11.

 ナイトテーブルの時計を見上げたら意外に遅い時刻であることを知った。読みかけの本にしおりを挟み、分厚いその本をベッドスタンドの引き出しの中へとしまう。蝋燭の火を吹き消し、少年が毛布の中へ潜り込んだ、ちょうどその時。

 寝室の戸がノックされた。

 どうぞ、と返事を返す前に、戸がキィっと音を立てて開けられた。この家の中でそんな真似をする人物は限られている。

「お兄ちゃん、起きてる?」

 戸の後ろから十歳の少女が姿を現した。

「今寝るとこだったよ。どうしたの、リィラ」

 部屋の窓は大きな縦長の長方形であり、満月の夜だからか部屋の中は明るい。月光に照らされ、自分にどことなく似た妹の顔がよく見える。琥珀色の双眸が潤んでいた。

「あのね、そっち行ってもいい?」

 大きな枕と兎のぬいぐるみを両腕に抱き、リィラはしおらしい様子で訊ねる。何を言わんとしているのか、兄にはすぐにわかった。

「いいけど、もしかしてまた一緒に寝ようって言うの」

 呆れつつも、彼は優しい声で請け負った。

「だって」

 妹は頭を何度か横に振った。おかっぱ頭に切り揃えられた蜂蜜色の髪が、サラサラと揺れる。

「パパとママもいなくて、怖いの」

 まだ誰かに甘えていなければならない年頃の少女は、不安そうに抗議した。それに対して、少年は手を差し伸べた。おいで、と小さく声をかける。

 妹は小走りで駆け寄ってきた。桃色の子供用ナイトガウンがふわふわ翻る。

「大丈夫だよ。僕がいるし、父上も母上もお仕事が忙しいから、あんまり帰って来れないけど。僕らのこといつも心配してくれているよ」

 毛布の中に潜り込んだ妹をそっと抱き寄せ、安心させるように彼は言った。

「ほんと?」

「ほんと。リィラの一番怖いモノと戦う、大事なお仕事だからね」

「うん。そうだね。ありがと、お兄ちゃん」

 リィラは、自分と兄との間に挟まれていた兎のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

(まったく甘えん坊だな……もうすぐ僕は教団に入るってのに、こんなんで大丈夫かな……)

 そうなれば母は今よりももっと家に居てくれる予定なので、まぁ大丈夫だろう、と少年は自分で自分に言い聞かせた。

「ねぇお兄ちゃん、いつか魔物のいない世界になるかなぁ」

「……魔物の居ない世界ね……今はわからないけど、きっといつかはね」

 それを手に入れるのがどれほど大変なことなのか、まだ修道士になってもいない少年には把握できない。根拠の無い話だとしても、リィラのためなら気休めを言っても構わなかった。

 その後、妹はものの数秒で眠りについた。


_______


 あれから幾月も過ぎた頃。

 ヴィールヴ=ハイス教団付属の修道院の一角の回廊にて、同期の修道士見習いたちと談笑していた時に、少年はその報を聞いた。それは、嫌味なくらいに晴れ渡った日のことだった。

「大変だ! とにかく大変なんだよ!」

 別の同期生が、青ざめながらバタバタとけたたましく近づいてくる。他の誰でもなく少年の前で足を止め、膝に手をついて息を整えている。

 何事かと思って少年は言葉を待った。が、同期の口が語ったのは少年の想像を絶する恐ろしい訃報だった。

「君のお母さんと妹さんが、先日魔物に――」

 殺された。

 あまりに残酷な単語の組み合わせを耳にして、当時の少年は全身を固まらせ長い間身動き一つ取らなかったと、大分後になってから誰かから伝え聞くことになる。


_______


 ――ぴちょん。

 まるきりの暗闇の中で目を覚ました。懐かしい夢を見たのが、斬新に残っている。

 ――ぴちょん。ぴちょん。

 何処かから水音がする。同時に、夢の余韻が消えうせる。頭や感覚が段々はっきりしてきた。

 さるぐつわを口に押し込まれ、両手両足首を拘束され、青年は椅子に座した姿勢のまま縛りつけられている。いつからこうなのかはわからないが、とにかく全身が軋みをあげているので決して短い間ではないだろう。他にも何かされているとしても、暗くて見えないのでわからない。

 此処が何処であるかはまだ判然としない。

 青年はそういった現実的な思考よりも、夢の中で視た記憶を思い起こすことを選んだ。もう一度夢の世界に降り立とうと試しに目を閉じたが、急な痛みによって意識が冴えた。どうやら、至る所を殴られたり蹴られたりしていたようである。

(リィラ……君の望んだ魔物の居ない世界は……まだ……)

 痛みに耐えながら、彼は記憶の中の亡き妹に呼びかけた。


_______


「結局その剣は、どうしてあんなところにあったんでしょう?」

 林を通り抜けての教会への帰り道、ミスリア・ノイラートは先を歩く背の高い青年に問いかけた。来た時と同じようにして、彼は父親の形見だという曲がった形の大剣を背負っている。

「……元々一度は隠してあったんだろう」

 ゲズゥは振り返ることなく淡々と答えた。

 歩きながら、彼は自分の知っていることと推測を話し出した。ミスリアと並んで合わせるまではしなくとも、置いていかないように歩を緩めてくれる。

 要約すると――まず、襲撃してきた人間は、村全体が呪われていると思い込んだのか、焼いて無くそうとした。価値のありそうな物も燃やし、残りは押収してどこかに処分した。

 あの剣が残っていたということは、誰かが持っていかれないように隠したということになる。後に死人が魔物として蘇り、何を思ったのかそれを隠し場所から持ち出して柳の下に埋めたのだろう。

 襲撃してきたのが誰なのかまでは、知っている風でありながらゲズゥは話さなかった。いつかは話してくださいとお願いしたら、気が向いたら、と返事があった。

「お母様は、どんなお方だったんですか?」

 ふと訊ねてみた。

「……」

 立ち止まり、思い出すように、ゲズゥは遠くを見つめる。

「……人や行事を仕切るのが得意で、協調性の無い俺はいつも怒られていた」

「しっかりした方でしたのね」

 回想に見た彼女のイメージと一致している。

「一族に生まれたことを誇りに思え、負い目を感じるな、と。決して他人に軽んじられるな、とも教えられた」

 再び前を向いて、ゲズゥは付け加えた。

 ――屈してはだめ。降ってはだめ。貴方の主は、貴方だけなのだから。自分の生きる道は自分で決めなさい。

 母親との少ない思い出の中、そんな言葉をかけてもらったことがあったらしい。

(カッコいいお母様だわ……)

 自分の母が穏やかな気質であるためか、新鮮に思えた。

「あの、『呪いの眼』の呪いって本当は何なんですか?」

 ついでに、前々から気になっていた疑問を試しにきいてみることにした。

 それから一分ほどの間があり、草を踏みしめる音だけが妙に大きく聴こえた。

「………………言いたくない」

 無機質な声だった。

 はい、とだけ呟いて、それきり、ミスリアは何も言わなかった。


_______


 教会へと続く土手道が見えてきた頃、空が暗くなっていた。ここまで来れば後は教会の結界の中に入るだけなので、魔物に遭遇する心配は無い。

 一階建ての建物には白に統一された外装と、紺色の屋根。尖塔の天辺に、教団の象徴である形が象られている。

 教会の玄関の前に人影が二つあった。片方を認識して、ミスリアは手を振ろうとした。

「神父さ――むぐっ!?」

 いきなり口を覆われ、腰をさらわれた。

 視界がめまぐるしく移り変わり、気がつけば二つの人影を見下ろせるような場所に移動している。ギリギリ、彼らの会話を拾えそうな距離だった。目線と同じ高さに屋根がある。

(教会の後ろ横……樹の上?)

 背中に押し当たる熱、腰に回った腕と、口を覆う手を照らし合わせれば、どう考えてもゲズゥの仕業である。どうやってミスリアを抱えて樹の上に跳び登れたのかまでは、考えても仕方ないだろう。

「よく見ろ」

 彼は耳打ちでそう言った。

 変に意識しないように、この状況のことを何とか頭の奥に追いやり、ミスリアは言われた通りにした。気持ちを落ち着けて目を凝らし、耳を澄ませた。

「――か、聴こえたような……」

 濁った声は、どちらかといえば多分女性のものだった。角度が悪くてここからでは見えにくい。

「動物か何かでしょう」

 こちらは神父アーヴォス。首だけを後ろに捻って、辺りを見回している。

「ならいいが。よもや『天下の大罪人』が潜んでいるなんてことはあるまいな」

「さて……彼らは午後からどこかへ出かけたようですが。忌み地の封印に異変を感じましたので、そちらに行っているのでしょう」

「くくっ、潜んでいても構わんぞ。捕らえて、殿下の前に投げ出してやるだけだ。私はあんなゴミクズなど怖くない」

「それもいいですね、セェレテ卿」

 神父アーヴォスが一歩下がり、身体の向きを変えたので、こちらからは話し相手の姿が見えるようになった。

 黒い鎧を身に纏い、金髪を三つ編みにまとめた若い女だった。

(あの人……!)

 見覚えがある上に、カイルが「気をつけたほうがいい」と警告したばかりである。

「しかし今はラサヴァの件が先です。彼らに構っている余裕はありません」

 神父アーヴォスが低く言うと、女騎士シューリマ・セェレテは高笑いをした。何故か耳障りな音だった。

「貴様に言われるまでもない。もう夜だ、行くぞ」

 それに対する神父アーヴォスの返事は、木の葉のさざめきによってかき消された。

 二人は大股で歩み去っていった。その後姿が見えなくなった頃にようやく、口元が解放された。

 背中に当たる硬い胸板も大変気になるけど、今離れようなどと暴れたら確実に落下する。すぐ後ろの彼と違って、ミスリアにこの高さから落ちて無傷で着地するほどの運動能力は備わっていない。

(ラサヴァって確か、湖を囲った町の名前……)

 疫病が流行り出したと懸念されている町。それの改善のために神父アーヴォスたちが向かっているのだろうか?

 どうしても、しっくり来ない。たった今交わされた会話からは、もっとよこしまな気を感じたからである。

 ため息をついた次の瞬間、視界がまた流れた。悲鳴を上げる暇もない。

 ゲズゥはミスリアを抱えて難なく地に足を着けた。

「やめておけ」

 彼はミスリアを地に下ろした。

「何をですか?」 

 息を整えてから、ミスリアは訊き返した。

「心身が限界の時に思考は働かない。今やるべきは、食って寝ることだけだ」

 ゲズゥはズボンについた葉っぱなどを払い、踵を返した。

「……その通りですね」

 はっきりとそう言われれば、合意せざるを得ない。

 心身の疲れを言うならむしろゲズゥの方が今日はヒドイ目に遭っている。当然、顔に出さないだけで、内心がどう乱れているのかは他人にはわからない。

 それでも相変わらず理詰めの言葉には、どこまでも合理的な性格が表れている。こんな人間が居ることにいっそ感心する。自分も、しっかりしなければ。

「お夕飯は何か食べたいものありますか?」

 二人は教会に入る。

「リス」

「そ、そんな食材無かったと思います」

「狩ってくる」

「また今度そうしてください。今日は別の何かにしましょう……」

 ミスリアは逃亡していた道中をも思い返し、食物のほとんどを自ら育てるのが主流である昨今で、もしかしたら彼は狩りに慣れた側の人間なのかもしれないと思った。


_______


 二日過ぎても、カイルが帰って来なかった。

 神父アーヴォスは別として、買出しに行っただけのはずのカイルがこうも音沙汰ないのは異常である。

 気を紛らわせようとして、ミスリアは朝早くに庭の花に水を撒いていた。

(胸騒ぎがする。ラサヴァで一体、何が起きているというの?)

 関与しないほうがいいとわかっていながらも、友人の身が危険にさらされているなら、放ってはおけない。お世話になりっぱなしで、恩の一つも返せていない。

 カラン。

 鉄ジョウロがレンガの上に落ちた。知らず震えていた手から、滑ったらしい。

 拾おうとしてかがんだら、背後に佇むゲズゥの姿を見つけた。この頃よく身に着けている水色のシャツと灰色のズボンという質素な格好で、壁に寄りかかっている。櫛もまだ通されていないであろう黒髪には、寝癖らしきあともある。

 ミスリアはジョウロを手にして立ち上がった。ゲズゥの視線を感じたので、目を合わせた。

「どうすればいいんでしょうか? 隣町に行くべきですか? 忘れて先へ進むべきですか?」

 答えを求めてではなく、気持ちを整理するために彼女は問いを口にした。

 ゲズゥは二度、瞬いた。黒い右目と、白地に金色の斑点のついた左目が、じっと見つめ返してくる。

「――お前が決めろ。それに従う」

 返ってきたのは問いの解答ではなく、気持ちの整理を更に促す言葉だった。

 俯き、唇を強く引き結んで、ミスリアは再び顔を上げた。

「カイルを探しに行きます」

 それが答えだった。ゲズゥは腕を組み、頷いた。

「策は」

「え? あ、ありませんけど……」

「あの聖人なら、先回りして手がかりを残すくらいしたんじゃないか」

「先回り……自分の身に危険が及ぶと予測して、ですか?」

 彼ならありえそうな話ではある。

 さっそく教会の中へ戻っても、手がかりを探すべき場所がすぐには思い当たらなかった。

 もともと居住空間が少なく、私物が置かれるようなスペースは寝室のみにある。探っても、これといって変わりはなかった。

 そもそも、何を探せばいいのかすらイメージが掴めない。書置き? 何かの地図? 手がかりがあるという仮定からして外れているかもしれない。

 廊下をうろつきながらミスリアは思考を巡らせた。

 どんな些細なことでもいい。違和感を感じたような場面が、何か無かったか。わかっているのは、ラサヴァで病が流行りだしたこと以外に、魔物が頻出していること。それ以上の詳細は聞かされていない。

(……それよりも、カイル自身の言葉に何か変なところは無かったかしら)

 彼は出かけた朝、普通に朝食を摂って身なりを整えてから教会を後にした。急いでいた様子もなく、普段通りに落ち着いている風だった。

 その前の日は、典礼があった紫期日。一日のほとんどの間ずっと会っていて、色んな話をした。たとえばゲズゥの罪過や、最初の巡礼地について。

(あれ?)

 唐突に足を止めて、書斎の方を意識した。

「本のことで何か言っていたような……」

 ひとりごちて、ミスリアが書斎に入る。

 すぐに、古い本特有の匂いが鼻についた。

 カーテンに覆われた窓から暖かい日差しが漏れている。本棚にびっしりと詰められた人類が蓄積した知識の一端を、ミスリアは一歩下がって両目に収めた。

 窓の下に位置する机の、右隣の本棚の一番下の段に、「現代思想」を見つけた。カイルが強く勧めたシリーズである。

確かに、最終巻らしい本があった。ほかの巻と比べて一回り分厚い。ミスリアはしゃがんで、それを手に取った。適当にパラパラとページを捲る。これには新しい本特有の匂いがある。

 ふとまた本棚を見やったら、隣の巻に書かれた「4」が目に入った。

 妙である。ミスリアは手に持っている本を裏返し、背の「6」の数字を認めた。ならば、隣の本は五巻であるべきだ。なのに何度見ても本棚には一から四巻までしかない。

『教会の書斎に全六巻揃ってるから暇を見つけて目を通してみるといいよ』

 彼はそう言った。ならば足りない一冊に何か意味がありそうだ。

 ミスリアは部屋の入り口を見上げた。例によって静かに出現していたゲズゥに、驚かないふりをした。

「五巻を探すのを手伝ってください。これと同じフォレストグリーン色のカバーです」

 立ち上がり、本を指しながら頼んだ。字が読めないというゲズゥでも、数字ぐらいはわかるだろう。彼は無言で応じた。

(目線の高い人ってこういう時すごく助かるわ……)

 彼が本棚の上まで見回っている様を眺めて、しみじみとそんなことを思った。

 十分余り、二人は書斎の中をくまなく探した。書斎に本が無いとなると、他にどこにあるというのか。

(読みかけて手元に置いたとか?)

 寝室と台所と聖堂はさっき余すところなく見てきたばかりで、どこにも「現代思想」の五巻の姿は無かった。

「あ!」

 思い出して、ミスリアは大きく声を上げた。その音に、ゲズゥが怪訝そうに振り返る。

「そういえばカイルは、寝る前に読書をする習慣があったんですよ。消灯時間になると読みかけの本をナイトテーブルの引き出しに入れていたんです。大体そこは祈祷書を収める場所なんですが」

 ミスリアたちがこの教会で寝泊りし始めてからは、そんな場面を見ていないのでもうしていないかもしれない。教団に居た頃は、早く就寝したがった同室の他の修道士たちに迷惑がられていたと、本人から聞いたことがある。

寝室には、三台の二段ベッドにそれぞれ挟まれて二台のナイトテーブルがあった。ミスリアは引き出しの中から目当ての本を取り出した。

 紙束がはみ出ている。 

四つ折に折られていた紙束を開くと、一番上にあった紙に見覚えがあるような気がした。

 これは、典礼の朝にカイルが隠したものと似ている。一行の長さや空白が箇条書きのように空いているのが一緒だ。ざっと目を通すと、時系列みたいな、何かの記録のようだった。

「何だ?」

 ミスリアの肩越しに見ていたゲズゥが、短く訊ねた。

「……よくわかりません」

 次の一枚を見ると、表だった。日付、場所、人の名前、などの項目がある。「食べた物」と「症状」という項目に目が行った。

 とある可能性が脳裏を過ぎった。ミスリアは最初の時系列に戻り、じっくり目を通した。名前と住所の連なりは、病状が確認された日付順に並べられている。三日前の時点で罹った人数は十五人であり、その中で死に至ったのは最初の四人だけである。

 更に紙をめくれば、罹った個人の数日間の行動を記した――入った店や行った場所、食べた物や関わった人物など――細かい調査書がどっさりとある。調書の中には多くの情報が解りやすく含まれていた。本当に、誰かに見つけてもらう為に書かれたかのように。

 これらによれば、病が食を通して伝染していることは既に判明しているらしい。あとは発生源を突き止めるだけだったのだろう。ここまでは解る。

 一番最後の紙には見取り図のようなものが描かれていた。図のタイトルからして、それがラサヴァの町の地下貯蔵庫であることがわかる。

 紙の隅っこに、黒い色を見つけた。裏側のインクが透けた跡のようだった。紙を裏返すと、小さく一文が書かれていた。ミスリアはその言葉を読み上げた。

「――『これは人為的に広められた病である』――」

 冷たいものが背筋を撫でたような感覚がした。

 カイルが導き出したこの結論が本当だとしたら、四人以上の人間が死に、十五人以上の人間が病気に苦しんだのが誰かの手によるものだったということになる。

 そして真実をカイルが調べまわっていると、黒幕なる人物にばれたのなら……?

「急いだ方がいい」

 背後からゲズゥが淡々と意見を述べた。

「はい。すぐに向かいましょう」

 或いはゲズゥにとってはラサヴァの行く末も、カイルの命さえも、どうでもいいことなのかもしれない。けれども今協力してくれる気になっているのなら、それを最大限に生かすべきだと思う。

「まずはカイルの調査に手を貸した人物と会ってみます。その後は地下貯蔵庫へ」

 ミスリアの提案に、ゲズゥは頷いた。


_______


 町並みをじっくり観察したい欲求を抑制しながら、ミスリアは足早に町の役所へ向かった。その後ろを、少し離れてゲズゥが歩く。彼の容姿や背負っている大剣が目立つのはどうしようもないとして、呪いの眼は包帯で隠している。ミスリアも聖女の衣装ではなく地味なワンピースを着て、髪は右寄りに緩く束ねている。

 といっても昼間でありながら誰も外を出歩いていないのでさほど気にすることも無かった。

「とりあえずはカイルを探すことを優先しますね。疫病に関してはそうした方が進展しやすいでしょう」

 小声でゲズゥにそう伝えた。

 道の交差する地点には必ず看板があるので、すんなり役所へたどり着くことが出来、幸い他の人間と鉢会わずに済んだ。

 赤茶色に塗られた三階建ての建物の中に役所はあった。

 受付にて、ミスリアはとある役人に会いたいと告げた。それはカイルの調書から見つけた名だ。

「彼は今日は休みですが」

 受付の机に向かう中年男性が好奇の色を目にちらつかせて応じた。

「ではよろしかったら連絡先か何か教えていただけませんか?」

 にっこり笑って、ミスリアは男性にそう頼んだ。

(あまりしつこいと不自然かしら……でも他の役人さんが味方とも限らないし)

「そうですね、この時間なら副業の方にいるかと」

 受付の男性は眼鏡をかけると、メモに街中の料理店の名を書き記した。

「ありがとうございます」

 ミスリアはメモを受け取って役所をあとにした。

 外で待っていたゲズゥに簡潔に流れを話し、二人はまた歩き出す。

 三つ角を曲がったすぐそこに湖に面した小さな料理屋があった。

「ごめんください」

 店に入ると、眩しさにまず目を細めた。オープンテラスが、高く昇りつつある陽を迎え入れている。まだ少し早いが、昼食の時間に近いといえば近い。

 屋内に四角いテーブルが四つ、テラスに三つ、カウンターにスツール六席といった規模の店だった。椅子が全部テーブルの上に置かれている。

「悪いな、今日は閉業だ。こっちは掃除とか在庫チェックのために来ただけでな」

 カウンターの後ろから男性が姿を現した。

 焦げ茶色の髪を首の後ろで一まとめに結び、口や顎の周りに髭を生やしているため傍目ではもっと年上に見えるが、顔立ちからだと三十路半ばに見える。力仕事に適していそうな体つきで、長い袖を捲り上げている。

「いいえ、私たちはお客様ではなく――」

 ミスリアはカウンターに近付いた。

「ん?」

 何かに気付いたように、男性が眉根を寄せた。ドンと音を立てて右腕をカウンターに乗せ、身を乗り出して、ミスリアの顔をじっくり覗き込む。

「あ、あの……?」

 気圧されて、ミスリアは仰け反った。男性の灰色の瞳が近い。

「……栗色のウェーブ髪で清楚な身なりの少女。かわいいが際立った美少女というほどでもなく、どこにでもいる村娘のような平凡な風貌でありながら内から滲み出る品の良さ、大きな茶色の瞳と白いもっちり肌が特徴。そしておそらく背の高い黒髪の男を連れている……てことはあんたが、聖女ミスリア・ノイラートだな?」

「……はい、ミスリア・ノイラートは私です」

 反応に困り、ひとまず笑うことにした。

「おー、やっぱり! 聖人さんに聞いたとおりだな。オレはルセナン、ルセでいい。よろしく、ミスリア嬢ちゃん」

 ルセナンは、にかっ、と歯が見えるような人の好い笑顔を見せた。次いで手を差し出し、握手を求めた。ミスリアは素直に握手を返した。分厚い手だったが指は長く、文官でも武官でもやっていけそうだなと思った。

「お会いできて嬉しいです、ルセさん」

 正直な気持ちだった。名前からしてまさしく探していた人物である。

「その台詞はそのまま返すぜ。まぁ、座りなよ。そっちの兄ちゃんも、何か飲むかい? 最近は流行病のせいで食べ物が信用できなくてな、仕方なくしばらく閉業してるんだが。酒は水より安心できるだろ?」

 そういうものだろうか、と不思議に思いながらも、ミスリアはスツールに腰を下ろした。飲み物に関しては断った。

「ウィスキー、ショット」

 それだけ言って、ゲズゥがカウンターに歩み寄ってきた。座らず、近くの柱に背をあずけている。おうよー、と軽く返事をしてルセナンが要望に応じる。

(昼間から飲むの……!?)

 ミスリアは激しく疑問に思い、しかし異議を唱えていいものか迷った。目だけで訊ねる。ゲズゥは包帯に隠されていない右目を合わせてきたが、何事でもないかのように視線を外した。

(何だか雰囲気的に酒豪っぽいもの、大丈夫……よね……)

 きっと飲んでも飲まれないタイプの人間なのだろうと、無理やり納得しておいた。行動や判断力や体調に変化さえ現れなければ、大丈夫。更に言えば、ルセナンがグラスにウィスキーを豪快に注いでいるので、ミョレンの法では昼間からの飲酒は禁止されていないのだろう。

 成人式を経たためミスリアも法では飲めるが、聖女としての戒律では儀式目的以外の酒の類は飲めない決まりである。

 そうだとしても、この場合は酒代は自分が払わなければならないのだ。ミスリアは苦笑いを浮かべた。

 そんなミスリアの心の内を感じ取ったように、ルセナンがまた歯を見せて笑った。

「聖人カイルさんに免じて、代ならいいぜ」

 彼は琥珀色の液体に満ちたショットグラスをバーカウンターの上に置いた。濃厚なアルコールの臭いが立ち上る。グラスを、ゲズゥが横から手を伸ばして取った。

「でも……」

「でもは無しだ。あの人には随分世話になってるしな」

 温かい印象のハスキーボイスがミスリアの言葉を切る。

 カイルにはお世話になっていてもミスリア個人に対してはまだ初対面だから、厚意に値しない気もした。その旨を伝えようと思ったが、口を挟む機会を逃す。

「なんていうかな。神父さんが最初連れてきた時は爽やかな兄ちゃんだなぐらいの印象だったが。やれ魔物だ疫病だなんて騒ぎが出てきてさ」

 自分の飲み物をグラスに注ぎながら、ルセナンは口をも動かした。

「役所での対策会議が終わった途端にオレに『腑に落ちない時の顔をしていますね』って声かけてきたんだ。部屋の逆側からよく見てるな、って思ったぜ」

「どうしてそんな顔をしていたんですか?」

 ミスリアが訊くと、ルセナンは腕を組んで唸った。

「一口には説明しにくいんだが……」

「なら後に回せ」

 小気味いい音を立てて、ショットグラスが再び木製のバーカウンターの上に置かれた。今度は中身がカラだ。

 ゲズゥの無遠慮な発言に対してルセナンは驚きを見せた。一方、ミスリアはそこではっとなった。ルセナンのペースに気を取られていた。

「ルセさん。そのカイルなんですが、今どこでどうしているのか存じませんか」

「教会にいるんじゃないのか?」

「いいえ、二日前から姿が見えません」

 ミスリアが事情を端的に話すと、ルセナンは考え込むような顔になった。

「そいつは怪しいな……。残念ながらオレにも心当たりは無い。最後に会ったのが先週、聖人さんが病人を癒しに来てた時だからな」

「そうですか……」

「地下貯蔵庫だったら案内できるぜ。今から行くか? 歩きながらお互い情報交換を続けよう」

「ではお願いします」

 ミスリアは深々と頭を下げた。カイルがわざわざ見取り図の複製を作るくらい重要な場所だ。何かわかる可能性はある。

 ルセナンは革製のベストを羽織り、奥にいるらしい妻に出かけると声をかけ、そうして一行は三人になって店を発った。


_______


 町の衛生面の管理はオレの仕事の管轄内だからな、と道行きながら役人が言った。どうやら疫病騒ぎは収束へ向かっているらしい。

 役人が聖女ミスリアと会話しているのを、ゲズゥは三歩ほど後ろから観察していた。単に会話に参加するのが面倒だからである。しかし内容は聞いておきたい。

「神父アーヴォスさんが上と掛け合うなり聖人さんに治癒を頼んだりしてさ、何だかんだで死人は最初の四人だけだった。罹った人間の数は現時点で二十八人に上っているが」

「発生源は突き止められたのですか?」

「いや、まだだ。適切な処方薬が手に入ったため今はそれを病人に届けることが優先されている。けどおかげさまで民は大分安心できた。もうしばらくは、皆必要以上に出歩かないだろうがな」

 教会は別として、と役人が小さく付け加えた。

 どうやらラサヴァの町民は、ことこの件に関しては神父に相当感謝していることもあるからだという。

「治療薬があると頼もしいですね」

「それよ」

 役人は人差し指を大げさに振った。

「オレは数年この職に就いてるが、疫病でこんなに早く解決策にたどり着くなんて稀なんだよ。まずは症状をまとめて伝染を食い止め、できれば発生源と病原体の正体を把握して、正しい処方をする。これらはなるべく同時進行だ。たとえ運良く他の段階が早く進んでも、処方薬を必要な分だけ揃えるのは結構大変なんだ」

「なるほど、そういうものなんですか」

「ああ。だからあの会議で、既に国府と連絡をつけて薬を充分に取り寄せているって話になった時、腑に落ちなかったんだよ。なのに次の日には本当に騎士団が荷馬車を引いて来るんだもんな」

「荷馬車を引いた騎士に、シューリマ・セェレテ卿はいましたか?」

 途端に声を小さくして、ミスリアが質問した。対する役人は意外そうな表情を浮かべる。

「いたぜ。よく知ってるな」

「なんとなく、です……」

「そうか……? まあとにかく、オレは聖人さんと話してる内に、この騒ぎが仕組まれたって結論に至ったわけだ」

 役人も小声になった。ゲズゥは距離を三歩から二歩に縮めて聞き耳を立てている。

「犯人やら動機まではオレにはまったく見当付かないが、どうやら聖人さんは心当たりがあったようだな。独自に追うつもりで地下貯蔵庫を調べてたんだと思う。オレは処方薬の方に手を回してたんだがひと段落ついて、あとは病院だけで手が足りるって言い渡されたから休みをもらった。いや、上司に無理やり休めって半ば強制的にな」

「お疲れ様です」

「本音を言えば、オレも一緒になって色々嗅ぎ回ってるってバレたから、現場から遠ざけられたんじゃないかとも思う。誰の計らいだか」

 小声で漏らして、役人は苦笑した。

 話を聞く限りではかなりありうる話だというのが、ゲズゥの感想だった。


_______


「ええ、確かに聖人デューセは数日前にいらしていますね」

 虫眼鏡を用いて、貯蔵庫の管理人が記録を調べている。顔の皺や頭髪の薄さから思うに、初老ぐらいの、小さい男だ。

「彼が何をしに来ていたのか覚えてませんかね?」

 その管理人の机に肩肘ついて、役人が訊いた。机越しに相対する二人の男の体型の違いが面白い。

「えーと……特定の食材の仕入れについて聞きたがっていましたよ。最後に入荷したのが何時だとか、どの業者からだったからかとか。目録を確認していたと思います」

「何の食材です?」

「さて、記憶に残っていませんな……」

「そこを何とか思い出して下さいよ」

 役人と管理人のやり取りは尚も続いている。ふとゲズゥは傍らのミスリアを見下ろした。返ってきた茶色の眼差しが不安に翳っている。ゲズゥはなんとなく肩をすくめた。

 ここはいわゆる倉庫、食物を保管する施設の中だった。この中の何処かの床に地下貯蔵庫へと続くたった一つの入り口があるはず。

 右目だけを動かして、ゲズゥは周囲を見渡した。日持ちしやすい食品や粉末が棚に天井まで積み上げられている。さりげなく一歩下がって、隣の通路を確かめる。踏み台がある以外に注意に値する点は無い。更に下がって、次の通路を見やった。

 一番奥の棚に梯子がかけてある。もっと手前へと視線を移した。

 するとそこの床には開けっ放しの四角い戸があった。使われたばかりで閉め忘れられたのだろう。

 倉庫の外には五人もの番人が警備をしていたというのに、皮肉にも、倉庫の中は管理人以外ほぼ無人状態だった。或いは普段はもっと従業員がいるのかもしれないが、そんなことより今日は誰も居ないというのが重要である。

 管理人はまだ役人と話し込んでいる。こちらの動きにまで気を配っていない。

 ゲズゥは元の位置に戻り、ミスリアに耳打ちした。

「戸が開いてる。行くなら今だ」

 驚いたのか、ミスリアは一度肩を震わせた。迷っているような表情をしている。

「悠長に構えていていいのか」

「……いいえ。行きましょう」

 すぐさま二人で戸へ向かった。地下へ続く古い階段を踏んだ時の音が気がかりだったが、気付かれた様子は無い。

 長い下り階段の先にあるのは地に空いた穴。地上の新月の夜よりも、どこまでも濃い闇だった。

 ついに階段が途切れ、土を踏みしめることになった。湿った臭いが絡みつく。ここまで来れば闇の中へ進むだけである。

「暗いですね」

 背中辺りの裾が引っ張られるのを感じた。怖がる少女の声だ。

「そういうものだ」

 躊躇なくゲズゥは一歩踏み出した。

 倉庫から漏れる光を頼りに壁を求めて歩き、ポケットから火打石を取り出す。壁の燭台に火を灯した途端、視界が明るくなり、ミスリアが張っていた気を緩める気配を感じた。目を慣らすために数秒じっとしていたら、ガサガサと紙が取り出される音が背後から聴こえた。

「カイルの見取り図では左、奥の隅っこ辺りが丸で囲まれてます。何かあるのでしょう」

 従って、件の位置を調べることになった。

 が、いざ近づいて見ると、その隅の棚にはきれいさっぱり何もない。

 ゲズゥはしゃがみ、指先を地面にそっと触れた。土の冷たさをなぞる。

「窪みがある。箱か器か何か置かれていたんじゃないのか」

「ここにもともとあった物がなくなっているってことですか?」

 ミスリアは顎に手を当てている。

「では持ち去った人間が……?」

 ブツブツと何かを声に出して考えているようだが、気に留めないで置く。

 立ち上がった瞬間、ゲズゥの鼻がよく知った臭いを捉えた。

 つい、顔をしかめる。

「どうしました?」

 表情の変化に目ざとく気付いたミスリアが訊ねる。

「……血の臭い」

 その返答に、ミスリアが息を呑んだ。

 実際は血に混じって他にも汚臭がするが、そこまでは口に出さないことにした。

 臭気を辿ったら、反対側の入り口から右奥の隅に行き着いた。棚にはみっちりと品物が詰め込まれている。地面の血のあとが目に入った。数滴といった具合だ。

 ゲズゥは棚を両手で掴み、丸ごと前へ引き出して、横へどかせた。

「通路……」

 ついてきたミスリアが呟いた。

 棚の後ろから現れたのは狭い筒状の通路である。自分の場合は多少かがんでいないと歩きにくいほどに天井も低い。

「おそらく下水道へ繋がっている」

 下水道といえば死体を隠す格好の場所だ、とは言わないでおく。

 どうする? と目だけで問うた。

 ミスリアは唇を噛み締めて俯き、しばらく黙り込んでいた。

 その間にゲズゥは頭に巻いていた包帯を解き、左目を解放した。片目だけだとどうしても距離感が掴みにくい。

「進みます」

 やがて、重々しい返事があった。

「わかった」

 最善の選択だ。聖人がまだ生きている可能性がある以上、本気で救うつもりならば、立ち止まるのはただ愚かだった。

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