54.

 そこに佇んでいるだけで問答無用でミスリアを跪かせるに至った黒服の男と、その男の陰に隠れる気の弱そうな女に向けて、ゲズゥ・スディル・クレインカティは一言物申すことにした。

「コレが人間に見えるのか」

 すると男の方が鋭い目を冷静に動かし、倒れ伏したモノの上に松明をかざした。

 切り口から青白いゆらめきが立ち上っている。男は眉をしかめた。なるほどと呟き、片手で女を立たせた。

「落ち着きなさい。彼が斬ったのは人ではありません、魔性です。瘴気に当てられてはいけない、貴女は家に帰るのです。後始末はこちらが引き受けます」

「で、でも! あの件は――」

「状況が変わりました。ほら、迎えが来ましたよ。お行きなさい」

 そう言って、遅れてやってきた女の夫らしき人影の元に行かせる。強引ではあったが、恐慌状態に陥った人間が場に居ると話が進まないのも確かだ。男は賢明な判断をした。

「さて……」

 黒服の男はゆっくりとミスリアの前に立った。その動作に敵意を感じないので、ゲズゥはひとまず傍観する。男はそっと両手でミスリアの手を引き、顔を上げるように促した。

「聖女ミスリア・ノイラートと見受けます。いつぞやは、レティカが世話になりましたね」

 レティカとはどこかで聞いた名であるはずなのだが、ゲズゥには詳細が思い出せない。一方、ミスリアにはすぐに心当たりがあったようだ。

「――聖女レティカ?」

 茶色の双眸に認識と驚愕が閃く。

「となると貴方はグリフェロ・アンディア枢機卿猊下……?」

「さよう。して、他に魔物は?」

 男の視線は地面でのた打ち回る異形へと滑った。無力化されているとはいえ、未だにソレはけたたましい呻き声と耳障りな水音を立てて存在を主張し続けている。

「地下避難所にもう一人居ましたけど、浄化して参りました。他には居ないと思います」

「では、この者を送ってから引き上げるとしましょう」

 そうして男は空いた片手をかざした。淡い黄金色が地に降り注ぎ、魔物の残骸を包んでいく。魔物はこれまでの暴れようが嘘のように大人しくなり、安らかな表情で粒子と化した。

 枢機卿という階位が何を意味するのかは知れないが、少なくともこの男は「奇跡の力」とも称されるあの聖気が扱えるらしい。

「宿まで送ります。道すがら、しばしの談話にお付き合い願えますか」

 浄化を終えた男が、やや大げさに腕を振り回す。

「私で良ければ、是非! でも送ると言うのでしたら猊下こそ……」

 ミスリアは困惑したように辺りをきょろきょろ見回し、やがてこちらにも目を合わせてきた。

 何を探しているのかを察なんとなくしたゲズゥは、上を真っ直ぐに指差す。

「屋根の上」

「よくわかりましたね。私の合図なしでは動くなと言いつけてあるのに」

「動きが無くても、視線を感じた」

 おそらくは弓などの使い手だろうか、程よい距離からこちらの様子を窺う視線を二、三方向から感じていた。たった今までまるで動かなかったのに、目の前の男が腕を振り回した途端に視線の源が一斉に揺れた気がしたのだ。

 地位が高い人間なら護衛が付くのも当然と言うもの、自然とゲズゥは点と点を繋げていた。

 ほう、と感心したように枢機卿は僅かに伸びた顎髭を撫でた。

「そういうことです。私の身の安全に気を遣うことはありませんよ、幼き聖女」

「ありがとうございます」枢機卿に手を引かれて、ミスリアが立ち上がる。「猊下、年若い四人組を見ませんでしたか?」

 ミスリアは例の奴らが逃げた事情と、その外見をかいつまんで伝えた。話を聞いた枢機卿は屋根上の護衛に合図をする。護衛は何かの合図を返した。

「……いいえ、私も彼らも他の人影を見ていません。こちらの方向には来なかったのでしょう」

「そうですか……。別の出口から逃げたのですし、これでは捜すのは難しいですね」

「ご心配なく。後日じっくりと組織に問い詰めることにします。元々あちらの代表との定例会の為にこの国を訪れたのですから」

 枢機卿は無機質に言って歩き出した。その二歩後ろにミスリアが付き、ゲズゥは更に数歩後ろに続く。周囲への警戒を怠らずに、大剣だけを収めた。

「ではその行程で立ち寄ったのですね」

「まさにそうです。先ほどのご婦人は宿泊先の管理人でして、近頃この付近から凄まじい鳴き声が聴こえるのだと、相談を受けました。どうやらあなた方に先を越されたようですね」

「す、すみません」

「何を謝るのです、幼き聖女。むしろ感心しました」

 初めて、厳かそうな枢機卿の声に楽しそうな響きが含まれた。

「そういえば以前から思っていたのですが、レティカも大概でしたけれど、貴女も特殊な筋から護衛を見つけたものですね」

 そう指摘した枢機卿の視線は次の曲がり角に集中していた。寝衣に外套を羽織っただけの姿でリーデンが手を振っている。昼間に比べれば装飾品は圧倒的に少ないが、暗がりにも目立つ愚弟だ。

「……そうですね。でもその分、人生経験の違いが互いを補い合えるものだと信じています」

「その考え方を認めたからこそ、教皇猊下は貴女の選択を肯定したのでしょうな」

「そうであれば、嬉しいです」

 ミスリアは照れ臭そうに頬に触れた。

 宿まで送ると言った枢機卿は、結局建物の中まで入ってきた。受付の前に誰もいないことをサッと確認してから、立ち話を始める。

「あなた方は何故ここに? 聖地への移動ですか」

「いいえ、実は――」

 出し惜しみせずに、ミスリアは事情をあらいざらい語る。教団に保管されている報告書の話題になったところで、枢機卿は片手を挙げて口を挟んだ。

「手続きを急ぐように、取り次ぎましょうか」

「そんな、お手数をおかけするわけには」

 ぶんぶんと頭を振ってミスリアは枢機卿の申し出を遠慮した。

「レティカに良くしていただいたのですから、当然です」

「聖女レティカ……私は、何も……」

 少女の表情に翳りが走る。

 その様子に、ピンと来るものがあった。無力な己を嘆いていた時の――そう、イマリナ=タユスでの魔物退治の件だ。青銅色の髪の聖女と、一見ちぐはぐでも能力の相性が良かった二人の護衛。この男は、あの聖女の縁者だったのか――。

「あの娘に真に必要だったのは、対等に接することのできる同志だったのでしょう。聖人・聖女が背負う責務、そして護衛たちの命の重さ。それを誰かに肩代わりしてもらうことはできない。ただ、分かち合うことはできましょう」

「…………」

 言葉に詰まったように、ミスリアは茶色の双眸を潤ませて枢機卿を見上げる。

「ただでさえ、聖人・聖女課程まで修了できる者は数少ない。あれはきっと、教団でも同期の中で浮いていたことでしょう」

「大切に想っていらっしゃるんですね」

 そう言ったミスリアの表情は、慈愛の中に羨望の欠片を潜ませていた。おそらく枢機卿は気付いていない。

「兄の孫です。昔は膝にのせて可愛がってやったものです。しかし成長してしまえば周りの期待も大きく、以前のようには接してやれない」

 できればこれからもよろしく頼みます、と言って男は頭を下げた。ミスリアはぎょっとなって「私でよければ!」と頭を下げ返す。

「しつもーん」

 シリアス一辺倒であった雰囲気を、リーデンの明るい声が壊した。

「リーデンさん?」

「ちょっと気になったんだよねー。教団の人手が少ないってよく聞くけど、具体的には何人ぐらいいるの? 機密事項?」

 その質問には枢機卿が応じた。

「機密事項ではありません。お答えしましょう。修道士課程を終えてなお存命である者の数は私が先月に確認できた時点で九百八十二名、うち百五十七名は聖人課程を経ています。その中の三十六名が過去二十年以内に聖獣を蘇らせる旅に出て、未だに旅を終えていません」

「ふーん、じゃあその中で生きてるって確認できてるのは?」

「報告書は任意ですが、生存確認としての定期連絡は必須。過去一年の間で連絡が途絶えていない者は僅か九名です。聖女ミスリア・ノイラート、貴女を含めて」

 旅を中断した聖女レティカは、その頭数に入っていないと言う。

 ――流石に少ない。

 リーデンも同じことを思ったらしく、眉をしかめた。

「聖人・聖女の全体数でも四、五分の一程度しか聖獣を目指さないんだね。意外」

「それは仕方のないことです。一概に聖気を扱えるからと言っても年齢や力量に個人差はありますし、旅や冒険やらに向いているとも限らない。大陸には治癒と浄化の力を今すぐに必要としている地も多い。巡礼にもさまざまな形があるのですよ」

「にしても、二十年で三十六人ねぇ。一年に二人と輩出されないのは妥当、なのかな」

「既に死を確認できた者は数から差し引いてあります。旅に出ただけで言うなら、もっといました」

「んんー……それで未だに聖獣が蘇る兆しが無いってのはどうなの……」

 まだ引っかかる点があるのか、リーデンは目線を逸らして考え込んだ。しかしそれ以上は何も口に出さない。

「ともかくして、姉君の記録の件は任せなさい。なんなら本部まで足を運ばなくても、使者を送って模写を持って来させます。私の権限であれば持ち出しは可能です。一週間以内には必ず」

「そんな」

 ミスリアが抗議できるより先に、枢機卿が手を差し伸べた。

「遠慮は不要です。此処でお会いできた縁を記念して、受け取りなさい」

「ありがとうございます、猊下」

 ミスリアは伸ばされた手を取り、厳つい指輪に口付けを落とす。

「どうかあなた方の旅路に神々と聖獣のご加護があらんことを、聖女ミスリア・ノイラート」

「同じく、あなた様の往く道に大いなる存在のご加護があらんことを。グリフェロ・アンディア枢機卿猊下」

 聖職者同士で儀式的な挨拶が交わされる。或いは聖気も交わされたのかもしれないが、そこまではゲズゥにはわからなかった。

 そうして枢機卿は去り、一同はあてがわれた寝室に戻った。

 パタン、と部屋の戸が閉まりきった途端に、リーデンが小声で言った。

「聖女さん、本当はあの子たちのこと追ってお仕置きしてやりたいんじゃないのー?」

「……お」

 お仕置き、とミスリアはうわごとのように復唱する。あの地下で見せた激情の片鱗が少女のおもてに再び浮かび上がっているのに気付き、ゲズゥはなんとなく距離を詰めた。

「お前は奴らの行先に目処が付いたのか」

 と、リーデンに向けて問う。弟の含みのある眼光から察するに、考えはあるのだろう。

「当たるかは別として、予想することはできるよ」

 リーデンはウフレ=ザンダの地図をどこかから取り出して膝上に広げてみせた。現在地である首都に指を滑らせ、図書館の場所にガラスのペーパーウェイト(=文鎮)をのせる。

「僕らが出会ったのはココね。ちなみに枢機卿さんが行く定例会も多分首都圏内かな」

「はい」

「で、お遊びが僕らにバレちゃった以上、あの子たちは首都を出るはずだよね。まだまだ遊びたいお年頃だから、玩具のいなさそうな方を行かないと考えて、大きい道に絞ろう」

 つまり、人の出入りが比較的少ない道は眼中に無い。

 首都の外郭から伸びる主な道路は五本。南西の一つを排除するように、リーデンは石をのせた。

「某組織の正確な位置は不明だけど、すぐ南西、山岳地帯のこの辺じゃないかな。上司の目に付きそうな方角へは逃げないと思うね。北は果ては教団に行き着く道だから、それも選ばない気がする」

「確かに、悪事が露見しそうな道は避けそうですね」

「そ。残るは西、東、と南東に行く道。特に南東は人の出入りが多い。僕らもこっちから首都に来たもんね」

 都市国家群やヤシュレ公国からの貿易商が多く使っている道だ。

「西は可能性が低いとして、後は東か南東ね。僕は南東だと思う。両方見に行って外郭の兵士に話が聞けたら一番早いけど、ちょーっと協力してもらえるか怪しいよね」

「一刻を争うなら、今選べと言うのですね」

「そーゆーこと。どうする、聖女さん?」

 枢機卿と多少話し込んだとはいえ、今ならまだ十分に追いつける。奴らは首都から出ても、獲物を求めてまだ近くに居る可能性が高いのだとリーデンは主張する。

「一晩の内にそう何度もやるのか。狙いを定める時間や準備は必要だろう」

 ふとした疑問を口に出した。

「どうだろうね。一度は邪魔をされたから、俄然やる気出して新しい獲物を急いで捕まえに行くかも。夜はまだまだこれからだし、本人たちも若さゆえに体力あるんだし、何度でもチャレンジしそうじゃない?」

「…………」

 ゲズゥは反論しなかった。鬼畜な連中の思考を読むことに関して、この弟に敵うはずがない。

 沈黙の中、リーデンの従者の女が心配そうな顔で地図を眺めている。箪笥の上の小型時計が秒刻みにカチカチ鳴るのが、やけに大きく響いた。

 やがて三人の視線が少女の元に集まる。

 ミスリアは応えるように頷き、決定を言い渡した。

「南東に向かいましょう」

「わかった」

「オッケー。五分以内に支度するよ」

 そうして魔物退治ならぬ悪者退治に出かけたわけだが――自分が退治される側でない現状に、相変わらず皮肉を感じるのだった。


_______


 あふ、とミスリアが欠伸を掌で塞ぐのを横目で見た。直後に小さく震えたのは欠伸の反動か、それとも寒いのか。

「すみません。気になりますか」

 視線に気付いて、ミスリアがこちらを振り向いた。

「別に」

 夜の屋外活動に備えて昼寝をしたわけでも無いのだから、眠いのは当たり前だ。

 それきり、静かに歩を進めた。いつもは口数の多いリーデンも、黙って周囲に神経を張り巡らせている。

 外郭から出て数分、振り返れば首都の灯りも点滅して見えるくらいに離れている。

 今のところ、首尾は悪くない。夜中にこんなところを出歩いていたことも、魔物退治の為だとミスリアが説明するだけで衛兵はすんなり納得した。

 通行止めをくらっても仕方のない状況だった。何せ夜は更けつつある。それでも首都を覆う結界の範囲から抜け出たいなら、自己責任で危険に踏み出すのみだ。その辺りこちらは正当な理由を用意してあったので、管理者もあっさり結界を解いてくれた。

 曰く、日暮れ以降に南東から出て行く者は他に居なかったと言う。

 首都の結界はたとえ目に見えなくても、超えがたい防壁である。自然と導き出される解答、それは奴らが結界の綻びから抜け出たということ。

 そこまでわかれば後は該当する箇所を見つけるだけだ。

 そしてそれは、何の変哲も無い切り株の傍にあった。

「絶対防壁の弱点、みーっけ。この狭さなら、魔物が偶然見つけて侵入する心配も無いかな」

 目に見えない亀裂の大きさを測るように、リーデンが切り株の隣に片膝ついて宙に手を浮かせている。指先で縁を撫でたり、こじ開ける動作などをなぞったり。事情を知らぬ者が傍から見れば、相当な奇行に映ることだろう。

「そうですね」

「けど、結界の内側で新しく発生する魔物相手には無意味だね?」

「……はい」ミスリアは苦笑を返した。「それを見越して、日中はできるだけ瘴気を浄めていきます。ただ、彼らのしていることは――異例、ですので、原因を取り除かないことには防ぐのは難しいかと」

「うんうん。君の憂いの元はちゃんと駆除するから、大丈夫だよー」

「そ、そんなに憂えているように見えましたか」

 ゲズゥとリーデンが異口同音に「見える」と答えると、ミスリアはどこか気まずそうに笑った。

「でもさー、そもそもよく見つけられたよね、こんな穴。結界って新しく張る度に綻びの位置も一緒なの?」

「丁寧に手順を踏めば張り直されるはずです。同じ場所に何度も出るなら、術者のクセでしょうか……」

 近くにあった綻びはこれだけだった。奴らはここを通ったと仮定できよう。

 次にはゲズゥは草をかき分けて足跡を探った。指を地に這わせて触覚のみを使うのは、なるべく明かりを使いたくないからだ。星の輝きを頼って進むのは時間がかかったが、運の良いことに痕跡を見つけるに十分とかからなかった。

 そうして次に向かうべき方向を定め、静かに、慎重に進む。三人の会話の糸は途切れたまま再び結ばれることはない。

 いつしかゲズゥは大剣の柄に右手をかけて歩いていた。

 深夜特有の不気味な静けさが――風の気配が、まるで後ろ首に吐息をかけているようで、落ち着かない。

 ――果たしてどんな刺激が最初に五感を突くのか。

 先刻のような、相手の無防備な場面に遭遇するのはまずありえないだろう。追われることを警戒しているのなら、逆に待ち伏せをしている可能性も――

 ――チャッ!

 ゲズゥは大剣の柄を押し込んで木製の鞘から解放した。

 ――右回りに薙ぐ――

 脳が勝手に発した神経信号。身体はそれ以外の命令を要さなかった。

 このような場所でこのように異様な汚臭を放つ存在が、まともであるはずが無い。嗅覚が拾ったのは魔物の腐臭か、鮮血の異臭か。ゲズゥにはどちらでもいい。

 結論は一瞬後に得られた。

「うおっとぅ!」

 驚く少年の声、金属同士の衝突音。右腕に走る手応えの質量、それから。

「お待ちしていましたよ」

 闇夜に躍る、別の青年の嗜虐的な笑い声。

「さしずめ僕らは君たちの次の玩具に抜擢されたってとこかな」

 リーデンが冷静に言い放った。

「あなた方ならきっと来て下さると思っていました」

「あははは! 光栄だよ」

 まるで引けを取らない嗜虐的な笑い声が、鉄輪に乗って銀色の弧を描く。

 俄かに勃発した四対二の交戦状態の最中、なんとか短い会話を挟んだ――。

 ――愚弟。

 ――何かな、愚兄。

 ――ミスリアの動向に気を付けろ。

 ――わかってるよー。

 だが言っているそばからもう遅かった。

 ちょうど雲が去って、星明かりがより鮮明に地に降り注いだ瞬間。

 後ろに控えていたはずの小さな聖女が、忽然と消えたことに気付く。静電気のように、肌に弾ける焦燥感。

 探した。ミスリアは夜目には見つけづらい深紫色の外套を身に着けていたが、あの色白い肌なら――

 横から飛び掛ってきた少年を視界から払う。

 突然の強風が吹き荒む。

 少し離れた先に、連中のリーダー格の青年が居る。青年は正面の影を見下ろすように首を傾けていた。

 見下ろしているのは人影である。風に弄ばれている波打つ髪の向こうに、細い首が覗く。目を凝らさずともそれが目当ての人だとわかった。

 いつの間に敵に接近したのか。ゲズゥは冷や汗が額に浮かぶのを感じた。

「どうしてあんなことをしたんですか!」

 ミスリアは唾も飛びかかりそうな勢いで青年に食ってかかった。小さな身体にここまでの怒声を吐き出す力があったのか、と思わず驚いたほどに。

「あんなこと?」

 返事はあくまで落ち着いている。

「地下に追い込んだ罪人のことです!」

「あれですか。どうしてと訊かれましても」

 青年は嘲笑した。そして三人の仲間たちを見やる。

「どうしてっつったらなーあ」

 リーデンと斬り結んでいた少年が代わりに言った。

「楽しいから」

「に、決まってっだろ! 他に理由なんているかよ」

「テメェらだって、人殴ンのは好きだろ? 他人を踏みにじる優越感がイイんだよ。痛みつけた分だけ叫び声が大きくなったりしてさ」

 三人が口々に答えた後、僅かな時間、場に沈黙が落ちた。

 同意を求められても感じ入るものは何も無い。ゲズゥはただ煩い蝿を叩き落す要領で無言で剣を繰った。少女が巨大なかぎ状の刃物を振り回してくるので、不規則な攻撃に対応するのは困難になりつつあった。

 ――優越感? 殴るのが好き?

 などとは、欠片も思わない。暴力は手段であり、必要ならば振るう、その程度にしか捉えていない。

 四人組の言葉にはこれといって興味が無かった。弟は同意見ではないようだが、それでも本心を表に出すことなく淡々と凶器を投げ続けている。

「そんな、理由で、彼らは苦しまなければならなかったんですか。目的すら持たない拷問にかけられて、誰も知らない場所で死ななければならなかったんですか」

「何故感情移入をするのかわかりませんね。所詮は罪人。社会が既に『要らない』と切り捨てた部分です。殺しておくことに感謝こそされても、恨まれる筋合いは無いはずです。まさかあなたは、罪人にも人権があるのだと言いたいのですか」

 ミスリアの詰問に、青年は不愉快そうに答えた。どこか雲行きを怪しく感じる。

 かと言って割って入るには、他三人の妨害が激しくて距離が一向に縮まらない。

「あります。当たり前です!」

「ありませんよ」

「貴方たちだって人殺しという罪を犯したではないですか!」

「違いますよ。我々は、社会に『許された』人殺しをした。その為に組織に入ったんですからね」

「ゆる……された、人殺し……!?」

「私は自分がいつから『こう』だったのかは憶えていません。私は同志を求めた。次には、合法的にコレを楽しめる居場所を探し――そしてみつけた」

 青年は薄気味悪い笑い声をくつくつと喉から上げる。奴の仲間たちも同じように楽しそうだ。

「世界中の役人や処刑執行者だってきっと私と同じ心持ちです。殺しても構わない者を、率先して殺せることに、悦びを得ているでしょう」

 真面目な役人が聞いたら憤慨しそうな断言を、奴はサラッとする。ミスリアは耳の中に毒を入れまいとするように、激しく頭を横に振った。

「違います。構わないなんて……社会は彼らを切り捨てたりは――罪を犯した過去は、必ずしも同様の将来に繋がりません」

「元死刑囚を連れ歩いていながら、よくそんなことが言えますね。一度は『要らない』と判じられた人間が存在する証ですよ」

 なるほど自分がミスリアにくっついて回る現状をそういう象徴と解釈することもできるのか、と他人事のようにゲズゥは納得した。

 勿論、聖女ミスリア・ノイラートの解釈はその真逆であろうが。双方の論は行き違うばかりである。

「全ての人間には等しく――やり直す機会が、与えられて然るべきです!」

「そう思わない民の方が過半数ではないですか? 貴女のしたことを耳に挟んで、喜んだよりも悲しんだ人が、憤った人が、或いは嘲笑った人の方が多かったはず」

「多数・少数の問題ではありません。人道の話です」

「大多数の人間が受け入れていない人道など、説く意味があるでしょうか」

「意味はあると、私は信じてます。他の誰が何と言おうと、私は最後まで彼らを信じます」

 ――空気が変わった。変えたのは、いや変わったのは、ミスリアの心情か。

 ほんの瞬きの間、ゲズゥの動きが止まった。それが生死を決定する過ちになりうるとわかっていても、そうせずにはいられなかった。小さな聖女の言葉は、己に酔ったつまらぬ連中と違って、素直に感じ入るものがあった。

「結構な美談ですが、だからと言って我々は行為をめるつもりはありません。ここであなたがたを潰しておけば、誰にも知られず、糾弾されることもない!」

「がっ」

 小さな喘鳴。

 青年がミスリアの首を片手で絞めあげたのだ。

 しかし銀の輪がその手めがけて空を切るのも目に入ったので、ひとまずゲズゥは意識を別方向に向ける。すぐ近くに二人の人影が、リーデンの方には一人まとわりついている。確実に振り払うのが先決だ。

 そうして敵の一人が繰り出した蹴りを、剣の腹でなした。続けざまに斬り付けてきた斧もかろうじて避けるが、頬を掠ったのか、鋭い痛みが走った。

「ありがとう。他の誰が何と言っても、僕と兄さんだけは最後まで君に寄り添うよ」

 さく、さく、とチャクラムが的に繋がる音が数度に渡る。今度は青年が呻き声をあげるのが聴こえた。

「だから安心して」

 リーデンはくるりと身を翻し、目前の敵の脇下を仕込み刀で斬った。血の臭いが散る。

「…………ああ。潰されるのは、こいつらだ」

 これはミスリア本人に向けた言葉であり、もはや連中の存在は居ないものと扱う。

 だがまだだ。ゲズゥは剣を逆手に持ち直した。まだ、突破口は無い。

 深手を負わされた青年は逆上し、剣を抜いた。このままでは――

「迷惑なクソガキどもだな」

 ふいに馴染みの無い男の声が、急速に近付いてきた。その者から漂う魔物臭は組織の四人組を越える濃さである。まるで実物のようだが、気配や地を踏む足音には「混じり物」に感じたような違和感はなく、人間そのものに思えた。

「破壊願望を持て余してんなら枕に砂利でも詰めて殴ってろ。優越感を味わいたいなら、他にいくらでもやりようがある」

 奴からも飛び道具が発せられた。しかもリーデンの扱う戦輪よりはずっと質量を伴っている。

 それが転機だった。

 男の投げた槍のような物が、ゲズゥにまとわりついていた敵の片方を弾いた。肉を裂いたのではなく鉄を打った音がしたので、致命傷ではないだろう。

 この隙にゲズゥはすかさずもう一人に斬りかかった。相手の反応速度を上回り、防御として上げられた腕の籠手に溝を刻む。強烈な打撃の果てでは骨に当たる手応えがあった。

 やられた側は何やら叫んでいる。意に介さずに膝蹴りで追い打ちをかけた。

 同刻、ミスリアの傍へは新たに現れた第三者が先に到達していた。手負いの青年が振るう剣を、短めの棒のような何かでことごとく受け止めている。

「いいか。自分が異端なら異端で、他人を巻き込むんじゃねえ」

 第三者の男は、魔物の体液を身体中から滴らせていた。近くで退治していたのかもしれない。

「お説教なら聞き飽きてますよ。彼女からの分だけで満腹です」

 と、青年は苛立たしげに答える。

「どうせ最終的に正義ってやつは、勝った方が決める権利を勝ち取るんだ。俺はお前らの方がくっだらねえと思ったから、こっちに加勢した。悪く思うなよ」

 ――突如、頭上から葉擦れと獣の鳴き声がした。

 青年の方は反射的に顔を上げた。相対する男は手持ちの武器に体重をかけ、拮抗していた力の秤を傾けさせた。青年の剣を押し切り、鳴き声の主を探すのに意識を移している。

 予感がした。

 これは一年近く共に旅をした経験から生まれるものだ。ゲズゥは魔物が本能的に求める標的――聖女を、抱き抱えて跳んだ。

 大地に振動が炸裂する。足がもつれ、倒れ込んだ。

「ギェエエエエエエ」

 ミスリアを腕に抱いたまま、落下してきたモノを見据える。尖った鉄塊が地に刺さっていた。言わずもがな、鉄の塊が叫びわななくわけがないのだから、後は察する通りであろう。

 青白い燐光の中、鉄塊に浮かぶ人面を撲滅する物があった。それはリーデンの長靴に仕込まれたナイフであったり、第三者の男が振り回すメイスでもあった。反撃する間も無く鉄塊は粉々にされ、更には聖気によって浄化される末路を辿る。

 ようやく場が静まり返る頃、当初の脅威であった組織の連中は残らず動けなくなっていた。全員を念入りに気絶させてから、リーデンが首都の役人を呼びに行った。

「シュエギさん?」

 ぼんやりと空を見上げて佇んでいる男に、ミスリアが躊躇いがちに声をかける。男はゆっくりと虚ろな眼差しを巡らせた。

「もはや奇縁ですね。こう何度も出くわすとは」

 与えられた「泡沫」の呼び名と同じで、男の記憶だけでなく人格自体が不安定なのか。現れた時とは打って変わって、言葉遣いも雰囲気も豹変している。以前会った時もこんなことがあった気がする。

「どうしてここに」

 心底不思議そうにミスリアが茶色の大きな目を瞬かせる。これまであったイザコザに掻き乱されていた気持ちも、この男への好奇心によって忘れ去られたようだった。

「私は魔物を狩っているだけの流浪の者です。定住もせず、毎夜魔性を追っている内に、気が付けばこんなところに来ていました」

「そこまでして貴方は……魔物を狩るだけってどういう――……」

 ミスリアの問いは、尻すぼみになった。何を訊きたいのか自分でもわからなくなったらしい。

 シュエギという男のそれは、凄まじい執念だ。なのに人格と記憶の不確定さゆえか、痩せた顔に感情が表れない。全て無意識の行動なのかとも疑える。

 ならばついさっきの熱弁は何事だったのか。語った信条や投げ出した攻撃の烈度は、今の状態とはやはり別人のようだった。

「魔物を狩るのは償う為です」

「償うって、何を? と、訊いてもいいでしょうか」

「わかりません。憶えてませんから。でも……私は、償わなければ、生きている意味が無い」

「――――!」

 その時ゲズゥは、ミスリアのすぐ後ろに立っていた。シュエギという男は未だ信用ならないと考えたゆえに、華奢な背中にほとんど密着して控えていたのである。

 男は俯いていた。身長が低いミスリアと目を合わせる為に見下ろしていただけかもしれないが、とにかく首をやや下に曲げていてゲズゥからは表情が見えなかった。

 だからミスリアが何を目にして怯えたのかは、わからない。小刻みに震え出したのが、衣服越しに伝わるだけだ。

「償わなければ……私は、この命に価値など……俺があいつらに――償わないと、魔物を、一体でも多く、やらないと……」

 しきりに低い声で呟き、そしてシュエギという男は膝からくずおれた。


_______


 倒れてからも奴は一週間昏睡し続けたため、成り行きで宿に置いて様子を見ることになった。リーデンの従者の女に言わせてみれば、長らく不規則な生活で無理をしていた反動、疲れは一旦堰を切るとなかなか回復に向かわないと言う。不安定な精神の影響もあるのか、聖気をもってしても意識は戻らなかった。

 その間、事件の事後処理で役人に長々と証言をした他、枢機卿からの使者が書物を持って訪ねて来た。

 使者が去った後も開封する心の準備がなかなかできないらしいミスリアは、紙束の前で難しい顔をして正座している。かれこれ何十分もだ。

 買い出しに出かけたリーデンと女を除いて、ゲズゥたちの他にはその部屋には昏睡した男しか居ない。息が詰まるとはこういうことなのかと、柄にもなくため息をつく。

「外に出るぞ」

 お前も来い、と顎をしゃくった。

「え? でも……」

「気になるなら何枚か持ち出せばいい」

「は、はい」

 慌ててミスリアは紙束を封じる印を切り、一番上と下から何枚かを抜いて手の中で丸める。

 外と言っても向かうのは屋上だ。

 廊下の突き当りで扉を開き、建物の外面に沿った階段を上がった。ウフレ=ザンダの首都は、建物をあまり高く造っていない。三階建ての宿の屋上から望める街並みは、色も形もどこか平坦な印象を受ける。

 ミスリアは物憂げな顔で屋上の手摺りに肘をのせる。組織の連中のことはきっと、もう思考を占めてはいないだろう。整理する時間が十分にあったはずだ。

 その隣でゲズゥも手摺りに寄りかかった。

「風が気持ちいいですね。部屋から連れ出してくれてありがとうございます」

「ああ」

 曇り空を滑らかに横切る二羽の鳥を眺めつつ、次の行き先について思案した。元々一直線ではなかった道のりが、最近になって益々曲がりくねってしまったように感じられる。

 人生もまた、こんなものかもしれない。目的地をあらかじめ決めたつもりでも、行き当たりばったりに突き進んでは幾度となく方向転換を強いられる――

 カサリ。紙が擦れる音で、物思いから現実に引き戻された。あれほど目を通すのを渋っていたのに、気が変わったらしい。

 懐から取り出した書類を、ミスリアが小声で断片的に読み上げ始める。俗に言う「斜め読み」と呼ばれる手法を取っているのか、ページを捲る速度がかなり速い。と言っても文章を読めないゲズゥにはよくわからないが。

『――こうして、私はハリド兄妹と合流できました。ところが魔物狩り師連合拠点まで案内してくれた人物の名を口にすると、彼は昨日まで連合に登録されていた魔物狩り師だったと言うのです。私は改めてその者を探し出し、仲間に加えようと決心しました』

 しばしの間を置いてからミスリアは手持ちの紙束を後ろの方まで飛ばし読んだ。

『エザレイは反対しましたけれど、私たちはサエドラの町を通って、聖地を目指すことになり――』そこまで読んで、ミスリアは眉をしかめた。「三人目の護衛の名は、エザレイといったのですね」

 しんみりと呟いたものの、ミスリアがその名を例の記憶喪失者に問い質すことは無いだろう。

 奴に不用意に刺激を与えることは避けたい。その点はリーデンたちも含め、全員の意見が一致した。

「お姉さま……聖女カタリア・ノイラートが提出した報告書は、サエドラの町からが最後だったようです。行ってみた方がいいかもしれませんね」

「――」

 相槌を打とうと口を開いたが、ふと階段を上る足音に気付き、注意がそちらに流れた。

「シュエギさん! 目が覚めたんですね」

「……おかげさまで。少し話が聴こえたのですが、聖女さまがた、サエドラに行くんですか。冒険者ですね」

 白髪白髭の男が、弱々しい足取りで歩み寄ってくる。いつにも増して幽鬼のようだった。

「あの町は教団の関係者を疎んじます。旧き神への信仰ゆえに」

「そうなんですか」

 ミスリアが返事に困っている。半端な笑顔を張り付けたまま、目を泳がせた。

 ――どうにも嫌な予感しかしない。

「シュエギさんも、一緒に来ませんか。サエドラまで」

 歩く不安要素みたいな男をミスリアが何気なく誘うのを聞いて、ゲズゥは顔を逸らした。これは不用意な刺激、干渉になるのではないか。

 とはいえ気になるのは仕方ない。これほどの危うさを目の前にちらつかせられて放っておけるほど、聖女ミスリア・ノイラートの庇護欲――或いは母性――は易くない。

「私は、人と行動を共にするのが苦手だった気がします」

 男は目の焦点をミスリアに当てて、囁いた。

 それはどこか言い訳じみた断り方に思えた。記憶がはっきりしない人間に、好き嫌いも得意苦手も無いはずだ。しばらくして、灰銀色の瞳がぼんやりと雲の動きを追っていった。

「ですがこうして借りができてしまった以上、断るのも失礼でしょう。ご同行させて下さい、聖女さま」

「ありがとうございます。えっと、私のことはミスリアと、名で呼んで下さっても構いませんよ」

「ではよろしくお願いします。聖女ミスリア」

 男は微かに笑った。その瞬間だけ、髭も髪も皴も関係なく、一気に若返ったように見えた。

 ――中身の知れない箱を開けんとする時の感覚と似ている。

 開けてしまえば、見ないままで居た方が幸せだったかもしれないモノを見てしまう恐れがある。ところが開けぬままで居れば、もしかしたら知りたいモノを手に入れられたかもしれない未来と永遠に繋がらない。

 内なる葛藤を続けるミスリアの傍らで――部外者のゲズゥは箱から何が飛び出るのか、まだ見ぬ真相に用心と共に純粋に期待した。

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