38.

 次の目的地に至るまでに抜けなければならない森は、これで最後だ。

 冷えた木陰が途絶え、日差しの温もりが旅人たちを迎える。何枚もの衣に包まれた肉体は一筋でも多くの陽光を吸収せんと、意味の無い背伸びをする。

 青年は急な明るさに応じて顔の前に右手をかざした。

 ふと、後ろからくぐもったくしゃみの音がした。振り返ると少女が袖の肘辺りに鼻を埋めていた。

「寒い? 大丈夫?」

 自分でも吃驚するほどに優しい声音で、リーデン・ユラス・クレインカティは少女に訊ねた。

(普段こういった気遣う台詞を吐く時は心がこもらないのに)

 恩人である聖女ミスリアを相手にする時は、無意識に例外となるらしい。そう自覚してしまうと、何やら愉快な気分になった。

「大丈夫ですよ」

 ハンカチで素早く鼻をかみ、ミスリアは何度か小さく咳をした。白い顔は、狐の毛に縁取られた大きめのフードの下に隠れ、ここからでは見えない。

「冬は乾燥がひどいからね。風邪に気を付けないとね」

「はい」

「さ、南門が見えてきたよ」

 リーデンは道のずっと先にそびえる建物を指差した。目測、歩いて三十分から一時間程度で着ける距離である。

 高地の頂上を占める巨大な城を中心に、都が広がっている。下町を含め、帝都は丸ごと城壁に囲まれていて、四方にそれぞれ厳重に警備された門がある。

 聖女ミスリアは小さく感嘆の声を上げた。

「リーデンさんは帝都に来たことが?」

「ん~。五、六回くらいかなぁ。ごちゃごちゃしてるけど、基本面白いトコだよ」

 と、そうリーデンが評するのは、人間観察が趣味だからである。ミスリアのような純粋そうな人間では何かと気疲れしそうな気はするが、今は指摘しないでおいた。

 一行は荷物持ちのロバを引き連れ、上り坂をゆっくりと進んだ。

「雪」

 ロバの更に後ろ、最後尾を歩くゲズゥ・スディル・クレインカティが一言だけ発した。ハッとなって、リーデンは空を仰いだ。

 目を凝らさねばわからないような、本当に雪結晶なのか疑わしくなるような、微かな白い点がふわふわと舞い降りてきている。

(冬に入ってから結構経つし、めっちゃ積もる日が来るのも時間の問題か)

 暦の上では、年を跨ぐまでに間もない。ミスリアと行動を共にするようになってから、既に何度も雪が降っている。しかも行路は北へと伸びるばかりだ。アルシュント大陸では基本的に北へ行けば行くほどに気候は過酷になる。

 ともすれば、聖獣が眠る場所は極寒の地だと思われる。

「このくらいの勢いの雪じゃあ積もったりしないとは思うけど、ちょっと急ごうか」

「そうですね。あの、先に都に入って塔を調べようって予定でしたよね」

 ミスリアがリュックサックのストラップを調整しながら切り出した。早朝から歩き通しているため、ストラップの革が肩に食い込んで痛いのだろう。

「うん、今日は宿を探すだけで終わるかもだけど。ずっと移動してたから久しぶりにゆっくり休みたいでしょ?」

「はい……でも、もしも連日で氷点下になるようでしたら、沼地の方は凍ってしまって危ないのでは?」

「歩き回るのも辿り着くのも困難になるだろうな」

 ミスリアの意見に、ゲズゥが同意を示した。

「それはまあ、一理ある」

 リーデンは歩を緩め、考え込んだ。前もって決めていた、二つの聖地を訪れる順番を変えるべきか否かを。

 頭上では雪を運んできた白い雲が太陽を遮って、あっという間にまた気温が落ち始めている。

(冬は夕暮れが早くて困るね)

 視界の悪さによる行動の制限もさることながら、日が暮れると魔物が出現する。本来ならば際どい時間になる前に、結界に守られた安全地帯に入りたいものだ。

(とはいえ、沼に行くのも早いに越したことはないか)

 町中と違い、外の道は雪が積もっても誰にも手入れされずに埋もれたままになるだろう。周辺が既に凍り付いている可能性だってある。今の内に訪れないと、後日なかなか機会が巡って来ないかもしれない。

「じゃあここは二手に別れよう。荷物があると何かと面倒だろうし、僕とマリちゃんがロバと一緒にこの辺で待ってるよ。君らで行ってきて」

「それがいい」

 青年からは短い返事があった。なのに少女からの返事が無いのを不思議に思って振り返ると、ちょうど彼女はくしゃみを連発していた。五度目にもなると足元がふらついている。それを、ゲズゥが手を背中に添えてさり気なく支えた。

 ミスリアの茶色の瞳が潤んでいる。風邪に気を付けろとの忠告も、或いは手遅れだったのかもしれない。

「すみません。急に眠気が……」

 申し訳なさそうにミスリアは呟いた。それだとペースが遅くなって夜までには戻れないのではないか、無理をしない方がいい、そうリーデンは提案しそうになったが、それには及ばなかった。

 聖女の護衛第一号は無言で手を動かした――ミスリアの背中から荷物を剥がしてリーデンの方へと投げつけ、身軽になった彼女を横抱きにして抱え上げた。片手でサックを受け取り、片手で口元の笑みを隠しながら、リーデンは冷やかし半分の称賛を贈った。

「さすが兄さん、なんか色々不安だったけどもう解決したも同然だよ」

 魔物とやり合う時の肩に担いで走るのに比べ、横抱きはミスリアにとってはいくらか快適そうな運び方である。それにしても、兄がうら若い乙女を抱える姿は何度見ても笑える光景だった。

 ちなみに運ばれる当人は恥ずかしさに頬をほんのり赤らめている。

「場所わかる? 地図持った?」

「はい、持ってます。此処から北西に行けば着けるはずです」

「サッと行って帰ってくる」

 ミスリアとゲズゥはそれぞれ返答した。

「そ。なら、気を付けていってらっしゃーい」

 リーデンは適当に手を振って見送った。二人の姿が再び森の深い緑に吸い込まれて消えるのを見届けた後、道から離れてちょうどいい大樹にロバを繋げた。雪結晶はまだ質量が少なく、木の葉の下に居るだけで凌げる程度だ。

「さて、暇だね。あやとりでもしようか、マリちゃん」

 地面に携帯式絨毯を敷き、リーデンは胡坐をかいた。

『ご主人様、あやとり、へた』

 寄り添うように隣に腰をかけたイマリナが手話で訴えてきた。

「そうだっけ? じゃあマリちゃんにみっちり教えてもらおう。あ、でもそうしたらお喋りしづらいね」

 気付いて、リーデンはイマリナの表情を窺った。声が出せないだけで本当は他人と積極的に会話をしたがる性格なのを、よく知っているからだ。

 幼少時から口のきけない彼女は、かつて居た屋敷の奴隷たちが開発した独自の手話を駆使して「話」ができる。出会って間もない頃にリーデンは、それを時間と労力をかけてじっくり学んだのだった。心を開いた相手に対してなら、イマリナはどこにでもいる年相応の女性らしくお喋りだ。

『大丈夫。片方だけ、両手が塞がる』

「あ、そっか。普通のあやとりって一時いっときに一人だけ紐を持ってるもんだったね」

 端的な返事からリーデンは意図を汲み取った。

 一応、一人でできる遊び方もあるらしいが、今は二人居るのでその知識は不要だ。

『うん』

 イマリナは自らの三つ編みを解き、紅褐色の髪に編み込まれていた飾り紐を一本抜き出した。それの端々を手早く結び合わせ、輪にする。次に紐を親指にかけたり、中指にかけたりなどして、最初の段階を完成させた。勿論、手袋は嵌めたままだ。

 一般的に「猫の揺りかご(キャッツ・クレイドル)」と呼ばれる形態に始まり、そこから応酬が延々と続く。

 次の人の番、との意思表示にイマリナはにこにこ笑って紐の絡まった両手をずいっと前に出した。

「まずは、バツ印を抓むんだっけね」

 やはり手袋に覆われたままの指先で、リーデンは紐が交わる二つの場所を引っ張り上げた。紐を抓んだまま輪を外から取り込むように回り、イマリナの手から紐をかっさらう。しかし思い描いた形にならず、左右非対称的な出来上がりになった。

「あっれー? いきなりなんか違うっぽい」

『やっぱり、へた』

「君が手先が器用なだけなんだよー」

『でもご主人様も、器用、なのに。あやとりだけ、だめ。なんで?』

 イマリナは解せないとでも言いたそうに眉間に皴を寄せる。紐をじっと見つめた後、一・二か所を直してなんとか本来の形に戻した。そうしてまた彼女の番となり、イマリナは素早く紐を操って次の段階に進めた。

 手が自由になったリーデンは、何となく掌を開いて雪の粒を捕まえた。

「思えば、このクソ寒いのに何であやとりなんかしてるんだろう。言い出したのは僕だけど」

 手袋に覆われているとはいえ、皮膚にはまだ痛いくらいの冷気が届く。ポケットに手を突っ込んでいた方が賢明なはずだ。

 そう言ってみたものの、リーデンは大人しく紐を抓んで次の段階へと進めた。輪の中が平行線四列になっている形から、中の二本の線を小指でそれぞれ引っ掻け交差させる――

 ――二人で何度かやり取りしている内に、何やら十五分以上は経っていた。

 すっかり雪は勢いを増し、枯れた草の間に白い粒がどんどん挟まっていく。

『たのしく、ない?』

 イマリナは眉を垂れ下げて問う。

「まさか。マリちゃんとなら何をしてても僕は楽しいよ」

 この言葉はちゃんと本心からである。

(それが君の役目だからね)

 不安そうな彼女の頬に口づけを落とした。

 しばらく二人は甘やかとも言える空気に浸っていたが、やがて叫び声によってそれは破られた。

「貴様ら―! いい加減にしろ!」

 城壁付近で、衛兵らしき武装した二人の男が複数の小さな影を追いかけ回している。リーデンたちの向いている位置からは右手の坂上である。

「都の周辺のパトロールか。さすがに帝国はマメだね」

 遠ざかる彼らを凝視してみた。なんと、後方から更に影が現れている。

「ん? ……壁の穴から子供?」

 城壁の隙間から捩れつつ出てきた影が、リーデンにはそう見えた。

「あ! また! 門を通れと言っとろーが! せっかく塞いだ穴がまた……!」

 衛兵の二人が振り返って気付いたらしい。

「やだねー! 門なんかめんどくさいし並ぶし時間かかるだろー! 穴、何回塞いだってまたあけちゃうよーだ!」

 すばしっこい何匹もの子供に翻弄され、衛兵たちは一人として捕まえることはかなわない。

 近頃の親は子供の管理も行き届いていないのか――そう考えて、リーデンは嘲笑した。親が居ると前提するのがまずおかしいのだろう。

 子供はどうしてか好きになれない。よって、なるべく関わり合いになりたくない。

 未だに騒ぎ続ける連中から目を逸らして、リーデンは周囲を見回した。雲の量からして雪は当分続きそうに思えた。兄たちは何事もなく戻って来れるだろうか――などとやんわり心配していた、そんな時。

 件の人物の気配が近付いてくるのを感じた。あまりに意外だったため、思わず通信を送った。

 ――早くない? 思ってたより近場だった?

 三分ほどして、返事があった。

 ――途中で引き返しただけだ。先に町に入る。

 ――うん? じゃあ、支度して待ってるよ。

 事情は会ってから説明してもらえればいいと考え、リーデンは携帯式絨毯から腰を上げた。イマリナもそれに倣う。

 「片付けようね」、『わかった』、の短いやり取りを交わし、己の髪に付着していた雪を落として上着のフードを被り直した。下ろしていた荷物を残らず集めて肩にかけ、眠そうにしていたロバの手綱を取る。その間、イマリナがロバの毛についていた雪を払った。

 それから更に五分もすると、新雪を横切る真っ黒な兄の姿が森の中から現れた。行きの時と違って今度は聖女ミスリアを背負っている。

 合流し、全員は縦一列を組んで坂道を上り出した。

「どうしちゃったの、聖女さん?」

 僅かに振り返りながらリーデンは問いかけた。対象の顔はフードに隠れていて見えないが、大体の察しはついた。

「熱を出した」

「あらら。しょうがないね、急いで宿を探そう」

「……ああ」

 とは決めたものの、宿まで急ごうにもそれまでの道のりに様々な障害物が残っていた。南門までできるだけ足早に進み、そこで人の列の最後尾に並んだ。都に入るには身許調査やら持ち物検査やらを乗り越えなければならないからである。

(天気が天気だからかな、出入りをする人が少なめで助かったよ)

 幸い、自分たちの前には十人も並んでいなかった。

 順番が回ってくると、リーデンは四人を代表して受け答えをした。

 何処から来て何をしに来た、荷の中身は何か、都内に知り合いはいるのか、などの幾つもの質問に淀みなく答えた。衛兵らがロバや荷物を確かめるのにも快諾した。だが、何故かなかなか通してもらえない。

 あらかじめ用意していた、封蝋が施された身分証明書――自分とイマリナのは正規のルートから入手した物ではないが――までをも見せたにも関わらず、衛兵たちの視線は訝しげだった。

 挙句の果てにはミスリアの首回りをまさぐってペンダントを取り出して見せたが、それでも胡乱げな視線は消えない。

「貴方がたの言い分は理解した。が、聖女様ご本人から話を伺いたい」

 背の高い衛兵が一人、鎧をガシャッと鳴らして前に出た。同じく長身のゲズゥを睨み、要求するようにミスリアを指差した。

「聖女さんは今は体調を崩しているから無理ですよー」

 微動だにしないゲズゥに代わってリーデンが答えた。

「随分と都合の良い状況だな」背が低い割には体格が無駄に良い、別の衛兵が兜の面頬ヴァイザーを開けた。「言わせてもらおう。貴様らは年端も行かない少女を誘拐し、聖女に仕立てて儲かりたいと企む……ただの不審者にしか見えん。そもそもそのペンダントは本物なのか?」

 衛兵の言い分こそが正論に聴こえたリーデンは、ぽんっと両手を打ち合わせた。

「なるほどー。これは論破できないや。間違いなく本物なのに、どうやって証明すればいいのかすら僕にはわからない。嵌め込まれた水晶が何の水晶なのかもわからないしね。能力で示さないと、それらしく見えるだけじゃダメってことかー」

「現在教団の元を離れて旅している聖人聖女方の名簿には確かに、ミスリア・ノイラートの名がある。だが本人であるかは、『奇跡の力』を見なければ判別できない」

 兵ではなく文官のような出で立ちの男がガサゴソと巻物を開いて確認している。

「見た目の記述くらい持ってないの? 聖女ミスリアと護衛その一はかなり見た目が独特だから間違いようが無いはずだけど」

 盗み見るように身を乗り出すリーデン。文官は慌てて巻物を背に隠した。

「そんな物は無い。我々が顔を知る者は楽に通せるが、それ以外は力で証明してもらわねばならない」

 文官も衛兵も頑なだった。仕方なくリーデンは引き下がった。

「どうしよっか、兄さん。まさか叩き起こして聖気を出させるわけには――」

 ゲズゥの決断を仰ごうと思って振り返る。兄はこちらのことに意識を向けておらず、隣の列をじっと見ていた。実際には列と呼んでいいのかわからない。並んでいる人間は二人しかいないからだ。

 一人目の学者風情の男は衛兵と短い会話を交わしただけであっさり扉を通った。二人目は裾の長い白装束を着込んでいた。衛兵の前に立って、フードを下ろすのが見えた。

「頻繁に出入りする者は向こうの扉から通れるのだ。顔が知れているから検査も短縮される」

 巻物を持った文官の補足する声で、リーデンは再び前を向いた。

「とにかく! その少女が貴様らの言う聖女ミスリアかどうか判断がつかない以上、身元を証明できる人間を呼ぶしかない。或いは、その子の調子が戻るまでだ。それまでは拘置所に入ってもらう」

「拘置所ねぇ。女の子が熱出してるのにかわいそうだと思わないの?」

 リーデンは背負われたままのミスリアに歩み寄り、額に手の甲を当てた。汗を吸った栗色の髪をそっと指先でどける。苦しそうな表情を見ていると、無意識にリーデンの眉根が寄った。

「ちゃんと安全で暖かい場所で休ませたいんだよね」

「ならさっさと身許を証明してくれる人間が現れるよう、祈っていろ」

 兵の面頬越しに、人を馬鹿にした顔が見えた。流石にカチンとくる。

 しかしここで強硬手段に出たら後々まずい。どうしたものかと思い悩みながら兄を一瞥すると、未だに彼は隣の列に視線を注いでいた。

(何をそんなに見て……)

 とりあえず自分も視線を向けてみた。真っ白な服装の細面の青年が、驚ききった顔でゲズゥを見つめ返している。

 二十歳くらいだろう。短く切り揃えられた優しげな亜麻色の髪と、琥珀色の瞳が特徴的だ。

 ふいに、青年が微笑んだ。秋に吹く風のような爽やかさを含んだ笑顔だった。

「あの、突然すみません」

 あろうことか青年が近付いて来た。

「いつもお疲れ様です。騒がしくしてすみません」

 文官が腰を低くして丁寧に礼をする。

「構いませんよ。それより、たった今聴こえた会話が気になりまして」

「はい?」

 不思議そうな衛兵らの前を通り過ぎ、青年はミスリアのすぐ傍まで来た。少女の額に右手をかざし、何かを呟いた。淡い黄金色の光を見て、ようやくリーデンは合点がいった。そうか、この男も聖職者か――。

「彼女は間違いなく聖女ミスリア・ノイラートですし、彼は護衛のゲズゥ・スディルに相違ありません。僕が保証します。この帝都に害をなしたりしないでしょう」

 聖気を閉じ、青年は衛兵らに笑いかけた。

「は、はい! 聖人様がそう仰るなら」

 文官に促されて聖人は何かの書類に署名し、それから先は手続きがトントン拍子に進んでいった。扉を通り、そこでやっと監視の目から解放される。

 聖人が先導するままに歩いた。門を通ってもまだ道は坂を上るが、左右の視界はもう町の風景に埋め尽くされている。門の外の静けさが嘘みたいに騒々しい。

 けれど、前を行く青年が何者であるかが気がかりで、リーデンは周囲の景色を観察するのも忘れた。

「宿を探してるんだよね。教会の寄宿舎でもいい?」

「ああ」

「ディーナジャーヤに向かうって聞いてたけど、まさかこんなに早く、こんな所で会うとはね。縁かな。元気そうで安心したよ」

「そっちこそ」

 青年の振る話に兄は短いながらもしっかりと返事を返した。全く警戒心を抱いていない様子に、リーデンは少なからず驚いた。

「知り合い?」

 問いは兄に対してだったが、当人にも聴こえるような音量で訊ねた。

「ミスリアの友人」

「んん? 聖女さんの――……あ! もしかして、『カイル』?」

 旅をし始めた頃に二人が世話になったという聖人の話は聞いている。なるほど、まさに聞いた通りの人物だ。

 比較的人通りの少ない小道に入ってから、聖人は立ち止まった。

 くるりと前後反転し、袖を押さえるようにしてお辞儀をした。

「初めまして、カイルサィート・デューセです」

「あ、これはどーも。僕はリーデン・ユラス、こっちの物静かな女性はイマリナって名前だよ」

 つられてリーデンも一礼した。イマリナもロバの手綱を握ったまま頭を下げた。

「リーデン?」名に覚えがあったのか、カイルサィートは何かを思い出すように目線をさ迷わせた。「すると君が手紙にあった、『絶世の美青年』かな。凄いね、実物は想像以上だ」

「聖女さんってば、そんな表現を使ったの? お茶目だなぁ」

 リーデンは軽やかに笑った。

「彼女は正直だからね」

 カイルサィートも頬を緩ませる。爽やか好青年といった風貌だが、果たしてそこに全くの裏は無いのか、つい思いを馳せずにはいられない。

 あるとすればミスリアたちが懐かないはずだ。特にゲズゥは人の悪意を嗅ぎ出すのが得意だ。そう考えると何やら楽しくなってきて、リーデンは握手を求めた。聖人カイルサィートは快く応じた。強すぎず弱すぎない、程よい握力――身体能力はそれほど高くなさそうだが、常ならざる局面でも頼りにできそうな雰囲気があった。

(ふうん。世の中いろんな人が居るもんだね)

 都に入って数分も経たないのに、早速リーデンは人間観察を楽しんでいた。

「行こうか。まず一番近い教会を当たってみよう」

 カイルサィートに続いて、皆は再び歩き出した。

 建物に挟まれた小道を抜け出した先には、うねる坂道が幾つも展開されていた。高地の至る面を喰らい尽くすように並ぶ建築物。何処に何があるのか、どうやって辿り付けるのか、一度見ただけではわかりようがない。

 唯一つ。帝王が座す城だけは、最も高い中心地に最も華々しく陣取っている――決して侵せない高嶺の花のように、刺々しそうな常緑樹に囲まれて。

(何回来ても、ごちゃごちゃした印象は変わらないなぁ)

 色使いや形にまるで統一性の無い建築物。それが中心から離れれば離れるほど、即ち高度が低ければ低いほど、何故か建物の密度は薄い。城壁近くの端の方にもなると、無遠慮に生い茂る常緑樹の割合の方が勝る。

(人が高い場所ばかりに居座りたがる心理は一度じっくり分析してみたいねー)

 純粋な遊び心か、或いは権力欲か。色々と可能性を考えながら、一人ほくそ笑む。

「言い忘れてたけど」

 うねる道を一つ選び、踏み込む寸前の所で、ふと聖人が肩から振り返った。

 ちょうどその頬に、粉雪がつくのが見える。

「帝都ルフナマーリへようこそ。よく来たね」

 再び現れた青年の爽やかな笑顔に、リーデンは条件反射で笑みを返した。


_______


 最寄りの教会の寄宿舎の空き部屋の内に、四人部屋があった。何と都合の良いことに、ミスリア・ノイラート一行はちょうど四人だった。

(ちょっと狭いけど、ベッドの間に小さい暖炉もあるし、こんなもんかな。居心地は悪くないね)

 狭いだけに炎の熱がよく行き渡るのが喜ばしい。それと部屋の中に香り袋が揃えられているのがわかる。微かな花の香りが心も身体も落ち着かせる。

 リーデンは下段ベッドの上に腰を掛け、組んだ脚の上に頬杖ついてくつろいでいた。暖炉のすぐ傍では、イマリナが雪に濡れた服を広げて乾かすのに忙しい。

 向かいの下段ベッドでは病人のミスリアが横になっている。額の汗を聖人カイルサィート・デューセがタオルで拭いてあげている。

「君もやる?」

 タオルを絞って水分を盥に落とした後、聖人は二段ベッドの梯子に背を預けるゲズゥ・スディルを見上げた。

「任せる。お前の方が手際が良い」

「そう? まあ聖気の効き目もあったし、もう大丈夫そうだよ。今は眠ってるだけだから」

 そのまま聖人は片付けを始める。屋内に入った後に彼は着込んでいた白装束を脱ぎ去り、普通の立て襟のシャツ姿になった。ミスリアと同じで、聖人聖女だからと言って常に礼服を着るわけではないらしい。

 片付けを終え、カイルサィートは部屋に残ろうか去ろうか逡巡しているようだった。

(お友達が心配だけど、長時間居座るには他の僕らは他人過ぎるって感じかなー)

 当然の心遣いだ。ミスリアとは積もる話もあろうだろうけれど、ゲズゥの方は雑談を楽しむ性格ではない。引き留める者がいない限りは立ち去るのが無難である。

 ここで話題を提供し、彼を引き留められるのは自分しかいない。

 そしてリーデンにはその気があった。理由はといえば、ただ単に面白そうだからである。

「ねえ聖人さん、伴性劣性遺伝はんせいれっせいいでんって知ってる?」

 本日初対面の人間に突如投げつけられた質問に、カイルサィートは面食らったように目を見開く。数秒の間を挟んでから、答えた。

「隔世遺伝の一種から、男性にのみ発現する特徴のことだね。特徴を持たない親同士から世代を飛ばして男児のみに現れ、女性がその遺伝子を持っているはずでも何も発現しないゆえに、伴性劣性という新カテゴリの遺伝の仮定が立てられたって話」

 すらすらと正解が綴られる。

「……うん、本当に知ってるとは思わなかった」

 今度はリーデンが面食らう番だった。 

「君こそ、どうしてそれを?」

 問われて、リーデンはカラーコンタクトを左目から外してみせた。ありのままの瞳を聖人に向ける。

「僕はコレがそうなんじゃないかなー、って前々から思ってたんだよね」

 得意げにリーデンは「呪いの眼」を指差した。聖人は驚かずにただ頷いた。

「なるほどね。ところで……役職名じゃなくて、カイルって名前で呼んでくれてもいいんだけど」

「ん~、さっきもそんなことを言ってたね。ゴメン、特に呼ぶ気は無いから」

 呆気にとられた顔のあと、カイルサィートはぶふっと噴き出した。

「あはは! 確かに、兄弟だね」

 聖人の一言に、兄の眉がぴくっと動くのが見えた。どうやら何か心当たりがあるらしい。その辺りの逸話を是非聞きたい、そう思って口を開きかけ――

「はんせい……れっせい……?」

 ――眠そうな少女の声で、皆の注目が一斉にベッドの上に集まった。

「あれ、起こしちゃったかな。気分はどう?」

 屈み込み、聖人が柔らかい微笑みを添えて声をかける。刹那、ミスリアの元々大きい茶色の瞳が、これ以上無いくらいに更に大きくなった。

「……え。ええっ? 何で、そんな!? 夢?」

「夢じゃないよ。久しぶりだね」

「――――カイル!」

 ミスリアはがばっと起き上がって再会したばかりの友人にきつく抱き付いた。病み上がりであるとは微塵も感じさせない勢いだ。

 聖人が「ふぐぇっ」みたいな奇声を漏らしてよろめいたが、すぐに体勢を立て直してミスリアを抱きしめ返した。二人は再会を喜ぶ挨拶を幾つか交わした。

「そうだ、色々と訊きたいことはあるだろうけど、まず僕から一ついい?」

 カイルサィートはミスリアをそっと引き剥がした。

「勿論です。何でもどうぞ」

「帝都には当然、聖地巡礼の為に来たんだよね。急いでるのかな」

「え、いえ、急いでるってほどではありません、多分」

「じゃあせっかくだし、巡礼や典礼やら行事の参加はほどほどにして、正月が過ぎるまでのんびり過ごしてなよ。ルフナマーリの新年祭は一週間続くし、パレードも面白いよ」

「それは物凄く興味があるね!」

 思わずリーデンは口を挟んだ。

「いいですね! 楽しみにしています」

「うん。今の内に一杯休んで、来週は一杯遊ぼう」

「ただでさえごちゃっとした大通りが人でぎゅうぎゅう詰めになるのかぁ。超面白いだろうね」

 想像しただけで、リーデンは口元がにやにやするのを止められない。

(なんかここ最近の新年って商談とかで忙しかった気がする)

 何も難しいことを考えずに遊べるのは貴重かもしれない。

 兄の方にチラッと視線をやると、相変わらず彼は周りの会話などどうでも良さそうに腕を組んで目を閉じている。

(やっぱり、ついてきてよかった)

 まだ見ぬこの旅の先行きを想って、リーデンは期待に胸を膨らませた。

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