第四章:満たされんとして追う

39.

 光の竜が大地を下っている。それは急がぬ速さで、暗闇を泳ぐように進む。

 風の弱い夜だった。

 竜は数多くの光の集大成であり、さながら歴史書に載っている、夜襲を仕掛ける大軍のようでもある。だがかつての兵士たちが持っていたであろう松明の激しさに対し、目下の行進は蝋燭の火によって形成されており、心もとない揺らめきのみを放っていた。今だけは他の、都内の本来点いているはずのあらゆる照明という照明が消されている。

 これはディーナジャーヤ帝国の慣習に従い、毎年最後の夜に執り行われる行事。一年の間に命の灯火を失った人間を弔う儀式だった。

 蝋燭の数は、死んだ人間の数を正確に表してはいない。亡くなった知人が居れば誰しも蝋燭を手に取れるからだ――例えば亡くなった一人の人間に十人の友人や親類が居たとすれば、少なくとも死した人数の十倍の歩行者が参加することになる。

『……死は本当はとても身近なのに、どうして生きてると忘れるんだろうね』

 ミスリア・ノイラートはかつて友人が口走った言葉を思い出していた。その彼、カイルサィート・デューセ本人はおそらく今、大通りを突き進む光の竜の尾辺りに参列している。

 行進はやがて広場に着き、列を崩して輪を形作った。

「綺麗ですね」

 なんとなく呟くと、目の前にじわっと白い円が浮かび上がった。温かい吐息がガラスを曇らせたのだ。自分がいつの間にか二インチと無い距離まで窓ガラスに接近していたことを知って、ミスリアはカーテンを握る右手から力を抜いた。

 この教会の尖塔の窓からは帝都がよく見渡せる。どうしてこんな場所を選んだのかというと――眺めが格別に良いしちょうど教会の人が出回って無人になるから絶好の機会だよ、とカイルサィートが勧めたからだ。

(寒い中人混みに揉まれるよりはずっといいし、上から見下ろす方が綺麗。ありがとうカイル)

 そう思いながらミスリアは斜め後ろに退いた。

 背後に立つ青年にも外が見えるようにしたくて動いたのだけれども、改めて考えれば彼はミスリアなどよりもずっと目線が高い。わざわざ退いてあげなくても十分に見えていたのかもしれない。

「死者への執着を引きずるのは非生産的だ。こうやって大々的に弔って、未練を昇華させるのか」

 青年、ゲズゥ・スディルは窓に一歩近付き、低く響く声でそう言った。

「……はい」

 彼がそういう風に言えるようになったのは良い傾向だろう。

(十二年前に亡くなった従兄さんとの恐ろしい約束を手放して、前向きに生き始めてる証……だといいな)

 広場の中では蝋燭の火が再び動き出していた。聖歌隊に導かれ、輪はもう一度変形していく。

 聖歌が静かな夜を神秘的な音色に染める中、光はミスリアにとって馴染み深い形になった。

 全体を見通せば十字のようでもあり、しかしよく見ると横棒の形が棒ではなく短い渦を巻いているとわかる。ミスリアやカイルが属するアルシュント大陸唯一無二の宗教集団、ヴィールヴ=ハイス教団と聖獣信仰を表す象徴である。

 象徴が完成し、聖歌も数分後には終わった。

 直後に五分ほどの黙祷の時間が設けられる。ミスリアは両手を祈るように結び合わせ、瞑目した。

 ふと、先程話した際のカイルの言葉を思い返した。

 ――この儀式は一部の人間しか気付けない、ある「食い違い」を含んでいる――

 悲しげに笑って、彼はそう言ったのだった。

 その「食い違い」が何を指しているのかは、しばらくしてわかった。

 深い闇を包み込む静かすぎる夜。安寧とした時間が保たれる最たる原因は、都全体を覆う結界にほかならない。

 帝都の内にて行われる死者を弔う儀式……真に慰めを必要としている者らはルフナマーリの結界の外に居るというのに、一般都民は魔物が亡者の魂によって構築されている事実を知らないから、自分たちの行いの滑稽さに気付けない。

 だからこそ一層深く、ミスリアは魂の安らぎを願って黙祷した。

(私はどうなのかしら。追慕の念に、今も捉われてる?)

 己の内へと問いを向けて、ミスリアの心中は複雑になった。大陸や教団の魔物対策に対する憂いだけではない。

 ――或いは、生者の方が死者と共に在りたいのかもしれないね。人間は死というありふれた現象に恐怖や嫌悪を感じ、時には畏怖や憧憬すら感じる。歩み寄ろうとするのは自然な流れだと思う。

 イマリナ=タユスで魔物のかいなに飛び込んでいった少年について話していた時、カイルはそのように呟いたのだった。

 カイルはミスリアたちと別れた後、魔物の認識について調査していた。驚くべきことに、教団が思っている以上に人々は魔物の正体に気付いているという。皆独自に答えを追い求め、なんとかして突き止めていたのだ。

 去った者への想いを生活に深く結びつけるのは執着だろうか、非生産的だろうか。

 おそらくそれぞれに事情が異なる問題で、結び付きが生者の未来にとってプラスかマイナスかに働くのかも大きな決め手であるのだろう。

 魔に魅入られて消滅する人間は、或いは最期まで幸せなのかもしれない。

 なのにどうしても自分は、その選択を「正しい」と感じられない。きっとこれから先もずっとそうだろう。

 ぎゅっと両手を強く握り合わせると、ちょうど広場からは喚声が上がっていた。

(それでも私に、従兄との約束や一族の復讐の為に非道に進んだゲズゥを糾弾する権利なんてない)

 窓がオレンジ色に染まる。広場では再度輪になった人々が中心に向けて蝋燭を放っている。一つ一つが弱々しい火も、重なり合わさればいずれ轟く炎と化す。

「ミスリア」

 ふいに物思いに割り込む声があった。

「はい。何でしょう」

「お前の姉は、つまり生きてるのか、それとも死んだのか」

 一瞬、目の前が真っ暗になった。

 すぐに次の一瞬にはまた両目に赤が入り込んだ。窓の向こうで燃え盛る儀式の火によって意識が引き戻される。

「どう、して……突然、そんなことを、訊くんですか」

 手首より先が小刻みに震え出している。堪えようとして両手を擦りあわせた。

「知って、どうするんですか」

「別にどうもしない」

 ミスリアは素早く振り返った。常に無表情の青年は、黒曜石の右目に何の意図も映さない。それに対してミスリアは無意識に表情を歪ませ、戸惑いを訴えかけた。

 ゲズゥは二度瞬いてから唇を動かした。

「知りたいだけだ」

「だからどうして――」

「……世界の為でないなら、お前が何の為に命をかけるのか」

 そう言われてしまっては言葉に詰まる。他の誰でなくても、彼には知る権利があるのだから。

 真っ直ぐな視線の重圧に耐えきれなくなり、ミスリアは床へと見つめる先を移した。

「聖女となって失踪したんだろう」

「はい。けれど…………教団に問い合わせても、自分なりに調べてみても、結局それ以上のことはわかりませんでした」

「ならお前は、どっちだと思う」

 急に声が近付いた。視界の中に動きがあった。何が起きたのかと気になって床から目を離すと、すぐ近くに青年の整った顔があった。目線を合わせる為にか、床に片膝をついている。この人を見下ろすのは、非常に珍しい体験だった。

 何故だか胸の内がざわついた。

「根拠は全く無いのですが、私は……」

 諦めにも似た心持ちで語り始めた。目を伏せると、睫毛に潤いが付いた。

「お姉さまはきっと亡くなったのだろうと、そう感じています」

 ミスリアは一息に言い切った。が、そのまま黙り込むこともできずに早口に続けた。

「変、ですよね。貴方とリーデンさんみたいな特殊な繋がりがあるわけでもないのに、なんとなくそう……感じたんです。その程度の気持ちで生存を諦めるのは愚かかもしれませんけど」

「いや」

 ゲズゥの言葉は心なしか柔らかかった。驚き、再び目を合わせた。

「消息の知れない親族がきっと生きていると根拠もなく言い張る輩は、存在しない希望に縋りついているだけだ。だが逆は違う。しかも兄弟姉妹は親子よりも近い血縁じゃないのか」

「確かに、私もそう聞いています」

「なら、お前の姉は死んだと考えて間違いない。妹のお前がそう感じたからな」

 見つめ返す眼差しには濁りが無い。気休めのような易い慰めではなく本心からそう言っているのだと思うと、涙が勝手に流れ落ちた。こんな後ろ暗い仮説を長い間心に秘めていたことを、許されたような気がした。

 ――両親に話した時さえもくだらないと一蹴されたのに……。

 彼らこそが根拠の無い希望に縋っているのだろう。

 今なら、話せる。決意が固まり、ミスリアは息を吸い込んでは吐いた。

「本当に人類や世界の未来を想っていたのは、お姉さまの方です。私はあの人の夢を毎夜のように聞かされる内に、あたかも自分の夢でもあるように感化され――あの願いの眩さに触れて、同じ未来を追いたいとさえ思いました。元々私はお姉さまを取り巻く全てに憧れていました。今になって思えば、私自身、聖女になれて良かったと思ったことがあるのかは……わかりません」

 別れた最後の日を除けば、姉はいつも誇らしげだった。当時は島でたった一人、初めて聖職者の道に進んだ彼女は誰もに祝福された。

(私の場合は事情が違った……)

 口を挟まず、ただ意外そうにゲズゥは眉を動かした。

 一度蓋を開けてしまえば段々と気持ちが楽になっていった。想いが次々形になって舌を滑ってゆく。

「それでも、慰問や魔物の浄化に明け暮れるだけでも十分に意義のある生き方だと思います。もしもお姉さまが志半ばに消えたのでなければ、私は今頃はひっそりと故郷や周辺地域に仕えるだけの日々を送っていたかもしれません」

 思い起こされるのは聖女レティカの告白。彼女は己には準備や力が足りないと言っていた。性急過ぎた旅立ちにつれ、エンリオとレイが犠牲になったのだと。

 自分はどうだろうか。

 どこからどこまでが早急で、どこからなら用意周到と言えるのか。旅を成功させる為にはどんな強さが必要なのか、はっきりと正解が決まっているわけでもない。もしも決まっていたとしたら、とっくに聖獣は飛び立っているはずだし、必要な情報も修行の内に教えられていたはずである。

 四百年前に聖獣が蘇った際にも、もしかしたら大勢の犠牲があったのかもしれない。それでも当時の聖人聖女たちは前に進んだ。

 ミスリアは今一度、片膝立ちの姿勢でいる青年を直視した――幾度となく危機や絶望から引き上げてくれた手を。彼の前では意気阻喪といった概念は形を保てないようだった。

(私は貴方の強さに甘えてるのでしょうね)

 とは口には出さなかった。袖で目元を拭い、誤魔化すように微笑む。

「お姉さまの大願を代わりに実現したい、その為に発ちました。それが一番の理由です。だから決して、世界を救う為だなんて言えません。私は敷かれた大義に沿っているのであって……その上で自ら生きているのではないのだと思います」

 聖女を名乗り教団の意志を纏う者がこんな心意気では不足だと、自覚はあった。度々痛感する覚悟の足りなさもきっとここに起因している。姉のカタリアをはじめとした多くの人間が偉業を果たそうと、果たせると信じて目指しているのに。

 ミスリアには果たせる自信が無いし、どんなに己を騙そうとしても、結局は別の誰かの願いだ。

 幼い頃受けた影響が育ちすぎてしまった。今更いくら考えても自分のみから生まれるオリジナルの夢なんて何処にも見つからない。

 ふと思い出すと、どうしようもなく恐ろしくなる。

 ――本当は前に進むのも、戻って別の道を探すのも、怖い――。

 自分が実はとても空っぽな人間なのではないかと疑う。

 そしてこんな情けない「聖女」に世界の最果てまで付いて行くことを余儀なくされたゲズゥ・スディルは、

「理解した」

 と応じて立ち上がった。

「え? そ、そうですか?」

 やけにあっさりした返答に戸惑う。

「……存外、お前も、未来に何も望んでいなかったんだな」

 続く無表情での一言。ミスリアは唇を凍らせた。

「だからどれだけ人に囲まれても、孤独だ」

「――――」

 返す言葉を持たないまま、耳に付くほどの浅い呼吸を繰り返す。

「その一点に於いておそらく俺たちは……」

 黒い瞳に映る感情は同情のようで、しかしまた別の何かが含まれているようでもある――

 突如、空気が搾り出される鈍い音が響いた。空腹を訴えかける音だ。呼応するようにミスリアの胃の辺りもきゅっと切なくなる。

「そういえば昨晩から何も食べてませんね」

 清い身で年明けを迎えるべし、というヴィールヴ=ハイス教団から伝わった慣わしだ。ギリギリまで断食し、新年の到来を報せる鐘が鳴り響いた直後は、近しい者と杯を酌み交わして年初の食事を摂る。

「あと一時間もしない内に年が明けます。カイルやリーデンさんが戻ったら、ご馳走にしましょう」

 祝宴の準備に奔走する人たちを手伝うべく、ミスリアは階下を目指した。

 ゲズゥは無言で後ろについてきた。

「くつろいでいてもいいんですよ?」

「手を貸した方が早く食えるなら、貸す」

 よほど食事が待ち遠しいのだと受け取れる返答だ。ミスリアは漏れる笑いを右手の指で抑えた。

「では、行きましょうか」

 尖塔を降りて、教会の人気の多い中心に近付くと、ふいに思い出した。

 そういえばさっき彼は何を言いかけたのだろう。不思議に思うも、結局問い質す機会を逃したまま、その件は意識から忘れられることとなる。


_______


 新たな年に入ってから五日が過ぎた。ルフナマーリの通りはまだまだどんちゃん騒ぎの連日で小道に至るまでに込み入り、徒歩で移動するには結構な時間がかかった。かといってお祭期間中の規定で馬を使うこともできない。

 空は盛大に晴れている。それでいながら陰の中は比べるべくもなく寒い。

 ミスリアは物陰に入り、護衛のゲズゥと友人のカイルサィート・デューセと共に壁を背にして立ち竦んでいた。ちょうど午後のパレードが始まったので、次の移動を始める前に人混みが収まるのを待つことにしたのだ。

 トランペットの高らかなメロディが通りかかった。続いて輿の上で身体を捻って踊る異国風の女性たち、歩幅をきっちり揃えて進む打楽器隊、何頭もの白馬に引かれる華やかな馬車。

 元日のパレードでは帝王とその妃が似たような馬車に乗り込んで自ら巡回したらしい。当日来ていたのに「らしい」としか言えないのは、人出が多過ぎて顔が見えるほどには近付けなかったからだ。

「お花どうぞ~!」

 自分と同い年くらいの着飾った少女たちが、造花を無料で配っている。愛らしい仕草で一輪ずつ差し出しては相手に半ば押し付け、そしてくるくると長いスカートをなびかせて去る。

 何度も受け取る内にかなりの量が溜まった。それをカイルが器用に花輪に繋げて、ミスリアの頭にのせる。

「な、なんだか恥ずかしいですね」

 そっと手袋を嵌めた指先で触れてみる。紙素材の割にはしっかりとした造りらしい。少なくとも風に吹き飛ばされたり、ちょっと人にぶつかったくらいで形が崩れたりはしなそうである。

「めでたい感じがして周りの空気に馴染んでると思うよ。よく似合ってる」

「ありがとうございます」

 スカートの裾を広げ、ミスリアは僅かに紅潮した頬を隠すようにして頭を下げた。

 その後もしばらく二人でお喋りを楽しみつつ和んだ。

「それにしても、せっかく来たのに、塔に入れなくて残念だったね」

「はい」

 ミスリアは深く頷いた。

 今日は三人で聖地の一つである東の城壁の塔を訪れたのだが、入り口前で追い払われてしまった。

「仕方ないか。祭日で人の出入りが多くなってるから、気を張ってるんだよ」

 高い塔は都の警備にとって要所の一つだ。どんな危機も遠くから早目に察知すれば、警鐘を鳴らして対処できる。

 この時期に中に入れて欲しいと頼んでも、取り入れてもらえないのは当然だろう。

「警備兵の方々は少なくともあと一、二週間は部外者を入れられないと言っていましたね。参拝者でも聖職者でも」

「二十九の聖地の中では珍しいタイプだね。現代でも聖地以外の機能があるなんて」

「カイルは中に入ったことがありますか?」

 友人を見上げて訊ねてみると、彼は微かな笑みを浮かべた。

「あるよ。実はルフナマーリに最初に着いた時に、行ってみたんだ。僕は君みたいな巡礼をするつもりは今は無いけど、ちょっと確かめたいことがあったから」

「そうだったんですか」

 確かめたいこととは何だったのかと訊こうとした瞬間、ごめん、と言ってカイルは制止の手を挙げた。彼の眼差しは人波の勢いが弱まるタイミングを見計らうように遠くを見据えている。

「続きは待ってもらっていい? この後、人と会う約束をしてるから、そろそろ戻らないと」

「勿論構いませんよ」

 大通りを一瞥し、ミスリアは歩き出す心構えを整えた。身体が小さいと人の隙間を通りやすいけれど、一方で呆気なく勢いに流されかねない。転んでしまえば最悪の場合、踏み潰される。そう想像するとなかなか最初の一歩が踏み出せない。

「彼に前を歩いてもらえば少しは歩きやすいかも」

 こちらの躊躇を感じ取ったのだろうか。友人はゲズゥに目をやり、提案した。

「お願いしていいですか」

「……はぐれないように気を付けろ」

 長身の青年は背を向けて前に出た。そのコートの帯を、ミスリアは掴むことにした。

 人を押しのけたり間を縫ったりして三人は来た道を戻った。

 周りは相変わらず我を忘れたように騒いでおり、時々ぶつかる人からは酒の臭いが漂う。民衆が密集している箇所を通るとやたらと気温が上がって、逆に誰も居ない箇所に出ると震えるほどに寒い。温度や湿度の目まぐるしい変動に目が回りそうだった。

(これは、前後を歩く二人のサポートが無ければ絶対に窒息しているわ)

 思えばここ最近は移動をする度にリーデンが前を歩いていたので、混んでいる道でも難なく進めた。あの絶世の美青年の行く道を阻む者は少ない――顔だけでなく、立ち居振る舞いやオーラのような何かが人を寄せ付けないのかもしれない。

「リーデンさん、午後のパレードが終わったら合流すると言っていましたけど、大丈夫でしょうか」

 騒々しさからやっと少し離れられた所で、ミスリアは口を開いた。

 ゲズゥの母親違いの弟、リーデン・ユラスは朝から一人でふらりとどこかへ姿を消していた。もはやそれは日常となっている。

 帝都に来てからの彼があまりにも楽しそうなので、昼間の護衛はゲズゥだけで充分ですからどうぞ好きに過ごしてください、とミスリアは自由行動を容認している。本人は趣味の人間観察をしに行っていると言い張るが、真偽のほどは知れない。

「アレなら多分」ゲズゥは帝都中心の高地の方を向き、遠目には人々の姿が虫の大きさにしか見えない位置を指差した。「あの辺に居る」

「弟くんのこと、アレって言ってるの?」

 背後からカイルが笑い声と共に指摘する。

「アレは、アレでしかないが」

 当然のように答えるゲズゥ。気にしたことは無かったけれど、確かに人間をアレ呼ばわりするのはおかしい。

「まあ君がそれでいいならいいよ」

 と、やはり笑い声が返る。

 ようやく三人並んで歩ける広さの通りに出て、カイルは後ろから進み出た。彼は白装束の袖を押さえつつ「失礼するよ」と一言断ってミスリアの造花の輪を直した。ずれはしても、奇跡的にここまでの道で落としたり失くしたりしていなかった。

「それでさっきの話――ミスリア、聖地に行ってみて、何を感じた?」

 琥珀色の双眸が真剣そのものになった。自分も真剣に答えなければ、と反射的に表情を締める。

「遠くに居る、見えない何かの意思を注がれているような……そんな感覚でしょうか」

「僕も他の巡礼者との話で、似たような証言を聞いてる」

「それでしたら……」

 ミスリアも同じく、聖女レティカと互いの経験を教え合ったことがあった。そして彼女も、同様の内容を語ったのだった。

「仮に対象が聖獣だとして、その大いなる存在と意識を共有する必要性は何なんだろうね」

「行き先を知る為ではないのですか? 直接導かれるのであれば情報漏れも防げますし、個々が別の道を進めば部外者に聖獣の眠る場所も隠し通せますし」

 ミスリアは歩を緩めて考え込んだ。

「それも一理あるけど、別の攻め方をしよう。僕は塔の聖地に踏み入っても何も感じなかった。きっとナキロスの地――最初の巡礼地、を通っていないからだと思う」

 心なしかカイルの声が遠くなっている。

 顔を上げると、自分の所為で二人の青年が立ち止まっているのに気付き、ミスリアは急いで追いついた。

「なるほど、そうだったんですね。ナキロスの教会は、どうして最初の巡礼地に選ばれたんでしょう」

「昔は違ったみたいだよ」

 ある時を境に教団が岩壁の教会を始めの聖地として推奨しているだけで、昔は別の場所だったりしたらしい。

「その理由を訊いて回っても知ってる人はほとんどいなかった。でも引退した元枢機卿猊下と会った時、あの人は教えてくれた――」

 始めの聖地は帰納的論法によって定められるという。条件は、その場で大いなる存在と同調できた人数がより多いことだ。理屈など関係ない、多くの人間がその地で大いなる意思に触れられた事実さえがあれば事足りる。

 同調という単語にミスリアは反応した。刹那の間、教皇猊下のご尊顔が脳裏を過ぎる。

「聖地巡礼の本来の目的は、個人が聖獣と霊的な繋がりを確立する為だと思う。それが完全になるまで巡り続ける。だからきっと、一人一人が巡る聖地の順番も総数も違うんじゃないかな」

「霊的な繋がりを確立する為…………」

 相変わらずカイルの説く論は、一言ずつがすんなりと腑に落ちるようだった。

「結局、繋がりを持つことに何の意味があるのかまではわからないけどね。もしかしたら繋がることそのものが目標で、それができれば聖獣に蘇るように呼びかける力や権利を得るのかも」

「どうなんでしょう。ちょっと私には難しいです」

 ミスリアは苦笑を返した。

「聖人聖女たちに教団がどうして何も教えてくれないのかなら、わかる気がする」

 そう言って友人はまた微かな笑みを浮かべた。ミスリアは首肯した。

 霊的な現象に関しての口頭での説明には限界がある。頭での理解と全身全霊で感じ取るのとでは重みが違う。

 加えて、先入観なしに肌で直に感じ取るのが最も望ましい。「ここに立てば何か感じるよ」と言われた後では、感じたことの大部分が思い込みに占められてしまう。

 だから教皇猊下はあの時、とにかく聖地に行ってみなさいと助言して下さったのだろう。

「話は変わるけど、ミスリアは道中、魔物信仰の人に会ったりしなかった?」

「いいえ。旧信仰の方々にならお会いしました」

「ああ、対犯罪組織に出くわしたって言ってたね」

「彼らは組織を『ジュリノイ』と名乗りました」

「ジュリノク=ゾーラ、『正義を執行する神』を掲げる集団。今の教団にしてみれば絶対に分かり合えない連中らしいね」

 ちょうどその時、少し前を歩くゲズゥが止まって振り返った。

(こっちの会話なんて興味無さそうだったのに)

 これまでも聴いていない振りをしていただけだったとは思うけれど、一変して、彼は聴き入るように僅かに上体を傾けた。

「まあそれ以上に魔物信仰の人は凶暴だってね。最近、僻地で不穏な動きを見せてるって……はち合わないならそれに越したことはないよ」

 魔物信仰という言葉は、久しく耳にしていない。修道女課程での授業以来だろうか。ヴィールヴ=ハイス教団とは主旨が度々衝突しがちな旧信仰に比べ、魔物信仰は聖獣信仰のまごうことなき敵対思想だ。

 確か魔物信仰は旧信仰などよりもずっと、詳しいことは誰にもわかっていないはずだった。謎に包まれている理由は信者の少なさよりも、彼らの秘密主義による。

(どうして魔物を崇めるのかしら)

 全く共感できない。哀れと思うことはあれど、信仰の対象にするなど――。

 恐怖が畏怖に、畏怖が憧憬にすり替わるようなものだろうか。

 或いはカイルが調査している、人々の魔物に対する認識を突き詰めた先に答えがあるのではないか。

 約束事へ向かう彼と別れた後ももうしばらくミスリアは道端で考え込みたかったが、冷たい風に打たれてハッとなった。

「私たちはこれからどうしましょうか」

「さあ」

 ゲズゥからは全く何も考えていなそうな返事があった。では、とミスリアは案を出す。

「今日こそ沼地に行ってみてもいいですか?」

 帝都に着いた初日に熱を出してしまって訪れるのを断念していた、沼の聖地。

 最後に雪が積もってから数日が経ち、晴れた日も続いていた。歩きづらい雪道の面積は減っているはずだ。沼そのものが凍っている可能性は否めないとしても、近付くくらいはできよう。

「わかった」

 早速ゲズゥは大股で歩き出した。置いて行かれないようにミスリアは小走りで応じる。

 ややあっていきなり青年は立ち止まり、左肩から振り返った。今日は「呪いの眼」を隠す黒いガラスを入れていないらしく、左眼は金色の光の粒を含んでいる。彼は何かを吟味するようにミスリアを眺めた後、呟いた。

「背負ってやろうか」

「……じ、自分で歩けます!」

 声を上げて反論する。

 悔しいような恥ずかしいような、妙なこそばゆさを拭わんとして、足早にゲズゥの傍を通り過ぎた。

「また倒れるなよ」

 どこかしら笑いを含んだ声音だったが、気のせいに違いない。

「その節はありがとうございました!」

 風邪なんてもう引かないもん、大体子供じゃないんだから、切迫してない時まで運ぼうとするなんてひどい、女の子を何だと思って――と頬を膨らませてから気付いた。

(まさかとは思うけど事務的に訊いてたんじゃなくて、からかったのかしら)

 でなければどうして自分は真っ先に怒ったのだろうか。

 後ろを見やると、青年はコートのポケットに両手を突っ込んで佇んでいた。表情から読み取れる情報は皆無である。

 根拠もなく何故からかわれたと感じたのだろうか。問うように見つめても、彼は瞬くだけだった。

 疑問符を回収できないまま、ミスリアは再び前を向いて歩き出した。

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