第五章:常しえに安らかなれ

52.

 それは出会ってまだ日の浅い頃のことだっただろうか。どこかで買い物をしていた時――理不尽なほど長い間店員に待たされて、青年は苛立ちから来る頭痛に苦しんでいた。隣でのほほんと笑っている少女を見下ろす度に、その苛立ちに拍車がかかるようだった。

 少女はどこへともなく視線を彷徨わせ、息をつく。そして己の体温と気温の差により生じた湯気を見つめながら言った。

「この世界は、素敵ですね」

「そうかぁ? 別に普通だろ」

 青年は言葉じりを吊り上げて問い返す。

「素敵ですよ」

「具体的に何に対してそう言ってるんだ」

 彼に言わせてみれば世界は喪失や苦難、欺瞞などに満ちている。素敵と言える要素よりもそうでない部分の方が圧倒的に多いように感じられた。

「空が青くて木の葉が赤くて、吐く息が白いです。落葉のにおいも、吹き抜ける風の冷たさも素敵でしょう」

「……全部当たり前のことじゃねぇか」

「当たり前だからこそ、愛おしいんですよ」

 少女は楽しそうに落ち葉を一枚拾った。湿気た地面の水分を吸い、茶色く変色したさまは決して美しくない。なのに聖女カタリア・ノイラートは、くるくると楽しげに葉柄を回している。その動作から滲み出る穏やかさに、青年は不覚にも感じ入った。

「あー……あんたはすげーな」

「え?」

「何も無いところに愛を感じるのか。そういうのって、信仰の力かねぇ。それとも性格なだけか?」

「何も無いなんてことはありませんよ。世界は常に命と光に満ちています」

 両手を振り回しスカートを翻しながら舞う少女の言葉は、冬の空気と同じくらいに透き通っている。

「あんたと話してると、俺は自分がくだらない人間なんだなって思い知らされるよ」

 淀んだフィルター越しでしか世界を見つめられない自らの目を恥じた。

「くだらないだなんて。貴方はご自身の良さを、まだ自覚できていないだけです」

 朝日みたいな笑顔で彼女は断言した。

 見惚れるよりも先に、嘲笑が漏れる。

「良さ、ねえ」

「――あ! 店員さん戻って来ましたよ。あの二人も呼んだ方がいいですよね」

「そうだな。ちょっくら探してくるよ」

 会話の焦点が逸れたのを有り難く受け入れ、青年は近くに居るはずの仲間たちの方へ足を運んだ。自分の話をするのはむず痒いし、あまり長く自己分析していると、卑屈さが全開になってしまう。

 だけど本当は、嬉しかった。

 たとえ彼女のそれが妄信だったとしても。誰か一人だけでも手放しで認めてくれたことが嬉しかったのに――いつも、うまいこと礼が言えなかった。

 もっと大切にするべきだった。

 そんな風に後悔しか生み出せない己が、何よりも惨めで醜い――。


_______


「ミスリア、足元」

「はい?」

 何気なく歩いていたら、背後のゲズゥが急に注意喚起を投げかけてきた。ミスリアは言われた方の足元に視線を向けずに、思わず振り返る。足を止めるべきだったのに、しなかった。

 躓いた。

 転びそうだったのを、後ろからがっしりと抱き抱えられて凌ぐ。

(なっ、何を踏んだの)

 ゲズゥの腕に支えられたまま、地面に横たわる大きな物を一瞥した。姿形は成人男性だ。道端で横になっているから、既に息の無い者かと疑ってしまう。けれども腐臭はしなかった。踏んだ感触も、柔らかかった。

「往来で仰向けに行き倒れるなんて、豪快だねぇ」

 隣でリーデンがころころ笑う。

「行き倒れって、ええっ!? お気を確かに! 私の声が聴こえますか!?」

 どうしてこの人は道行く誰からも見向きされていないのか。などと、気にしている場合ではない。ミスリアは膝をついて男性の肩を揺さぶった。

 よく見ると不思議な人だった。服は旅装っぽく動きやすそうで、生地や縫い目などの作りはしっかりしている。なのに、汚れや破れが目に付く。男性は身なりに頓着しない方なのか、伸び放題の白髪はくはつは耳飾などと絡まったりしていて、かなり長い間梳かれてもいないようだった。それと、埃と泥と森林の匂いがする。旅人だろうか。

(まだ温かいし、呼吸もある)

 呼び続ければいずれは目を覚ますのだと信じて、ミスリアは揺さぶるのを止めなかった。

 髪と髭に覆われている所為で顔がよく見えない。

 目が開いているのかどうか判然としないまま、ついに渇いた唇が震える。隙間から漏れた声は掠れていた。

「……ア……」

「よかった、気が付きましたか」

 そう声をかけてやると、男性は起き上がり、視界から前髪をどけた。ミスリアの顔を灰銀色の瞳に映すや否や、衝撃を受けたように動かなくなった。

 あの、ともう一度声をかけようとした瞬間。

 ばっと男性は近付いて来た。

「みぎゃ!」

 ただ近付いたのではない。窒息しそうなほど強い力でミスリアを抱き締めたのだ。

「――リア……」

 男性は何かを呟いたけれど、よく聴こえなかった。

 ゴッ、と凄まじい音がして、彼は次の瞬間には離れていた。平たく言えば、ゲズゥに蹴飛ばされたのである。突然のことでミスリアは反応しそびれた。

「は~い、おにいさん、勝手にうちの聖女さまに触らないでね。口より先に足が出る人に、この通り制裁を加えられちゃうからね」

「……リーデンさん、その警告は少々遅いのでは」

 肩にぽんとのった手の主を仰ぎ見て、言った。

「あはは、そうだねぇ」

「はあ」

 ミスリアは呆れはしても、護衛たちの行動を怒ることはできない。彼らは純粋に心配してくれたのだ。とりあえずこちらの落ち度だと考えて、ミスリアは男性に頭を下げた。

「え、っと。大変失礼いたしました。私の方から不用意に近付いたのに、乱暴な真似を」

「こちらこそ失礼しました」

 男性は思いのほかダメージが無いようで、何でもなさそうに立ち上がって頭を下げ返した。

「い、いいえ。もしかして私を、どなたかと間違えたのでしょうか」

 人違いをしたのかと問いかけてみたら、男性は「さあ」と頭を振った。

「よくわかりません。衝動でした。あなたを見て、大事なことを思い出せそうな気がしたのに……」

 僅かに男性の眉根が寄ったが、すぐに無表情になる。次いで平淡な言葉を連ねた。

「本当に失礼しました。では」

 外套が翻る。彼は驚愕の潔さで立ち去ろうとしていた。

「ま、待ってください。行き倒れていたのではないのですか? いきなり立ち上がって大丈夫ですか?」

 なんとなく呼び止める。男性は振り返らずに答えた。

「眠かっただけです。続きは宿で貪ることにします」

 やはり平淡な返事の後、ぐうぅ、と音がした。ミスリアはリーデンやゲズゥ、イマリナとそれぞれ顔を見合わせる。皆の視線は自然と流れ、男性の背中に集まった。

「あの、もしまだでしたらお昼を一緒にどうでしょうか」

「ご厚意ありがとうございます、親切な方。でも私は寝ているべきです」

「え、でも」

 目を離した隙に柱にでもぶつかりそうなほど、不安定な足取りで再び彼は歩き出す。

 名残惜しいような気持ちでその背中を見送っていたら、往来に面した雑貨屋から店主の女性が出てきた。

「お嬢さんたち、あの人のことは放っておきな」

「え? あ、こんにちは。うるさかったですか」

「別にそれはいいんだよ。あのね、あの人は特殊って言うか、事情アリなんだ」

 恰幅の良い、年配の女店主が「ここだけの話」をするように声をひそめた。

「精力的に魔物退治をしてくれるから有難いんだけど……ちょっと不気味なんだよねぇ」

「彼は魔物狩り師なのでしょうか。不気味、とは?」

 つられて小声で返す。

「記憶が無いってさ。自分がどこの何者だったのか、誰と関わって生きていたのか、どこで生まれたのかさえ、何も憶えてないって。得体が知れなくて、怖いんだよ。もしかしたら逃亡中の犯罪者かもしれないだろ? 今はいい人っぽいけど、本当に記憶喪失なのかもわからないからさ。何か企んでるかも」

「それは怪しいねー」

 リーデンが横から相槌を打った。女店主はぎょっと目を見開いて絶世の美青年を見上げる。

「そ、そう。怪しいんだよ」

 店主の言葉にうそ偽りは感じられない。あの男性が「大事なことが思い出せそうだった」と口走ったのも、記憶が無いからこその言動だと思えば辻褄が合う。

(でも……あの人は私を誰と間違えたの? まさか……)

 或いは彼はミスリアの探している答えのヒントを持っているのかもしれないと思うと、もう一度会って確かめたくなる。

(せっかくの忠告は有り難いけれど)

 いつの間にか世間話を交わしている店主とリーデンの間に踏み入った。

「あの! 危険は承知の上です。あの人とまた会うには何処へ行けばいいでしょうか。お願いします、教えて下さい」

 ミスリアよりいくらか背丈のある店主が、気圧されたように仰け反った。

「どこで寝泊まりしてるのかはわかんないけど、夜な夜な魔物退治をしてるらしいよ。一応、シュエギ、って呼ばれてる。この地の言葉で『泡沫』って意味だよ。他の人に聞き込むならそう言えばわかるんじゃないかい」

「僕らも夜な夜な魔物の出る場所へ出かければ会えるってことだね」

「まあね。でもあんたたちみたいな若い衆は、そんな危ない真似、よした方が――」

「ありがとうございます! では」

 それ以上踏み込まれないようにミスリアは女店主の言葉を強引に遮り、両手を掴んでぶんぶん振り上げる。彼女は怪訝そうな目をしたままとりあえず「いいってことよ」と挨拶を返した。

 そうしてその場を立ち去り、一同は食事処に入った。午後の予定を話し合う前に腹ごしらえをするのである。

 胃の容量が小さい女性の方が先に食べ終わったため、ミスリアは二人分の食器を給仕係に返しに行った。席に戻ると、リーデンとゲズゥがまだ野菜炒めを頬張る横で、イマリナが何かを話していた。手話が速くて何を言っているのかまではわからない。

「イマリナさんは何て?」

「ん。どうして魔物狩り師って職業があるのかって。傭兵も警備兵も聖職者も魔物退治するし、専門職として枠を作る必要はあるのか? って訊いてる」

 その疑問はもっともであった。戦闘能力と専門知識を有していれば、他と兼業でも良さそうなものだ。しかし実際はその枠が存在し、魔物狩り師連合という職業別組合ギルドも一般的に見られる。

「聖女さんはどうしてか知ってる?」

「はい。第一の理由は、生活リズムです」

 と、切り出す。他の三人は興味津々に静聴した。

「常勤の魔物狩り師は陽の出ていない間ほぼずっと活動していなければならないので、昼間に寝てるはずです。時々深夜に駆り出されるだけの立場の私たちと違って、毎夜待機していなければなりませんから」

「なるほどね」

「第二の理由は……なんと言えばいいのでしょうか。心の強靭さ、です。それこそ刹那の間に魔物に引き裂かれてしまいそうな距離でも、怯まないような精神力。元の素養以外には、魔物と相対した回数を積み上げることでしか、培われないものだと私は理解しています」

「そっかー。そういうのは兼業だったら色々と難しそうだねぇ。別の仕事やる為に現場からしばらく離れたら、感覚鈍りそうだし」

 とにかく異形と相対して生き延びることでしか精神力は鍛えられない。一方で、相対して生き延びたからといって心が折れないとも限らない。

 前衛を決して務めることのないミスリアにはその恐怖が想像できない。

 中でも、聖人・聖女の護衛という役割を毅然とこなす人たちを想う。たとえば、聖女レティカに楽しそうに付き添ったエンリオやレイ。たとえば、今目の前で麦粥を呑気に啜る兄弟。

(人選が良かったって思っていいのかな)

 そう思うとちょっと嬉しかったり安心したりもする。願わくば彼らの負担が少しでも減るように――

 ふと視線を感じて顔を上げた。隣のゲズゥがじっとこちらを見ていた。コンタクトという代物によって、今は両目とも黒い。

 どうかしましたか、と首を傾げながら問うと、一言の返事があった。

「予定」

「あ、そうですね」

「そうそう、聖地が近くにあるわけじゃないんでしょ。そろそろ何の為にこの町に来たのか教えてよ。どんな目的でも僕らは付き従うけど、流石に某組織の近くだしさ、気になるよね」

 向かいのリーデンが頬杖ついて言った。最後の指摘に、ミスリアは苦笑で応じる。

「ジュリノイの本部が近いのは偶然です。私はこの町で……」

 イマリナが卓上の食器を片付ける間、ミスリアは肩掛けのポーチから書類を取り出した。紐にくくられていた数枚の紙切れを解き、食卓に広げる。

「……お姉さまの手がかりを見つけられると思いまして」

 一瞬だけ視線を逸らした。深く語ることはしない。誰に何をどうやって聞いたのかまでは、言えない。我ながらあまりに確証の無い話であったからだ。

 リーデンの明るい緑色の双眸は察したように瞬いた。

「お姉さんも聖女さんだったんだよね」

「はい。教団に登録されていた情報によると、聖女カタリア・ノイラートは護衛三人と巡礼に向かったと記録されています。うち二人は連合を介して雇った魔物狩り師であり、前もって交渉したそうです。名はディアクラ・ハリド、イリュサ・ハリド」

「家名が一緒ってことは親類かな」

「優秀な魔物狩り師のきょうだい、と記されています。三人目は、二人と合流する前か後に出会ったのかはわかりません。教団の記録に詳細はありませんでした」

 ふうん、と言ってリーデンは腕輪代わりのチャクラムをひとつ、指でくるくると弄び始めた。ついそこに視線が釘つけになってしまうのは、考え事をしている時の癖にしては危ないからである。

 幸い、鉄の戦輪は数秒後には静止した。

「一行の足取りが途絶えたのって、どの辺?」

「それも詳しくはわかりません。お姉さまからの最後の報告書は、この国のどこかから提出されたそうですけど」

 そう答えると、リーデンはすっと目を細めた。口元の笑みには、警戒の影が落ちている。

「んー。この国って、所謂アレが盛んだって聞いてるよ」

「アレ、とは……」

 彼の言わんとしていることに気付く。

「旧信仰って言うんでしょ。皮肉なもんだよね、この大陸って北へ行けば行くほど信心深い人が集まってるらしいね。聖獣信仰も、旧信仰も。ついでに、魔物信仰だってそうなんじゃないの」

 いつの間にかリーデンは声の音量を落としていた。

 全て事実だ。一概に信心深いと言っても、信仰対象には多少の幅がある。アルシュント大陸の宗教組織はヴィールヴ=ハイス教団のみ――けれども、宗教組織でなくとも公に神を掲げる組織は存在し、密やかに活動する集団に至っては数えようが無い。

「今更だとは思うけど、君は、僕らとなるべく手を繋いでた方がいいね。こんなところで攫われるのはまずい。お姉さんの手がかりを探すどころじゃなくなるよ」

「ご、ご冗談を」

 思わずそう返すも、リーデンの微笑は本気だった。既に彼は、いつも使っている「聖女さん」呼びを改めている。

「冗談じゃないよ。ねー、兄さん」

「ああ」話を振られたゲズゥは銅製のコップからぐいっと水を飲み干して、同意した。「それと、これから仮眠を取れる場所を探すべきだな」

「さんせー。なんなら四人で雑魚寝しよっか」

「いくらなんでもそれはできません!」

 ミスリアは即座に反対した。この人は何を言い出すのか。明らかな冗談だとわかっていても、声を荒げずにはいられない。

 他の食卓の客から好奇の視線がちらちら向けられる。

「あはは、しょうがないなぁ。添い寝はマリちゃんだけで手を打とう! 残念だよ。ねー、兄さん」

「…………」

 無言は賛否どちらであるのか、わからないからこそ恐ろしい。気まずさを感じてミスリアは隣を見ることができない。

 対して、添い寝する権利を唯一与えられたイマリナは嬉しそうに手を叩いている。

(もう、みんなして私をからかって!)

 ――と思うものの、言わない。この能天気さは救いである。

 先週の内に町に着いてからずっと、ミスリアは気が重かった。姉の失踪の真実を探ることの重さは、ふと立ち止まった時に襲ってくる。覚悟は決めたはずなのに、例に無い苦痛であった。

 果たして結論が見つかっても、見つからなくても、その先で自分はどんな顔をするのだろう。

 そう考えると、なかなか寝つけられない夜が続いた。


_______


 白髪の男を次に見かけたのは、ほとんど黎明に近い時刻だった。

 既出の魔物は狩り尽くされ、大抵の魔物狩り師が帰宅した後のことだった。一晩走れば一周できるような規模の町だ。出発地点に戻ったのと時を同じくして、その姿を目の端で捉えた。

 よもや今晩中に再会できるとは思っていなかったゲズゥ・スディルは、少なからず驚いた。男の動きは俊敏だ。付着している紫黒色の液体の量からして間違いなくずっと活動していただろうに、疲労は表れていない。

 ミスリアも男に気付き、声をかけようとしている。それをリーデンが制した。

「ちょっと、このまま様子見ようか」

 気付かれない程度に距離を保ったまま、観察する。

 白髪の男は眼前の標的の周囲を巡り、動きを封じる為に木の枝などを斬り落としている。隙を見て、異形のモノに棒状の武器を刺した。七フィート(約2.13メートル)にも及ぶ立派な槍――形状から判断して、グレイヴと呼ばれる代物だ。

 魔物は断末魔と体液を散らしながら倒れた。それを至近距離で浴びせられても、男は身じろぎひとつしなかった。

 セオリーでは複数人で臨むべき魔物狩りを、聖職者の支援もなしで一人でこなしている。大した者だとゲズゥは素直に評価した。

 当初の標的が動かなくなり、男はグレイヴを抜きにかかる。

 途端、地面から円錐のようなものが三、四つ飛び出した。男は取り囲まれていた。

「シュエギさん!」

 ミスリアがそう叫んで駆け出したのと同時に、円錐の異形は火を噴き出した。駆け出した少女に追いつくのは容易だった。炎に近付き過ぎないように、背中に庇う。

 男の姿が炎に掻き消される。

 鈍い衝突音がした。シュエギとやらが、メイスで円錐の魔物を殴り壊したのである。炎の向こうから現れた双眸は、激しい憎悪に彩られていた。

 そう観察する間にも、ゲズゥは背中の大剣を解放していた。

 びゅん、と速やかに片手で振り下ろす。壊された円錐が再度くっつこうとしていたところを、切り裂いて阻止した。足元の破片にまでいちいち人面が浮かんでいる。随分と気色悪いが、放っておいてもリーデンの飛び道具が地面に縫い付けてくれる。

 後はミスリアの祈りと聖気の活躍で、陽が昇るよりも先に、場の瘴気は鎮静された。

「でっかい剣だな。敵に懐に入られたらヤバイだろ。怖くないか?」

 白髪の男が真っ直ぐにこちらを見据えて話しかけてきた。昼間に会った時とどうも雰囲気が違うように感じられる。

「その時は生身で対応する」

「それもそうか。あんたはかっこいいな。俺は、普通に怖い」

 だから長槍と棍棒の両方を扱うのだろうか、などと疑問が過ぎった。

 男は今度こそグレイヴを取りに戻った。

 再び振り向いた頃には、昼間会った際のような生命力の弱い雰囲気に戻っていた。魔物相手に見せた鋭敏な反応速度はどこかへ消え去ったようだ。

 そして無表情で辺りを見回した後――

「あなた方もこの筋の人だったんですね」

 ――と言った。

「私は聖女ミスリア・ノイラート、こちらは護衛のスディル氏とユラス氏です」

「聖女さまですか。こんな汚い仕事に手を煩わせてしまってすみません」

「い、いえ。いつでも喜んでお力添えします」

 頭の下げ合いがまた始まった。

「私のことはシュエギと、呼んでいましたね」

「町人にそう呼ばれているのだと教えていただいたんです。もっと他に呼んで欲しければ――」

「構いませんよ。どんな風に呼ばれても、今の私には他人事です。記憶が無いんです。そう聞いたでしょう」

 なんとも覇気の無い具合に男が答える。ミスリアは返す言葉に窮したようだった。結局、本題に切り替えることにした。

「あの、不躾だとは思いますけど、お訊ねしたいことがあります」

「何でしょうか」

 男は無表情でミスリアの問いを受ける。

「今から言う三名のいずれかで構いません。ご存知ないでしょうか」

 単刀直入に、ミスリアは姉と護衛二人の名を挙げた。

「ディアクラ・ハリド、イリュサ・ハリド……」

 男は俯き加減に名を復唱する。

「カタリア、ノイラート………… 」

 何故かミスリアの姉の名を口にした時だけ、男は手の中の武器に視線を落とした。厳密に言えば、メイスやグレイヴの柄部分にそれぞれ結び付けられた灰色のリボンにだ。どれも古びて糸がほつれている。

 視線は固着するだけで、これといって認識の色を浮かべない。

 しばらく沈黙は続いたが、変化の兆候はいつまで経っても訪れなかった。

「どんな人たちだったのでしょうか」

 やがて重々しい口ぶりで男は問うた。

「私が知るのはカタリア・ノイラートについてのみです。私の姉です。誰にでも優しくて、どこかふわふわしてましたけど、しっかりと大望に向かって生きていました。外見は、私とよく似た髪と目の色をしていて、顔立ちも似ていたと思います」

 姉のことを過去形で話すべきか決めかねているのか、ミスリアは不安定な声で情報を提示する。

 灰銀の視線がようやく動いた。

 ミスリアの面差しを眺めつつ男は眉根に皴を刻んだ。不規則に何度も深呼吸をしている。グレイヴの柄を握る手に力が入るあまり、関節が白んでいる。

「すみません。そのような知り合いが居たかもしれませんし、居なかったかもしれません。本当に何も憶えてないんです」

 思い出そうとするだけで苦しいのか、返事は今にも消え入りそうなほどか細い。

「私の方こそ無理を言ってすみませんでした」

 気を遣ってのことか、ミスリアは落胆を声に出さなかった。

「あなたの姉君はどうされたんですか」

「……何年か前に、旅の途中で姿を消したんです」

 質問に、ミスリアが答える。すると男は羨ましそうに「いいですね」と漏らした。

「もし私にも兄弟が居て、どこかで同じように私を捜して聞き込んだり奔走していたら、と想像すると、少しだけ気分が良いですね」

「その内どなたか迎えに来てくれるかもしれませんよ」

 何ら根拠のない一言だが、ミスリアが相手を元気付けようとしているのがわかる。今日出会ったばかりの人間だろうと、自分の心中よりも他人を優先する人の好さは健在だ。ゲズゥは最早それを当然の成り行きと受け入れた。

「その時は、ちゃんと思い出してやれるか不安です。面と向かって『知らない』と言ってしまいそうで、しのびない」

 男の返答は翳っていた。

「せっかく彼女が励ましてるのに、君は自分から台無しにするねぇ」

 これまで黙って見守っていたリーデンが軽く口を挟んできた。

 白髪の男はぼんやりとした双眸を返し、思い出したように頭を下げた。

「失礼。あなた方には関係ありませんね。無駄話をしてしまってすみません」

 話はそれで終いにするつもりだったのか、男は己の武器に注目を向けた。懐から布切れを取り出し、汚れを拭き取ることに夢中になっている。

 まるで敵意を感じない。一応警戒心だけ残して、ゲズゥも大剣を仕舞った。

「シュエギさんは優しいんですね」

 と、ミスリアがぽつりと言った。男は抜け殻のような瞳を少女に向けた。

「はあ」

「会ったことも無い、居るかどうかもわからない人が傷付くのを想像して、心を痛めているのでしょう?」

「そういう見方もできるんですね。流石は俗世を越えたところに生きる、聖女さまです」

「私は本心からそう感じました」

 見れば、ミスリアは慈愛そのものの微笑をふわりと浮かべていた。ゲズゥにとっては見慣れているものとは言え、滲み出る温かさは変わらず感じ取れる。

 それがちょうど木立の隙間から射す朝日と絡まって、見る者によっては神々しいとすら映るような光景と化した。ただの少女が、聖女像を体現する瞬間。

 ならばシュエギと呼ばれる男はどう反応するか、と興味が沸いた。

 吊り上げられた眉、大きく見開かれた瞳に、震える唇。そこには明らかな動揺が浮き出ていた。

 だが敬愛や尊崇とは違う。もっと日常にありふれた感情、そう、懐かしさと――

 ――既視感、だ。

「……ずっと以前にも、似たようなやり取りがあった気がします」男の言葉はゲズゥの観察を肯定した。「あなたには初めて会うはずなのに、どうしてでしょうね」

「どうして、でしょう」

 ミスリアは相槌に迷っている。ぬか喜びをしてそれが相手にも伝わってしまうのが、気が引けるのだろう。

 空気がピリッと痺れた。

 理由を確認するより先に、ゲズゥは動いていた。守るべき対象を背中に押しやり、異変の根源たる男との間に入った。

 同様に行動した弟と肩を並べ、頭ひとつ分は背が低い男を見下ろした。

 白髪の男は、歯軋りしていた。ボサボサの髪や髭を引っ張り、荒い呼吸をしている。血走った目は忙しなくデタラメに動く。

 まるで耐え難い激情を持て余すように。

 髪色のことを除けば二十代後半くらいだろうかと思っていた顔は、いつの間にか老け込んだのか、皺をどんどん増やしていく。

 くい、と腰辺りの服が後ろに引っ張られる感覚がした。

 上着を掴む小さな手から戸惑いが伝わる。どいてやることはできない。攻勢に出るべきか逡巡する――

 が、シュエギという男は急に何かに打たれたように、素早く踵を返した。そうして無言のまま、場を辞した。

 土色の外套が見えなくなるまで、ゲズゥたちは動かなかった。

 ふいに一陣の風が通り抜ける。枝葉が振り回される音が耳に大きく響いた。

 さすがは大陸北部と言ったところか。夏も半ばなのに、涼しい風ばかりが吹く。

「あの…………」

 静寂が戻って数分経った頃、遠慮がちにミスリアが呼んだ。肩から振り向いて、「去った」と一言報告すると、微妙な表情で「そうですか」と応じる。

「ん~、どことなくアブナイ人だったね。兄さんはどう思う?」

 危機が杞憂に終わったのを見届けてから、リーデンも口を開く。

「嘘や悪意は感じなかった」

「そこは同感だよ。でも、真実あの人に過去の記憶が無いなら、どんな悪人だったとしても今は感じ取れないわけだよね」

「あの男は、何かを思い出しかけていた。危うさはおそらく、そこからだ」

 そう答えてやると、リーデンは物憂げな眼差しを傍らの少女に向けた。

「経緯や性質は違うけど、僕も『思い出せない過去』に悩まされたことがあるからなんとなくわかる。深層意識が阻むくらいだから、彼にとってのそれは、多分思い出さない方が良いヤツだね」

「……そうですね。それで人ひとりの精神を崩壊させる結果になるなら――……他人が促していいことではありません」

「あっちの気が変わって、自分から思い出そうとしたなら話は別だけど」

 遠回しにそうなるように仕組んでみてはどうかとリーデンは示唆している。

「彼に会うのは諦めることにします」

 意図を汲み取ったのか否か、ミスリアは小さくため息をついただけだった。

「ねえ、シュエギって人が君のお姉さんと知り合いだったとしても、もしかしたら仲間じゃなくて、害した側の人間かもしれないよ? その可能性は考慮した?」

 聖女と名乗ったのはまずかったんじゃ、とリーデンは声を低くして続けた。「もう会わずに済めば大丈夫だろうけど」

「考えないようにしていたのだと、思います」

「…………余計だったかな」

 珍しく気遣う口ぶりで、弟は遠くを見つめた。まるで助言したことを反省しているように。

 こういった気の回し方に慣れないのだろう。ゲズゥとて同じで、慰める言葉すら持っていない。

 むしろ、どうしてそれが気になってしまうのかも不可解である。

「いいえ。心配してくださってありがとうございます」

 ――総てを受け入れる、少女の微笑み。その奥にちらついた寛容さに、改めて瞠目する。

 それでもミスリアは未だに白髪の男が去った方向を見つめていた。

 他人を思いやって自身の望みを我慢する強さは、実は脆い基盤の上に成り立っている。

 目を離せば、きっと一人で泣くのだろう。と思ったら、手を伸ばしていた。

「え?」

 ミスリアが驚きの声をあげた。大きな茶色の双眸が手元に落ちる。

「ここで手を繋ぐんですか?」

 疑問はもっともだ。人気も無く、視界が割と開けている林の中でははぐれる可能性が低く、手を繋ぐ必要性は無い。

 必要は無くても、放そうとは思わない。答える代わりに、柔らかい手が潰れない程度に、握る力を強めた。

 ミスリアは何故か目を逸らした。頬に微かな朱がさしている。

「僕も繋ぎたいなぁ」

「お前は調子に乗るな」

 深く考えずに脛を蹴ろうとする。リーデンは持ち前の反射神経でそれをサッと避けた。

「えー、理不尽ー」

「リーデンさんもゲズゥと手が繋ぎたいんですか? でしたら左手が空いてますよ」

 ミスリアが的外れな進言をすると、リーデンは笑いを堪える時の奇怪な表情をした。

「ヤメテー、もう子供じゃないんだから。ていうか兄さんは、君としか手を繋ぎたくないと思うよ」

「えっ、どうしてですか?」

「どうしてー、だろー、ねー。あ、でも僕は可愛い女の子の手なら、割と誰でも大歓迎だよー」

「…………」

 耳障りな声で一句一句を歌い上げる弟を無視して歩き出す。疑問符を目に浮かべたミスリアが振り返ると、リーデンはまた可笑しそうに喋り出してついてきた。

 こうして宿に戻るまでの道すがら、次は国内の教団の伝手から探ってみることを、話し合って決めた。

 他の情報源を確立できれば、シュエギという手がかりを心置きなく放棄できる。

 しかしミスリアがあの男に会うのを諦めるつもりでも――また鉢合わせしそうだなと、頭のどこかでは危惧せずにはいられない。

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