09.

 聖堂を挟む両側の大きな窓から差し込む朝日に負けず劣らず、集う人々の雰囲気は明るい。一、二週間ぶりの再会を喜んで人々は言葉や握手や抱擁を交わす。一度席に落ち着いた者も、知り合いの姿を見かければ大声出してまた立ち上がる。

 どこの教会も紫期日なら、このくらい賑わうのが当然だ。

 皆、こぎれいに髪型や服装を整えている。女性ならパステルカラーの生地にフリルのついたドレス等が華やかで、男性なら金色ボタンの並ぶ高い襟のシャツが目に付く。とはいえ行き過ぎた煌びやかさはなく、謙虚な格好をした者ばかりである。

 ミョレン国に階級があるなら、今この場にいる誰もが庶民に違いない。多少無作法にも見えるが、堅苦しい礼節よりただ体温の交換を目的とした挨拶には好感が持てた。

 聞いた話では、大半以上の参拝者は湖を囲った隣町から来ているらしい。ほかは、近隣の集落や小さい村からわざわざ典礼のために通う人間がほとんどだ。彼らは自分たちの教会が無かったり、司祭以上の位を持った人間が町からいなくなったりしたのが理由でここまで来ることになる。思えばヴィールヴ=ハイス教団は万年人手不足であった。

 決して豊かとはいえない暮らしの中で、彼らにとって典礼は精一杯働いた一週間を労わる特別な潤いだ。同時に、これからの一週間を迎えるための元気付けでもあった。

 たとえ国政があやしかろうが疫病が流行ろうが、神の愛と慈悲を信じる民ならば健気に通い続けるものだ。いや、むしろ不穏な世の中だからこそ祈祷したいのだろう。

 まだ始まるまでいくらか時間がある。

 正装した可愛い子供の兄弟が通路を走りぬけ、間もなくして最前列に座した母親に叱責を受ける。

 入り口付近に立つ聖女ミスリア・ノイラートは、その様子に自然と頬を緩ませた。たくさんの人のざわめきを意識からやんわりと除去しながら、もう一度聖堂を見渡す。

 身廊の右側。前から五列目の真ん中辺りに、その姿を見つけた。祭壇に近づきすぎず、さりとて離れすぎず。その列には、通路側に若そうな夫婦が一組座っているが、他には亜麻色の後ろ頭の青年一人しかいない。

 どうしてか、そこだけ空気が違うように思えた。

 青年は紙の束の上に、白い羽根ペンを滑らせている。右手ではなく左手を使って左から右へと字を連ねるのは苦労しそうなものだが、青年は難なく書いてみせていた。

「聖女さま、おはようございます!」

 中年男性にすれ違いざまに礼をされた。男性式の、片腕を腰近くで折って前にお辞儀をする形である。

「おはようございます」

 ミスリアは笑顔を浮かべて礼を返した。女性式の、両手でスカートを広げる形だ。

 既に本日八度目である。聖女の純白の衣装は人の注意を引きやすく、また、こんな地域に聖女が姿を見せるのも滅多に無いのか、珍しがって話しかけてくる人は多い。その都度なんとか深く訊き込まれないようにのらりくらりとかわしている。

 人と人の間を抜けて、ミスリアは五列目まで歩み寄った。

「カイル」

 自分と似通った白装束を着た彼に声をかけた。

「ああ、おはよう、ミスリア」

 まるでそれが定まったひとつの流れだったみたいに、聖人カイルサィート・デューセは右手でサッと紙束を半分に折って祈祷書の中に挟み、左手で羽根ペンをインクボトルにさしてボトルごと床に置いて仕舞い、そして頭を振り向けた。

「隣座る?」

 いつもの笑顔だった。優しげな目元や琥珀色の澄んだ瞳からは、何かを隠そうとしている心の翳りが表れていない。

 気にはなるけど、ミスリアは友人に追究しないことを選んだ。誘われたままに彼の隣に腰をかける。

「そういうところ変わりませんね」

 少し笑い、首を横に傾げた。

「ん? どういうところ?」

 カイルが話しながら口元を吊り上げる。

 う~ん、と口に手を当てて考え込んでからミスリアが答える。

「ほどよく人と距離を取っているところでしょうか」

 彼が選んだ座席について言っていた。それから、知り合いも多いだろうに誰とも会話せず、誰をも近寄らせなかった点か。

 書く作業を進めるためにたまたま今日はそうだったのかもしれない。しかしミスリアの記憶の中のカイルも、いつも程よい席を取っていたのだった。

「ああ、そういうことね」

 すぐに思い当たって、カイルがゆっくり頷く。

「ミスリアも昔からそんな感じだったよ? 他人と一線画したみたいな接し方」

「う……」

 言い当てられて、ミスリアは口ごもった。

「まあだからこそ、僕らは友達になれたんだっけね」

 やはりカイルは爽やかに笑うのであった。釣られてミスリアも笑う。

 演壇の前に神父アーヴォスが立ったので、聖堂は静まりつつある。

 神父は暖かい笑顔で両手を広げ、挨拶の言葉を並べた。それが済むと演台の上で本を開き、創世記の一節の解釈を朗読し出した。

「神々が訪れる以前の大陸は岩だけのただの荒野でした。『固体』や『液体』や『気体』という性質こそ存在したものの、物質がそれらの間を自然に行き来することはなかったのです。

 太陽、月、星の動きなどが大陸に影響をもたらすこともありませんでした。

 『時間』や『進化』といったいわば直線的な変化も存在しなかったのです。時はただ延々と輪の上を走り続けるのみでした。

 ある時どこからかまったく新しい存在――神々が、大陸を訪れました。数は判然としません。彼らはそれぞれ別個の存在だったかもしれませんし、皆どこかしら繋がって連なっていたかもしれません。神々は普遍的な大陸にて精神体しか持たなかったのですが、それでも世界の有り様に作用する強大な霊力を有していました。

 彼らは大陸に『水』そして『空気』を賜り、『はじまり』と『おわり』という概念をも具現化しました。

 すぐさま大陸は変わりました。

 いつしか命が芽吹き、進化という道のりをたどり始めました。微細なる生物から始まり、植物や動物へと分岐しました。

 そうして人間なる種が世に現れてまもなく、神々は地上を去ることを決めたのです。彼らは過程を見納めたことに満足したのかもしれません。次なる大陸を潤しに向かったのかもしれません。

 何であれ神々は次々と天へ昇り、我々人間には想像もつかないような別の世界へと旅立ったのでしょう。

 しかし神々は地上を見捨てられたのではありません。

 天には、神々へと続く『道』が残っています。それは生きた者の肉眼に捉えられないような道です。更には肉体の死を経て人間もまたその道を目指せるように、神々は地上に聖獣を遺されました。

 世界の清浄化をして下さるだけでなく、ちっぽけな私たち人間の魂を神々の元へと導いてくださるのもまた、大いなる聖獣なのです」

 神父アーヴォスは演台の上でそっと本を閉じた。

 典礼の始め方において、司祭がどんな話をするのかはそれぞれの自由であった。今日は聖獣が創世記に登場する辺りまでらしい。

「偉大なるその存在を今ここで讃えましょう――」

 讃美歌の合唱が始まった。毎週ボランティアで何人か、ローテーションでそれをリードするのである。黒い服を着た五人が一列に並び、一章目を歌う。

 皆がベンチの背の物入れから、小さな薄い本を出してそれを開く。ミスリアもカイルも、讃美歌集を開かなくても暗唱できるので動かない。

 ハープの音だけを伴奏に、声が重なる。

 天井の絵画から、かの聖獣が見守っているような錯覚を覚えた。

 聖堂の中に居る百五十人近くの人間が、讃美歌を通して一体になる。

 ミスリアは目を閉じて、その感覚に身をゆだねた。


_______


 典礼も終わって、人々が中庭でくつろいでいる。

 パティオには飲み物やお菓子が用意されたテーブルがある。そのテーブルを囲って人々が立ち話をしている。

 ミスリアとカイルは群れから外れた木陰で、談笑していた。

「そういえば護衛の彼は? 朝から見ないけど」

 林檎ジュースの入ったティンカップを口元から離して、カイルが訊ねる。

「……どこかの樹の上じゃないでしょうか」

 知り合って数日、彼が昼寝と木が好きということだけはわかった。

 加えて護衛としてあまりミスリアから離れないという点を守る気もあるらしく、罪人という身分でひとり無一文でうろついたりしないぐらいの常識も持ち合わせているのは間違いない。

 ふーん、とカイルは一口ジュースを飲んだ。そういえばさ、と話題を変える。

「昨夜は驚いたよ。今までもあんな感じで密着してきたの?」

 カイルは何かを抱え上げる動作をパントマイムした。その意味を理解して、ミスリアが青ざめる。

「み、密着……!? あれは私の足が遅いからああしたほうが効率がよくて……確かに、何度か運んでもらってますが、そんなわけじゃ――」

「そうなの? 何度か抱き上げてもらってるんだ?」

 カイルがくすくす笑った。

「からかわないでください……」

 体格差を思えばどちらかというと大人が子供を腕に抱くようなものだった。それでも実際は青年と少女なのでまったく無害な行為ということにもならない。

(考えないようにしてたのに……)

 ミスリアは苦笑した。

 その時、二人の子供が不安げに歩み寄ってきた。揃って薄茶色のくるくる巻き毛をした兄妹だ。

「あの、聖人さま」

 十歳ぐらいの兄がおそるおそる声をかける。その背に、やや火照った様子の妹が隠れる。

「どうしたの?」

 カイルは子供たちに柔らかく笑いかけた。

 一人喋りだした兄によると、妹がこの頃風邪っぽくて困っているという話だった。親は畑仕事で忙しく、医者を呼ぶお金も無いとか。ここの教会に来ればどんな病気も無料で治せる聖人に会えるという噂を聞きつけて、典礼の日に合わせて離れた村から訪ねてきたらしい。

「遠路はるばる頑張ったね。いいよ。ちょっと、じっとしててね」

 すぐにカイルは聖気を展開した。妹の額にそっと手をかざし、暖かい金色の光の帯で包む。妹はやがてまどろみ、目を閉じた。五、六歳ぐらいの女の子の小さな体をカイルは腕で支えた。

「もう大丈夫。中で少し寝かせようか」

「あ、ありがとう! ありがとう、聖人さま!」

 妹を腕に抱えたカイルの後を追って、兄の方は小走りになる。

 微笑みながらミスリアは三人を見送った。

「すみません、聖女さま」

 いつの間にか横に来ていた、猫背で細目の中年女性が申し訳なさそうに言う。まっすぐな金と銀の入り混じった髪を後頭部の上のほうにだんごにまとめている。

「こんにちは。何でしょう?」

「実は膝の調子が悪くて……みてはもらえませんか」

 ミスリアは快くその頼みに応じた。

 女性の膝を治したら、またいつの間にか治してほしい怪我があるという誰かが現れた。その後もまた誰かが治してほしい箇所があると申し出て、あっという間に列が出来上がっていた。

 戻ってきたカイルも参戦して、気がつけば二人は日が傾くまで治癒を施し続けた。

 最後の一人が帰ったところで、二人はパティオの椅子に深く腰を掛けた。テーブルの上のお菓子や飲み物はほとんどなくなっている。神父アーヴォスは教会の中に入って、中庭は今や無人だ。

「いつもこんなことをするんですか……?」

 すっかり疲弊しきってミスリアが訊く。

「そんないつもってわけじゃないけど、割とね、ふとした流れでこうなることもあるよ」

 カイルが木版を使って汗ばんだ顔をパタパタと扇いでいる。確かに今日は外が晴れて暖かかったので、長袖の白装束を身に纏っていた彼には暑いだろう。ミスリアだって長袖なので暑い。

「昨日の今日で疲れてるよね、ごめん」

「カイルが謝ることじゃありませんよ。楽しかったです」

 頬にくっついた髪と白ヴェールを手でどけて、ミスリアは笑ってみせた。

「それはよかった」

 なんとなく二人は黙って空を見上げた。

 薄紫と茜の織り成す見事な色合いに、感嘆するほかない。明るいのに空には影がかかっているように見えて、不可思議な光景だった。

「…………最近考えたのだけど」

 カイルは視線を空に向けたまま、静かに発話した。

「はい?」

「戸籍や出生証明書という制度はまだこの大陸では主流じゃないんだよね」

「そうですね」

 あまりに突然の話題に、ミスリアは驚かない振りをして相槌を打った。視線は同じく空に注がれたままである。

「僕らの生きる社会では、よほど名の知れた人物が被害者でなければ政府が『殺人』として罪を咎めることもないね」

「そう、ですね……?」

 話についていける自信をなくして、ミスリアの語尾がひね上がる。

「『天下の大罪人』はね」

 しばらく誰も使わなかったその単語にミスリアは絶句した。

「確認されてるだけで犯した殺人は二十五件、証拠不十分とされているのが十八件。知られていないだけで他にもあるだろうね。小国ひとつ滅ぼしたって噂もあるし」

「それはただの噂でしょう!」

 知らずミスリアは声を上げていた。近くでたむろしていた雀たちが驚いて飛び去る。

「うん。でも、これは考慮すべきことだと思う……」

 カイルのほっそりした輪郭が陽を浴びてほんのり赤い。琥珀色の真剣な瞳が鮮やかだ。

「名の知れた人物とは簡単に言えば誰が浮かぶ?」

「え……重要な役割の人間や、上流階級とかですか」

 平民以下と違って、貴族の出である人間は赤子が一人欠けても大事になる。

「そう。さて、彼が暴挙の限りを尽くした相手は果たしてお貴族様や将軍ばかりだろうか。平民や庶民、または奴隷階級になら悪事を働いたか、否か? 特定な人物にのみ非道であったのか? 現時点では情報が足りないからどうとも言えない。でも、それらの事実が何であるかによって彼の人格はまったく別の解釈を要すると思わない?」

 そこでカイルはにっこり笑った。

(まったく別の解釈って何だろう?)

 ミスリアは頭を抱えて考えたが、難しくてわからなかった。

 聖人・聖女としての実力とは無関係に、自分よりカイルの方が頭がいいとは常々実感していたことである。いや、自分の方が至らないだけなのだろうが。

 考えようとしても、頭が益々こんがらがるだけだった。


_______


「会ってみて、イメージと全然違ったのは認めるよ。そこはミスリアの見込んだ通りだね」

 どっちみち調査報告書の類から誰かの人間性を読み取ろうなど無理だったのだ。

 カイルサィートは立ち上がり、背伸びをした。

「そう思いますか?」

 ミスリアは何故か訝しげだ。

「彼が君の身の安全……というより命、を守り抜くだろうことに関しては心配してないよ。ほかに心配事は色々あるけどね」

 そのほかの心配事を口にすべきかどうか決めかねて、カイルサィートは隣の椅子に座る少女の反応をうかがった。

 ミスリアは椅子の端を両手で軽く掴んで、首をかしげただけだった。思い当たる節が無いようだ。

(教団内で育った女の子ってどうしても異性に対して警戒が足りないな)

 本当に誰も指摘してやらなかったのだろうか。その場にいなかったのだからわからない。

 ミスリアがようやく上の方にこの案件を持ちかけた頃は自分も仕事で忙しかったし、まともに別れを言う間もなく道が分かたれた。

(教皇猊下が許可を出したからいいのかな……いやでもあの人はちょっとアレだからね……)

 カイルサィートは一人でうんうん頷きながら腕を組んだ。

「そこら辺、君はどうなの?」

 背後に向けて問うた。

 返ってきたのは冷淡な声だった。

「幼女に欲情するほど女に不自由した人生を送っていない」

 にべもなく彼は言う。

 ほんの数分前に、ゲズゥ・スディルが音一つ立てずに近づいてきたことにカイルサィートはどことなく気づいていた。たまたま彼が目にも留まらないような小枝を踏んだからであるが、ミスリアにはそれが聴こえなかったらしい。背もたれに寄りかかって、彼女は振り返った。

「あれ、お帰りなさい……って、十四歳は幼女じゃありません!」

 最初は驚いて挨拶しだしたのが、言われたことを思い出して怒りを覚えた、といったところだろうか。彼女にしては珍しくぷりぷりした。

「欲情してくれなくて結構です。そういうのは恋人相手にするものでしょう」

 言葉の意味を真に理解しているのか怪しいな、とカイルサィートは思った。

 ゲズゥは首をならすだけでそれ以上何も言わない。

 彼は袖なしの黒いシャツと膝上までのズボンに、裸足という身軽そうな格好をしている。濃い色の肌を、汗が幾筋も伝う。

「それはそうとどこ行ってたの?」

「……走ってた」

 ゲズゥは裾を使って顔を雑に拭いている。

 ――なるほど、活発で何よりなこと。汗の量や服の汚れや足の細かい生傷から見て、一体何時間走っていたのやら。羨ましい体力だ。

 対するカイルサィートは剣の稽古をあまり定期的にこなさず、筋力も鍛えていない。純粋に感心した。たとえ実際は運動していたのではなく、どこかの様子見や情報収集やその他の可能性が真実であっても。

 夜の訪れも近いので庭の片付けを始める。ミスリアがテーブルの上から食器や容器を中へと運ぶ。ゲズゥと二人残されたカイルサィートは、テーブルの一端に立った。持ち上げるのを手伝うように頼むと、無言でゲズゥは応じた。

 二人の間に頭一個分に近い身長差がある。それを持ち上げる高さを調整して巧くカバーした。庭から出て玄関を回り、テーブルを教会の中の物置へ収めた。

「さてと。今晩は子供たちを泊めるし、ゆっくり休息しよう。明日は買出しに隣町に出向くと思う。また忌み地へ入るなら明日以降だね」

 掃除も終わり、食器も洗い終わった頃にカイルサィートは言った。隣でミスリアは皿を拭い、テーブルに向かってゲズゥは風呂上がりに林檎ジュースを飲んでいる。

「君たちは……どうしようかなぁ」

「と言いますと?」

 最後の一皿を拭き終わって、ミスリアがそれをカイルサィートに手渡す。

「湖の町に関わらない方がいいって言ったの、理由はいくつかあるんだけど」

 カイルサィートは渡された皿を頭上のキャビネットの中にしまった。

「たとえば国境で会った女騎士さん。あそこも彼女の管轄内でね、また会ったらややこしいことになりそうだな……」

 女騎士の下品な笑い声を思い出して、やれやれ、とカイルサィートは大げさにため息をついた。


_______


 誰の話なのかすぐに思い当たってミスリアはあからさまに嫌そうな顔をした。別段、カイル自身に非があるわけでもないのに一歩後退る。

 ゲズゥは思い出そうとしてか一度目線を右上に泳がせ、次にジュースを飲み干した。

「……笑いながら俺を刺した女か」

 さも大したことない縁であるかのように彼は無機質にその言葉を連ねた。

「うんまあ、その人で間違いないよ」

 カイルは小さく笑ってキッチンカウンターでジュースを二人分、ティンカップに注いだ。掃除をし出した時に着替えた、簡素な水色のシャツの袖を捲り上げる。

「彼女――シューリマ・セェレテ卿は第三王子派の中でも特に過激だよ。あの時は教団を引き合いに出して追い払ったけど、今後も気をつけた方がいいね。買出しは僕だけで行くよ」

「はい……」

 ジュースの入ったカップを受け取り、ミスリアはゲズゥの右隣の席に座った。

 教団との関係が薄い国であるゆえに、ミョレンの王位争いの概要をミスリアは詳しく聞いていない。中でも、王のいない状態で後継者がどのようにして決まるのかなどどうにも思い至らない。そこに長い間、政を放置していい理由が果たしてあるのか。

 国民が現在の体制に不満を抱くのは当然といえる。一方で、今朝の典礼で会ったやたら明るい人々は政府の存在を丸ごと忘れようとしてる風にも見えた。

「忌み地の浄化が済んだら発つでしょ? 引き止めて悪いね」

 カイルも椅子を引き、テーブルに向かって座る。

「引き止めただなんて、そんなこと無いです。私にとっても貴重な経験になります」

 かぶりを振った。よかった、と笑ってカイルはカップからジュースを一口飲む。

 ミスリアが隣のゲズゥを一瞥する。

 彼は肘をテーブルにつき、顎を手の甲に乗せて支え、またしてもどこを見てるのかわからない目を、ガラス張りのドアの向こうの中庭へ向けていた。外はもう薄暗い。

 「呪いの眼」の一族の村と最も関係が深いゲズゥが、一連の展開をどう思っているのか尚不明である。最初は足取りが重そうだったのに途中から走り出したり、ずっと口が堅いのかと思えばサラッと恐ろしい過去を語ったり、一体どういう気持ちでいるのだろう。本人にすら把握し切れてないのかもしれない。変わり果てた故郷がその目にどう映る?

(本当は向き合いたいのかしら)

 どんな人間にとってもそれは勇気の要る行為だった。嫌な出来事や記憶であればあるほど、苦難だ。特に子供の頃の記憶なんて、古過ぎてそれこそ強い感情と結びついたエピソードしか残らない。

「ところでミスリア、最初の巡礼地の位置は確認した?」

 カイルの問いかけにはっとして、ミスリアが右を向く。

「はい、確か山脈を越えた先の町にあるんですよね」

「うん。ミョレンを西に抜けないといけないし、まだ先は長いね」

 他国の内情に巻き込まれてうっかり足止め食わないように、とカイルはやんわり忠告してくれた。

 ミスリアは頷いて、両手で包んだカップの中をじっと見つめた。黄金色で半透明な液体の表面が揺れる。

 わかっている。これは巡礼地までの単なる通過点に過ぎない。

 始まったばかりのこの旅の最終目的は聖獣を眠りから蘇らせることだ。決して世直しの旅ではないし、自分なんかにそんな大それた真似が出来るなどと自惚れていない。ミョレン国の民がどういう生活をしていようと、少女一人に手伝えることなど限られている。

 少なくとも頭の中ではそういう理屈で片付けていた。

「………………山脈……」

 ぼそっとゲズゥが呟いた。他にも何か声を出していたが、聞き取れなかった。

「はい?」

 ミスリアが訊き返しても、ゲズゥはテーブルの上の燭台を眺めるだけで返事をしない。

 短い沈黙の後、カイルがまたジュースを飲んだ。ミスリアも真似をする。

 酸味の強いアップルサイダーと違った爽やかな口当たりと味わいがあって面白い。これは近頃アルシュント大陸各地で流行り出した、加熱殺菌法や濾過の結果だろう。

「ジュース美味しい? 隣町からのお客様の差し入れだって」

「はい、甘くていい香りです。この季節に林檎って珍しいですね。秋が収穫期だったはずでは」

「巨大な地下保管庫があるんだよ。いい感じに冷えるから色んな食べ物が季節遅れで食べられるよ。林檎は果物の中でも冷やしたり乾かしたりすれば特に日持ちがいい」

 なるほどそういうやり方があったとは知らなかった、とミスリアは納得した。

 ふとカイルが腕時計を見た。

「僕はあの兄妹の様子を見てくる。君たちも夜更かししないようにね」

 ゲズゥの肩を一度ぽんと叩いてから、カイルは廊下の方へ歩き出した。と思ったら、ぴたっと止まって振り返った。

「そういえば『現代思想』の最終巻が出たけど、読んだ?」

 カイルの話題転換の唐突さにそろそろ慣れてきているとはいえ、これはまた一段とわけがわからない。確か有名なノンフィクションの本のタイトルだったか……。

「いえ、そのシリーズは私には難しすぎて読んでません……」

 タイトルからして、そんなコアな本を理解できるほどミスリアは哲学の勉学に励んでいない。

「教会の書斎に全六巻揃ってるから暇を見つけて目を通してみるといいよ。今は叔父上が使ってて書斎に入れないけどね」

 手をひらひら振りながら、カイルはダイニングエリアを去った。

 理解できないから読んでいないといってるのに何故か彼は強引に勧める。

 ミスリアは首を傾げた。今のやり取りは一体何だったのだろう。

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