58.

 巡りめぐって数週間、場所はウフレ=ザンダの首都に戻る。

 午後の日差しは温かく、平日の公園でのひと時は穏やかなものだった。おまけにお腹いっぱいな所為かぼんやりと眠い。

 前々から話に上がっていた合同生誕祝いの催しは、本日ピクニックという形で実現された。他愛ない話を挟みながらさまざまなご馳走を平らげ、そして人数分を倍にした量の甘味を堪能したのである。

 後片付けを手伝わなくていいときつく言われたミスリア・ノイラートは、ややだらしない姿勢で公園のベンチに腰を掛けていた。

(うーん)

 眠い。けれどいざ瞼を下ろすと、思考が落ち着かなくなって眠れない。昼寝の時間に限らず最近は夜もずっとこの調子だ。

 膝を軽くとんとんと叩かれて、ミスリアは瞼を上げた。長い紅褐色の髪を三つ編みにして垂らした女性が、目の前でしゃがんでいる。

『聖女さん、元気、ない』

 彼女は手話で問いかけてきた。

「いいえ大丈夫ですよ。ちょっと頭がぼーっとしてきただけです。お昼があまりにおいしかったものですから」

『白い髪の人が、心配だから、じゃないの?』

 この質問には即答できなかった。姉の護衛の一人であったエザレイ・ロゥン氏にも今日のささやかな生誕祝いに参加して欲しかったのも本音である。しかし彼はあのサエドラの件の後始末の一環として対犯罪組織ジュリノイに連行されてしまったので、それは叶わない。

『あの人はもう、だいじょうぶ、だよ』

「わかっています」

 聖地から無事に脱出する間、エザレイは一度も人の命を奪わなかった。ミスリアたちが首都に戻って教会や組織の助力を請い、サエドラの町の問題が片付くまでずっと、大人しく理性的な態度を取っていた。

 ついに、裁かれる時が来ても。


 ――貴様は随分と面倒な立場にあるのだな。貴様がこれまでに殺してきた連中はまた、我々にとっては粛清の対象だった。だが秩序の為には貴様のような輩を野放しにはできん。死刑は免れても処罰は免れん。


 数日前、ジュリノイの代表者の一人が自ら足を運んで後始末を引き受けたのである。と言っても暗灰色のローブを頭から被っていたため、顔は見えなかった。その人は男女どちらともとれない中性的な声で判決を言い渡した。


 ――喜べ、貴様の身柄を引き受けたいと申し出た者どもが居る。貴様が魔物狩り師となる以前に弟子入りした人物が所属していた連合だ。日中は牢で寝泊りすることとなり夜は任務で酷使されるだろうが、食と寝床のつく破格の待遇だ。監視の者は常に付く――


 エザレイは二言も無くその話を快諾した。どうせここ数年の生活よりはマシだ、人として扱われなくてもいいから身を粉にして働きたい――そう意見を呈した彼の瞳や表情には濁りない生気がみなぎっていた。

 本当にもう大丈夫なのだろうと、安心して別れられた。

『でも、お姉さんのことは、残念、だったね……』

 そう言ってからイマリナはもじもじと身をよじって目を反らした。話を続けようとして、思い直したのか、くるっと表情を変えて明るく笑う。

(私の反応をうかがって話題を変えようとしてるのかな)

 正直自分がどういう顔をしているのかわからないので、ミスリアはイマリナの気遣いに甘えることにした。

『お兄さん、あそこの角で、お菓子買ってるよ。そろそろ戻ると思う。迎えに、行ったら?』

 彼女の指す「お兄さん」とはゲズゥのことだ。今日のお祝い会でイマリナの方が彼より五歳年上なのが判明したが、この呼び方を貫くつもりらしい。

『片付けは、わたしとご主人様で、十分だよ』

「そうですね。行ってみます」

 気分転換になって目も覚めるかもしれない。ミスリアはベンチから腰を浮かせて、角まで小走りで行く。

(あれだけのデザートの後にお菓子……)

 けれどよく考えてみるとゲズゥはあまり甘味を口にしていなかった。やたら甘い物が苦手だと言っていたので、今買い求めているお菓子は別の味を極めたものなのだろう。

 小走りからゆったりとした足取りにペースを落としながらも、思考は再びエザレイ・ロゥンの件に戻る。

 彼に出会えたことによって、互いにとっても残酷な真実を紐解いてしまった。それでも彼はミスリアたちを責めなかったし、むしろ感謝の意を示した。こちらとしても辛い時間だったが、過去の姉の貴重な話が聞けた。

 全てを聞かなかったことにしたいとは思わない。知らないままで居るよりはずっと良い――

 ただあれからひとつだけ、ずっと胸の奥に引っかかっている言葉がある。己の意思に関係なく何度も思い返していた。

『あんたらはどうだ。会えなくなったら、耐えられるのか』

 彼の言った会えなくなる未来、を想像すると目の奥がじんわりと熱くなる。もやもやと思考と気持ちが絡まり、歩はどんどん遅くなった。

 しかし元々大した距離ではなかったため、そうこうしている内にも角に行き着いた。店から出てくる長身の青年はすぐに見つかった。夏場でありながらこの地域は涼しい方だからか、それに相応しい服装になっている。黒い上着を脱いで腕にかけ、明るい色の麻シャツとズボンを露わにしている。

 彼の黒くない服装は久しぶりに見る気がする。どこか不思議な気分でミスリアは手を振った。

「何を買ったんですか」

 問いかけるとゲズゥは紙袋に手を突っ込み、「ん」と小さく言って拳を差し出した。その真下で自らの掌を開いてみると、黒い塊が落ちてきた。

 柔らかい飴のようだ。特に考えずに口の中に放り込んでみた。

「……うっ」

 予期せぬ味に驚いた。飴だと思って舐めて噛んだら、溢れ出したのは予想していた甘味ではなく――塩味しおみだった。しかも同時に苦い。このクセのある感じはリコリスだろう。

 唾液と相まって、奇天烈な味が口の中に広がっている。拒絶反応も沸き起こるがここで吐き出すわけにも行かず、悶絶しながら頑張って丸呑みした。

 ようやく解放された頃にはぜえはあとうるさく息をしていた。

 頭上から、くっ、と喉が鳴るのを我慢しているような音がした。今更のようにこちらを見下ろす視線を振り仰ぐ。

 ゲズゥは僅かに顔を逸らして右手で口元を隠していた。目元の雰囲気から、隠れている表情が何なのかがわかる。

「わ、笑いましたね? 私の反応みて笑いましたね!? まさかわざと食べさせたんですか!」

 涙を目に溜めたままで詰め寄った。

「…………不可抗力だ。そこまで口に合わないとは思わなかった」

 未だに笑みの気配は消えていない。それがどこかむず痒い。

「だとしても私は不快ですので、代わりに笑顔をちゃんと見せてもらうことを要求します」

 ゲズゥの腕に手を伸ばした。手首を掴んで腕を下に引き下ろしてみると、全く抵抗されなかった。

「口直しに別の飴、買うか」

 そう答えた彼は柔らかく笑っていた。

(あ、どうしよう。嬉しい)

 怒っていたはずの気持ちがどこかへ消えたことに気付く。どうしてか、目を合わせていられなくなる。

 掴んだ手が急に熱を帯びたように感じて、不自然なほど素早く放した。上目遣いで訴える。

「普通に甘いのが欲しいです……」

「ああ」

 例のしょっぱい飴をパクリと口にしてから、再び無表情になったゲズゥは踵を返した。濃い味は苦手なはずなのに、複雑な苦みが気に入っているのだろうか、などとふと思う。

 ミスリアはふわふわと地に足のつかない気持ちで、先導する背中について行った。

「こういうのは」

 ゲズゥは何食わぬ顔でさっき出たばかりの店にまた入り、色とりどりの飴が入った籠のひとつを指差す。平らな三角形に砂糖をまぶしたものに見えた、が。

「もう騙されません。それはすごく酸っぱいんだって知ってますからね」

「…………」

 青年は振り返っていた顔を巡らせて棚の方を向き直った。瞬間、口元が吊り上がっていたのをミスリアは目ざとく捉える。

(また笑った! 見えない! もったいない)

 けれどここで騒ぎ立てるわけにも行かないため、ちょっとした悔しさを紛らわせようと、濃厚なキャラメルを指定して買ってもらった。

 店を出たら早速キャラメルを一個堪能した。先ほどの強烈な後味を塗り替えてくれる慣れ親しんだ甘さに、つい頬に手を添えてうっとりとした。

 するとゲズゥが立ち止まった。

「どうかしました?」

「買い忘れ」

 顎でしゃくった先は、民家の間の狭い道だった。

「一緒に行ってもいいですか」

「好きにしろ」

 と言っても買い物は刃物らしいので、ミスリアは店の中にまではついて行かなかった。軒先で日向ぼっこをしつつキャラメルを味わう。

 のんびりと通行人を目の端で眺めていた。

 その中の一人と目が合う。条件反射で笑いかけた――

「危ない!」

 男性が突然険しい顔で視線を上へ流した。

「え?」

 そういえば日差しが四角い形に遮られたような、と緊迫感に欠ける思考で顔を上げる。

(立方体……じゃなくて長方形の面も入ってる六面体かな……)

 間抜けた感想ごと押しのけるように、後ろから物凄い力がぶつかってきた。

 背後で二・三度の鈍い衝突音が続く。

「大丈夫か!? レンガが落ちてくるなんて災難だな。ベランダの造りが古くなったんかな」

 通行人が心配そうに駆け寄ってくる。

「なんともありません。ありがとうございます」

「よかったな。そっちの兄ちゃんはどうだ?」

 その言葉でハッとなった。くるりと後ろを向き直ると、無表情を崩しているゲズゥの姿がそこにあった。気にするな、と言うようにひらひらと手を振っている。通行人は満足そうに頷いて、そのまま立ち去った。

 公園への帰り道を辿り始めて間もなく、ミスリアは前を歩く青年のシャツの裾を引っ張った。

「傷を診たいので屈んでください」

 返事が無い。代わりにゲズゥは狭い路地を進み、樽の上に腰をかけた。

 近所の住民のゴミ置き場だろうか。なんとも芳しくない空気が漂っている。

 建物の影がかかって、あまりはっきりと見えない。樽の真横に立って顔を近付けてみた。

「痣になりそうですね」

 落ちてきたレンガが掠ったのか、唇が切れて血が滲んでいる。切れた箇所の周りもやや青みがさしていた。そっと指先で触れてみると、ゲズゥは痛そうに身じろぎした。

「すみません」

「いや」

 前髪に隠れていない方の黒曜石みたいな右目がじっと見つめ返してくる。その威圧感がいつもの数倍に跳ね上がっている気がするのは、何故か。

「……あ! 近いですよね、ごめんなさ――」

 身を引こうとしたところで、伸ばしたままだった手を握られた。

 握られた手に目が行ったのは自然な流れだった。次いで「あの」や「これは?」や「どうしたんですか」のどれかで応答するつもりで口を開きかける。

 その隙に、近かった距離が更に詰められ。

 頭の後ろにも手が回って。視線を正面に戻す間に、引き寄せられていた。偶然それは息を吸い込むタイミングと被った。

 ――リコリスの香りがした。

 匂いそのもの、むしろ素材の味ですら、嫌いではない。奇天烈な飴の記憶と以前に教皇猊下と飲んだお茶の思い出、それらの間に板挟みになって揺れる印象――に、気を取られた。

 それは瞬きの間に起こった。

 柔らかくて温かい感触が触れる。つい、顔面の筋肉を収縮させたのは生理現象と言えよう。

 微かな鉄の味がした。

(違う。血の味)

 何故そんなものがするのか、理由を考えようとすると頭の中が真っ白になる。

 動揺で身体が硬直しかけて、しかしわけもわからない内に力が抜けて瞼が下りた。眠さからではなく心地良さからだ。

 なにこれ、と薄ぼんやりとした疑問が己の中で浮かび上がる。

 髪を撫でる手も、唇に触れる柔らかさも、右手を握る力も。突飛なのに親しみ深い。

 そしてそれらが離れるのも突然だった。

「痣くらい放っておけ。どうせわからない」

 ぱちぱちと瞬くとすぐそこにはいつもと変わらない様子のゲズゥの顔があった。深い黒をたたえた右目と、前髪の間から覗く「呪いの眼」。射貫かれている気分だった。

(肌色が濃いから腫れも変色も見た目じゃわからないって意味かな)

 でも見えなくても痛いのは同じなのに、と言おうとして何も声が出なかった。切れた唇に目が行く。

(――――っ)

 そわっとした。何がどうしたのか、感想が形に成ることは叶わず。よくわからない心持ちは指先にまで伝わり、視線は定まった一点から外すことができない。

「戻る」

 ゲズゥが樽から立ち上がって歩き出した。

「は、はい!」

 硬直が解けると共に、急いでその後姿を追う。

(なんだったの……なにこれ……)

 右手が熱い。目に見えないだけで、今でも圧迫する力がそこにあるみたいに錯覚した。

 動悸が速まりすぎて、寿命まで縮んでしまいそうだった。


_______


(おや? おんやぁ~)

 リーデン・ユラス・クレインカティは、戻ってきた二人の妙な距離感で直ちに異変に気付く。ミスリアがゲズゥの後ろを歩いているのはいつも通りとして、ずっと足元を見ているのが怪しい。

(ほんのり青春のかほりがするなぁ)

 生まれる前からの付き合いなだけに、兄がさらりと淑女に無作法を働いたのだなとリーデンには直感だけで的確に推し当てることができた。

 何やら和やかな気分になってしまう。

 青春、とは――殺伐とした人生を送ってきた自分たちにはとんと縁が無かった現象である。

 遅れてやってきた春に感銘を受ける反面、当人たちをからかいたくて仕方がないのがリーデンの性分であった。

「兄さんー。ちょっとマリちゃんが荷物整理するの、手伝って」

 重いものもあるから、ととりあえず適当な理由を付けて二人を引き離すことにした。

『適当に、合わせて』

 首を傾げてこちらを見つめているイマリナに手話で指示を出した。

『わかったー』

 それだけで意図は伝わり、彼女は素直に承諾する。兄もこれといって文句を言わずに荷物の方へ向かった。

 こうしてできた隙を利用し、リーデンはぽつんと立ち尽くしている少女の傍へと歩み寄る。

「聖女さん聖女さん。放心しちゃって、どうしたの」

 耳元に口を寄せて囁き声で問いかけたのは勿論、悪戯心からであった。吐息は大袈裟に、多めに。

 期待通り「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げてミスリアは跳び退った。

「ど、どう……も、しません、よ……?」

 言葉とは裏腹に目がこの上なく泳いでいる。誤魔化すのも嘘を吐くのも苦手な、愛すべき正直者だ。

「ふうん。僕はてっきり兄さんが、ついに手を出したのかと思ったよ」

「てっ、手を――出すって、どういう!? い、いえ、何も……ナニモアリマセンデシタヨ……」

 なんとわかりやすい挙動不審か。リーデンは漏れそうになる笑いを堪えて、じっくりと少女を観察した。

 波打つ栗色の髪は、うなじ辺りが多少乱れている。白い頬に赤みが差しているのは日差しの所為だけじゃないだろう。

 ひとしきり手を振り回した後は、中指で下唇をそっと押している。

 おそらくは無意識での動作だろうに、たったそれだけの仕草が事の顛末を物語っていた。

「敢えて想像するなら――口付けされたってトコかな」

「ふっ、ぐ、う」

 しゃっくりのような悲鳴のような呻きのような。不可解な音を立てて身を縮み込ませるミスリアがひたすらに面白い。

「どうやら核心をついたようだね?」

 泣き出しそうなほど動転しているところ少々哀れだが、こちらはまだ攻めの手を緩めるつもりは無い。

「……ずっと考えてるんですけど。よくわからないんです」

 潤んだ大きな茶色の双眸が、チラチラとこの問答の発端を作った人物を瞥見する。

「何が?」

 笑顔で訊き返した。相手があの兄では「わからない」点の方が多いに違いない。目の前のこの少女が真剣に何を悩んでいるのか、是非とも詳細に聞きたかった。

「うんと小さい頃は家族と挨拶で唇を重ねることはあったんですが……あれとは違うような」

「そりゃあまあ、違うねぇ」

 段階的に思考はまだそこで詰まっているのか、と内心では苦笑する。

 このお年頃の娘は一般的に、接吻されたらそこに恋愛感情が絡んでいることを真っ先に疑うはずだ。いかに彼女がそういったものとかけ離れた生活を送ってきたのかが窺い知れた。

「ではどういうつもりで……」

「んー。あの人のことだから、柔らかそうなかわいい唇だな触ってみるかー、くらいしか考えてなかったんじゃないかな」

「かわっ――……そんな突拍子の無い理由で……」

「異性に触りたい衝動というものは、えてして突然なんだよ」

 と、リーデンは断言する。

「でも幼女には、よ、よくじょう? しないって……前に言ってました、よ」

「あははは、最近鏡見てる? そう言われた時がどうだったかは知らないけど、少なくとも今は、幼女とは呼べないんじゃないかな」

 そこでミスリアはぐっと顎を引いて押し黙った。

 実際見てないのだろうなと思った途端、まるで見計らったかのようにリーデンの肩掛け鞄が太ももに重くのしかかった。

(タイミングすごいね)

 存在ごと忘れ去っていた内容物は、なんとこの話題にぴったりと合っていた。鞄を開けて、掌サイズの革製小袋を取り出した。

「ちょうどいいから渡すよ。生誕祝いのプレゼント。こういう祝い事では交換するもんだよね」

 袋を差し出すと、少女は両手で受け取った。

「えっ。でも私、何も用意してません」

「いいっていいって。開けてみてよ」

 促されたままにミスリアは赤紫色に染められた小袋をそっと開いた。中身は黄銅でできた楕円形の手鏡だ。裏面の細工はかなり緻密で、職人のこだわりがよく見て取れる。

「これ、すごく高価なものじゃないですか!?」

「全然ー、君が首から提げてる魔法アイテムよりは安上がりだよ」

 仰天する彼女に適当に答えるが、実際にあのペンダントにいかほどの価値があるのかはリーデンには計り知れない。銀細工には金銭的価値が発生するだろうけれど、水晶の部分はおそらく換金できない。

 教団関係者など、その価値を理解して更に「引き出せる」者ならともかく、一般人にあの水晶を扱うことはできない。ただの石ころ同然だ。まじないのように持っているだけでご利益があるとしても、それは奇跡の力や結界とは程遠い。

「それでも、私も何か用意するべきでした。すみません」

 萎れた花みたいになってしまった彼女がしのびない。リーデンは何かしら良案を探した。

「そうだ、交換する贈り物がモノでなきゃならない法則は無いでしょ? こうしよう」

 いいことを思いついた! と、人差し指を立てる。

 なんでしょう、とミスリアは目をぱちくりさせた。

「僕は君の歌が聴きたいな」

「歌? そんなものでいいんですか」

「ん。得意なんでしょ」

「別に得意というほどでは」

「またまたぁ、洗濯物をしてる時とか歌ってるの聴いてるよー。高音すごいキレイに伸ばしてるよね」

 これは嘘ではなかった。本人はこっそりやっているつもりだったのか、忽ち赤面した。

「き、聴こえてたんですか」

「兄弟揃って耳が良いからねー」

 兄を引き合いに出したのと時を同じくして、他の二人が手持ち無沙汰になって戻ってきた。

「お願いー」

「……わかりました」

 ついにミスリアは承諾した。そうと決まったらリーデンはイマリナを誘って敷き布の上に腰を落ち着けた。

 歌い手は公園の樹に寄りかかって咳払いをする。その樹にさっさと登って消えた人影に関しては、何も言うまい。

 透き通った旋律が紡ぎ出される。

 彼女の故郷の歌だろうか、歌詞はところどころ共通語以外が交じっていた。

 宝の島を目指した冒険者が嵐に呑まれる物語だった。やがて彼の帰りを待つ恋人の元に、不思議な色の泡沫が届いて、恋人は懐かしい人の夢を見る、とかなんとか。

「泡沫、か…………ねえ、マリちゃん」

 なあに? と垂れ気味の黒い瞳が無邪気に問い返す。

「幸福ってさ、シャボン玉みたいだと思わない? 大きく膨らめば嬉しいけど、比例して、割れた時の虚脱感がひどいんだ」

 子供の頃から自分たちはずっとこうだったのだ。親の愛情に包まれて、村の皆と共に遊んだり、やがては友人たちと支え合いながら成長して――そんな当たり前のはずの時間が、あまりに短かった。

 幸せが必ず終わるものなのだと、身をもって知ってしまった。

 こんな見方で人付き合いなんてできるはずが無い。終わりが怖くて、何も始められなくなる。

「二人ならそんなものさえ覆してくれるんじゃないかなって、期待してる。たとえいつかは終わってしまっても、思い出がいつまでも人生を潤わせてくれるような、濃厚な絆をね」

 旋律は尚も続いている。まるで優しい風に抱かれているような心地だ。

 公園には他に人が居ないが、音に興味を持ったらしい鴨の家族が、近くの池から上がってひょこひょこ近付いてくる。

「愚かだって笑っていいよ」

『ううん。すてき』

 イマリナは悪戯っぽく笑った。

 夢見がちなご主人さまは可愛いね、と言葉を続ける。彼女の手話では夢見がちを表現するのに「いつも夢を見たがる」みたいなぎこちない言い回しになったが、十分伝わった。

「野郎に可愛いとかあんまり言うもんじゃないからー」

 同じ悪戯笑いを返して、イマリナの肩に頭を休ませる。髪に塗り込まれた香油の甘い香りが鼻孔を撫でる。

(平和だなぁ。ずっと平和であって欲しいなあ)

 その願いがどこかに届く日は来るだろうか。

 因果応報という概念が摂理の一部であるなら、きっと叶うことはありえない。どれほど贖ってもきっと果ては無い。

 それでも、希望を運ぶ聖女の安らかな歌声と表情を前にして――希求せずにはいられなかった。


_______


「きゃあ!」

 突然の雷に、ミスリアはつい声を上げて怯んだ。開け放してあった窓から閃光が流れ込んできて、目も眩んだ。

(いつの間に雷雨になってたの)

 読書に夢中になっていて全く気付かなかったらしい。宿のベッドから立ち上がり、窓を閉めに向かった。

(リーデンさんたち大丈夫かしら)

 夜遊びに行く、と言って彼らが街に出かけて行ってからしばらく経つ。その間ミスリアは食後の祈祷の為に部屋に残り、ゲズゥも付き添いで宿に残った。

 窓に手をかけようとすると、ベランダの人影が目に入る。

 実はこの宿の個室はどれも窓の外にそれなりの大きさのベランダがついているのだけれども、手摺りなどが壊れてなくなっているため、人がそこに出ることは禁じられている。

 縁に腰をかけて大胆にも足をぶら下げている人物を認めて、色々な意味でぎょっとする。

「そこは危ないですよ」

 と静かに声をかけると、彼は振り返って答えた。

「たかが二階だ。落ちても大したことない」

「……えっと、何をしてるんですか?」

 返事は手招きだった。お前もこっちに来い、との意図らしい。かろうじてミスリアもそこに座れるだけの幅があるにしても、窓から身を乗り出すのは気が引けた。大きな窓ではあるけれど、大きさの問題ではない。

「いいえ、私は遠慮します」

「来い。面白いから」

 ゲズゥはよくわからないことを言って立ち上がった。窓に向けて両手を伸ばしている。

 これまた色々な意味で怯んだ。先ほどの路地での出来事も無論、記憶に新しい。警戒しているというほどではないにしろ、近付くことに多少の躊躇があった。

「面白いって……」

「雷」

 カッと夜空に眩い光が奔る。吃驚して頭を庇った。

(雷が面白いの!?)

 収まったと感じてから空を再び見上げた。脅威は過ぎ去っており、主に月にまとわりつくどす黒い雨雲が見える。

 うーん、と唸って状況を確認した。

 宿の窓は総じて板の戸を取り付けていて、ガラスを使っていない。ミスリアの体格であれば楽に通れるはずだ。

(どうして、今になって距離を縮めるんだろう。ううん、遠いって思い込んでただけで、元々こんなに近かったんだっけ。どうだったっけ……)

 ごちゃごちゃと思案していると、知らぬ間に己の手が動いていた。差し伸べられた支えを求めて。

 温かい掌と接触した感覚で我に返った。

 そして認めるしかなかった。心の奥深いところでは、近付くのも近付かれるのも嫌ではないのだと。

 瞬く間にぐいっと引っ張り上げられ、絶妙に支えられながら、ベランダに降り立った。

「わ」

 肌に触れる夜気の質感がしっとりとしていて爽やかだ。髪をすり抜ける風は荒っぽいが、度を過ぎていない。涼しくて気持ちよくて、つい顔が綻ぶ。上の階のベランダが間に入っているので、雨はあまり当たらない。

 それだけにゲズゥの手が触れている背中が異様に熱っぽくてむず痒い。


 ――かくて命尽きるまでに、わたくしはいかほどにこの瞬間に心動かされ、この時に至るまでに連ねてきた数々の選択に感謝し、包み込む体温を愛おしんでいられましょうか。

 異常なるひと時の中に、わたくしは、何ものにも勝る安穏を見つけられたのでしょうか。そこが小波に撫でられる美しい黄金の砂浜でも、禍々しい荒波にこねくり回される船の上でありましても、あなたさまの腕の中であれば、きっと等しく天上の楽園のよう――


 不意打ちで、ついさっき読んだばかりの小説の一節が脳裏によみがえる。

 宿のサービスの一環として、自由に借り出せる古本の並んだ棚が受付の脇にある。そこに「嵐の中でも放さないで」みたいな、ベタながら何故か目を引く題名の恋愛小説が置いてあったのが悪いのだ。ほんのちょっとだけ覗いてみようかなと手に取っただけで、読み耽るつもりは無かったのに。

 思わずばっと手を振り払った。けれども払った手はすぐに追ってきた。

「落ちるぞ」

「ふぎゃ!」

 バランスを崩して後ろに倒れそうになるところを踏み止まり、体勢を立て直す際にも、支えられた。

 情けない声を出したものだ。顔が火照るのがわかる――何にせよ、暗くてよかった。

「座れ」

 両肩を掴まれたとあってはもう従うほかなかった。ミスリアは大人しくベランダの縁に腰をかける。雨の勢いは弱まっているので濡れる心配は少ないけれど、ぶら下がる足が心もとないような気がしたので、後退を試みた。

 障害物に当たった。

(なっ、だからなんで)

 文句を言うところか否か、逡巡した一瞬の間に、腰に強い力が巻き付いた。冷静に考えればそれは安全を思ってのことだろう。しかし近付かれるのが嫌ではないと今しがた自覚したところで、困惑は消えない――

 刹那、夜空が明るくなった。うねる稲妻が三、四度は枝分かれして、轟音を放ちながら地上と繋がる。見事な自然現象であった。

「――! 今のってどの辺に落ちたんでしょうか」

 恐れると同時に高揚した。確かにこれは面白いかもしれない。

「教会の方か」

 ぴしゃり、とまた落雷。

「今度はアレの居る辺りに落ちたな」

 心なしか楽しそうに、ゲズゥは言った。

 釣られて笑ってしまう。

 大きな音に驚きがちなミスリアは、雨はともかく、雷をまじまじと観賞しようとは考えない。新鮮な気分だ。それもこれもゲズゥに強引に連れ出されたからだ。

 観賞会は楽しいし、新しい発見ができたことも嬉しい。しかしどこか落ち着かない。

 右を見ても左を見ても、そこにあるのは膝。たとえ怯えて飛び上がってもベランダから落ちないように固定してくれている。

 気遣いには感謝する。が、この密接具合はいかがなものか。

 どうして彼は平気なのか、どうして自分はこんなに意識してしまうのか――考えようとすると、頭の中が茹で上がりそうで。気を紛らわせようと、首が強張りそうなほど空ばかりを見上げた。

「ああ、そう――」

「何でしょうかっ」

 ゲズゥが言い終わる前にも食いついてしまった。

 妙な間が続いた。間を埋める次の言葉を探してみるものの、うまく口にできない。

 あたふたしている内に、右脇から全長8インチ(約20.3cm)ほどのものがグイッと視界に侵入してきた。

「持っていろ」

「これは、ナイフですか」

 手に取ってみるとすぐにその正体に気付けた。刃を革の鞘に収められている平べったい部分と、手触りのいい柄部分を指先でなぞる。柄は動物の身体の部分――重みから推測するなら、おそらくは鹿の角――を用いているようだ。

「護身用に持っておけ。刺すよりも切る働きに特化した、黒曜石だ」

 くれるのだと文脈から汲み取って、ミスリアは僅かの間言葉に詰まった。

「もしかしてさっきのお店で……あ、ありがとうございます。でも私、何も贈り返すものがありません……」

 目の奥がツンとした。仲間たちの優しさに、どうして自分は応えられないのだろう。いっそのことゲズゥも、歌を所望してはくれないだろうか。

 ゆるりと、髪に何かが差し込まれる感覚があった。

 驚くよりも心地よさについ瞼を下ろす。暖かい、無骨な指。どうしてかその感じには戸惑いは沸き起こらず、むしろ慣れたもののように受け入れられた。

「約束」

 髪を梳く手付きから、僅かな迷いが伝わった。短い一言ながら、声色にも躊躇いのようなものが出ている。

「はい?」

「いつかお前は、俺が真っ当に生きられる道を一緒に探そうと言った」

 普段の彼の物言いとはかけ離れた、いくらか頼りない声だった。

「……憶えていたんですね」

 息を呑んだ。確かに、自分はそのように言ったのだった。

 あれはそう、ゼテミアン公国でひと悶着あった時の話だった。この話題が上がったのは確かそれきりだ。その後はリーデンと会ったり、聖女レティカ一行と関わったりと、慌ただしかった。

「目的が果たされた後――」

 低い声が、髪を伝って脳を揺さぶるようだった。身動きが取れない。頭蓋を掠る吐息すら、聞き逃してはいけない気がした。

「お前の時間を少し貰えれば、それでいい」

「…………」

 一気にたくさんの想いが胸の内で絡み合った。

 姉カタリアとエザレイ・ロゥンの過去。聖地で見知ったこと、まだこれから歩まねばならない行路のこと。目的を手伝うと言ってくれた人の、いつかは裁かれる運命のこと。そして聖獣の声。決意と不安と、形にならない気持ちがせめぎ合う。

 本気、だった。提案した時、確かにミスリアは実行するつもりで言ったのだった。けれどあの頃には見えていなかった問題が、今は視界に入ってしまっている。

(背を向けていてよかった)

 いつでも零れそうな滴を目に溜めたまま、北東の方角を見つめた。

 こうして近くに居られる日々が、終わらなければいいのに。はっきりと願ってしまう自分に、もう困惑しなかった。

 わかりましたともすみませんとも言えない。苦しいほどに長い間、ナイフを握り締めて黙りこくったままでいた。

 それは、その要求にだけは。

 軽々しく答えることができなかった。

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