13.

 衝撃は、解放感に似ていた。

 泡の音。水の中を落下する時のみに味わう独特の重圧。

 人間の体温より遥かに冷たい水に全身を包まれ、芯まで震える。浮上し、水面を突き破って息を吸い込んだ。ひんやりとした空気が肺を満たす。淡水の臭いは割と好きだ。

 目を開けたまま、再び夜の湖に潜り込んだ。視界の曇りから察するに、藻で月明かりが湖底まで届きにくいとわかる。小魚が足の指を掠めた。長い水草が左手首に絡みつくのを、右手で剥がした。

 暗闇自体は気にならないどころか、むしろ安寧を与えてくれるものに感じられる。

 時折、闇の中に浮かび上がる記憶と言う名の映像だけが余計だが。

 昔から幾度となく、繰り返し思い出してきた場面の一つがまた脳裏にちらついている。瞼の裏に焼き付く光景を払いたいがためにとにかく体を動かす。

 十代半ばの少年が地面に横たわり、血にまみれた手を伸ばしていた。

 いつだって、少年の全身を汚す血と煤と体液よりも左の眼窩がんかから溢れる赤黒い血ばかりが気になる。

 ――頼む、――してくれ。――――ったら、かならず――――を―せ――

 途切れ途切れに記憶を波打つ、少年の必死な声。

 ゲズゥ・スディルは息を止めて二十秒ほど泳いだ。

 苦しいのは、息をしていないからではない。彼は柄にも無く悩んでいる。

 目が覚めて仕方が無い時は、体を動かすに限る。疲労感だけが確実に深い眠りの世界へ沈ませてくれるからだ。普段はそういう睡眠ばかり取っているので夢すら見ない日が多い。

 気分は未だ晴れないが、諦めて水面を目指した。

「眠れないんですか?」

 湖から頭を出した途端に、背後から少女の澄んだ声が聴こえた。

 振り返るとそこには、デッキの端に腰をかけた聖女ミスリアの姿がある。縁に手をかけ、白い素足をぷらぷら揺らしている。栗色の髪を後頭部で束ね、身に着けている淡い色のワンピースは暗くてよくわからないが橙か黄色だろう。

 小柄な少女は僅かに上半身を傾け、湖面を見つめた。手すりに囲われていないデッキだからできることだ。

 見たところ、眠れないのは寧ろミスリアの方なのではないかと思う。

 ゲズゥは岸に向かってゆるやかに泳いだ。

「……夢を、見ていました。怖いというとそうでもなかったんですが、後味が悪くて目が覚めたんです」

「そうか」

 いつもなら相槌を打たなかったかもしれない。今夜はたまたま自分も似たような気分だったからか、つい先を促すような視線を向けた。その意図を受け取って、ミスリアは話を続けた。

「螺旋の階段を、のぼる夢でした。目指す先は雲の上にあって見えないんですけど、そこに欲しいものがあると確信を持って走り続けるんです。でも息が切れるまで走っても、たどり着かなくて。疲れて立ち止まって階下を見ると、幸せそうに笑う人が一杯いて、楽しそうだなって羨ましくなって。引き返して階段をくだるんですけど、今度はどんなに頑張っても下の方へいけないんです。いつの間にか上へも下へも進めないんだって解って、自分だけ取り残されたと解って、階段に座り込んで泣き崩れました」

 そこで目が覚めたのだと予想がつく。

 ミスリアは両膝を抱き抱えて、膝の頭に顎を乗せた。ワンピースの裾が柔らかい風になびく。

 世界に一人取り残される気分なら、ゲズゥには覚えのある感情だった。そんな夢を見るくらいだからミスリアにも何か心当たりがあるのだろう。多少の興味は沸いたが、訊きたいほどでもない。

 ゲズゥは岸まで泳いだ。

「夢なら、俺も見た」

 居心地悪そうに目を潤ませる少女に、同情したのかもしれない。気がつけばそんなことを呟いていた。

「どんな夢でしたか?」

 茶色の瞳には驚きが彩られた。

 しかしその質問には答えず、ゲズゥはひとりごちた。

「……約束を果たすまで、あと一人……」

 両手を岸にかけ、水の中から上がった。


_______


 湖から岸へ上がってきた青年は全裸であった。ミスリア・ノイラートは一瞬遅れて顔を逸らした。

 下半身に何か穿いていると思ったから吃驚だ。

「ご、ごめんなさい」

 デッキに灯りが灯されていないからおおまかなシルエット以外は何も見えなかった訳だけど、一応直視した形になったので、謝罪せずにはいられない。

 視界の端を、細かい傷跡だらけの足が通り抜けた。向こうは気にしている様子は無い。

 しばらくして衣服の擦れる音がした。静まるのを待ってから、視線を戻す。

 幸いゲズゥはズボンを穿き終えたようで、上半身だけ夜風に晒している。デッキに脱ぎ捨ててあった服を淡々と拾い集め、肌に付着した濡れをシャツで雑に拭っている。タオルを使えばいいのに、と思ったけど言わない。

 ミスリアは風に揺れる水面を黙って眺めることにした。

 静かな夜だった。結界に覆われていないこの町ではなかなか味わえない、魔物の騒がない夜。主にここ数日での魔物狩り師たちの働きのおかげである。勿論、ミスリアも討伐の手助けをしてきた。数が減った今では、余計な聖気の気配が遠くの魔物を惹きつけないように注意を払っている。

 ラサヴァを初めて訪れてから一週間半ほど経った。

 諸々の騒ぎの後始末を手伝いつつ、ルセナンの料理屋を手伝ったり、図書館や評判の菓子屋へ寄ってみたりと、ちょっとした観光もしている。

 本来の目的を思えば急いだ方がいいのに、ついカイルに気を遣ってしまう。それに、彼も近いうちにこの町を発つそうなので、途中まで一緒に行く約束をした。

 ゲズゥはというとずっと、意見一つ漏らさずに見守っていた。何も言わないのは肯定の意か、それとも関与したくないだけか。護衛らしくほとんど行動を供にしてくれるけど、付かず離れずの距離で数歩後ろを歩く形だ。

(でも……なんとなくだけど、何も言わないからって何も考えてないわけじゃない、気がする)

 むしろ彼が呆然と遠くを見つめるのは、色々と物思いに耽っているからだと思う。日頃、何を考えているのかものすごく知りたい。

「あと一人って何? なんか意味深だね」

 爽やかな青年の声にはっとなって、ミスリアは後ろを振り向いた。

 ミスリアにとってのたった一人の友人、カイルサィート・デューセが宿屋の庭からデッキに踏み出している。ゲズゥは問いかけを無視すると決めたようで、無言を保った。

「カイル。今晩は魔物討伐の予定は無いはずでは」

 深夜にどうして起きているの、という意味合いで訊いた。けれどもカイルが近付くにつれて彼の服装が目に入り、的外れな質問であるとわかった。

 彼は寝巻きとも取れるような無地の大きめなシャツとズボンに、上着を羽織っているというだけのラフな格好だ。とても今から出かける風には見えない。

「うん、知ってるよ。風に当たりに来ただけ」

 カイルは笑って、隣に腰掛けている。やはり夢見が悪くて目が覚めたのだろうか、などと考えた。

「そんな薄着じゃ冷えるよ」

 彼は自分が着ていた上着を脱ぎ、ミスリアのキャミソールワンピースの上にかけた。

「ありがとうございます」

 上着に残る温もりを素直に受け取った。

「で、そういう君らは何してるの? 水泳の特訓?」

 シャツを使って髪を乾かす半裸のゲズゥに対して、カイルは不思議そうに首を傾げている。

「私は眠れなくて……」

 ミスリアの返答にカイルは「そっかー」と頷いたかと思えば――いきなり上半身を後ろに倒して、デッキに仰向けになった。片腕で顔を覆っているので表情が見えない。

「え、どうしたんですか?」

 心配で友人の顔を覗き込む。もしや相当に疲れが溜まっている?

 確か今日は、午後からの役人たちの集まりにカイルも出席していたはずだ。ミスリアは部外者だし、聖女として慰問の仕事もあったので参加していない。その会議が半日以上にも及ぶ長さだったらしいのはルセナンの妻に聞いている。

「あーあ、おうちに帰りたいな」

 彼にしては珍しく子供っぽい言い回しに、ミスリアは伸ばしていた手を止めた。

 カイルは五年前に一番近しい家族を失っている。直後に父とは疎遠同然になり、そして今度は、叔父とは二度と会えない流れになっている。もうすぐ二人で暮らしていた教会をも離れる。

 教団の思い出では集中的に修行ばっかりしていたから、あそこはおうちって雰囲気でもない。

 彼の帰りたい家はどこにも残っていない。だからこそ、この一言は重い。

(私は両親ともに息災だけど、どっちかといえばあの家にはあまり帰りたくないし……)

 これでは友人の気持ちを汲んでやれない。

「ごめん。君らに言うことじゃないね」

 カイルは特にゲズゥに気遣わしげな視線を向けた。そのゲズゥは視線を返さないで、腕の柔軟をしている。

「謝らないでください」

「僕がもっと早く気付いて、行動に移していれば叔父上を止めることくらい出来たかもしれないけど。それを言えば『全部私の咎なのに、君は真面目すぎる』って返されそうだなって思った」

「……お父様にはお会いできそうに無いんですか?」

「無理だよ、多分。父上は僕に会いたくないはずだから」

 カイルは腕を組んで枕代わりにした。

「どうしてですか、ご自分のお子さんなのに。残った家族を大事にしたいと思うでしょう?」

「それは違うよ」

 目を閉じて、カイルは静かに告げた。どういう意味なのか、ミスリアにはわからない。

「つまり……」

「残った人間を見ると失った家族がどんなだったか思い出すから、会いたくないんだろう」

 言いかけたカイルを、ゲズゥの低い声が遮った。

 思わず、ミスリアは顔をしかめた。その言葉に思い当たる節が無いでもない。

「……そういうことだね、多分」

 カイルは目を閉じて同意し、それ以上は何も言わなかった。

 ミスリアは両手を握り合わせた。かける言葉が思い付かない。

 結果、ぎこちない静寂が広がる。

「……食って寝てればそのうちどうでもよくなる。心がいくら落ちようが体の方は生きるのを諦めたりしない」

 そう言い残して、ゲズゥは宿屋の中へ戻っていった。パタン、と裏口の戸が閉まる。

「あれ、もしかして慰めてくれたのかな?」

 ゲズゥの姿が見えなくなってから、カイルが訊ねた。

「私にもそのように聞こえました」

「いいアドバイスだったね。ひとまず僕は、寝ることに再挑戦するかな」

 カイルは身を起こし、そのまま立ち上がった。

「はい、私も」

 ミスリアは差し伸べられた手を取った。

 柔らかい風に打たれ続ける湖を、二人はあとにした。


_______


 料理屋の夫婦に向けられた憐憫と後悔の眼差しを、ゲズゥは快く受け止めなかった。彼にとっては何の意味を持たないものだからだ。

 面倒くさい方向の話だ。

 踵を返し――曇天の朝に出発して大丈夫か、崩れないだろうか――などと天気の問題へと思考を切り替えた。

「当時のシャスヴォル政府があんたらの村に何か不穏なことをしようと考えてたって、隣町のオレらは本当はわかってたぜ。何もしなくて、悪かったな……なんて言っても仕方ないか」

 今更謝罪しても無意味だということを、役人は理解しているようだった。

「事情に気づいたのはほんの一握りの人間だった。騒ごうものなら、オレらは間違いなくシャスヴォル軍に口封じとして消されたはずだ。みんな、怖かっただけなんだ」

 役人は更に話し続ける。

 あの日、「呪いの眼」の一族を抹消するつもりでやってきたのはシャスヴォル軍だった。

 近隣の村や町の人間は一族をまったく助けようなどとしなかった。こちらがひっそりと隔絶されたように暮らしていたとはいえ、昔から物々交換などの付き合いはあったというのにだ。

 そうしてゲズゥは人類に失望したと同時に、納得した。人は、自分以外の誰かを助けたりしない。それが醜いのかというとそうではなく、ただそれが当たり前の在り様なだけで、生き物はいつでも自分のことだけで精一杯だったのだ。

「私たちは『呪いの眼』の一族を嫌ったり怖がったりしなかったわ。本当よ」

 役人の妻が必死な声で訴える。

 詮無きことだ。誰が何を言おうと時は遡らない。

 驚愕の表情を浮かべる聖人と聖女ミスリアの間をすり抜けて、ゲズゥは店から通りへ出た。


_______


(えーと……)

 一度も振り返ることなく去っていったゲズゥの後姿を、なんとなく見送った。

(うぅ、気まずい)

 ミスリアは知らず後退っていた。目立たない程度にカイルの背中側に回る。

 出立の朝だというのに、天気だけでなく旅の先行きもあやしい。

「彼らの村を滅ぼしたのは、自国の軍だったんですね」

 沈黙を破ったのは、カイルだった。

「ああ。知らなかったんだな」

「彼は語ってはくれませんでした」

 俯き、ミスリアはそう答えた。

「どうしてそうなったのかご存知ですか? 僕なりに考えはありますが」

「さあ……詳しくは知らない。政府が村と『呪いの眼』を危険視してたのだけは間違いないな」

「でも明確な危険性を示す証拠は無いです」

 ゲズゥの処刑を止めた日に総統閣下に言ったのと同じ言葉を、ミスリアは繰り返した。

「そうは言っても、人は得体の知れないものを駆除したがるよね。証拠やはっきりとした結果が出るのを待つほどの勇気が無いから、先にどんな不安の種をも潰そうとする。あとになってそれが過ちだったと知ってもね。為政者としてそのやり方が最善なのかどうかは、一概には言えないと思う」

 カイルは重いため息をついた。

「そうだな」

 ルセナンは深く頷いた。

「噂だと、睨んだだけで人を呪い殺す力を持った眼って説もあるぜ。どうなんだろうな? あの兄ちゃん、そんなことしてたか?」

 好奇心と畏怖の入り混じった目で、ルセナンが訊く。

「いいえ」

 頭を振って否定した。ミスリアの知る限りではゲズゥが睨んだだけで相手がどうこうなるなんて現象は起きていない。だからといって、知らないところでそれをやっていないとは言い切れない。真実であれば末恐ろしい能力だ。

「噂は、あくまで噂に過ぎないでしょう。でも貴重な情報を有難うございました」

 信じていないといった具合で、カイルが笑んでいる。もとより、俄かに信じられる話でもない。

「それより僕らもそろそろ出ないと。下手すると置いていかれるかも」

 ミスリアにしか聴こえないようにカイルは小声で言った。

「え」

 一瞬想像して、硬直した。

「冗談。でも、一人で先に行ったとしても余裕で自分で生活できそうだよね、彼」

 カイルがあまりに爽やかに笑うので、ミスリアも釣られて破顔した。

「……では、お話の途中ですが私たちはもう行きます。色々とお世話になりました」

 二人は揃って会釈した。

「いや、こちらこそ世話になったな」

「お気をつけて。旅、頑張ってくださいね!」

 ルセナン夫婦が会釈を返す。そして明るく手を振って送り出してくれた。


_______


 ラサヴァの町での馬の入手は困難だった。数が少なく、値段が高い。そのため、買ったのは一頭だけである。荷物を背につけて、鞍にはミスリアが乗っている。一人で乗るのに不安そうな顔をしているが、聖人が手綱を引いているので問題無いだろう。

 町から伸びる一本の道を、旅装姿の三人と一頭は無言で進んでいる。まもなく町から出るため、道のレンガの舗装が途切れ、前方に続いているのはただの土手道である。

 談笑が無いのは気にならないどころか、むしろ理想的だった。

 背後の二人は料理屋を出てからずっと何か聞きたそうな様子である。言い出しづらいのだろう、時々こちらに視線を投げかけては口を開き、しかしとて問いを形にすることなくまた目を逸らす。

 察していながらも思いっきり無視を決め込んで、ゲズゥは歩を進めた。

 彼は多少の荷物を腰に提げ、大剣を背負い、片手の林檎を時々かじりながら程よいペースで歩いていた。いつしか周囲の景色は人間の建てた建築物から大地より伸びた木々に切り替わった。記憶の中の周囲の地理・地形を、実際のそれと比べながら、脳内の地図を書き換えている。

 この先には森、丘、岩壁、低い山。ミョレンの国境を抜ければ、視界に収まりきらないような高山が現れ、山脈を成す。

 国境を抜ける手前で聖人とは道が分かれるらしい。

 そこからの行き先への地図はミスリアが持っているが、地図と方位磁石を読んだだけではあの山脈の抜け方を知ることはできない。最後にあの付近へ行った頃のことを、ゲズゥは思い返した。夜な夜な襲ってくる魔物は当然のこと、獰猛な野生動物が居た気がする。山賊などもおそらくまだあそこで縄を張っているだろう。

「……結局、流行り病騒ぎは、全部の責任をセェレテ卿と某商社に押し付けて円満解決に仕立て上げたみたいだね、町長と役人たちが」

 ようやく口火を切った聖人が最初に触れたのはラサヴァの話題だった。

「そうですね」

 未だになんと感じればいいのか決めかねているような声で、ミスリアが答える。司祭の名誉は守られたということだ。

「商社の人間は牢入りだったり死刑判決になったりしたけど、セェレテ卿は、数日のうちに公開処刑にされるそうだよ。やっぱり、そうしないと元が騎士だから示しが付かないのかな」

 聖人が抑揚の無い声で言うと、ゲズゥはぴたりと足を止めた。

 振り向けば、ミスリアが血の気の引いた顔になっていた。鞍を掴む手に力を込めたのか、間接が白んでいる。この少女は、敵の立場だった人間の死を聞いても動揺するのか。

 ――主のために行ったらしい所業だというのに、最終的にそのせいで主に切られた女。

 ゲズゥは不敵な笑みを絶えずたたえていた女騎士に思いを馳せた。滑稽である。

 といっても、オルトはいわば海か空のような、広いような深いようなとらえ所の無い男だ。かつて一年以上と行動を共にしただけに、ゲズゥは直感でわかっていた。

「どうだろうな」

「何が、ですか?」

 力なくミスリアが訊く。

「……あの女に利用価値を見出す限り、オルトは多分そいつを助ける」

「どうやって?」

 ある程度抑制しているとはいえ、聖人の目は興味深々だ。

「顔や背格好が似た人間を代わりに処刑すればいい」

「そんな――」

「あの男はそれくらい何とも思わん」

 ますます気分が悪そうなミスリアに構わず、ゲズゥはまた歩き出した。

 オルトが女騎士に対して見出した利用価値に関して、あの女と刃を交えた時からゲズゥには密かに思うところもあった。しかしそれを理解できない相手に教えても無益だ。

 食べ終わった林檎を森の中へと投げ捨てた。

 トスッ、と落ちた瞬間の控えめな音がする。その衝撃か音に驚いたらしい小動物が、ガサガサと逃げ回る音が聴こえる。

 そういえば聞きそびれたことがあると思い出して、ゲズゥは歩く速さをゆるめて背後の聖人を振り返った。

「うん? どうしたの」

 すぐに気付いて、聖人の方が声をかけてきた。馬上のミスリアもこちらに注目している。

「夜の魔物をどうしのぐ気だ」

 ゲズゥはミスリアと聖人の二人に問題提起をした。まさか夜通し移動を続けるつもりは無いだろう。しかも小さな村が点在しているとはいえ道から大分外れてしまうため、宿泊先を探すより野宿の方が手間が少ない。

 野生の動物は炎などで近寄らせないなどと対策は立てられるものの、魔物除けに効くのは「結界」といった術だけのようだ。それらの類は専門家こそがどうにかすべき問題である。

 そうでなければ、交代で寝ずの番をするしかない。

「カイル、考えがあると言っていましたよね」

 ミスリアは聖人の方へ視線を向けた。

「そうだね。例の水晶をまだ持ってる?」

「はい、ここに」

 ミスリアは懐から何か小さな袋を取り出した。細い指で引き紐を解いている。

「村の封印が解けた時、空から降ってきた石のようなものを覚えていますか? これがあの時の水晶です」

 覚えている。空が歪んだかと思えば一点の石に収まった、という不思議現象。あの時は母を見送った直後であっただけに深く気に留めなかった。

 こちらからも見えるように、ミスリアが手のひらを差し出す。

 水晶といえば面の多い宝石みたいなものを想像した。ところがミスリアの手のひらにのっている青みがかった透明のそれは飾り物の石みたく、滑らかだった。人の手によって磨かれたものに思える。

 ゲズゥは今まで生きた年月の間にさまざまな石を見てきた。見た目で似ているのはガラスの小玉辺りだが、この青水晶は何かが根本的に違う。何がとなるとはっきりとわからない。どうにも教団やら聖気がらみとなると曖昧な感想ばかりになってしまう。しかし、近づいて確かめたいほどでもない。

「これを使って簡易式の結界を練るんだけど。聞く?」

 理解できるかどうかあやしいが、いつかは生きるために役に立つ知識となるかもしれないという可能性を検討してから、頷いた。

 前を向き直り、歩き出す。背後からゆるやかな馬の蹄の音と聖人の声が続く。

「今は込み入った説明は省くよ。即ち水晶とは、とある何かを別の何かに『繋ぐ』のをより簡単にする、媒体なんだ」

 聖人は軽い調子でそう始めた。

 端から理解の範疇を超えているが、ゲズゥは何も言わないでおいた。道端の倒木を踏んで、ひとり先頭を黙々と進む。

「村の封印の要だったのはこの水晶で、核の魔物が消えれば封印も解けるように二重に術がかかっていたんだね。封印と魔物という二つの不安定な存在を繋ぐのは難しい。でも如何に高等な術でも既に解けた今では、この水晶は空白状態に戻っている」

「術が書き込まれていない空白状態なので、私たちが新たな術に使えるわけです」

「そういうことだね。水晶が無くても術を練ることは可能だけど、それだと成功しにくいからね。それで、封印と結界の原理については別の機会に話せばいいかな」

「大体わかりましたか?」

 遠慮がちにミスリアが問う。

「…………」

 振り返って、頷いた。わかったといえばわかった。

 でもこの話はもういい、とも思う。


_______


 時折弾ける焚き火を見張っていた。

 傍らでは、毛布に包まった少女が安らかな寝息を立てている。

(年頃の女の子に、道端での野宿はできればあんまりさせたくないな……)

 眠るミスリアになんとなく微笑みかけてから、カイルサィートは正面にいる長身の青年を見上げた。

 程よい大きさの石をどこから見つけ出したのか、ゲズゥはその上に座って瞑目している。腕を組み、右足を曲げて踵を左の膝にのせた姿勢だ。瞑想しているのか寝ているのかは知れない。

 どちらでも構わない。言いたいことを一方的に言いたいだけなので、カイルサィートは口を開いた。ミスリアを起こしてしまわないよう、小声を用いる。

「ゲズゥ・スディル、或いは『天下の大罪人』。ミスリアは君が『語られているほど凶悪じゃない』と見ているみたいだけど、僕は少し違う解釈をしている。君は背徳に、何も感じないんだ。祖国にすら見捨てられ、何もかもを奪われた境遇――結果として君が人間として何か欠如しているのかもしれないという話を聞いたけど、実際に会ってみてあながち外れていないと思う」

 カイルサィートは目を閉じた。自分の言葉の重さは十分に理解している。いっそ、一方的に言い捨てるだけで終わってもいい。

 逆上されて殺されるなら、せめてミスリアが逃げ切れるまでの時間は稼ぐ。

「別に君の生き方が間違っているとか、そういうことが言いたいんじゃない」

 彼の生き方自体を全て理解できているなんて思わない。まだまだ気になる点は多いし、誰も他の誰かを全て理解できやしない。そんなものは驕りだ。それでも、他人を理解しようと努力をし続けるべきである。

 ふと視線を感じた。

 目を開けると、色の合わない両目が炎越しにカイルサィートの姿を写していた。といっても黒い右目はともかく、白地に金色の斑点と縦に細長い瞳孔の左目では、写っているものがはっきりとは見えない。

 その双眸は威圧的でありながら静かだった。背筋が凍り、微動だにしてはいけないと本能が訴える。

 本能とは裏腹に、不思議と頭では恐れることは無いとわかっていた。出会ってからの時間を思い返せば、簡単に納得できる。彼はむやみに暴力を振るわない。

「……ほら、ミスリアって道端の虫の死骸にでも心を痛めるから……危ういと思ったんだ。君が傍にいて、いつかはそういう意味で傷付くんじゃないかと思って」

「遅い」

 低い声が短く答えた。返事をくれるとは思わなかったので少しだけ驚く。

「うん。確か、ミスリアが対話していた最中の魔物を君が豪快に斬ったらしいね? まぁ、相手が生きた人間じゃなかっただけ幸いかな。でも、何だろうね、要するに」

 カイルサィートは自分の言いたいことをまとめようと、一息ついた。

「僕はミスリアを信じているし彼女の選択を応援するけど、やっぱり君の方からも少しでも気を遣って欲しい。ということを、頼んだところで聞いてもらえなくても、せめて記憶のどこかに留め置いてくれると助かる」

 言い終わると、軽く頭を下げた。

 しばらくして頭を上げると、ゲズゥは訝しげな顔をしていた。

(何か皮肉を吐きそうな雰囲気だな)

 確かにゲズゥは口を開けている。が、彼が何か言う前に森の方から物音がした。

 刹那、ゲズゥの顔から表情が消え去った。

 残るのは敵を探す獣の瞳だ。

 カイルサィートも、己の吐息を静めた。

 最初の音がしてから、二人は動かずにただ待ち続けた。

 どれほどの間、そうしていたのかはわからない。

 はっきりとした音はもうしなかった。草がふみしめられるような、微かな音なら聴いたかもしれない。

 やがて、ゲズゥが興味をなくしたように目を伏せ、剣の柄を握っていた右手を開いた。

「通り過ぎたな」

「……そう」

 張り詰めていた息を吐き出した。どの道、結界があるのでどんな敵だったとしても簡単に入り込んだりできなかったろうが、だからといって無視できない。

「狐か何かかな。それとも魔物?」

 一定のリズムで寝息を立てているミスリアを眺めながら、呟いた。

「人間」

「え? よくわかったね」

 彼には音の大きさや間隔か何かで判断できたのだろうか。カイルサィートに聴こえなかったような音か、空気の揺れか、はたまた臭いのひとつでも感じ取った可能性もある。

「ただの勘だ」

 返ってきた答えはあっさりとしていた。ただの勘でいいのか。

 夜盗やら賊の類を懸念して、カイルサィートは眉をしかめた。何かしら対策を立てるべきかもしれない、と相談を持ちかけようと思った途端。

 ゲズゥが道端に生える樹を登り始めたのである。

 考えうる理由としては――見晴らしがいいので危険要素をいち早く発見できそうだからか、それとも単に寝るつもりなのではないかと思う。

「三時間したら起こせ。交代する」

 頭上から降ってくる声。見張りの話だ。どうやら登った理由は後者の方が当てはまるらしい。眠気に抗う方法なら多く持ち合わせているので、こちらとしては断る理由は無い。

「わかった。お休み」

 樹の上に向かって答えた。

 不審な気配をゲズゥ・スディルが気にしないと決めたのなら、こちらとて過剰に気にしても仕方ない。

 カイルサィートは日記帳と羽ペンを荷物の中から取り出した。

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