14.
「ミスリア、絶対に聖女になってはだめよ」
彼女は強い口調と硬い表情で言った。自分が、聖女になる目標を嬉々と話した直後だ。
「どうして……?」
そんな反応をされると思っていなかったから、喜んでくれるとばかり思っていたから、ミスリアは悲しくなった。
それが顔と声に出たのだろう。その人は、ミスリアの目線の高さに合うよう膝立ちになった。
優しい手に、そっと両肩を掴まれた。
「ごめんなさい。いつか、あなたにもわかる時が来るわ」
その人は泣きそうな笑顔を浮かべた。見ているこちらが泣きたくなる。
「わからないよ、おねえさま」
「今はそうでしょうね」
姉はそう言って抱きしめてくれた。
「いいからお願いよ。聖女にはならないで。幸せに、なってね」
抱きしめる腕に力が入った。
それでも、ミスリアは是と約束できなかった。
肩に落ちた熱い滴が姉の涙だとわかったのは、もう少し後のことだ。
_______
姉が家を出た日の夢を見るのは、久しぶりだった。昔はもっと頻繁に見たかもしれない。
(まるで聖女になったら幸せにはなれないみたいな口ぶりよね)
今でも姉の言葉の意味が見つからない。
ミスリア・ノイラートは出かける支度を手伝いながらぼんやりそんなことを思った。携帯食の入ったこの荷物を馬につけて最後だ。
今朝も曇天である。
雨が降ろうものなら進みが今より遅くなるので、心配だ。
心配事といえば、昨夜通りかかった気配の話をカイルから聞いている。結界を解いた瞬間に襲って来ないとも限らないので、朝から慎重にもなる。
隣でゲズゥが背中に背負っている剣の柄を片手で握り締めた。警戒に、目を細めている。
「それじゃあ結界を解くけど、準備はいい?」
カイルの問いかけに、ミスリアもゲズゥも頷いた。
短い呪文の後、カイルの手のひらにのった青水晶が淡く光った。次いで、目に見えない隔たりが完全に消えてなくなる。
いきなり物音がして、誰かが凶器を手に飛び掛かるのではないかと身構えた。しかし数分経ってもそんなことは起こらない。
「どうしましょうか」
ミスリアがゲズゥに訊いた。
「気配が無い。とりあえず進むべきだな」
「じゃあ、そうしようか」
カイルも同意し、かくして三人は再び歩き出した。
一時間半ほど進んだら、ちょっとした丘に辿り着いた。丘の上の大きな木の根が歪な形で伸び広がるのを、避けて通るようにとミスリアは馬の手綱を繰る。
あまりに地面と木の根にばかり注意していたからだろうか。右横から現れた影にまったく気が付かなかった。
――ヒュン。
空気が切られる音にはっとして、ミスリアは顔を上げた。
馬が緊張したように嘶き、後退る。
すぐ近くに、銀色に光る平面があった。自分の横顔がおぼろげに映っている。
ミスリアは戦々恐々と、宙に止まったままの大剣の先を視線だけで探った。
すると見事な白馬に跨った、がっしりとした体格の男性が伸ばしかけた腕を引くのが見えた。その腕を阻むために振り下ろされたと思われる大剣の方はまだ動かない。
「…………」
突如現れた三十歳かそこらの男を、ゲズゥが無言で見据えていた。男は舌打ちをして、長い槍を構え直した。
黒い曲毛と褐色肌。憎しみに支配された眼差しと表情は一度しか見たことが無いけれど、すぐに思い出した。鎧を含まない軽装になっている点だけは以前と違う。
(この人、シャスヴォル国の兵隊長……!)
驚きを顔に出さないように必死に堪えた。
いつの間にか左隣に来ていたカイルを見下ろすと、彼は片手に抜き身の直剣を構えていた。空いた右手でミスリアの乗る馬をそっと宥めている。
「ついにまた、この機会を手にしたぞ」
兵隊長が下唇を舐めた。
以前にも増して、纏う気配は危険な熱を帯びている。
一人で追ってきて、一人であとをつけてきたというのなら、凄まじい執念である。
それもそのはず。ゲズゥこそがこの人の、偉大なる将軍だった父親の、仇だと言う。
国境で交わされた会話を思い出してミスリアは吐き気を催した。それを押さえ込むため、口元に手の甲を当てた。
――大丈夫? との、カイルの気遣わしげな目配せに何とか頷く。
「貴様が父上を惨殺してからというもの、我が一家は没落の一途を辿り続けた。公開処刑が決まり、貴様さえ死ねばようやく立て直せると思った――だが貴様は生き延びた。しかも、無事に国外に逃れたという! あれから我が一家がどれほど笑いモノにされてきたのか、わかるまい! 聖女、貴様とて同罪だ!」
元兵隊長は、瞬間的に矛先をミスリアに変えた。長い槍の刃が煌いたのは、恐怖でそう見えたからなのか実際に光を反射していたからなのか、わからない。彼の一突きが届くような距離にいなくとも、ミスリアは体が強張った。
「役職を辞してまで国境を越えたのはひとえに復讐を果たすためだ。今日は逃がさぬ。貴様ら全員の屍を踏み躙るまで、私は止まらない!」
鬼気迫る様子で元兵隊長は叫ぶ。
「言い訳をするなら今のうちだ。したところで、もっと無残に殺してやるとも」
元兵隊長は今度は大きく体を揺らしながら笑った。
もはや彼には常識が残っていないのだろう。「天下の大罪人」はともかくして、聖人や聖女にまで死の脅迫をしていいものではない。
ゲズゥは、つまらなそうにため息をついた。そして元兵隊長の方には目もくれずに、何故かこちらを伺っている。
一度瞬くと、ゲズゥは復讐を唱える男と再び正対した。
「何を言い訳しろと。アレを殺したのは元は従兄との約束がきっかけで、いわば村の仇討ちであっても、結局は俺が自分自身の憎しみに基づいてやったことだ」
そう話すゲズゥが、いつもの無機質な話し方と違ってひどく面倒臭そうなのが印象に残る。
従兄との約束とはどういうことだろう。村の仇討ちだったならば、かの将軍は村を崩壊させた実行犯の一人であったと?
疑問を抱きながらも、ミスリアはゲズゥとのとある会話を思い出していた。
『俺は生きるために必要なら他者を喰らう。生存本能に倣って』
『――今までが全部そうだったとは言わない』
村の仇討ちのため。
それは即ち復讐心と憎しみに駆られて、生きたままの将軍を苦しませて殺したと。親類縁者の復讐のためといってもそれは非道な行いであり、果てしなく間違っている。
(でもそれが人間っぽく思えるのは、どうしてかしら)
何を根拠にそう思うのか自分でもよくわからなくて、ミスリアは首を傾げた。
生き物の命を奪うという行為は、何よりの至悪であるはずなのに。拷問にかけるなど、もってのほかだ。
「黙れ! 下種が――」
元兵隊長は顔を紅潮させて、益々激昂した。
「お前が俺に復讐するのはお前の勝手だ。そこで返り討ちにするのは俺の勝手だ。そうなっても恨むなよ」
あくまでゲズゥは冷静に告げる。
彼は手首を巡らせ弧を描き、剣先を鞍上の男へ向けた。
「……ミスリア、お前は殺すなと言うのだろう」
体の向きを変えずに、ゲズゥは静かに問いかけた。
「はい。お願いします」
ミスリアはできるだけ毅然として答えた。傍らのカイルを瞥見すると、彼は励ますようにただ微笑んだ。
「わかった」
短い返事の後、ゲズゥが地面を蹴る。傍観しているこちらの目では追えないほどに速い。
見事な瞬発力をもってして、彼は相手の背後に回った。樹の幹を足場にしている。
元兵隊長が慌てて槍を回転させるが、ゲズゥは姿勢を低くして槍頭をかわした。次いで飛び出し、大剣の柄で馬の後ろ足を殴った。
白馬が嘶き、咄嗟に逃げ出す。乗り手が振り落とされるのを狙って、ゲズゥが剣を薙いだ。
元兵隊長は槍の
すぐ後の攻防で彼は勢いを付け、僅かにゲズゥを押している。しきりに何かを叫んだり、吼えたりしながら。
「ミスリア、少し下がろう。巻き込まれたら困るからね」
ふいにカイルの声がした。
「でも……」
「心配いらないよ、きっと。この場合、周りが見えてる方に分があると思う。その点、彼は十分に冷静だから」
戦闘に関する知識に乏しいミスリアには、カイルの示す理論に異を唱えられない。引かれるままに、馬を下がらせる。ついでにカイルの手を借りて、馬上から降りた。
鉄と鉄のぶつかる音。傍目にもゲズゥよりも筋力の優れた男が、勢いに任せて剣を弾き飛ばした瞬間だった。
ミスリアが息を呑むのとほぼ同時に、ゲズゥは元兵隊長の懐に踏み込んだ。左手で槍を制し、右肘で腹を押さえ込む。そういえば前にも、似たような展開があった。得物を失うとゲズゥはうろたえるどころかそれを逆に利用するらしい。
元兵隊長にできた隙は、短かった。ゲズゥはその内に飛び上がり、相手の顎に頭突きをくらわせた。見るからにかなり痛そうだ。
「がはっ……!」
元兵隊長は呻いた。
普通ならば衝撃で身動き取れなくなりそうなものの、彼は報復に燃える両目を光らせ、後ろに倒れつつも足で槍の柄を蹴った。
「――!」
ゲズゥは声ともいえない呻き声を漏らした。槍の刃がちょうどこめかみ辺りにぶつかったようである。
血飛沫に驚いて、ミスリアは小さく悲鳴を上げた。
しかし斬られた当人は体勢を崩していない。むしろ、体勢を崩した元兵隊長にすかさず踵落としをくらわせている。
「……あんな早業、初めて見たよ」
呆然と感心を表すカイルに、ミスリアは頷いた。
それでも元兵隊長はよく粘る。鎧を着込んでいない分だけ身軽であり、彼は地面から跳ね上がった。
再度槍による攻撃を繰り出すが、それをゲズゥは淡々と避け続ける。まるで、突かれる位置を先読みしているようだ。
「逃げるな! 貴様、なんぞに! この私が! 敗れていいわけがあるか!」
いっそ彼が瘴気でも吐いているかのように見える。急に背筋が寒くなって、ミスリアは身震いした。
「……そうか」
いつの間にまた相手の背後に回ったゲズゥが、興味無さそうに言う。
これもまた早業だった。瞬く間に、あんなにも図体の大きい元兵隊長が宙を飛んでいる。運が悪いのかゲズゥが狙って投げ飛ばしたのか、彼はそのまま小岩に激突した。多少の土やら草やらが跳ねる。
ゴツッ、という音に思わずミスリアとカイルは顔をしかめた。
元兵隊長は岩を背にぐったりしている。タフな彼も流石に動けないのか、口を半開きにして息も荒い。意識はあるようで、瞳は未だに憎悪に燃えている。
「お疲れ。といっても、彼みたいに憎しみに振り回される方が疲れる気がするけどね」
カイルは爽やかな笑顔を浮かべて、佇むゲズゥに声をかけた。
確かに、元兵隊長がぐったりしているのは身体的なダメージだけが原因とは思えない。彼は父親を失って悲しかったのだろうか。それとも家が没落した事で受けた屈辱の方が、大きかったのだろうか。
「嫌味か」
冷淡な返事が返ってきた。
(そういえば将軍さんを殺したのは憎しみからだって言ってたわ)
ならばゲズゥも憎悪に振り回される感覚を知っているのだろう。カイルの言葉が自分に対する嫌味と受け取るのも不思議はない。
「え? そういうつもりで言ったんじゃないけど……」
困ったようにカイルが苦笑いをする。ゲズゥはそれ以上は何も言わず、弾き飛ばされた大剣の回収に向かっている。本気で気にしていないのかもしれない。
「まあそれはいいか。それよりどうする? このまま置いていくのはひどいし、だからといって治癒を施すのも何だか気が進まないな」
「そうですね……」
「気になるなら、近くの人里に捨ててくればいいだろう」
「……君が言うと、段々それが最善に思えてくるのは何でだろうね」
「無責任です! それでは罪も縁も無い人に厄介ごとを押し付けることになります」
「うん。ここまでの執着心、適当に捨てただけじゃあまた追ってきそうだしね」
「では誰かに身柄を引き渡すべきと?」
「そうだね……。ねえ、ところで耳からものすごい血が出ているよ」
「あっ! 私が治しましょうか」
「ほっといても塞がる」
目前の危険が消え、三人とも緊張を緩めて話をしていたからか。
樹の後ろから滑り出てきた新しい人影への対応が遅れてしまった。
勿論、最初に気付いたのはゲズゥだった。彼が目を細めたことに、次はミスリアが気付いた。あろうことか彼は何の行動にも出なかったので、視線の先を追うだけにした。
人影は元兵隊長の横に立つと、長く細い物を伸ばした。
「シューリマ……セェレテ!? 何故――」
驚愕に彩られた声は、それだけしか言えなかった。すぐに喘ぎ声と、何かおぞましい音が続いた。
何が起きたのか理解した時にはもう終わっていた。
「ミスリア! 見ない方がいい」
カイルに頭を抱き抱えられ、彼の胸に額を押し当てられた。
けれども、既に映像は目に焼き付いている。
シャスヴォル国の元兵隊長の喉元に細い剣が生えていた。
あれでは間違いなく事切れていた。聖気を展開するまでも無い。
ミスリアはカイルのシャツを握り締め、体が震えるのを止めなかった。吐き気を通り越して、頭がぼうっと麻痺している。
「ははははは! 貴様はずっと前から鬱陶しくてならなかったんだ。お互いに自由の身になれた今だからこそ、こうしてやれたのさ」
聞き覚えのある声は紛れも無く彼女のものだ。返事のできない相手に好き放題言い放っている。
ミスリアはこみ上げてくる感情の名を知らない。何故だか息のし方が思い出せない。
今までで人が死ぬ場面にも、生まれる場面にも、立ち会ったことはある。けれども人があからさまに殺される場面は、初めてだった。
(どうしてあの人は、簡単にそんなことをするの。どうして、笑っているの)
訊ねたところで、どんな返答が返ってきても自分に理解できるとは到底思えない。
(ゲズゥなら、殺した後はどういう反応をするのかしら――)
脈絡も無いことを思った。大分混乱しているらしい。
「セェレテ卿、貴女は近いうちに処刑されると聞いたのですが」
口を挟んだカイルの声は普段よりも低く、警戒に満ちている。
「聖人デューセ、残念だったな。私が死人に見えるか?」
彼女はそうして高笑いをした。
「見えませんね。貴女は魔物ではなく生きた人間です」
冷ややかにカイルが答える。
「ならそこの男の仲間に入れてやってもいいが」
「それはしなくていい」
ゲズゥが何でも無さそうに提案したら、カイルが即座に却下した。
ミスリアは目を瞑り、口から一度大きく深呼吸をする。カイルのシャツを握る手の力を抜いた。今度は鼻だけで深呼吸をする。そうしていくらか気持ちが落ち着いたら、カイルの腕の中から抜け出た。
(よく人がいきなり現れる日だわ)
ため息を飲み込み、ミスリアは倒れた男の首から剣を抜く女性の後姿を捉える。奥歯をかみ締め、目を逸らさずに見届けた。
女性はベージュ色の麻のブラウスに群青色の麻ズボンといった、身軽そうな格好をしている。
顎までの長さの、薄茶色の髪は毛先が微妙に揃っていない。――薄茶色?
彼女はこんな容姿だっただろうか?
くるりと、素早く女性が振り返る。
不敵な笑みをたたえている二十代半ばほどの女性は、紛れも無くシューリマ・セェレテ卿だった。
「化粧か何かでそばかすを誤魔化しているのですか?」
カイルが訊いた。
「まあ、そんなところだ。顔を知る人間なら近づけばすぐにわかるだろうが」――彼女は息絶えた元兵隊長を顎で指し――「遠くからはわかるまい。処刑が済み、人々に忘れ去られるまでは、一番の特徴を潰しておけと殿下のご命令だ。染め粉を手に入れるのには苦労したな」
「処刑が済むというのは、貴女の身代わりに立てられた罪無き別人のことですか?」
己の舌から転がり出た言葉と声の冷淡さに、ミスリア本人さえも驚いた。
「さて、別人ではあるが、罪の有無はどうだろうな。何かしら裏のある人物をついでに私に仕立て上げて消すのかも知れん。殿下ならば一つの石で二羽も三羽も鳥を打ち落とすのが常だ」
セェレテ卿は自慢げに答えた。どうやらオルトファキテ殿下が彼女の解放に手を回したのは間違いないらしい。
「それよりも、私はちょうど貴様に用があったのだ、『天下の大罪人』」
剣で空を切り、セェレテ卿が血に濡れた剣先でゲズゥを指した。といっても、剣先は彼より五歩以上は離れている。
「……貴様、『戦闘種族』だろう?」
楽しそうに彼女は笑う。新しい遊びを見つけた子供のようだ。
聞いた事のない単語に、ミスリアは首を傾げた。カイルを仰ぎ見ても、彼の瞳にも疑問符がちらついている。
ゲズゥは、一見何の反応も表していない。ところが剣の柄を握る右腕に力がこめられるのを、ミスリアはしかと見た。
「剣を交えた時に確信した。私の速さについて来られる人間などそう多くない」
「確信したということは、お前もそうか」
抑揚の無い声でゲズゥが応える。
「ほう? とぼけるな、貴様とて私に気付いただろう。我々は互いに互いを認識できる。まさか『呪いの眼』の末裔に戦闘種族の血筋が混じっているとは思わなかったが」
セェレテ卿が鼻で笑う。
(戦闘種族って、呼び方からして戦いに特化した人間のことかしら?)
アルシュント大陸での「人種」とは――血の繋がりによって遺伝する、身体的な特徴を共有した少数派人間を意味する。それぞれを、共有する特徴で括って「何々種族」と呼ぶが、その分類の仕方は結構おおまかである。どれもが呪いの眼の一族のようなわかりやすい特徴を有している訳ではない。
総ての種族で共通しているのは、どれも少数派であることだけだ。そのため、本人たち以外に存在を知られていなかったり、歴史の流れと共に埋もれることが多い。
「――共に来い」
セェレテ卿の次の発言は意外過ぎるものだった。剣を下ろし、空いた手をゲズゥに差し出している。
ミスリアとカイルは目を瞠った。
「殿下に従え! 貴様の実力なら我々にとっては即戦力となりうる。どうだ、オルトファキテ・キューナ・サスティワ殿下の下でゆくゆくは大陸を手に入れようじゃないか」
「無茶苦茶なことを仰いますね」
苦笑交じりにカイルが呟いた。
「別に貴様らは誘ってないぞ。何処へなりとも行けばいい、私は追わない」
セェレテ卿はカイルに向けて、しっしっ、と追い払うように手を上下に振った。
(大陸を手に入れようだなんて、小国の第三王子に出来るわけが無いわ)
一体彼女は何を血迷った事を言っているのだろう。
呆れて何も感想が出ない。きっとゲズゥだって「くだらない」の一言で一蹴してくれるだろう。
けれども前方に立つ彼は何も言わなかった。しばらく経っても、僅かに首を傾げるだけだ。
徐々に不安が、ミスリアの胸中に広がった。
旧友からの誘い、大陸が手に入るという誘惑。ゲズゥが応じる可能性は完全に否定できない。
もしも彼がそれを望むのならば、引き止める言葉をうまく並べられるだろうか。
もともとなし崩し的にミスリアについてきているような印象はあった。護衛を引き受けてくれた理由は未だに聞き出せていない。
(やめて。おいていかないで――)
今度こそ道が分かれる予感がして、ミスリアは両手をきつく握り合わせた。
ゲズゥの返事を聞き届ける勇気を己の中からかき集める。
「それはお前からの勧誘か」
恐れていた肯定の言葉は無く、ただ無機質な問いがあった。
「……何故?」
「オルトは俺にそんなことは言わない」
ゲズゥは差し伸べられた手を凝視している。
「……何だと?」
明らかにムッとした顔になり、セェレテ卿が不快そうに訊き返した。
「俺の忠誠など、望まない」
「――貴様が殿下を語るな! 名を呼び捨てるな! 知り合ったのが先だったからって調子に乗るなよ!」
途端に、セェレテ卿が怒りに任せて怒鳴りだした。そうしていると、彼女が毛嫌いしていたらしいシャスヴォル国の元兵隊長とどことなく似ている、とミスリアは密かに思った。隣のカイルが反射的に身構える。
対するゲズゥは、興味無さそうに肩をすくめただけである。
「……ならば殿下ご自身の望みであれば、貴様は応えるのか?」
幾分か落ち着いてから、セェレテ卿はもう一度口を開いた。ゲズゥの勧誘にオルトファキテ殿下が関与していなかったことを認めるような発言だ。
「いや、別に」
「何故だ? これほど心躍る話は無いだろう。あのお方が如何に素晴らしいのか、貴様なら知っているはずだ。ついていけば満ち足りた人生を得られる。少数派である我々だからこそ」
セェレテ卿は心外そうに熱弁を振るった。地位やお金で釣る気はないらしく、仕えるべき主君の素晴らしさをひたすら推している。
最後辺りの、「少数派」という単語にのみゲズゥは眉を吊り上げるという反応を示した。
「オルトに不満がある訳じゃない。ただ――」
彼は肩から振り返り、ミスリアを一瞥した。黒曜石を思わせる瞳に、思わず心臓が跳ね上がる。
何かを確かめるような、伺うような視線だった。
「――多分、俺はそういう目的の為に、生きていない」
「世界征服よりも世界を救う為、などとくだらない使命感か? いくら命の恩があっても、仕える人間は選ぶものだ」
それはミスリアが仕えるに値しない人間だと暗に仄めかしているようだった。
こちらとしてはゲズゥを自分に仕えさせるつもりでも無いので、怒る気も起きない。
「誰かに従えというなら、それこそがくだらない。俺の主は、俺だけだ」
彼はキッパリと断言した。
(確か、亡くなったお母様が言っていた……)
聞き覚えのある言葉に、ミスリアは納得した。もしかしたら彼は幼少の頃からそれを守り続けてきたのかもしれない。
何であれ、ゲズゥが申し出を受け入れる気が無いのだとわかって、こっそり安堵する。
反論の代わりに、セェレテ卿がゲズゥを睨んでいる。やがてまた、鼻で笑った。
「なら、損をするのは貴様の方だな」
「そうだな」
何の感情も篭っていない返事。
「ふっ、まあいい。実は殿下から貴様への伝言を預かっている。本来の用事は、こっちだ」
そのためにミスリアたち一行を探し出したのであって、某氏への長らく続いた鬱憤を晴らしたのとゲズゥを勧誘したのはついでらしい。
「伝言?」
「そうさ。『私は割と本気だ』――何の意味かは、自ずと知れるだろうと。私にはさっぱりわからんが」
セェレテ卿は腰に手を当てた。主を全面的に信頼しているのか、隠し事をされても欠片も気にしている風に見えない。
「確かに伝えたぞ。私はこれで去ることにする。死体は放っておけ。また、何処かで会うことがあるかもしれんな」
楽しげに言い捨てると、彼女は現れたのと同じぐらいに迅速にその場をあとにした。
残された三人が、顔を見合わせる。
傍には人間の死体が一体と、草を食む馬が一頭。
なんともいえない沈黙が降りた。その沈黙を最初に破ったのは、カイルだ。
「嵐みたいな人だなぁ……。とりあえず、伝言の意味はわかった?」
どこか好奇心の混じる声色で、彼はゲズゥに問いかけた。
ゲズゥは大きく嘆息した。
_______
まともな王子と知り合っていたなら、もしかしたら違った思い出を共有できたかもしれない。
黄昏の頃に国の未来を憂えていた姿やら、理想の王像を語る輝かしい笑顔やら。勿論そういった人物にゲズゥが縁を持てるはずも無いが。
残念ながら命がけの場面での思い出ばかりだからか、まさかその男がどこかの国の王族だなどとはつゆほども思わなかったわけだ。
「……お前の原動力って一体何だ」
その日は巷の縄張り争いが激化したからと、侵入者の掃除にでかけたのだった。何人かで行動していたはずだが、気が付けば二人しか生き残っていなかった。
夢中で闘っている内に周囲が死屍累々になるなど、ゲズゥにとっては驚くような経験ではなかった。そして彼は味方の立場の人間を守ったり手を貸すのも普段からあまりしないので、一緒に赴いた人間に勝手に死なれることも多かった。
だがオルトは生き延びた。
それまでに何度か関わったことはあっても、記憶に残るような関わり方はしていない。
聞いた話だと奴は騎馬戦に強く、白兵戦だと中の下程度の実力らしい。実際に組んでみてわかった。手ぶらでやり合えば十回に九回は必ずこちらが勝つだろう。
「何だ? お前が私に興味を持つとは珍しい。それどころか、自分から喋り出すとは珍しいな、ゲズゥ。頭でも打ったか?」
オルトは倒れ伏せた人間と死体の間を器用に縫って、金目の物を漁っていた。口元が斜めに釣りあがっている。しゃがんでいるため上目遣いになり、藍色の双眸が挑戦的に光る。
――この男は賢い。そして冷静だ。
周りが乱闘を繰り広げる中で、一人だけ冷めた目で状況を分析し、他人を巧く盾に使って立ち回っていた。息が上がっているようにも見えない。
そんな中、時折見せる愉悦の表情は何だったのか。生き延びる事を最優先する自分とは違う何かを感じて、何故だか気になった。
「別に答えたくないなら構わないが」
ゲズゥは顔に付いた返り血を手のひらで擦り取った。
「答えないとは言っていない。そうだな、私を動かすのは好奇心、いや探究心? それも少し違う。私は、自分の限界を試したいのだ」
立ち上がり、オルトは速やかに次のカモを定めた。
「限界?」
「そうだ。誰もやっていないことをやりたいからと、私の望みはそんなモノではない。誰かが既に果たして居ようが居まいが、私自身にそれが出来るか否かが総てだ。行為自体に、意味は無くてもいい。ただ、出来ると、自分に証明したいのさ」
「……変な望みだな」
「ああ、私もそう思う。それも、楽しいのだから仕方あるまい。で、どうだ? 手始めにこの領域の『頭領』に取って代わりたい。私のささやかなクーデターに手を貸さないか、ゲズゥ・スディル」
その誘いに頷いたのが何故かと後に問われれば、オルトに触発されて「楽しそうだと思ったから」と答えるだろう。楽しさを求めて何かをするのがいつ振りだったか、もう自分にもわからない。
どうかしていた。しかし、後悔は生まれなかった。二人だけで始まったその運動は勢いを増し、数ヶ月後確かにその領域はオルトの所有物になったのである。
「私は答えたから、今度はそっちの番だ。お前の原動力こそ何だ?」
「……」
無意識に左目を押さえた。
ゲズゥはそのまま黙り込んで、いつまでも答えなかった。
_______
「……オルトはああ見えて、周りの競争を面白がっているだけだ。自国の王位など本気で欲していない」
数年も会わずじまいで再会してもすぐに名前が思い出せなかった人間のことを、ゲズゥは淡々と語る。
「…………ラサヴァで、耳打ちされたが」
「はい、覚えています。何を言われたんですか?」
ミスリアが訊ねた。
「あの時あいつは俺に、『聖獣とやらは面白そうだな。手に入れてみようと思う』と言った。『割と本気』なら、そのうち行動に出るだろう」
言っている意味が通じなかったのか、ミスリアはきょとんとしていた。次に小首をかしげ、次第に複雑そうな表情になった。
「聖獣を……手に入れる……? って、どういう風にして手に入れるんですか?」
腕を組み、ああでもないこうでもないと唸った。イメージできないらしい。
「さぁ。制圧するか、捕まえるか、滅ぼすか何かじゃないか」
とりあえず思いつくままに言ってみた。オルトの考えることなど、昔からわかるようでわからないものだと諦めている。
大きな樹脂の欠片で土を掘る手を止めて、今度は聖人が眉をしかめた。
「途方も無い話だね。聖獣の居場所すら知らないだろうに」
そう言って袖を捲り上げて、聖人は作業を再開した。
死体を埋める為の穴を掘る作業だ。ゲズゥも樹脂の欠片を用いて、土をどけた。あと程なくして大の男が入るような穴になる。
「誰も知らないのか」
「それは少し違うよ。教団が管理してきた重要機密として、知識は断片という形で広く存在している」
聖人の言い方に、謎かけか、とゲズゥは呆れた。
「知っている人がたくさん居るのに本当は誰も知らない、という状態です。情報を繋ぎ合わせないと、北の一体どこに聖獣の安眠地があるのか割り出せないようにしているのですよ」
少し離れた位置に立つミスリアが補足した。
「でしたら私たち聖人聖女さえも最終目的地を知らないのではないかって話になりますけど、進むべき道ならあります。それに偽の情報の中から真実を探し出す方法も」
ミスリアは落ち着いた声でそう言って、遠い何処かを見上げた。実際の曇り空の中にある何かを見つめてはいないのだろう。
聖獣に到達するまでの道のりが、既に途方も無いのだということはなんとなくわかった。
それなのにそんな道に人生を捧げる人間が目の前に居る。付き合おうとしている自分もやはり、おかしいのかも知れない。
穴を掘り終わり、ゲズゥは聖人と協力してその中へと元兵隊長の死体を放り込んだ。聖人の表情は硬く、人がやりたくない作業をあくまで仕事だと割り切ってこなす時の、真剣な顔だった。傍らに立つミスリアはまだ気分が悪そうだが、それでも目を逸らさない。
放り込んでから土をかけ直す作業は、ゲズゥが一人で引き受けた。本音では埋葬してやりたいとは特に思わないが、あの二人が魔物が発生しないようにちゃんと弔いたいと提案したのである。
それに対して、ゲズゥはどういう弔いの儀式なのか見てみたいと興味本位に考えた。
柳の樹の下に埋葬するだけが故郷の村の風習であり、その後の人生でもゲズゥはあまり複雑な葬式に立ち会ったことは無かった。ましてや、聖職者の関わった葬儀など。
聖人がどこからか石を持ってきた。人間の頭ほどの大きさのそれを墓石代わりに置く。
ミスリアは懐から取り出した小瓶を、聖人に渡した。受け取った聖人は地面に片足立ちになり、小瓶の蓋を回して開けた。
透明な水が一滴零れる。
それは不自然なほどゆっくりと垂れ、瓶を離れて落下し、そして石に当たって弾けた。
いつの間にか、折り重なる声が耳を打っていた。
二人が何かを唱えている。正確には歌っている? それもまったく同じ歌という訳ではなく、合唱になるようにそれぞれ音を分担している、ように聴こえる。音楽に通じていないゲズゥにはそういう認識になる。
近くの樹に背中を預け、心地良い音に目を閉じた。
『――多分、俺はそういう目的の為に、生きていない』
つい先ほど自分が口にした言葉を頭の中で反芻する。
どうしてそのように答えたのかは自分でもはっきりとわかっていない。ただ、あの女やオルトについて行っても、きっと変われないと思った。
おそらく、一生に一度だけ与えられた機会。
処刑されるはずだった自分と同じ生き方では、誰も守れやしないのだ。
ゲズゥは自嘲気味に笑った。
――アレはとうの昔に庇護を必要としなくなったというのに、未だに守ってやりたいと思うなど馬鹿げている。
あまりに綺麗な顔が嫌味ったらしく微笑むさまが脳裏に浮かんで、ゲズゥはイライラするようなモヤモヤするような、なんとも言えない心持になった。
浮かんだ映像を打ち消すため、ゲズゥは目を開いた。
ちょうどミスリアが地面に膝をついたところだった。
彼女は手のひらを上にして両手を合わせ、聖人が小瓶から垂らす水を受けた。その水を使って手を洗うようにこすり合わせる。
そこで歌が終わった。
「地上での生を終えた器から、魂が穏やかに旅立ちますよう――」
聖人が十字に似た銀細工の首飾りを左手で握り、言葉を紡いだ。先ほどのよくわからない言語と違って、これはシャスヴォルの母国語だ。考えうる理由としては、死した対象と縁深い言語を選んだのだろう。
「清めます」
呼応したのはそっと手を広げたミスリアだ。こちらは南の共通語。
「旅立った魂が聖獣に導かれ、天上の神々へ辿り着けますよう――」
「祈ります」
今度は祈るようにして両手の指を絡め、握り合わせる。
「そうして地上に残された器が、生命の輪に循環できますよう――」
「授けます」
ミスリアは素手で墓石の前の土をどけて小さな窪みを作った。
いつの間にか首飾りを離していた聖人が身を屈め、手のひらから何か小さな物を滑らせた。ちょうど窪みの中へとそれは落ちた。
「どうか、健やかに」
土を戻し、最後にまた水を少しかけてから、二人が同時にそう言った。立ち上がり、互いに向けて軽く礼をする。
それからしばしの間があった。
「終わりましたよ」
振り返り、ミスリアがゲズゥに声をかけた。手ぬぐいで土のついた手を拭いている。
「君も、手伝ってくれてありがとう」
聖人が爽やかに笑う。
ゲズゥは一度頷き、樹から離れて二人に歩み寄った。
「今のは、種か」
「はい。生を終えた肉体が還りやすいように植えるのです。これでこの場からは瘴気が発しにくいようになりました。歌は、死した魂に敬意を表し、天へ昇華するように説得するためのものです」
神妙な面持ちでミスリアが答えた。
「といっても本人の業や穢れが重すぎると、結局は魔物に転じるかもしれないけどね。あくまで可能性を減らす手段であって、絶対ではないよ。でも少なくとも周囲の他の魔物が近寄らなくなる。魔物同士がむやみに絡み合えば最悪、君の故郷のようになりかねないからね」
聖人は服に付いた土を払いつつ言った。植える種は花や木などと、種類は何でも良いらしい。
さて、と呟いて聖人は空を見上げた。雲が減り、日の光が漏れている。
「随分と時間を取られちゃったね。そろそろ行こうか」
「はい」
そうして三人は樹に繋いでいた馬の元へ行き、荷物をまとめて再出発した。
_______
見知った葉っぱを見かけてカイルサィートは一瞬、立ち止まった。
三枚ずつ生えている点や、色、蔦の形などでわかる。
「そこ触らないようにね」
前を歩くゲズゥに注意喚起したが、言い終わる前に彼はそれを避けて進んでいた。先に気付いていたのだろう。
「どうしました?」
馬上からミスリアが訊ねる。
「ツタウルシだよ。触れたらかぶれる」
「あ、知ってます。発疹や皮膚炎になるそうですね」
「葉の油が厄介だな。洗っても洗ってもかゆい」
振り返らずにゲズゥが付け加えた。
と思ったらいきなり、ゲズゥの姿が消えた。カイルサィートは瞬いて、何が起きたのか考えた。
(素早くしゃがんだから消えた風に見えたのかな)
三人が進む道は既に獣道であり、薮に覆われている。長身の彼でもしゃがんでしまえば姿が隠れる。道の側面にはいつしか岩壁が現れ、視界が狭まっている。
カイルサィートは歩み寄って、様子を伺った。
「何かいた? 蛇?」
「……キノコ」
ゲズゥが指差した箇所に視線を落とした。
倒れた樹の幹の影に、確かに茶と白のキノコが群れて生えている。
「こいつは生で食っても美味い」
「なるほど、いいね。でもできれば洗えるといいな」
それが毒キノコであるかは、疑わなかった。カイルサィートの持つ知識の中には無い種だが、ゲズゥの育ちを思えば彼が森の中の食べられる物とそうでない物を見分けられないはずが無い。
「さっきの水は」
「聖水は貴重だからダメですよ」
ミスリアが苦笑した。その返答にゲズゥは肩をすくめた。
仕方なく布で拭くだけにして、歩きながら食べた。パンなどは食べると喉が渇いてしまうが、生のキノコと合わせるとそれに含まれる水分によって、渇いた喉が潤う。
先頭のゲズゥが慣れた手つきで道を作っている。短剣を振るい、必要な分だけ藪を払っている。
ザシュッ、と言う枝の斬られる音と足音や衣擦れ以外は、静かだった。前後に人の気配はしない。
「そういえば、ミョレン国だけど」
カイルサィートは雑談をしだした。
二人がすぐに振り返る。大雑把な切り出し方なのに随分と食いつきが良いようだ。
軽く咳払いをした。
「亡き先王は戦で散った兄の王位を継いだ人でね。ゆえに短い間だったけど、ミョレンの歴史を顧みれば珍しく賢君だったと思う。聞いた話だとね」
「そうだったんですか」
「そんな国王が病床についた時、腹心である宰相を呼び寄せたんだ。次の王になる人間は、有能な彼に見極めて欲しいと」
「それが例の『条件』に繋がると?」
ミスリアはポニーテールから逃げた髪の一房を耳にかけ直し、訊いた。ラサヴァで、カイルサィートが王子殿下に言った言葉を覚えているのだろう。
「そうだね。王冠は宰相が隠し、彼だけが在り処を知っている。そして彼は継承者候補たちに王の遺言を伝えた――『国民に最も支持される人間が王冠を戴く』と」
カイルサィートは話を続けながらも周囲への注意を緩めなかった。もとより肌の露出が少ないため枝などに引っ掛けられて怪我をする心配は無いが、それでも蜘蛛の巣や大きな虫、そして蛇などを避けたい。
「果たして宰相が王の真実を語っているのか、これが彼自身の
しかも王冠を託されたからには自分自身が王になりたい、とは決して考えないような誠実な人物だと聞く。
「では条件に従うしかないのですね。国民の支持と言っても解釈は多々ありそうです」
「だから手持ちの領地や利益を増やそうとする者もいれば、慈善事業に励む者もいるのかな。シューリマ・セェレテは、オルトファキテ王子の名の下で偽の活躍を積もうと狙ってたんじゃないかな。王子はそういうのをいらなかったみたいだけど」
自国よりも聖獣が欲しいと言った第三王子を思って、カイルサィートは数秒ほど立ち止まった。
ミョレン国内のイザコザだけならこちらにとっては関係無いのひとことで済ませられるが、聖獣が絡むとなるとそうは行かない。しかし途方も無さ過ぎて警戒する必要があるのか怪しい。教団に報告しても信じてくれない気さえする。
思考を巡らせても答えが出ない問題はひとまず忘れて、カイルサィートは自分が聞いた他の噂を話すことにした。止めていた足を動かす。
「現在のミョレン王国で王位継承権を有しているのは、先王の兄弟姉妹が何人か、あとは先王の直系の子が四人。その四人の中で唯一、オルトファキテ王子だけは母親が平民以下の身分で、詳しい経緯は知らないけど、どうやら母親は王子を産んだ一週間後に自害したらしい」
ミスリアがはっと息を呑む。大分先を歩くゲズゥが、まるで話に興味を持ったように振り返っている。
「……とまぁ、王子ははじめから王位継承権を持っていなかったってね。ところが彼は成人してからの数年間、消息を絶った。死んだんじゃないかって噂が出回るほど長い間が過ぎるといきなり城に戻って王と謁見し、その直後に王は第三王子にも継承権を与えると言って譲らなかったそうだよ」
「どうして王様はそんなことを言ったんでしょう。王子殿下の才気を知って考えを改めた……とか?」
「その読みはいい線行ってると思うよ」
勿論、実際の正解は知らない。
カイルサィートは無言で藪を払う長身の青年の、後ろ頭をじっと見つめた。
(おそらく、彼らが出会ったのは王子が城から失踪していた数年の間)
王子のそれまでの人格とそれからの人格に如何ほどの差異があるのか、知ってみたいような知りたくないような、微妙な意欲が沸く。
少なくともその数年がどんなだったか、訊ねてみればゲズゥ・スディルは答えるだろうか。
(またの機会があれば訊くかな)
たとえその機会がいつ訪れるのか、想像がつかなくても。
そろそろ時間切れである。
岩壁に挟まれてた道が、視界が、急に開けた。
前方では少々の平野の先に、濃い緑色に覆われた低い山が連なる。山々の麓には畑と民家が並んでいる。
ミスリアが情景に感嘆の声を上げた。
「何だか大陸のこの辺りは地形がめまぐるしく変わりますね。綺麗です」
「南西へ行くとただの平地の方が珍しいね」
カイルサィートは右隣に目配せした。
数歩先で道がちょうど別れている。民家に近づきすぎない距離から、平地を進められる。
「僕はここから北へ行くよ」
笑ってそう伝えたら、ミスリアが落胆に表情を曇らせた。鞍上からおもむろに降りて、彼女はカイルサィートの正面に立った。
「ちょっと残念です。できればもっと一緒に旅をしたかった……」
「それは僕も最初はそう提案したかったけどね」
「と言いますと?」
小柄な少女が首を傾げた。ウェーブのかかった栗色の髪が風になびく。
「考えが変わったと言うのかな。僕は聖獣を蘇らせる旅には出ないよ」
カイルサィートは、言葉の一つ一つに決心をこめた。
そう、ミスリアと再会した当初は一緒に旅に出ようと提案するつもりだった。自分の方の護衛は道中雇うなりして、共に聖地を巡礼したかった。かつての同期生であり友人である人間と一緒なら心強いし、よりスムーズに旅が出来ることは想像に難くない。
ミスリアは口を不自然に開いたと思えば、数秒後に気付いて閉じた。説明を求めるべきか決めかねているのか、唇を揺らしている。
「色々と思うところがあってね。前からだけど、叔父上の教会に来てからもっと」
訊かれる前に、カイルサィートは自分から説明し始めた。
「聖獣を蘇らせることの重要性は理解している。ただ僕の目指す目標は、それだけではきっと手に入らない」
忌み地やラサヴァの町での騒ぎと、叔父の成れの果てを思い返す。そして教団関係の人間以外ほとんど誰も知らないという、魔物が発生する原理。
――本当に、このままでいいのか?
「カイルの目標って確か……『魔物に怯えずにすむ世界』でしたよね?」
「よく覚えてるね」
自然と顔がほころんだ。目標を語り合った日々が大昔のように感じる。
「その思うところが何なのかまでは、話してくれないんですよね」
「今はまだ閃きに過ぎないから……時が来たら話すかな。ごめん、約束は出来ない」
カイルサィートは苦笑いした。
そもそも今の教皇猊下の指揮下で、教団が聖獣を蘇らせることを最優先しているというのに、この決断は褒められるものではない。
「わかりました。ではここでお別れ、ですね」
俯いたミスリアの様子がいつになく暗い。
「こらこら、そんな顔しないの」
つい子供をあやすような声色になって、少女の肩を叩いた。
ミスリアは間髪居れずに抱きついて来た。
まるで今生の別れを惜しむような抱擁に、驚かざるを得まい。行き場の無い両手をさまよわせる。
やがてカイルサィートはため息混じりに微笑んで、小さな体を抱きしめ返した。
「生きていればまた会えるよ」
優しく告げた。こっちだって感極まらないように必死だ。
「違う」
それまで馬の手綱を手に持ち、傍観していただけのゲズゥが発話した。無表情に、一言だけ。言わんとしている事は多分伝わった。
「訂正するよ。お互いに生きていて、再会したいという心意気と手段・縁・機会があれば、必ずまた会えるよ」
「…………はい」
くぐもった声は、泣いていない。
「旅、頑張ってね。教団を通して手紙を出せば通じるはずだから、たまには書いてみる」
「はい」
ようやっと離れたミスリアは瞑目している。次に茶色の目が開いた時は、笑っていた。
「私もできれば手紙を書きます。今まで、有難うございます。カイルの進む道がどうであっても私は貴方の味方です」
「ありがとう。僕も同じ気持ちだよ」
そこでカイルは、ミスリアの向こうに立つ黒髪の青年に声をかけた。
「ゲズゥ、君もありがとう。ミスリアをよろしく頼むよ」
名で呼ぶ約束をしていないので不思議な感じがしたが、気にせず続けた。
「君には再会したいという心意気が無いだろうから、これが最後になるかもしれないよ。最後くらい、名前を覚えて欲しいな。できれば呼んでくれても」
他にも言いたいことはたくさんあるが、口から出ていたのはそんな言葉だった。
「断る」
素っ気無い返事。ミスリアが目を丸くした。
カイルサィートはどうしてか、怒りよりも笑いがこみ上げる。
「あはは! そういう率直な物言い、結構好きだよ」
「俺はお前は苦手だ」
やはり無表情にゲズゥが言い切った。
「え。どうして?」
「話し方が知った人間を彷彿とさせる」
「それって僕自身に非が無いんじゃない。その人とはどういう関係?」
「……」
表情に変化は表れなかったが、ゲズゥはそっぽを向いた。どうやら答えたくない質問らしい。
追究はせずに、カイルサィートは荷物をまとめることに移った。ミスリアには馬を使うよう強く勧められ、やんわり抵抗したものの最終的には折れた。
馬に飛び乗って、彼はついさっきまで旅の連れであった二人を見下ろし、微笑みかける。
「それじゃあ行くけど、二人とも元気で。無茶しないでね」
「はい。カイルこそ!」
ミスリアは大きく手を振った。彼女の背後に立つゲズゥは腕を組んでいる。
最後にもう一度笑って、頷いた。
ヤァ! と馬に声をかけて向きを変える。
前方の青く茂る平原と、美味しそうな綿雲の点在する空を見据えた。遠くから鷹の鳴き声が響き、呼応したかのように暖かい風が吹く。
聖人カイルサィート・デューセは己の次なる行く先に向かって迷わず走り出した。
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