12.

 独りで眠る夜を怖がった頃もあった。

 それまではいつも誰かと一緒だったし、よほど曇っている夜でなければ窓から明かりが入り込んでいた。

 屋内の純粋な闇には、屋外のそれとは違った恐ろしさがあった。

 ドアの隙間から毒蛇が入り込むわけが無いのに、結界に守られた地域に魔物が現れるはずも無いのに、目を閉じれば寝てるうちに襲われて二度と目覚めないのだと、どうしてか思い込んでいた。

 闇を凝視するうちに、怪物の輪郭が目に映る夜もあった。もちろんそれは錯覚だったが、子供の瞳には錯覚の方が真実に見えた。怪物は自分にしか見えないモノで、大人を呼んでも気のせいだよとあしらわれると思った。そんな時は悲鳴をあげないように、シーツを噛み締めて気が済むまで強く目を瞑った。

 ミスリア・ノイラートは九歳くらいの歳で親元を離れ、ヴィールヴ=ハイス教団系統の修道院に移り住んだのである。当時のルームメイトは彼女なりの都合があり、ミスリアより一月遅れて宿舎に入ったゆえ、それまでミスリアは独りで夜に耐え続けた。

(他の子たちだって怖かったはずよね)

 独りで眠る夜は誰にだって寂しくて恐ろしいもののはず。そうに違いない、と小さく頷く。

 実質的な危険でいうなら、今の暗闇の方が過去のそれを遥かに上回る。

 ミスリアは隣のゲズゥ・スディルを仰ぎ見た。背が高くて細身の筋肉質な青年は、燭台を壁から持ち上げてミスリアに差し出している。その表情には、恐怖が欠片も表れていない。

 幼少時になら、彼も闇を恐ろしいと思ったりしたのだろうか。七歳で身寄りを一切失ったというゲズゥは、どうやって眠りについていたのだろう。いつか聞いてみたい。

 考えを顔に出したのかもしれない。こちらが呆然と見つめていたら、怪訝そうにゲズゥは目を細めた。ミスリアは目を一度逸らしてから、燭台を受け取った。

「明かりを持つ方が先を歩くんですよね?」

 確認のために訊く。

「嫌か」

「いいえ」

 先を歩く不安を感じる一方で、ゲズゥに背中側を守ってもらえる方が安心できる。明かりに触れているというのも、いくらか心休まった。頭を横に振って、ミスリアは通路の方へと踏み出した。

 最初に歩いている内は、何も無かった。まるで地中から土を抉り取ってそのままトンネルにしたかのようであった。空気は冷たく湿っている。虫が過ぎる音を除いて、鼠の鳴き声一つしない静けさがあった。

 ふいにゲズゥがしゃがんだことに気づき、ミスリアも立ち止まって肩から頭を巡らせた。

 彼は地面についている僅かな血の跡を確認していた。

「……この量からだと、重い傷とは思えないな」

「そう、ですか」

 ミスリアはそっと息を吐いた。怪我をしているのが誰であっても、とりあえずは朗報である。友人カイルサィート・デューセであるなら、尚更だった。

 二人は再び歩き出し、通常より二倍速いペースで歩を進めている内に水音が耳に入り、そしてトンネルと交差する通路へと出た。こちらは最初のトンネルより広く、大人が五人程度横に並んでいられるほどの横幅がある。

 石造りの壁と地面、通路の真ん中を流れる濁水。これが下水道の一部と考えて、間違い無さそうだ。臭いを嗅がずに済むように、鼻から息をするのをやめて口からだけ呼吸した。

「ここからはどう進めばいいんでしょう?」

 当面の選択は右か左に曲がるかである。どちらも同じような闇しか見えない。ミスリアは燭台の蝋の残り分を確かめ、もってあと一時間と推測した。

「下流」

 ゲズゥが一言呟いた。

 大抵の下水道は川などと合流するように造られている。川を通じて、汚水が海へと流れ出る仕様だ。下水道を下流へ進めば進むほど川に出る地点へ近付く。

「では右ですね」

 どうして下流がいいのか、ミスリアはいちいち問い質さなかった。自分に優れた考えが無いからこそ訊ねたのである。

 そうして進んでいたら、鼠に遭遇した。何匹かが足元を忙しなく走り回っている。ミスリアは長いブーツを履いているので大して気にならないが、ゲズゥはサンダルだ。噛まれる可能性はある。

 盗み見るように振り返ったが、ゲズゥは至って平静だった。

 彼は何度か蹴る素振りをして鼠を散らせた。

 ミスリアは思わず去り行く鼠の後姿を目で追い、ふと、前方の薄っすらとした明かりに気が付いた。上から差し込んでいるらしいところから、出入り口か排水溝があると予想が付く。

 案の定、近付いてみたらそこには地上への出入り口があった。階段を十段上った先の小さな門が、外界との隔たりだ。雨の日であったならば、街中の水が流れ落ちてきただろう。

 扉を構築する鉄格子の大きな隙間から差し込む陽光を浴びて、そういえば地上では昼間だったことを思い出した。この近辺なら蝋燭の明かりが無くても充分に明るい。

「地価貯蔵庫へ戻らなくても、ここから出られますね。ルセさんは不審がるかもしれませんけど……」

 一緒に来たはずの人間が忽然と消えてしまったら、それが普通の反応だろう。

「そうだな」

 ゲズゥは何を思ったのか、唐突に燭台をミスリアの手から取り上げて、先を歩き出した。こっちがもたもたし過ぎたからしびれを切らしたのだろうか。

 数分歩いたら、また闇に包まれた。こういう時は炎という発明が実に有難い。

 ミスリアは少ない明かりを頼って足元にばかり注意を払っていたため、ゲズゥが立ち止まったのを知らずに衝突した。

「きゃっ」

 顔面を彼の背中か腰辺りに思いっきりぶつけた。

 鼻の頭をこすり、どうしたんですかと問いかけて、言い終わらなかった。

 蝋燭の炎に照らされた、下水道の汚水の流れを塞き止めるモノを、目の当たりにしたからである。

 小さな山みたく積み重なり、蠢く茶色の集合体。鳴き声からそれが多数の溝鼠だとわかった。吐き気を誘う腐臭に、ミスリアは反射的に袖で鼻と口を覆った。口の中にいつの間にか広がっていた苦味をゴクリと飲み込む。

 あの山の下で、何かが今まさに鼠に食べ尽くされんとしているのだろう。人間と同じ大きさの死体が鼠たちの隙間からのぞく。

 死体を見下ろすゲズゥの表情に、何ら変化は表れなかった。彼はそれを一瞥した後すぐに目を離し、燭台を前へと掲げて進んだ。

「それよりお前が探してたのは、あっちだろう」

 低く冷静な声に促されて、ミスリアは恐る恐るゲズゥに続いた。

 下水道はここらで枝分かれするらしい。分け目の前に、椅子に縛り付けられた人影があった。

 接近して視認しなくてもわかる。

「カイル!」

 夢中で駆け寄った。

 何度か呼んでも揺すっても反応が無いので、首の脈を確かめた。脈は弱々しいけれど、間違いなく生きている。それ以上考える前に、ミスリアは聖気を展開した。

(なんてひどい……)

 カイルの肌に触れて感じた体温の低さに、ぞっとした。一体どれほどの時間、この状態で居たのだろう。全身に血の乾いたあとが見られる。骨も折られているようだ。

 特定の怪我を集中的に完治させるよりも、ミスリアは全体を治すことにした。


_______


 暖かい金色の光が俄かに瞼の裏に広がった。

 また夢が始まるかと思ったが、どこか違和感を覚えた。

(天へと続く道に辿り着いたのかな?)

 そのようなことをのんびり考えた。天へ、神々へと続く道に辿り着くということは即ち肉体の死を経たことを意味する。

 もしも自分が死んだというのなら、この上なく残念なことだが、仕方ない。

(でも多分違う……「あの時」と違う)

 この光は天から降りてきていない。もっと間近な距離から届いている。それも大いなる神々の届け物ではなく、もっと身近な存在が発している光。

 ああそうか、とその正体に思い至った途端、意識が浮上する感覚に引っ張られた。


_______


 開いた目が霞んでいる上に、辺りがやたら暗い。

 間近に人が居るのはわかる。しかしその姿が見えない。

 此処は一体どこで、自分は何をしていたのか。頭が痛くて思い出せない。

 夢の世界で何かわかったのに、目を開いた所為で向こうに置いてきたような気はする。

(そんな風に感じたのは、何度目だろう)

 短い間に何度かあったと思う。それが、少しだけ悔しいような惜しいような。

「大丈夫ですか?」

 可憐な少女の声に、カイルサィートは咄嗟に訊き返した。

「リィラ……?」

「!」

 少女が息を呑む気配がした。

 そこでようやっと、目がはっきりしてきた。驚きに塗られた大きな茶色の瞳を、どうして妹と間違えられただろうか。

「……ミスリア、」

 来てくれると思ったよ有難う、と言葉を続けたかったのに、乾いた喉には名を呼ぶだけが精一杯だった。なので、とりあえず顔中の筋肉を駆使して笑ってみようと試みたが、これがまた痛くて断念した。

「よかった――」

 ミスリアの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。安堵のあまりにか顔をくしゃくしゃに歪め、次いで抱きついてきた。

 カイルサィートは己に覆い被さる温もりにどうしてか驚いていた。そういえば抱き締められるというのはこういうものだったな、と再発見した気分だ。軽く抱き合うことは普段から挨拶代わりによくやっているが、抱き締められる圧力とは比べ物にならない。

 素直に心地良い。

「心配、かけたね」

 なんとか囁いた。当然、抱き締め返してやりたいところである。しかし両手が椅子の後ろにて縛られているので不可能だ。

 身体の治療に専念するあまりにその辺りに気を配る余裕が残らなかったのだろう。ミスリアらしい。

 彼女の後ろに突っ立っているゲズゥが、拘束を解いたらどうた、みたいなことを指摘したそうに目を動かした――ように見えた。といっても目を動かしただけでは背を向けている本人に伝わらない。

 ゲズゥは口を開きかけて、急に目を見開いた。カイルサィートにもすぐにその原因がわかった。

 物音がしたのである。複数の、靴の音と話し声と、衣擦れともいえるような音などが近づきつつある。

 ミスリアも音のする方を振り返った。

「こんな場所に来る人といえば、清掃員や整備員でなければ、まともな人間……なわけないですよね?」

 震える声でミスリアは呟いた。

「まともでなければただの物好きだ、気にするな。三十秒もあれば終わる」

 ゲズゥはそう言って、燭台をミスリアの足元近くに置き、来た道を逆戻りし始めた。

「終わる……?」

 ミスリアは尚も不安そうな顔をしている。

 それでもずっと、聖気は発動されたままだ。おかげで痛みもだるさも大分楽になってきている。

 何度か深呼吸を繰り返してから、カイルサィートは幾分か回復した喉から発話した。

「味方でないのは間違いないし、彼に任せればいいよ。狭いから大剣は使えないだろうけど」

「あ、はい、カイルがそう言うなら」

 でも殺しちゃだめですよ! の言葉だけ、ミスリアはゲズゥの背中へ投げかけた。

「それで、具合はどうですか?」

 ぱっと明るい笑顔になって、ミスリアが訊ねた。

「随分よくなったよ、ありがとう。もういいんじゃない? 聖気を閉じて」

 同じくらいに明るい笑顔を浮かべて、カイルサィートは応じた。力とは常に温存するものである故、閉じた方がいいと進言した。

 意図を汲み取り、ミスリアは忽ち言われた通りにした。

 金色の淡い光がフッと消える瞬間、ミスリアの細く白い左の前腕に包帯が巻かれているという、不自然なものを目で捉えた。

「腕、怪我してるの?」

「これですか」

 どういうわけかミスリアが一瞬ぴくりと怯んだ風に見えた。たとえるなら、悪いことをして隠していたのを、親に見つかって問い詰められる寸前の子供を彷彿とさせる。

「……えーと、魔物に噛まれ、ました……」

 歯切れの悪い返事を返しながら、視線をさ迷わせている。彼女が嘘をつけない性分であることは重々承知しているから、ありのままの意味で受け取った。魔物にやられたのは事実だろう。

「ああ、もしかして『忌み地』に行ったのかな」

「すみません! 浄化はできたんですが……その、勝手な真似をして……神父様やカイルのお仕事でしたのに独断で……」

 俯き、消え入るように言う少女に、カイルサィートはなるべく優しく声をかけた。

「謝らないで。浄化できたならそれに越したことは無いから。訊いて欲しくないなら別に訊かないよ?」

 危険の方へと突っ走った点は確かに叱るべきかもしれないが、自分にできなかったことを成し遂げたのだから、むしろ賞賛に値する結果だ。元よりミスリアは、カイルサィートよりも遥かに優れた実力を有している。

「縄ほどいてくれたら、治してあげる」

「このくらい平気です! 後でお願いしますね」

 そう言ってミスリアは椅子の後ろに回り込んだ。

 奥の闇の方から、叫び声が上がる。

(ドンパチが始まったか……さて、ゲズゥ・スディルは素手でもメチャクチャに強いんだろうなぁ)

 自分でも驚くほどに心中は凪いでいた。恐怖や焦りが無いのは、しがみつかなければならないものを多く持っていないからだろうか。

 それでもやりたいこと、やらねばならないことならあった。目的を果たすまでは死ねない。

「僕はね、本当は正義感が特別強いわけじゃないんだ。目の前で許しがたい行為が繰り広げられていようと、保身のために見て見ぬふりぐらいできるよ。辛いけど、できる」

「突拍子もなくどうしたんですか?」

 ミスリアは縄を解こうとせっせと働く手を止めたかと思えば、また動かした。

「それでも助けたいと想う心がある内は、体の方が勝手に動いてしまうのかもしれないね。ごめん。独り言だと思って流して」

 カイルサィートは小さく笑ってごまかした。

 ちょうど手首を縛っていた縄が解けたので、自由になった腕をゆっくり動かしてみる。

「私にはよくわかりませんけど、カイルは優しいです」

 それが彼女なりの励ましなのだろう。

「ありがとう」

 ミスリアが差し伸べた手を、カイルサィートは迷わず取った。しばらく使われなかった筋肉を徐々に慣らし、腰を浮かせた。が、そのまま椅子に座り込んだ。三度目の挑戦でやっとうまく立ち上がれた、と思ったら、何かが足に触れた感覚があった。

「きゃっ」

 いつの間にか溝鼠が二人の足首辺りに噛り付こうとしている。血の臭いに惹かれたのだろう。そういえば朦朧とした意識の合間にも、噛まれていた記憶がある。今はすっかりミスリアの聖気によってほぼ治っているが。

 いきなりナイフが飛んで来た。即座に鼠たちは煩く逃げ惑う。

 いつの間にか戻ってきていたゲズゥが、地面に刺さったナイフを拾った。「当たらないな」みたいなことを呟いている。いなくなってから一分も経っていない。水色のシャツにところどころついている赤い跡が彼自身のではなく返り血であるのは、訊かなくても察しがつく。

「溝鼠は焼いても不味い。調味して煮るしかない」

 ナイフを懐に収めながら、ゲズゥはそんなことを口にした。

「食べたことあるんだね」

 つい苦笑を返した。

「溝のは雑食だから不味いんだろう。屋根裏に住んでる鼠の方がましだ」

「覚えておくよ。でも食には気を付けないと病気になるよ? まぁ、『菌』とか『病原体』ってのは割と最近に発表された概念だから知らないかもしれないけど、食中毒なら聞いたことあるでしょ?」

 腐った食べ物は勿論、「汚い」食べ物を胃に収めてはならないのは常識だ。溝鼠といえば汚い動物の筆頭ともいえよう。

 カイルサィートの言葉に対して、ゲズゥは首を鳴らした後、軽く頷きを返した。それらのやり取りをやはり苦笑しながらミスリアが隣から見守っていたが、ふと表情が硬くなった。

「それでカイル、これですが……」

 ミスリアが取り出した紙束に関しては、見なくても内容を熟知している。カイルサィートはそれを受け取ると、移動しながら話を続けようと提案した。


_______


 三人は一列になって、来た道を逆に辿っている。闇の濃さは先刻と少しも変わらない。けれども一度経験した道となると、最初に通った時のような得体の知れないものに対する不安を抱かないのだから不思議である。もともとは闇そのものではなく未知への恐怖だったのかもかもしれない。

「この人たちは」

 ゲズゥに倒された敵を踏み越え、燭台を持ったカイルが開口した。

「とある商社の関係者でね。詳細を省くけど、彼らが提供していた食材に病原体が紛れ込んでいたんだ。地価貯蔵庫から少し取ってきて、確認した」

 それは色々なソースや漬物に使われる材料で、容易には足のつかない手口だった。ここら辺の調査は、「疫学」といった、近年のうちに世に現れた学問を用いたのだという。相変わらずカイルは博識だ、とミスリアはこっそり感心した。

「ルセさんはカイルになら犯人や動機の心当たりがあると言っていました。本当ですか?」

「そうだね。まぁ、普通に理に沿って考えただけなんだけど」

「なら利を得た人間か」

 しんがりを歩くゲズゥの低い声が、ミスリアの背後からした。何気に話を聞いていたらしい。

「でも疫病なんて、儲かる要素があるとすれば薬を売る人間や医者の方……ですよね?」

 その通り、と言ってカイルが後ろを一度だけ振り返った。

「この商社の人たちは雇われただけ。誰に、が一番の問題だけど、首謀者は別にいる。薬売りがどうなのかまでは知らないけど……」

 自覚があるのか無いのか、カイルはどんどん歩くペースを速めている。ミスリアも必死に足を速めた。予想としては、後ろのゲズゥは息が上がることなく余裕で付いてきているはずだ。少なくとも、荒い息遣いなどが聴こえない。

「ミスリアは『ヒーローシンドローム』って知ってる?」

 地上へ通じる出入り口から漏れる薄明かりが見えてきた頃、カイルが足を止めた。

「いいえ」

 息を整えてから返事をした。

「……簡単に言うと、英雄になりたい願望のあまりに自ら事件を起こすことかな。予め解決法も知っているとか、助けに入るタイミングを見計らったりしてあたかもヒーローであるかのように演じるんだよ」

 つまりは、注目を快感に思う心理、または名誉欲。

「そんな理由のために四人死んだんですか……」

「人間が欲に突き動かされるのは当たり前だ」

 ミスリアがため息をつくと、ゲズゥがサラッと断言した。有無を言わせない口調だったからか、何も言い返せなかった。

「あれ?」

 出入り口への階段の二段目を片足で踏んで、何故かカイルが中途半端に止まっている。

「どうしたんですか? ここから出るんですよね?」

「う~ん、いや、困ったな。実はここの出入り口は普段鍵がかかってるんだけど」

「そうなんですか?」

 だとすると鍵を持っていない限りは使えない。貯蔵庫まで戻らなければならないと思って、ミスリアは肩を落とした。

「……それが、開けっ放しなんだよね」

「え?」

 ミスリアは顔を上げた。

 確かに、門が開いている。先ほど通りかかった時は閉まっていたように見えた。

「さっきの彼らが閉め忘れたのでは?」

「うーん?」

 何か引っかかっているらしく、カイルは尚も眉根を寄せていたが、結局踏み出した。ミスリアも続く。

 カイルが門をくぐるまさにその数瞬前。

 ミスリアは少しだけ後ろを振り返った。上らず、階下でゲズゥが何かの気配を探るように静止している。

 突如彼は飛び上がり、それぞれの手にミスリアとカイルを掴んで投げ飛ばした。

(ちょ、何!? 危な――)

 階下で重なる形に着地した。カイルが下敷きになっているのでそれほど痛くは無かったけれど。

 階上から、金属と金属のぶつかり合う音がする。

 思考が回りきらなくて呆然と門を見上げていた。ゲズゥの姿はもうそこから離れて視野の外に行っている。ただ、戦闘になったことは音だけでも十分に伝わって来る。座り込んでいる場合ではない。

「すみません、大丈夫ですか?」

 立ち上がって、ミスリアは下敷きにしてしまった友人に声をかける。

「平気。君軽いしね」

 カイルは何とも無さそうに笑って身を起こし、階上へと顔を向けた。

「やり方は乱暴だったけど、助かったよ。僕らは丸腰だし。何気にあの人、強いんだよね」

「それって……」

 険しくなったカイルの視線の先を、ミスリアも意識した。

「行こう」


_______


 黒い鎧に身を包んだ騎士風の女の攻撃の一つ一つを、ゲズゥは大剣で残らず受け流した。幸いか他には人の気配が無い。

 以前遭遇した時は一方的に刺されて終わったので外見の特徴などまったく印象に残らなかったが、今回は明るい昼間の路地にて相対している。

 女にしてはやや骨格がごつい騎士は身軽な足取りで動き回り、長い金髪をまとめた三つ編みをなびかせている。

「くくっ、また会ったな、『天下の大罪人』。あの者らではお前の相手にならなかったか?」

 口元を斜めに吊り上げて女は低く笑った。濁った声だった。

 多分下水道に降りてきた連中のことだろう。ゲズゥは何も答えなかった。

 女は突いたり刺したりするのに特化した形の、細長い剣を巧みに操っている。それを薙ぎ払うタイプの大剣で相手にするのは些か効率が悪い。かといってナイフで相手をするのも難しい。

 不意に女が立ち止まった。次にどう出るのか予感がした。

 砂利が踏みしめられる音。

 跳んで間合いを詰めてきた女を、ゲズゥは避けることを選んだ。すれ違う瞬間、健康的ともいえる小麦色の顔が近かった。

 一重まぶたで、目じりに向けて細くなるヘーゼル色の瞳には、純粋な快楽が彩られていた。

 このような戦いを心から愉しむタイプの連中には今までに何度か会ってきている。今回もこれといった感想を抱かなかった。

 以前、自分がこの女に刺されて倒されたことに対しても、ゲズゥは何の屈辱も逆恨みも感じなかった。過去の敗因は知れている。ならば今の危機を握りつぶすのが最も重要である。戦いながら少しずつ移動し、路地から通りに出た。

 この女は力こそゲズゥに敵わないが、速さは同等かそれ以上である。加えて、騎士らしく動きが洗練されているのが厄介だ。

「ちょうど面白くなってきたというのに、邪魔をするなよ?」

 攻撃を続けながら、女は喉を鳴らして笑っている。

「それは貴女が邪魔をせざるをえないような行動を取るから仕方ないでしょう」

 背後から返事を返したのは、地下から上がってきた聖人だった。口調の柔らかさとは裏腹に、普段よりか声音が怒りを帯びている。

「あの商社の雇い主は貴女ですね、セェレテ卿」

 質問ではなく断言だった。内容も要点だけの短いものだが、通じた。

「だったらどうした? 貴様らに関係ないだろう。それともラサヴァの町に感情移入でもしたのか、聖人デューセよ」

 女は空いた手のひらを大げさに翻した。言いがかりだ、などととぼける気は無いらしい。

「人として非道過ぎる行いです! 関係が無くても見過ごせません」

 聖人の背から、ミスリアが更に非難した。

 しかし人道を説いてもおそらくこの女には無意味だとゲズゥにはわかっていた。こういう輩には心に決まった何かがあって、それの為なら後は総てどうでもいいのである。身に覚えのある話だからこそよく解る。

「さすが聖女様は可愛いことを言ってくれる。そうさ、今この場でお前ら三人をまとめて揉み消しても寝覚めが良いぐらいに、私は非道だ」

 女は高笑いをして、指を鳴らす。柱や樽の陰などに隠れていた気配が姿を現した。ゴロツキという形容が最適な連中で、数は十人。聖人に加勢させてもまだ面倒そうな数だった。ミスリアが唾を飲み込むのを聴いた。

「私はこの町で遊んでいた。実験、とでも言えばいいのか? うまく行けば成果を殿下へ献上しようと思っている」

 女騎士は剣を構えなおした。殿下とやらが、この女の心に決まった何かなのだろう。

 ゲズゥは腰に提げていた短剣を鞘ごと掴んで、背後の聖人へ投げた。何も無いよりはいいだろう。そうして彼もまた剣を構えなおす。体はそのままに、目だけを動かして、状況を細かく把握した。この女を切り伏せた後は、どういう順番でゴロツキとやり合うか検討しなければならない。

 まだ誰も動き出さないこの場面で、さてどうしたものかと考えていたら。

 前方から、蹄の音が響いた。

 こげ茶色の巨躯が人を乗せて駆け寄る。

 その馬は高く跳躍した。女騎士の頭上をも超えるほどに。

 そうして今にも剣と剣をぶつけ合うはずだったゲズゥと女騎士の間に着地し、文字通り割って入ってきた。馬の長い尾がバサッと音を立てて揺れる。

 かろうじて、紺色のマントに包まれているのが男だというのがわかるくらいで、鞍上の人物の顔はここからよく見えない。長い前髪も原因の内である。

 女騎士が素早く跪いた。ということは、これが例の殿下か。ゴロツキらは戸惑いながら、何人かがやはり跪いている。

「シューリマ……お前は相変わらず、妙な事ばかりしているそうだな」

 声は普通の青年のものだが、爽やかさや潔さよりも企みを含んでいた。あまり王子らしいとは言い難い。いや、何が王子らしいのかなど基準がゲズゥに解るわけでもない。

「殿下! 私は――」

 頭を深く下げたまま女は何か弁明をしようと口を開き、けれども男が遮った。

「その話は後でいい」

 男は馬の向きをこちらへと変えた。馬の熱い吐息を感じる。

「久しいな、ゲズゥ。一、二年ぶりか? お前はあまり変わっていないようだが」

 未だ顔の見えない男の口元が釣り上がった。

 王族の知人など居ただろうか。

 名を馴れ馴れしく呼ばれたからには記憶を探ってみた。顔は見えないしそもそも他人の顔など覚えられないゲズゥなので声を頼りに思い出そうと試みる。

 一分ぐらい頑張っても思い当たらない。その間、場は静まり返っていた。

「お知り合いですか……?」

 ミスリアが遠慮がちに訊ねる。

「…………」 

 知ってる知らないと言い切るにも、思い出せないのである。

「この私を見忘れたとは薄情な男だ」

 男は馬から飛び降りた。わざとらしい優雅さは無く、極めて自然な、流れるような動作だった。どこかで見覚えた気はする。

「お前に馬術を教えてやったと言うのに」

 若干芝居がかった口調で、男は残念そうに嘆いた。

 そのひとことで、何かが脳裏で閃いた。

「…………オルト……?」

 が、やはり他人の名前を覚えるのは苦手ゆえ、自信に欠ける。

「いかにも。私がオルトファキテ・キューナ・サスティワ、ミョレン王国第三王位継承者だ」

 思い当たった人物で正解だったようだ。男は黒に近い濃い茶色の前髪を片手でかき上げて微笑した。

 顔の造りだけだとおそらく世間一般の目からは美丈夫と呼ぶには一歩及ばない。だが褐色肌の第三王子を包む空気の凄みが、見下したような藍色の双眸が、他者の注目を惹いてやまないだろう。だからこそ顔を隠すのかもしれない。

「お前、ミョレンの王子だったのか」

 ゲズゥはほんの僅かに驚いていた。昔は知らずに接していたのだから。

「だったのさ」

「なるほど」

 ふーん、とこの上なく興味無さそうにゲズゥは相槌を打った。衝撃も感心も無い。一方で多少の警戒が生まれたが、それを相手に気取られたくない。

 ゲズゥの知るオルトという人物は、常に己の力で築き上げたものだけで勝負に出られるような男だった。たとえば生まれ持った財をいたずらに貪るような無能な王族とは違う。ならばオルトの性質に王族という強力な背景を加えたら?

「かつて私はお前に裏切られて大敗し、結果として居場所を失った。お前にしてみれば最初から味方でいたつもりは毛頭無かったのだろうがな。そんな敗者など、記憶には残らないか?」

 馬にもたれかかり、何気ない調子で過去を語るオルトの様子は懐かしむようで、いっそ楽しそうである。

「そんなことしたの?」

 聖人の爽やかな声が、好奇心に似た何かを帯びている。

「知らん」

 無機質に、ゲズゥは答えた。

 実際はよく覚えている。今、その話に移ってもこじれそうなだけだと判断してのことだ。

 変わっていないならば――オルトは許していると見せかけて、何食わぬ顔で闇討ちをしかけて来る男だ。

 そんな考えを見透かしたように一層深い笑みを浮かべ、次いでオルトは足元で跪いている女に声をかけた。

「シューリマ。そいつらを下がらせろ」

「はっ、ただいま」

 素直に主の命令に従い、女騎士はまだ何の動きも見せていないゴロツキの連中を潔く引かせた。

 ゲズゥは背後のミスリアと聖人を一瞥し、とりあえずは乱闘にならずに済んでよかったと思った。二人は歩み寄り、ゲズゥと並んで立った。

「それにしてもどうしてこのタイミングでこんな所に第三王子様が?」

 お互いにしか聴こえない音量で、ミスリアが疑問を口にした。ゲズゥとオルトの関係に関する疑問は保留らしい。

「オレが呼んだのさ」

 建物の柱の傍から体格のいい男が姿を現した。殺気が無かったので放置していた気配だ。

「ルセさん!」

 嬉しそうにミスリアが呼びかける。

「よう。悪いな、オレは喧嘩はともかく武術はからっきしなんで隠れさせてもらった。ま、もしさっきの奴らが動くようなら出てくるつもりだったんだ、ホントだぜ」

 にしし、と役人が歯を見せて笑う。

「どうも。度々お世話になりますね」

 役人の姿を認めた聖人が、畏まって礼をした。

「それはお互い様さ。無事で良かった」

 役人が礼を返す。

 ゲズゥはオルトの方を向き直った。ミョレンの第三王子は腕を組んで馬に寄りかかった状態で、かすかに口元を釣りあがらせている。傍らでは、既に剣を収めた女騎士が警戒した面持ちで控えている。いつでもまた剣を抜けるように柄に片手を置いて。

「オルトファキテ殿下」

 今度は自国の王子に向かって、役人が最高級の敬礼をした。

 姿勢を正してオルトが簡略式の礼を返す。どうやら立場が上の者が、下の者を認めたという挨拶になるらしい。

「私に書状を送った役人はお前か」

「確かにこのルセナンが殿下に一連の事件をまとめた書状をお送りしました。提案し、書いたのはこちらの方です」

 ゲズゥたちと並んだ役人が、隣の聖人を手のひらで指した。

「ほう」

「神父アーヴォス・デューセの甥、聖人カイルサィート・デューセ氏です」

 役人が聖人の紹介をする。ついでにミスリアをも紹介している。

「ああ、神父の名は書状にあったな。林の方の教会の主だったか」

 役人の話を丁寧に聞き、書状にもしっかりと目を通したとわかるオルトの姿勢は、傍から見れば真摯である。国境付近の小さな町にまで気を回す、或いは賢君とも錯覚できる。

「甥は、何やら面倒な目に遭ったようだな」

 オルトは聖人を頭から爪先までじろじろと見た。

 ミスリアに大体治されているので目立った外傷は残らないが、破けた服、泥水や血の汚れなどはどうしようもない。元の服の色が真っ白であったがためにこれは目立つ。

「恐れ入ります」

 聖人は爽やかに笑って礼をした。事情を細かく説明する気が無いのは明らかだ。オルトも特に追究しない。

「それで? 何故、告訴などの手続きを踏まず、私に直接連絡を取った? 私は王でもなければ王太子でもない、ただの第三王子だ。直訴や王国裁判とも繋がらない」

 オルトは聖人を真っ直ぐ見据えて言う。

「正常に機能しなくなった国だからこそ、正当な手続きでは不足に思えたからです。彼女――シューリマ・セェレテは貴方の信者だそうですので、もしかしたら貴方なら難なく止められると思いました」

 一呼吸置いてから、聖人は揺るぎない口調で応じた。

 信者という表現に対して、オルトは「違いない」と言って喉を鳴らして笑った。女騎士が聖人を睨むが、主君が見ているからか口出しをしない。

 オルトを殿下などと呼ばず貴方と呼んだのにはどういう意図があったのか、ゲズゥにはわからない。聖人はミョレンの国民でないから敬称で呼ばなくてもどうということはないが。

「私がシューリマを庇う可能性は考えたのか?」

「考慮はしましたけど、僕は先王が貴方がたに出した『条件』を小耳に挟みまして。噂に過ぎませんけれど、賭けてみる気になりました」

 話題に上がった「条件」は次代の王を決める基準か何かのことだろうと思う。

 聖人の言葉に、オルトは口元を右側だけ上に釣り上がらせて笑った。しかし次の瞬間、真剣そうな表情に替わった。

「よかろう。その読み通りに動いてやる。コイツは騎士の位を剥奪され、牢に入れられるか最悪処刑されることとなる」

 しばしの沈黙が続いた。

「殿下……!?」

 主が冗談で言っていないと遅れて理解して、女騎士が声を裏返した。

「黙れ。お前、国境の警備はどうした?」

 女騎士の動揺も構い無しに、オルトが責めるように問う。声を荒げない代わりに、目元がいくらか険しい。

「……兵士を配備しています」

 女は目に見えて怯んだ。

「隊を置いて、統率する長が持ち場を離れてどうする。頭を使おうとしないのは、お前の悪い癖だな」

「申し開きもございません」

 ついさっきまで自信満々だった女が今では泣きそうになっている。

「私には使えない駒など不要だ」

 普段から見下したような藍色の瞳が、今は本当に相手を見下ろしている。昔と同じ鋭い目線に更に拍車がかかり、不遜を許さないものとなっている。

 ――なるほど、過去に知っていたあの男を王族にするとこうなるのか。

 否、おそらくはこれが本来の態度で、あの頃のオルトは制御していたのだろう。

「……と、この通りコイツは頭脳の面が割と弱い。巧妙な計画を立てられる人種では無いぞ」

 不意に視線を外し、オルトは再び聖人に話しかけた。

「それは……共犯者、が」

 何故か聖人が急に口ごもる。表情が一転して暗い。

「ならばちょうどこちらに向かって歩いて来ている奴がそうか?」

 後方からゆったりとした、静かな足音。オルトに言われ、一同がその方を向いた。

 人物が影から人の姿へとはっきりしてくる。

「神父様?」

 距離を縮めようと一歩踏み出したのは、無意識のことだろう。半ば反射的に、ゲズゥはミスリアの肩を掴んだ。

「ミスリア」

 驚いて、彼女は体を震わせた。

「近づくな。その男の顔をよく見ろ」

 戸惑いを隠せぬ様子で、ミスリアが歩み寄る男を見上げた。


_______


 もしかしたら姿かたちが似ているだけの別人だったりするのだろうかと懸念しながら、ミスリアはその人を見た。

 黒装束に身を包んだ中肉中背の男性は頭髪が少なく、耳周りにだけプラチナブロンド色の髪が生えている。雲の影に隠れて顔ははっきり見えない。

 さく、さく、と砂利と靴裏が接触する音を聴きつつ、顔がよく見えるまでの距離に男性が近づくのを待った。

「おや、皆様おそろいで。騒ぎがすると、角の店の住人が仰っていたので来てみれば……」

 にっこり笑う様も、琥珀色の瞳も、髪と同じ色の整えられた顎鬚も、知っている通りの神父アーヴォス・デューセと相違ない。けれど何か、妙なものを感じた。それが何なのかわかろうとして、ミスリアはつい見入った。

(作り笑い……?)

 笑顔の内の、細められた目。いつもの優しげな目元が、ほんの僅かに引きつっている。

 木の上から二人の会話を盗み聞いたあの時から今までに、抑えていたいくつかの疑問が沸き起こった。カイルの、神父アーヴォスに対する言動も思い出す。そう、最初に忌み地に出向いた日にも、欲望の話をした。

「叔父上、これは貴方からしてどんな状況に見えますか?」

 カイルが苦々しい表情を浮かべている。

「さて……」

 王子殿下とセェレテ卿を認めて、神父アーヴォスはまず敬礼をした。

「オルトファキテ王子殿下、王都からいらしたのですか? ご足労ありがとう存じます」

「ああ、気にするな」

 にやにやと笑いながら王子殿下が軽く礼を返す。すっかり面白いものを観察する目になっている。

「それでこれは、どういう状況なんだい?」

 神父はカイルの問いに問いで返した。やはり作り笑いを顔に浮かべて。

「そうですね……」

 カイルはまず目を閉じた。数拍過ぎてから開き、周りを見渡した。その目線を追うように、ミスリアも場に集まっている全員を見渡した。中でもルセナンが一番驚いた顔をしていると気付く。

「そこにいるシューリマ・セェレテ卿の悪事の一端に言及していたところです。その件で彼女には共犯者がいたという話になりまして、ちょうど叔父上が現れました」

「だから私が問題の共犯者であると?」

「タイミングよく現れたからといって事件に結びつけるのは安易過ぎますよ。流石にそんなことはしませんって」

 白々しい笑い声で、カイルが答えた。彼のこんな声を聴くのは初めてかもしれない。

「ふむ、そもそも何の悪事かな?」

「ラサヴァの疫病騒ぎが仕組まれていたという、信じがたい話です」

「それは確かに信じがたいね」

 本気でそう思っているのか疑いたくなるような、わざとらしい言い方だった。

「…………できれば僕は逆であって欲しかった」

 カイルは深いため息をついた。

(いつの間に、何の話になったの?)

 例によってカイルは話題転換が急すぎる。ミスリアだけでなくルセナンも、ついていけていないような顔をしている。セェレテ卿は警戒心むき出しの表情を、王子殿下はにやついた顔を保ったままで、ゲズゥに関しては確認するまでもなく無表情である。

「セェレテ卿にそそのかされて道を外しただけならまだ良かった。でも、元は叔父上が提案したのですね。僕を殴りつけて拷問などにかけた彼らが洩らしていましたよ。これが事件に結びつける理由の一つです」

「拷問? 話が見えないな」

「疫病騒ぎの首謀者が叔父上だったと言っているんですよ」

「形ある証拠が存在しないならただの言いがかりだね」

 神父アーヴォスの笑顔は崩れない。

「某商社が雇われていた金額も聞きましたので、それを上回る額を出せば買収できるかもしれませんけどね。供述を書かせるなどして」

 一方でカイルの纏う空気が、普段の彼の秋風のように涼しく爽やかなものからは想像もつかないほど、冷ややかになっている。

 ミスリアは両手をそっと握り合わせて、見守るしかできなかった。介入したいとは微塵も思わない。

「なぁ、神父さんの反応。甥っ子にひどい容疑をかけられてんのに、ショックを受けるより罪を否定することを優先してる。全然うろたえてないのも変だ。やっぱり事実か」

 ミスリアとゲズゥにのみ聴こえるように、ルセナンが小声で指摘した。

「だろうな。買収より、とっ捕まえて吐かせる方が効率が良さそうだがな。沈黙を守る義理など奴らに無いだろう」

「それは、そうでしょうけど……」

 ゲズゥの提案に、ミスリアは渋々賛同した。

「別に僕は、町民のために貴方のしたことを明るみに出そうとか、然るべき罰を受けて欲しいと思っているわけではありませんよ。それは役人方の仕事で」――カイルはちらっとルセナンの方を見やり――「僕はそこまで正義感が強いわけではないんです」

「人は、表面しか見ないものだ。糾弾しても、民は神父の方を選ぶかもしれんな。ものの本質を見つめる人間など稀」

 ふいに口を出したのは、王子殿下だった。

「では町民には真実をまったく伝えなくてもいいと?」

 ルセナンが王子殿下に訊ねた。

「神父は異動になったとでも言って、連れ去ればいい。行為自体が間違っていようと、もしも真実が明るみに出ることなく済むなら、人々の心の中に残るのは英雄の思い出だけだ。たとえそいつらの英雄が遠いどこかで牢に入っていようとな」

「一理ありますね」

 カイルがそう言うので、ミスリアも考えてみた。確かに、余計な混乱を予防するのは統率者として正しい判断に思える。

 それとも今後同じようにつけこまれないように、教訓として真実を教えるべきか? 人々の美しい思い出を汚していいものだろうか。親族を亡くした者たちは、愛する人たちが死んだ本当の理由を知って、心が晴れるだろうか。病という理不尽な急死を、更なる理不尽な死因と入れ替えて、彼らは救われる? 否、悲しみは深まるのではないか。

 きっと教団や神々への信仰心も揺らぐことになる。教団や神々の方針は別問題としても、信仰心は人間の精神を安定させる重要な役割を担う。失えば、この町はこの先どうなる?

(頭が爆発しそう……)

 ミスリアは肩を落とした。間違いなく自分は政治の類に向いていない。

(でも神父様の邪な名誉欲は満たされたままだから、やっぱり真実を隠すのは間違ってるんじゃないかしら?)

 悶々と思考を巡らせるけど、答えが出ない。

「公にならずとも誰かがこうして追い詰めさえすればそれでいいと、僕は考えていました」

 静かに、カイルが話を続けた。

「叔父上に良心が残っているのなら、一生消えない罪の意識が付いて回ります。良心が残っていないのなら、それこそ止めなければなりません。おそらく似たようなことを、過去にもしたのですから。以前は流行病などではなく、魔物を意図的に呼び寄せるなどしたそうで」

「ユカイな神父だな」

 そう言って、王子殿下は空を見上げて笑っている。今の話に笑えるような点は無かったはずなのに。

 この人は苦手だ、とミスリアはなんとなく思った。

 その時王子がミスリアと目を合わせたので、考えを読まれたのかと疑って身構えた。同じ威圧的な視線でも、彼の鋭い藍色のそれはゲズゥの空虚な眼差しと違って総てを射抜いている。ミスリアは背筋が凍ったような、内側から溶け始めたような、言い難い気分になった。

 彼は足早に近寄ってきたかと思えば、ゲズゥの隣で止まった。

 背を伸ばして身長差を埋め、ゲズゥに何かを耳打ちしている。それが済むとサッと身を引いて離れた。勢いで髪が揺れ、王子の右耳の軟骨にはめられた銀細工のピアスが光って見えた。

 ゲズゥは珍しく表情を動かした。しかめっ面をしている。一体何を言われたのだろう。

「聖人、形ある証拠が無くても十分な立場にいる人間が信じれば事足りることもある。私はお前の言い分を受け入れる。この先どうするかは、お前たちで決めろ。私の助力が必要なら町長と話をつけてから乞え」

 王子はカイルに向けてそう伝えた。

「私の言い分は? まだ何も弁明していませんが」

「不要だ。人の言葉の真偽ぐらい、見分けられる」

 神父アーヴォスが何気なく訊いても、王子は笑ってあしらった。

「タリア」

 呼ばれた馬は素直に歩み寄ってきた。乗り手が鞍を掴み、紺色のマントを翻して飛び乗る。流れるような動きにどことなくゲズゥを重ねてしまう。

「悪いが私はそろそろ去る。西部で兄上たちが諍いを起こしているからな。この機会に私はより『王』に近付けるかもしれん。むしろ争う内にほかが全滅してくれれば願ったりというもの」

 二人の兄だけでなく、妹姫なども面倒ごとを起こしていてな、と王子殿下は付け加えた。

(カイルが言ってた先王の「条件」が関係あるのかしら。あとで聞いてみよう)

「遠方より有難うございました」

 カイルは丁寧に敬礼をした。

「ああ、お前の読み通りだったな。私は旧友に会えそうだと思ったから、わざわざ足を運んだというのも理由の大部分を占めていたが……」

 馬上の人となった王子はゲズゥを一瞥し、次に配下を見下ろした。

「そいつはくれてやる。今のうちに捕らえておけ」

「殿下、お見捨てにならないで下さい」

「お前が私に逆らうのか?」

「いいえ! 誓ってそのようなことは致しません」

 セェレテ卿は跪いて主に深く頭を下げた。

「なら今は大人しくするんだな。最終的に王都に搬送されれば、或いはまた拾ってやってもいい。父王がお前に与えた騎士の称号と馬はどうしようもないが、命くらいはどうにかなるやもしれん」

「身に余る幸福です……」

 彼女は涙ながらに感謝を表した。

 随分な忠誠心だわ、とミスリアはぼんやり思った。見たところ、王家ではなく第三王子個人に心酔しているようである。何がそうさせるのか知りたい気もする。

「くくっ、まぁいい。ある意味面白かったぞ」

 王子は手綱を引き、馬の向きを変えた。

「重ねて言うが、人は表面しか――己の望むようにしか物事を見ないし、見たがらない。後始末に関しては町長や他の役人たちとよく話し合うんだな」

 肩から振り返り、王子が付け加えた。

「また、縁があればどこかで会うだろう」

 砂埃が舞い、馬蹄の小気味いい音が遠ざかる。ミスリアは思わず咳き込んだ。

 視界がはっきりした頃には王子の姿はもうどこにも無かった。

(全体的に、よくわからない人だったわ)

 ミスリアはそういう結論に至った。

 傍らのゲズゥを見上げると、未だに複雑そうな顔をしている。「旧友」という関係は、本当なのだろうかと気になった。

「ルセさん、彼女を役所に届けてもらえませんか?」

「いいけどよ。神父さんの方はどうするよ?」

「もう少し話をさせてくださいませんか」

「聖人さんの頼みなら構わんよ。なんなら店使うか? うちのに頼んで開けてもらうといい」

「ありがとうございます。そうします」

 さらっと交わされた会話の方へミスリアは注意を向けた。いつの間にか、セェレテ卿も神父アーヴォスも縄に縛られている。二人の縄の続く先を手馴れた様子で手にしているのは役人のルセナンだ。捕らわれた二人は暴れず大人しくしているが、たとえ暴れてもルセナンの腕力から逃れるのは難しいだろう。

 神父アーヴォスの縄をゲズゥに持たせ、四人はルセナンの経営する料理屋へ向かった。


_______


 何度か顔を合わせた程度で、もともとそんなに仲は良くなかった。だから名指しで呼び寄せられた時、目には見えない別の意図があるのではないかと真っ先に疑ってしまった。

 敢えて応じることを選んだ。理由は単純である。家族だから、何かしら手助けになれるならと思ったからだ。

 四人座れる大きさの四角いテーブルにて、カイルサィートは叔父と向き合い、テーブルの上で両手を組んで様子を伺っている。料理屋の店内は外からの日差しで明るく、それゆえに大分暖かい。

「失礼します~。せっかくなんで、藻入りスープでもどうぞ。健康にいいですよ」

 人の良い笑顔を満面に広げて、髪を結い上げた女性が間に入った。丸い盆から底の浅いボウルを下ろしている。

 キュウリをはじめとする調和の取れた香りを発するそれを見下ろす。クリーム色の液体に所々鮮やかな緑が混じっているものだ。

「暑いだろうと思って冷やしたスープ持ってきましたよ。昼時だし、食事もされます?」

 同じようにボウルを下ろして、役人ルセナンの妻たる彼女は隣のテーブルに座すミスリアとゲズゥの方に、声をかけている。

 チラリとこちらに問いかけるミスリアの目に、カイルサィートは頷きを返した。

「ではお願いします」

 ミスリアが笑顔で受け答えた。注文の内容を細かく話し合ってから、女性が厨房の方に戻った。

 ミスリアの向かいに座るゲズゥがすかさずスープに手をつけた。食器などを使わず、ボウルごと空いた片手で持ち上げて啜っている。一方でミスリアは、木製スプーンを駆使して少しずつ口に運んでいる。どちらかというと乳状に近そうなスープだ。

 二人を横目に眺めてカイルサィートは束の間、和んだ。

「……少し、僕の話をしましょうか」

 視線を前へ戻し、自分のスープにも手を出してから、そう切り出した。

「――うん?」

 拘束されたままの叔父の前に、ボウルは置かれていなかった。多くを語られなくとも、ルセナンの妻は状況を大方把握したようだ。

「聞いてくださるだけで結構ですよ」

「ではそうしようか」

 叔父の揺るがぬ笑顔に、落ち着き払った態度に、カイルサィートはもの悲しくなった。しかしそんな気持ちは顔には出さず、淡々と語り出す。

「どうして他の誰かではなく、僕に声をかけたのか、ずっと考えていました」

 定期的に連絡を取っていた訳でもなかったし、こと「忌み地」の浄化に関してカイルサィートは実践経験が少なかった。ミョレン国との縁も浅く、わからないことだらけの人選であった。

「本当は、止めて欲しかったのでしょう?」

「何を?」

「……今更ごまかしても、仕方がないと思いますよ」

 叔父ののんびりとした口調に、カイルサィートはため息をついた。

 はじめは何も裏が無いことを願いながら、叔父の手伝いをしていた。教会の業務や運営に手を貸し、ラサヴァの町人や他の近隣の村の民を支えた。時には魔物の討伐隊にも加わった。元はあまり親しくなかった叔父の園芸をも手伝ううちに、打ち解けられた。

 それがいつから、歯車が狂いだしたのだろうか。或いは最初からかみ合っていなかったのかも知れない。

 何故、いつ、気付けたのかというと、今となってはよくわからない。叔父の頻繁な外出を変に思った頃から? 教会の参拝者との接し方に違和感を覚えたから? 討伐に向かった日にのみ決まって魔物が異常に多く現れるようになってから?

 きっかけはきっと小さな何かだった。気付いた後は、ひたすら執拗に事実を追い求めた。

「追い詰められなければ認めないだろうと、本当はどうしてこんなことをしたのか話しはしないだろうと、思いました」

 人の心のおりは幾重にも巧みに隠されているものだ。浮上させるためにはそれなりの準備がいる。

 当面の問題は、相手が追い詰められたと感じるか否かにある。カイルサィートにとっては、この場合は動機を知ることが一番大事だからだ。

 今のところまだ叔父の作り笑いに変化は表れない。隣のテーブルの二人はというと、さりげなくこちらの会話に意識を向けている。

 カイルサィートはそこでスープを一口すくって味わった。ヨーグルトをベースにしたさっぱりとした味わいが更なる食欲をそそる。

「美味しいです。僕は叔父上の作る鶏がらスープも好きでしたけど」

「もう私よりも君の方が美味しく作れるんじゃないかな」

「かもしれませんね」

 スプーンを置いて、カイルサィートはそっと笑った。思い返せば家事は二人で手分けしたけど、お互いに教え合うことも多かった。もう、その日々も終わったのだと思うと寂しい。

「あなたが……」

 一呼吸挟んで、目を合わせた。自分と同じ色の琥珀色の瞳からは、感情が読み取れない。

「……僕を選んだ理由は、父上と関係がありますね」

 そこで初めて、叔父が瞬いた。曇ったように読み取れなかった瞳に異変が表れる。

「父は兄弟仲が良いと言っていましたけれど、双方ともに共通した感情でないことは、子供心ながらに知っていましたよ」

「……カイル、君は昔から聡明で鋭い子だったね」

「ありがとうございます」

 叔父の琥珀色の瞳もいつしか物悲しさをたたえていた。


_______


「お二人とも何だか辛そうです」

 独り言のように小声で、ミスリアは呟いた。カイルと神父アーヴォスのやり取りを指して言っている。

「兄弟、か……」

 すると同じく独り言のような小声で、ゲズゥも呟いた。何か後に続くのかと待っても、彼のは本当に独り言らしい。兄弟という単語で何を連想しているのか、表情を見ても想像できない。

「カイルにも、妹さんが居たそうですよ。五つ年下の」

「死んだのか」

 グラスの水を飲み干して、ゲズゥは無機質に訊いた。

「……お察しがいいですね。お母様と妹さんはカイルが修道士見習いになって間もない頃、魔物にかかってお亡くなりになっています」

 五年ほど前の話で、その時ミスリアはまだ彼と出会っていなかった。

「妹はお前に歳が近いな」

 そう言われてみれば確かにそうだ。カイルには妹のように接されたことがほとんど記憶に無いから、常に対等に話してくれたから、意識していなかった。

 厨房からまた女性が現れ、「失礼します」と言っていくつかの料理を運んできて手際よく並べている。

「お兄さん、左目の色珍しいですねー」

 女性は軽い調子で指摘した。

 ミスリアは小さく呻いた。そういえばゲズゥの包帯が外れている。店まで来る道中、誰かに見咎められれば問題になりそうだったけれど、誰ともすれ違わなかった。

 今はなき「呪いの眼」の一族が住んでいた村はラサヴァから近い。ルセナンの妻は事情を知っていそうなものの、知らないふりをしているのだろうか。

 入り口の扉の軋みによって、短い沈黙が破られる。

「おかえりなさい、アナタ」

 夫を迎え入れる彼女の声は明るい。

「おうただいま」

 役人ルセナンがカイルたちのテーブルの椅子を引き、腰掛ける。

 彼らの分の食事が揃うのを待って、神父アーヴォスは身の上話から静かに語り出した。


_______


 兄上は私の憧れでした。

 ここよりずっと北の不便な田舎村。生まれつき体の弱かった私を守り、気分が悪くて外に出られない日は私の代わりに駆け回り、いつもたくさんのお土産話を持ってきてくれたので、不自由に思うこともありませんでした。

 両親の農園を手伝いながら慎ましく暮らしていた私たちの元に、ある時教団の一味が通りかかりました。慰問の旅を続ける聖人様たちは、聖気を受け賜わり続ければ私も元気になれると、仰ったのです。ならば聖人を目指すと、兄はその時に決心致しました。

 自らの足で村を去る姿を羨ましく想いながらも、私は兄上の教団入りを応援しました。

 数年後凛々しくなって戻ってきた兄上は、幾月かけて私に完全な健康を取り戻させてくださいました。あの時の感動は何年経っても忘れられません。

 私も奇跡の力を望みました。

 けれどもどうしてか、兄上にはあっても私には聖気を扱う素質がまったく無かった。


 ――アーヴォス、気を落とすな。聖人になれなくても他にいくらでもご奉仕をする方法はある。

 ――そうですね。では私は教役者きょうえきしゃとなって社会に貢献します。


 受け入れるしかなかった。

 私の心にさざなみが立ったのはそれからいくらか後のことでした。

 兄上はある魔物討伐の旅にて知り合った魔物狩り師の女性と、恋に落ちたのです。

 聖人・聖女に配偶者は許されません。その女性と結婚するために、兄上は聖人の位を返上しました。

 どれほど妬ましかったことか!

 私がいかに切望しても決して手に入れられない物を、いとも簡単に手放したのです。兄の選択は私には浅はかに見えました。家庭を守りたいという兄上の主張に私は納得できなかった。

 ところが五年前。またしても兄上に大きな変化が起きました。そう――カイル、君の母上とリィラのことだよ。気の毒だったね。

 義姉上とリィラを失ってから兄上はどこかおかしくなりました。今まで以上に教団に傾倒し、妻と死別したことによって特別に修道司祭への道を進む許可を得たのです。教区司祭である私と違って今後の一生を修道院で過ごすでしょう。私は兄上が同じ司祭になると知って、嬉しいよりも暗い予感しかしませんでした。

 そうして数年後。兄上がもうすぐ司教になると聞いた時、私は不公平を嘆きました。何故私は、自分と違ってこれほどまでに才ある兄の後に生まれなければならなかったのか。羨望のあまり、今までに受け取った多くの恩さえ忘れそうでした。

 私は、「忌み地」付近への配属を自ら志願しました。

 何か大きな手柄を立てたくなったのかもしれません。でも同時に、自分の原点であった故郷みたいな村や町に何かをしてあげたかった。そうすれば心安らげると思ったのです。

 自分から問題を起こそうと考えたのは、ある時の偶然に始まりました。

 死者の魂が溜まりやすい場所に居て、水晶を誤って壊してしまったのです。封印されていた中の瘴気が解放され、数時間のうちに魔物が溢れると予想がついたので、魔物狩り師を呼びました。予め魔物が出没する位置を知っていたのでうまく彼らを導けました。

 その後、彼らと町民が向けてきた感謝や尊敬が、どうしようもなく心地よかったのです。

 味を占めるべきではなかった。

 それからのことは、カイル、君の想像している通りだと思う。魔物の発生を密かに促してはタイミング良くその場を救う、を繰り返した。

 セェレテ卿を誘ったのは、単に彼女が私のしていることに勘付いたからであって、口をつぐんでもらうために巻き込んだことになりますね。せっかく協力者ができたので、新しい手法――流行り病のことです――を試してみました。セェレテ卿はこのやり方がうまく行けば、他の町でも実行して、全て第三王子殿下の手柄に仕立てようと企んでいたようです。

 上辺だけでも私が活躍していた姿を、なんとしても兄上に見せ付けてやりたかった。しかし兄上は俗世との縁を切った修道士の身。面会を願っても、手紙を出しても、返事はありませんでした。

 叶わないならばと、代わりに私は甥を呼び寄せたのです。憎くも、聖人と成り得た彼を。

 カイル、私は君に止めて欲しいとか、助けて欲しいとか、そんなことは考えなかったよ。他の者と同じ尊敬の眼差しを、兄上に似た君の顔に見たかっただけなんだ。

 目論見は失敗に終わったけれど。君の表す尊敬は熱っぽくなくて、ただ暖かかった。

 でも振り返れば共に暮らした数ヶ月間は、それなりに満ちていたと思う。


_______


 叔父が口を閉じ、辺りに重い空気が満ちた。話し終えた本人だけ、やけに穏やかですっきりした顔をしている。

 カイルサィートは天井を仰いだ。ちょうど、蜘蛛が視界を通りかかる。

「以上が、貴方の本音ですか。叔父上」

「そうだね」

「……本当に?」

「君は何を疑っているんだい? この期に及んで嘘をついたりしないよ」

 叔父の笑い声に偽っている様子は無い。

「さて、それは判断しかねますが。僕は、物の本質を見詰められる人間を目指したいと思います」

 天井から目前へと視線を戻した。

「いいんじゃないかな。君なら達成できると思うよ」

 本心から言っている風に聴こえる。

「でもオルト王子の言葉を借りると、今は自分の望むように解釈します。叔父上はやっぱり後悔していたから僕を呼んだんです」

 カイルサィートはにっこり笑った。

「貴方は言い訳をしませんね。誰かの所為だとは言わずに、始終、自分の気持ちと行動の責任を自分で受け止めようとしています。

 結局実害が残ったのは、最後の疫病騒ぎだけでした。それも、もともとは死に至らないはずの病が数人の内で突然変異したもののようですね」

 既に調べが付いている。命を落とした最初の四人は体質的に共通点があって、同じ病状でも過去に例の無い結果だ。

「人が死んだのは確かなのだから、その違いにはあまり意味が無いよ」

「それでも叔父上に悪意が無かったことは、教団への報告書には記させていただきます。町長や役人方の結論がどうであっても、教団からの罰は逃れようが無いでしょうけど」

 予想としては、残りの一生を閉じられた空間でひたすら償いながら過ごすことになると思う。でももしかしたら報告書の内容次第で多少は罰が軽くなるだろうか。書いたのが対象の甥となると信憑性を疑われるかもしれないけど、試してみるのに害は無い。

「……どうしてかな、君は意外と私に甘い気がする」

「数少ない肉親ですから、普段より若干やさしめですよ。ここ何年かで、僕の生誕を祝ってくれたのは貴方だけでしたし」

 肩をすくめて答えた。ルセナン夫婦が驚いた顔を見せているが、事実なのだから仕方ない。

「なるほどね。…………もう、確実に兄上に会えないな」

「あまり気にしないで下さい。僕だってほぼ五年は会えてませんし、今後も会えそうかあやしいです」

 しばしの間、笑い合った。

「すまなかったね、色々と」

 叔父は一度深く礼をした。某商社の威嚇という名の暴行についても詫びている。

「いいえ。残念には思いましたけど、もういいです」

 カイルサィートは立ち上がった。

 続いて立ち上がった、自分とそう変わらない身長の叔父を、肩から抱き寄せる。

「二度と会うことは無いでしょう。でも、どこに居て何をしていても家族である事に変わりありません。どうかお元気で」

「ありがとう。私は悔いるばかりの人生になりそうだけど、君の進む道には幸多からん事をいつも願うよ」

 声が微かに震えている。叔父の腕は縛られたままだが、僅かな動きを感じた。自由であったならば、きっと抱き返してくれただろう。

「短い間、お世話になりました。さようなら、アーヴォス叔父上」

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