34.

 誰かに呼ばれたような気がして、リーデン・ユラス・クレインカティは意識を浮上させた。

 浮上させた――はずなのだが、すぐに違和感を覚えた。

(ここは……?)

 僅かな光さえも認識できない、完全な闇に包まれている。

 古びた木材の臭い、通気性の悪い空間。屋内のはずなのに外の冬の寒さと変わらない低温。

(屋内……そうか、僕は屋敷の中に潜入して……)

 気怠い。頭が靄がかかったみたいにぼんやりするし、手足も動きそうにない。

 リーデンは何度か冷たい息を吐いた。

(あーあ、しくじった。取り逃がした上にこのザマかぁ)

 殺害対象であった男はヤシュレ出身の大富豪で、調べによると屋敷を五つほど構えているという。何でも少数民族の奴隷を集めるのが趣味だったそうで、呪いの眼の一族の住まう林もかつて何度も訪れてはその度に族長にこっぴどく追い払われていたらしい。十二年前にシャスヴォルの政府が村の殲滅を決めた時、何処からか噂を聞きつけて便乗したのだとか。

 人間のクズとはこういう男の為にある言葉だ。得体の知れない種への恐怖ならまだギリギリ理解できなくもないが、この男の動機といえば、手に入らない他人様の玩具を逆恨んで壊そうとする、幼児以下の思考回路だ。

 だがあろうことかそんな人間のクズには金があった。腕の立つ用心棒を大勢雇えるほどに。

 全部の屋敷の警護は完璧、しかも自分がどの屋敷に滞在しているのかは常に曖昧にして。奴はそうしてのらりくらりと追跡をかわし、今日この日までどんな敵にも――もちろんゲズゥ・スディルにも――首をかられることなく生き長らえている。

 本来なら暗殺行為を得意とするリーデンは、今回は焦りすぎた。これまでの四人の仇は兄が一人で始末したのだから自分も一人でやってみせなければ意味が無い、などとくだらない意地を張っていた。もっと周到に下調べをしてから協力者を揃え、寸分の狂いも生じない計画を立てるべきであった。

 今更それを後悔してももう遅い。ターゲットはとっくに遠くへ逃げているだろうし、屋敷の人間は今も侵入者を仕留めようと目を光らせている。見つかるのは時間の問題に過ぎない。

(時間といえばどれくらい経ったんだろ。この屋根裏空間には窓があった記憶があるんだけど)

 逃げ込んだ時にはこんなに暗かっただろうか? 最初に覚醒してから数分経ったはずなのに、何度瞬いても視界に明るみはもたらされない。知らぬ内に夜になっていたのだろうか。しかし夜だとしても今宵は新月ではない。

 せめて自分の手くらいは見えるはず、そう思ってリーデンは右手に意識を集中させた。首を傾け、手を顔に近付ける。近付けたつもりであった。

 指先が睫毛に当たっても、全くこれっぽっちも見えない。

 脳の片隅にちらついていた一つの可能性が、いよいよ無視できない勢いをつけて警告を出している。

「視神経をトばす毒ね。また厄介なモノを……」

 思い出した。敵から逃れた時、吹き矢が太腿に当たったのだった。その直後に身を隠し、いつの間にか意識を失っていた。

 負った傷はそれだけだったのにこの急激な疲労、毒にやられたと考えるのが筋だ。他にも心当たりがあるとすれば、たとえばさっきから数分に一度、思い出したように吐き気が喉の奥を上っている。もう毒は回っていると考えられる。

 左脚からじわじわと広がる疼痛が煩わしい。リーデンはため息を漏らした。

 それと同時に霧が晴れるが如く、少しずつ視界に形が現れていた。全体の暗さは変わらない。

「なに? コレ」

 リーデンは淡く光る薄い水たまりの中に居た。リィン、と音とも言えない音で、水たまりに波紋が浮かび上がる。

「幻覚、にしてはなんか……」

 ――怖い。

 不覚にも恐怖に震えた。自分の身に起きていることに対してそんな感情を覚えたのは、果たして何年振りだろうか。

 死そのものが怖いのかというと、そうではない。リーデンは死後の世界に興味が無かった。死んだら同胞と再会できるなどと安易な考えは持っていない。意識が途切れて終わる、そのようにしか考えていない。

(違う。これはそういうんじゃない。消える)

 何故そう思ったのかはわからない。

 水たまりの中に青白く光る白玉のような丸い物が無数にぽこぽこと出てきた。

 じっとそれを観察してると、それはやたら頭だけ大きいグッピーの群れのようだった。魚たちは小さな口を開いて、歯を見せた。

 それらの一匹が、ぱくん! とリーデンに噛み付いてくる。実際には己の輪郭が何処にあるのか未だに見えないので、噛み付かれたような印象を受けた、ということになるが。

(僕という人間が『喰われる』!)

 魚たちの動きが速くなった。今度はちゃんと、皮膚をかすったような感覚があった。

(嫌だ。この世から存在そのものが、僕がいたという事実が消えるのは嫌だ……!)

 自我と記憶を失う恐怖。

 リーデンには、覚えのある感覚だった。

 それは即ち過去の経験――。


_______


 また、目が覚めた。

 さっきの出来事が夢であったのか、直後に落ちた状態の方が夢なのか、曖昧だ。周囲は再び一点の明かりも含まない闇と化していた。

 静謐な闇の中から水たまりも魚たちの姿も無くなっていることに、安堵した。

「なんか村が燃えた時みたい。夢現の間を行き来するダンスにはもう飽き飽きしてるのになぁ」

 煩わしげにリーデンは呟く。手足が容易に動かないのは先刻と変わらない。

 ちかちかと遠い先の一点が光り出した。しばらく目を凝らしていると、そのうち老婆の姿が浮かび上がった。その隣に夫らしき老爺が並ぶ。二人は薪となる枝を集めて終えて帰路についているらしい。

 どちらもかつてはよく見知っていた背中だ。

 これが夢なのだろう、とリーデンは結論付けた。あの老夫婦はとうの昔に死に絶えているからだ。自分がこの手で屠ったはず。

「うそつきどもめ」

 低い声で毒を吐いた。彼らの残滓を眺めていると嫌悪感しか生まれなかった。

 大人は己の都合の為に他者をいくらでも踏みにじるのだと、最初に教えてくれたのが奴らだ。

「どうしたんだい、○○」

 老婆は己と手を繋ぐ幼児に問いかけた。子供の頃のリーデンの姿だ。いつの間にか老夫婦の間に現れていた。

 問いかけられた幼児はわんわんと泣き出す。

「おやおや○○、男の子がそう簡単に泣くもんじゃないよ」

 老夫婦はリーデンに別の名を付けて呼んでいた。それまでの自分を、生活を思い出させない為にそうしたらしい。現在のリーデンは嫌悪感のあまりに、その名が何であったのか記憶から綺麗さっぱりと削除している。

「このお茶を飲みなさい。気分が落ち着いて、きっと元気が出るよ」

 幼少の頃のリーデンは素直にそれを喉に流し込んでいたが、そうしていつも出されていたお茶に含まれていた薬草に気付くまでに何年も要した――。

 映像が切り替わる。

 いくらか成長した銀髪の少年が目をこすりながら「怖い夢を見たの。愛想のない、髪と目の黒い男の子が居たよ」と訴える場面だ。里親たちは「大丈夫だよ。怖い夢なんてこのお茶を飲んで忘れなさい」と答える。

 映像が切り替わる。

 更に成長した銀髪の少年は里親に「どうして僕の左目は白いの」と問いかける場面だ。老夫婦は「それは小さい頃の病気の後遺症だよ」と答え、やはり彼に茶を勧める。

 また映像が切り替わる。

 前触れなく、少年は癇癪を起こしていた。訳もわからずに怒りが全身を駆け巡り、寂しさに震えていた。泣き喚き、自室をひっくり返す勢いで物を投げては壊している。きっかけが何だったかはもう思い出せない。

 里親は宥める。

「かあさんたちを困らせないでおくれ。いつもの愛らしくて聞き分けの良いお前に戻っておくれ。さあ、このお茶を飲めば落ち着くよ」

 リーデンは勧められた茶ごと、老婆を突き飛ばした。

「要らない! そんなものいらないよ、ババア!」

「なぜだい、お前の一番好きなお茶だよ。ずっと三人で暮らしてきたのに、かあさんにひどいことを言わないでおくれ」

 老爺が妻を助け起こしながら悲しそうに言う。「ずっと三人で暮らしてきたのに」という言葉に折れて、結局は茶を飲んだのだった。

 しかしそれから更に時が経つと、例の茶の効き目が弱っていたのだろう。摂取する量を増やされながらもリーデンは時折狂ったように癇癪を起こした。その根源にあったのは老夫婦への怒りと、傍に居ない「誰か」への懐かしさと寂しさ。

 それもふとある時に思い出すことになる。

 突如、左眼が「映した」のだ。遠い土地、見知らぬ風景、自分の五感を通して感じたのではない、別の誰かを襲った衝撃。

 それまでは視界や感覚の共有が起きないよう慎重に「遮断」していたであろう兄の身に、災いが降りかかったようだった。気絶するほど強く殴られた、あちらにしてみればそんな程度の体験だったろうけれど、リーデンの抑圧されていた自我を揺さぶるには十分だった。

 己が何者であったのか。自分が失ったものが何であったのか、思い出した。一族を終わらせた悲劇と、たった一人一緒に生き延びてくれた兄のことも。

 そして知った。

 里親に何をされていたのか――怪しいと気付きさえすれば後は茶の成分を調べるだけ、そう難しい問題ではなかった。

 遠い昔、家から兄が追い出されたと知った日に、リーデンはひどく取り乱していた。何度も里親を責めた。兄を追いかけたい、捜しに行きたい、と何度も家を飛び出した。そんなリーデンに手を焼いた老夫婦は、とある薬草に手を出したのだった。

 それは忘却草アムネジアと呼ばれる代物で、一時的に人間の記憶を混乱させる効果がある毒だった。

 彼らは混乱した状態のリーデンにさまざまな嘘を刷り込むことで、まるで本当の親子なのだと記憶を書き換え、洗脳した。

 真実を知ったリーデンは体内の血を沸騰させた。当然、それまで以上に特大の癇癪を起こした。

 椅子の一つや二つも投げただろう。食器を投げたり、ガラスを割ったりもしたと思う。

「どうしてこんなことするの! うそつき!」

 怯え蹲る老人たちに詰め寄った場面だ。

 偽りの家族ごっこは、もう終わり。気付いた以上、奴らの出す飲食物を二度と口に入れることはなかった。自分が何者であるのかをまた見失うのが怖かったからだ。

「わたしたちの気持ちもわかっておくれよ。お前はあのままじゃあ壊れてしまいそうだったんだ。目を離せば遠くに行っちゃいそうで……」

「それじゃあ僕の気持ちはどうなるの!? にいちゃだって!」

 苦しかったはずだ、悲しかったはずだ。

「二人も子供を養うのは無理だったんだ、お兄さんのことは仕方がなかったんだ」

「よく言うよ! 僕一人だって洗脳しなきゃ手に負えないくせに!」

「洗脳なんて言い方をするな。ちょっと物分りがよくなるおまじないだったんだよ」

「はっ、あれがおまじないなもんか! にいちゃだったら、きっとそんなことしない!」

「○○、頼むからわかってくれ――」

「その名で呼ぶな! 僕の名前はリーデンだ! 優しい母さんと、顔は怖いけどめっぽう強い父さんがつけてくれた!」

 少年がそう叫んだ刹那、記憶の映像が弾けるように霧散した。

 暗闇に取り残された十七歳のリーデンが喉を鳴らして嘲笑う。

「……兄さんならきっと、聞き分けの悪いガキ相手でも変わらず傍にいてくれる、世話を焼いてくれる――か。流石、昔から僕はめんどくさいクソガキだったね」

 あの後、泣きながら許しを請う老夫婦に「家族として共に過ごした日々を思い出してくれ」などと願われても、思い出に輝きは残っていなかった。

 並んで畑で汗を流したことも、暖炉を囲って絵本を読んだことも、雷の夜に三人で一緒の布団で寝たことも。真実を知ってしまえば、どれも生きた実感を伴わない薄ら寒い記憶となった。そこに「自分」は、リーデン・ユラス・クレインカティは居なかった。

 思い返すと吐き気ばかりが込みあがった。

 実の母と妹の死に顔を思い浮かべた方が、魂に火がつくような情を感じる。

 にゅるり。

 ふいに下から青白い手が伸びた。骨格や関節を感じさせない、しなやか過ぎる手だ。

 ふくらはぎを撫でられたようなひやっとした感触があった。相変わらず自身の姿は視認できないので触覚のみを頼っている。

 青白い手の隣にまた指がにゅっと伸びた。指に続いてもう一本、手が出てきた。次第に闇の底から二体の何かが這い上がる。

「ひどい子だね、お前は……。親不孝だ。親不孝者だい」

「苦しいぞよ。お前の所為だ。お前が親不孝者だった所為だ。育ててやったのに、わたしらをアッサリ殺しおって」

 嫌な響きだ。歪んだ顔が発する歪んだ恨み言。

 多分怖がるべきだとか憐れむべきなのだろう、とリーデンは冷静になった頭で考えていた。

「そんなの知ったこっちゃないね。勝手に苦しめば?」

 が、彼の返答は冷ややかなものだった。今更、こんな夢に怯える可愛さは持ち合わせていない。

 たとえ我が手で殺した老人たちのドロドロとした亡霊が蘇ろうと、気にかける筋合いは無い。

『お前はなんて醜い人間だ』

 闇の奥から糾弾する声が轟いた。記憶の中の父の厳しい声色に似ている。

「僕が醜いのだとしたら、それは育てた親の醜悪さが反映されたからでしょ」

 とっくにリーデンは開き直っていた。あのぬるっとした温かい血の感触に快感を覚えた、その瞬間から。

(あの日、僕は解放された)

 鈍器で里親を殴り殺した直後。頭の中に兄の声が響いた。自分たちには遠く離れていても意思を通わせる手段があるのだと、その時に初めて発見できたのだった。

 ――リーデン、お前はそれで良かったのか――

 最初はそれが兄の呼びかけと知らずに、適当に返事をしただけだった。

 ――いいんだよ。だって、こんなにもスッキリできたんだし。

 リーデンは静かに笑いながら二つだった血溜まりが繋がって一つの大きな輪を成す様を見下ろしていた。だがしばらく経つと疑問が大きくなった。

 ――あれ? 何この声。アンタ誰?

 訊ねても返事は無かった。直感的にリーデンは答えを掴んだ。

 ――にいちゃ! そうでしょ!? 会いたいよ! 何処? 何処に行けば会えるの!?

 ――……教えられない。お前は、此処へ来るな。今からでも遅くない。お前だけは普通に生きて幸せになれ。

 ――絶対、嫌。

 兄の有無を言わせない口調に対してリーデンも頑固に答えた。どれだけ時間がかかろうとも必ず見つけ出してみせると、彼は心に決めたのだった。


_______


 次に目が覚めた際には、全身が喰われかかっていた。

 吹き矢の毒で鈍っていた神経が、氷の針を刺し込まれたように刺激される。最早何が現実であるのか全くわからなくなっていた。

「いっ……つ――」

 激痛のあまりに声すらまともに出ない。

 リーデンは瞑っていた目を何度か瞬いて、腹の上に目をやった。得体の知れない重みによって、全身が呪縛されている。

「おやふこうものぉ」

 恨み節を吐くそれは鮫みたいな形をしていた。鮫の背びれは二つに裂け、それぞれに老人の人面が浮かんでいる。片方が老婆で、片方が老爺。

「ずっと一緒だぞい。一緒にいような」

 払い落とせるものならそうしたいと、強く思った。だが手に力は入らず、鮫の口周りをぺちっと叩くしかできなかった。

「大人しく喰われろおおおおう」

 ――ガツン!

 リーデンの右手の指が残らず噛み切られる。何が起こったのか理解できずに彼は白く光る手を見つめた。切断面からは血が出ない。代わりに白い瘴気みたいな靄が出た。

「ちょっと、人の指に何しちゃってくれてんの」

「クワレロ!」

 開かれた鮫の口の中では、リーデンの指であったモノの破片が歯の間に挟まっている。気分の良い光景とは言い難い。

 鮫は、今度は腹に噛み付いてきた。

「あああああああああああああああああ」

 猛烈な痛みが弾けた。己をごっそり持っていかれた喪失感も。

「やめ……ろ! なんだ、よ。お前らなんか、死んだ……くせに!」

 抵抗する力は無いので、せめて怒鳴り飛ばしてやろうと試みる。

 今見える奴らのこの姿が、リーデンの良心の呵責の産物であるはずがない。そんなものは持ち合わせていない。あの日の惨劇を何度夢に見ようとも罪悪感など微塵も感じず、いつも痛快な気分になるだけだ。

 ならば、これはもしかしたら本当にあの二人の魂が変じた姿なのかもしれない。そういえば死んだ人が魔物になると誰かが言っていた。

「死んだ? はて、死んだかな。死とはなんぞや」

「死なぬよ。わたしらは永遠の時をかけておまえを可愛がってやるゆえ。愛しているぞ」

「そんな重い愛、いらな、ぐっ!」

 激痛、麻痺。激痛、寒冷。

(痛い! 寒い! 何処が痛いとか、じゃない! 何が痛いのか、わからない!)

 思考から整合性が抜け落ちる。

(どうしてこんな)

 自分は今本当に「起きて」いるのだろうか。これは自分の身体に起きている出来事で間違いないのだろうか。

 減っているのは、すり減らされているのは、肉体か――?

 ひゅー、ひゅー、と満身創痍な呼吸音が繰り返される。いつしか腹部からは膿に似たどろっとした液体が垂れ出ていて、奇怪な鮫がそれを嬉しそうに啜っている。

 鮫の下腹から生えた人間の腕が、今度はリーデンの腸をまさぐる。

 おぞましい。なのに、そんな感覚すら現実味が薄れていくようである。

「た、すけ…………」

 すり減らされていく内に、リーデン・ユラス・クレインカティが何処から何処までに存在しているのか、曖昧になってきていた。この闇も、魔物も、自分の一部なのか。それとも別の存在なのか。

 嫌だ。こんな風に取り込まれて、終わるなんて。

「にい、ちゃ……」

 兄に助けを求めたのは最後の手段のようなものだった。あの人はいつだって、弟の手助けを求めようとはしなかったから、自分だってやりたくなかったのだ。

 返事は来ない。呼びかけが届かないのだろうか。それとも、来たくないのだろうか。

 アヘンの煙が蔓延する場所で再会した時の記憶がちらついた。

 よからぬ世界に踏み込んでからの弟と初めて対面した兄は、表情こそ変えなかったが、その瞳には冷たい失望が映し出されていた。

 リーデンが、もしかしたら選択を間違えたかもしれないと感じたのは、そんな兄と目を合わせたあの瞬間だけである。

「ごめっ……、にいちゃ――」

 本当はずっと、謝りたかった。

 君の望むようになれなくてごめんなさいと、僕がこうなったのは君の所為じゃないよと、それだけ言ってあげれば兄は楽になれるかもしれないのに。その一言を発することができなかった。

 指の残る左手を天に向けて伸ばしたのは、無意識からのことだ。

 昔、転んだ時などに、この手を掴んで引っ張り上げてくれる人が居た。無愛想なせいか周りからは不気味がられていても、リーデンはその人を怖いと感じたことは無かった。あの落ち着いた空気の優しさと、握った手の温かさだけ信じていれば良かったのだから。

 ――ゴメン。

 唇がその言葉を形作った。

 そして今度こそ意識が闇に落ちて、二度と醒めないだろうと予感がした――――――

「リーデン!」

 生者の世界から声が響いた。それは淀んだ闇を震えさせて、耳朶に届く。

 伸ばしたままの左手が力強い熱によって圧される。生身の肌と肌が擦れ合って、痛いくらいに激しい生命力が伝わる。

 そうしてリーデンは、今度こそこれが現実であることを認識した。

「幻……じゃなくて。ほん、もの……?」

「何の話だ」

 そっけない返答。疑う必要は無いと、左眼がドクンと強く鼓動を打った。

 ――血の臭い。まさか此処まで来る途中で怪我したんじゃ――

 喉頭を使うよりも呪いの眼の通信機能の方が楽だったので、直接呼びかけた。依然姿が見えないけれど、確かに傍でその存在感を放っている血縁者に。

 ――どうでもいい。ほぼ返り血だ。

 至近距離からの「返事」は、何やら不思議な感じがした。

 ――ほぼって、じゃあ多少は違うんだ……。

 ――そんな話よりお前こそしっかりしろ。

 大したことないよ、と声に出して笑おうとした途端、胃が急に凝縮した。焼けるように熱い物が喉を逆流する。苦味がひどい。

 ゴボッ、と重苦しく濡れた噎せ方をした。液が唇から溢れて顎を伝う。それがそっと拭かれる感触があった。

 ――ねえ、兄さん。僕はまだ、其処に居る?

 ――…………。

 沈黙からは気遣われているような、心配されているような雰囲気が滲み出ている。

 ――手足とか指とか揃ってる?

 ――質問の意味がわからんが、四肢は揃ってる。後は……アザが。

 その一言から察した。全身の肌が所狭しと醜いアザに覆われていて、それも毒の作用なのだろう。

 自分を取り巻いていた光景が幻覚に過ぎなかったのだと発覚して、リーデンは僅かに安堵した。それはほんの束の間の安堵ではあるが。

 絶対的な別れの刻が迫っているのに変わりはない。

 ――僕は今でも、里親を殺したことを後悔していないし、それが間違っていたとも思わないよ。でも、もしもあの時の僕に二人を赦すだけの器があったのなら……もしかしたら違った結末を迎えられたかもって、思う。

 ――結末? くだらない話をするな。結末は今じゃない、もっと先にわかることだ。

 ――先なんて無理だよ。だって……

 ――無理じゃない。互いの存在が本気で鬱陶しくなって、どっちが先に老衰で逝くのか、遺る財産は誰の手に渡るのかと言い争うのが日常になるまで、ずっと付き合ってもらう。

「あはは、面白い、こと……言う、んだね」

 それは彼らとは無縁な未来だった。財産と呼べるほどの何かが貯えられ、老衰による自然死を迎えるなどと。

「死ぬな、リーデン」

 無機質が常な声に、一筋の焦燥が差す。

「お前が死んだら、お前だった魔物を捕えて籠に閉じ込めて一生苛めてやる」

 横たわるリーデンの肩を支える手に、ぎゅっと力がこもった。温かい滴が落ちて来る気配がする。

「なに……それ。兄さん、すごく、きしょくわるいよ」

 表情筋が緩んで笑みになったかもしれない。これまで聞いたことの無い、そして二度と聞く機会の無いであろう、兄の冗談が珍しくて。

(あーあ、どうしよう。今更、怖いなんて。寂しいと思うなんて。人間の感情って本当にめんどくさいなあ)

 この世に残るたった一つ意味のある存在の腕の中で息を引き取れるんだから、これでいいやって満足できれば良かったものの。

「冗談はこの辺で終わりにして、帰るぞ。ミスリアも、お前の可愛がってる女も待っ――……」

 語尾に向けて、言葉が聴き取れなくなっていく。

(あれ? 水の中を伝ってるみたいに、ごぽごぽしてて聴こえないや)

 それだけでなく、握られている手を握り返したいのに、さっきから全く指が動かない。

 残存する自我の中で、「嫌だ」と「ここまでか」という抵抗と諦めの意思がせめぎ合う。肉体からメキメキと引き剥がされるような妙な手応えがある。兄の声がすっかり遠のいたリーデンの耳には、獣の鳴き声が代わりに入り込んでいた。またお前らか、人喰い魚ども。

 嫌だ、消えるのは嫌だ。まだやりたいことも話したいこともたくさんあるのに!

 ――助けて!

 誰にも届かない声がさざなみと化して闇の中を広がる。助けて、助けて、助けて、助けて……

 すり減らされた魂は震えながら泣いた。

 嫌だ。泣き声は弱り、子供がぐずっているような音に変わっている。

 いよいよこれで終わりか――?

 こんなに暗くて怖い場所が最後の思い出に残るなんて耐えられない。そう思っていても、魂が肉体から引き剥がされる――

 ふと気が付けば黙り込んでいた。遠くから何かが来ると感じたからだ。透明な霊力と潤いを含んだ音が、遥か闇の向こう側から染み込む。

『お願いです、リーデンさん…………どうかゲズゥを独りにしないで下さい』

 すぐ真上で何かがチカチカと光り出す。黄金色の信号だ。灯台の灯りと同じで、意識をそちらに集中させるべきだと、なんとなくわかった。

 同調しながら気付かされた。

 孤独な最期を恐れていても仕方がない。愛する者を独りにできないという想いの方が、恐怖を塗り替えられるだけの力を持つ。それを優先すればいいだけの話だ。思いやる心は力となる。

 送り主の優しさをそのまま表した、この温かく淡い光が導いてくれる。

(諦めなければ、君が奇跡を呼び寄せてくれるんだね……。いいよ、ついて行こう)

 光はおもむろに勢いを増して、散々しつこかった暗黒を破っていく。青白い小魚たちが光に触れるごとに銀色の素粒子となって分解される。暗闇はやがて曇ったガラス程度に明るくなり、次には――。

 円の形に一箇所ずつ、曇りガラスから曇りが、見えない手によって拭い去られる。

 長いこと封じられていた視覚に光が戻って、リーデンはつい目を眇めた。視界が安定した頃にちゃんと目を見開く。銀色のペンダントがすぐ近くにあった。羽の生えた槍にも見えるそれは、ヴィールヴ=ハイス教団と聖獣信仰の象徴だ。黄金色の輝きを未だに纏っている。これが光源だったのか、と静かに納得する。

 そして次に目に飛び込んできた映像にリーデンは驚いた。いっそ、これまでの人生で一番驚いたかもしれない。

「なにそれ……もしかして、泣いてるの?」

 からかうつもりは無い。無いのだが、あまりにも信じられない状況だからか、思わず明るく笑ってしまったのだった。

「君の泣き顔なんて初めて見るよ」

 と朗らかに言ってみると、ゲズゥは顔を逸らした。左頬を伝う水分の跡がはっきり見て取れる。

「お前の泣き顔なら見飽きてるがな」

「一体いつの話してるんだか。まあ、確かに子供の頃は飽きられるぐらいビービー泣いたけど」

 肩や手を支える力が緩んだのを良いことに、リーデンは試しに手足を動かしてみた。異常が感じられないので、今度は膝を折り曲げてみた。拳を握ってみた。屋根裏空間の天井は意外に高くて少し頭だけ屈めば立てるので、立ち上がってみた。

 本物の奇跡だ。服や髪の汚れは残っているが、身体の状態は万全と言えよう。リーデンは唖然とした。前にもミスリアやレティカにちょっとしたかすり傷などを治してもらったことはある。聖女の力はああいうレベルの物としか思っていなかったから、今回の件が余計に非常識に思えた。死にかけた人間を、遠い場所から救えるなどと。

「なんか屋敷に入る前に戻ったみたい。こんなぶっ飛んだことできるんじゃ、もっと世間に騒がれるんじゃないの」

「おそらく、誰しもできるわけじゃない」

「へえ。後で本人にもっと詳しく聞こうっと」

 しゃがんだ体勢から動かない兄が、じっと観察する眼差しで見上げてくる。乾いた血痕が額から膝までにかかっていることにリーデンは遅れて注意した。

(どんだけ返り血浴びてんの、この人)

 せっかく貸してやったコートも今やボロ雑巾だ。つつけば多分、怪我が出てくるだろう。

 そんな姿を見下ろしていると――痛々しいと思いつつも、嬉しい。

「迎えに来てくれてありがとう。心配かけたね」

「……お前が礼を言うのか。気色悪い」

「ひっどーい。つめたーい。さっき取り乱してくれたのは夢だったのかなー?」

「黙れ、クソ弟」

 リーデンはブフッと噴き出した。かなり久しぶりにその呼称で呼ばれた気がする。加えて過去に呼ばれた際の侮蔑ではなく、不機嫌しか込められていないのだから、これは笑うしかない。

 逆にこっちは機嫌が良い。

「一回しか言わないからよーく聴いてね、クソ兄」鼻で笑って腕を組んだ。そしてまた破顔した。「めんどくさい弟でゴメン。見捨てないでくれてありがとう。なんだかんだでやっぱり、大好きだよ」

 それが今の本心だった。

 つまらない意地を張っていた。この広い世界で一人でも自分の為に泣いてくれる人が居る、ならば他に何を望むことがあろうか。しかもよく考えたら、一人だけでなく少なくとも後二人は居る。

「平穏な生活は相変わらず目指してあげられないけど、これからのことは、ちゃんと話し合って一緒に決めよう」

 我侭も押し付けないよ、と左右非対称の両目を見据えて言い放った。

 数秒の間の無反応の後、無表情だった端正な顔が奇妙に歪む。五角形の太陽でも見たような顔である。リーデンはまた噴き出した。

「あははははは! 泣き顔以上に面白いね! 普通に喜んでもいいんだよ」

「…………………………」

 呆れて返す言葉も無いようだった。でも、言葉にされなくても伝わる想いがある。言葉にされたからこそ得られる安心もある。

『死ぬな、リーデン』

(わかってるよ。まだまだ、独りにはできないね)

 ちょうどその時、ずっと下の方が騒がしくなった。

(ああそっか、屋根裏に至るまでに突っ切った敵を、兄さんは殺さなかったんだ)

 聖女ミスリアとそういう誓約の一つでも保っているのだと仮定すれば不思議はない。殺さなくても十分に痛手を負わせただろうけれど。

「それじゃあ、適当に残党を蹴散らして戻ろっか。僕らの可愛い聖女さまの元へ」

 二度目の油断はありえない。リーデンは不敵に目を光らせた。

 次いで兄へと手を差し伸べた。自然とそんな気分だった。僅かな逡巡も無く、ゲズゥはリーデンの手を取ってゆっくりと立ち上がった。

「……そうだな」

 それ以上のやり取りは必要なかった。

 兄弟は互いの温もりを放し――それぞれ冷たい凶器を手にして、笑みを交わす。


_______


 水晶の祭壇へ捧ぐ祈りは、大分前に儀式が終了していた。特別に許可を取って、聖女ミスリア・ノイラートは一人きりで祭壇の前に残っている。跪き、瞑目し、祈る。無心に祈りながらも聖気を展開している。どれくらいの間そうしていたのかは知らないし、知ろうとも思わない。長時間集中し過ぎて頭がクラクラするのも気に留めない。

 祈りは修道女の甲高い悲鳴によって中断された。

 ミスリアは急いで振り返った。祭壇の間の入り口へと視線を飛ばす。

「この神聖なる場所になんて穢れを! 立ち去りなさい!」

 喚き散らす修道女の声が閉まった扉越しにも聴こえる。中庭の方からだろうか。

(穢れ!?)

 ミスリアの心臓が早鐘を打った。考えるよりも早く、足が動く。蝋燭だけに照らされた祭壇の間は薄暗い。既に夜になっているから天窓からは明かりが入らないのである。祭壇に祀られた巨大な水晶が淡い輝きを放っているけれど、ミスリアはそれには背を向けている。長い白装束の裾にうっかり転んでしまわないよう、スカートを両手で持ち上げて身廊を進んだ。

 扉を開け放ち、中庭を見回す。夜空とガゼボの下で、修道女たちが長身の青年を取り囲んでいる。

「ゲズゥ!」

 修道女たちを押しのけるようにして駆け寄った。勢い余って、彼のお腹辺りに手を付く。

 服に付着した、乾いた血の感触にゾッとした。

「ど……どうなったんですか!? その血は! リーデンさんはご無事ですか!?」

 矢継ぎ早に質問をぶつけた。

 星明かりにほんのり照らされた顔を探るように見上げる。青年の無表情ぶりからは、吉報か凶報かを読み取ることはできない。

 黒と白の瞳のコントラストにミスリアは一瞬目を奪われ、その間に肩に手が触れたことに気が付き――

 ――抱き寄せられた。足が地から浮き上がるのを感じる。

 血の臭いすら意識しなくなるような、ただならぬ抱擁だ。息が浅くなる。

 耳元で低い声が短い一言を呟いた。

 驚愕に駆られ、表情を確認せんと反射的に試みるも、頭の後ろも強い力で押さえつけられていてびくともしない。

「お前のおかげで、俺は大切なモノを失わずに済んだ」

 続く言葉にハッとなる。

 ミスリアは顔をうずめたまま一度目を見開き、すうっと瞼をゆっくり下ろした。唇の間からため息が漏れる。

(それじゃあ、なんとかなったんだ)

 包み込む温もりに、張り詰めていた神経が緩まった。目頭が熱くなる。

「…………よかった」

 腕を伸ばして精一杯の力で抱き締め返した。

(よかった……)

 ゲズゥがこうして帰って来てくれただけでも嬉しいのに、二人とも無事で、本当に良かった。

 心地良い安心感に身を委ねたこと数十秒。

 極限までに疲弊していた精神が途切れ、ミスリアは深い眠りについた。


_______


 ミスリア・ノイラートはなんとなく見覚えのある天井の下で目が覚めた。少し硬めだが温かいベッドの上に視線を走らせつつ、起き上がろうとする。天井のシャンデリアは全ての蝋燭に火が灯っており、部屋がとても明るい。

 まるで長い間筋肉を使っていなかったみたいに身体の動きは緩慢だった。

「大丈夫? だるそうだね」

 声がした方を向くと、大きな花束を抱えた絶世の美青年がベッドの脇に立っていた。輝かしいサラサラの銀髪、凛々しくも繊細な顔立ち。宝石を思わせる緑色の瞳に、上品そうな生地の民族衣装。寝起きにこんな浮世離れた人物が目に入ったことに、ミスリアはあんぐりとした。

 傾国の美青年という言葉が新たに脳裏を過ぎる。

「確かに気怠く感じますけど……あの、この季節に何処でそんなに鮮やかに瑞々しい花束を手に入れたんですか? リーデンさん」

「温室持ってる知り合いからちょっとね」

 リーデンはそこでパチッとウィンクしてみせた。花束の香りをそっと嗅いでから、それをミスリアに差し出す。

「可愛らしい命の恩人さんにお見舞いだよ」

「あ、ありがとうございます」

 困惑気味に受け取る。恥ずかしい話、異性に花束をもらったことなんて十四年生きてて初めてである。頬が紅潮するのを止められない。

「礼を言うべきは僕の方だよ。君が命を懸けてくれたことはわかっているつもり」リーデンは姿勢を正して腰を折り曲げた。「ありがとう、聖女さん」

「やめて下さい、そんなに改まられても困ります! 頭を上げて下さい」

 手をぶんぶんと振って懇願したら、リーデンは笑いながら元の体勢に戻った。

「あはは。あのね、休ませるなら大聖堂の中の方が良いって修道女連中がしつこかったけど、それじゃあ僕らはずっとついてられないからね。あそこから無理矢理連れ出しちゃったよ……――兄さんが」

 リーデンの目線が向かった先を、ミスリアも一緒になって追った。ベッドの隣の床に横になって眠る人物を認めて、ミスリアは本日二度目に愕然とした。

「な、何でそんな所で寝てるんですか!」

「んー、兄さんの身長じゃあソファは窮屈だからでしょ」

「はあ……」

 ――寝心地が悪そうなのに。でも傍に居てくれたことには、こっそり喜んでおいた。

「ところで聖女さん。お願いがあるんだけど」

「何でしょうか」

 急ににっこりとしたリーデンに気圧されながらも問い返す。

「君に受けた恩があまりに大きすぎて、どうやったら返せるのか自分なりに考えててさ」

「そんな、お構いなく」

「そーゆーワケには行かないでしょ。で、とりあえずはね」

 そこで彼の例のとろける笑顔が出て、ミスリアは条件反射でぼーっと見とれた。

「僕も旅について行ってもいい?」

「え?」

 突拍子もない質問に瞬きを返した。

「そこの図体のデカい人なら、もう話は付けてあるよ」

「……図体がデカいのはお前もだろう」

 もそり、ゲズゥが床から起き上がっている。全くそれらしい気配はしなかったのでミスリアはびくっと震えた。

「おはようございますっ」

「ああ。やっと起きたな」

「?」

 一体どれくらい寝てたのかと訊こうか迷っている内に、リーデンが言い返した。

「ちょっと平均より上ってだけで、僕はまだ普通の範囲内だよ。まあそれは置いといて。良いでしょ? 僕が護衛その二でついてきても」

「戦力として申し分ない。しかも飛び道具使いだ」

 ゲズゥはどこへともなく視線を彷徨わせて答える。

「情報網とか伝手とかも役に立てると思うよ。例えばさ、クシェイヌ城に行くんだって? 此処からだと水路が一番早いってこと知ってた?」

「いいえ、知りませんでした」

「船の手配ももうしてある。北行きの商船をいくつか押さえてあるから、こっちの支度が整い次第、日時の合う船に乗れるよ」

 リーデンは得意げに笑った。その手際の良さに感心せざるを得ない。

「ね、役に立つでしょ? マリちゃんも良ければ連れてくよ」

 一度頷き、少し考えを巡らせる為に、ミスリアは口を噤んだ。

(前から人員を増やしたいと思ってたし……ゲズゥとはいつの間にか打ち解けてるみたいだし……)

 断る理由があるだろうか、と考え込んでみた。

 目の前の彼はまるで憑き物が落ちたようで、以前みたいな狂気を感じさせない。まだ疑問は残るけれど、損よりも得が多そうだとミスリアは判断した。

「貴方の言葉に誠意を感じました。申し出を受けましょう。こちらとしても一緒に来ていただけると助かります。これからよろしくお願いしますね、リーデンさん」

「うん。よろしくね」

 初めて出会った時と同じく、リーデンは象牙色の手を差し伸べた。

 生温いその手をしっかりと握り、聖女ミスリア・ノイラートは今しがた加わった旅の供に微笑みかけた。

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