07.

 星明かりの下で、六本足の巨大なかわうそと対面していた。ソレは、魔物特有の青白いゆらめきを発しながら、教会の正面玄関に向かって姿勢を低くしている。

 小屋ぐらいの大きさだ。これが跳びまわっていたのなら、確かに地震と勘違いするほどの揺れが生じるだろう。末恐ろしい魔物が闊歩する世の中になってしまったものだ。シャスヴォルといいこのミョレンといい、近所の魔物狩り師どもは一体何をしている。

 獺の姿をした魔物は、シャ―――――ッ、と大きく口を開いて威勢よく声を出した。前足で宙を引っかいたが、教会の結界に邪魔されてそれ以上進む事ができない。

 しかしそれはゲズゥたちとて同じことだった。目に見えない壁に阻まれて、外に踏み出す事が不可能だ。

 傍らに立つ聖女を見下ろすと、服の下からペンダントを取り出している。司祭が首にかけていたのとよく似た銀製の物だが、司祭のより大きい気がするし他にもどこか相違点がありそうだ。はっきりとは思い浮かべられない。

「用意はいいですか? 陣を消さずに結界を強引に解除します」

 何を言ったのかイマイチ理解できないが、ゲズゥは一言ああ、と答えて長剣を鞘から抜いた。

 ――もしもの話。

 あの魔物が村の跡地の封印から出てきた個体なら、素となった人間が、ゲズゥの知る者である可能性が出る。といっても十二年前のあの日から帰ってきてないので、たとえそうだとしても思い出せるかどうか謎だ。

 聖女はペンダントを片手で握ると、残る手で何か文様を宙に描いた。そうしてゲズゥの知らない言葉を唱え始めた。

 南の共通語ではない。北の共通語でもない。他のどの国の言葉とも異なる響きを持っている。或いは、ヴィールヴ=ハイス教団内で使用される呪文用の言語やもしれない。

 聖女が唱え終わった瞬間、空気が震えるような気配があった。

 もう壁は消えたのだと、なんとなく感じ取れる。

 獺が黄色い四つの眼を光らせた。

「下がってろ!」

 あの巨体なら三回跳べば充分距離が縮まる。

 聖女はすかさず従って玄関まで後退した。

 巨体にしては信じられない速さで、魔物が飛び掛ってくる。どうせ聖女の方へ向かうだろうと読んで、ゲズゥはタイミングを見計らった。

 ズン、と魔物の一度目の着地。二度目の跳躍。

 二度目の着地――

 ゲズゥは横へ跳び、獺の後ろに回り込んで長い尾に切りかかった。斬った部分は綺麗に本体から離れ、転がり落ちた。剣を研いだ成果が早速見れて少し楽しい。

 獺はこの世のものとは思えない鳴き声を上げた。頬を、血色の涙が伝っている。

 おーん、おーん、と動物のように鳴きながら、ソレは振り返った。

 笑ったり唸ったり慟哭したり、忙しい声帯だと思った。これが全部人間的な感情に基づいているというのか。わけがわからない。

 標的をすっかり変えて、魔物はゲズゥに飛び掛る。前足に絡まれないように、飛びのいた。一度でもあの爪か牙に当たれば大打撃を受けるだろう。

 魔物が再び地を蹴ったが、今度はゲズゥは前へ走った。

 奴の高い跳躍を逆に利用して、下に潜り込むように進み、剣を上へ構えた。切っ先は獺の腹部分を引っ掛けて、しばらくして抜けた。浅い。手ごたえでわかる。少量の魔物の血液が顔にかかった。

「オ、ノ、レ……」

 またしても地震を起こしながら着地した魔物の口から、白煙とともに妙な声が漏れた。

「ノ……カ、……ェ……」

 喉が大きく振動しているのが闇の中でも見て取れる。

「何だこれは」

 背後にいるはずの聖女に向けて、訊いた。

「……かろうじて言葉を形づくるぐらいの知能が残っているみたいですね。貴方にも聴こえるほどに」

 真剣な声が返ってきた。

「何を言ってるのかわかるか」

 それは相手が「誰」であるのか判断する上で、重要になる。もし、知る人物であるなら――自分は果たして、どう対応するだろう。

 ゲズゥは剣を構えて、獺の動きを警戒した。

「えーと……『おのれ、彼女を返せ』? 一体どういうことでしょう……」

 さぁ、と答えたいところだが、止めた。

 聖女の声が近くなっているからである。振り返ったら、すぐそこにいた。下がってろと言ったのにどういうことだ。

「あの、彼と少し話をしてきてもいいですか?」

 暗い中、聖女の潤った茶色の双眸はねだるようにゲズゥを見上げてきた。

 自殺行為だな、と思った。丸腰で魔物に近づいて無事で済むわけなかろうに。

 だが聖女の真剣な目を見て、考え直した。

「好きにしろ。ただし、斬るべきと俺が判断したら躊躇なくそうする」

「……わかりました」

 聖女は一瞬、抗議したそうだったが、言葉を呑み込んで頷いた。それもそのはず、今グダグダ喋っていていいほど敵の気が長くない。

 再度飛び掛ってくる魔物。ゲズゥは咄嗟に少女を片腕で抱えて避けた。

 血の涙を流し続ける魔物の瞳に、理性の欠片も映し出されてない。どうやって会話するつもりなのか見ものだ。

 おろしてください、と聖女が頼んだので言われたとおりにした。しばらくは待つしかないと悟って、ゲズゥが剣を低く構えなおした。

 魔物はまた喉を振動させて声を発している。

 聖女が小声で何か歌い始めた。聖気とやらを出して、一歩ずつゆっくり歩み寄る。

 歌に魅入られたように、魔物が動きを止めた。

「大切な人を、うしなったんですね」

 聖女は歌うのをやめて語りかけた。

「よかったら何があったのか話してくれませんか?」

 子供をあやすみたいな優しい声に、魔物は安らいだように瞼を下ろした。獺が何か返事をしたなら、それはゲズゥには唸りにしか聴こえない。

「そうだったんですか、恋人との旅の途中で詐欺に遭ったんですね」

 聖女は、獺に向けて手を伸ばした。顎のひげにそっと触れる。

「慌ててその人を追ったら、忌み地の近くで迷ってしまったと」

 聖女の一方的な受け答えから情報を拾うと、つまりこうだ。その男は襲い掛かってきた魔物から命からがら逃げたはいいが、いつの間にか恋人とはぐれていたという。探しに戻ったが、いくら探しても探しても彼女の衣服以外見つからず、気がつけば男は今の姿に成り果てていたそうだ。

 本人は自分が何時頃「死んだ」のか、自覚していないらしい。

 そこまで聞いて、「呪いの眼」ゆかりの者ではないとはっきりわかった。

 ならばゲズゥにしてみればそれは最早ただの魔物、退治すべき対象でしかない。

 ちょうど魔物が聖女に気を取られて静止している。今なら巧いこと倒せるかもしれない。たとえば足を六本残らず切り落とすか、頭部を胴体から切り離すか。

 あまりに敵が大きいので、確実な方法を取りたい。

 ゲズゥはさっと辺りを見回した。

 教会の正面玄関からは綺麗に管理された土手道が伸びている。聖女と魔物はその道の上にいる。土手道の両側には並木が均等な間隔を取って植えられている。半年前に建った辺境の小さな教会の割には変に凝っているな、と違和感を覚えた。

 今はそんなことより、高い足場になりそうな物を探す。並木はどれも細くて若すぎる。足場になるような太い枝が見当たらない。ならば、並木の間に揺れる申し訳程度のともし火はどうか。

 ゲズゥと多分そう変わらない高さの街灯は、間隔が長く数が少ない。しかし運良く、そう離れてない距離に一本立っている。

「――大丈夫です。私たちにできることなら、力になります」

 なおも対話を続ける聖女を尻目に、ゲズゥは音を立てずに移動した。

 魔物の背後に回り込み、数歩離れた位置の街灯まで近寄った。街灯のてっぺんは三角錐みたいな形で、とがっている。踏むとしても一瞬しか立っていられないだろう。

 十分だ。

 ゲズゥは街灯の上目がけて高く跳び、右足だけで着地した。サンダルを通して、足の裏が街灯の尖がり具合を知ることになった。刺されはしないがやはり痛い。

 構わず、そこを足場にして更に高く跳躍した。

 獺の背に、剣を突き立てた。

 金切り声をあげ魔物がのけぞり、後脚だけで立つ。振り落とされないよう足腰に力を入れながら、ゲズゥは長剣を抜いた。

 もう一度高く跳ぶと、振り落とす力と重力を合わせて、魔物の横腹を切り裂いた。

 裂け目から、血液と臓物に似た赤黒い塊がいくつも溢れ出す。見れば、臓物の一つ一つに人面が浮かんでいる。相も変わらず気色悪い存在だ。

 獺が地に崩れるのを見届け、ゲズゥは聖女の方を一瞥した。少女が異臭放つ汚物にまみれる姿には、多少罪悪感を覚える。

「何を呆けている」

 向こうが再構築する前にさっさと浄化に取り掛かれ、という意を込めて声かけた。

 聖女は目を大きく見開いて、両手についた汚れと、深手を負った魔物とを見比べてわなわな震えている。一体何事だというのだろう。

 大丈夫か、と訊こうとして一歩近づいたら、逆に一歩退かれた。

「い、」

 聖女の向けてきた眼差しは恐怖と絶望に満ちている。

「いやぁあああああああああああああああっ!!!」

 空気を裂くような少女の絶叫が響き渡った。


_______


 いわばあれは、魂同士をつなぐ役割を持った歌だった。これまで断片的に読み込めた「想い」が、映像という形でよりはっきりと伝わるようになり、また、こっちの言葉ももっとスムーズに相手に通じるようになる。

「もう苦しまなくて大丈夫です。私たちにできることなら、力になります」

 そうは言ってみたものの、彼の「彼女」はおそらく他の魔物に喰われて探しようがないだろう、とミスリアは考えた。

 一体の魔物は複数の魂の残留思念が絡まりあうことによって構成されている。ひとつの魂が他よりも未練が強いなら、それが主軸となって全体の思考や行動を支配する。

 骨ごと魔物に喰われた人間の魂は、そのまま絡めとられて魔物の一部となる場合が多い。そうなったら、なかなか探し出せるものではない。誰かに浄化されて昇天していた場合も、探し出す術がない。

 つまり目の前の獺の主軸の魂を、恋人と再会させられないまま納得させ、浄化に持ち込まなければならない。

「私はミスリア・ノイラートと申します。よかったらお名前を教えてください」

 できるだけ優しく微笑みかける。

 すっかり大人しくなった魔物は声を出そうと口を開いた。

「わ、たし……の、な……は……」

 次の瞬間、魔物がのけぞった。胸から剣の先がにょっきり生えている。何が起きているのか飲み込めず、ミスリアは目をしばたかせた。

 ビチャッ。

 気がつけば、視界が赤と黒と紫に彩られていた。変な音と変な臭いと一緒に、生暖かいものがミスリアに降りかかる。

 さまざまな映像が流れるようにして次々と脳内を過ぎり、息をすることさえ忘れた。

「何を呆けている」

 ゲズゥの声でようやく目が覚めた。顔や手についたソレが何であるのか、何が起こったのか、理解する。

 喉からでた甲高い悲鳴を、まるで他人事のようにミスリアは聴いていた。素早く横を向いて地面に片膝つき、道を外れた芝生へ胃の中身を吐き出した。

 痙攣がおさまってから振り返った。口元を袖で拭う。

 ゲズゥは、解せない現象を見るような表情をしている。

 それもそのはず、今までにだって何度もグロテスクな場面に出くわし、その都度ミスリアは慣れからこれといった反応を示したことはなかった。だが今までは程よく距離を取り、今回ほどダイレクトに臓腑をかぶらなかった。問題はそれだけでは無い。

 魔物が唸り、憤然として立ち上がろうとした。

 ミスリアが何か言うより早く、ゲズゥが動いた。長剣で、獺の脚を六本とも胴体から切り離した。あまりに鮮やかで感想ひとつ出ない。

「…………」

 声が出せない。口をぱくぱくさせながら、何とかミスリアは立ち上がった。

 明らかな苛立ちを表して、ゲズゥが剣を持ち直した。はやくやれ、とでも言いたげに親指で背後の魔物を指す。

「……ど、うして……」

 あまりに小声で、ゲズゥには届かない。

 なお上体を起こして噛み付こうとする魔物の頭を、切り落とさんと剣を構えている。

「――やめてください! 話の途中でしたのに、なんてひどいことをするんですかっ」

 声を振り絞って叫んだ。

「はぁ!?」

 そういう声も出るんだ、と一瞬だけ思ったのは置いておくとして。

「あと少しで、分かり合えるかもしれないんです」

 ミスリアは抗議した。

「馬鹿言え。どうせ無に帰すくせに、分かり合ってどうする。相手は死人だろう」

「でも、同じ浄化するにしても、相手が納得してくれた方がいいです。可能なら全員と対話する方が」

「訳のわからんことを」

 ゲズゥは剣を振り上げた。

 止めたいのに、体が強張って動けない。

「そうやって出会った魔物にいちいち親身になって同情するのか? 所詮他人なんてのは、意味の無い存在だ」

「そんなことありません!」

「聖女なだけに、分け隔てなく慈悲深くて、結構なことだな」

 皮肉って話す彼の横顔には、くらい笑みが浮かんでいた。それは敢えて形容するなら、嘲笑だった。

「お前がいくら粉骨砕身、人類のために一生を捧げたところで、人類はお前のために何一つしない」

 そう言い捨てて、ゲズゥは剣を振り落とした。

 魔物の頭部が胴体から離れた瞬間、ミスリアはそれを形成する魂たちの記憶の断片を、一気に浴びるように視せられた。

 耐えかねて、その場にくずおれた。


_______


 寝室は一部屋だけであり、その中に二段ベッドが三台並んでいる。

 聖女はかろうじて魔物の浄化を終えて結界を再現したもののすっかり上の空で、教会の中に戻ってくるなり一番奥の壁際の上段ベッドにのぼり、毛布にくるまって閉じこもったのである。

 それから数時間後。やっと、聖女のかすかな寝息が聴こえてきた。ずっと何かに怯えるように震えていたのが収まったらしい。

 何に怯えていたのかというとそれはもしかして自分かもしれないな、と廊下の壁に寄りかかって座るゲズゥは考える。

 どうしてそんなところで気配を消して聖女が寝付くのを待っていたのか、自分でもよくわからなかった。聖女が睡眠不足になっては明日の「忌み地」行きに支障が出たりしないかと、確かに心配だったが。心配したところでどうしようもない。まさか、子守唄を提供するわけにもいかない。

 何故だか、胸の奥にモヤモヤした感覚があった。思い当たる節はひとつ、さっきの魔物退治だ。

 ゲズゥにしてみれば、別に間違った行動も言動もしていない。むしろ聖女の甘ったれた主張の方が支離滅裂で、随分と無駄の多い生き方を選んでいるように思える。

 しかし効率が悪くてもそれはその者だけの生き方だ。

 生きた年数がたったの十九でも、ゲズゥにはよくわかっていた事があった。何が重要で何がそうでないかの線引きは人によってどうしても異なるという、事実だ。

 各々の価値観があると熟知していてなお、聖女のそれだけは看過できなかった。癪に障るといっても過言ではない。

 おそらくは身近にいて共に旅をしているからだろう、ということに今はしておこう。

 考えるのをやめてゲズゥは風呂場へ向かった。せっかくなので諸々の汚れを洗い落としたい。午後ずっと寝ていたからか、まだ眠くない。

 身体を流したあと、タイルの敷かれた床の上で何となく腕立て伏せをした。百ほどやって飽きた頃、腹筋を鍛える事にした。それに飽きたら服を着なおし、逆立ちをしてみる。

 逆さになった状態で風呂場を見渡した。蝋燭一本しか灯してないので当然、暗い。バスタブ近くにぜんまい仕掛けの時計を見つけ、時間を見ようと頑張ったが、逆さでは難しくて脳が混乱した。

 頭に血が上りつつある。身につけているシャツも少しずつ重力に屈して、顔にかかる。

 そんな時、少女の短く鋭い叫び声を聴いた。ゲズゥは逆立ちから半回転して人間の本来あるべき両脚立ちに戻った。

 予想では多分、悪夢に目が覚めたといったところか。

 面倒だと思いながらも、結局寝室へ行ってみた。

 廊下から寝室の入り口に立った途端――

「こないで」

 泣き出しそうな声だった。ゲズゥは部屋に入ると、聖女からもっとも離れた反対側の壁際の下段ベッドの上で胡坐をかいた。割と夜目のきく彼には、明かりのない部屋でも窓一つあるだけで大分見える。

 膝を抱えてうずくまっている少女が一体どんな悪夢にうなされたか、想像できない。

 想像できないので、とりあえず訊ねた。

「何の夢だ?」

「………………あまりうまく説明できる気がしません……」

 答える義務など何処にもないのに、聖女がか細く呟いた。悪夢だったのは間違いないらしい。

「そうか」

 ゲズゥの発する言葉のひとつひとつに、聖女はぴくりと身体を震わせている。やはり、怯えている。だが女子供に怖がられるのはよくあることなので、どう思うことも無い。軽く腕を組んで、ゲズゥは不動でいた。

 寝室に沈黙が降りた。

 ――カチ、カチ、カチ……。

 一秒おきに繰り返される音が近い。部屋のどこかに時計があると考えられる。しばらくは秒針の音と、聖女の吐息だけに耳を澄ました。

 ほとんど無意識からその疑問を口にした。

「何で、俺だった?」

 暗闇の中で、聖女の驚きを気配として感じ取った。質問の意味はちゃんと伝わっているだろう。

「……言いたくありません……」

 聖女は膝に顔をうずめた。

 自分に聞く権利ぐらいあると思うが、まあ、言いたくないのなら仕方ない。

 すすり泣きし出した聖女に興味をなくして、ゲズゥは瞑目した。

 眠くないので瞑想を始める。両の膝の上にそれぞれ手のひらをのせた。彼は己の呼吸にのみ意識を集中させるスタイルを好んで用いる。

 ――吸って、吐いて、吸って、吐いて、また吸って――

 次に呼吸のひとつひとつに合わせて数字を数える。息を吐く時にだけ、一から十数え、十に達したらまた一に戻る。時計の音が気にならなくなるまで続けた。

 何も思い描いていないので、瞼の裏には暗闇だけがあった。ふわりと自然にそこに踊りこんできた場面を、彼は特に拒まなかった。

 暖かい風にそよぐ木の葉が、ゆったりと揺れる。枝が、木の実が、手を伸ばせば掴めるほどに近い。眩しい光が葉っぱの天井から漏れる。

 地上を見下ろしたら、こちらを見上げて手を振ってくる女性がいた。長い銀色の髪を束ね、腕に生まれたての赤ん坊を抱いている。慎ましやかな笑顔と、清楚な身なり。

 女性の太ももに五歳前後くらいの幼児が引っ付いている。女性と同じ銀色の髪が柔らかそうだ。

 そこで、別の女性も視界に入ってきた。肩より少し長い、まっすぐな漆黒の髪。動きやすそうな短い袖のシャツと短い裾のスカート。

 彼女は、木の上から降りてくるようにと怒鳴っている。

 そこで一気に視界に緑が流れ、飛び降りたのだとわかった。立ち上がったかのように視界がずれる。ため息をついた黒髪女性の端正な顔の、右目の泣き黒子が印象的だった。

 ――カチッ!

 唐突に秒針の音が入ってきて、夢のような映像がはじけた。消えてしまう優しいひと時の欠片に手を伸ばしても、止められない。

 思わず目を開けた。

 そこでゲズゥははじめて、自分が実際に手を伸ばしていたことを知った。

「どうしたんですか?」

 鈴が鳴ったかのような淑やかな声。聖女はさっきまで居た場所からまったく動いておらず、姿勢も蹲ったままだったが、頭を上げていた。

「何でもない」

 伸ばした手を引っ込め、ゲズゥは組んでいた足を崩した。

「そう、ですか」

 聖女は毛布を頭から被るようにして顔だけ出した。

「あの……さっきの、ひと。魔物の彼が……貴方に頭部を切り落とされた時」

 途切れ途切れに、ボソボソと聖女は喋る。この話題がどこへ向かうのか見えなくて、ひとまず黙って続きを待つことにした。

「彼の記憶が視えました。といっても彼だけではなく、あの魔物を形成していた全部の魂の記憶の断片ですが……」

 やはりどこへ向かうのかわからない話だ。ゲズゥはベッドに横になった。

 しかし聖女にそんなにたくさんの記憶が視えていたというのなら、上の空になってた原因にも数えられよう。これは想像に過ぎないが、他者の記憶を視ていたら多分、聖女なら感情も引きずられて心がかき乱されたことだろう。

「彼の恋人は、彼の目の前で亡くなりました。他の魔物に、丸ごと食べられて」

 どこまでも沈んだ声で聖女が語る。視たままの光景を思い出しているのだろうか。

「そのショックに耐えられなくなって、忘れてたんですね……自分も魔物に成り果てて」

 凄まじい話ではあるが、今のご時世では別段珍しいということもない。それだけ壊れた世の中だということなのだろうが。

「それは、哀れだな」

 あまり真心のこもらない声で相槌を打った。

 すると何故か聖女は落ち着かない様子で毛布の中をもぞもぞした。

「あ、あの……」

 何か言いたげだがものすごく言い出しづらそうである。面倒くさい方向の話ではないかと予感がして、ゲズゥは「何だ?」と訊かなかった。

 数秒後、聖女が息を吸い込むのが聴こえた。

「……ゲズゥは過去に人を殺した時、その人の気持ちや苦しみとか、家族の苦しみや遺族がどうなるのかとか、考えたりしなかったんですか? 人一人の一生が終わるという事態の大きさを顧みなかったんですか?」

 カチ、カチ、カチ……。

 ゲズゥは質問の内容を噛み締めるように沈黙に身をゆだねた。

「それとも他人だから、気になりませんか……?」

 少女の儚い声を聴き取って、ああこれは面倒くさい方向の話だな、と思った。


_______


 軽々しく口にしていい問いでは決して無いと、ミスリアはよくわかっていた。まるで、貴方の人間性を疑っていますと言っているようなものだ。

(それでも知らずに隣で歩き続けるなんて無理)

 空虚を、ミスリアは思い出していた。もしもあのひとが今まだ生きていたならと、一時も思い出さずにいられない。もっと、もっと、一緒にいたかったのに。

 返事を待つ間、沈黙に満ちた闇の中で行き場の無い不安を持て余し、足の指を意味もなく動かした。左から右へと順に一本ずつ。

 数分経って、ゲズゥがため息をついたのを聴いた。

「場合にもよるが……まったく、考えない訳じゃない」

 彼の言葉はいつに無く億劫そうだった。答えてくれたこと自体に驚きを覚える。

 ゲズゥの様子からミスリアはあることに気づいて、はっとした。

(私ってもしかしてひどいこと訊いたの? 人の一生が終わることの重さを、親族全員失った人が知らないはずないよね?)

 罪科を差し引いて考えれば、当然そういうことになる。心の中にどれほどの傷を、孤独を、抱えて生きているのかなんて、他人に量れるものではない。

 無思慮過ぎる。どうして今まで思いつかなかったのか不思議なくらいだ。きっと、「天下の大罪人」という肩書きに気を取られすぎたのだろう。深く反省した。

「ごめんなさい。今の質問は無かったことにしてください。私の方が浅はかでした」

 思わず身を乗り出しながら、ミスリアは慌てて謝罪した。伝わるかどうかあやしいけど頭も下げる。

 すると何か妙な音が聴こえた。喉を鳴らして笑っているような。

 ――笑っている?

「……お前は、気の遣いどころが、おかしい」

 暗闇より返ってきた声からは、重苦しさが消えていた。多く見積もって、「楽しそう」だった。ミスリアが謝る理由を見通してる風だった。

「俺は生きるために必要なら他者を喰らう。生存本能に倣って」

「それは……共存ではなく弱肉強食が人間の本質であると?」

「……少し違う。言うなれば相克――生き延びるために他者の命を奪えば、残った方が奪った命の分まで生きる義務を引き受けたということだ」

「な、るほど……?」

 解りそうで、今ひとつミスリアには解らない考え方だった。

 どうして共存ではだめなのか。もっと突き詰めて論じ合わねばならなそうだ。

「まぁ、今までが全部そうだったとは言わない」

 静かで無感情な声だった。

 もしや別の何かに基づいてる件もあるのだろうかと、ミスリアは気になって続きを待ったが、話はそこで打ち切られた。

「湯、沸かしてある」

 突然の話題転換に驚いて、ミスリアは瞬いた。

「――あ」

 そういえば魔物の内臓やらに汚れたままだったのだと、今更思い出した。

 ゆっくりと腰を起こして、はしごを降りた。支度を整え、寝室から踏み出す瞬間。振り返って、小さく言った。

「……最初の日に言ったとおり、本当に一生かけて償わなければきっとどうにもなりませんよ」

「余計な世話だ」

 そっけない返事。

「でも……」

 ミスリアが他に何か言える前に、遮られた。

「お前は俺の魂を『救う』ために命を拾ったのか」

「え……? ち、違います! そういうわけでは」

 勢いで即座に否定したが、胸がチクリと痛んだのは何故だろう。

「助けを求めてもいない相手に押し売りだな」

「そんな――」

「それは、偽善だ」

 氷のように冷たい声に、背筋が凍った。

「もういい。さっさとクソして体洗って寝ろ」

 言われたまま、ミスリアはそそくさと寝室をあとにした。

 廊下をパタパタと小走りに進む。

(救うため……? 自分ならできるというエゴがあって……?)

 今まで考えたことが無かっただけで、実はそうだったらどうしよう、とミスリアは気分がどんどん沈んでいった。

 そうしてまた一日が幕を閉じた。

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