10.

 姿を認識する前に咽び泣きを聴いた。

 しかし周囲に霧がかかっていて、視界がはっきりしない。

 淀んだ空気に混じって仄かに甘い香りが漂う。花の香り――これは、薔薇?

 一歩踏み進んでから、耳を澄ました。咽び泣きが続く中、他には虫や鳥やリスの鳴き声一つしない。曇った空から時折、水滴が零れ落ちる。雨粒は音を立てないほどに小さい。

 十秒待って、また一歩踏み出す。

 泣き声は止まない。この分なら、気づかれていない。

 また一歩踏み出そうとした途端、突風が通り抜けた。

 霧が少し晴れかける。

 己の視界が改善されたのと同時に相手に見つかるのではないかと危惧して、咄嗟に身をかがめる。すぐに杞憂とわかった。

 白髪の娘は両手で顔を覆い、丸まって横になっている。傍らには黒い柳の木が娘を守るようにそびえ立つ。

 一直線に近づかず、ゆるりと遠回りに輪を描いて背後に回る。

 娘はむくりと起き上がった。

 応じて、足を止める。身構えた。

 が、娘は妙な動きを見せずに、座り込んだままだ。肩にかかった真っ直ぐな白い髪が、はらり、と首筋を伝う。

 小さな背を丸めて、娘は更に嗚咽を漏らした。それは次第に号泣に変わる。

 聴く者の胸をすら引き裂きそうな悲痛な声だった。一体何がそんなに悲しいのか、真面目に考えてしまう。

 娘はこちらに聴き取れるような言葉を発していない。それでも確かに何かを訴えようと一糸纏わぬ身体を激しく揺らしている。ちらっと見えた横顔からは、運命を恨むような、何かを切望するような、悔しげな表情が窺えた。

 何を、誰に、訴える?

 無意識に想像してみた。

 瞬間、脳裏を過ぎった責める声には覚えがあるようでなかった――


「……どうして貴方だけいなかったの! どうして一緒に苦しんでくれなかったのよ! どうして、どうして私たちばかりこんな目に遭ったの――」


 袖が引っ張られる感覚によって引き戻された。現実を認識しなおすために二、三度瞬く。

 そう、ただの幻聴である。おかしな超能力を微塵も持たない自分に、人語をはっきり喋れない魔物の心の声など聞き取れやしないのだ。

 ゲズゥ・スディルは、傍らの少女を見下ろした。聖女ミスリアは水色のワンピースを身に纏い、栗色の髪をポニーテールにまとめている。茶色の瞳は戸惑いに見開かれ、ゲズゥの袖を握る小さな手が微かに震えている。


_______


 今より三十分前。

 ミスリア・ノイラートはここ数日お世話になり続けている教会の主を、玄関から送り出していた。

「用事が済めばすぐ戻ってまいります。私も甥も空けてばかりですみません」

 神父アーヴォスが頭を下げる。この歳で頭髪が耳近くしか残ってないのは遺伝、それとも外的要因があるのかしら、などと失礼なことをミスリアは思った。

「いいえ。お気になさらず、気をつけていってらっしゃいませ」

 微笑んで一礼した。

 ちょっとした手荷物だけを持って、神父アーヴォスは町へ出かける。教会にとっての正式な休みの日は一週間のはじめの赤期日であり、それゆえにカイルも買出しに行ったのだろう。

 ミスリアが玄関の短い階段に立って後姿を見送っていたら、背後から声がした。

「聖女」

 振り返るとゲズゥが腕を組んで廊下の壁に寄りかかっていた。

 教会の中に戻り、はい、と返事をしかけてやめた。ミスリアは表情を曇らせた。

「あの、できればミスリアって名前で呼んでいただきたいのですが……」

「…………」

 いくら待っても反応が無い。

(いいもん言ってみただけだもん。くだらない提案ですみませんね)

 すねたのを隠す為に背を向ける。扉を引いて閉じた。

 再び廊下を向き直ると、驚くことにゲズゥは微動だにせずにまだそこにいた。

「もしかして、私に何かご用があったのですか?」

 今更ながらその可能性に思い至る。何となく思い返せば、いつも用事があってゲズゥを探しに行くのはミスリアばかりで、その逆はあまりなかった気がする。

 ゲズゥは一度息を吸い込み、漆黒の髪の毛を乱暴にかき乱した。

 彼の初めて見る仕草だったので、ミスリアは三秒ぐらい唖然とした。開いた口を閉じて、次の言葉が紡がれるのを待った。

「……村の跡地」

 頭から手を離し、億劫そうにゲズゥは発話した。

「はい」

 ふと、彼が故郷のことを口に出して「忌み地」と一度も呼んでいないことに気がついて、ミスリアは申し訳ない気分になった。なんて不吉で不名誉な呼び方だろう。

 後で謝るべきかも知れない。カイルにも伝えておこう。

「跡地がどうしたんですか?」

「封印とやらに、広げなくても通れそうな穴を見つけた。昨日走ってたついでだ」

「え……」

 ミスリアは今しがた言われた内容を脳内で整理する。人が中には入れそうな一方で、中に居た人間と変わらない大きさの魔物も出てこれるということ……?

「あの中は昼間でも魔物が闊歩してるんじゃないのか」

 ゲズゥが静かに付け足した。ちなみに午後になったばかりの時刻である。

「可能性はありますね」

 根拠は、封印の中の草の色。水分が足りて陽光が足りないのは、光だけを遮る何かの存在があるからだ。しかし封印の中の空は広く、建物も無く、木々がすべて枯れているので木の葉が草の栄養を横取りしているなんて道理も成り立たない。ならば、陽光を遮るものは何なのか?

 おそらくは瘴気があまりに濃すぎて光が行き届くのを邪魔をしていると考えられる。人の目に見えようが見えまいが、瘴気にはそういう特性もある。薄い雲や膜みたいなものだ。

 それより重要なのは、何故ゲズゥが今その話を持ち出したのかである。まさか、魔物が封印から逃れて近くの人々を脅かすことを心配していまい。

「…………聖人と司祭は当分戻らない。今のうちに行って……」

 彼は文を途中で区切って、言い終わらなかった。言葉に詰まっているようだった。ぼんやりと遠くを見つめる目になった。

(戦力的に二人が居てくれた方が楽そうなのにどうして敢えて居ない時を狙うの? 魔物と相対してる内に見られたり聴かれたくない展開になるって予想しているとか? 一人で感傷に浸りたいとか?)

 悶々と考えたってどれも推測に過ぎない。

 ミスリアはゲズゥの横顔をじっと見上げた。黒曜石を思わせる右目がひどく空虚に見えた。

 目の前にいる人の心を汲んでやれないことを、急にもどかしく感じる。下手なことを言って傷つけたくはないけれど、黙り込んでいたって分かり合うことは益々不可能だ。

 分かり合える保障なんて勿論どこにも無いけれど。

 ミスリアは拳を握って、小さく一歩を踏み出した。

「すみません、」

 そう話を切り出したら、ゲズゥが顔を上げた。解せないものを見定める風に目を細め、頭の角度を僅かに変えてミスリアの方へ耳を寄せてくる。不意に距離が近づいたので心臓が勝手にドキッと大きく鳴った。

「……何を思っているのか口に出してくれないとわかりようがありません。でも、話したくないのなら無理に話さなくていいです。私はできれば聞きたいんですが……ごめんなさい……うまく言えなくて」

 ミスリアは耳が赤くなるのを感じた。

 かけるべき言葉がわからないから正直な気持ちを話そうとしたはいいけど、恥ずかしい。

 どうしてこんな流れになった? そう、彼が村の跡地に行きたそうにしているから。でもよく考えてみれば、ミスリアが誘われたわけでもない。一人で行ってくるから大人しく待っていろ、と言う話だったら、随分と余計な口を挟んでいることになる。それでも止められない。

「私は同じ体験をしたことがないので貴方が何を感じているのかわかりません。たったひとり取り残される気持ちなんて……」

 語尾へ向けて段々と声が沈んだ。

 親類縁者が全員いなくなっただけでもひどいのに、ゲズゥはどこへ行っても呪われた一族の生き残りとして迫害され続けてきたのだ。七歳の孤児にとってこの世間がどれほど生きづらかったのか、容易に想像がつく。

 だからといってその後に彼が重ねた罪を正当化するつもりは無いが――本当に、十二年前に何があったと言うのだろう。

「厳密に言えば、ひとりじゃないんだがな」

 返ってきたのはほとんど聞き取れないような呟きだった。聞き間違いかと疑うほどに。

「……別に、お前がそこまで気にかける必要は無い」

 すぐにゲズゥは話を切り替えたので、真相を聞きだせなかった。少なくとも他に生き残りがいたとしても、行動を共にしていないのは明らかだ。

 ゲズゥは壁から離れ、物置部屋へ入っていった。ミスリアもなんとなく部屋の入り口までついて行った。

 狭い部屋にて彼は昨晩手にした巨大な剣を、包帯みたいなもので黙々と巻き始める。刀身はいつの間にか綺麗に磨かれ、研がれている。

 見る者を圧倒する剣だった。大き過ぎて、持ち歩くだけでも一苦労しそうである。何せ、長い柄部分を除いても、刃はミスリアの身長とそう変わらない長さだ。

 ゲズゥは物置のどこから掘り出したのか、肩に斜めにかけて背負うタイプの革製の鞘を調整している。剣の横長いつばの真下にはめて、引っ掛けるようにして支える形だ。普通にまっすぐ伸びた大剣だったならばいざ知らず、曲がった剣なので一思いに抜くことができない。

「特注で鞘を作ってもらった方が良さそうですね」

 といっても一体どういう鞘なら収められるのか、イメージできない。

 昔はあった、と呟きながら、ゲズゥは袖の長いシャツの上にベストを羽織った。剣ごと鞘を背にかけて、立ち上がる。あまりの重量に肩に食い込むかと思えば、ベストを隔てているので案外大丈夫そうだ。

「……支度しろ。行くぞ」

 彼は無表情にミスリアを見下ろした。

「は、はい」

 わずかばかりゲズゥの独特な双眸に見とれたが、ミスリアは我に返って、言葉の意味を理解した。

 身を翻すと、背後から声が聴こえた。

「柳の下に剣を埋めたのは、魔物の仕業だ」

 半ば独り言のようにゲズゥは断言した。


_______


 ひたすら慟哭していた娘が、俄かに静まった。

 ぎゅるん、と魔物は首だけを後ろへ回転させ、目を見開いて辺りを凝視する。それは実際の人間の肉体構造だと不可能な動きであり、不気味だった。もっとも、全身から青白い光を立ち上らせている時点で既に人間とは異質な存在である。

 柳の樹を中心に半径100ヤード(91.4m)以上は草しかない野原で、身を隠す術が無い。すぐに見つかった。

 こっちが音を立てたわけではないから、臭いに気付いたのだろう。

 ゲズゥは剣を鞘から取り出し、包帯を素早く解いた。下がっていろ、と言ったら、聖女はそっと袖を離して従った。

 魔物が険しい顔で叫んだ。大気を震わせ、耳をつんざくような怒声だった。白い髪を逆立たせ、手の爪を地面に立てる。

 何が起こるのかまったくわからなくて、ゲズゥはとりあえず両手で剣を構えた。

 数秒後に、振動が足を伝わった。

 褪せた野原から次々と何か別の植物が芽吹いて湧き上がっている。瞬く間にそれは蕾をつけ、明るい黄色の花を咲かせた。一本一本が、人間の子供ぐらいの大きさだ。野原は花の黄色に満ちた。

「薔薇!?」

 聖女が驚きの声を上げたのと同時に、ゲズゥの目の前の薔薇の花が頭を垂らし、ぱかりと横に裂けた。裂け目から見事な牙が見える。

 あぎとを持った花など、まず魍魎の類とみて間違いないだろう。ただ、いつもの魔物の腐臭ではなく薔薇の香りが漂うことに多少の違和感を覚える。

 雨がほんの少し勢いを増した。晴れかけた霧がまた濃くなりつつある。

 ――ポツリ。

 手を伸ばせば届く距離の花に一滴、また一滴と雨が当たる。外側の花びらが震え、雨水は重なった花びらの間をすり抜けて消えた。

 ゲズゥが斜め後ろへと左腕を差し出した。肩をそのままに、頭だけ振り返って聖女を一瞥する。

 察して、聖女はぴくっと身体を震わせては目を泳がせた。ゲズゥの腕を見やり、百は超えた数の薔薇の魔物の群を見やり、最終的にため息をついてから歩み寄ってきた。

 少女を抱え上げて間もなく、薔薇が何本か、二人に噛み付こうと身を乗り出す。

 ゲズゥは右腕だけで大剣を振るった。斜め横に薙いで、一度にいくつかの花を棘だらけの茎から切り離した。実はこの剣は見た目ほど重くないのだが、それでも重力に合わせて振り下ろすのが一番やりやすい。

 他の花たちが頭を左右に揺らしている。植物らしく地面に根付いているためか、傍目にはそれほどの脅威に見えない。とはいえ、これらがある限りは白髪の娘に近づけないのが厄介だ。走り抜けようと思っても、文字通り茨の道だ。

 ここは道を切り開くのが適切だろう。

 ゲズゥは剣を振り下ろした。生じた圧力が大気を切り裂き、剣から一直線に伸びて魍魎たちを裂いた。大量の花びらが宙を舞う。

 すぐさま走り出し、何度か剣で周りを一掃した。核たる魔物との距離を半分ほど縮めた途端、娘が立ち上がった。ゲズゥは反射的に動きを止めた。

 娘がゆったりと白い手を持ち上げる。曲がった手首を優雅に起こし、手のひらを地面に平行に広げた。おそらくはあの糸が来る。聖女もそう直感したのか、ゲズゥの首に回した腕に力を込めた。

 予想通り、娘の爪の下から無数の糸が伸びた。まだ50フィート(15.2m)以上は離れているのに、糸は重力に屈することなく、鉄線みたくピンと張った状態で攻めてくる。

 跳んで避けようにも茨でまともな足場が無い。先ずはしゃがんでかわした。次にタイミングを見計らって横へ回り、剣で糸を切り落とした。的への軌道から外れて、糸の先がバラバラに散る。たとえ糸が己の身体から伸びた物でも、流石に一本一本を先端まで細かく操作できないらしい。

 ――再び前へ進もうと、一歩踏み出した瞬間。

 右のふくらはぎに激痛が走り、思わずゲズゥは鋭く息を吸った。

 見れば、薔薇の魔物の一匹がしっかりと噛み付いている。簡単に振り落とせそうに無い。

「その魔物の唾液も酸性です!」

 一瞬、聖女が何を叫んだのかわからなかった。が、花の牙に触れている部分のズボンが溶け、最初の痛みとまた別の――皮膚が焼け落ちるような――感覚から、理解した。

 理解したからには剣を構えた。膝を曲げて脚を上げ、柄近くの鋸歯部分を使って、花を削ぎ落とす。自分の皮膚も多少巻き込んで削いでしまったが、この際知ったことではない。

 切り落とされた花はしばらく痛がるように暴れた。

「……糸が……」

 呟きに、ゲズゥは顔を上げた。横顔だけからでも聖女が青ざめているのがわかる。

 聖女の視線を辿ると、白い糸に巻きつかれたいくつかの薔薇があった。それらは見る間にどんどん大きくなっている。まるで糸を通じて、核の魔物から養分を注いでもらっているかのようだ。この糸はさっき襲ってきた同じ物が的を変えた結果であろう。

 人間と同じ大きさに達した五匹の薔薇の先を見据えると、静かに緑色の涙を流しながら笑う、全裸の娘が目に入った。

「聖女」

「……? はい?」

 意外そうな返事が返ってきた。呼ばれたことに対して驚いているのだろう。

「あの女を救ってやってくれ」

 ゲズゥは左腕の中の少女を見上げて、頼んだ。

 改めて頼まなくても、聖女は最初からそのつもりだったろう。それでも言わずにいられないのは、同胞であった者に対する、情からだ。

 聖女がゲズゥを見下ろす。

 大きな茶色の瞳と目が合った。聖女は何度か瞬いた。

「わかりました」

 少女の目からは既に怯えの色が完全に消え失せ、代わりに確固たる決意が浮き上がっていた。

「彼女と対話をしてみます。ただ……」

 視線を外して、聖女は魔物を向き直った。

「対象に近付かなければ魂を繋ぐ歌も効果がありません」

「ああ」

 なるほど、つまりは近付く手伝いから始めるべきだということか。

 ゲズゥは大きくなった花たちを見た。大きくはなっても、足が無い。警戒すべき要素は噛まれることと、あの酸性の唾液、あとは中心の娘の行動のみ。いや、あの顎や茨が剣を受け止められる可能性も考えるべきか。

 半円を描いて二人を囲む五匹のうち、端の二匹が揃って口を開いた。垂れたよだれが地面の草を溶かす。

 それぞれの口の中は、どこまでも真っ暗な空洞である。どう見ても胃やその他の消化器官は無いのに、喰らった物は果たしてどこへ行くのか。他の人間をもとにした魔物同様に、食べた分だけ吸収して自分の一部にするのだろうか。

 ――生死がかかっている場面で、無駄な思考だ。

 花が聖女をめがけて飛び掛ってきたため、跳んで避けた。一緒に伸びてきた茨を切り払う。

 目の端で、他にも巨大化し始めた魔物の個体をとらえた。あまり悠長にやっている場合ではなさそうだと、ゲズゥは判断した。

「道が開いたら、走れ」

 聖女を下ろしてそう言った。聖女は前を見据えて頷いた。

 剣を両手で構え直し、ゲズゥが一歩前へ出る。

 目線と同じ高さに黄色い花があった。生き物と異なる存在とはいえ、口しかない頭部というのは向かっていて妙な気分になる。せめて眼球などあって欲しい。

 左から二番目の薔薇が牙をむき出し、身を乗り出す。それに対してゲズゥは手首を翻しては剣を上へ振り上げた。顎ごと花が半分に割られる。続いてゲズゥは右へ一歩跳んだ。刃の向きを変えて、振り下ろす力で横へ薙いだ。

 片手よりも両手を使う方が、剣圧の威力も鋭さも倍に跳ね上がる。彼はその調子で、夢中になってどんどん切り伏せていった。

 気がつけば、傍から聖女がいなくなっている。

 戦いながら体の向きを調整して、視界の中からその姿を見つけ出した。確かに聖女は魔物の娘の近くまで辿りつけている。

 そこまで見届けると、今のうちに周囲の魍魎をまとめて倒すべく、ゲズゥは身を構えなおした。


_______


 聖女ミスリア・ノイラートは、濡れて顔にくっついた髪を、指でそっと払った。ワンピースの裾は小型の薔薇の魔物に喰われてあちこち欠けている。何度か足首にも噛み付かれそうになり、振り払っているうちに靴も失われ、今や裸足で走っている。

 十歩先に、美しい娘が佇んでいた。雨粒も弾く象牙色の素肌が、青白い光に包まれている。両手から糸を出し、その糸が離れた場所の薔薇たちに生気を与えている。厄介な能力だが、こうしている状態では多分、ミスリアを直接攻撃する手段が残っていないはず。

 ミスリアを注視する娘の瞳は、黒かった。どこかで見たことのあるような色だ。魔物は警戒するように低く唸った。

「失礼します」

 足を止めて、ミスリアは腹部に軽く手を置いた。大きく息を吸い込む。

 そうして、魂を繋ぐ歌の冒頭部分を歌い出した。喉が渇いていて、あまり綺麗に声が出ない。雨の音にかき消されない様に必死である。

 しかし娘の反応を引き出すには十分だった。

 魔物の黒曜石にも似た瞳が潤んだ。くしゃくしゃに表情を歪め、またしても涙する。

 頭の中に声が響いた。


『――どこ……? あの子は、どこなの……? どうして、帰ってきてくれないの? こんなに、待ってるのに――』


 歌い終わる前にも、記憶の断片が映像になって流れ込んできた。いつも以上に物凄い重圧だった。耳鳴りのようなもので頭が割れそうだ。こめかみを押さえたけど、あまり効果は無い。

「たった一人のお子さんを……ずっと探しているそうです……」

 何とかそう囁いた後、ミスリアの意識は黒い波に飲み込まれた。


_______


 家の玄関の前に、花を飾っていた。明るい日差しの下、小鳥の囀りを聴きながらの作業だ。

 林檎の花を使ってストリーマーをつくり、ドアに垂らす。余った花を、長い指で器用に編んでわっかにした。完成するとしゃがんだ。

「はい、出来上がり」

 十にも満たない歳の女の子の頭にわっかを飾ってあげた。

「わぁ、ありがとー!」

 満面に笑顔を浮かべ、女の子は走り去った。とても暖かい気持ちで見守った。

「お疲れ。この村も数日で見違えたな」

 背後から声をかけられて、立ち上がる。心地良い具合に低い声だった。

 振り返るとそこには、三十代半ばぐらいの背の高い男性がいた。一見、厳つい印象を受ける。オールバックにまとめた黒い髪に、角ばった高い頬骨。二重瞼の切れ長の目が、性格の鋭さを表しているようだった。肩には、赤茶色の鷹が停まっている。

「ええ、午後からのお祭に間に合いそうでよかったわ。今年は外からのお客様もいらっしゃることだし」

 そう返事をすると、男性は笑みを浮かべた。目元が優しくなって厳つい印象も大分和らぐ。

「始まるのはまだ二時間後だ。今のうちに休憩するといい」

 男性の提案に頷いて、次に俯き、ため息をついた。

「どうした? お前がため息とは珍しいな」

「それがね……」

 顔を上げて、再び目を合わせた。

「あの子を一人でお使いに行かせたの。不安だわ」

「アレなら大丈夫だろう。道草を食わないか心配だが」

「そうでしょうけど、やっぱり大人を付き添わせるべきだったわ。直前になってから足りないものがわかるのだからダメね」

「気にするな。きっとすぐに帰ってくる」

 男性はそう言って一本の花を取り出した。背に隠していた手に持っていたらしい。

「そういえば、お前の好きな黄色い薔薇が咲いてるのを見つけた。今年最初の一本だろうな」

 鮮やかな黄色の花弁から甘い香りが漂う。

「薔薇が好きというより、花言葉が好きなだけよ」

 くすくすと笑う。

「ああ、『誇り』だったか」

 懐から長いナイフを取り出し、男性は薔薇の茎を短く切った。それを手に取り、こちらの顔に近づける。

「よく似合う。……鏡がなくて残念だな」

「いいわよ、ナイフを見せて」

 手を伸ばした。

 ナイフを手渡され、そこに映る姿を確かめる。

 髪に挿した鮮やかな薔薇が、自分の黒い髪に冴えていた。

「こっちにしようかしら」

 花を右の耳へと移した。

 もう一度姿を確認すると、今度は泣き黒子のある右目の隣に黄色い花があった。

「うん、素敵だわ。ありがとうね」

 お礼を言って、ナイフを男性に返した。


_______


 この少女が本当に人間なのか、たまに疑問に思うことがある。

 聖女の全身から淡い金色の光が発せられる場面をチラチラ横目で見つつ、ゲズゥは訝しんだ。

 最初に聖女が歌を獺に使った時、あまり注意して聴いていなかったが、今なら歌自体に催眠効果のような何かがあるとわかる。それは聖気に触れて感じた夢心地に似ていた。

 こっちの腕の中に居て聖女が聖気を展開させる時が、ゲズゥには特に変だった。

 抱え上げた瞬間は確かに相応の質量を感じたのに、聖気を展開した途端に曖昧になる。腕の中にいるモノは少女の姿をした別種の何かではないかと、この世のモノではない何かではないかと、根拠も無く疑ってしまう。

 はっきりと軽くなるのを感じるとか、そういうのではない。自分の腕と腕に触れている聖女との境に、自信を失くすのである。まったくもって不可解な話だった。

「ギャアアアアアアッ!」

 後ろからの威嚇の声に応じて、ゲズゥは横に半回転し、剣を振り下ろした。ザックリと、複数の薔薇の魔物を裂いた。

 キリが無いと思っていた当初より敵の数は減っている。聖女に気を取られて、核の魔物が新しい薔薇を創造していないからだ。倒した後の魔物らが二度目に立ち上がることは無い。

 不意に、聖女の声を聴いた。音量があまりにも小さくて何を言っているのかまではうまく拾えない。ひとつ宙返りをして、ゲズゥは魔物の攻撃をかわしながら体の向きを変えた。

 着地した途端、聖女が倒れるのを見た。

 魔物が四つん這いになり、倒れた聖女に近づいている。この展開はまずい。

 とりあえず駆け寄った。魔物の娘に斬りかかろうと構える。

 振り上げた腕が、空中で止まった。己の意思からではない。剣も合わせて茨に巻き取られ、身動きが取れないからだ。

 娘が、こっちのことはお構いなしに聖女の片手を持ち上げている。かじりつく気だろう。

 ゲズゥは舌打ちした。剣を離し、強引に腕を前へ引いて奪い返す。無数の棘が腕に刺さっているので、あっという間に右腕は赤い線だらけになった。

 そのままの勢いで、魔物の娘に体当たりした。


_______


 ゆっくりと目を開けた。

 視界も頭もぼんやりして、どこにいるのか感覚があやふやだ。もう一度目を瞑り、開けなおした。雨の止みかけた空には、白に近い灰色の、薄い雲がいくつも浮かんでいた。

 自分が誰なのか見失いかけて、焦りを覚える。とにかく急いで起き上がった。

「いたっ」

 何か重くて硬いものが胸元にぶつかってきた。それを視線で辿ると、銀色のチェーンで首にかかっているものだと知る。ペンダントに、そっと触れる。ひんやりとしていた。十字にも似た独特の形を指先でなぞると、自分が何者なのか徐々に思い出せてきた。

(そう、私は「彼女」の記憶に触れようとして――)

 ミスリアはこれまでの経緯を、順を追って脳内で再生した。救うために、対話しようと試みたことを。

 獣の怒声のような音に思考を遮られた。ミスリアは素早く顔を上げた。目の前で誰かが激しく取っ組み合っている。転がり、殴り合い、引っかきあい……。

 違う。よくみれば殴っているのは一方で、引っかいたり噛み付いたりしているのがまた別の一方だ。

 冷や水を浴びたかのような衝撃で、何が起こっているのか飲み込めた。

 ゲズゥが白髪の魔物に頭突きを喰らわせる。魔物は仰け反り、例の強烈に酸性な痰を吐いた。ゲズゥはそれを避けると、肘で娘の頭を殴った。二人はそうやって何度も攻撃の応酬を繰り返す。

 何か手助けはできないかと思ったはいいが、出たのは質問だった。

「……ゲズゥ! 黒髪黒目で、右目に泣き黒子がある女性に心当たりはありますか!?」

 意識が遠のいていた間に垣間見えた記憶を思った。

 返事は無かったが、彼は呪いの左目でミスリアを一瞥した。

「おそらくはその人の正体です! 彼女は長く存在し続けたのでいろんな人を取り込んでいますが、たくさんの記憶の中で一番強い想いは、子供に会いたいという願いでした! 祭の日に出かけて、いつまでも待っても帰ってこない子を!」

 取っ組み合いは尚も続いた。二人は見る見るうちに傷が増える。ミスリアは無力な自分が悔しくなった。

 魂を繋ぐ歌の効果はまだ残っている。しかし、魔物の方の意識が混濁しすぎているため、これ以上記憶を覗けないし、呼びかけても届きそうにない。

(祭の日に……村が襲撃されて……燃え上がって……)

 断片的に拾えた記憶は、人一人を発狂させるには十分なものだった。実際には、複数の人間の記憶を合わせて視たようなものだが。

 それが過去の出来事で、自分の身に起きたことではないのだと、幾度となく自分に言い聞かせて、ミスリアは震えを制御した。悪夢から覚めたような後味の悪さは残る。背中を丸めて、自分で自分を抱きしめた。

 ――彼女は絶望に沈みながらも、死ぬ間際までただただ子を想い続けたのだ。

 娘の横腹をゲズゥが蹴り飛ばした。娘は数ヤード吹っ飛び、地面に転がる。

 彼は片膝つくと、父親の形見である大剣を振り返り、次に無表情にミスリアを見上げた。

「………………母だ」

 驚きのあまり、ミスリアは声が出なかった。

「それは、俺の母親の、特徴だ」

「 では帰ってこなかった子供というのは……」

 ミスリアはおそるおそる訊いた。

「帰ってくるのが遅れて、戻ったら全部終わった後だった」

 ゲズゥはふいっと目を逸らした。

「二、三日留まって……魔物には一匹も出くわさなかったが……?」

 問いかけるように語尾が跳ね上がる。

 そこから、「再会」する機会はあったはずなのにそうならなかったのは何故か、という問いかけも含まれていたのを読み取った。

「亡くなった方が数日経ってから魔物として蘇るのは……割とよくあることです……」

 消え入るような声で答えたら、その後しばらく沈黙が続いた。起き上がろうともがく魔物の娘を、無言で見張っているだけの沈黙。

「あの、お母様のご遺体は……」

 確認しましたか、と訊こうとして、ミスリアは両手を握り合わせた。魔物は死んだ人間、つまり肉体から流離した魂をもとにしている。死したことが確実ならば、あの魔物の正体もより確たるものとなる。

 残酷な質問であることは重々承知している。けれどもゲズゥは確かに昨日、「自分の手で村人を埋めた」と自ら告白している。それならば、或いは――。

「見てない。村が半分以上焼け崩れて探しようも無かったからな。父親は、確かに死体を見つけたが、母のは、ない」

 体の向きを変えず、目だけを動かして、彼は答えた。話しながら次第に言葉が重くなっていくようだ。思い返すだけで相当気力を要するのだろう。

 その時、魔物が雄たけびをあげた。怒りが大気を震わせる。

 娘の腹部が歪に膨らんだ。横腹から更に腕を二本、脚を二本ずつ生やし、蜘蛛のような形になって身を起こした。無数の人面が体中に浮かび上がっている。

「さがれ!」

 ゲズゥがそう叫んだので、ミスリアは安全な場所を求めて後退った。

 彼は跳躍してきた蜘蛛を一度かわし、再び取っ組み合いになった。

(お母様があんなになってしまうなんて)

 残念ながら、話し合うことは難しい。言語能力の崩壊は勿論、彼女は己が数時間前に何をしていたのかすら記憶に無いぐらい、意識が混濁している。祭の日から既に十二年経っていることを、理解できるとは到底思えない。

 何とか彼女に言葉を届ける術は無いものかと、ミスリアは懸命に模索した。垣間見た記憶を辿って、ヒントを探す。

(あれ? 回想の中の彼女は確か両目とも黒かったよね?)

 今の状況に関係のない、別のことを思い出した。

 つまりゲズゥの母親は「呪いの眼」を持っていなかったのだ。一方で、薔薇をくれた男性の方はどうだったろうか。よくよく思い返してみれば、あの人の瞳は左右対称ではなかった気がする。更に思い返してみれば目元とかゲズゥに似ていた気がしてきた。

(あの人がお父様なら、ゲズゥの左目は父親譲り?)

 気にはなるけど、明らかに問い質している場合ではなかった。

 蜘蛛となった魔物が体格で勝り、ゲズゥを地面に組み伏せた。美しかった顔もでこぼこと変形してしまっている。真っ直ぐだった白髪は、一本一本が別の命を吹き込まれたみたいに、うねうね蠢いている。

 魔物は赤ん坊の頭を丸呑みできそうなぐらいに口を開けた。

 そうしてゲズゥの左肩から一口の肉を食いちぎった。彼は苦痛に耐えるが如く、歯を食いしばった。暴れようにも、両手両足が拘束されている。

 口に含んだ肉を飲み込むと、魔物は恍惚にとろけそうな表情になった。口元からよだれが垂れているのに、どういうわけか、あの酸は彼女自身にとっては無害らしい。

 よだれと一緒に、赤い液が垂れている。

 こんなになっても、彼女の内なる心の悲しい叫びはミスリアに聴こえていた。

 いくら食べようとも満たされることの無い虚しさ。空腹の所為じゃないのに、魔物たちはそれを自覚できない。

 もう余計なことを一切考えずに、ミスリアは動いた。


_______


 数秒間、頭の中が真っ白になった。

 肉を食いちぎられ、傷口に酸が塗り込まれた状態で何かを考えていられたらそれこそ異常かもしれない。

 すぐ近くに血塗れ(まみれ)の顔がある。

 自分はここで死ぬのだろうか、とゲズゥは麻痺した頭で漠然と思った。生を与えてくれたそもそもの源である母がそう望むのなら致し方ない、とも思う。長い間苦しめてしまったことを深く深く後悔した。

 魔物は片手を構えた。そのまま腹を刺されるのに備えて目を閉じたが――

「ダメです!」

 少女の声がしたと同時に、魔物の動きが止まった。

 目を開けると、聖女が後ろから魔物を抱きすくめているのが見えた。

 蜘蛛の魔物は腕一本を使って聖女の白くて小さい手を引き剥がそうとするが、よほど強く抱きついているのか、聖女の手はびくともしない。

「――彼こそ、貴女がずっと探していた人です! 帰ってきたんですよ! もう待たなくていいんです……!」

 聖女が泣き叫んだ。無駄なあがきに思えたが、あろうことか、魔物はまるで聞き入るように直立した。おかげで組み伏せられていたゲズゥは少しだけ息がしやすくなる。

「昨日は、懐かしいにおいがするって、そう言ったじゃないですか。思い出して下さい」

 ゆっくりと、そしてはっきりと聖女は言葉を紡いだ。魔物は首を回転させて、視線の先を聖女の顔に定めた。

「彼の左目を見て、仲間と呼んだのでしょう?」

 聖女にそう言われて、魔物は再び首の向きを変えた。首を不自然に伸ばし、ゲズゥに顔を近づける。気味悪く変形していた魔物の顔が元の美しく若い娘の顔に戻っている。

 魔物はこちらをまじまじと見つめてはにおいを嗅いだ。考え込むように眉根を寄せている。

「思い出しましたか?」

 魔物は返事をしたがっているかのように血に塗れた唇を動かした。

 が、声を出すことは無かった。

 唐突に、魔物が聖女の手首を引き寄せた。気を緩めてしまったのか、今度はあっさりと聖女の手が魔物の腰付近から離れた。

 少女の柔らかそうな肉付きの前腕に、異形のモノの牙が食い込む。

 聖女が悲鳴を上げた一瞬のうちに、ゲズゥは上体を起こしてすっと立ち上がり、腕を魔物の首に絡めた。片手を後頭部に当て、片手をうなじに当てる。第三者からすれば、愛しい者を抱き寄せる動作に見えたことだろう。手に触れた肌には何の熱も通っていなかった。

「……許せ」

 ゲズゥの静かな声に、魔物はぴくっと痙攣した。

「もっと早く戻っていれば気づいてやれた」

 魔物が顎の力を抜いて、聖女の手を解放する。

「弱かったから、二度と手に入らないものを求めたら、自分が壊れると思ったから、長い間逃げていた」

 奥に封じ込んでいた本心を吐露するのは、非常に疲れる。一言漏らす度に、ゲズゥは息を吸い込んだ。

 母の黒い両目が潤んだので、通じていることを知った。

「あの時一緒に居なくて、自分だけ運良く逃れて……罪悪感もある」

 ごめん、と小声で謝罪した。

 緑色の涙を流す母の瞳はいつしか正気を取り戻していた。

「待っててくれて――ありがとう」

 指でその涙を拭ってあげた時に初めて、自分の頬をも伝う温かさに気付いた。

 涙を流すなどあまりに久しくて、どういう感覚だったか忘れていた。

「もう十分だ。もう、楽になって、眠ればいい」

「ア……」

 魔物は何か言おうとして、急に呻いた。苦しげな表情になる。

「いけません! お母様の自我がまた埋もれます!」

 聖女が再度魔物の腹にきつく抱きついた。

 ゲズゥは一度目を閉じた。

 所詮は魔物は死人でしかないのに、何故話し合おうなどと聖女が考えるのか、今ならわかる気がした。

 せめて無に帰す前に何かしてやれたのだと、心だけでも救ってあげられたのだと、生きる側が感じたいからだ。そうしなければ、残された方がいたたまれない。

 死した者は地に還るべきであり、魔物という存在は異形でしかない。

 頭では、その事実を冷静に理解していた。後は、別れを受け入れるだけだった。

 目を開け、ゲズゥは魔物の首に両手を添え、力を込めた。

「――――やれ!」

 聖女に向けてたった一言を叫んだ。

 魔物が苦しそうにもがくが、ゲズゥは更に強くその首を絞めた。

 ゲズゥを見上げて聖女は頷き、聖気を展開した。

 音はしなかった。むしろ、静寂が広がったような感覚があった。周囲に漂っていた瘴気まで清まったようだった。

 魔物の青白いゆらめきと聖女の発する金色の光が交じり合う。

 象牙色の腕や脚、次に白髪が、順に銀色の粒子と化した。肌の表面中に浮かんでいた人面が安らかそうな表情に変わると、ひとつずつが鎮まり、消える。

 気付けば魔物は微笑みを浮かべていた。

 ゲズゥを真っ直ぐ見つめる黒曜石に似た瞳は、穏やかだった。


 ――大きく、なったのね――


 驚いて、手を放した。

 彼女は口を動かしていなかった。声は直接頭の中に響いているようだ。背後の聖女にも一度微笑みかけてから、ゲズゥを見上げた。


 ――逢えて嬉しいわ。生きててくれてありがとう。あんたはちゃんと長生きしなさいね――


 至福の喜びを見つけたみたいな顔をして、母は天へと消えていった。


_______


 核の魔物につられてか、他の魍魎も一斉に浄化した。銀色の粒が周囲に満ち、黒い柳の樹がそれらに照らされる。摩訶不思議だった。

 全身から力が抜けて、ミスリアは濡れた地面にへたり込んだ。長いため息をつく。

 少し離れた場所で、ゲズゥは直立不動で、空を見上げている。

 ミスリアも空を見上げた。すると灰色の雲がぐにゃりと歪み、渦巻いた――ように見えた。渦は一点に集結し、その一点がミスリアの足元にポトッと落ちる。拾い上げた。

 それは、手のひらにちょうど収まる大きさの透き通った石だった。心地良い重さと冷たさが手のひらから伝わる。ミスリアにとっては覚えのある物だ。

「この青水晶を使って封印していたのですね……。核の魔物がいなくなれば、自動的に解けるような仕掛けにして」

 ミスリアが呟くと、ゲズゥは振り返った。決して急がない足取りで、彼は近づいてくる。

「こんな高等な術を扱える人間は、教団の中でも限られています」

 ゲズゥは何も言わずにただ水晶に視線を注いだ。やがて飽きたように視線を外し、褪せた野原に仰向けになって寝転がった。

「つかれた」

 彼は短く吐き出した。きっとその一言に、多くの感想が凝縮されている。色々なことに対しての「疲れた」であろう。

「はい。お疲れ様です」

 ミスリアは水晶を懐へと大切にしまった。それが終わるとゲズゥの方へ這って近寄る。

 怪我をしていない方の自分の右手をかざして、ミスリアは聖気を展開した。全部の傷を治すほどの気力は残っていないが、治さないと絶対に悪化しそうな箇所をせめて集中的に治癒したい。

 ゲズゥは空を眺めるだけで大人しくしている。治癒が終わるまでの数分の間、二人は言葉を交わさなかった。

(この人は……)

 彼のふくらはぎの傷を治しながら、ミスリアは物思いに耽る。

(恐ろしい罪をたくさん重ねてきたけど……でも私には一つだけ、わかったことがある)

 チラッと、一瞬だけ彼の顔を盗み見た。涙の乾いた跡が薄っすらある。

(ゲズゥ・スディルこと「天下の大罪人」には、人の心が、紛れもなく有るわ)

 たとえその心が他人に向けられない種のものだとしても、少なくとも家族に対して、親愛の情を抱いている。それを発見できただけでも、どうしてか、ミスリアは安心できた。

 治癒を終えて、聖気を閉じた。その時を待っていたかのように、ゲズゥが起き上がる。ミスリアの真正面で胡坐をかいた。

 彼はミスリアの左腕をじっと見ている。先ほど噛まれたので、牙の痕から血が出ていた。皮膚も酸に焼かれて赤い。

 痛みは麻痺してきたので気にならないけれど、失血で頭がくらくらする。

「お前は治さないのか」

「それが、実は自分で自分を治せないんです。後でカイルに頼みます」

 腕を裏返したりして傷口をよく見てみたら、予想以上にグロテスクで、顔をしかめる。変な臭いもする。応急処置ぐらいするべきだと思った。

 指の腹に、ふいに温もりが触れた。吃驚して、反応が遅れる。

 ゲズゥはミスリアの手を握り、引き寄せては、前腕辺りを凝視した。勿論、その間も無表情でいる。

「放っておけば化膿する」

「は、はい、わかっています」

 ミスリアがそう返事をすると、ゲズゥはポケットから包帯を取り出した。剣に巻いていた包帯だ。手際よく、彼はミスリアの腕の手当てをし始めた。

「お上手ですね」

「慣れているだけだ」

 自分の傷の手当てで慣れているのだろうか。そういえば最初に会った時、傷跡だらけだったのを覚えている。

 包帯の感触が、なんだかくすぐったい。ミスリアはなんとなく気恥ずかしくなり、空の方へ視線を投げた。

 雲間からのぞく六色の弧に、思わず感嘆した。

「綺麗な虹です」

 ゲズゥにも見てもらいたくて、そう口にした。彼は顔を上げた。

 雨上がりの空から雲が次第に身を引き、それによって出来た隙間から見事な虹が伸びる。太陽が地平に潜りそうで潜らない、そんな時刻だからか、空は若干赤みがかっている。空はいつ見ても美しく、飽きないものなのだと改めて得心した。

 衝動的に、ミスリアは語りだした。

「……朝、最初に外に出た時に、冷えた空気を一息吸い込むでしょう? その瞬間、肺を通して体中に、たとえようのない感覚が広がるんです」

 ゲズゥは左右非対称の目を静かにミスリアに向けた。こう近距離で見つめられると何故だか緊張する。ミスリアは早口にならないように注意した。

「命を吹き込まれたような……とても言いようのない大切な何かを与えられたような……」

 巧い言葉が思いつかなくて、口ごもった。

「どうしてでしょう」

 独り言のように話し続ける。ゲズゥはというと包帯を巻き終わって、端と端を結んでいる。

「何だか、生きてて良かったって思うんです。この世界を経験できて、良かったって。自分を取り巻く何もかもに、ただただ感謝したくなるんです――」

 風が音を立てて吹き抜けたので、最後の方は多分かき消された。後に残った沈黙に、はっとなって、ミスリアは頬を赤らめた。

 おかしなことを言ってしまったと後悔する。咄嗟に俯いた。

「だからこそ、生きているっていうのは、それだけで手放しがたいんだろう」

 低い声で彼は意外な言葉を返してきた。あたかもミスリアの言い分に共感を持ったようである。

 どんな生き物だって、生きていれば死にたくないと願うのは当然だと、そう言っている風に聞こえた。

 ミスリアは相槌を打とうとして、結局黙り込んだ。

 食事をし、己が生き延びる選択をする限り、別の何かが犠牲になっているということで、それでも皆生きたいと切望するのは間違っていないのだ。ならば相克の末に残るものが、正しいのか。よくわからない。

 摂理は単純なものではなく、また別の機会に熟考したい問題だった。

 ふとミスリアは、手当てが終わったのに手がまだ掴まれたままだと気付いた。

 ゲズゥの無骨な手は温かくて力強くて、包まれている自分の指先からふわふわとした落ち着かなさが全身を伝う。

(そろそろ放して下さいって言ったら変かな……どうなの……?)

「なるほど、生身だな」

「はい??」

 何を言われたのかわからなくて、ミスリアは返答に困った。


_______


 人間かどうか疑うこともあれど、少女はたった今、普通の一般人と同じに怪我をして血を流したのである。

 ゲズゥは触れた手からその事実を確かめ、また、聖女の質量や熱をも確かめていた。自分が強く握るだけで、小さな白い手の中の骨は残らず潰れるだろう。少女の見た目通りの脆さを感じ取れる。

 それにしても、まったくどうでもいいことだが、滑らかな肌だと思った。自分のが厚くて硬くてザラついているから、余計にそう感じる。

「――――好きか嫌いかと問われれば、どちらかというと俺はお前が嫌いだが」

 ゲズゥはそのように発話した。

「うっ……それは、なんか、今まですみません……?」

 切り出し方からして決別を言い渡されると思ったのか、聖女は暗い声と表情で応じた。目を伏せ、長い栗色の睫毛を瞬かせる。

 別にこちらとしてはそんな予定は無かった。

 あまり深く考えずに、聖女の手を握り締めた。聖女は茶色の瞳を一層大きく見開いた。

「聖女、………………ミスリア。お前が母の魂を解放した恩を、今後忘れたりしない」

 その名を呼ぶのが初めてだったからか、音の羅列は舌に馴染まず、妙な感じがした。

 聖女ミスリアはまずきょとんとした。

 ゲズゥの言葉の意味を飲み込むまでの間が過ぎると、今度は会釈した。弾みで栗色のポニーテールが揺れる。

「どういたしまして」

 ミスリアはふわっと柔らかく微笑んだ。

 強く、手を握り返しながら。

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