06.

 ヴィールヴ=ハイス教団は、アルシュント大陸中のいくつかの「忌み地」の管理もしている。

 忌み地とはすなわち過去に何か大きな惨事があり、今では瘴気と魔物に満ち溢れた場所を指す。人間が近寄ると骨も残らず喰われ、中には日中でも魔物が闊歩している土地もある。

 対策の一つ目は単純。

 内と外を隔てるために、教団の人員がまず封印を施す。魔物が逃げ出ないように、下手に人間が迷い込まないように近くで聖職者の誰かが常に見張る。

 厄介なのはその後だ。忌み地を清めるには数日または数ヶ月、下手すれば数年の労力を要する。浄化が終われば、封印も解かれる。

 しかし常に人手不足に苛まれている教団から、長い間誰も派遣されないケースもある。

 よってそれらの忌み地は封印されたまま長年存在し続けている。


_______


「つまりカイルサィートは、忌み地の浄化を手伝うために、叔父様の受け持つ教会に来たと言うわけなんですね」

 ラズベリージャムを塗ったトーストを両手で持ち、聖女ミスリア・ノイラートが感心して友人に確認した。

 明るいダイニングルームの小さな丸いテーブルを囲んで、ミスリアとカイルサィートが朝食をとっている。お互いに水色の質素な服装をしている。これは、教会から借りたものだ。

 ミスリアの護衛のゲズゥ・スディルは、テーブルに座すことを拒否し、何故かキッチンの隅で立って食べている。食べかすが散らからないように、一応ゴミ箱の真上で。やはり似たような服を着ているが、肌色が濃いめの彼には、若干似合わない。

 キッチンとダイニングルームはカウンターひとつ隔てただけで空間自体は繋がっている。ゲズゥは、ロールパンを食べながらテーブルの方向に視線をやっている。何に焦点を合わせてるのかここからではわからない。

「カイルでいいよ、ミスリア。そういうことになるね。特にここは教団が干渉しにくい国にあるし、ずっと無人で立ち入り禁止にされていただけだったみたい。半年前くらいに叔父上が来て、小さな小屋を教会に建て直したんだ。今、僕等がいるこの建物だね」

 カイルは二人分のマグカップにコーヒーを注いだ。コポポ、と黒に近い茶色の液体が泡を立てる。

「大変そうですね」

 トーストを皿に置いて、ミスリアは花柄のマグカップを受け取った。ありがとう、と小さくお礼を言ってから、ミルクと砂糖を少量加える。まだ熱すぎるので、嗅ぐだけにした。濃厚な香りが鼻に届く。

「聖獣を蘇らせる旅に出る前の準備運動と思えば悪くないよ」

 カイルは気持ちのいい、爽やかな笑顔を見せた。

 自然とミスリアも笑顔になった。

 短く切りそろえられた亜麻色の真っ直ぐな髪に、小麦色の肌、琥珀の瞳、通った鼻筋、そして長くほっそりとした輪郭。数ヶ月前に教団本部で別れたきり、彼はまったく変わらない。

「君も、飲む?」

 キッチンに立つゲズゥに、カイルが空いたマグカップを持ち上げて声をかけた。

 ゲズゥはいつの間にか食べ終わっている。一度瞬いてから、ゆっくり歩み寄ってきた。

「なかなか解決の糸口が見つからないのだけどね。実は、強大な魔物が核となってあそこに居座ってるんだ。僕程度の剣の腕じゃあ相手は強すぎて迂闊に近づけないし、「対話」を試みても応じてくれない」

 ゲズゥのためにコーヒーを注ぎながら、カイルが続けた。

 数人の魔物狩りの専門家を伴っても、みんな途中で腰を抜かして逃げ出すのだという。彼等が優秀かどうかはさておいて、かなり手強い魔物らしい。

(対話、か……)

 浄化するだけなら教団の他の役職の人間にも可能だが、対話は魔物の内なる「心」に触れられる、聖人聖女にしかできない芸当だ。教皇猊下を例外として。

「……ここからわずか東の、村の跡地か」

 ブラックコーヒーの入ったマグカップを受け取り、ゲズゥが口を開いた。

「そうだね」

 一瞬だけ驚いた顔を上げ、カイルが短く相槌を打つ。話した内容より、ゲズゥが急に喋ったことに驚いてるのではないかと思う。

 どうして、ゲズゥがそんなことを知っているのだろうと、ミスリアは首を傾げた。

 カイルはテーブルの上で両手を組んだ。

「そこはかつて、『呪いの眼』の一族が暮らしていたとされる場所なんだ」

 ミスリアは絶句した。

 滅びた「呪いの眼」の一族がかつて暮らした場所。それが忌み地になるということは、彼らにひどい災難があったことを意味する。

「カイル、それは確かですか?」

「少なくとも僕はそう聞いている。あの地域はもともとシャスヴォル国の領内で、一族が滅びた後に国境がずらされたそうでね。ミョレンに押し付けようとしたみたいだけど、結局『忌み地』になったから放置状態。両国の民からも秘匿されている事実だね」

 丁寧に語るカイルの声に耳を傾けていたが、別の音にふと気づいた。

 ぽた、ぽたり、と水滴が零れ落ちるみたいな。ミスリアは音源を突き止めようと視線をさ迷わせ、そして見つけた。

 ゲズゥのマグカップを持つ手が、激しく震えている。コーヒーが幾筋か、その手を伝って垂れ落ちている。今にもカップを握り壊しそうなのを堪えているようだ。指関節が心なしか白い。

 そうだった。

 当事者の彼にとっては、この話題は決して他人事ではない。瞳に、数日前に見せた憎悪の色が濃く浮かんでいる。ミスリアは知らず身構えた。

「あの時、何があったのかは公にされてないので僕も知らない。生き残ったのは、一人だけだと聞いているけどね」

 カイルはまっすぐにゲズゥを見据えて言った。威圧感に応じて額に脂汗が滲み出ている。

「…………」

 今やゲズゥの全身から強烈な怒気がほとばしっている。静かな感情が、かえってこちらの背筋を冷やす。

 二人が下手に動けば躊躇無く噛み殺しそうだ。また、ジャングルの黒ヒョウのイメージが沸いた。

 しばらく、三人とも静止したままだった。

 やがて飽きたようにゲズゥが小さく息を吐き、コーヒーを一気に飲み干した。カップをテーブルに雑に置いて、立ち去る。

 ミスリアはそっと胸を撫で下ろした。

「どこ行くんですか?」

 まだ恐ろしさは残るけど、訊かずにいられなかった。

「煙草」

 珍しくゲズゥから返事があった。中庭へと続く大きなガラス張りの戸を、横へ引いて開けている。

「ってそれ、叔父上の葉巻と火打石。いつの間に……」

 ゲズゥが手にしてるものを見て、カイルは苦笑した。

 ぴしゃり、と音を立てて戸が閉められる。

「――なんていうか、不思議な人だね」

 カイルは別に、気を悪くしてないように見えた。額の汗をナプキンで拭き、片付けのために立ち上がる。

「ちょっと後ろめたいなぁ。ああいう言い方したかったわけじゃないんだけど、こっちだって情報の少なさに切羽詰っているんだ。あの魔物と対面すれば、きっとわかるよ」

 ミスリアは頷き、片づけを手伝った。二人でシンクの中に食器を集める。

「君らと此処で会ったのも何かの縁かもしれないね。ミスリア、一緒に来てくれるかい? 君がいれば心強い」

 食器を水で洗いながら、カイルがミスリアにそう頼んだ。

 ミスリアは、チラリと中庭の方を一瞥した。煙以外、ゲズゥの姿が無い。

「私は構いませんけど……」

「君に戦闘能力がほぼ皆無なのは知っているよ。彼がいなきゃ不安だよね、きっと」

「えっ、そういうことでは――」

 ――ないのだけど、なんとなく恥ずかしくなって俯いた。自分の運動能力の低さは自覚している。教団に居た頃、まったくといっていいほど剣技も筋力も身につかなかった。確かに、ゲズゥの桁外れの強さが無ければ今までに何度か死んでいる。

「まぁ、それでなくとも関係者が居ると何かわかるかもしれないし是非とも同行を願いたいね」

 テキパキと手際よく、カイルが皿やコップを洗っていく。

「そうですね」

 洗い終わった食器をタオルでミスリアが乾かし、磨いた。

「彼と話してきていい?」

「どう……ぞ……?」

 説得でもするつもりなのだろうか。

 思えば今までの短い間、ずっとゲズゥの方が主導権を握って旅を進めてきた。他人の言葉に左右されるのかどうかあやしいところだ。

 ミスリアの力の無い返事にカイルはにっこり笑い、水道の水を止めた。


_______


 カイルサィートは、ガラス張りのドアの前に置いてあるサンダルを履きつつ、ダイニングルームから中庭へと足を踏み出した。

「邪魔するよ」

 先客のゲズゥが庭に敷かれた煉瓦に座っている。もちろん裸足だ。片膝を立て、その膝に片腕を置き、残った手で葉巻タバコを吸っている。クセのあるニオイだ。

(僕より一個年下なのに、渋いなぁ)

 ゲズゥはどこへともなく視線を庭にやっている。

 木製フェンスで囲まれたこの広い中庭は、叔父によって手入れが行き届いている。縁に植えられた色とりどりの薔薇が蕾を出し、朝日に照らされて鮮やかな輝きを見せている。めいっぱい息を吸い込むと、タバコのニオイを凌駕して季節外れの茉莉花の甘い香りが肺を満たす。

 煉瓦のパティオの中心に鳥用の餌台が立ち、そこで繰り広げられるリスとコマドリの取り合いが微笑ましい。或いはゲズゥはこの生存をかけた勝負の行く末を見守っているのかもしれない。

「肩の怪我、もう大丈夫?」

 昨日会った時に彼が負っていた矢傷のことをカイルサィートは訊ねた。

 数秒待っても返事がないので、構わずまた喋りだした。

「僕が治したので気になってね。ミスリアのようにはできないから」

 近づきすぎず、なおかつ声が届くほどの距離に落ち着いて、カイルサィートはゲズゥの隣に並んだ。

「彼女は特別だよ。僕らは同じ時期に修行をしたけど、ミスリアは普通より遥かに幼い歳で教団に入ったんだ。他の子は歳相応にはしゃぐし、恋だってするし、自分の人生の選択を何度も迷う。…………ねえ」

 静かに呼びかけてみた。すると前しか向かなかったゲズゥはようやっと、隣のカイルサィートに視線を移した。白地に金色の斑点で彩られる左目は、何度見ても慣れない。

「僕は、君の事を信用に足る人間と思わない。これっぽっちも、思ってないよ」

 ゲズゥを見下ろし、カイルサィートは低い声で断言した。

 瞬き一つの反応も返って来ない。対するカイルサィートも瞬かなかった。

「ミスリアが決めたことだから止めない。それでも僕はやっぱり反対だし、今でも考え直せと彼女を揺すりたい。友人として、心配なんだ」

 ミスリアが取り寄せた「天下の大罪人」に関する書類を、カイルサィートもひととおり目を通してる。その上で、彼は彼女と違った結論に至った。

 ゲズゥは視線をそらし、葉巻を口元から離し、長い一息を吐いた。

「……で? 俺にどうしろと」

 抑揚のない、関心に薄いひとことだった。

(本当に不思議な人だ……)

 決して礼節を弁えた態度ではないのに、腹が立たないのは何故だろう。静かで、冷淡で、夜の湖面のように落ち着いている。もしこの人に対して癇癪を起こしたら、醜いのは自分の方になってしまうのではなかろうか。

「信用はしない。でも、君が体を張って彼女を守り抜いた功績を、高く評価しているよ。だから、」

 カイルサィートは深く礼をした。

「これからも、聖女ミスリア・ノイラートをよろしく頼みます」

 顔を上げると、驚いたように片眉を吊り上げたゲズゥの顔が見えた。

 表情を変化させられたことに心の中で、してやったり! とガッツポーズを決める。

「話は変わるんだけど――」

「わかってる。行けばいいんだろう」

 本題に移り変わろうとしたカイルサィートは、鋭く遮られた。

「果てしなく気が乗らないが、行ってやる。里帰りに」

 苦い顔でゲズゥが承諾の意を表した。再び庭の方を見ている。

 説得するまでもなかったようで、カイルサィートは拍子抜けした。

「ええとじゃあ、明日の夜とかどう?」

 連日の移動でまだ二人とも疲れてるだろうし、早くても明日まで待とうと考えての誘いだ。

 試しに聞いてみたら、あっさり頷かれた。


_______


 聖女の友人らしい青年の背中を、ゲズゥは座ったまま見送った。

 因みになんて名前だったのかもう忘れた。ただでさえ他人の顔も名前も覚えられないゲズゥに、あの聖人のファーストネームは試練だった。

 信用してない人間に友人を託すなど、判断材料を検討したとしても聖人の言い分は矛盾していると思った。聖人聖女は皆そういうものなのか? もっと、頭の固い連中かと想像していた。

 或いは教えに反して動く聖職者にばかり、たまたまゲズゥが会っているだけかもしれない。

 聖女もその友人という聖人もどこか「違う」気がした。何がどう違うのかとなると、漠然とそう思うだけで皆目見当もつかないが。

 そんなことを考え込んでも仕方ないので、立ち上がった。そろそろタバコも終いだし、中に戻ろうと歩き出す。

 フェンスの軋む音がした。

 見ると、四十路ぐらいの男が庭の縁に立っている。独特の黒装束からして、聖職者っぽい。それに首にかけている銀細工のペンダントは、神に仕える者の象徴だった気がする。聖女も聖人も持っているのを見た。

「おや……お客様ですか?」

 ゲズゥより頭一個分未満ほど背の低い男は、禿げた頭のてっぺんを手のひらでこすった。耳の上辺りだけ、プラチナブロンドの頭髪が生えている。整えられた顎鬚も同じ色だ。

 ゲズゥが答えずにいると、禿げ頭の男は近づいてきた。

「ほう。その目はもしかして……」

 男の琥珀色の瞳に――好奇心と、別の何かが混ざったような煌きがよぎった。それは過去に何度も見知っている感情。人道はそれを歪んでいるとみなすが、とても人間的だとゲズゥは思う。

 口元がつり上がるのを男が手でうまく覆い隠したのを、ゲズゥは見逃さなかった。

「あれ? アーヴォス叔父上、お帰りなさい。お仕事お疲れ様です」

 ガラスの戸を開けっ放しにしてた聖人が、中からひょっこり顔を出した。

「ただいま、カイル」

「玄関から入ればいいのに、そんなに庭が気になりますか?」

「いいじゃないか」

 明るく談笑する男の面からは、さっきの表情がきれいさっぱりなくなっている。

「あとでお客様にお茶をお出しするから、ちゃんと紹介してもらうよ」

「はい」

 聖人の叔父という男は、庭の方へ関心を移し、あちこちの葉っぱの色やら土の具合やらを確かめに歩き回る。マメな性格らしい。

 現時点で、あれが警戒すべき人間かどうかはまだ見極められない。小さくかぶりを振って、ゲズゥは教会の中へ戻った。

 ダイニングルームに、聖女の姿がなかった。

「ミスリアなら、お風呂場の奥の洗濯部屋だよ」

 聖人はいつの間にか着替えている。最初に会ったときの軽装よりも、白いローブの裾が長い。手袋やローブの下に履いてるズボンまで真っ白だ。こんなに白い格好が様になってる男に出会ったのは初めてかもしれない。ゲズゥだったら一色だけ着るなら絶対黒を選ぶ。肌や髪色の合う合わないじゃなくて、性格に起因してるのだろうか。

「僕はちょっと聖堂の方に入るけど、君も来る?」

 明るく誘われたが、ゲズゥは頭を横に振って断った。神とやらを祀った場所には別段興味がない。そもそも神が地上を去って聖獣が眠っているという設定の信仰なのに、一体何に祈りを捧げるのか、ゲズゥには理解できない。

「そう。何か他に必要なものあるなら遠慮なく言って」

「……武器庫」

「廊下を出て左の物置部屋。あそこのは全部誰も使ってないから、どれでも好きに選んでいいよ」

 ひらひらと手を振りながら、聖人は身を翻した。

 物置部屋の壁際のチェストに保管されてるだけあって、どの武器も大分前に手入れされて久しいようだった。種類こそ多く揃っているが、錆びれて使い物にならなそうなのばかりだ。教会が建ってまだ半年だというのだから、最初からこの状態で持ってこられたと考えるのが妥当か。

 それにしても鎖鎌からメイスやモーニングスターなど、教会にしては物騒な武器まである。まともな状態に戻せれば魔物相手に十分健闘できるだろう。

 魔物は他のどんな生き物とも違って、決まった急所が無いのが特徴だ。個体差あれど四肢を裂かれても動き続けることは可能だし、時間を置かずに元通りに再構築されることだってある。ゆえに徹底的に無力化する必要がある。

 人間の敵は比較的脆く、両の手だけでも退けられる。魔物との戦闘を思慮に入れて武器を選ぶ方が賢明だ。しばらく、チェストの中を漁るのに没頭した。

 リーチの長い武器が好ましい。投げるタイプの槍を手にとったが、やめた。チェストの底の長剣が目に入ったからだ。柄を掴み、引き上げた。鉄と鉄がこすれあう音がする。

 ゲズゥの両腕を広げた幅と同じくらいの長さの剣は、決して鋭利な刃を持っていないが、研げば使えそうだ。裏を返したり、刀身に触れたりした。

 ふと近づく足音に、ゲズゥは振り返った。

「あの、カイルの叔父様がお茶を出すそうです」

 聖女は今朝と同じ水色の質素なワンピースのまま、髪を首元の右側に結んでまとめている。出会ってから今まで見た中で一番、目が穏やかだった。

「わかった」

 通常ならばめんどくさいと感じて無視を決め込むところだが、叔父という男が引っかかるので、行くことにした。

 ダイニングルームに、ハーブの香りのようなものが漂っている。ティーポットとカップは白地に多少の模様が入ったような一式だ。

 テーブルに向かっているのは叔父ひとり。聖女がその隣の椅子に腰掛けた。面倒と思いながらも、ゲズゥがその隣の椅子に座った。偶然にも叔父と向かう形になる。

「改めて初めまして、私はアーヴォス・デューセと申します。聖人カイルサィート・デューセの父方の叔父で、この教会を受け持つ司祭です。ようこそいらっしゃいました」

 司祭と名乗った男は一礼し、二人にハーブティーとクッキーを勧めた。事情を甥に聞いたのか、追及するような発言はない。その甥は祈祷の後に急用に出たらしく、結局茶の席にいない。

「ありがとうございます。私は聖女のミスリア・ノイラート、彼は私の旅の護衛です。昨日からお世話になってます」

 差し出されたティーカップを受け取りながら、聖女は小さく礼を返した。

「ゲズゥ・スディル、『天下の大罪人』であって『呪いの眼』の一族の最後の生き残りですね。これはまたすごい用心棒を得られましたね」

 その笑い声にゲズゥはかすかな濁りを感じた。

「確かにすごい人です」

 聖女は微笑みを返している。

「今夜はお二人だけで大丈夫ですか?」

 司祭は急に話題を変えた。チラリとゲズゥを一瞥した後、再び聖女と目を合わせる。

「それはどういった意味で?」

「実は今、隣の町で魔物が頻繁に出現していましてね。昨晩はその対応に出かけて戻らなかったんです。するとそこで病が流行っているともわかって、今晩カイルを連れて行こうと思っています」

 やり取りを、ゲズゥはバタークッキーを食べながら静観した。

「私も手伝いましょうか?」

「いいえ、お気持ちだけで充分ですよ。ゆっくりお休みください」

「……ではお言葉に甘えてそうさせていただきます」

 ゲズゥの意見を仰がず答え、聖女は横目でこっちを見た。別に仰がれても是とも非とも助言するつもりは無いのでどうでもいい。

 一度頷いてから薄い黄色の茶を味わい、思わぬ甘さにぎょっとした。


_______


 開いた目に最初に飛び込んできたのは、絵画だった。

 描いた者は青、赤、黄色の三つの原色に白を混ぜたりして色合いを調整したようで、他の色は使われてない。ディテールが一切描かれておらず、全体を見通せばぼやーっと何かがそこにあるような曖昧なものだ。印象派芸術と呼ばれるジャンルに該当するのだろうか。闇市で見たぐらいの認識だから自信は無い。

 もしかして、描いた人物は飛翔する「聖獣」を表現したかったとか? 聖堂の天井に描かれる絵画といえば、まさか魔物を飾ってるとは考えにくい。少なくともゲズゥには、黄色い光に包まれた巨体が茜の空を飛んでいるように見える。その巨体の腹を見上げてるような気分だ。散らばっている青系の点が何なのかまでは彼には想像つかない。

 翼を広げて輝くソレを見上げても、神々しいだの尊いだの思わなかった。芸術を解さない、感性に乏しい――と言われればそれまでだが。

 ゲズゥは起き上がった。窓から射し込む陽の傾きからして夕方近い時刻らしい。

 後ろを手で支えながら、首をならした。木製のベンチにしてはまずまずの寝心地だった。やはり木の枝の上が一番だ。

 剣を研ぐに適してそうな石を庭から拝借して物置部屋に動かしたのを思い出し、立ち上がる。

 廊下で聖女と鉢合わせした。聖女は小さく笑みを浮かべてから、書斎のある事務所みたいな部屋に入った。ゲズゥは特に何も考えずにその入り口に立って、聖女を観察した。窓からの陽射しが躍って幼い顔に影を作っている。

「結構いろんな本が並んでますね……何か読みますか?」

 仮に観察されてることを気にしてるとしても、表に出していない。

「いい。俺は字が読めない」

 ゲズゥの言葉に、聖女は本をめくる手を止めた。目を丸くしている。

 字の読み書きができる人間が少数派であるアルシュント大陸では、珍しくないことだ。文字が、専門職に就く人間以外に開放されて二百年経ってない。大陸中に学校を普及させようという社会運動があるようだが、その夢が実現される日までまだまだ遠い。

 中には庶民以下に読み書きの能力を断固として許さない国とてある。シャスヴォルはここ数年でその制度が廃止の方向に進んでいるが、元々そうだった。

 ゲズゥは必要最低限に南の共通語とほか数ヶ国語が読めるが、それはあくまで実生活に直結するような単語ばかりで、文章となると別だ。

 そうだったんですか、と聖女が困ったような表情を浮かべる。

 しかしゲズゥは特に気にしてない。そんなことより剣のことを思い出し、物置部屋へ移動した。

 小さな窓が一つしかない部屋だ。蝋燭を灯し、砥石と長剣と水を含ませた布を準備してから胡坐をかいた。

 シャッ、シャッ、と丁寧に刃を研ぎ始める。

 一分ほど経った頃、どういうわけか開いた扉にノックがあった。

「私もそっちに行っていいですか?」

 躊躇いがちに訊く聖女は手に革張りの分厚い本を持っている。

「何で」

 短く聞き返した。物置部屋は狭く暗く椅子も無く、読書には向かないだろうに。

「……り…………から……」

 聖女は消え入るような声で何かしら呟いたようだが、聴き取れなかった。俯きながら、もじもじと挙動不審だ。

「は?」

「ひとりは、つまらないから」

 茶色の瞳が濡れているように見えるのは、光の加減の所為なのか、それとも――?

「……好きにしろ」

 女子供という無駄話の多い種の中で、この聖女はまともな方だった。物分かりが速くて余計な詮索もしない。そこにいられても邪魔にならないだろう。

「ありがとうございます」

 聖女は踏み台に腰掛けて、本を開いた。

 それ以上互いに関ることなく時が過ぎた。

 ページの捲られる音が、こっちのシャッ、シャッ、という音の間を時折挟む。

 単調な作業に心が安らぐようだ。

 最初は緊張気味だったらしい聖女も、次第に本にのめり込んだのか外界を意識から除外している。同様に、ゲズゥも丹念に剣を研ぐことに集中した。

 布で拭って刃の研ぎ具合を確かめた何度目かの時に、顔を上げた。小窓から夕焼けの端が見える。いつの間にかそんな時間になっていた。

「晩御飯にしましょう。私、つくります」

 聖女が分厚い本を閉じる。

「何か食べられないものとかありますか?」

「…………味の濃いもの」

 大真面目に答えたつもりだ。対する聖女は少し笑い、がんばります、と言ってキッチンへ向かった。


_______


 前触れなく地が揺れた。

 ミスリアは飛び跳ねて、危うく食器を取り落としそうになった。

「じ、地震……?」

 身を固くしてしばらく待った。しかし一度きりの揺れだったのか、あたりは静まっている。

 安堵し、洗い終わったばかりの皿を向き直る。

 頭上のキャビネットに手を伸ばした途端、また大きく揺れた。右手から皿が滑る。

(やだ、割れちゃう……! 自分の家じゃないのに!)

 少しでも衝撃を和らぐために身を挺すべきだと頭ではわかってても、体は自己防衛本能に正直で、勝手に飛び退いた。

 皿は割れなかった。突如現れた別の手によって支えられ、あるべき場所にしまわれる。

「あ、ありがとうございます。さすが速いですね……」

 ゲズゥは淡々とキャビネットに食器を戻した。思えば長身の彼こそ、踏み台のお世話になる必要のあるミスリアよか、遥かにその作業に向いている。

 食器が全部キャビネットに納まり、ゲズゥがそれを閉めた。

(食事の時に食卓を囲うのは嫌がるのに、片付けは手伝うんだ)

 協調性があるのかないのか、相変わらず、何を考えているのかまったく読めない男である。

(美味しいとも不味いとも言わなかったけど、残さず食べてくれたわ)

 今はそれだけでよしとしよう。そういうことを思いながらゲズゥの背中を見ていたら、彼が口を開いた。

「地震の揺れより、魔物じゃないのか」

「え……」

 それはつまり、地を揺らすほど重いまたは大きい魔物がすぐ近くに来ているということ。

 ミスリアは、出かける際に神父アーヴォスが残した注意を思い出す。

 ――戸締りをしっかりして、教会の結界から絶対出ないようにしてください。「忌み地」の封印が古くなり、修復しきれない速さで綻びが生じています。この近辺の魔物は数こそ少ないんですが凶暴で、強大です。いいですかノイラート嬢、くれぐれも外へ出て行かれぬよう――。

 そこでまた地が揺れた。

 静かな夜に、身の毛がよだつような笑い声が響く。

 気がつけばミスリアは、ガラス張りの戸に指を触れ、声の主を探るように闇を見つめていた。夢中で探したけども、どう目を凝らしても月明かりに庭しか見えない。もしやここのアングルが悪い?

「お前にはアレが、どう聴こえる?」

 ゲズゥの低い声で我にかえった。いつの間にか隣に来ている。黒曜石に似た右目と呪いの左目が、じっとミスリアの答えを待っている。

 芯まで見透かすような眼差しに落ち着かないけど、平静を装った。

「どう聴こえると言われましても……そうですね、説明しにくいんですが……」

 笑い声が止んだ――と思えば今度は慟哭が響く。

「私たち人間は言語を持ち、自由に思考をする生き物です。けど魔物は『言葉』を扱う能力が崩壊してる場合が多いので、感情を形にできず放出してるとでも言いましょうか。私にはああいった奇声が、想いとして直接脳に届いてるような、心を打っているような、何ともいえない揺さぶりを覚えます」

 言いながらも、胸が締め付けられて苦しい。

「『言葉』……?」

「多くの魔物は、死んだ人間の魂をもととしてます。彼らはかつては表現できた感情を持て余しているのです」

 それは教団に属する人間にしか語り継がれない真実だ。一般論では魔物は瘴気のある場所に自然発生する現象となっている。案の定、ゲズゥは瞠目した。

 魔物の慟哭は獲物を威嚇するような唸り声に替わった。音量から判断すると、まさに教会の結界のすぐ外に待ち構えているのだろう。

「ご存知ですか? 魔物は決して他の動物を襲うことなく、人間のみを狙うんです」 

 恐怖よりも深い悲しみに打たれて涙が零れた。

「彼らの餓えは、肉体の空腹からくるものではありません」

 地が再び揺れ出し、ミスリアはバランスを崩した。ゲズゥの腕に支えられ、なんとか転ぶことだけは免れる。咄嗟にその腕にしがみついた。

 頻繁になった揺れだけで想像すると、大きな子供が地団太を踏んでいるみたいだ。結界に阻まれて、業を煮やしているのだろう。

 ミスリアはゲズゥの顔を見上げた。するとさっきと同じ眼差しが、じっと彼女の次の動きを待っているように、見つめ返してくる。

 時々、彼がこうして自分を観察していることは知っている。何をするわけでもなく、静かに見るだけ。

 最初は狩人のような、野性の捕食動物のような視線だと思って冷や汗かいたものだが、慣れてくるとそれはどちらかといえば子供が蟻の行列を観察する眼差しと同じだと思った。悪意ではなく興味や好奇心に基づいている。

 一呼吸してから、ミスリアは発話した。

「お願いがあります」

 ゲズゥはミスリアから腕を離すと、内容を聞く前に頷いた。

「行くか」

 どこに置いてあったのか知れないが既に長剣を手に持っている。心なしか声が楽しそうだ。理由が何であれ、一緒に外へ行く気になってるのは有難い。

 ミスリアは胸元を押さえ、服の下のアミュレットを確認した。

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