57.

 夢を見ていた――分類するならば極めて悲惨、世界の四隅よすみから叫声が響き渡ってくる悪夢であった。

 最も悲惨なのは、この場面が現実にあったのだと、思い出してしまったことだ。

 記憶の奥深いところでいつまでもその自覚が眠っていてくれたならよかった。呼び覚まされた以上は、骨髄から湧き出た蛆に内から食い破られるような気分だ。

 一体いつまで、絶叫は続くのだろう。

 そこには自身の悲鳴も入っており、そして大切な者たちのそれも交じっていた。

 苦痛は何重にもなってこの身を襲う。同時に一人、また二人、絶叫が水っぽい喘鳴に替わり、重々しい咳となるのを聞き届けることとなった。

 命乞いをする。無駄だとわかっていても、助けを乞う。

 聴覚に返る、自分の声に激しい失望を覚えた。何故、耐え抜いて潔く死ねなかったのか。

 飽きるほど繰り返し味わってきた拷問。その都度、こみ上げる異物感や絶望に慣れるわけでもなし、夢は夢らしくあらゆる原理を撥ね退けて、苦しみばかりを延々強要する。

 ただ肉体と意識が再び結び付く頃には必ず、きれいさっぱりこの場面を忘れ去っているのが救いだった。

 ――きっと今度は、忘れない。

 予感がした。覚めたくない。この夢に留まりたくもない。情けなく泣き喚きながら全てを拒絶する。

 間もなく最後の一人になってしまいそうで。彼女の為にも、命乞いする。

 どこからか黄金色に煌く雨が降り注ぎ、悪夢は突然、霧散した。

 まっさらな世界には永劫の孤独が残る。ああそうだ、仲間たちには二度と顔向けできそうにない。

 やはり、絶望した。


_______


 追憶の旅の終着点が近いと、瞬時にそう悟った。

 ここ数年――五、六年くらいか――の中で、かつてないほどに頭が冴え渡っていた。こうもクリアな寝覚めは、何かの予兆に違いない。

 恐れていたモノに立ち向かう勇気が、血流と一緒になって循環している気がした。

「……この大雨なら猛獣も棲家から出て来ないだろうし、町民の松明も消されて、追跡が難しくなりそうだね」

「不幸中の幸いです」

「あ、やば。前の方、枝分かれしてるね。どうしようか」

「聖地の気配が瘴気に隠されているみたいで、よくわかりません……」

 近くの話し声にエザレイは黙って耳を傾けた。暗い景色が流れる速さから察するに、移動している。馬の早足トロット程度だ。

 それ以上の状況確認をするよりも先に、彼はあることに気付いた。

(……――あれは)

 探し求めて身をよじる。

 積み荷が如く、馬の背に縛り付けられていることをついでに知るが、どうでもよかった。

(どこだ)

 手首に食い込む圧力をもどかしく感じ、そこに目を凝らしてみる。複雑な結び目で、両手が馬の首を抱くようにして縛されていた。

「ふーん、目が覚めたの」

 隣の青年が一切の優しさを伴わぬ声で問いかけてくる。

「リボンは。どこ行った」

 せっかく冴えた頭が、撹拌されたようにかき乱される。吐きそうだ。果たして吐き出せるようなものが体内に残っているのかは不明だが。

 青年は答えずに、行路にばかり注意している。代わりに、逆側から遠慮がちな声が言う。

「すみません。私が預かってます」

 縛り付けられている状態で馬上で寝返りを打つのは困難だったが、エザレイは軋む身体に鞭を打った。

 少女が差し出す小さな手の中に、確かに灰色の見慣れたそれが握られていた。

「……そうか。ならいい」

 安堵のため息が鼻先で白い湯気を立てる。気が抜けたら、ますます衝動が大きくなってきた。

「ちょっ、止め……吐き――」

「うん? 吐きそうだから止まれって? 前から思ってたけど、オニーサンって胃が弱いよね。そんなんじゃ長生きできないよ」

 そもそもこの体勢でずっと馬に揺らされて平気な方がどうかしている。と、言い返す余力は無い。

 嫌味っぽい言い草はともかくして、一行は確かに止まってくれたし、縄も解いてくれた。

「なんとでも、言え……。あと、そこの枝分かれは、右、だ」

 とりあえずそこまで伝えられたが、逆流が始まったので詳しい説明は数分待たせることとなった。

「で、君は理性的な時間に入ったみたいだし、右に行くべきという根拠を聞かせてもらおうか」

 喉の筋肉の収縮が収まったのと時を同じくして、銀髪がハンカチを差し出してきた。素直に受け取る。

 エザレイには目の前の胡散臭い美青年の笑顔よりも、言われたことの方が気になった。

 ――理性的な時間?

 とは、どういう意味か。考えるのが大儀なため、涙やら鼻水やら唾液やらを拭うことに専念した。拭き終わると、呼吸を整え、答える。

「それは右の道が……聖地に向かってるからだ」

「前言撤回、君の理性は綱渡りみたいなものなのかな。で、左の分かれ道には何があるの? 口では『右に行こう』って言ってる割には目がそっち睨んでるけど?」

「……は?」

 ここに鏡は無く、自分の表情が見えないが、目に力が入ってしまっているとしたらそれは体調が悪いからであって、何かを睨んでいるからではない。反論しようとして立ち上がると、足首が引っ張られたような感覚があった。足がもつれかけて、咄嗟に馬の鞍を掴んだ。

 何と、左の足首に縄が掛かっているではないか。繋がれた先は馬首である。色々と言いたいことが浮かぶも、しばし黙り込んでしまった。結局「あんたがやったのかコレ」の質問が口をついた。

「うん。うちのお姫さまの要望でね」

 銀髪の青年が親指でくいっと指さす先を振り返る。お姫さまと呼ばれた聖女ミスリアが肩を小さく跳ねさせた。仕草こそは萎縮しているようだが、茶色の双眸には揺るがぬ決意が垣間見えた。

「貴方がまたいきなり走って行きそうで、心配だったんです。すみません」

「話が見えない」

 抗議した。が、なかなか答えてもらえないどころか目を逸らされた。

(なんなんだ)

 何故彼らによそよそしくされるのか、その原因を思い出そうとしても、要所要所で記憶に穴が開いている。これまでの霧に隠された感じとはまた別の、記憶障害の形。

(俺は一体いつまで、欠陥を抱えていなければならないんだ)

 苛立たしい。足元の土を蹴ったが、それはなんとも意味の無い行為だった。むしろ、周りの目を更に冷めさせることだろう。自己嫌悪の波が押し寄せる。

 ところが、項垂れていたエザレイの視界の中に、ずいっと見慣れた棒状の物が現れた。

 顔を上げると、黒髪の青年が何かを差し出しているのだとわかった。エザレイが使っていたグレイヴだ。

「何か言いたそうだな」

「…………」

 声をかけてやるも、返事は無い。その男は無表情に手元のグレイヴに視線を落とした。一緒になって柄部分に目をやると、直線が直線でなくなっていることに驚いた。

「なんで折れて――」

 ぐらりと、世界が歪む。五感に蘇る手応えに震撼した。

「はは、はははは。そうか。生き残りが、居たんだな」

 喉から不気味な笑いが漏れていることに、エザレイは自分では気が付かない。

「一人残らずぶっ潰してやらないとな。今度は邪魔してくれるなよ」

 折れてしまった愛用の武器に、手を伸ばす。指先が柄に触れそうな距離で、いきなりそれは地面に落ちた。

「……?」

 不愛想な青年が、掌を大きく広げて取り落としたらしい。

「骨を折り、胴から首を切り離すのは、面白いか」

 青年の言葉に侮蔑の響きは無い。純粋に知りたがっているように思えた。

「まさか。人を殺すことには当然、生理的な抵抗がある。仕方ない状況だったとしてもあとあと嫌悪感を――……おぼえていた、はず、なんだけど」

 答える最中に我に返った。掌に残る手応えを思い浮かべれば胸の内に広がるのは嫌厭けんえんではなく、カタルシスのような興奮だった。

 乖離している。精神と肉体が、だろうか。本来の人格と今の人格が、だろうか。

「だって、あいつらは……」言いかけて、エザレイはいつの間にか自分が左の分かれ道を睨んでいるのだと自覚する。無理やり首を方向転換させ、ミスリア一行とちゃんと目を合わせた。「悪い。順番が、違ったな」

「順番ですか?」

 聖女ミスリアが訊き返したのに対し、ゆっくりと頷く。

「聖地に行こう。カタリアに、会いに」

 吐く息のひとつひとつが、まるで最期の息になりそうなほどに重い。それだけ、自制するのに膨大な精神力をかけていた。雨を吸った服が、枷以上に枷に感じられる。

(まだだ。もう少しだけ踏ん張れば、会える)

 瞼を下ろして、深呼吸する。

 春の日差しのように笑った少女を想った。栗色の髪に編み込まれた左右の三つ編み、そこに結ばれていた灰銀色のリボン。彼女はいつからあれをつけるようになったのだったか――それさえも忘れてしまった。

 目を開けると、悲しげに歪んだ聖女ミスリアの顔が見えた。

「会う、と言うのは…………いいえ。わかりました、右を行きましょう」

 外套を翻し、彼女は踵を返した。これ以上どうこう言うよりも行動をすることを優先したのだろう。青年たちは異論を唱えなかった。

 一行は組み合わせを替えて馬に乗り直す。体重のバランス、それによる馬の最高速度を考慮してのことだ。エザレイはちゃんと鞍の上で座す形になり、残りは男女二組となって騎乗した。

 だが、進行は二十分後にまた停止することになった。その頃には降雨の勢いも収まりつつあったが、新たな障害物が立ち塞がったのである。

 行く手を阻む、うねっては重なる細々とした影。記憶に沿った姿を見渡し、エザレイはぼそりと呟いた。

「来たな、藪の迷路」

 最も身長の高い箇所では、八フィート(約2.4m)をゆうに超えるだろう。それは視界一杯に広がり、しかもみっしりと詰まっていて、馬の体躯ではとてもではないが通れない。

「『迷路』だったら、頑張ればいつかは出口に辿り着けるのかな」

「ああ、運が良ければ一時間以内には通り抜けられるだろ」

 かつての経験ではそうだった。

 銀髪の青年はその答えに不満があったのか、馬から飛び降りて、藪に顔を近付けた。

「めんどくさいなあ。兄さん、こう、剣でズバッとなんとかできない?」

 話を振られた黒髪の兄の方も、地上に降りて藪を確かめる。

「幅」

 しばらくして、この質問が自分に向けられていたのだと気付いた。あまりに端的な言葉であったため、質問だとはすぐにわからなかったのである。

「真っ直ぐ突っ切れるなら、二マイルと無いはずだ」

 曖昧ばかりな記憶の中でも割と的確と引き出せる情報があった。どうやら、かつての自分は空間認識能力に長けていたようだ。その一方でカタリアは極度の方向音痴だったな、と一人で思い出し笑いをしそうになる。

「……かかる時間と労力で言えば、迷路の道を使うのと大差なさそうだ」

 黒髪の青年はそのような結論を出した。

「本当に道があるならねー。ま、どうしても行き詰まった時はザックリと道作ればいいか。ところでオニーサン、君はこの迷路を通ったことあるの」

 銀髪がこちらを振り返って訊ねる。エザレイは返事に躊躇した。是か非かしか選択肢の無い質問に、何故かうまく答えられない。

「あ――……る、けど……ない……」

 いけない。焦ってはいけない。馬の背から降りて、息を整える。足首の枷は外してもらった。

(そういえばこの藪、俺の記憶と微妙に違う)

 もう一度よく見渡した。匂いや音からは何も感じない。主に見た目が――後ろを振り返り、これまで通ってきた景色を確認する――相違しているのだ。数年経ったのだから植物が成長しているのは当然だろうが、それが原因ではない。

 枝が伸びる方向が渦巻いて見える。

 ふと記憶の糸が引っ張られる感覚があった。

「思い出した。俺はこの藪の迷路を通ったことはあったけど、こっちから聖地に行ったんじゃなくて、聖地からこっち側に戻る時に通った」

「どういうこと? 行きの時には無かったのに帰りにはあったとでも言うの」

 鋭い。流石に銀髪は察しが良かった。

「その通りだ。これは、聖地が穢された後に発生した、怪異みたいなもんだ」

「怪異ですか。でも何か……微かな気配が……」

 小さな聖女が、黒髪の護衛の手を借りて地上に降り立った。枝に手を伸ばしているが、触れる寸前に何を思ったのか、瞑目した。

「拒む、想いを感じられます。この場所は瘴気に覆われているようにも見えたんですが、実際は瘴気を弾き出そうとしているから濃く覆われているように見えるのですね」

 聖女が抽象的な話をしている隣で、その青年は何を思ったのか。ガチャリと大剣を解放した音がしたかと思えば、突風が生じる。

 エザレイは呆然と彼を見やった。振り下ろされた剣は、ただ空を切っただけだった。藪に切りかかったように見えたのに、どうしてこの結果だったのか。誰しもが不思議そうな顔をした。

「認識のズレだ」

 当人は何でもなさそうに剣を収めた。

「それではまるで、封印された土地のようですね」

「ん~、なんかわかんないけど、本当に出口まで行けるのこれ」

 彼らの疑念が膨らむ。こうしている間にも、敵の足は近付いてきているかもしれないというのに――

 エザレイは瞼をすうっと下ろして、打開策を求めた。

 現在目に見えるものが、触れられるものがまやかしだと言うのなら、かつて通った道ならばどうだ。脳内地図を再現し、逆さに当てはめたなら。

(入り口の位置は……左端になるはずだ)

 こっちだ、と声をかけるほどの自信が持てなかった。何も言わずに歩き出したら、四人は何も言わずに馬を放ってついてきた。

 想定していた場所では、肩までの高さの枝がぎっしりと詰まっている。

 足を一歩踏み出した。それだけで額に冷や汗が浮かんでしまう。

 ふいに右手に柔らかくて温かいものが触れた。すみません、と少女の澄んだ声がする。

「貴方を連れてくるべきではなかったと、私は――」

「やめろ。やめてくれ。そこまで、カタリアと同じことを言うな」

 カタリアの妹はそれ以上何も言わなくなったが、触れた手は離れなかった。

 次の一歩を踏み出す。

 すると藪に見えていた箇所を難なくすり抜けた。どうやらかつての記憶を頼ったのは正解だったらしい。一歩踏み出す度に自信が身に付き、どんどん足取りは急いた。

 おもむろに歩き出した彼に、ミスリア一行が続く。

 藪の中に生き物の気配はしない。足音も風の音も枝が上着をかする音もどこか遠くに感じられて、奇妙な気分だ。

 どこもかしこもが同じ景色に見えてしまい、叫び散らしたくなる。脳内地図に不備は感じられないが、それと心の迷いは別物だ。五感がまだ正常に機能しているかを確かめたくて舌を奥歯の間に挟んだ。鋭い痛みが舌先に走った。

(どれくらい時間が経った? 出口まで後どれくらいかかる?)

 振り返って彼らの顔を見たら少しは元気が出るだろうか。否、それをやっては自分の不安が伝染しかねない。最早引き返せない場所まで来ているのだ。

 未だに感じる温もりを振り払う為に右手を引こうとすると、あろうことか細い指が絡まってきた。

「貴方の知るお姉さまは、どんな人でしたか」

 静かな声がした。

「急に何だ」

「八歳ほど離れていましたので、あまりよく知らない内に別れたんです。きっと私の憶えているお姉さまは、素のお姉さまとは一味違ったのでしょう」

「……だろうな」

「良ければ話して下さいませんか」

「どんな人か、ねえ」

 追慕の念はそこらに充満している闇を忘れさせてくれるかもしれない。少しくらいならいいだろうと、歩を進めながらも回想する。

「よくも悪くもあいつは聖女だったよ。いつも笑ってて、人を傷付けたり悲しませることは絶対言わなくて。近くに居ると日向ぼっこをしてたみたいな気分だ。拗ねた顔はたまに見たけど、怒ってたとこなんて多分見たことが無い」

「そうですね、私も怒った顔は見たことがありませんでした。泣いた顔もです、嬉し泣きとか感動泣きは別として」

「泣き顔は――ああ、一度だけ」

 あれはいつだったか。おそらくは会えなくなるまでの最後の一月の間のことか。イリュサに腕を縫合してもらった後に気を失い、次に目を覚ました時。カタリアは泣きながら謝った。

 お前の所為じゃない、と宥めすかしたのを憶えている。

「あとは、頭は良いくせに、抜けてたな」

 特にカタリアの空間認識能力の欠如には深刻なものがあった。建物から出ると、必ずと言っていいほど帰り道とは違う方向に歩き出していたように思う。数歩放って置いてやって、カタリアが自分から「間違えました」って道のりを訂正できたかどうかの確率は五分五分。

「意外ですね。私にはちょっと想像できません」

 くすくすと笑う声が聴こえる。

「下のきょうだいが見てるとこではカッコつけたいだろうよ」

「そんなものでしょうか」

「そんなもんだ」

 断言した。遥か昔の話ではあるが、エザレイにも弟妹が居て、次男としてのくだらないプライドみたいなものもあったのだ。

「他には?」

「そうだな……あいつは世界を愛していた。何でもないところにまで愛を感じていた。そういう特殊な価値観の持ち主だからこそ、ディアクラとイリュサはあいつにベタ惚れだったんだろうな」

 ――次の角は右。

 口を動かすだけでなく、手足をも動かした。

 それからしばらくの間カタリアの妹は黙り込んでいた。独り言を連ねているような心持ちで、エザレイは語り続ける。

「宿命の元にストイックに生きなきゃって思ってたんかな、欲しい物を我慢してた時も……」

 はた、とエザレイは言葉を切る。自分は今、何か大切な思い出を手繰り寄せたのではないか。唾を飲み込み、瞼を開閉する。どうにも思い出しきれずに話の焦点を次に移す。

「よく家族の話もしてたよ。親とまた漁がしたいな、とか、可愛い妹と遊びたいな、とか。そうそう、出発した前の日に、手を繋ごうとしたら振り払われたーって」

「えっ! ほんとにそう言ってたんですか」

 顔を見ずとも、やたら食いつきが良いのは明らかだった。右手の指に絡まる手が、ぎゅっと握る力を強める。

「お、お姉さまは悲しんでましたか……?」

「悲しいっていうか、しょんぼりしてた。別に手を繋いでもらえなかったことがじゃなくて――私の知らない内に大人になってくんだなーって。一緒に居られなくなる未来を、惜しんでた」

 懐かしい。こうして過去のことを話せる自分を、どこか信じられない気持ちで観察していた。

 あの日々を思い返すごとに心がじんわりと温かくなるのを感じる。同等の喪失感をも呼び覚ましながら、だが。

「半年か」

 ぽつりと呟いた。迷路の出口まで僅か数歩の距離でエザレイは立ち止まり、俯いた。

「何がですか」

「俺があいつらと旅をしていられた期間は、ほんの半年だった」

「……」

 カタリアの妹が手を放した。そしてくるりとスカートの裾を翻して、エザレイの正面に立つ。たったそれだけの動きが清爽な風を吹かせたようで、呆気に取られた。

「これを貴方にお返しします」

 濃い茶色の双眸は真摯だった。少女の手には、よく見知った一組のリボンが握られている。

 差し出されたからには受け取った。掌を撫でる、慣れた感触に安堵する。

「実はそのリボン、刺繍が施してあるんです」

 続く言葉に不意を突かれた。

「刺繍?」

「はい。生地と似た色の糸で」

「そうか、それは気が付かなかったな…………?」

 所有者の名前が刻まれていたのか、それとも買った場所を記念に記したのだろうかと、安易な想像をする。

 どうして目の前の小さな聖女はこんなにも思いつめた顔をしているのか。よくわからない。

「お伝えします」

 彼女は頭を垂れて、大きく息を吸って吐いた。

 なんとなくエザレイは手の中のリボンに目を落とす。


『尊き聖獣と天上におわします神々よ

 この糸と同じ色の瞳をした人をお守りください

 肩の力の抜き方を知らない彼が

 どうか幸せに生きられますように』


 耳が声を聴き、脳が文脈を理解してから数秒。自分ではわかりようがないが、眼球を支える筋肉が収縮し、大きく目を開いたかのように感じた。

(糸の、色)

 同じ色の瞳。それらの関連性、意味がわかった時には、笑っていた。

「なんだ、それ。何言ってんだ。俺を励ます為の妄言だってんなら、気を遣わなくていいから」

「妄言ではありません! ファイヌィの言葉で、確かにそのように刺繍されているんです。祈りの言葉が半分ずつに分けられて――」

「もういい、何も言うな! 聞きたくない!」

 少女の必死な抗議を遮る。

 衝動的に髪の毛をガシガシと掻き乱した。頭蓋骨を擦る爪先の音がやけに大きく反響して、周りの音を覆い隠す。勿論、聖女ミスリアの声もだ。

「しあわせ」

 唇の間から漏れた声は、ひどく掠れていた。

「幸せになんて、なれるわけ、ない」

 はらり、白髪が十本と抜け落ちたことには構わず。エザレイは笑った。

 ――あの娘はどこまで脳内お花畑なんだ。俺の中にまで花を浸食させる気だったのか?

 声に出していることにも気付かず。笑った。

 ――無理だ。償わなければ生きている価値が無い。

 カタリアの妹が涙目で震えている様子を目にも留めず。走った。湿った土を踏む度に泥が派手に弾けるのも気にせず、夢中で駆けた。

 あんなにも歩が重くなっていたのに、心境は変化していた。合わせる顔が無いと思っていたが、今となっては、早く会って笑い飛ばしてやりたい。お前の願いは叶いそうに無いぞと。

「なれるわけない! 駆除して、根絶やしにして、それをやる以外に生きる術の無い俺に! 祝福は降らない!」

 迷路の終わりは突如としてやってきた。

 進むことばかりに気を取られた所為か、出口への秒読みを怠っていたらしい。視界が開けて、空気も軽くなる。靴の裏が踏みしめた感触は、これまでの泥土と違い、柔らかいながらも弾力があった。

 草。

 それが此処に生えていたことに虚を突かれ、エザレイは半歩踏み出しかけた不自然な姿勢となって立ち止まった。

(なんだってこんなものがあるんだ。それに明るい)

 脳の奥から引き出した映像と噛み合わない。数年前を想起すると、生命の気配が希薄な、薄暗くて息苦しい場所しか浮かんで来ない。

 濃紺の背景に銀色の輪郭を輝かせる上弦の月は、その恵みを眼下の美しい池に惜しみなく降らせている。まるで巨大な石がめり込んでできたかのような窪地、幅は四百ヤード(約366m)程度。中央の池の中は蓮華のピンク色が彩っていた。

 池を背に庇うかのように、人一人ほどと同じ身長の岩がそびえる。岩の表面には瑞々しい蔦が巻き付いて花を付けている。

 遠くから眺めているだけで花の甘い香りに抱きしめられたように錯覚する――

 脱力し、その場に膝をついた。次いで両手もつき、草に額をつけそうなまでに項垂れる。

「すごい! 夜に咲く蓮の花ですか」

 他の四人の気配が追いついた。

 泣き顔を見られたくなくて、顔を上げることはしなかった。絞り出すように囁く。

「……カタリアの妹――いや。ミスリア、と言ったな。お前の姉ちゃんはあの石の下だ」

 沈黙、そして誰かが素早く通り過ぎる気配があった。ミスリアが姉の元へ駆けたのだろう。

 全身に力を込めて立ち上がろうとする。何故かその過程で幻聴が聴こえた。


 ――今夜は月が素敵ですわね、兄さま! せっかくです、一杯やりませんか。

 ――名案ですね、我が妹。


 そういえばハリド兄妹は月見酒が好きだった。こんな具合の会話を幾度となく聞いた気がする。

 月光をぼんやりと映し返す池の水は濁っている。蓮が生息するということは、決して透き通っては居まい。再び天空を見上げると、去りゆく雨雲の間からくっきりとした月影が浮かんだ。

(あいつらがはしゃぎそうな夜だ)

 見せてやりたい、強くそう思う。高飛車でねちっこくて、最後までエザレイを家名まで込めて呼び捨てにしていたけれど。鬱陶しいと思うことはしょっちゅうあっても、決して嫌いではなかった。仲間、だったのだ。

 彼らも一緒に埋めた。そう、愛してやまなかった聖女カタリアの傍に。

「ごめん、ディアクラ、イリュサ……ごめんな」嗚咽がこみ上げてきて、舌がうまく回らなくなる。「生き延びたのが俺で、ごめ」

 アバラと脇腹辺りに強烈な衝撃が走った。しかも両隣から。あまりに勢いよく蹴られたのか、地面についた掌が浮かび上がる。空咳をしていると、鼻水を誤って飲み込んでしまいそうだった。嚥下を堪えようとするのはそれはそれで苦しかった。

 やむなく口内の液を吐き出す。滲んでいた視界に新たな熱が満ちた。

「そーゆーコト言う人は嫌いだよ」

「生き延びた結果を、重荷とするな」

 責め立てるのは追憶の念から飛び出てきた幻ではない――現在を生きる青年たちの苛立った声だ。

「あん、たら。なにすんだ」

「穢れた聖地だなんて言うからもっとドロンとした感じを想像してたんだけどね。キレイなもんだね」

「同感」

 ――無視された。が、これといって不快な感じはしない。蹴られたのも暴力と言うよりは喝を入れられたような気がする。

(違うんだ。生き延びたのは、俺が弱かったからだ)

 エザレイが顔を上げると、既に一行は四人とも岩の前に近付いていた。

 自分も、あんな風に近づけるだろうか。

 教団が保護する聖地であれば重い業を負った者は近付いてはいけない決まりだが、この場所は本来の聖地とは異質であり、隔てる壁は心の中にのみ存在する。

 窪地は歪んだ楕円形だ。現在地から目的の物までの距離は二百ヤードとない。

 此処まで辿り着けたのだから、これ以上に何を恐れることがあろうか。何をしたところで過去を変えることは不可能なのだ。

(取り戻した記憶を乗り越えられたら)

 孤独感も緩和されるだろうか。風に舞うタンポポの綿毛のように不確かな希望が、原動力だった。

 ようやく、相対できそうだ。

「藪の迷路に感じていた想い、リボンに付着していた残留思念も……この岩から漂う気配と同質のものですね」

 聖女ミスリアが跪き、祈る姿勢で感想を伝えたのと同時に、エザレイは聖女カタリア・ノイラートの墓石代わりのそれの正面に立った。

「この地の封印を解きます」

 涙声で、少女は宣言する。

「ダメだ」

 だがその提案をエザレイは即座に却下した。

「解いた後に新たに封印を仕掛けます。やり方は、聖獣がお与えになります」

 ミスリアはめげない。聖獣のくだりはよくわからないが、短時間でもしっかりと考え抜いたのだとわかる受け答えである。

 それでも承服しかねた。

「そういう問題じゃない。今はダメだ。夜が明けるまで待て、でないと魔物か口笛の連中が来る」

 朝であれば魔物は霧散する。少なくとも、確実に一つの脅威が減るだろう。そしてこれまでの傾向からして夜に活発になる森の民も、朝となれば大人しく住処に帰ってくれるかもしれない。

 それにしても、頭を割らんとする高音、あの口笛の音を思い出すと目の奥が赤く点滅し出した。理性が遠ざかりそうだ。

 ふと視線を感じて、瞬きをする。少女が真剣にこちらを見上げていた。

「では万が一、夜明けに封印を解いた際に包囲されていたら。貴方はまた暴走するのですか」

「…………」

 その問いの返事をエザレイは持っていない。聖女ミスリアは「包囲」の主語を省いたが、そこに当てはめるべきは「カタリアたちの仇」。奴らが視界に入れば、十中八九、惨殺したくなる。

 どうしようもない因果性だった。

「私は当時の事情を知りませんし、貴方のやろうとしていることを完全に理解することはできません。憎悪を消化できないと言うなら、止める権利はありませんけれど……」

 ミスリアの眼差しがリボンと岩を行き来した。つられてエザレイも刺繍のメッセージを思い返す。だからと言って、心の中の澱は変わらない。

「死者の遺志を生者が尊重しなければならない道理は無い」

「わかっています。私のわがままに付き合っているのだと思ってくださって結構です。お願いしますエザレイさん、朝になって封印を解くまで、此処に居てください。ほんの少しでも思い留まれそうなら、そうして欲しいんです」

「朝まで説得する気か?」

「そこまでは……。ただ、魔に転じて欲しくないとは思っています」

「だったらもう遅い」

 小さな聖女に背を向けた。

 袖を見下ろすと、抜け落ちてしまった白髪が何本かそこに付着していた。今ならハッキリと思い出せる――鮮やかな赤茶色だった髪の色素が消えてしまった、その前後の出来事を。

 藪の迷路が誕生した経緯も。

「こう見えて俺は、一度そちら側に堕ちたことがある」

「……!?」

 振り返れば、ミスリア一行が各々、驚愕を表していた。

「どういう、ことですか」

「話せば長くなる、」

 何かを言いかけて、やめた。おずおずと訊ねる少女の肩越しの、温かな生命力を放つ蔦の花に目が行った。白や黄色やピンク色の、小さな花びらが微かな夜風に震えている。

 蓮の甘い香りが鼻孔をくすぐる。何を言おうとしていたのか、束の間忘れてしまう。

(くそ。死んで居なくなってもあいつは、こっちの毒気を抜くんだな)

 一晩中此処の空気を吸ったら、本当に気が変わりそうな予感がしてきた。きっとこの空間の中では外で何が起こっていようと、ゆったりと時間が流れ続けるのだろう。

 惹かれるようにして岩に歩み寄った。湿った岩の表面が甘やかな月明りを反射する。

 三人分の墓石だからと、時間をかけて大きな岩を見つけ出して、背負うようにして引きずったのを憶えている。どういう風に筋肉が軋んだのか、どこの皮膚が擦り剝けたのか、身体が思い出した。

 ――遡る。

 掘った穴に遺体を並べた後、涙が涸れるまで立ち尽くした半日間。

 ――更に遡る。

 最期の息を吐き出すまでに抱いた、少女の華奢な身体の重み。あの時に見せた表情――

「わかったよ、朝まで付き合ってやる」

 長い長いため息をついた。

 そして岩に背を預けて座り込む。支えて欲しくて、仲間たちがそれを受け入れてくれると信じたくて。砂上の城でも、崩れ去った後でも。

 顔向けができないなら、向けなければいい。

(結局どう足掻いたって俺の心の在処はこいつらの傍にしかない)

 片膝を立てて深呼吸をする。

 少し、昔語りをしよう。そう切り出すと、ミスリアたちは頷き、夜を過ごす準備を静かに始める。

 銀髪とその相方の女は話を聞く気があるのか無いのか、敷き布を敷いて横になる。黒ずくめの青年はミスリアの動きを目で追うだけで動かない。

 そして当の聖女ミスリアは、膝を揃えてちょこんと斜め向かいに座る。エザレイの腕の届きそうな範囲より少し遠いくらいだ。膝を揃えていては足が痺れるだろうと思って、崩していいぞと声をかける。

 ぴちょん、と背後の池から水音がした。夜行性の両生類でも棲んでいるのだろう。

 平和なものだ。数年前のあの時が嘘のように――。

「魔物の最も手っ取り早い作り方って知ってるか」

「つくり、方……?」

 滲み出そうになった驚きを遅れて抑えたのか、少女の語尾はおかしな翻りをする。それもそのはず、魔物を作ろうなどと、常人が考え付くようなことではない。

 かつてそれを考え付いた狂者が居た。サエドラの町に隣接する森の住民の始祖その人だ。

 始祖は異形の存在を作り出して、調教する方法論を編み出し、実現した。

「その作り方ってのが案外単純でな。実体化している魔物を」続きを語るまでに、何度か咳払いをした。口の中に、あの忘れがたくおぞましい味が広がった気がしたのだ。「魔物の『肉』を切り取って、生きた人間に喰わせるだけだ」

 うっ、とミスリアが口元を手で覆った。すっかり青ざめてしまった彼女の代わりに、地に寝転がって話を聞いていた銀髪の青年が問うた。

「まさかあの燻製がそうだったとか言うんじゃないよね」

「あれはただの熊の肉だ」

「へえ、熊はペットじゃなかったんだ」

「俺の知る限りじゃ、口笛の連中は熊を使役してない。食料として取り扱ってはいるが、奴らの下僕は魔物……この場合は、魔獣とでも呼んで通常の魔物と区別するか。あの狼みたいな魔獣だけだ」

 奴らは始祖の代からずっと、狩猟の供として使う為だけに魔獣を生産し続けた。目的はそれ以上でもそれ以下でもなく。これほどまでに長い間、教団や対犯罪組織に見つからずに居たのは、手を広げようとしなかったからかもしれない。

 悪行が知れ渡らない理由はもう一つあった。サエドラとの協力関係だ。

「奴らが魔獣を使って狩る、熊をはじめとするさまざまな動物……サエドラの民が森の住民を容認するのは、森から得られる肉が欲しいからだ」

 代償として町民は異邦人や老人などを定期的に森の民に差し出す。

「わからないなぁ。自我も知性も無い化け物をどうやって従わせてるの?」

「言ってしまえばそれも単純だ。魔物が有する唯一絶対的な習性を利用する」

「……人への飢えですか」

 聖女ミスリアが口元から手を放し、胡乱な目で言った。

「そうだ。人間を喰らうことへの猛烈な飢えを『誕生』直後に満たしてやれば、魔獣は御しやすくなる」

 ――刷り込みと餌付け。

 職業柄、エザレイは魔物と長らく関わってきたが、人に餌付けされた魔物に出遭ったのはサエドラでの一件が初めてだった。魔物狩り師連合の記録によれば似たようなことを試みた者は他にも居たらしいが――ともすれば、鍵は刷り込みであろう。

 異形を生み出してから調教したのではなく、調教できるようにわざわざ生み出したのだ。

 こうして論を並べ立てるのは容易だ。行程を詳細に語るところが、真の苦難であった。吐き気を催さずに話し切れるかどうか。

 決心が鈍らない内に、せかせかと話を進めた。

 町民の謀略にかかって森の民に明け渡されたこと。運送途中に逃げ出せたはいいが手傷を負わされ、聖地に立てこもったこと。

 森の民は聖地を嫌って、軽々しく踏み込もうとしない。或いはもっと時間が稼げたかもしれないのに、その日は事情が違った。疎んじていた聖地を穢す千載一遇の機会だからと、奴らはこぞって攻め込んできたのである。

 荒々しく押さえつけられた。殴られた。噛み合わせた歯の間をこじ開けられた。青白く光る肉塊を口内に押し込まれた。

 あれは、およそエザレイの持ち合わせる語彙では形容できない次元の不味さだった。拒絶して吐き出そうにも、口を押さえられていてできなかった。抗えば抗ったほど、喉の筋肉は飲み込んで楽になろうとした。

 瘴気は唾液と絡まり、通る道を残らず焦土と化さんとする勢いで胃腸に至った。

「内蔵が破裂するのかと思ったよ。それで苦痛にのたうち回ってしばらく泣き叫んでたら、数分ほどで治まって……」

 嬉し涙が流れかけた頃合いに、次なる試練が始まった。

 飢餓だ。

「奴らの狙い目はそこだ。魔物を喰らった人間が、まだ生きた人間であるままに、同族の肉を激しく求める段階――」

 あらかじめ用意された餌を口にすることにより「刷り込み」は完成するわけだが、連中の残虐さに限度など無かった。

 ――ふいに、静かに話す声が、自分のものでないように感じられた。

 この美しくも哀しい窪地の狂った過去を。我ながら、なんて淡々と語るのだろう。

(そうでもないな)

 いつの間にか両膝を立てて、貧乏ゆすりをしていた。

 他の面々はしばらく口を挟んでいない。

「先にその段階に達したのは、ハリド兄妹だった」

 次にエザレイ、最後に聖女カタリア。聖職の者であるカタリアは体内に聖気を蓄積していたためか、連中の予想以上に魔性への変容に時間がかかった。

「カタリアが長時間耐えられることに気付いた連中は、趣向を変えた。先に堕ちそうになった俺らに、あいつを喰えと命じた」

 朦朧とした意識はその命令に簡単に揺るがされそうになったのだ。

「嘘です! 嘘ですよね!? そんな、そんなことってないです……!」

 ミスリアが突然飛びついて来た。懇願する大きな瞳は、涙の膜に覆われている。

 エザレイの膝頭に食い込む指先は、小刻みに震えている。かなり痛いが、放してくれと言う気にはなれない。

 やがて黒い青年が助けてくれた。ミスリアを後ろから抱き上げ、強引に引き剥がす。少女は恨めしそうに青年を振り返り、行き場を失った手を彼の腰に巻き付けた。顔を埋めてしゃくり上げている。

(嘘だったらどんなによかったか)

 落ち着くまで待ってやろうとも考えたが、どうやら続きはその体勢で聞く気らしいのか、ミスリアは微動だにしない。青年の方が宥めるように少女の肩をそっと抱いたところで、エザレイは再び口火を切った。

「ディアクラとイリュサは鋼の精神で耐え抜いて、飢餓に悶えて弱りながらも死んでいった。俺は――……まあ察しただろ。屈したんだよ」

 衣服に付いた白い抜け毛を払いつつ、自嘲気味に笑う。

 乱心して、護ると誓った人の柔肌を喰いちぎる――

 その場面を数え切れないほどに悪夢に見た。

 しかし現実のエザレイはそこまで堕ちずに済んだ。人の道を修正不可能な位置にまで大幅に踏み外したのは覆せない事実でも、その一点だけが救いだった。

 カタリアに襲い掛かろうとはした。すんでのところで飢餓を上回る激情にさらわれたのだ。

 この世のものとは思えぬ苦痛に耐えながらも、逃げて、と何かのひとつ覚えみたいに唱える彼女を視界に認めた瞬間。

 敵を引き裂きたい。それしか考えられなくなった。

 手応えを感じられれば感じられるほどに良かった。ミスリアたちには口頭で説明できないような――さまざまな非道を行い、ついでに敵の血肉で腹も満たした頃には、辺り一面がひどい色に染まっていた。草原は凝固した血液の重みで萎れ、二度と生命が立ち上がれそうにない有り様だった。

(あの頃を境にメイスを使うようになったのか、そうか)

 敵を殺害した実感と手応えをより濃密に欲するようになったのは、人としての自分の心が望んだのか、魔となった自分が望んだのか。無意味な問答である。

「俺が記憶を失くしたのって、きっとカタリアの優しさだったんだろうな」

 周りにも聴こえるようにひとりごちた。

 忘れていなければ、魂を燃やし尽くすまで復讐に明け暮れたことだろう。それか、殺す相手が誰も居なくなるまでに現世を彷徨ったはずだ。

 仲間を喪ったショックも、彼らを自ら埋めた苦行も、背負わねばならなかった。何より人を喰ったという重き業を記憶したまま、普通の生活なんて送れたはずが無い。

 では全てを思い出してしまったからにはこれからどうするのか。それはまだ考えたくなかった。

「彼女は死ぬ間際に、最期の力で幾つかのことを成し遂げた。魔に転じた俺を人間側に引き戻し、この地を封印し、いつか生命がまた芽吹くようになるまで守り抜いた」

 次に目が覚めた時にはエザレイは何もかもを忘れていた。魔物狩り師としての習慣と、「償え」という想いだけが残った。手探りで藪の迷路を抜けて――これには多分半日かけた――そこからはもう、霧の満ちた頭でなんとか生き続けた。

「ほんの少しだけ、期待してたんです」

 埋めていた顔を上げて、ミスリアがぽつりと言った。

「期待?」

「ほんの少しだけですよ。封印の永続性を支える人身御供となったお姉さまが、封印さえ解いてしまえば、元気な姿で戻ってきてくださると」

 目に見えて意気消沈しているカタリアの妹を見て、エザレイはやるせない気持ちになった。

「……ごめんな。俺は霊的な話はよくわからないが、魂が封印と同化したとしても、肉体は確かに死を迎えた。そればかりは、ごめん」

 言いながらもカタリアを横抱きにして運んだ時の感触が蘇り、息苦しくなって思わず目を逸らした。

「いいえ。心を壊すまでにお姉さまを大切に想ってくださった貴方に、それ以上の何かを望めません。あと、人を喰らってしまったことも……貴方が人ではなかった間の出来事です。責められるはずがありません」

「相変わらず優しいな。お前は人を許すのが己の使命だとでも思ってるのか」

 月明りに浮かぶ少女の微笑みが眩しすぎて、つい皮肉を言ってしまう。

「え?」

なじってもいいんだよ。俺はお前になら刺されてもいいと思ってる」

「刺しません。なじる……えっと」

 ミスリアが歩み寄ってきた。かと思えば手を挙げている。

 ぺちん、とちょっとした衝撃が頬を打つ。

「お姉さまからの便りが途絶えてから、お父さまとお母さまはほとんど抜け殻のように生活しています。私の居場所が無くなったのではないかと、時々感じてしまうほどに。これは二人に代わって」

 ぺちん、とさっきとは逆側の頬を打たれる。やや目が覚めるような衝撃だ。

「お前だって悲しいだろ。思いっきり殴れば」

 その提案は受け入れられなかった。ゆっくりと、目の前の小さな聖女は頭を横に振る。

「いいんです。心の奥底ではわかっていました。ずっと前から」

 両目に溜まった涙を袖口で拭っている。この仕草はカタリアにはあっただろうか? なんとなく気になるも、思い出せない。

 そしてミスリアはまた笑った。表情筋が無理しているような、ぎこちない微笑だった。

「一番悲しいのはエザレイさんじゃないですか。これから幸せになるのは難しいでしょうけど……解放されて、いいんですよ」

「――――っ」

 視界がぼやけた。胸の奥がぐっと狭くなったのに、息をするのが随分と楽だ。

「話してくださってありがとうございます」

 言葉の途中で聖女ミスリア・ノイラートは抱きついてきた。春の太陽を思わせる温もりが重なる。

 何かが溶けていく。

 自分の中で長年わだかまっていたものが、緩やかに解かれていく。溶けたからと言って消えてなくなるわけではないが、以前のような毒々しさを保たなくなっていた。

 エザレイの唇の合間から、微かな笑い声が漏れた。これまでとはまるで違う、穏やかな吐息である。

「カタリアに出逢った頃、俺はあまりに何も持っていなかった。そうして手に入れた居場所に依存し、内心ではいつも失うことに怯えていた。実際に失った後、心をどう保てばいいのかわからなくなった」

 春の匂いがする聖女を抱き締め返し、そして彼女の後ろに佇んでいた長身の男に向けて問う。

「あんたらはどうだ。会えなくなったら、耐えられるのか」

 青年は何度か瞬き、無表情を崩さずに返答を述べた。

「その時にならないとわからない」

 無機質に低い声。これだけでは、将来どちらに転ぶかは見抜けない。先延ばしにした分だけ絆が強まるのか脆くなるのか――。

「まあ、頑張れよ」

 どう言ったものかわからないので、エザレイは短い応援の言葉を口にした。


_______


 賑やかな街道の風景だった。

 隣には懐かしい人が居る。楽しそうな横顔は、露天商が台に並べた商品を眺めている。

「欲しいのか? それ」

 とある台の前で結構な時間を過ごしていた。何かが彼女の目に留まったのかと、声をかけてみた。

「素敵ですよね」

 欲しいかどうかの質問には直接触れずに、少女は振り返って笑う。何をそんなに夢中で見ていたのか、一緒になって身を乗り出す。

 ここは女性向け装飾品を取り扱っている。服に付けるブローチや髪留めなど、さまざまな小物が置いてあった。青年にはどれもとても可愛らしいように見えるが、彼女はとりわけ地味な品物を見ていた。

「渋い色だな。リボンを付けるならもっとこう――ほら。ピンクとか赤とか、そうだな、あんたの栗色の髪にはこの水色とか似合うんじゃないか」

「でも私はこれがいいです」

 何故か意味深に笑って、少女は首を傾げた。

 かといって買うわけでもなく、彼女は背を向けて歩き出そうとする。見失ってしまう前に青年は紙幣と品物を露天商と交換した。

 駆け足で彼女に追いつくと、茶色の瞳が丸く見開かれた。

「欲しかったんだろ。別に聖女だからって、何でもかんでも我慢することないと思うぞ」

 そう言って一組のリボンを差し出すと、少女はぱあっと顔を輝かせた。

「ありがとうございます!」ぺこりとお辞儀をしてから、少し離れたところで買い物をしている兄妹の方へ走った。「イリュサ、つけてください」

「可愛らしいリボンですわね。三つ編みの結び目につければいいですか?」

「はい。お願いします」

 器用なイリュサの手にかかれば数秒と要らなかった。そうして新しい装飾品を身につけた少女は、嬉しそうにくるくる回る。

「さすがは聖女さま。何をお召しになってもさまになりますね」

 ディアクラが歯の浮くような台詞を真顔で言い放った。イリュサもそれに倣って、「いい物を選びましたね」「素敵ですわ」などと賞賛する。

 たかがリボンでそこまで喜んでもらえるとは思わなかった青年は、一人輪の中に入れずに居た。

 けれどしばらくして、少女が軽やかなステップで駆け寄ってきた。

「エザレイ! どうですか」

 つい気圧されて仰け反る。

「な、なんだよ。たった今、さんざんあいつらに褒めてもらっただろ」

 まだ意見を求めたいのかと暗に言ってみたが、彼女は引き下がらない。

「それはそうですけど」

 私はエザレイに見て欲しいんですー、と拗ねたようにぷっくりと頬を膨らませた。

「わかったって。へんな顔するなよ。よく似合ってる」

「ほんとですか!?」

「ああ、可愛い」

 半ば投げやりに言っただけだったのだが。

 その後に続いた満面の笑みを前にして、俺もまんざらでもないな、と内心では思っていた。


_______


 月影は早朝の淡い空に溶け込んでいる。間もなく登場する主役の為に身を控えているかのようだった。

 いつの間にかエザレイは草の上で横になっていた。夢の余韻さめやらぬまま、大きく伸びをした。

 起き上がると、墓石と向かい合う聖女ミスリアの後姿がすぐそこにあった。一行はどうやら封印を解く準備をしているらしい。

「……さんざんな人生だったけど、俺はお前ら姉妹と関われてよかったよ。そこだけは後悔してない」

 彼女に聴こえないように呟く。

 ミスリアは右の掌に幾つかの小石をのせている。もっとよく見ることができないうちに、石が眩い閃光を放った。

 空気が震えた。この場所から、目に見えないものが抜き取られたような感覚だ。


 ――ねえ、エザレイ。貴方は知らないでしょう。あの酒場で出逢った夜、私がどれだけ心細かったか――


 温かな声が耳を掠める。

 己の五感を疑った。まだ夢の中だったのかと、自らの腕の肉をつねった。

(痛い。夢じゃない)

 声はまた柔らかく漂う。


 ――危険な旅に出ると決めた時から、私は自分がどういう風に死ぬかを想像してきました。愛する家族や友人から遠く離れた地で、誰にも知られずにひとりで……それとも大聖者となって神殿の中で……。


 周囲に黄金色の輝きが満ちた。あまりに眩しくて、目を閉じるほかなかった。


 ――人類の宝などと呼びましたけれど。貴方は最初から最後まで、聖女でもなんでもない、ただの私を相手にしてくれた。連合が貴方を知っていると言った時、私は「しめた!」と思いました。これで堂々と旅の供に誘う口実ができた、と。おかげで、まだ顔を知らなかったハリド兄妹に対する不安も忘れられたのですよ――


 幻聴だ、幻聴に決まっている。

 こんなにも愛に満ち溢れた台詞を、恥ずかしげもなく並べるなど。

(いや確かにあいつは言いそうだけども)

 恥ずかしいも何も、実体が無いのか。残留思念か、これも。解かれる封印と共に天に還る、魂の残滓だろうか。

 そうとわかっても心拍数が上がるのを止められない。


 ――ありがとうございます、親切な方。貴方は文句ばかり言うけれど、私は最初の日から確信していましたよ。きっとこの方と旅ができたら心強いだろうなと。


 柔らかい声は途切れるまでに、ずっとどこか浮かれているような、嬉しそうな響きを持っていた。


 ――最期に傍に居たのが貴方で、私は幸せ者です――


「ハッ、バカなやつ」

 だから息を引き取る寸前、腕の中で笑ったのか。あの瞬間に彼女は、感謝、していたのか。

「バカだ」

 吐き捨てた言葉は震えていた。

「本気で、そんなことが怖かったのか」

 エザレイは泣いていた。独りで死ぬことへの恐怖は痛いほどによくわかる。他に何ひとつしてやれなかったとしても、その恐怖から救ってやれたのだ。

 それを知ると涙が勝手にあとからあとから溢れ出した。

 この先いずれ、自分もその瞬間を迎える時が来ても。

「ありがとう。それがどんな状況でも、このことを思い出して、俺は気分良く死ねる」

 歪んだ人生、歪んだ道のり。最期に幸福の瞬間に辿り着ける可能性を遺してくれた聖女。

 彼女の名は歴史に残らないかもしれない。生きた軌跡が記されずに、誰の記憶にも残らないかもしれない。

 けれど聖女カタリア・ノイラートは生きた。

 そして、世界を愛した――。

 眩い光が消えて、何の変哲も無い窪地に戻った。

 藪の遥か向こうに人影が見えた気がした。

 聖女ミスリアの手を中心にして不可思議な霧が広がる。目には見えないが、これで穢れも浄化されているのだろう。

「退きなさい」

 低く唸るような声は、侵入者たちに向けられている。

「貴方がたが二度とこの場所に踏み入ることを、絶対に許しません」

 藪の迷路をも覆う、深い霧が生じた。

 そうしてミスリアたちがこの先の立ち回り方を話し合う横で、エザレイは涙を乱暴に擦った。

「悪いな、カタリア。俺はお前が望んだようには生きられない。けど安心しろ、きっとお前の妹が使命を引き継いで、お前の分まで幸せになる」

 ここ数年の日々が嘘だったように、頭の中の霧はすっかり晴れていた。

 胡坐をかき、空を見上げて笑う。

「だから俺はお前らの分まで――――戦うよ」

 太陽や月を宿した大空からは、勿論返事など無かった。

 返事は、必要なかった。

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