17.
暗闇の中で、蝋燭が一本だけ点されていた。ひんやりとした湿った空気の中、そこの周りだけ暖かく乾いている。
そして寝台の上の男女を取り巻く空気には、未だ冷めない熱が残っていた。
一糸纏わぬ女が伸びをすると、弾みで形のいい乳房が揺れた。
女は寝台の横に置いてあった杯に手を伸ばし、ラム酒を喉に流し込む。二口ほど飲み込んでから、自分の下敷きになっている若い男をじっくり眺めた。
「……何だ? アズリ」
怪訝そうに、青年は低い声で呟いた。彼もまた一糸纏わぬ姿である。この暗がりでも、その肌色の濃さがわかる。
アズリと呼ばれた女は微笑んだ。
今はヴィーナキラトラを名乗っているが、そのどちらも、彼女の生まれた時に与えられた名では無い。そんな物なら、とうの昔に失っている。
アズリは杯を置いてから青年の腹筋の上で頬杖ついた。彼女の下ろされた長い髪がくすぐったいのか、彼は僅かに身じろぎした。
「そうねぇ。色々と、訊きたいことはあるけどね。どれも純粋な好奇心からだから、答えたかったらでいいわよ」
「……」
青年――ゲズゥ・スディルは無表情のまま答えない。昔からそういう性格だったのはわかっているので、アズリは特に気にしない。
「たとえば……」
言いながら、アズリはゲズゥの右手首を引き寄せた。
「ココ、どうしたのよ」
手首の内側、そのすぐ下から肘へ向けて数インチを、白い指でなぞった。
「何が」
「それはとぼけてるの?」
くすりと笑って、アズリは自分の右手首を返して見せた。
そこには、一輪の淡く青い花の刺青が彫られている。
「アンタもあったでしょう、同じ場所に」
「…………削ぎ落とした」
当たり前のことのように彼は短く答えた。
「あら。わざわざ痛いことするのね」
アズリがそう言うと、ゲズゥは合わせていた目線を外した。
(何かに属している、所有されているみたいなカンジが嫌だったのかしら)
理由に思い至ったアズリは一人納得して頷いた。
ゲズゥの頬を片手で捉えて無理やり視線を絡み合わせ、アズリはシーツの下で腕を立てた。
「アンタがあんな子を連れ回してるなんて、意外だわ」
「どっちかと言うと、連れ回されてるのは俺の方だがな」
黒い右目と白地に金色の斑点のついた左目が、至近距離のアズリの顔を映している。正確には、左目の猫の目のような瞳孔と色素の薄い瞳では何も映し出せないが。
「余計にありえない。アンタは、間違っても人に従うタイプじゃなかったもの」
アズリの長い髪がするりと耳の後ろから滑り落ちて、ゲズゥの顔にかかる。
「命を助ける見返りに守って欲しいと、取引を持ちかけられたから乗っただけだ」
「本当にそれだけ? アンタがあの子にくっついてるのって、何かを『与えて』もらっているから……それとも何かに期待しているからでしょう。それが何なのか、興味あるわね」
こつん、と額を合わせたら、アズリよりも十近く年下の青年は、眉をひそめた。
(そういう拗ねた顔、懐かしいわ)
十五歳の少年だった彼の記憶が蘇る。半年に一度くらいしか笑わなそうなゲズゥでも、不機嫌な表情なら良く見せたものだった。
「自覚ナシだった? ねぇ、あんな女の子に何を期待してるの」
「煩い」
そう言ってゲズゥは起き上がり、体勢を入れ替えた。組み敷かれたアズリはくすくすと笑う。
「ところでアンタ、公開処刑にかけられたってね。大陸は広くても人の噂は繋がっているから、それが取りやめられた理由も聞いているわ」
逞しい肩に腕を回しながら、アズリはお喋りを続けた。
「あんな子が例の聖女だったのね。幼くて驚いたわ」
無表情に戻ったゲズゥは返事をせず、無言でアズリの太ももに手をかけ、その細い腰を抱き寄せた。
「……ん」
再び重なり合う熱の感触。思わず声が漏れる。
「ああ――」
突き上げる快楽に、何の話をしていたのかも忘れかけた。
もうすぐ絶頂に昇りつめるという時に、何の前触れも無く。
女の悲鳴が遠くから響いた。
洞窟であるだけに、よくこだまする。
「魔物でも出たかしら、珍しい」
アズリはそのように囁いた。
二度目の悲鳴は、最初のよりも音量は小さく、短かった。
その音に、今度はゲズゥが動きを止めた。
「どうしたの? 魔物くらい、他の人に任せれば大丈夫よ」
「――今の声」
彼はどうやら聞く耳を持つ気が無いらしい。寝台に起き上がり、何かを探すように辺りを見回している。
目当ての物が見つからなかったのか、一度舌打ちをしてから、ゲズゥは立ち上がった。
アズリが他に何か声をかけるよりも早く、彼は駆け出していた。
一人取り残されたアズリは髪をかき上げながら笑った。
寝台の上で脚を組み替える。
「女を焦らすなんてひどいわね。でも、今のアンタの方が昔よりもずっと、ずっと面白いわ」
悪戯を企む子供のように、彼女は唇の両端を吊り上げた。
_______
自覚が無かった訳ではない。
己の内に芽生えつつある望みを認めたくないだけで、だからこそいつもそれを頭の片隅に追いやっているのだ。
大蛇の姿をした魔物の上顎と下顎を素手で掴んで引き裂きながら、ゲズゥはそんなことを思った。
瞬間、何故か大量の血液が噴き出したため顔を逸らしたが、遅かった。髪から足の指まで、全身にたっぷりと紫黒色の液体がかかる。泥っぽいぬるま湯をかぶっているような不快感を覚えた。
ゲズゥは瞼の回りを擦った。
一度腹から息を吐いて、雑念を振り払う。
右に一匹、前方にもう二匹――二体? 左前には人間が居るようだが、気を配ってやる義理は無いので放置している。
前方の魔物たちは生き物というよりただのでこぼことした塊でしかない。素手ではやりづらい予感がするので、ゲズゥは右の芋虫に似た個体を先に片付けることにした。
壁を伝い走って勢いを付け、頭に該当するであろう部分を思いっきり蹴り飛ばした。芋虫が倒れる間に、壁にかかっていた松明を手に取った。
蠢く巨体に松明の火をつけると、次第に芋虫は燃え上がった。腐った肉が焼き上がるような臭いに、ゲズゥは鼻を手の甲で覆った。
「うわあ!」
塊に襲われているらしい一組の男女が隅に縮こまっていた。そういえば此処は誰かの寝室に当たるらしい。
ゲズゥの視線は二人と二体の上を通り過ぎ、手前に座り込んでいる少女の横顔に止まった。
「ミスリア」
特に何も考えずに少女の名を呼んでみる。
肩を震わせ、呼ばれたミスリアはゆっくりとこちらを向いた。
少女の大きな茶色い瞳は先ずは驚きと怯えに見開かれ、次には安堵の色を映し出していた。
おそらくは、この血塗れの姿に驚いていたのだろう。
しかしゲズゥは、確かに見たのだった。
振り向く直前のミスリアは恐怖を表情に浮かべ、今の今までゲズゥの存在に気付かない程に恐怖の対象を見つめていた。
視線の先に居たのは、魔物ではなく、あの二人の人間だ。
どう見ても恐れるに足る人間には見えないが、ゲズゥが到着する以前に何かがあったかもしれないので、一概には言えない。
――さて残された魔物をどうしようか――と考えていたら、誰かが後ろから飛び出し、直刀で塊たちを素早く切り刻んだ。
ぼとっ、ぼとっ、と小さくなった黒い塊が散り散りになる。案外、呆気ないものだ。
急に現れたその人物に誰もが驚愕する中、ゲズゥは一人感心していた。
何故ならその男はいきなり現れたのではなく、巧みに気配を消して影の中に立っていたからだ。
「アニキ! すいませんっ」
すかさず男の方が立ち上がり、謝罪した。
「別にいいぜ」
遅れて現れた男はけろりと謝罪を流し、刀を収めた。すぐに助けに入らなかったことに微塵も後ろめたさを表していない。
ゲズゥにもそれが誰なのかすぐにわかった。勿論、名前は覚えていないが。
左頬に黒い墨で描いたような複雑な模様。頬骨から顎下まで続くそれは、パッと見た印象では文字が絡んでいるようで、同時に絵のようでもある。
顔の模様があまりに目立つためか、男の他の特徴はなかなか記憶に残らない。
「で、何か揉めてたん? 魔物云々の前にも騒いでんの聴こえたぜ」
模様の男はミスリアとベッドの上の下着姿の男女を見比べ、訊ねた。
「え、そこの小娘が盗んだ物返せーって」
「ふーん。何盗んだんだ」
「こいつが、風呂ん時に、水晶の付いた銀ペンダントを……」
男は自分に寄り添う女を指差して言った。
「な、何よ。客人だとか言ったってこれくらい、盗られる方が悪いでしょ!?」
「それは別に否定しないけどさ」
模様の男がやる気無さそうに頷いている。
「嬢ちゃん、大丈夫?」
同じやる気の無さそうな声色で、模様の男が問いかけた。一歩、ミスリアに歩み寄る。
「……っ」
ミスリアは体を強張らせ、両手を固く握り合わせた。その間に恐らくあの銀細工のペンダントがあるのだろう。
こちらが目を瞠るほどに怯えている。
確かにぬくぬくと安全な場所で育った人間ならば、賊を怖いと感じるのは当然かもしれない。しかしそれにしてもこの怯えようはおかしい。
思えばミスリアは最初から、魔物などよりも人間を怖がっていたのではないか――ふと、そんな考えが脳裏を過ぎった。
魔物を前にした彼女は恐怖心を制御し、むしろ闘志を沸き起こしたり、魔物へ憐憫の情を見せたりしていた。逆に人間の敵が相手だと、途方に暮れていたように思える。
――また一つ、この少女について発見をしたかもしれない。
「この通り、ペンダントは諦めた方が良さそうだな。まあ、後始末はちゃんとしとけよ。そんでとりあえずオレらは出ようぜ」
模様の男は最初の言葉はベッドの上の男女に向け、最後はゲズゥたちに向けて言った。手首を振り、「ついて来い」と示している。
断る理由も無いのでゲズゥは言われたままに部屋を出た。数秒後、俯き加減なミスリアも出てきた。首にペンダントを付け直している。
模様の男が振り返った。
「手伝ってもらって悪いな。……で、お前は何で裸なんだ」
苦笑いを浮かべて、男はゲズゥに訊ねた。
言われて、ゲズゥは己を見下ろした。
先ほどかぶった魔物の血を除けば、身を隠している物が何一つ無い。だからと言って自分では何とも思わないが、今更気付いたのか、隣のミスリアがあからさまに目を逸らした。
「慌てて飛び出すからよ」
通路の奥から声がした。それに応じて模様の男が壁に寄り、背後から現れたアズリを通す。
「服、持ってきたんだけど。先に体洗った方がいいんじゃない?」
ゲズゥはただ差し出された衣類を受け取った。尤もな提案だが、いい加減に眠い時間なので風呂は遠慮する。服が汚れるのも構わずに着直した。
すぐ傍で、袖の長い、半透明の薄いガウンだけを纏った姿のアズリが昔と変わらない笑顔を浮かべている。
「姐さん、流石に遊びが過ぎませんか」
模様の男は不快そうに顔を歪めた。アズリがゲズゥの服を持っていた点と、二人が発する微かな酒の匂いから何かしら察したのだろう。
「イトゥ=エンキ、あの人は私のすることにいちいち口出したりしないわよ」
「どーでしょーかね。頭はああ見えて嫉妬深いでしょ」
「以後、気を付けるわ」
模様の男の指摘に、アズリは曖昧に笑った。下ろしたままの髪を指先で弄んでいる。
「魔物退治、お疲れさま」
じゃあおやすみ、と言ってアズリはくるりと踵を返した。
残り香が鼻孔をくすぐる。
――この女の上辺だけに騙される男が一体如何ほど居るのだろう、とたまに思いを馳せることがある。
アズリの気遣いは総て形だけで、深みが無い。人を立てる言葉や行動を重ねていても、実際は何もかも己の為にやっていることだ。
或いは男はその事実に気付いても、女の色香を求め、それに酔いたいのか。かつての自分を思い返して、ゲズゥは複雑な心持になった。
模様の男が、短くため息を付いた。こいつもこいつで複雑そうである。
「ったく、しょうがねーヒトだな……」
同感であるが、ゲズゥは相槌を打たなかった。
「空いた部屋まで案内するぜ」
そう言って歩き出した男に、ゲズゥとミスリアは無言でついて行った。
しばらくの間、誰も何も言わないまま、入り組んだ通路を曲がり曲がった。不自然な程に誰ともすれ違わないのは、この男の計らいだろうか。
「なあ」
ふいに、先を歩く模様の男が、決して大きくない声を出した。
「そのペンダントの形……ヴィールヴ=ハイス教団と、聖獣信仰の象徴だろ。嬢ちゃん実は聖職者か?」
男は立ち止まった。ポケットに両手を突っ込んだ状態で、振り返る。
自ら答える気は無いのか、ミスリアはサッとゲズゥの背後に隠れた。
仕方なく、背に隠れた少女に代わって、ゲズゥが男と睨み合った。濃い紫色の瞳だった。
「別に変な真似はしねーよ。ただ訊きたい事があるだけだ。交換条件とでも思えばいいだろ」
模様の男の表情は真剣そのものだった。
「……どういう意味だ」
ミスリアは未だにゲズゥの後ろから出て来ない。
「オレは見てたんだよ。さっき嬢ちゃんがペンダントを取り返して、途端に体が光って、そのすぐ後に魔物が現れたんだ」
男は声を低くした。
その言葉に、ゲズゥは目を細めた。ミスリアの体が光るのは別段珍しくも何とも無い話だが、そうした直後に魔物が現れると言う現象は、知らない。
「こう、矢みたいにまっすぐな光が上に伸びて。どういう魔術だかしんねーけど、嬢ちゃんが魔物を呼んだんじゃねーの」
模様の男は人差し指を立て、天井へ向けて垂直に伸ばした。
「他の奴らには黙っててやるから、そのかわり、訊きたいことがあんだよ。別に今晩答えてくれなくてもいいからさ」
低くなっていた声が、元通りに戻っている。心なしか笑っているようにすら思える。
無害そうで、実際はほぼ逃げ場の無い提案だった。
ミスリアが魔物を呼んだにせよ呼ばなかったにせよ、この男がこんな考えに辿り着いた以上はそれだけで波紋を広げるには十分である。味方が誰一人として居ない状況で、言いがかりを否定する力は皆無だ。
しかも、請け負ったところでこの男が口約束を守る保証も無い。
ミスリアはようやく、ゲズゥの後ろから踏み出した。
「……いいでしょう。私に答がわかる問いであれば、ですが」
少女の貼り付けられた笑顔を見て、本当に魔物を呼んだのだな、とゲズゥは察した。
「わかるだろ多分。じゃ、部屋はここだ。厠はあっち」
男は右を指差した。
「明日にでもまた話そうぜ……えーと、ミスリア嬢ちゃん」
ゲズゥに向けては頷くだけで、名を呼ばない。
「……案内ありがとうございました」
性分なのだろう、ミスリアは丁寧に礼を言い、お辞儀までした。模様の男の姿は闇に溶けて消えた。
連れて来られたのは、殺風景な部屋だった。唯一のベッドはミスリアに譲り、床には毛皮のラグがあるので、ゲズゥは迷わずそっちを選んだ。黄金色の毛皮は、山猫のものだろうか。暖かそうだ。
ミスリアが隅の水瓶をじっと見つめている。何がしたいのかと訊ねたら、寝る前に手を洗いたい、でも重そうで自分では持ち上げられない、と返事を返された。
ゲズゥは屈んで、水瓶を持ち上げた。
「…………お前が魔物を呼んだと言うのは」
人の気配が無いことを確認してから、口を開いた。
傾けた水瓶の口から、水が流れる。
「理論上は可能だと、カイルが教えてくれました。それを試したまでです」
目線を手元から離さず、ミスリアは手を擦り合わせて洗っている。
「あくまで理論上の話で、実践訓練などで教えられるような技ではありません」
そう続けて、どこからか取り出したハンカチで手を拭った。
ゲズゥは水瓶を元に戻した。
――何故そんなことを?
問い質そうかとも考えたが、ミスリアはこれ以上の会話を拒否するようにベッドに潜り、毛布に包まった。白い毛布からは彼女の髪の栗色だけがはみ出ている。
後で聞き出せば良い。
そう判断し、ゲズゥもラグの上で眠りに落ちた。
_______
ふと、目を覚ましたら――淀みない暗闇の中で浅い泉に立っていた。膝までの深さである。
肌に水が触れているという曖昧な感覚があるだけで、足元を見下ろしても何も視認できない。
水が冷たいのかどうか、温度の感覚も無い。
訳がわからずに一歩踏み出した。
音がしなかった。
ならばとあることを試してみよう、と閃いた。
左の掌に右手の指で自分の名前を書こうとするも、何度やってもうまくできなかった。
(字が形にならないということは、ここは夢の中なのね)
ミスリア・ノイラートは納得した。勿論、字を書いてみれば夢かどうかわかる、というのは友人に教えてもらったマメ知識みたいなものだ。
さて夢だとわかったからにはどうしようか、とのんびり考える。自覚しながらなんて、滅多に見れない類の夢だ。
(好きなものを登場させて楽しもうかしら……)
俄かに視界が明るくなった。両目を手で覆ってやり過ごす。
「お姉さま!?」
手をどけたら、目の前に懐かしい姉の姿があった。
ミスリアと同じ栗色のウェーブ髪と、茶色の瞳。
(夢だから会えているだけ? それともお姉さま、何かを伝えようとしてるの――)
優しく微笑む姉に向かって走り出した。
忽ち、笑顔が曇った。次第にそれは物憂げな表情になり、ついには姉は泣き出した。
「せいじょになってはだめよ」
ミスリアは怯み、立ち止まった。
そして悲鳴を上げた。
姉の額が、音も無く半分に割れたのだ。しかしそれはもう姉ではなく、赤い髪の少女になっていた。空のように青い瞳が恨めしげに睨んでくる。
ミスリアは泣き崩れ、口の中で幾度と無く謝罪の言葉を連ねる。
――ボタリ。
唐突な音が、しじまに響いた。
指の間から覗き見ると、誰かの首から剣を抜く人影がいた。女性のシルエットに思えた。
どうやら、記憶がごちゃ混ぜになって再現されているらしい。
(この場面は……)
女騎士が隣国の兵隊長を殺した時のものだ。
人影は満足そうに剣に付いた血を眺め、やがて高笑いしだした。
理解できない、むしろ、一生理解したくも無い心情である。
ミスリアは拳を握り締め、唇をかみ締めた。
人影は剣を手放さないまま、振り向いた。
それはいつの間にか、無表情に佇むゲズゥの姿に成り代わっていた。
_______
夢と現の境を再び飛び越えた瞬間、目に映ったのは同じ端整な青年の顔だった。
ミスリアは息を呑んだ。
覗き込まれていると形容して良いほどに顔が近いが、相変わらずその顔に表情は浮かんでいない。
状況を思えば、魘されていた、みたいな事を指摘されるかと思ったけれど、ゲズゥは開口一番に別のことを言った。
「模様の男が来てる」
「はい?」
入り口に立つ、白いシャツに麻ズボンといった楽そうな格好をした男性の姿を認めて、ミスリアは理解した。肩に届くくらいの長さの黒髪が無造作に跳ねている。
「イトゥ=エンキさんですね。……あれは刺青では?」
「いや。おそらく『紋様の一族』だ。生まれ付きだろう」
「もんようの……?」
ミスリアはベッドの上で起き上がり、夢の余韻を忘れようと努めた。寝汗が少し気持ち悪い。
「へー、よく知ってんな、超マイナーなのに」
イトゥ=エンキは己の左頬をつねった。
「会うのは初めてだがな。話くらいは聞いていた」
「流石、同じマイノリティの『呪いの眼の一族』ってとこか」
二人が何気なく言葉を交わす内にミスリアは自分の格好を見直し、失礼な箇所が無いと確認してから、ベッドを滑り降りた。
紳士ならば寝起きの淑女の下をいきなり訪ねたりしないものである。ここでそういう常識が通用しないことにはもう驚いたりしない。
「オハヨウ、嬢ちゃん。昼でも一緒にどうだ?」
イトゥ=エンキは軽い調子で誘った。よく見れば精悍な顔立ちなのに、やる気の無さそうな雰囲気がそれを些か台無しにしている。
「もうお昼の時間なんですか?」
つい訊き返した。
「まあな。洞窟の中だと昼も夜もねーけど」
彼は肩を竦めた。
(そんなに寝てしまったの)
なんてだらしない。
一瞬焦るものの、よく考えれば何時に寝たのかが定かではないのだから、短い睡眠時間だったかもしれない。
「この山脈全体がオレらの拠点みたいなもんだから、山々の間とか天辺に吹き曝しの集合場所があるぜ。そんで食堂も外だ。今日は晴れてるしちょうどいいだろ」
「凄いですね」
「来るか?」
彼は再度誘いの言葉を発した。
「あ、はい、行きます」
昨晩の約束があるので、迷わず承諾した。
それまで静観していたゲズゥにも、一緒に来ないかとミスリアは目で問いかけた。
「俺はもう少し寝る」
そう言いながら欠伸をしている。
「わかりました」
ミスリアは支度をさっと済ませてから、イトゥ=エンキについて食堂へ行った。
迷路のような洞窟を十分ほど進んで、やっと日の光が目に入る。
あまりの眩しさにミスリアは瞼を伏せた。闇が急に光に転じるというのは、どことなく、さっき見た夢を思い出させる。それは決して気分の良いものではなかった。
爽やかな午後の済んだ空気を吸い込んで、頭の中を良い意味で真っ白にした。
そこからしばらくの間、伐採された山肌を二人で登った。
こうして見渡すと、伐採されているいくつかの箇所を除いて、山は全体的に濃い緑色に覆われていた。全貌を目に入れるとただ絶句するしかないような大自然は、山に慣れた人間、または余程の理由がある人間でなければ、踏み入ってみたいとは思わないような世界だった。
登った先に、先ほど言っていた通りの吹き曝しの広場があった。足場が平たくなっていて歩きやすい。
木製のベンチと長方形のテーブルが並び、その半分くらいが既に取られていた。
笑い声と怒鳴り声と歌声が入り混じったようにざわついている。
「ここがそうだ。ウルサイとこで悪いなー」
イトゥ=エンキは片手をポケットに突っ込み、煙と湯気の立ち上がる場所へ向かってつかつかと歩いた。
「何食べる? 主な選択肢は煮物と揚げ物、鳥と兎と……」
「えーと、私はイトゥ=エンキさんと同じでいいです」
「りょうかい」
料理人に向かって、彼はミスリアには理解できない言語で話しかけた。しばらくの応酬の後、木から彫られたお椀を両手に持ったイトゥ=エンキが先導して、二人は空いたテーブルに座った。
「熱いから気をつけてな」
「はい」
他のテーブル含め、誰も食器を使っていないので、どうやら啜って飲む物らしい。いつも以上に注意を払いながら、お椀のふちに口をつけた。
(この人は親切そうなのに……というよりまともな人な感じがするのに、盗賊なのね)
向かいに座る男性を上目遣いに盗み見た。
ミスリアは困惑を覚えていた。自分が抱いていた賊のイメージと、目の前の人間が噛み合わない。
――悪事を働く人間が、果たして皆悪人であるのか?
「天下の大罪人」に会うと決めた以前から疑問に思っていたことが、今またミスリアの中で一つの問題となって浮かび上がっていた。
思えば、ゲズゥもまた肩書きとどこか噛み合わない性格をしている。
どうしてそう感じるのかはまだ良くわからない。彼が顔色一つ変えずに人を殺すだろうことは想像に難くないし、あまり罪の意識を覚えている様子も無いのに、やはり「天下の大罪人」の呼び名と本人との間に違和感があるような気がするのだ。
(人は、心のままに生きるとは限らないのかしら)
それとも、悪事を働く時だけの状況と条件があると?
失礼にならない程度に鳥肉の煮物にそっと息を吹きかけながら、ミスリアは考えを巡らせた。
煮物と言ってもほとんど具よりもスープの部分が多く占めているのでスープと呼んだ方が正確かもしれない。
美味しそうな匂いに反応して胃が音を立てて踊る。熱いからまだダメ、と何度も頭の中で反芻した。一方、向かいに座る彼は何とも無さそうに片手でお椀を持ち上げてスープを啜っている。
スープと湯気とイトゥ=エンキに気を取られ、ミスリアは横から現れた気配に気が付かなかった。
「なあなあ、ゲズゥ・スディルがヴィーナ姐さんの昔の恋人ってホントかっ?」
いきなり誰かが隣に腰を下ろしてきた。肘をテーブルに乗せて、詰め寄ってくる。
「え」
見知らぬ男性の出現にも驚いたけど、質問の内容に何より虚をつかれた。
「どぉなんだ?」
ニヤニヤ笑いながら肥満気味の男は答えを促した。聞き慣れない訛りで南の共通語を話している。耳障りな声に、はっきり言って体臭のきつい人である。
ミスリアは身を引いた。すると背中が何かにぶつかった。
「なんかそんな雰囲気だったじゃん、なあ」
空いてた隣にまた誰かが腰を下ろしていた。こちらは酒臭い。
「嬢ちゃん、アイツの何? 泥沼ってヤツになるかねぇ。三角……じゃない、四角関係だな!」
昼間であるに関わらず、明らかに酔った男がミスリアの背中を叩いてガハハと大笑いしている。顔の半分が薄茶色の髭に覆い隠されている。
(やだ、何この人達)
両端を挟まれて逃げ場が無いミスリアは引きつった笑顔だけ返した。
(そんなこと訊かれたって、私だって知りたい側の人間だもん)
昨夜は疲れて混乱していたため、そしてアミュレットの問題が優先だったため、何も見なかったことにした。後になって、二人の間にあったただならぬ空気が気になって気になって仕方がなかった。
何か良からぬ感情が胸の奥で渦巻いている気がする。
唯一の旅の供を失う不安だろうか? それよりもっと子供っぽい、独占欲?
ミスリアが思い悩む横で、左右の男たちはグダグダ喋り続ける。
――ドン!
いきなり大きな音が響き、勢いでテーブルが振動した。慌ててお椀を両手で支え直す。幸い、ミスリアのスープは零れなかった。
食堂中に妙な沈黙が満ち、全員の注目がイトゥ=エンキに集まった。
「お前ら、ウザイ。嬢ちゃんと今話してるのオレなんだけど」
紫色の双眸に一睨みされて、絡んできた男たちは青ざめた。
「五秒以内に失せろ、でないと耳の一つでももらうぞ」
いつの間にか彼の手には鋭利な刃物が握られていた。普段腰に提げている直刀である。
「すいません、アニキ!」
髭に侵食された方の男が謝ったのと同時に、二人は走り去っていた。
更にイトゥ=エンキが素人のミスリアにすらはっきりと感じ取れる殺気を発したため、集まっていた視線は散った。
内心気圧されているものの、ミスリアは落ち着いた様子を装った。
二人は沈黙の中、スープを啜った。
(素朴だけど美味しい……)
鳥を捌いた人の腕前か、肉の間に混ざるであろう骨の破片も少なくて食べやすい。
お椀の中身が半分なくなった頃には食堂に喧騒と活気が戻っていた。それに乗じて、ミスリアも口火を切った。
「あの……不思議に思っていたんで訊いてもいいですか。愚問でしたらすみません」
「どーぞ?」
「……明らかに年上の方々に『アニキ』と呼ばれてるのは立場が上だからですか? 貴方の方が強いからですか……?」
「あー、そういう話。そりゃ弱かねーけど、アイツらが礼儀を払うのは別にオレの実力がどうとかじゃないぜ、頭の気に入りだからだ。つっても頭が好きなのはオレの顔だとさ」
「か、顔ですか?」
予想外の返答にミスリアは目をぱちくりさせた。
「男色でなければ両刀だとか思ったろ?」
イトゥ=エンキは頬杖ついて唇の左端だけ吊り上げて笑んだ。
「そんな下世話な想像なんてしてません!」
「ははは、冗談冗談。ただの芸術品を愛でるのと似たカンジだから。それより、オレの質問の番」
彼がそう言った瞬間、空気が重くなったように感じられた。ミスリアはお椀を置き、姿勢を正した。
「はい。何でしょう」
「岸壁の上の教会ってのに、心当たりあるか?」
「!」
ミスリアは息を呑んだ。
(それって――)
深く大きな川に面し、突き出る高い岸壁。外界から隔たれたその場所に建つ、空と海の色に彩られた美しい教会。
絵画や本で見ただけで自分の足ではまだ行ってみた事の無い場所だけれど、確かに知っている。
「あるんだな」
イトゥ=エンキは確信したように一言だけ漏らした。
「どうして貴方がそれを?」
ミスリアは慎重に訊き返した。
「どうして教会の存在を知っているかって? それともどうして場所を知りたがっているかって?」
「……では後者で」
「探してるモノがあるんだよ。見つかるとはもう思っちゃいねーが、手がかりはそこだけなんだ。嬢ちゃんが聖職者なら知ってるかもと思ったけど、当たったな」
紫色の瞳が悲しげに揺れている。何か深い事情があるのは明白だった。ミスリアはどう答えるべきか迷った。
アルシュント大陸が如何に広くとも、岸壁の上の教会は一軒しか存在しないはずだった。
その岸壁から東は深い樹海に覆われており、それも予め道を知っていなければ確実に迷うような場所である。なんでも、下手に踏み入れれば数分で眩暈に襲われては気絶するという、いわくつきの樹海だ。
逆に岸壁側から登るのもほぼ不可能とされている。
教会が建つにはやや不自然な地。しかしそれには勿論理由がある――。
イトゥ=エンキはテーブルに肘を付き、ミスリアに顔を近づけて、耳打ちした。
「オレをそこへ連れてってくれないか」
吐息が耳たぶにかかり、ミスリアは微かに身震いした。ハスキーボイスが妙に近い。
「できません。『訊きたい事』はそれだけですか?」
距離のせいか、つい囁くように返事をしてしまった。
「頼む」
「……すみません」
彼の切なげな表情に、ミスリアは動揺せざるを得なかった。それでも、是とは答えられない。
何故ならば、岸壁の上の教会が聖地に建っているからだ。皮肉にもそこが目指すべき最初の巡礼地でもあった。
聖地に賊を連れて行くことが叶うとは思えない。むしろ、聖女の護衛を務めるゲズゥですら敷地内に入れないかもしれない。
「本当は、自分の足で行ってみようと試した事もあった。でも樹海が阻む。どうあっても進められねーんだ」
「そうまでして何を探してらっしゃるんですか? 何を、ではなく、誰を、と訊ねるべきでしょうか」
「生きてるか死んでるか知りたいだけなんだよ。生きてるなら、元気かどうか確かめたい。十五年経ったけど、どうにも諦められないんだ。これって変だと思うか?」
ミスリアが口を開くより先に、頭上から低い声が降りかかった。
「変だなんてことは無い」
そう呟いたゲズゥがミスリアの隣に座った。鳥の揚げ物の串を三本、右手に持っている。
「何だ、盗み聞きか」
必死な表情がすっかり消えたイトゥ=エンキは怒っている風でもなく、のんびりとした口調だった。
「気にするな」
無機質な返事。バリバリと串の肉を一本分食べ切ってから、ゲズゥはまた喋った。
「家族の安否を諦められないのは当然だ」
ゲズゥはどうやら、イトゥ=エンキが家族を探しているらしいと文脈から拾ったようである。「気にするな」は盗み聞きの話ではなくさっきの「変だと思うか?」の質問に対して言っていたのかもしれない。
「……オレはお前と同じだよ、『呪いの眼の一族』。ウチの一族は駆逐こそされなかったが、紋様が美しいからって理由なだけで愛玩奴隷として求められ、利用され、飽きられたら捨てられた。そうして発狂し、果ては身を投げた同胞は多く居た」
何を思ったのか、イトゥ=エンキは愁いを帯びた声で壮絶な事実を語り出した。
「または、紋様の中に重大な魔術やら秘密やらが潜んでいると思い込んだ人間に監禁されたり、研究対象にされたり。そんな特殊な機能も意味も何も無いってんのに、悲惨なもんだよ」
「ああ。人間は醜い」
ゲズゥは二本目の鳥肉を食みつつ、あっさり賛同した。
何とも居心地悪い話題である。少数民族としての二人の会話に、一般人のミスリアが入っていくことはできない。
食堂では明るい話し声が飛び交っている。ここのテーブルだけ、切り離された空間みたいだった。
ミスリアは空になったお椀を指先で押し退けたり、そっと回したりして玩んだ。
「そういう訳だから、後生だ」
イトゥ=エンキは再びミスリアと目を合わせて懇願した。人目があるからなのか、手を合わせるまではしていない。そうでなければ土下座でもしそうな雰囲気である。
「ダメです。貴方を信用できませんから」
ここは一つ直球で応えることにした。
「じゃあ、これから信用に値する人間だってアピールするから、大丈夫だと判断した暁にはオレの頼みを聞いてくれるか」
「そ、そんなこと私の一存では……代わりに問い合わせることならできると思いますが」
ミスリアは口ごもった。あまりに真摯に頼むものだから、つい承諾しそうになってしまう。
(敷地まで入れなくても付いてくるくらいなら……)
後は教会に入ってミスリアがその人のことを訊ねればいい。そこまで譲歩してもいいと考え始めている。
「――最後に見たのは泣き顔だった」
ぽつり、彼は呟いた。伏目がちにテーブルに視線を放っているように見えるけれど、焦点がそこに合っていない。
「楽しい思い出も沢山あるけどな、この十五年間、一番思い出すのは最後に見た顔なんだよ。殴られた痕であちこち腫れてて。何があっても生きろと、泣きながらオレに言い聞かせた」
どれほどの苦しみであったのか、本人でなければわからない。
それでも話を断片的に聞いただけでもミスリアの胸は鋭く痛んだ。
「わかりました。では、貴方が信用できる人間とわかり次第、必ず連れて行くと約束します。イトゥ=エンキさん」
そう言葉をかけてやるのが精一杯だった。
_______
するりと、暖かい髪が首筋に触れる。くすぐったさに、ミスリアは身じろぎした。
すぐに背後からくすくすと笑い声が聴こえた。
「くすぐったかったかしら。ねえ、若さっていいわねぇ、少しぐらい手入れを怠っても髪の毛がこんなに柔らかくてサラサラなんだもの」
艶やかな女性の声がすぐ近くにある。
(若さって……そういう貴女はおいくつなんですか……)
とは、口に出して問うことができない。
食事も済んで、何故かミスリアはヴィーナに髪を梳かしてもらっていた。勿論言いだしっぺはヴィーナである。食堂にいきなり現れてはミスリアを自室へ連れて来たのだった。広い部屋には灯かりがいくつも灯されていて、洞窟の中であるとはまったく感じられない。
そこでヴィーナは着せ替え人形にするように服を選び、次々とミスリアに着せた。ようやく、白地に真紅の花柄とフリルの付いたドレスに落ち着いたかと思えば、今度は鏡台の前に座らせて髪を梳き始めた。
馬の体毛を用いた高価なブラシが、ミスリアの栗色のウェーブがかった髪を通る。
その間、ミスリアは黙りこくっていた。
「生き別れた妹を思い出すわー」
うきうきとヴィーナが言った。
「妹さんはどうされたんですか?」
「あら? 適当に言っただけなんだけど、信じちゃったの?」
「はい?」
「いないわよー、妹なんて」
またくすくす笑う声がする。
(何でそんなこと)
一体何のために適当に嘘をつくのだろう。理由があろうともなかろうとも、からかわれているのは確かだ。ミスリアはわけがわからず、イライラしてきた。数時間も着せ替えに付き合ったストレスも溜まっている。しかし断れない性格のミスリアと強引なヴィーナとでは、覆せない結果である。
「ねえ」
「今度は何ですか」
いつになくキツイ口調になってしまい、ミスリアははっとした。謝るべきか検討するも、ヴィーナは気にしていないようだった。
「赤いチューリップに合わせて赤いカチューシャ。これを付けたら出来上がり」
フリルのついたカチューシャを渡された拍子に、ヴィーナのあの不思議な香りが微かに鼻に届いた。
ミスリアは言われたままにカチューシャをつけ、改めて鏡の中の自分の姿を確かめた。
すると自分でもどう反応すればいいのかわからないくらい可愛いらしい少女が写っていた。
着飾り、下ろした髪を綺麗に整えるだけで普段と全然違う印象をかもし出している。こういった柄や色は滅多に着ないので新鮮だった。
初めて味わう浮遊感に戸惑いつつも、ミスリアはお礼を伝えた。
「いいわよ、その服あげる。元の持ち主が着れなくなっちゃって。でもあんまり可愛いから取って置いたのよ。似合う靴が揃ってなくて残念だけど」
そう言って、ヴィーナはミスリアの肩を掴み、自分に向けるようにくるりと回転させた。
サファイア色の瞳が満足そうに輝いていた。
「ありがとうございます。でも、私には勿体無いので謹んで遠慮します」
もらった所で今後使い道が無さそうな服である。それでも、一応深々とお礼をした。それについては、ヴィーナは何も言わなかった。
「ねえ」
「はい?」
「私とゲズゥがどういう関係だったか、気になる?」
彼女は首を傾げて、ゆっくり訊ねた。刹那、彼女の両耳の大きなイヤリングが光を反射した。
ミスリアはその場で固まった。
「気になるでしょう」
「そ、それは……」
気にならないわけが無い。唐突に訊くものだから、取り繕う余裕が無くて困る。
「知りたかったら、教えてあげてもいいわよ」
ヴィーナはにっこり笑って見せた。優位に立つ者の話し方だった。
それからの沈黙がやけに重い。
鏡台の上に置かれた蝋燭の炎が揺らめいた。広い部屋で二人きりである事実を何故か急に意識してしまう。
「知りたいです」
ついには搾り出すような声で、ミスリアはお願いした。ゲズゥに聞いても答えてはくれないだろう。
人の過去を聞くことに後ろめたさはある。それでも、知りたい願望の方が圧倒的に強かった。或いはこんな風に追い立てられるように訊かれたのでなければ、「知りたくない」と答えられたかもしれない。
「――男と女の関係」
ふくよかな唇が囁いた。
(やっぱり)
予想内の返答に、ミスリアは膝の上で手を握り合わせる。
「……でもそこに愛は無かったわ」
淡々と言って、ヴィーナは簪を唇の間に銜えた。次いで空いた両手で長い紺色の巻き毛を一つにまとめ、簪を挿した。
ミスリアは彼女の次の言葉を待ちながら、鏡を見ていないのに器用だな、と思った。
「アナタにはまだ、意味がわからないかしら」
「……そう、ですね」
「あの子は恋と勘違いしてた時期もあったみたいだけど……」
ヴィーナは懐かしむように目を細めた。
(あれ? 何だかものすごく意外な単語を聞いたような)
返すべき反応がわからなくてミスリアは何も言わずに居る。
「あとは、本人に訊いてみるといいわ」
ふわっと微笑んで、ヴィーナは部屋の出入り口へ向き直った。ミスリアもそれに合わせて視線を右へずらした。
入り口の左右に、それぞれゲズゥとイトゥ=エンキが佇んでいた。二人とも気配が消えているのに、ヴィーナは良く気付いたものである。
「何を訊いてみるって?」
面白そうに訊ねたのはイトゥ=エンキだ。耳から上の髪の毛を後頭部で束ねている。
「なぁに、立ち聞きしてたんじゃないの?」
「生憎とオレは地獄耳じゃないんで。コッチは聴こえたかも」
彼は親指で向かいのゲズゥを指した。
「……」
ゲズゥは無言無表情を崩さなかった。
「まあ、私はどちらでも構わないわ」
そう言ってヴィーナはミスリアの手を引き、入り口まで近付いた。
「はは。嬢ちゃん、そういう格好もカワイイな」
「ありがとうございます」
ドレスを広げる礼を返した。
「それで? 私に何か用があったの? それともミスリアちゃんの方?」
「両方かな。頭から通達が来ましたよ。今晩の夜には戻るそうです」
「そうなの。それは色んな意味で楽しみね」
ヴィーナは二人の男の間を通って通路へ出た。身体にぴったりとしたドレスによって、後姿の曲線が目立つ。いっそ羨ましいほど綺麗なくびれである。
「そういうことだから、心の準備でもしとくんだな」
ミスリアを振り返ったイトゥ=エンキの顔には、意味深な微笑が浮かんでいた。
すぐに彼はヴィーナの後を追った。
残されたミスリアはゲズゥをチラッと見上げた。
左右非対称の両目が、じっと見つめ返す。
やがて彼は瞑目し、溜息を吐いた。
「……アズリが言うほど当時の俺は勘違いしていなかったが、アイツをがむしゃらに求めた根本にあったモノは支配欲とでも形容した方が的確だな」
「しはいよく……?」
「どの道アイツは俺を選ばなかった。ただの暇つぶしのつもりだったんだろう」
そう言って歩き出した青年の背中には、哀愁も何も漂っていなかった。
以前言った通り、再会してもしなくてもどうでも良いほどに未練が残っていないのかもしれない。
ミスリアは頭を振った。
恋だの欲だの、自分にとっては全く未知の世界である。考えれば考えるだけ頭が痛くなっていく。
そんなことより生死のかかった問題から焦点を当てていこう。
拳を握り締め、ミスリアはそう心に決めた。
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