきますね~」

「君の独断?」

 ニヤニヤ笑ってリーデンが問いかける。

「付き合いは短いんですけど、自分は先輩をよく知ってるつもりです。常に勝手な人なんですけど、ここまでじゃないハズ……表向きは普段通りでも、やっぱり何か違う感じがします。ちょっと冷静になるのを待ってくれません?」

「待ったら何かいいコトあるの?」

「う~ん、今思い浮かびませんので後でまた訊いて下さい。でも、先輩はともかく自分は貴女方を本気で捕えたいとは思ってませんから。付き合わされてるんですよ~」

 フォルトへが頬を緩めて答えた。

「ふーん。聖女さん? 粘る、追う?」

 ミスリアは頭を振る。フォルトへとユシュハの意見が食い違っているのは嘘ではないように思えた。

「私もクシェイヌ城にこれ以上の迷惑をかけるのは本意ではありません。お話でしたらまた後ほどお願いします……剣を収めてから」

「わかった。君がそう言うなら」

 リーデンは屋根から飛び降り、ミスリアの居る場所まで連絡通路を戻り始めた。途中、意見を乞うように、ゲズゥの前で止まって眉を吊り上げた。

「俺はどっちでも構わない」

 何事にも無頓着そうな声が返る。

「やった~。それじゃあ追ってご連絡します~」

 場違いなほど明るい様子でフォルトへが手を振った。それから彼は顎に手を当て、ひとりごちる。

「勤務時間外だから自腹で出せって拒否されるかな……まあいいか」

 彼は口元に手を沿え、屋上庭園の居る尼僧に言った。

「あの、修理代の請求は組織までどうぞ! お手柔らかにお願いします!」

 尼僧は見慣れぬ暴力沙汰に怯えているようだった。女性を強く殴りつけたフォルトへに対し、青褪めた顔で何度も首肯している。

 次にミスリアが屋根を見上げた時、「ジュリノイ」の成員たちの姿は忽然と消えていた。

 ひとまず安堵のため息をつく。

 やがて背後から人の気配が近付いた。

「さて、聖女さま。一から説明して下さいますわね」

「…………はい」

 ミスリアは精一杯の愛想笑いを浮かべて、尼僧の方を向き直った。


_______


 晴夜の満月を仰ぐ少女を包む淡い光が、月から降り注いでいるのか、それとも少女自身から発せられているのか、ゲズゥ・スディル・クレインカティには見分けが付かなかった。

 深夜、無人となった屋上庭園の中心で、小さな聖女がパンジーに囲まれて佇むのを彼はただ見守っている。

 秋から冬にかけて咲く花であるだけに、パンジーたちの生命力と存在感は未だに揺るがない。身長が低く、遠くから見ると常緑種の影に覆われて印象が薄いが、近付いて眺めるとその色鮮やかさがいっそ煩いほどだった。

 明るい黄色と黒、薄紫色と白、桃色、オレンジ色――しかし一際目に付いて回るのは渋い紫色の花と、インディゴ。中心の黄色い一点を囲む濃いインディゴ色の花びらが、透き通る青に縁取られている。

 まるで色合いそのものが神秘を孕んでいるようで、異様に美しい。ゲズゥにはその美しさが普通の生き物の気配とかけ離れているように感じられた。かといって、魔物の類でもない気がする。

 元より建物全体は結界に守られていて、魔物は近寄れない仕掛けとなっているらしい。

 ――リィイイイイン――

 ふいに耳鳴りがした。

 最初は何かの虫だろうかと思って辺りを見渡した。何も見つからないので今度は数歩後ろに立つ弟と顔を見合わせた。リーデンは神妙な顔つきで顎をしゃくり上げる。弾みで、しゃりん、と大きな耳輪が襟巻に引っかかって音を立てた。

 視線の先を辿ると、ちょうどミスリアが右手をゆっくりと天に差し伸べている所だった。その仕草はたとえるなら、初めて経験する雨の粒を掌で堪能する子供と似ていた。

 十秒も経てば耳鳴りは消えた。

 ミスリアは一度 こうべを垂れ、また顔を上げた。横顔は栗色の髪にほとんど隠れている。唯一見える鼻の頭は、ほんのり赤みを帯びていた。

「――――――――――」

 ほっ、と白い息を零した後、少女の唇が耳慣れぬ言葉を綴った。

 共通語ではなかった。或いはコイツならわかるだろうか、と思ってゲズゥはリーデンを一瞥した。

「ザンネンながら僕も知らない言語だったよ」

 リーデンは小声で応じる。

「そうか」

 ならば仕方がない。二人はそれからはしばらく無言でミスリアの行動を見守った。

 当のミスリアは十分ほど微動だにせずに、ただ空を見上げたままその場に立留まっていた。

 ――雪が降り出しても良いような静かな夜だ。

 ゲズゥもなんとなしに空を見上げた。

 去年の今頃は自分は何をしていたのか――思いを馳せるも、不思議とまるで思い出せなかった。やはり聖女ミスリア・ノイラートと出会う以前の人生が、遠い昔に感じられる。靄の中ででも生活していたのだろうか。

 ふわり、緩やかな風が庭園を吹き抜けた。

 鼻の奥をツンとさせる冷風は、微かな花の残り香をも運んでくる。時を同じくして、聖女ミスリアが踵を返す。

「お疲れ様ー」

 リーデンがにこやかに声をかけた。

「はい、お待たせしました」

 ミスリアも微笑みを返す。急に寒さを思い出したのか、上着のフードを被り直している。

 今回は倒れたりしなかったな、とゲズゥは脳内に記録して置いた。

 ゲズゥらのすぐ前まで歩み寄ると、ミスリアは睫毛を伏せた。落ち着かなそうに、手袋を嵌めた両手を擦りあわせている。

 言葉にし難い感情を持て余しているようだったが、それが何なのかまではわからない。

「次に向かうべき場所が……はっきりとはわからなかったんです。映像が多くて、前回のような、これだ! って確信が持てるものがなくて」

「大体の方向は」

 と、ゲズゥが問いかけた。

「多分、帝都に近い気がします……」

「帝都かあ、これまた広い場所を選ぶね」

 リーデンが指で頭をかきつつ感想を述べる。

「わ、私が選んでいるわけではありません。その、城内の方にも問い合わせてみます。聖地に詳しいはずですから」

「気にするな。とりあえず行けばいい」

「ありがとうございます」

 そこで「そろそろ中入ろうか」とリーデンが提案し、一同は螺旋階段を下り始めた。

 二十段も下りた辺りでミスリアが口を開いた。

「私が覚えている限りでは、ディーナジャーヤの帝都周辺に聖地は二箇所あったはずです」

「じゃあ順に調べて行けばいいのかな?」

 蝋燭台を持って先頭を歩くリーデンが、止まってミスリアを振り返った。

「はい。でも、私自身が訪れないといけないので、手分けして調べたりはできません」

「んん、そういえば聞いてなかったけど、君は聖地で実際は何を調べてるの」

 リーデンがまた歩き出した。石の壁に囲まれた狭い階段の間であるため、たとえ顔を背けて喋っていても反響でよく聴こえる。

「それが……」

 自信無さげな声が返る。続くであろう言葉に興味があるので、最後尾のゲズゥは階段を下りる足を速め、ミスリアとの距離をなるべく縮めて耳を澄ませた。

「……実は私にもよくわからなくて」

 ミスリアが歩を止めて呟いた。

 つられて前後の二人も立ち止まる。

「え? そんなんで良いの? 無駄足踏んじゃうんじゃない」

「心当たりぐらいはあるんだろう」

 リーデンとゲズゥがそれぞれ言う。

 壁についていた小さな右手が、ぴくっと震えた。

「呼ばれる、んです」

 静かでありながらも激しさを含んだ囁きだった。

「いいえ。呼ばれるよりも、ひかれる、と言えばいいのでしょうか。声でもなく、言葉での呼びかけでもなく――うまく説明できないんですけど」

 ミスリアは俯いて両手を握り合わせた。

「映像が、視る者を誘導する為に視えるものだとするのなら、聖地に残る過去の情報に触れているだけかもしれない……でもそうじゃなくて、『何か』が私個人に直接的に手がかりを『見せて』いるのだと思います」

 それらの事実が何を意味するのかをゲズゥはしばし考え、思い至ったままに口を挟んだ。

「聖獣か」

 己の放った声が壁に反響するのを聴いた。

 返事が返るまでに間があった。

「安息の地に眠る聖獣が巡礼者と意識を……魂と縁を繋げて呼び寄せようとしている。有力な一説ですね」

 どこか強張った声でミスリアは応じた。

 それはつまり、聖獣は覚醒していない状態にあっても、遠い地に居る他者の意識に入り込む術を持っている、ということになるのだろうか。

「ふーん。なんかわかんないけど大変そうだね」

「そうですね。聖獣を蘇らせるというのはきっと、ただならない偉業なのでしょう」

 ――何故そこまで他人事のように言うのか。

 気になったものの――結局静寂を保ったまま、三人は階段を下りきった。

 下で待っていた尼僧に案内され、一同は書斎に入った。

 多くても定員は十人と言ったところの、こじんまりとした書斎だ。部屋の中心には四角いコーヒーテーブル、それに一脚のソファが添えられている。四方の壁にはびっしりと本が詰められた、天井に届く高さの本棚が並んだ。

 入り口は暖炉から見て右端に位置している。その暖炉の前には椅子がまばらに置かれ、読書や談笑に向く空間となっていた。

 暖炉の前に人影があった。リーデンの従者の女がしゃがんで火加減を確かめていた。普段三つ編みにまとめている紅褐色の髪を珍しく下ろしている。

 部屋に人が増えた気配に感付き、女はパッと振り返って嬉しそうに駆け寄る。

「ただいまー。君は相変わらずよく働くね、感心感心」

 よしよしと従者の頭を撫でるリーデン。

「ええ、とても助かりましたわ。お客様なのに、料理の手伝いから掃除まで。あまりにも手際が良いので甘えてしまいました」

 尼僧も嬉々として褒める。

「あ、マリちゃんてば唇が乾燥してるよ。クリーム持ってる? 僕が塗ってあげよう」

 頷き、女はスカートのポケットから掌に載る大きさの陶製の容器を取り出した。リーデンは容器を受け取って蓋を開いた。人差し指で中をまさぐり、掬い取ったクリームを、従者の女の僅かに開かれた唇にゆっくりと塗ってあげている。

 そのやり取りを眺めるミスリアが気恥ずかしそうに「仲良いんですね」と呟くのが聴こえたが、リーデンの本質を知るゲズゥとしては、そんな甘ったるい関係には見えなかった。アレはきっと「依存」と結び付く、薄暗い利己的な感情に基づいている。

 尼僧の方は笑みという仮面を被っていて心の内を明かさない。

「シスター、よろしいでしょうか。訊ねたいことがあります」

 ミスリアが尼僧に声をかける。

「どうぞ」

 自身も暖炉に近い席を選びつつ、尼僧は皆に椅子に腰を掛けるように促した。黒装束の裾がラグを擦る。

 ゲズゥは座らずにミスリアの席のすぐ背後に立った。リーデンの従者の女も座らずに、また何かの家事に取り組む為に立ち去る。

 間もなくしてミスリアは話し始めた――帝都に向かうこと、近くの聖地について知りたいことを。

「ええそうですわ、聖女ミスリア。東の城壁の塔、そして都のすぐ外にある沼地が、帝都周辺の二つの聖地で間違いありません」

「へえ? 沼地は聖獣が水を飲んだとかそういうのだとして、塔にはどんな逸話があるの?」

 ミスリアの隣で頬杖ついたリーデンが、興味津々に訊く。

「かつて、大勢の魔物が塔を襲いました……結界は破れる、都が占領されると誰もが危惧し、絶体絶命を悟ったその時! 深夜の地平線から眩い光が踊り出て、魔物たちは次々と浄化されたというのです。裸眼では捉えられないほどに光溢れる聖獣の姿をしかと見たと、当時の衛兵が記述を残しています」

 熱く語る尼僧を尻目に、光溢れる空飛ぶサンショウウオの姿だったのだろうか、などとゲズゥは考えた。

「思い出しました、そんなお話でしたね。行ってみるのが楽しみです」

「ええ、ええ。頑張って下さいまし」

 聖女と尼僧の談笑は更に続いた。その間、暖炉の薪が弾く様を眺めることにした。

 このまま何事もなく次の巡礼地に辿り着けたならいいが、果たしてそうすんなりは行くまい。ゲズゥは対犯罪組織の件を脳裏に浮かべた。


_______


 翌朝、尼僧の手回しでロバを一頭もらい、一行は出発した。

 クシェイヌの古城は聖地で観光地である以外には、周りに注意を引く物は何もない。ずっと以前は近くに村や農地があったらしいが、城が機能しなくなってからは放置され、荒廃したという。

 日の出と同時に出たのもあって、すれ違う相手は少ない。

 ゲズゥは今朝の朝飯についてぼんやりと思いを馳せていた。粗びきオオムギだけではすぐに消化し終わって午後までにもたないだろう。来るべき空腹感を先延ばしにするには茶で誤魔化すか、それとも各自持たされている炒ったカボチャの種を少しずつ食べるか。

 後者にしようと決めたのと同時に、土手の一本道が急に下り坂に変わった。道の左右には針葉樹が生い茂る。坂下は死角であり、誰かを待ち伏せて奇襲をかけるには絶好の場所――そう評するのは自分だけでは無いはずだ。

 早速、異変があった。すっかり先頭を歩くことに慣れてしまっている弟が、止まってロバの手綱を従者に引き渡すのが見える。

「一応ここは、おはようとでも言っておこうか?」

 警戒心をうまい具合に表に出さずに、リーデンは右手の針葉樹に向けて言い放った。女たちは静かにロバに身を寄せている。ロバは何が何だかわからずに鳴き声をあげる。

「おはようございます~。今日は青空にほんのちょっとの曇り、いいお天気ですね~」

 草を踏み分ける音がして、針葉樹の間から人影が滑り出た。ニット帽の男が、昨日と全く同じ人となりで姿を現した。

「一日ぶりですね。覚えてますか~? フォルトへ・ブリュガンドです」

「今日はお姉さんは一緒じゃないの?」

「一緒ですよ~。夜更けまで論争して、やっと話し合いで解決しようって結論に納得してくれました。貴方がたさえ良ければ、先輩の所まで連れて行きますケド」

 フォルトへが緩く笑いながら誘う。

「私たちに危害を加えるつもりは無いと言うんですね、フォルトへさん」

「はい! そんなことは決してしません! 組織の応援を呼んだって絶対来ませんから、ご安心下さい~」

「ではそのお言葉、信じさせていただきますね」

 ミスリアがそう判断した以上、全員は異を唱えずについて行った。

 危険を感じなくもないが、心底では嫌な予感はしなかった。理由は多分このフォルトへにあるのだろう。ゲズゥが昨日の短い時間で分析できた限りでは、純粋な戦闘力は何故か上司よりも部下の方が上だったように感じられた。天性の才能か、五感の一つを制限されているゆえの結果かはわからない。

 経験値と戦闘能力のアンバランスに加え、コンビとしても考え方がちぐはぐで、やる気に温度差がある――とすれば、連携が不完全になってしまうのも当然だ。

 いざとなれば打ち負かせる自信があった。

 やがて、木々が開ける場所に出た。消されてしばらく経つであろう焚火の残骸の前で、昨日の女が胡坐をかいていた。背後の樹に双頭のモーニングスターが立てられている。

「来たな」

「はーい、連れて来ましたよ~」

 上司に軽く手を振ってから、フォルトへは振り返った。

「穏便に話し合いが済むように、武器を出して、皆が見える所に置きましょうね~。ほら、この通り」

 焚火の残骸のすぐ隣に、奴は己の三日月刀を捨てた。勿論、鞘に収めたままで。「貴方がたもどうぞ~」と奴はゲズゥたちに笑顔で勧める。

 舌打ちの後、女がモーニングスターを手に取って立ち上がった。

 ――理に適っている。

 同意してゲズゥは背中の大剣と腰の短剣を潔く放った。すると女の鋭い視線が、微かに和らいだ気がした。

 モーニングスターを含めた武器の山が積み上げられていく。全身凶器のリーデンは袖の中のナイフを取り外し、ブーツまでもを脱いだ。

「腰周りもキラキラしてますよ~?」

「目がほとんど見えないらしいのに目ざといんだね」

 指摘されて諦めたのか、リーデンはチャクラムが多数ぶら下がっている帯を外した。腕輪や耳輪も続く。

 ようやく全員が身軽になり、輪になっての立ち話が始まった。

「罪人を連れ歩く、その行為も罪と同等だ。聖女、何故そんな真似をする?」

 女が正面のミスリアを見下ろして本題に入った。

 こうして間近で見ると全体的に幅が広めの、肉付きの良い女なのがよくわかる。顔のつくりも濃い方だ。目や髪や肌の色が暗く、野性的に女らしい、と形容するのが最適かもしれない。身長も女にしては高い。隣のフォルトへより指一本の太さ分には上だ。

 それゆえ、ミスリアとの対比が際立っている。

「彼が私に必要だからです」

 服装からして村娘にしか見えない小柄な少女が、物怖じしない様子で応じた。

「生きる価値の無い、どん底のクズでもか」

 女の冷徹な返しにミスリアは唇を噛む。

「価値ね。君に何がわかるっての」

 怒りを隠しきれていない声でリーデンが口を挟んだ。銀髪が逆立ちそうな勢いだ。

「そういう貴様こそ、何だ? 報告には二人で逃亡したとしか書かれていなかったが……何故彼奴らと行動を共にしている?」

「…………」

 答える必要は無いと思ったのか、リーデンはそのまま無口無表情になった。

 話題の中心であるはずのゲズゥはただ一連の会話を無感動に傍観する。

「罪人であっても罪を償うことはできます!」

 少女は声を荒げて反論した。

「いいや、無駄だ。一度道を踏み外した人間は二度と元には戻れない。他人が何をしても、本人がどれだけ努力してもだ。私の父だって――……その話は今は関係ないが」

 女の瞳がゲズゥへと焦点を移した。

「それにしても! 本当に憶えてないのか。貴様が殺した、私の以前のパートナーは私の師でもあった。任務には常に師匠と二人で当たった。私を憶えていて、師匠を忘れたのはどういう了見だ……!?」

 ゲズゥは二度瞬いた。それは自分でも気になり、考えあぐねていた問題だ。憎悪をほとばしらせる女の顔から目を逸らし、武器の山を瞥見した。昨日は女の武器を見た時に思い出したはずだ。

 刹那、左の上腕が痺れるような感覚を訴えた。

 唐突にわかってしまう。

「……憶えていたのはお前自身じゃなく、鉄球だ。不意打ちで砕かれた骨の痛みを、俺は記憶していた」

 ゲズゥは、拷問されたエピソードとやらを本当に全く思い出せない。それが女の妄言だったとすれば謎は解ける。

 が、あのスパイクの生えた鉄球は違う。攻撃を喰らったのは一度きりだったが、それだけで醜い傷跡が残った。肉は裂かれ、骨は砕かれた。利き手でなかったのが良かったが、完治までに幾月もかかったのをよく憶えている。

 あの怪我を引きずった状態で脱獄にも臨んだのだった。自由の身になり、腕を動かせるようになっても、激痛はなかなか引かなかった――。

「ならばその痛み、もう一度味わえ!」

 女がモーニングスターの棒部分めがけて前に出た。伸ばされた腕がフォルトへに掴まれるのを認め、ゲズゥは特に動こうともしなかったが――

 視界の下の方に、ぼやけが生じた。ちょうど胸の前に栗色が散る。

「やめて下さい! 彼に手出しはさせません!」

 少女の澄んだ怒鳴り声で、ぼやけの実体が明らかになる。

 息が詰まるほどの激情が、一瞬でゲズゥの内側を焼いた。

 正体はわからなかった。苛立ちか、焦りか、それとも別の感情か。

 頭の中が真っ白になり――

 手足が勝手に動き出していた。

 少女の華奢な肩を後ろからしかと抱き寄せた。ぎょっとした顔が振り返る。

「お前は、いちいち、俺の前に、飛び出すな」

 一句一言が伝わるように区切って発音し、更には間違いなく鼓膜に響くよう、屈んで耳打ちした。

「ひっ!? ご、ごめんなさいっ」

 脳を揺さぶられる程度には伝わっただろうか。ミスリアが腕の中で大きく震えて身じろぎしたので、ゲズゥは満足した。

「危なっかしい」

 そう言ってゲズゥはミスリアを己の後ろに強引に押しやった。そうだ、何度目かはわからない。この聖女は何かと危険の方へ飛び出す節がある。

 よく思い出してみればいずれも自分を護る為だったのではないか。そう気付くと、益々腹立たしさが胃の奥底から湧き上がる。

「うん、護衛対象が護衛役を庇ってたらいけないよね。僕らには君の怪我を治す力も無いんだし」

 随分と楽しそうにリーデンが賛同した。もう一度、ごめんなさい、と謝るとミスリアは暑さにやられた花のように萎れた。それを観察する内に腹立たしさも治まった。

 前方では、組織の成員二人が揉めている。

「せーんーぱーいー! ダメですって! 一晩中二人で語り明かして決めた結論を無視しないで下さいよぉ」

「語り明かしてなどいない。お前の我儘に私が合わせているだけだ」

「そういうことでいいですよ、はいはい。も~、だから、事態をややこしくしないでくださいってば」

 はああああ、とフォルトへがやたら長いため息をついた。そして女から手を放し、懐を探ってハンカチを取り出した。「作戦通りに行きましょうよ、ね」

「もしかして」

 ゲズゥの背からひょっこり顔を出したミスリアが、ハンカチを指差す。

「お嬢さんにいただいた素敵な一枚ですよ~。速攻で洗って焚火の傍で乾かしましたからね!」

「は、はあ……」

 誇らしげなフォルトへに、苦笑するミスリア。

「――ともかく」

 女が大声で遮った。ゲズゥを睨んで、宣言する。

「ジュリノイの組織力を甘く見るなよ。我々の同志は大陸中に散らばっている。その気になれば村や町の協力を仰ぎ、隙の無い包囲網だって組める。貴様に逃げ場など無い」

「本部は許可しませんけどね~?」

「フォルトへ、お前は余計なことを言うな! まあ、何度でもしつこく申請すればなんとか許可を下りさせることだってできるはずだ。それくらい、私はやってみせる」――女は部下を疲れた顔で見やり――「だがこのバカがうるさくてかなわん。特別……特別にだ。一つ条件を飲みさえすれば、貴様らの旅が終わるまでは、追わないでいてやる」

 ――何を言い出すかと思えば。

 一体どんな条件を出すつもりなのか。ゲズゥは目を眇めた。

「我々は血を証とした誓約を求める。指でもなんでも切って、聖女の私物だったこのハンカチに染み込ませろ」

「肝心な誓約の内容は何ですか?」

 ミスリアが用心深い目で問う。女は腕を組んで眉を吊り上げた。

「二度と人を殺さないことだ。それ一つが守れるなら、私はひとまず貴様らを裁くのを諦める。ただし旅が終わった後は別の話だ」

「血の証、ねえ……」

 リーデンがつまらなそうに呟いた。

「血を流したくらいで貴様が誓約を守る保障にはならないかもしれない。我々を相手に誓いを立てる行為が貴様にとって無意味かもしれない。それでも誓いを守れたなら、少なくとも貴様が最底辺のクズでも多少の更生の余地がありそうだと認めてやる」

 女の偉そうな口調を、ゲズゥは何の感慨も受けずに聞き流した。この女に認められたくらいで何も変わらない。

 守る理由の無いくだらない誓約を、立ててどうなるわけでもない。

 しかし葛藤を映し出すミスリアの茶色の双眸と目が合って、気が変わった。

 これ以上罪を重ねたら貴方は魔物になってしまう、と嘆いてくれたこの少女。

 今自分が罪を犯せば、ミスリアとの連帯責任にされかねない。しかも組織に照準を定められたら旅どころではない。奴らの本領発揮がどういうものなのか、ゲズゥは過去の経験からよく理解していた。

「いいだろう」

 その上で、条件を飲む真の理由は――

「そんな顔するな」

「…………あ……でも、無理に、痛い思いをしなくても……」

 歯切れの悪い返事が返る。

「これこそが、お前が望んでいた『約束』だ」

「……っ」

 両手を握り合わせ、ミスリアは目に見えて怯んだ。

「リーデン」

 少女の向こうに佇む男を呼ぶ。手を出し、「首のソレを渡せ」と視線で訴えた。リーデンはすぐには応じなかった。

 意図が伝わらないはずがない。ゲズゥは指を動かして、催促した。

 弟は不快そうに表情を歪める。が、最終的には折れ、ネックレスの先端の黒曜石を外して投げてきた。

 受け取った瞬間、ゲズゥは顔に出さずに驚愕した。

 見覚えのある黒曜石のナイフだったからだ。大昔にリーデンにあげた物と良く似ているような気がする。それがどれくらい昔だったのかまでは思い出せないが、まさか同じ物だったりするだろうか。

 掌の上でナイフを何度も翻しながら、そんな雑念を捨てる。

 次に、どこを切ればいいのか検討する。やはりこの場合は命を懸けるつもりだと意思表示したい。

 それを踏まえて、ゲズゥは黒曜石の鋭い刃を顎下に当てた。首の右側、顎のラインに添うように斜めに押し当てる。

「なっ――」

 誰の声だったかはわからない。誰かが文句を垂らす前に手を引いていた。

 荒削りの刃が、閃光みたいな痛みをもたらす。

 ミスリアは口を覆って悲鳴を抑え込み、リーデンは生まれつき整った顔を思いっきりしかめている。その後ろのリーデンの従者の女も声を出さずに、泣きそうな顔をしている。

 いつの間に表情を硬くした組織成員二人を交互に見やって、ゲズゥは適当な誓いの言葉を連ねた。

「我、ゲズゥ・スディルはこの身に流れる先祖の血に誓う」

 首筋を押さえる右手の指の上を、生暖かい血液が通り過ぎている。痛みを頭の奥に押しやって更に続けた。

「聖女ミスリア・ノイラートがこの世に生きる限り――断じてヒトの命を奪ったりしない、と」

 言い終わる直前にフォルトへがハンカチを差し出してきた。

 ゲズゥは黒曜石のナイフを傾け、先端から滴る赤い液を何滴か桃色の柔らかい布に落とした。隅の刺繍にも赤い染みが触れる。かくして、決して美しいとは言えない血模様が出来上がった。

「ご苦労さまです。以上で休戦協定代わりとさせていただきます~。ご迷惑おかけしました!」

 礼までして、丁寧にフォルトへが挨拶した。

「お前が罪人に頭を下げるな!」女は部下を一度殴り、そしてこちらを見据える。「条件を飲んだのは正直意外だったが……私は約束は守る。これで当分顔を合わせる機会は無いだろう。せいぜい、役目を全うするんだな」

 嘲笑交じりに言い捨てて、女は武器の山からクロスボゥとモーニングスターを回収した。フォルトへもそれに倣う。二人は元々少ない荷物を手早くまとめて、旅立つ支度を終えた。

「聖女ミスリア、絶対聖獣を蘇らせて下さいね~。自分は応援しますんで! 今後のご活躍を耳にするのを楽しみにしてます!」

 去り際にフォルトへが大きく手を振った。

「ありがとう……ございます」

 ミスリアは小さく頭を下げた。

 奴らの草を踏む音が遠ざかった後、ミスリアが必死の形相で振り返った。

 傷を治したいのだろう。そう予想して、ゲズゥはとりあえずその場に座り込んだ。聖気の温もりが首筋を撫でるのを感じ、目を閉じる。時折肌をくすぐる感触は、或いは少女の指先なのかもしれないが、なんであれ心地良かった。

「こんなことして、バッカじゃないの」

 弟の呆れた声が頭上から降ってきた。

「大袈裟だ。浅い」

 ゲズゥは右目だけ開いて答えた。

「浅い深いの問題じゃないよ」

 言葉とは裏腹に、心配の混じった表情だった。

「返す」

 ゲズゥは黒曜石のナイフを差し出した。弟は驚いた顔の後、どこか照れ臭そうにはにかみ、ナイフを受け取らんと手を伸ばした。掌を掠めた象牙色の指は、やはり温かい。

 そして今度は、治癒を終えても俯いたまま顔を上げない少女に意識を向けた。

 頭を撫でたら機嫌が直るだろうかと、そう思って実行したのは気まぐれだった。

「泣くな」

「…………はい。ありがとうございます」

 ミスリアは涙を手でゴシゴシと拭いて顔を上げた。

 嬉しさと安堵で一杯の、不思議と眩しい微笑みだった。

 ――また、礼を言われた。

 自傷して言葉を連ねたところで何かが変わるわけでもない、そう思っていたが、それでも今確かに、ゲズゥ・スディル・クレインカティは自分の中の何かが変わりつつあるのを悟った。

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