05.

 さらさら流れ行く雲の網の隙間から見え隠れする細い月が、地上を這う生き物を嘲笑っているようだ、とゲズゥ・スディルは感じた。

 心身ともに相当疲れているからそういう幻が見えてるだけだろうか。

 彼は短刀を布切れで拭ってから、収めた。両腕が肘まで、どろどろとした紫黒色の液体にまみれている。これも拭った。

 馬が魔物に過剰に怯えるので、わざわざ残さず倒さないと落ち着いてくれなかった。ゲズゥが魔物を無力化し聖女が浄化する、の繰り返しで、骨の折れる作業である。

 この晩、既に計六体が襲ってきた。おかげで二人とも消耗は激しく、馬の足があっても昼間ほど進まない。

 特に聖女の疲労困憊には尋常じゃないものが見て取れた。

 魔物を浄化する度に、明らかに前より足元がふらつく。視線もおぼろげだ。やはり「聖気」を扱うには何かしら使い手が払う代償があるらしい。

「一旦止まるか」

 珍しく、彼のほうから休憩を提案した。魔物の慟哭は止んでいる。

 聖女は弱々しく頷き、立つ気力が抜けて後ろにいた馬の腹にもたれ掛かった。

 二人の前には、日中見たのと似たような眺めがある。ひたすら農地。農地を囲うように丘があるので、辺りを見回しやすいように見晴らしのいい高地を走った。民家だけがずっと遠くにあって、幸い誰にも遭遇してない。

 農地を抜けて林に到達するまで多分もう数時間も要らない。まさかたったの二、三日で済むとは思わなかった。馬が手に入ったのは好運だったし、寝る間も惜しんでがむしゃらに進んだのが功を成した。ただし、この過労から回復するに数日かかりそうだが。流石のゲズゥでも限界近い。

 国境がもうすぐとなると、両側にそれを守る兵力が配置されてると考えるのは妥当だ。気軽に近づけるものでもない。ひと悶着以上の戦闘に備える必要があろう。

「シャスヴォルの北側の隣国って……」

 聖女が乱れた髪を結いなおしながら言った。頭がはっきりしなくて思い出せないのか、難しい顔をしている。

「ミョレン」

 ゲズゥは水筒の水を少しだけ喉に流してから答えた。

 えっ、と聖女が驚きを声にした。

「ミョレン国といえば王族が治める小国で、先代王様が一年前にお亡くなりになってから王位争いが絶えないという? 確かそれで、国全体の生活水準が落ちる一方だと聞きました」

「ああ」

 ゲズゥは否定しなかった。聖女の言葉が事実だからだ。過去はともかく、現在のミョレンは権力者が王位争いにかまけて政治をほったらかしにしてるという国だ。

 それにしても島育ちと言ったことといいミョレンを直接知らないことといい、聖女はもしかしたら大陸の東海岸沿いに来たのかもしれない。

「治安が心配ですね……」

 聖女は暗い声で呟くと、膝を抱えるようにして地面に座り込んだ。気分が悪そうだ。

 もし急に体調が崩れるようならどうしようか、など考えながらゲズゥは無意識に彼女を観察した。世話をするか、勝手に回復するまで放っておくか、はたまた馬に縛り付けて連れ回すか。

 後者がもっともな選択に思える。ゲズゥは少女の看病など記憶の限りしたことがない。

「私の顔に何かついてますか?」

 見られている時に出る典型的な質問を、聖女は口にした。

「……」

 沈黙から、何故か聖女はゲズゥの考えを汲み取った。変に鋭い。

「大丈夫ですよ。休んでいれば治ります。普通に怪我を治すより、魔物を浄化する方が気力を使うだけです」

 聖女は笑って見せた。

「聖気はものの本来あるべき、または最良の形に届く力とされています。魔物の場合は、天へ昇華させるのが最良ということですね。怪我や病気が治るのも、元の健康な状態がその人にとっての最良だからです」

 膝の上で組んだ腕に頭をのせて、こっちが訊いていないことを聖女は勝手に喋り続ける。

「押し付けがましい」

 ふとゲズゥが口を挟んだ。

「はい?」

 すぐに返事をせず、ゲズゥは足元を通りかかろうとしたネズミに向かって短刀をサッと投げた。かすめたが、逃げられた。短刀が地に刺さる。

「ものの最良の状態が何なのか、誰が決める」


_______


 雨粒が小から中ぐらいの大きさに変わりつつある。まだ朝なのに、夕方と勘違いしそうなほどに辺りが暗い。

 草場がすっかり水分を吸い上げてしまい、人間にとっても馬にとっても進みづらくなっている。ベストについてるフードにも水が浸透してきた。農家の人に荷に詰めていただいたマントがありがたい。

 そして履いてるのがローヒールの革ブーツでよかった――せめて、転ばずに済む。スカートは一部結んで短くしている。

 ゆっくりと、ミスリアは黒馬の背にのぼる。

 ただでさえ鞍が無くてやりづらいのに、いささか腕力も足りない。濡れた馬の背にのぼるのは難しく、途中でずるっと落ち始めた。

 と思ったら、後ろから素早く出た手によって支えられた。大きな両手はそのまま難なく彼女を馬上へ押し上げる。

「ありがとうございます」

 お礼を言われたゲズゥはフードの下から顔を見せること無く、普段通りにミスリアを無視した。馬の手綱を引き、歩き始める。

(うぅん。普段以上にそっけない……? 機嫌悪い、みたいな……)

 ミスリアは、しゅん、としおれた花の如く項垂れた。もちろん、前を向いてるゲズゥには彼女の様子が見えてない。

 こげ茶色のコートに隠された背中が、遠く感じられる。

 赤の他人に毛が生えたような関係に、これ以上遠いも何も無いはずだけれど。

(……昨夜の会話の所為?)

 ばちゃっ、ばちゃっ、という音を立てながら馬蹄が一歩ずつ丁寧に地を踏みしめる。

 シャスヴォル国とミョレン国を画す国境たる河は、もうすぐそこの林の中にあるという。

 来る(きたる)兵との対決に向けて緊張を一層研ぎ澄ますべき時に、違うことを思い浮かべている。


_______


「そんな、誰が決めるかなんて……神々が定めた自然の真理に従って、生まれた時のまっさらな状態が一番……五体満足という言葉などがあるでしょう?」

 あの時問われて、ミスリアは答えに窮した。

「なら、大きな欠陥を持って生まれたら?」

「欠陥……聖気も万全ではありませんから、生まれた時点で欠けてた部分を、埋めるに成功する場合は少ないです……」

「最良になれない者は、別の形を最良として受け入れるのが正しいのか? それとも手に入らない理想を求め続ければいいのか?」

 ますます返答に困って、ミスリアは頭を横に振った。そういう風に、考えたことがないのだった。


_______


 饒舌になるのは、それだけ彼にとって意味のある内容だからなのではないかと思う。

 やはり表情に変化は無かったけど、語尾など声の調子がいつもと違っていた。何を思って問うたのだろう。ここを突き詰めて考えなければ、距離は縮まらない気がした。けど情けないことに、思考回路が回らない。諦めて、馬の上でバランスを取ることだけに集中した。

 雨、蹄、吐息、の音だけに包まれてゆったりと時と景色が流れる。やがて小雨も止んだ頃、ついに鬱蒼と茂った林が眼前に広がった。

 樹の一本一本が、ミスリアの十倍を軽く超えた身長だ。ためしに林の中を覗き込んだら、まったく終わりが見えなかった。本当にこの中に国境があるのだろうか。むしろどうしてこんなところにあるのだろう。

 考えうるメリットといえば、林の中にいる人間に先がまったく見えないので、待ち伏せて襲撃しやすいということ、とか?

 もうちょっとよく見たくてフードをおろした。次の瞬間、ゲズゥの舌打ちが聴こえた。

「どうしまし――」

「前にかがんで動くな」

 有無を言わせぬ命令口調にわけがわからず、とにかく従った。馬のたてがみにしがみつく様に前のめりになる。

 するとゲズゥは唐突に高く跳躍してミスリアの視界から消えた。

 次に背中辺りと、脚の間から一瞬の衝撃を感じた。馬が嘶く。

 後ろに乗ったようだ。濡れた外套越しに伝わるかすかな温もりを感じる。

「黙って掴まってろ。飛ばす」

 彼は低く言った。

 ここ数日あった出来事を振り返れば、状況は簡単に飲み込める。

 どこからか知らない声がした。

 そうして、水の雨に替わって矢の雨が二人に降りかかる。

 小刻みに震える体を制しながら、ミスリアは馬の首を懸命に抱いた。黒馬はいまだかつてない速さで駆けている。数秒もしないうちに林の中へと突入できそうだ。

 多数の矢が、頭上を通り抜ける。まだ一本も当たらない幸運に感謝しつつ、おそるおそる、左のほうに視線をやった。すると、割と軽装の弓兵の背後に鉄の鎧を纏った数人の兵士の姿があった。右を向いたら、同じような光景が目に入る。

 でも、正面には運良く誰もいない。

「つまらない誘導だ」

 ゲズゥの呟きに、はっとした。言われて見れば、不自然な点が多い。

 矢が当たらないのは、当てるつもりがないから? これではうまい具合に包囲されてしまう。

 あまつさえ、林の中に入ったところに罠が待っている?

「そんな……じゃあどうすればいいんですか!」

 最初から左右を挟まれていたなら、突進するより逃げるべきだったのではないかと焦る。

「…………」

 密着した背中越しに伝わる鼓動は、少しも乱れていなかった。何だかわからないけどこっちまで強引に落ち着かせられる効力がある。

 助かるという根拠がひとつもなくても、信じるだけが唯一の選択肢のようだ。

 林に入ると、一気に周囲が緑色に塗り替えられた。樹の高さとまだ曇り気味の空が相まって、薄暗い。

 矢の雨は止んでいる。

 ふいに、右横から馬蹄の音が聴こえた。

 ゲズゥは馬を操作し、さお立ちに仰け反らせて攻撃を避けた。槍の刃先がミスリアの目の前で空を切る。思わずたじろいだけど、声は出さずに済んだ。

 ――人並みに乗れるなんて言ってた割に、実はゲズゥの馬術は結構のものではないかと思う。鞍なしに乗れるし、方向転換などスムーズだし巧い。どこで身につけたのかとかちょっとだけ気になった。

 黒馬が着地したので、襲ってきた人をみやった。その者は自身の乗る馬を数歩下がらせ、右手に持った槍を構えなおし、二人の正面に立ちふさがった。

 三十路くらいの体格のいい男性が口を歪に引きつって苦笑している。くせ毛の黒髪と褐色肌が印象的だ。鎧を纏っていることから、シャスヴォル国の兵とわかる。

「本当に此処で会えたぞ、天下の大罪人。閣下の書は真実だった。貴様を斬る絶好の機会にめぐり合えた私は幸運に恵まれている」

 くくく、と喉を鳴らして男性は笑う。

 他の歩兵と弓兵が辺りを囲う。

「私はシャスヴォルとミョレンの境目を守る兵隊長が一人だ。名は、」

 男性は当然のように名乗った。ミスリアはもう聞いてなかった。

(逃げ場がないよっ! どうするの!?)

 口で訊くわけにはいかないので、心の中で叫び、後ろのゲズゥを仰ぎ見た。

 すると何故か、彼は少し下を向いてミスリアと目を合わせた。驚いて見つめ返したら、今度は二度瞬きをした。意味があるのだとしたらまったく伝わらない。

 でも、少しだけ混乱と恐怖は和らいだ。

 正面を向き直り、表情を整えてからミスリアは口を開いた。

「こんにちは。私はミスリア・ノイラートです。事情は既にお聞きのことかと思いますが、総統閣下は、五日の間に国境を超えられたら見逃してくださると誓約しました」

「聖女よ、そんなものを信じたのか? 子供の浅知恵だ。たとえ血で誓約を記したところで、所詮は報告書の操作など容易い。その男を今斬り、数日後に死体を首都まで引きずり戻したところで、誰も死した本当の日時を確認しない。事実上、期限に間に合わなかったと報告すればそういうことになる」

 見下ろすように男は笑んだ。

 その可能性に思い至らなかったミスリアは、唖然とした。

「他の者は皆貴様を恐れて乗り気でなかったようだが、私は違う。私はこの時を願っていたぞ、ずっと。公開処刑などではなく、私の手で貴様を屠る。楽に死なせはしない!」

 兵隊長は、ゲズゥに向けて敵意をあらわにした。強張った空気に耐えかねたのか、樹の上にいたらしい鳥たちが飛び立った。

「どうして、そこまで……」

 ミスリアの呟きに、兵隊長はカッとなった。

「私の父上はコイツに殺された! 偉大なる大将軍――」

 兵隊長は父の名を叫んだ。

 ゲズゥと兵隊長とを、ミスリアは交互に見比べた。

 告発に、ゲズゥは何の反応も見せない。相手の話を解していないようにすら見える。

「忘れたとは言わせないぞ! 無残に切り刻んで殺しただろう! 決定的証拠がなく、貴様はすぐに姿を消したが、絶対に貴様がやったのだ。私にはわかる! 決して、戦死ではなかった」

 兵隊長は一層怒気を発している。周囲の歩兵たちなどは居心地悪そうに武器を持ち替えたりしている。

 証拠が無いのにそこまで言うには何か根拠があるのだろうか。違ってたらひどい冤罪である。ミスリアは会話に割って入る度胸がないので、はらはらしながら見守った。 

 ようやく、ゲズゥは思い出そうとしてるかのように眉をひそめた。口元が僅かに動いている。

 何か思い当たったらしく、ああ、と小さく頷いた。

「――お前によく似て、褐色肌の、無駄に喚き散らすのが好きだった、ガタイのいいジジィか」

 その言い方に、息子である兵隊長は怒りのあまり戦慄いた(わなないた)。

「アレには、俺の方が恨みがあった。命だけじゃ釣り合わなかったから、生きたままバラした」

 夕飯のおかずを選んだ基準を話してるかのような、何気ない調子でゲズゥは語った。

 最初、なんて言ったのか飲み込めなかった。

 次に頭が勝手に想像し、吐き気を催した。反射的に口元を手で抑える。

 なんて、残酷なことを。

 ミスリアは眩暈がした。なおこみ上げてくる吐き気を意思だけで制する。目に溜まる涙で視界が霞む。

 すぐそばに、手綱を握るゲズゥの手があった。今までに何度もミスリアを助けた大きな手が、急に赤黒い血に塗れて見えた。動物や魔物ではなく、自分たちと同じ人間の血。悪臭が鼻をついた。

 ――幻覚だ。すぐに消えたものの、悪寒は残る。

(私はもしかして、とんでもない間違いを犯したの)

 彼が誰かを拷問にかけたということも、解体して捨て置いたことも、調書に記されてなかった。しかし本人が認めたからには、実際に起きたことと受け入れねばならない。

「一度きりだ。俺はいつもはそんな手間をかけない」

 ゲズゥはそのようにも付け加えた。

「貴様――ゆるさないゆるさないゆるさない!」

 兵隊長は逆上して突進してくる。

 いつの間にか抜いた曲刀で、ゲズゥは槍を受け流した。ミスリアは巻き込まれないように縮こまる。間に一人いるので、ゲズゥは下手に間合いを詰められない。この場合、長い槍の方が有利だ。

 兵隊長とゲズゥは何合か打ち合った。見た目ほど力の差は無さそうだが、兵隊長が押している。

 ミスリアはチラリと目線を上へやった。相変わらず、ゲズゥは涼しげな顔をしている。いっそ、この男には心がないのではないかと危惧した。いや、そんなはずはない。人間なのだから、総ての行動は何かしら考えや気持ちに基づいているはず。きっと理由があって、残酷な真似をするのだ。そうでなければならない。

 それでも、深い理由をもってしても正当化できない行為は確かにある。道徳を持たなければ人間とてただの獣だ。

(ああもう、わけわかんないっ)

 ややこしく考えてる場合じゃない。問い質すなら後にしないと。ミスリアはひとまず諦めた。

 ――ギィン!

 一際大きな音を立てて、鉄と鉄がぶつかり合う。その勢いで、ゲズゥの手元から曲刀が回転しながら離れていった。まずい。

 ゲズゥの心臓めがけて、槍の先が迫る。

 それを彼は、左腕を出して止めた。刃が前腕の肉に食い込み、骨に当たる。なんとも気色悪い音がした。

 兵隊長がひるんだ隙に、ゲズゥは右手で槍に力を込め、横に押してずらした。引かれるようにして、兵隊長はドッサリと落馬する。体重と鎧の重さが合わさって衝撃も大きく、すぐには起き上がれないだろう。

 躊躇なく槍を腕から抜き、ゲズゥは黒馬に蹴りを入れて逃げるよう促した。傷口から噴出す血にはお構いなしだ。

 彼は周囲の兵を踏み散らしながら強引に進む。まさしく人の命をなんとも思って無さそうな振る舞いだ。止めようか迷ったけど、結局ミスリアは声が出なかった。否、出そうとしなかった。

「止めろ! 矢を射るんだ!」

 兵隊長が命令した。

「しかし、聖女様に当たったらどうします――」

「背後からなら問題ない! 奴のほうが的が大きい」

 すぐに、弓の弦が弾かれる音がした。背後から複数。

 黒馬の足は速く、林の中では的を定めにくいこともあり、なかなか当たらない。

 が、ついに一本の矢が馬の尻に刺さった。

 馬が大きく嘶き、痛みに驚いて棹立ちになった。

 立ち止まった一瞬のせいで、また一本の矢が的を捉えた。

 音と衝撃に驚いてミスリアは身体をびくりとした。

 例によってゲズゥは動揺ひとつ見せず、すかさずミスリアを右腕で抱えて馬から飛び降りた。

 着地にわずかな乱れがあった。

 ミスリアは後ろを振り向いた。

「矢が!」

 ゲズゥの左肩辺りに、長い木製の矢が刺さっている。貫通はしてないらしいが、前腕の出血と合わせれば手当ては必須だ。毒矢である可能性だってある。

「ほっとけ。それより掴まってろ」

「そんな……えっ!?」

 ゲズゥは右腕だけでミスリアを抱え上げて肘に座らせるように固定した。ちょうど、親が子供にするように。体格差のおかげでそういう体勢になれる。彼はそのまま疾走し出した。

 吃驚して、とっさにゲズゥの肩を掴んだ。それが怪我の集中している左側だと気付いて、力を緩める。

 傷を負った状態では長くもたないだろう。いつミスリアを取り落としても仕方ない。かすかに、腕が震えている気もする。それはきっとミスリアの体重を支える力が不足してるからではなく、激痛に耐えているから。

 やむをえまい。一旦迷いも捨てることに決めた。

 ミスリアは、ゲズゥの首に腕を回しながら、治癒のために聖気を展開した。


_______


 一体何をどうしてこうなったというのだろう。

 林の中を全力で走り抜けつつ、少女の頬の温もりを首筋に感じながら、ゲズゥはぼんやり思った。まさか今日こんなことをしていようなんて、数日前の自分は欠片も予想しなかったものだ。

 生傷の焼けるような痛みと、聖女が発している不思議なエネルギーが混同して、神経が麻痺していくような手ごたえがある。

 ふいにそれがなくなったと思ったら、左の前腕だけ完治したとわかった。流石に破けた袖は元に戻せないらしい。聖気とはもしかしたら無生物には作用しないものなのかもしれない。

「すみません。肩の傷の方は矢自体を抜かなきゃ治せないようです」

 ゲズゥの首を抱いたまま、聖女は心底申し訳なさそうに言った。

 ――おかしな女だ。恐怖の対象に何故、そんな風に振舞える。或いは、親切心ではなく自分の生存率を間接的に上げる為に行っているのか。

 ゲズゥには、さっきの聖女の心の葛藤が敏感に読み取れた。彼女は自分の選択を、人選を、疑い始めている。

 もしもゲズゥを捨てて次の護衛候補へ進むと聖女が決めたなら、彼はどうするだろう。自分のことなのに先が見えなかった。

 まぁ、その時はその時だ。雑念を振り払って、ゲズゥは走ることにのみ集中した。

 数分走ったところで、背後から馬蹄の音がした。あの煩い男が追い迫っているということは振り返らずともなんとなくわかった。

「まことに潔い逃げっぷりだな! 敵前逃亡など、男子たるもの情けないと思わんのか!」

 ――いやまったく。

 騎士道のような概念は、ゲズゥからみれば生死を前にしてくだらないものだった。汚らしく生き延びるより誇りを守って果てるのが美しいと思う人間もいるだろうが、彼はそうではなかった。

「聖女」

 少し息が上がってきたので、囁くような声になった。

「!? は、はい」

 呼びかけられて、聖女はやたら驚いた。

「あの煩い男は弓矢を持っているのか」

 しばらくの間があった。

「……い、いいえ、持ってないかと」

 それはよかった。

 ゲズゥは急に走るのをやめて高く跳躍した。聖女が小さく悲鳴を上げる。

 目の前に程よい高さの樹の枝があったので、それを着地地点に選んだ。また、程よい距離に別の樹の枝があったので、それめがけて跳んだ。

 子供の頃、好きだった遊びのひとつだ。

 煩い男がまた喚いているようだが、はっきりとは聴こえない。

 十数分そうして樹の間を移動した。

 何とか煩い男とは少し距離をあけられたらしい。聖女も大人しく黙っている。

 河が見えてきたので、ゲズゥは樹から飛び降りた。ざっと見回すと、数歩流れを上ったところに歩いて渡れそうなほど浅い箇所がある。河はそんなに大きくないのが幸いだ。二十歩ぐらいでいける。

 記憶の中の河に比べると、雨の直後にしては水位が幾らか低い。近年の雨の少なさに起因してるだろう。

 聖女を下ろし、先に渡らせる。あとに続いてゲズゥも渡り始めた。ゲズゥにとっては膝ぐらいの深さで、聖女は太ももくらいである。

「――貴様! 逃がさぬぞ!」

 半分くらい渡れた時点で、煩い男が追いついた。

 ゲズゥは聖女を再び抱え上げて歩みを速めた。

 煩い男は馬を走らせ、河を渡りながら槍を突いたが、それを前に跳んでかろうじてかわし、二人は向こう岸に着地した。

「つ、着きましたね……」

 聖女は安堵したように言い、次いで兵隊長を向き直る。それをゲズゥは後ろから見守った。

「まだだ、まだ逃がしてなるものか」

「兵隊長殿、いくらなんでも諦めてください。シャスヴォル国の総統様はとんでもない大嘘つきで誓約の一つも守れないお方だと、大陸中に評判を広められてもいいんですか」

 煩い男は言葉に詰まったように、ぐっ、と顎を引いた。

 その時、ゲズゥはまったく別の気配を感じた。

 横に跳んだが、思わぬ草のぬめりに足を滑らせてバランスを崩し、伸びてきた鋭く細い剣に突かれた。ドッ、と鈍い音を立ててそれが下腹部に刺さる。

 何だか色んなものがよく刺さる日だ、と思いながら地に倒れた。

 驚愕に満ちた顔で聖女が勢いよく振り返った。

「こっち側に渡るのを待っていたぞ、『天下の大罪人』。貴様を捕らえればきっと殿下はお喜びになる」

 騎士風情の黒い鎧を纏った若い女が、剣先についた血を振り払いながら笑っている。


_______


 青年は、昼の散歩と称して周囲を巡回するのが日課だった。

 曇った空から陽射しが漏れている。

 雨上がりの湿った匂いが気に障る人もいるそうだが、彼はそれが好きだった。

 夏の虫や歌う小鳥、芸術性に富んだ蜘蛛の巣、地を這って花を咲かせる蔦――今日はどんな自然に出会えるだろうかと心をわくわくさせ、林の方へ向かった。

 かつて木材を生産する目的で人間が作った林だ。十数年前に、とある事情で放棄された。

 気分がいいので、青年は鼻歌を歌いながら歩いた。

 しかし林に近づくと、なにやら騒がしいことに気付いて唄うのをやめた。

 黒い鎧を身に纏った女性の背が見える。片手で細身の剣を持ち、片手を腰に当て、どこか芝居がかった雰囲気のある女性だ。河の中に立つ騎乗の男性と言い争っている。男性は体格がよく、褐色肌で黒い曲毛が特徴だ。立派な白馬に乗っている。

(またあの二人か……大方、国境を超えた人間の身柄についてかな)

 うんざりして、青年は肩を落とした。せっかくの上機嫌が台無しである。同じ国境を守る者同士、どうせならもっと協力しあって穏便にできないのだろうか。

 青年自身が仲裁に入った回数は多い。最近では干渉する気も起きない。

 今日は様子見だけにしようと考えたが、ふと問題の入国者の姿が目に入った。

 横たわる長身の男性は、見るからにして怪我人だった。その男性を鎧の女性から守るように、少女が間に立っている。忠実な犬が、飼い主の死体を守って自分が尽きるまで立ち続けたという童話を、何故か思い出した。

 そっと、会話が耳に入るぐらいの距離に青年は近づいた。鎧の女性ことミョレン国の女騎士はシャスヴォル国の兵隊長との話をつけたのか、少女に話しかけている。

「ほう。貴様は命がけで、底辺クズ男を庇い立てするのか?」

 低く濁った声で、女騎士が嘲るように喋る。いつ聴いても耳障りな声だ。

「します」

 対する少女の声は澄んでいる。見たところ丸腰なのに、毅然とした態度だ。

 ははは、と女騎士は口を大きく開けて笑った。下品だと思った。

「男冥利に尽きるとはこのことだな! 何故そこまでする? 貴様の護衛のようだが、替えなど他にいくらでも手に入るだろう。厄介ごとの種でしかない男をどうしてわざわざ連れまわす?」

 金髪の三つ編みにまとめた長い髪を、女騎士は空いた手で後ろに払った。いちいち腹立つ挙動だ。

 少女は背後を一度振り返った。

「理由は私だけ知っていればいいことです」

 震える声を制しながらもはっきり告げる様は、青年の知る誰かを彷彿とさせる。

「くっくっ、いい答えだ。大した娘だな。構わんぞ、仲良く二人とも捕らえてやる」

 そこで青年は慌てて、駆け寄った。させない。

「いい加減にしてください!」

 新しい人物の乱入に、横たわる男性以外の全員が目を見開いて青年を見上げた。

「まったく貴女はいつも見境なく……。ちゃんと彼等の事情を聞きましたか? 身分証明書の確認は? この一帯で好き勝手をするのはやめていただきたいですね。それから、むやみやたらと人を捕縛したところで、首都の牢獄が一杯になるだけですからね。既に慢性的な問題でしょう。たまには頭を使ったらどうですか」

 青年はさっきまで皆が話していた南の共通語ではなく、音節がより多いミョレンの母国語で、怒涛のようにまくし立てた。

 女騎士は鬱陶しそうにヘーゼル色の双眸を逸らした。

「聖人デューセ、貴様か。厄介な奴め」

 女騎士は長い溜息をつき、剣を収めて、胸の前で腕を組んだ。

「…………私はこれで、お暇しよう」

 名残惜しそうだが、兵隊長が踵を返して去った。

 少女はまだ、警戒を解かない。握りしめた拳が震えている。

 栗色の髪が乱れ、服がところどころ破けて汚れていた。頬には幾筋か涙の跡がある。

 濡れた大きな茶色の瞳の凄みを、青年は美しいと率直に思った。

 急に、思い出したように少女が瞬いた。背後の男性に駆け寄り、その腹辺りに手を置いて、何かを小さく唱えた。

 次に展開された金色の輝きに、青年は虚をつかれた。それは彼のよく知る性質の聖気だ。もう一度少女の横顔を見直した。間違いない。むしろ声で気付くべきだった。

「ミスリア!?」

 青年の声が勝手に裏返った。

「はっ、はいっ!」

 反射的に姿勢をただして少女は返事をした。

「ミスリアじゃないか。まさかこんなところで会うなんて」

「え、えーと……カイルサィート……?」

 聖気を送る手を止めずに、ミスリアは自信なさそうに言った。

 二人が知り合いらしいということに、横で女騎士は怪訝そうな顔をした。

「そう、幾月ぶりだね。とりあえず大体の事情は察したよ。あの女性ひとのことは僕が何とかするから、もう安心していいよ」

 ミスリアは頬を緩めて頷いた。

 それまで閉じられていた男性の両目が開かれて、聖人カイルサィート・デューセは、生まれて初めて「呪いの眼」を目の当たりにした。

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