16.

 山の上から眺める夜明けの色合いはたとえようも無く美しい。感嘆していたら、ちょうど白い鳥の群れが視界を過ぎった。

 澄んだ空気を肺一杯に吸い込むと、未だ昨晩の疲れが癒えない身体にも多少の活気が戻る。

 下へ視線をずらせば濃い緑色が辺りを占め、麓にあるはずの民家を隠している。

 その情景を目に入れたまま、ミスリア・ノイラートは自分の肩より少し長い、茶色の髪を指で梳いた。寝癖の所為かいつも以上にウェーブ髪がしつこく絡まりあっている。梳き終えると、ポニーテールに束ねた。

 ミスリアにしては珍しく、ズボンを履いた旅装姿である。

 アルシュント大陸では女性のズボン姿はあまり受け入れられていない。職業か稼業がそれを必要としているならともかく、淑女は決まってスカートを履くものとされている。

 しかし今は世間の目も無いし、山越えをするからには、動きやすい格好でいなければならない。

 大体の支度を終えたミスリアが振り返ると、ゲズゥ・スディルが同じく旅支度を整えていた。

 彼は父親の形見だという曲がった大剣を丁寧に拭っている。

 青年の整った横顔につい見惚れていたら、その顔が何かに気付いたようにこちらを向いた。

「お、お早うございます」

 ミスリアは本日最初の挨拶をするも、これといって返事は無かった。

 よく見れば、彼の黒い右目はミスリアを捉えていない。眼差しは左後ろへと通り過ぎている。

 その視線の先を追った。

「あ!」

 そこには昨夜会った、トリスティオと名乗った黒い巻き毛の少年が立っていた。相変わらず足音が静かである。

 初めて姿を見かけた時とほとんど変わらない格好で、俯いている。そのためか顔に陰りができて表情が良く見えない。

(って、あれ? 昨日とほとんど変わらないどころか……もしかして着替えてすらいない?)

 泥や返り血やらの痕と思しき汚れの付着した服と弓矢を見て、そんなことを思った。

「あの」

 意を決したように、少年は顔を上げた。

 彼の目の充血具合を見るに、一睡も眠らなかったのではなかろうか。夢すら見ない深い眠りを経たミスリアとしては、妙な罪悪感があった。

 けれども彼は、自分の両足で立っている。昨日の今日だというのに、賞賛すべき精神力だ。

「はい」

 ミスリアはただ一言、返事をした。

「……昨日は助けて下さって、ありがとうございました!」

 一度姿勢を正してから、トリスティオはがばっと頭を下げた。

「え? あ……いえ」

 急なことに、思わずしどろもどろになる。ゲズゥを見やると、彼は無関心そうに大剣の手入れを継続していた。

「なんか昔から何かあると余所者の所為って事になってて、皆はあんなでしたけど、でも助けて頂いた事に変わりありませんから! ちゃんとお礼言わなきゃって思って追ってきました。まだ近くに居てよかった」

「そんな……お気になさらないで下さい。私は無力でした。結局、救えなかった命も……」

 語尾に向けてミスリアの声は沈んでいった。

「いいえ。レネも、他の人たちも、おれが不甲斐ないからああなったんす。聖女さんが気にすることないっすよ」

 ミスリア以上に、トリスティオの声は暗い。

「……おれが子供だった頃はまだ魔物なんて全然少なくて、平和でしたよ。魔物狩り師になりたいって言ったら、バカなこと言ってないで畑を手伝えって大人たちに笑われてたんす。でもレネだけは笑わないで、応援してくれた……」

 懐かしむように、彼の口元が綻んだ。

「そう、だったんですか」

 後に魔物の数も増えて、周りも態度を改めたのだろうことは想像できた。

「生まれ育った場所を、仲間を、やっぱり守りたいって思うから、おれはまだ此処に残って、強くなります。レネの学校を開く夢も、代わりに叶えてやる方法が無いか、探したい。居なくなったなんて……全然そんな風には思えなくて……」

「……はい」

 他に、なんて声をかけてやれば良いのかわからなかった。亡くなった人がいつまでも傍に居る感覚を、ミスリアとて良く知っている。

「トリスティオさん……貴方にこんなことを言って良いのかわかりませんけど」

「なんすか? 遠慮しないでどうぞ」

「私がツェレネさんにあげると言った祈祷書があるんですが、あれを一緒に」

 葬ってあげて欲しい、と言おうとして詰まった。

「そうっすね、きっとその方がアイツも喜ぶっすよ。うちは火葬の風習があるんで燃やすことになりますけど」

 言い終わらなかったが、トリスティオはそれを察した。苦々しい顔をしているのは、遺体の状態を思い出したからなのかもしれない。

「構いません」

 たとえちゃんと供養してもらえても瘴気の濃い場所では魂が魔物に転じることはある。それを心配してのことだ。シャスヴォルの兵隊長にしたようにミスリアが自ら葬式を執り行う訳には行かないから、せめて神々と縁の深い祈祷書を一緒に葬らせる。

「聖女さん、一つ訊いていいっすか」

「はい」

 ミスリアは神妙な面持ちになった。トリスティオの森色の瞳が、微かに怨念の炎を宿したからである。

「魔物がいつどこで現れるのかは、予測できないものなんすよね。じゃあ人間は、一体どうすれば後手に回らずに済むんですか?」

「それ、は……」

 責め立てるような目に、ミスリアはたじろいだ。

 問いの答えを、ミスリアは知らない。

 魔物を阻んだり倒したり消滅させる方法は研究されているのに、現れる場所を特定する術は未だに存在しないのだ。ましてや、出現するのを阻止する方法なんて。

 だったら、情報を掻き集めて何とか対策を立てればいいのだろうけど。そこまでは修行で教えられないし、巧いやり方が開発されていないのかもしれない。

 たとえば今考えろと言われても思いつくものではない――

 ふと、友人の声が頭の中で響いた。


「魔物に怯えなくていい世界ってさ、どうすれば実現できると思う?」

「怯えなくていい世界……ですか? カイルサィートさん」

「そう。本当は魔物の居ない世界が理想なんだけど、それは人類の歴史とこの世の仕組みを見る限りは不可能そうだから。あと、カイルでいいって前から言ってるんだけどな。敬称も要らないよ」

「すみません」

 謝るミスリアに対して、カイルサィート・デューセは爽やかに笑いかけた。

 初めて実践訓練で彼と同じ班になった時のことだ。対象の魔物を無事に倒し、浄化も終わったばかりで、全員が帰路に着いた。最後尾で二人並んで歩いていたら、話しかけられた。

 同期の中でも幼かったミスリアは、当時十二歳。もともとあまり社交的と言えないミスリアは六つ年上の異性とは話が合うはずも無いと考え、それまで必要以上に口をきかなかったのだけれど。

「ミスリア、君はどう思う?」

 カイルの琥珀色の瞳の後ろには理知的な光があった。

 容姿や性格が特別目立たない彼は、聖気の扱いに秀でているか戦闘術に長けているということも無く、全ての聖典を網羅している風でもない。ゆえに他の同期生からは注目を浴びない。ところが実践訓練で一緒に組んでみてわかったが、彼はバランス良く何でもできるタイプだ。しかもどうやらかなり頭が良いらしい。

「そうですね。純粋に魔物の居ない世界が不可能だとすると……。『怯え』がポイントなら、『安心』できる世界を造れば良いと思います。いつどこに魔物が現れてもすぐに対応できるように結界や戦力が揃っていれば、人々は守られていることに安心するはずです」

「その考えには賛成。ただ問題は、教団が万年人手不足で魔物狩り師もあまり数が多くないことかな」

「確かに厳しいですね……」

「とりあえずは満たすべき条件を考えてみたんだけど、聞く?」

「はい」

「一つ目は、当然だけど、聖獣の復活。世界から完全に魔物を根絶やしにすることは不可能でも、数を大幅に減らす必要はある。

 二つ目は、魔物がよく出現する場所と出現しそうな場所を常に把握すること。といっても出現しそうな場所なんて『瘴気が濃い』と『死人の魂が多く浮遊してる』場所以上に絞りようが無いけどね。それでもう一つ条件があるんだけど……これが可能かどうか、或いは正しいのかすら、僕にはわからない」

「何ですか?」

 いつの間にか真剣にカイルの話に耳を傾けていた。

「それは――……」


 回想から戻って、ミスリアは目の前の少年をもう一度まじまじと見つめた。

 どうして忘れていたのだろう。カイルが語っていたのは彼自身の仮説でしかなかっただろうけど、現実的で明白な手段だった。去り際に口にしていた「思うところ」も、これに関連していたのかもしれない。

「私には何とも言えませんけれど……トリスティオさん、貴方が求める答えを、知っていそうな人になら心当たりがあります」

 今のカイルなら、あれからもっと具体的な対策に辿り着いていたとしても何ら不思議は無い。

「いつか集落を離れる時があれば、聖人カイルサィート・デューセに会ってみてください」

「聖人……?」

 訝しげに訊き返すトリスティオに、ミスリアは頷いた。

「わかり、ました……覚えて置くっす」

 複雑そうな表情を浮かべている。昨日の今日で、無理も無い。

 トリスティオはいつの間にか隣に来ていたゲズゥの姿を見上げ、深々と頭を下げた。

「気を付けて下さい。特に山奥に入ると山賊の縄張りっすから」

「注意します。お世話になりました」

 無言の姿勢を貫くゲズゥの代わりに、ミスリアが礼を返した。

「や、こちらこそ」

 もう一度互いに礼をして、そうしてあっさりと別れは済んだ。

 去り行く少年の後姿を見届けてから、ミスリアは地面に膝を付いた。

 失われた命の為に追悼の祈りを捧げ、皆の魂の安息を願った。

 それが終わると、今度は自分の願いを心の内に唱えた。

(どうか、私に先へ進む勇気を下さい)

 ミスリアは聖獣か神々か、それとも亡くなった人間に願いかけていたのかもしれない。自分でもはっきりとはわからない。

 隣を見やると、不安や恐怖とは無縁そうな青年が無表情に遠くを見ていた。

「行きましょうか」

 ミスリアがぽそっと呟く。

 返事の代わりに、ゲズゥは歩き出した。


_______


 吹き抜ける突風に、心臓が縮み上がった気がした。

 汗の粒が額から頬を伝った。

 時折聴こえる鷹の鳴き声が、やけに大きく鼓膜に響く。

(た、高い――)

 後ろを振り返っては駄目だと、ミスリアは何度も自分に言い聞かせた。

(何でこんな、落ちたら気絶も即死も出来ないような微妙な高さなの)

 きっと内出血でじわじわ死ぬか、獣か魔物に喰われて死ぬか――どの道、まともな最期を迎えられるとは到底思えない。

 三日前に決めた通り、ゲズゥとミスリアは山肌に沿って踏み進んでいた――

「情報によると教団の人間は大体北へ迂回して遠回りするそうです。私はできれば時間がかからない方を望みます。ゲズゥは何かご存知ではありませんか?」

「……確かユリャンの中央辺りに洞窟がある。そこを通れば一週間程度で楽に山脈を抜けられるが」

「が?」

「賊が張っているはずだ。無茶苦茶な通行料を要求されるらしい」

「大金ですか」

「もっと悪趣味だ。前に話していた知り合いが、旅の連れの一人を売られて、もう一人は腕一本失くしたと言っていた」

「そ、それは、困ります」

「山から下りずに南から回れば余分に二週間はかかるだろうが、山賊を完全に退けられるかもしれない」

「ではその行き方で――」

「……そこは、熊か大山猫が出ると聞く」

「熊!? 他に選択肢は無いんですか!?」

「無い」

「そんな……」

 ――結果、南へ進むことになった。

 道と呼べるような道はほとんど無かった。二人は腰まで来る長い野草を踏み分け、時には岩を登り、山肌を覆う森を突き進んだ。

 幸い、これといった野獣や魔物には遭遇していない。その点を不審に思うべきかどうかはまだわからない。

 ふと、ミスリアが足を踏み外した。

 何か掴める物を求めて両手を振り回したが、運悪く何も無かった。

(落ちる――!)

 最悪の事態を恐れて目を閉じるものの、体は宙に浮かなかった。代わりに、手首が強い力で掴まれた。

 目を開くと、ゲズゥの左右非対称の目と視線が絡み合った。

「ありがとうございます」

 思わずお礼を伝えた。

 ゲズゥは片手でミスリアを引っ張り上げ、次いで両手で抱え上げた。足首を器用に樹の根に引っ掛けて体重を支えている。

 ミスリアを腕に抱えたまま、彼はまた歩き出した。慌ててゲズゥの首に腕を回すと、汗が手に付いた。お互い動き回っているせいで体温が上昇している。

(今更だけど、やっぱりこれは恥ずかしいわ)

 勿論、その為の供でもある。ミスリア一人だったら目的地へ着く見込みが全く無かったであろう旅だ。

(軽々と運ぶんだもの。子供を抱き抱えるのに慣れてるのかしら?)

 そう考えると納得できそうなものだけれど、どこかイメージが合わない。

 草や藪や樹の入り混じった森を進んでく内に、大分標高も高くなっている。

 それまで枝を手や短剣で押し退けていたゲズゥが、手を止めた。途端に、道が開いたのだ。

 ゲズゥは眉間に皺を寄せて近くの枝を調べるように手に取った。

「どうしました?」

「切り口が新しい。奴らの縄張りは思ってたより広いらしいな」

 枝には切られたような痕が付いていた。それは野獣や魔物ではなく、道具を使う人間が、この道を通ったことを物語っている。

「では、熊や魔物が出なかったのも……」

 山賊が原因なのだろうか。

「黙っていろ」

 ゲズゥはミスリアを下ろし、耳元で囁いた。

 耳に熱い息がかかって、ミスリアは反射的に小さく震えた。

「抵抗するな。捕まった方がかえって好都合になり得る。組織の規模や状況がわからないことには始まらない。どの道、今は逃げるのは不可能だ」

 低い声が、鼓膜を打った。

「……わかりました。私にはどうしようもできませんから、貴方の判断を信じます」

 ミスリアは素直に深く頷いた。

「あまり他人を信じると、いつか身を滅ぼす」

 彼はミスリアから離れて、鼻で笑った。

「ゲズゥは私にとって『他人』ですか?」

 どうしてそんなことを訊いたのか、自分でもよくわからない。利害が一致するだけの関係だと昨夜言われたのを、気にしてのことだろうか。

 一瞬、彼が自分を捨てて山賊の仲間入りを選ぶのではないかと頭を過ぎった。しかしそうなっても、詰る資格が自分にある訳が無い。

 ゲズゥは眉を吊り上げるだけで、何も答えなかった。

 そして彼がミスリアに背を向けたその時、周囲が一気にざわついた。

 間もなくして姿を現したのは、十人もの男だった。多勢に無勢とはよく言ったものである。輪の形で、ミスリアたちは完全に囲まれていた。

 十人くらいならゲズゥには倒せるのではないか、と考えたりもするけれど、素人の考えは当てにならない。それに、目の前の敵を全員倒せたところでまた遭遇しないとも限らない。ここはやはり、山賊団の規模を把握した方が良いのだろう。

「うっひょー、久々のカモだぁ。連れ帰ったら姐さん褒めてくれっかな」

「何で姐さんがお前を褒めンだよ。南を見て来ようって提案したのオレだかんな」

「どうでもいいけど何だこの組み合わせ。珍しくね? 駆け落ち? 兄妹で家出?」

「普通、お嬢ちゃんはこんな危ねートコ居ないよなー」

 男たちは余裕綽々と互いにお喋りを始めた。各々、手に何かしら武器を持っていて、隙が無さそうなのは素人の目にもわかる。

 彼らは全員、その気になれば簡単に背景に溶け込めそうな濃い緑や紺色の服を身に纏っていた。

 先刻言われた通りにミスリアは始終黙っていた。けれども無意識にゲズゥの背に隠れ、彼の灰色のシャツの裾を握った。

「金目の物持ってなさそーだけど」

 ミスリアの視界の右端に居る男が、じろじろと嘗め回すようにこちらを眺めている。

「何だっていいだろ。山に入った人間をどうするかは頭が決めるこった」

 中心の、十人の内のまとめ役らしい男が前へ出た。多分二十代後半くらいの歳だろう。ゲズゥ程ではないけど背が高く、同じく細身の筋肉質といった体型である。

 彼の、顔の左半分の凝ったデザインの刺青が何よりも目に付いた。

 男は直刀をスラッと抜き、その先をゲズゥの顎に当てた。

「お前結構デキるみたいだけど、変な真似しないでくれよ。大人しく付いてきてくれたらヤサシクするぜ。余計な傷も付けないでやるから、どうよ」

「…………」

 瞬きの一つすら、ゲズゥは微動だにしない。

「無言は肯定と受け取るぜ。お前ら、コイツの武器一応没収しとけ。んで、二人とも適当に縛っとけ」

 男は武器を鞘にしまうと、顎で仲間に合図した。

「うーい」

 近くに居た男二人が手際よく、ゲズゥの腰の短剣と背中の大剣を引き剥がした。

「にしてもデケー剣だなぁおい。こんな形初めて見たぜ」

「重っ……。こんなん振り回せんの?」

 男たちはブツブツと呟き合った。

「お嬢ちゃん、そんな怯えなくてもいいぜ。別に殺しやしねーさ。すぐにはな」

 背後からそんな言葉をかけられ、ミスリアは震えが増した。縄をかけながら触れてくる手の感触が、気持ち悪い。

 ゲズゥを見上げると、彼は気付いて目だけ動かした。何の感情も映し出さない、黒曜石のような右目と一瞬だけ目が合うと、不思議とミスリアの不安も和らいだ。

「アニキ……オレ、この野郎の方、どっかで見た気がするんだけど……」

 若い男の一人が難しい顔をして呟いた。

「んー? ムカつく顔だよなあ。オレもどっかで見たことあるような気はするけどな――」

 刺青の男は振り返り様に、ゲズゥを殴り飛ばした。悲鳴を上げそうになるのを堪えて、ミスリアは息を飲むだけに留めた。

「ま、その内思い出せばいいってこった」

 男は興味をなくしたようにさっさと先を歩いてしまった。

 ゲズゥは血の混じった唾を吐いた。

 彼はミスリアに向かって、声を出さずに唇だけを動かした。その意図を受け取って、ミスリアは小さく頷いた。

 ――「治すな」――それは、聖女だと知られたら面倒が増えると言う旨のことだった。


_______


 二日二晩、連れ回された。

 道中、何度か魔物に襲われたりもしたけれど、そこは流石は組織である。十人の山賊は巧みな連携を用いて、あっという間に敵を倒した。いっそ感心を誘う手並だった。

 彼らの存在が山中の動物に知れ渡っているのか、熊や山猫に至っては近付いてすら来なかった。ミスリアは洗練された集団の凄さを見せ付けられた気分になった。

 そうしている内に、件の洞窟の入口の一つに、一同は着いた。

 時刻は既に深夜である。疲弊しきっているのに眠くないのは、それに勝る緊張感からだろう。

 林道が途切れるまで山肌を回り、崖を降った所の、岩と岩の間に隠されたような場所に入口はあった。そこにあるとあらかじめ知っていなければ絶対に見つけられないような位置である。

 洞窟の中を歩くと、三十分後に広い場所に出た。

 冷たく湿った空気が微かな風にかき乱されている。

 天井がどこか開いているのか、月明かりが広場の中心を明るく照らしていた。

「ただいまー。ヴィーナ姐さん、いるー?」

 刺青の青年は見張りの男に手を振った。

「いるわよ」

 奥の暗闇の中から女性の声がした。

「お帰り。あの人ならまだ戻ってないわ」

 おっとりとした、急がない話し方だった。

 シャラン、と宝石やアクセサリー類特有の音を立てて、女性は影から踏み出した。

 月明かりに照らされたのは目を疑うほどの絶世の美女だった。

 優雅な佇まいだ。

 ヴィーナと呼ばれた女性は、腕を組んで微笑んでいた。第一印象では、妖艶さと包容力を併せ持った微笑みに思えた。

 二十代かもっと上なのか、年齢が推測しにくい容姿だ。

 彼女の形のいい眉毛と長い睫毛の下には、輝くサファイヤ色の瞳があった。

 鮮やかな口紅や、目の周りの薄紫をベースとした派手な化粧が良く似合っていた。

 銀みがかかった紺色の長い髪は複雑に編んで頭の左側にまとめ、宝石の付いた簪を挿している。右に垂らした一房の髪は丁寧に巻かれている。

「こっちが収穫? 私はヴィーナ、よろしくね」

 女性はミスリアに接近してきた。

 花と果実を思わせる甘い香りがふわっと広がり、眩暈がする。

(すごい格好……)

 全体を通して、凹凸のはっきりとした、女性的な線を強調した服装である。

 ヴィーナは短い袖の、パステルグリーン色のドレスを着ていた。ぴったりとした腹部の布は薄いピンクで半透明、そのため白い肌が透けている。フリルの付いた裾が斜めになっていて、一番短い部分では膝が露になっている。

 綺麗な鎖骨だな、と思いつつ、大きく開いた胸元に目が止まった。

 ミスリアは頬が紅潮するのを止められなかった。

「こんなに幼いんじゃあ私たちには使い道無さそうね」

 考え込むように人差し指を唇に押し当て、ヴィーナは「んー」と唸った。

彼女が話すと、ふくよかな唇の動きを目で追いたくなるので不思議だ。白い歯の間に見え隠れする赤い舌も艶かしい。

「競売に出せば良い値が付くかもしれないけど。アナタ、生娘?」

「な、何を――」

 あまりに唐突過ぎる問いにミスリアは慌てふためいて、うまく答えられなかった。

「生娘なら高額で売れるのよ。その反応からして間違いないのかしら? で、こっちの男は肉体労働か闘技場に向いてそうね――って、あら?」

 ゲズゥに視線を移し、彼の顔を見上げて、ヴィーナは首を傾げた。

「アンタもしかして、ゲズゥじゃないの」

「アズリ」

 ゲズゥの声には、信じられないものを見るような驚きの色があった。

(え? また知り合い?)

 それも今度はすぐに名前を思い出している辺り、前に遭遇したオルトファキテ王子よりも親しい関係だったのではないか。

「今はヴィーナキラトラを名乗っているわ。でもアンタには覚えられないでしょうから、アズリでいいわよ」

 彼女は首を傾げたまま、にっこり笑った。

「随分と図体が大きくなっちゃって。四年前も十分大きかったのに、成長期の男の子は違うのね」

「お前はいつの間にこんなところに」

 ゲズゥは心底驚いたような顔をしていた。

「一年前からかしら。アンタ、『天下の大罪人』とか呼ばれてるんだって? しばらく会わなかった内に、出世したわねぇ」

「『天下の大罪人』!? マジ、本物?」

「スゲェ! 噂通り若いんだな」

 ヴィーナの言葉に、周りの男たちがざわざわと反応した。

「ああ、道理で……」

 刺青の男が、顎に手を当てて一人納得した風に頷いている。

(それって出世って呼ぶようなものなの?)

 ミスリアは疑問に思った。

 周囲の感嘆の声からして、どうやらこの人たちの価値観でいえばそういうことになるらしい。

「まぁ、生きてまた会えたのは素直に嬉しいわ」

 彼女はゲズゥの頬を両手で包んだ。

 背伸びをするヴィーナに合わせるように、ゲズゥが身を屈め――

 ――二人の唇が重なった。

(え……?)

 何が起きたのかわからず、ミスリアはただ何度も何度も瞬いた。

「えええぇええ!? 姐さん!?」

 露骨に動揺を表した男たちを、ヴィーナは無視していた。

 この類のことにまったく免疫の無いミスリアは、自分が何を見ているのかすらいまいちわからなかった。

 何かがくっついては離れるような音が、卑猥なモノに聴こえて、背筋がぞわぞわする。

 よくわからないけど、濃厚な接吻なのは間違いなかった。

 微笑む彼女に対してゲズゥはいつもの無表情に戻っている。

(何なの……?)

 またしても頬が紅潮する。

「彼は私の友人だわ。あの人が帰るまでは客としてもてなしましょう。そちらの可愛いお嬢さんも、ね」

 美女の有無を言わせない微笑に気圧されてミスリアは首を縦に振った。展開の速さにもう頭が付いてきていない。

「姐さんがそう言うなら構いませんよー」

 不満そうな表情を浮かべる他の男たちと違って、刺青の男だけはにっこり笑って同意した。

 彼は短刀を懐から取り出し、ミスリアたちの縄を切った。

「最終的に二人をどうするかはあの人が決めるけどね。お嬢さん、名前を教えてくれないかしら」

「……ミスリア、です」

「ミスリアちゃんね。ユリャンへようこそ。迷路みたいな洞窟だから迷子にならないように気をつけてね?」

 ヴィーナはミスリアへ向き直り、手を取って引いた。

 彼女の柔らかい手が暖かい。

「はい……」

 誰かと手を繋ぐなんて子供の頃以来で、反応に困る。

「アナタたちの事情はあとでゆっくり聞きましょう。ねえ、お風呂入るわよね? お湯沸かさせるから」

 しどろもどろと答えるミスリアをよそに、ヴィーナはどんどん話を進めていった。

 ――気が付けば、ミスリアは数人の女性に背中を流してもらっていた。

冷たい石の床を足の裏に感じながら、熱いお湯が全身を火照らせている。

 お湯が流れる内に、床も次第に暖まった。ミスリアは足の指を動かしたり伸ばしたりした。

(何でこんなことに)

 最初は抵抗しようとしたものの、数分で諦めた。女性たちの笑顔と、蓄積された疲れに屈したのである。旅とは疲れるものなのだと、実感した。

 道中のさまざまなエピソードを抜きにしても連日の移動は辛く、特に山を登るのは初めて経験する苦行であった。

(こんなんで本当に巡礼地に着くかしら……)

 そう考えながら、少しうとうとしてきた。

 またしても気が付けば着替えさせられていて、髪の毛もタオルで乾かされている。

 お風呂に入ったのにちゃんと休めた心地がしないのは、始終他人にまとわり付かれていたからだろうか。

「はーい、キレイになったねー」

「ありがとうございます」

 ミスリアがお礼を言っても、女性たちはくすくす笑うだけで直接返事をしなかった。

 その後、洞窟の中の複数の道が交差する場所に連れて行かれた。壁にいくつか灯りがともされている。

 交差点には見張り役の体格の良い男性が居て、その向かい側に刺青の男とゲズゥがくつろいでいる。二人は離れて立ってはいるけれどそれぞれ背中を壁に預け、手に何か煙管のような筒を持っている。

 意外な組み合わせなのにその絵自体には不思議と違和感を抱かなかった。

「お疲れ」

 改めて聴くと、刺青の男の声がハスキーボイスに分類されるものだとわかった。

 男が手を振ると、女性たちは笑いながら姿を消した。

 残されたミスリアはとりあえず会釈をしてみた。すると刺青の彼は、面白がるような表情を浮かべて小さく会釈を返した。

「二人で話をしていたのですか?」

「や、別に話はしてねーよ。並んで吸ってただけ」

「はあ……」

 何を、と訊いていいものか迷う。臭いからして煙草以外の麻薬かと思うけれども、煙草すら吸ったことが無いので自信は無い。ミスリアにとって煙草は、そういえば父親が吸っていた、と言った程度の認識である。

「頭はお前らをどうすんだろなー」

 煙を吐きながら、男はひとりごちた。

(そんなこと、私が知りたい)

 ミスリアは壁際のゲズゥを見た。相変わらず彼はどこへともなく視線を宙にさまよわせている。

 おそらく自分たちの生死のかかった問題だと言うのに、ゲズゥはまるで気にしている素振りを見せない。

(何か対策を練っているならいいけど……いいえ、他力本願ではダメ。私も考えないと)

考えあぐねて弱気になりそうな自分を心の中で叱咤する。

「お前ら、東から来たんだろ」

 ふいに声をかけられて、ミスリアは顔を上げた。

「そうですけど」

 特に躊躇せずに答えた。

 最初に会った時と比べ、刺青の男に対する恐怖心は大分薄れている。隙あらばこちらを威嚇してきた他の男たちと違い、まとめ役たる彼は必要以上に関わってこなかった。ゲズゥを殴ったあの一回を除けば、暴力も振るわない。

 彼の言葉の発音が割とはっきりしているのもポイントである。

(それにしてもこの人は、いきなり何を確認しているのかしら)

 互いに遭遇した地点を思えば、ミスリアたちが東から山脈を進んでいたのは明白だったはずである。

「じゃあ知らないか……」

「何をです?」

「あー、気にすんな」

 訊き返しても、彼は返事を濁しただけだった。最初からこんな会話が無かったかのように煙管に夢中になっている。

 しばしの静寂が訪れた。

 今のやり取りにどういう意味があるのか考える気力が無いので、言われたとおり気にしないことにする。

 ミスリアはゲズゥの傍へ近寄り、隣良いですか、と訊いた。彼は何も言わずに目配せを返した。

「なあ、呪いの眼って色々邪推されちゃいるが……実際は何の特殊機能も無いんじゃないのか」

 煙管を口元から離して、刺青の男は訊ねた。

 問われたゲズゥはすっと目を細めた。左目は黒い前髪の後ろに隠れていて見えない。ゲズゥの反応からでは肯定しているのか否定しているのか、推測できない。

 またしばらく、静寂が続いた。

 やがて奥の通路から誰かが出てきて、刺青の男を呼んだ。南の共通語ではなく、彼らの独特の言語で話し合っている。

「んじゃ、呼ばれたんで行くぜ。ああそうそう、オレはイトゥ=エンキ。気が向いたら覚えてくれよ」

 さっさと歩き去る彼の背中に向けて、ミスリアは「はい」と答えた。

 そして数秒経つと、自分たち以外には見張りの人しか居なくなった。

 ミスリアは小さめの声で、ゲズゥに話しかけた。

「昔のお友達とお会いできて、良かったですね」

 もっと根掘り葉掘り訊いてみたい衝動を抑えて、それだけ言った。何となく、両手を組み合わせる。

「…………別に」

 ゲズゥは、ほう、と煙たい息を吐いた。やはり変な臭いの煙である。

「嬉しくないんですか?」

「アズリのおかげで客扱いに格上げされたのは好都合だったが、別に俺は、再会してもしなくてもどっちでも良かった」

「仲良そうでしたのに」

「……お前にはそう見えるのか」

「はい?」

 それは仲良さそうに見えて、実は違うという意味だろうか。訳がわからずにゲズゥを見上げると、彼は何かに気付いたように片眉を上げた。

「お前、首」

 ゲズゥは自分の首回りをぐるりと指さしている。

「首?」

「いつも付けてるヤツが無い」

「いつも付けてるヤツって――あ! アミュレット!」

 首回りに触れてみると、確かにいつも身に付けているそれがなくなっているとわかった。体中を見回しても、何処にも見当たらない。お風呂の後に着替えた寝巻き兼用のこのワンピースにはポケットが付いていなかった。

 脱いだ衣類と一緒に置いたのかもしれないけれど、半ば脱がされたようなものなので記憶に無い。

 来た道を戻ろうとミスリアは歩き出した。

「どうやって探す気だ」

「それは……多分大丈夫です」

 振り返らずに答えた。

 あのアミュレットとは強い縁で繋がれているので探すだけなら簡単である。

 走り出したら、柔らかいものとぶつかった。

「あら」

 サファイヤ色の双眸と目が合った。

「ヴィーナさん」

「急いじゃって、どうしたの」

 おっとりとした口調で、彼女が問いかける。

「ちょっと忘れ物を」

「高価な物と思われて、既に盗まれてそうだな」

「高価ではありますけど! それだけじゃなくて、大事な物なんですっ」

「ふーん? そう、頑張ってね」

 ヴィーナがミスリアの失くし物を取り戻す手伝いを申し出ると期待した訳ではなかったけれども、それにしても、まったくどうでも良さそうに笑っている。

 ならば、ゲズゥに一緒に来てくれと頼もうか検討する。

「ゲズゥ、ちょうど良かったわ。久しぶりに一杯どうかしら」

「…………ああ」

「とっておきのラム酒があるのよ。好きでしょう――」

 そんな会話が交わされている横で、ミスリアは諦めた。

(自力で取り戻すしか無いのね)

 億劫な気持ちになるも、あれが無いと聖女としての力をほとんど発揮できない。

 ミスリアは二人に背を向け、再び走り出した。

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