08.
ひと月に三十日数えるうち六日を一週間と呼び、つまりひと月に五週間ある。虹の六色に合わせてそれぞれの日を順に赤期日、橙期日、などと呼ぶ。一週間のうちに正式な休日は最後の紫期日だけであり、重要な祭事はその日に当たることが多い。
曇っているけど割と明るい、青期日の正午。
カイルサィート・デューセは左手でコーヒーマッグを口に運びながら、目の前の二人の様子を不思議に思っていた。
(これはきっと、昨晩何かあったんだろうね)
ダイニングルームにはぎこちない空気が漂っている。カイルサィートの向かいの席に俯きながら黙々と昼食を平らげる小柄な少女がおり、キッチンの方には同じく黙々とサンドイッチを食べる長身の青年がおり、二人ともまったく目を合わせようとしない。
もとよりそんな雰囲気のゲズゥ・スディルはともかく、ミスリアまで無言なのは珍しい。
「ところでミスリア、旅立つ前にちゃんと成人式を挙げた?」
カイルサィートは当たり障りない話題から攻めた。
呼ばれて茶色ウェーブ髪の少女は顔を上げた。白いきめ細かな肌の顔の中にあるくりくりとした茶色い瞳が、手元の麦スープからカイルサィートへと視線を移す。
「あ……はい。故郷にて済ませてきました」
アルシュント大陸では男性は十五、女性は十四歳で成人式を挙げるのがしきたりである。ミスリアは今年の春頃にその歳を迎えた。
ミスリアの護衛のゲズゥが動きを止めたのを、カイルサィートは目ざとく捉えた。会話に聞き入ってるためか、手がサンドイッチの最後の一口を持ったまま空中にて固定されている。きっと、己が同行している少女の歳を知らなかったのだろう。驚いているのかもしれない。
「ご両親、元気にしてた?」
「はい。お父様もお母様も変わりなかったです」
ミスリアは少しだけ顔をほころばせた。
「そう、それはよかった。しばらく会ってなかったんだよね」
十四歳の少女が世界のために人生を丸投げするなんて普通ならおよそ考えられない話だが、聖女ミスリア・ノイラートの決心の固さを、カイルサィートは良く知っていた。
「はい……」
その後しばらく、二人で他愛無い世間話のようなやり取りを続けた。会わなかった数ヶ月の溝を埋めるように。
昼食もほぼ食べ終わった頃、ふとミスリアが訊いた。
「カイルこそ、昨日はどうでした? 隣町の流行り病はおさまりそうですか?」
「そうだね……」
問われてカイルサィートは笑顔を作った。なんとなく、壁の時計を確認する。
「まだアーヴォス叔父上は参拝の方と会っているし……」
意味ありげに聞こえるような言い方を選んでしまったか。ミスリアは話に置いていかれたかのような顔をしている。
「神父アーヴォスですか?」
「あの男が何かしでかしたのか」
唐突に会話に割って入ってきた低い声に、カイルサィートは驚いて振り返った。いつの間にかゲズゥがダイニングテーブルのすぐ傍に来ている。
「何かしでかしたのかって――君は叔父上をどう思っているのかな」
そんな失礼な言い方しなくても、と困ったように注意するミスリアを片手で制して、カイルは煽ぐように聞き返した。
純粋な、興味からである。この青年になら何が見えたのだろう?
「…………別に。単なる勘。あの男の目には、欲望の色が映っていた」
「欲望の色か。的を射ているね」
ほんのちょっとしか会ってないのによくそこまで読み取れたものだ。感心に何度か頷いてから、カイルサィートは次の言を紡いだ。
「今夜の忌み地行きを思えば、叔父上にはまだ味方としていてもらった方がいいんじゃないかと思う。僕が疑惑を持ち、考察し、調べ上げた案件についてはその後話し合おう」
なるべく深刻な空気にならないようににっこり笑って言ったのだが、逆の効果を得たようだ。
ゲズゥは警戒を込めて両目を細め、ミスリアは疲れたような傷ついたような苦しげな表情を薄っすら浮かべている。
食後の片付けを終えて、カイルサィートはいつもの散歩に出かけるつもりで軽く身支度をした。七分袖のシャツを選び、多少汚れても気にならない薄茶色のズボンに着替える。ベルトを締め、剣を提げた。
ずっと屋内に篭るのもよくないし、ミスリアとゲズゥも一緒にどうかと誘ったら、二つ返事で快諾された。
_______
「ここを進めば十五分くらいで隣町につくよ」
「意外と近いですね」
ミスリアが目に手を翳して辺りを見渡した。
隣のカイルが左手で指差す坂を下った先には、確かに十五分歩けばたどり着ける距離に町があった。数多くの建物が湖を囲うようにそびえる。湖面に、藻の緑色が浮かんでいるのがここからでもわかる。時折吹く風が波紋を作り、風がやめば波紋も次第に凪ぎ、そしてまた風が吹く。
一見、のどかな風景に思えた。
けれどよく考えればおかしい。午後のこんな早い時間に、人っ子一人として街中を歩いていない。
「下りて、様子を見たいとか思ってる?」
「え」
思考を読まれた驚きにミスリアがカイルと目を合わせた。普段どおり明るい琥珀色の瞳はそれでも普段より真剣だった。
「やめたほうがいい。関わらないのが身のためだよ」
有無を言わせぬ声色だった。
「でも……」
困っている人たちがいるのに見て見ぬふりをするなんてできない、と言おうとして呑み込んだ。
ミスリアは目をそらした。すると、数歩離れた位置から二人をじっと観察しているゲズゥの姿を見つけた。シャツの色以外はカイルと似た服装で、長剣を背負っている。彼の視線の先を注意深く探してみると、それが自分ではなくカイルに向いているとわかった。
何を見定めているのだろう。
「君が気にすることじゃないよ。あの町や病のことは僕に任せて、ね?」
「――そうですね」
視線を戻して、ミスリアは笑みを返した。確かに、旅人の身で他国の面倒ごとに巻き込まれても仕方ない。部外者がいきなりどうするよりも、町人と交流を持ち続けてきたカイルたちが動いた方が得策といえよう。
ふと何かが引っかかったので、ミスリアは思考を巻き戻した。
(僕らに任せてじゃなくて、僕に任せて、って言ったってことは……神父アーヴォスの立場は一体……? 湖の町の人たちは神父アーヴォスが受け持つ教会で参拝するんじゃないの?)
家族間の関係に口を出す気は無いが、これではカイルが叔父を信用してないとも解釈できる。先ほど言っていた「案件」に関連してそうだ。説明を待つしかないとわかっていても、気がかりだ。
そろそろ引き返そう、とカイルが提案したのでミスリアも歩き出した。ゲズゥはさっさと先を歩いている。
「足元、気をつけてね」
「ありがとうございます」
差し出された手を取った。
石や動物が掘り返した土などによってでこぼことした地面は、慣れないミスリアにはバランスが取りにくい。手を引かれて、そっと歩を進める。
「明日は紫期日……週に一回の典礼の日か。欠席したらまずいな」
半ば独り言のように、カイルが呟いた。ミスリアの手を引いたまま、どこか遠くを見ている。相槌を打つべきか迷う。
「今夜――何年もあった「忌み地」をいきなり僕らだけで収束させられるとは思ってないから。あんまり気張らないで、危険そうならすぐに逃げるからね。まずは様子見から」
振り向きざまの気を遣うような優しい微笑みに、ミスリアは自然と微笑み返して承諾した。次にカイルは前方のゲズゥに訪ねた。
「君もそれでいいね?」
カイルの呼びかけにゲズゥはゆっくり振り返り、うんともすんとも言わずにただじっとこちらを見た。
黒曜石の右目と呪われた左目には、何の感情も映っていなかった。
_______
その土地には百人程度の村民が寄り添って暮らしていた。
始祖たる数人が林の隣に家を建て、次第に林が広がっていったので、いつしか村まで木々に囲まれた。村民は木材の精製を生業とし、徐々に数を増やしながらひっそりと暮らし続けた。
多くを望まず、社会から隔絶された状態を受け入れたこの村民こそが、「呪いの眼」の一族。
――既に過ぎ去った日々のことだ。
今のその土地を前にして、ゲズゥは胃がムカムカするのを止められずにいた。
「やっぱりやめますか……?」
右隣に立つ聖女が覗き込む。心配そうな表情だ。不快感を顔に出したつもりはないが、気配にして発しているのかもしれない。
聖女の右側には聖人と司祭が立っている。互いに話をしていてこっちの様子に気づかない。
聖女の問いに、首を横に振った。ふと口の中に鉄の味がしたと思ったら、どうやら千切れるほど唇を噛んでいたようだ。
気を紛らわせようとしてゲズゥは松明を高く持ち上げた。
数歩先に大きな銀色のゆらめきがある。特定の空間全体が霞んで揺らめいている感じだ。実際に目の前にあるのは宵闇に佇む木々などだろうが、肉眼にそういう風に映らないのは、おそらく「封印」とやらの影響だろう。教会の周りにあった目に見えない「結界」とは性質が異なるものらしい。
「ここを少し右に回れば綻びがあります」
司祭が手持ちの松明で指した。封印を完全に解くことは施した本人でなければ難しいから、綻びを見つけてそこから入り込もうという話だ。
ゲズゥ以外の三人が職に見合った正装をしている。動きやすさの問題より、気を引き締めるためにそうしていると考えられよう。
風の強い夜だった。しかし風の音を除いた辺りの妙な静けさがどうしても気になる。全員は静かに慎重に進んだ。
先頭を歩いていた司祭と聖人がはたと歩を止めた。
「これだね」
白装束を着た聖人が振り返って確認すると、司祭が頷く。
眼前の銀色のゆらめきに、横幅2フィート縦幅1ヤード程度の一つだけ浮いた箇所があった。眼を凝らせばそこだけ霞みも揺らめきもなく、はっきりとした景色の欠片が見える。
宵闇を背に佇む物は、丸い樹ではなく角ばった人工的な何かだった。かつては地面に垂直に建ち、建物の屋根を支えた柱の一つだったのかもしれない。
「では私が亀裂を人一人通れる大きさに広げます。ですが私は中には入らず、ここの出入り口を守ります」
司祭がしっかりした声音でそう告げた。
「お願いします……魔物が漏れたら大変ですものね」
聖女が軽く頭を下げた。レースに縁取られた白いヴェールが揺れる。スペアを持っていたのかそれともどこからか調達したのか、最初に出会った頃に被っていたものと瓜二つだ。
「お任せください。どちらにせよ私が一緒に赴いてもあまり役に立たないでしょう。最低限の護身術しかこなせませんし、聖気も扱えませんから」
司祭の言葉と笑顔の裏に、何か卑屈な感情が潜んでいそうだとゲズゥは思った。しかしそれは今考えるだけ無駄。
「今日は隣町から魔物狩り師も呼んでないしね。ミスリア、準備はいい?」
「私は……」
聖人に訊かれて、聖女が言いよどんだ。まるで話を振るように、こちらを見てきた。
「役割なら果たす」
もしも危険に陥ったら護衛としてちゃんと守ってやる、という意を込めて言った。聖人に関しては特に助けるつもりは無いが、聖女との取引は別だ。
「ありがとうございます」
ふわりと聖女が微笑んだ。
いっそクセなのかと疑うほど、聖女はよく礼を言う。この微笑みとてクセのようなものに違いない。
話がまとまったところで、全員が綻びの前に立った。司祭が銀細工のペンダントを握る。
長い縦棒とそこから伸びる短い方の横部分は一見、十の文字を組んだ文様だった。縦棒の上から三分の一辺りに交差する横部分は中心からそれぞれ左右に伸び、くるりと下向きに渦巻いて点に終結している。左右対称的なそれは、翼を生やした何かを思わせる。
司祭が呪文を低く唱えた。それに応じて綻びが見えない手に引っ張られるように広がり始める。
ようやく大の大人が一人通れそうな大きさになってから、司祭が唱えるのをやめた。
「ではどうかご無事で。皆様に我らの聖獣と神々の加護あらんことを」
応える代わりに聖女と聖人は礼をし、ゲズゥは背中の剣の柄を握り、そうして封印されし「忌み地」の中へと足を踏み込んだ。
聖人が先を歩き、聖女が一歩遅れて続いた。そこから更に遅れてゲズゥが歩く。
何年も換気されていない地下倉庫を彷彿とさせる、淀んだ空気に迎え入れられた。視界は封印の外と同じで曇った宵闇に包まれているが、どこか違和感があった。まるで、目に映るものを疑ってかからなければならないような曖昧な感覚。何故そう思うのかは定かではない。
周囲には褪せた草と、地面に歪に根を這わせる木々がある。水分が足りるのに陽光が行き届かない時の草の色だ。樹の枝は夏だというのにどれも葉も花もつけていない。
所々、村の跡地らしく建物の残骸がちりばめられている。数こそ少なく、ほとんどは元の姿が想像つかないようなただの木材の破片だ。
十二年前に去った故郷に郷愁はあまり抱かなかった。それより遥かに大きな感情があるからだ。
心臓を握りつぶされたような、内臓を引きずり出されたような……或いは生気を残らず吸い取られたような、衝撃。あれを思い出しそうになると思考が瞬時に何もかもを排除してしまうのは、多分生きるために必要な、脳の自動的な対応なのだろうと、大分後になって気付いた。理不尽な世の中と一般の人間に何一つ期待を持たなくなったのもあの時からだ。
その記憶が今、無理にでも呼び覚まされる。
たとえば知っていた人間の亡霊がわかりやすく魔物として現れたら、自分に斬れるだろうか。
パキッ。
急な音に瞬いて、足元を見た。不注意で、地面の小枝を踏んだのである。
聖女が振り返った。一瞬だけ、怯えと申し訳なさの入り混じった表情を見せて――
まるで呼応するように、足元から新しい音がした。めきめきと、何かの根が地面から引っこ抜かれるような低い音。
ゲズゥは考える前に跳んだ。案の定、巨大切り株の根っこが何本か触手のように勢いよく伸びる。絡み取られる前に剣を振るった。斬られて、根が怯む。その隙に距離をとった。
「……死は本当はとても身近なのに、どうして生きてると忘れるんだろうね」
場面にまったくそぐわない落ち着いた声色と話題。
気でも触れたかと思って目をやると、聖人は腰の剣を抜いていた。
「魔物は僕等にそれを思い出させるために存在するかもしれないと、考えることもあるよ」
左手で構えた剣に向けて、右手をかざしている。剣が淡い金色の光に包まれる。
「カイル……? 聖気を展開して剣に付着させているんですか? それをやると消耗が激しいのでは」
「短時間だけなら意外にいけるよ」
聖人はにっこり笑って前へ踏み出た。
聖気に惹かれて、切り株の魔物が標的を変える。
伸びる樹の根を剣でさばく聖人の動きは、悪くない。ゲズゥほど速くないにしろ筋がいい。過去に訓練を受けてそれがちゃんと身についているとわかる。
中肉中背でゲズゥと同じくらいの肩幅にしては、魔物相手によくやっている。力不足で攻撃を防ぎ切れなかったり受け流しきれなくても、剣のまとった聖気が魔物を触れた先から浄化している。なかなか効率のいいやり方だと感心した。
聖女がオロオロしているのも放っておいてゲズゥは腕を組み、一切手を出さずに待機した。
すると数分後に決着がついた。魔物は切り刻まれたり部分的に浄化されて変な形になっている。珍しくその表面には人面が浮かんでいない。
そこで聖女が近づき、手を伸ばして魔物の残りすべてを浄化した。
銀色の粒が消えるのを待ってから、ゲズゥは口を開いた。
「今回は、対話とやらはしなかったな」
「声が聴こえませんでしたから」
ゲズゥの指摘に、聖女は手を引いて静かに答えた。
「植物をもとにした魔物だったんじゃないかな。まんま命が尽きた切り株とか?」
剣にまとわせていた聖気を消して聖人が相槌を打った。戦闘で疲労した様子はなく、相変わらず笑っている。
「多くの魔物は死んだ人間の魂をもとにしていますが、そうでない場合もあります」
くるりと聖女がゲズゥの方を向き直った。これは、昨夜の話と繋がっている。
「特に瘴気の濃い場所だと動物や植物の命の残滓からも魔物化することはあるね。世間一般では
袖の汚れを払いながら、聖人が補足した。
「人間だった魔物でないと、対話はできません」
なるほど、そういうことだったのか。二人の説明に納得した。
その時、動物の鳴き声に似た音を立てながら強い風が吹き抜けた。軋みのような騒音がどこからともなく聴こえる。
一箇所に長く留まっていれば魍魎の類に次々と襲われるのではないかと予感がした。ゲズゥは次の動きの判断を求めて聖人に視線を向けた。
小さく頷き、聖人は聖女に問う。
「ミスリアは忌み地に来たことは?」
「初めてです」
「そう。普通は、瘴気のより濃い方へ進めば核となった魔物へたどり着けるんだけど……ここは全体的に周りが濃すぎてどこが源となると特定は難しいね」
聖人は考え事をするように眉をしかめている。
瘴気はいわばマイナスエネルギーの別名である。自然災害のあった場所から噴出したり、或いは生き物が発する負の感情だったり、それが生じる理由はさまざまだと大陸では言い伝えられている。
――死者の魂が密集する所なら?
魂の密集する所、即ち死者のかつての肉体の安置場所。
「心当たりがある」
ゲズゥは踵を返した。「ついて来い」までは言わなかったが、すぐに理解したようで、二人の足音が背後に続いた。
「うーん、ここは走った方がいいかな」
聖人の困ったような声は、半ば魍魎のざわめきにかき消された。
視界の端々に蠢く木々。
ゲズゥは素早く振り返り、聖女を左腕だけで抱き上げ、走り出した。聖女は一度小さく悲鳴を上げたが大人しくゲズゥの首につかまった。
聖人が苦笑して同じように走り出す。何かコメントしているとしてもゲズゥには聴こえない。
記憶の中の場所めがけて、一直線に走った。時々襲ってくる魔物たちを剣を用いて追い払う。
視界は段々と暗くなりつつある。それでもゲズゥは迷わず走った。
「どちらへ行かれるんですか?」
「墓場」
聖女が息を呑んだ。間もなくして、ゲズゥは立ち止まった。魔物たちはもうついて来ていない。
柳の樹が、見晴らしのいい場所に一本だけ。
何十年もそこでひっそりと育っていたかのように、高く高くそびえる樹だった。その樹に遠慮するみたいに草が根元を幅広く避けて、生えていない。一層濃い瘴気が漂っているのは気のせいではないだろう。
「昔から、人が死ねばこの下に埋めていた」
子供の頃、隙あらば木登りばかりしていたゲズゥが、唯一登ることを決して許されなかった巨木。中心から外側へと渦を描くように、村人が埋葬され続けた。
村が滅びてから、運命をともにするかのようにみるみる枯れていった美しい柳は、今や殺風景な黒い抜け殻でしかない。
_______
「あの日死んだ人間の内、大半が同じようにこの下に埋められた。俺が、この手で埋めた」
ミスリアを下ろしながら彼は淡々と語った。
どちらかというと感情がこもらないのではなく、抑制して話している印象を受けた。柳を見据えるゲズゥの横顔はかすかに哀愁を帯びていた。
「そんな……」
ミスリアは喉の奥から声を絞り出した。自分に起きたことでもないのに胸が締め付けられるように痛い。濃い瘴気にも当てられて、気分が悪い。
「ほんの子供だったろうに」
カイルが労わるようにそっと言った。柳の前に三人、横一列に並ぶ。
しばしの間があった。
「今から十二年前――七歳か。ほぼ一日かけて掘っては埋めた。ただ、そうするべきだと一旦思い立ったからには」
ひたすら、機械のように作業を続けたのだという。
その光景を想像して、ミスリアは寒気がした。七歳の子供が茫然自失から醒めて、死の蔓延する場所で、せっせと動いている。日が暮れても、手を止めずに親類縁者を埋葬し続けて。血の臭いも死の臭いも気にならないほどに感覚が麻痺して……。
思わず涙がこぼれた。かける言葉なんて見つかるはずも無い。
何があったのか訊けなかった。彼が失ったのは言葉に出して取り戻せるものではないからこそ、余計に。
この樹ならば、総てを見知っているのだろうか。ミスリアは枯れた枝を揺らす巨木を眺めた。何の思念も気配も感じ取れない。この樹は完全に事切れていて、魔物化すらしなかったのかもしれない。
いつの間にか風が止んでいる。怖ろしい静寂に、自身の呼吸の音に、無駄に緊張する。なんとなしに傍らのゲズゥの顔を見上げた。
虚ろな表情を浮かべていた彼が、途端に力いっぱい目を凝らした。
(何か見つけたのかしら?)
訊きたいけど、声を出していいか迷う。カイルも神妙な顔で無言なままだ。
試しにミスリアも柳の樹を嘗め回すようにじっくりと注視したが、暗がりで樹のシルエットしか見えない。
ゲズゥが早足で樹の傍へ近づく。
ミスリアは止めようと手を伸ばしかけた。その手を、カイルが手首に触れて止めた。頭を横に振っている。仕方なく、樹の下まで歩み寄って見守るだけにした。
幹の横を回り、ゲズゥは片膝を地面についた。土の中から突き出ている長い何かを右手で掴んだようだ。引っ張っても出てこないので、彼は両手でそれを持ち直した。
ポタッ。
頭上からほんの小さな水音がして、ミスリアは顔を上げた。次の瞬間、視界にたくさんの白い線が満ちた。
後ろから腕を引っ張られ、直撃を免れた。糸に似た白がいくつか空を切り、残ったほとんどの糸がゲズゥの首に巻きつく。
糸を繰る者がゆっくりと樹の上から姿を現した。
今の今まで、まったく気配を感じさせなかったソレは、人間の基準でいえば二十五歳かそこらの美しい娘だった。はっきりとはわからないが脚を木の枝に巻きつけてるのか、逆さに身を伸ばしている。ぬうっと顔を上げて、笑った。
大きな瞳は快楽に彩られていた。その長い白髪ではなく指の爪の下から伸びた糸でゲズゥの首を絞めている。
糸を引いて、魔物は捕った獲物にぐいっと顔を近づけた。爪先でゲズゥの鼻を撫でる。いつも通りの無表情な青年の顔が魔物のひときわ明るくて青白い光に照らされ、よく見える。
娘は赤い唇を艶やかに開き、唾液をわずかに垂らした。その一滴が、ゲズゥの頬に落ちる。
何かが溶けて蒸発したような音が聴こえた。
「――――――っ」
ゲズゥの頬に焼けどにも似た赤い痕があった。流石の彼も苦痛に表情を歪めている。
魔物の口から垂れたのが酸だと察して、ミスリアは思わずカイルの袖を握った。
下手に動ける場面ではなかった。もっともミスリアは目の前の魔物に底知れない恐怖を抱いてか、全身が硬直している。
魔物の白髪からのぞく象牙の素肌に、苦しげな人面が浮かんでは埋もれた。
ゲズゥは身じろぎ一つしない。おそらくそれが正解だろう。
(急な動きは危険だし、反撃の機会をじっと待っているのよねきっと)
魔物はぎょろりと目を見開き、更にゲズゥに顔を近づけた。それこそ鼻と鼻がぶつかり合う距離に。再びふくよかな唇を動かしたが、今度は声を発した。
「マ……ナツ……イ、ニ イ……オ……タ レ シ ヤ……」
言葉を紡ごうとしているのは明らかだった。
「シャスヴォルの国語かな……『呪いの眼』の一族は自分の言語を持たなかったはず」
カイルが小声で言う。
ミスリアもカイルもシャスヴォルの言語には詳しくない。こういう場合は、魔物の内なる心の声を探れば実際に発音している言葉と合わせて解することが可能だ。感情に基づいた内なる思考は言葉という殻を持たず、直接触れさえすれば大方読み取れるからである。
魔物は続けて声を発したが、やはり途切れ途切れだった。ゲズゥはただ瞬いた。
返答が無いことにしびれを切らしたのか、魔物が身を引き、怒ったように叫ぶ。もっときつく糸を締めた。反射的にゲズゥが左手をあげてそれを掴んだが、首が更に絞まるのを止められない。
(どうすればいいの――)
焦りが募る。
「ミスリア、落ち着いて。僕に考えがある」
カイルが声を低くして耳打ちしてきた。
「え……」
ミスリアは少しだけ顔を横に動かしてカイルの方へ耳を寄せた。目線の先はゲズゥと魔物を捉えたままだ。
「彼が右手に持っているものに、聖気をまとわせるんだ」
指を指す代わりにカイルは顎を少しだけ動かした。確かにゲズゥの右手は突出した長い物を掴んだままだった。心なしかそれは、先ほどよりも土から突き出ている気がする。
「でも」
それが何なのかミスリアにはまだわからない以前に、聖気を無生物に付着させるのは容易ではなかった。対象物と自分の縁が深ければ深いほどやりやすく、そして静止状態の対象物に直接触れていなければならないことなどと、成功させるには条件がある。
「大丈夫、君なら……ううん、君だからこそできるよ」
カイルは励ますようにミスリアの背中を軽く叩いた。
首を絞めるのに飽きたのか、魔物は蛇のような形の舌を出した。酸がべっとりとついたその舌で、ゲズゥの鎖骨辺りを舐め始める。またあの嫌な音がして、全身に鳥肌が立つ。
ミスリアは疑問を捨てた。カイルを信じよう。
ペンダントを握りつつ両手を組み合わせ、地面に膝をついて眼を瞑り、祈る姿勢を取る。謳うように言葉を紡いだ。
正体のわからないあの長い棒にも似た物に意識を集中させる。
数秒後に両目を開いたら、棒は見事な金色の帯に包まれていた。ミスリアは地面に両手を着いた。なんとかできたけど、やはりこれは疲れる。
魔物はいつしか動きを止め、呆然とこちらを見ている。左手に剣を携えてカイルがミスリアを庇うように立ちふさがった。
二人めがけて糸が伸びる。それを一本漏らさずカイルが巧く剣にのみ巻きつかせた。
その隙を待っていたゲズゥが、右腕に力を込めた。瞬間、引き締まった腕の筋肉にいくつかの筋が浮かび上がる。彼は一気に土の中から長い物を引きずり出し、頭上にて両手で構えた。聖気をまとったそれを魔物めがけて振り下ろす。
咄嗟に白髪をクッションに使って、女は斬撃を逃れた。同時にゲズゥを拘束していた糸が切れる。白い糸と髪が舞う。一部は銀色の素粒子となって浮上している。魔物は木の枝の上へ引き返し、その様をうっとりと見つめている。
土まみれの棒を持ったまま、あっという間にゲズゥはミスリアたちのところまで移動した。時々咳をしている。
「こっち。入った箇所よりも近いほころびがあるよ」
三人は走り出した。白髪の魔物が追ってくる様子は無い。
見晴らしのいい場所を去ってから、再び魍魎が襲ってきた。足の遅いミスリアを気遣って、カイルが合わせてくれる。
自分の剣を手放したカイルはゲズゥから長剣を譲ってもらっている。そのゲズゥはというと、ミスリアの聖気がいくらか残る大きな剣らしきものを振るっている。先頭を走って文字通り道を切り開いていた。
カイルの導くままほころびへ進んだ。近づくと、自動的に出口が広がる。
三人は入った時と逆の順番にそれを走り抜けた。
_______
「ご無事でしたか!」
向こう側に転がり出て、ゲズゥは最初にその声を聴いた。松明の明かりが有難い。
「助かったよ叔父上」
司祭が外から出口を広げたらしい。続けざまに呪文を唱え、魔物が逃げ出さないようにほころびを縮小している。
「大丈夫ですか?」
聖人の手を借りて聖女が立ち上がった。よく見れば二人とも白装束が汚れて所々破れ、至る所にかすり傷などを負っている。
質問には直接答えないで、ゲズゥは憮然として呟いた。
「あの女……俺の左眼を見て『仲間』とはっきり言った」
途切れ途切れのシャスヴォル語から、その単語だけ拾えた。それが何を示唆するか、彼には当然わかっていた。人に似て非なるかの存在と自分には、
ふいに頬や首周りのやけどが痛いようなかゆいような気がして、爪でそれを掻いた。
「あ、引っかいちゃだめです!」
駆け寄り、聖女が手を伸ばして聖気を展開した。合わせてゲズゥが身をかがめる。
「仲間、ね……。心の声から、僕に読み取れたのは『ニオイ』ってひとことだけだったんだけど。ミスリアはどう?」
考え込むようにして、聖人が顎に手を当てた。
「私には……」
やけどの治癒を終えて聖女は聖人を向き直り、こめかみを押さえる。
「確か彼女はこう言いました――」
『懐かしいにおいがするお前は誰じゃ?』
聖女の言葉の意味を反芻する。
「つまり……核たる魔物がスディル氏を憶えていると?」
作業を終えた司祭も会話の輪に加わった。
「あんな女なぞ知らん」
ゲズゥは短く吐き捨てた。
「そりゃあ生前と同じ姿で魔物になる方が稀だよ。人間を喰らう内にまた姿かたちが変わるし、喰らう人間がなくなると、他の魔物を取り込んだりするからね。『彼女』は僕が前に遭遇した時とまた姿が変わっていたよ」
聖人は豊かな手の動きを織り交ぜて説明した。
以前遭遇したことがあるのに攻撃手段や弱点を知らなかったのはそういう理由があるからだとか。
「私には生前の姿まではわかりませんでした」
聖女が申し訳なさそうに言う。
「もう一度行って魂を繋いでみれば視えるよきっと。とりあえずはあの糸と酸に警戒しなきゃならないってわかっただけでも収穫だよ」
「魂を繋ぐ歌ですか……魔物は一体だけでしたか? 他に何か――」
段々話についていけなくなって、ゲズゥは聖職者らの会話に興味が失せた。背を向け、手元の大剣に目を向けた。なおも汚れて刀身などは見えないが、大体の形はわかる。
柳の幹の背後にこの柄を見てもしやと思った。たとえ何年経ってもゲズゥがこれを見違えるはずがない。
「それ、何だったんですか?」
聖女がそっと歩み寄って、大剣をじっと見つめている。
「……父親の形見」
特に隠す理由もみつからないので、サラッと言った。
「え!?」
一同が一緒になって驚く。ゲズゥはただ頷いた。
平均的な成人男性とほぼ同等な身長の大剣は、地面に垂直に立たすとゲズゥにとっての肩ぐらいの高さに並ぶ。全体の軸は直線ではなく曲線にあり、刃が緩やかに湾曲した刀である。柄から先へと幅が徐々に太くなると思えば、先っぽは締まってとがる。先だけは
父親の思い出には、いつもこの剣があった。父は常にこれを背負い、これを使って闘った。仲間内の稽古でも、外敵を斬り捨てる時でも。
本来ならば成人した際に譲り受ける約束を交わしていた。結局は村が滅びた事情によりそれはかなわなくなり、剣自体どうなったのか不明に終わった。
まさかこうして手に取る日が来るとは予想だにしなかった。
それに関しても、疑問は多くある。が、もう遅い時刻だ。
さっさと帰路につこうと歩き出したら、他の三人も倣った。
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