59.

 アルシュント大陸の最も有名な無国籍地帯、ヒューラカナンテ高地地方。

 住民は漏れなくヴィールヴ=ハイス教団に在籍する者であり、この地域を訪れる客もまた、必ず教団の寄宿舎に宿泊する。

 客用の部屋は敷地の外れに集中していて、そこから中心の建物へ伸びる道は、上階からよく見下ろせる。

「ねえ見て。聖女ミスリア・ノイラートが通るわ」

「本当だ。噂通りに若い……ううん、幼いのね。小さくて可愛らしいわ」

「あたしたちと同い年って信じられないね。教皇げいかに特別に気にかけていただいてるらしいよ」

「それはそうだろう。彼女は最年少で聖獣を蘇らせる旅に出立したんだから、教団の最高責任者としては心配なはずだ」

 早朝――既に日課の雑用を終えて講義室の窓の前でたむろしている修道士見習いたちの興味を惹いてやまないのが、現在滞在中の聖女の一行であった。

「それより護衛の二人よね。遠くから見ただけだけど、なかなかの美丈夫だったわ」

「わかる! 話してみたいわ。ううん、近くで見るだけでもいい」

「興味津々ね。そりゃああなたは聖職者になるためじゃなくて学を身に着けるために親に教団に送り込まれただけだものね」

 浮かれてもいいだけの余裕があるわよね、と修道女見習いが友人に嫌味っぽく言う。そこに第三の友人が口を挟んだ。

「だめよ、あの人たちは! 毎日ミソギを義務付けられてるんでしょ? どんな穢れを負っているのか知れないわ」

「そりゃあ一朝一夕じゃ禊ぎ落とせないような穢れなんだろ。よほどの悪事を働いてきたと考えられる」

「よほどの悪事って、例えば何かしら」

「さあ……窃盗とか」

「殺人もありうるな」

 面白半分に他人の罪を想像して修道士見習いの男子が盛り上がる中、女子は青ざめていく。

「怖いわ。殺人者が敷地内で息を潜めてるなんて、絶対いやよ。一番信じられないのはそんな人たちを連れ歩いている聖女さまだけど」

「でも護衛の黒い噂はともかく、実際彼女が一番、聖獣に近いって話も聞いたぜ。巡礼も残すところ聖地がひとつやふたつか」

「うそ! すごいじゃない!」

「最年少で旅に出たのも伊達じゃないんだな。早い内に目的を見定めて、それを追う力をぐんぐん身につけたんだよ、きっと」

「そういう人は歴史を探れば、他にも居たじゃないの。だからってそれでうまく行くわけじゃないわ」

「じゃあどうすれば達成できるかしら。講師さま、わかる?」

 ちょうど今しがた講義室に到着したばかりの講師役の年配の聖女に、見習いたちの視線が集まる。

「知っていれば、自ら旅に出ていますよ。でもそうですね――自分にわかっていることが全てだと思い込まないことです。わからない部分の方が、真理に近いのかもしれません」

 講師は眼鏡を押し上げて、寄宿舎の方角をちらりと一瞥した。

 気を取り直して、講義の開始を呼びかける。見習いたちは一斉に窓辺から散って、各々の席に収まって行った。


_______


 懸垂運動に夢中になりすぎたあまりに、ゲズゥは弟が近付いたことに全く気付けなかった。

 気付いたのは、足の裏に触れた球体の感触に虚を突かれ、木の枝を手放して転げ落ちた後だった。砂埃が気管に入り、数秒ほど噎せた。

「こんな悪戯にやられるなんて心の乱れだねえ」

 どこからくすねたのか、娯楽に使うような大きなボールを拾って、不敵に笑うリーデン。この弟に見下ろされるのは滅多に無いことか、妙に腹が立った。

「…………」

「何悩んでんの? つーか最近兄さんずっと機嫌悪いでしょ」

「……別に」

 ズボンについた砂を払って立ち上がると、足元にカランと何かが落ちた。よく見ると、リーデンが木剣を投げつけたのである。

「相談とかより君はこっちだよね。発散しちゃえばいーんだよ。ミソギまで暇あるし、相手するよ」

「それはつまり、お前が暇を潰したいだけか」

「当然」

 胡散臭い笑顔に崩れは無い。だが表情に変動が無くとも、言葉の吐き方から異変を感じ取った。

 ゲズゥは右手で木剣を拾った。特に予告なく、腕を振り上げる。

「お前も、人のことが言えない」

 教団本部に着いてから数日経つが、リーデンも機嫌が悪いようだった。

「まあ、ね!」

 カンッ! と小気味いい音が響く。ゲズゥが振り下ろした剣の軌道を止めたのは、同じような練習用の木剣だった。おそらくは魔物退治を想定して基礎戦闘能力を鍛える、聖人聖女たちが使うものだろう。

 切り結んだ二本の剣が離れる。リーデンはサイドステップで体勢を立て直し、すかさず脇腹狙いに薙いだ。

 ゲズゥは剣を垂直に立てて、その一撃をいなす。今度はこちらが攻めに出た。三、四度ほど衝突を繰り返し――片手単位での腕力の差から、リーデンの方が余裕が失われつつあるように見えた、が。

「ミソギなんてさ、絶対馬鹿にしてるよね」

 ――ガン、と一歩踏み込んだ重い攻撃が来た。受けながらも腰を落として、重心を安定させて押し返す。

「聖水とやらを浴びれば浴びるほど左眼は痒いし、痛いし」

 カンコンカン、と続く衝突。話す度に勢いが増しているようだった。

「……それは」

「あらかじめ眼球を身体から取り出してれば対処できるかもって話でしょ? でも、二十歳超えてからじゃないと眼と本体の『自己認識』の接続が不安定だから、僕はまだダメだよね」

「ああ」

 弟は、以前こちらが教えた呪いの眼の実態をしっかりと記憶していたらしい。特に挟む言葉は無く、独白のような愚痴を剣撃と共に受け流した。

「まるで僕らのことを、人間じゃないみたいな」

 段々と攻撃の間隔が短くなる。

「汚いゴミって、言ってるみたいで、さ!」

「そこには同感だ」

 反撃の隙を見つけてゲズゥは身を翻した。リーデンにとっての右側から、左側へと移る。

 両利きのリーデンは自由に剣を右から左へと持ち替えられるため、不利な側は無い。が、右利きのゲズゥには有利な側がある。完全に対処される前に何度か打ち込んだ。

「僕らの聖女さんはそんなこと思ってないだろうけど、だからって、こんな場所!」

 荒く振り下ろされた木剣を、ゲズゥは左手で受け止めた。衝撃がじんじんと皮膚を伝うものの、握り込んで放さないようにした。

「落ち着け」

 勿論、この場所にはゲズゥも色々と思うところがあった。そして弟が何故ここまで苛立っているのかにも心当たりがあった。

「大方、昔に重ねているか」

 互いに左右非対称の視線がかち合った。

「…………」

 饒舌が取り柄の弟が珍しく押し黙るのは、図星だからだろう。実際にゴミを漁って生き長らえていた頃、教会や慈善施設の食糧配布の列に並んでみたこともあった。

 それに際してはあまりいい思い出が無いので、ゲズゥはすかさず忘れた。

 どの道、子供の頃の記憶は曖昧だ。だがどんな想いをしたのかは、ずっと心の奥底に残ることもある。

 此処では、ミスリアに同伴して祭壇の間に行くことはできない。敷地内も常に誰かに見られているような緊迫感と不快感があり、一定期間のミソギを終えるまでは入れる建物よりも入れない建物の方が多い。

 ゲズゥはイマリナ=タユスの大聖堂などで似た度合いの拒絶を知ったが、リーデンは初めて経験するはずだ。鬱憤が溜まるのも仕方ない。

『偉業を果たした聖人聖女は、生きながら祭り上げられるんだ』

 祭り上げられるってのはどういうことだったか――そう言った白髪の男の声がふと脳内に蘇って、今度はゲズゥの方が苛立ちを覚えた。

「ごめん、無駄なお喋りだった。まだやりたい? ……って、訊くまでもなかったみたいね」

 リーデンは己の得物を引いて、掌の上でくるりと一回転させる。

 思わずそれを目で追ってしまったゲズゥは、鬱屈とした心持ちで回転する木剣を睨んだ。

 またしても開始の合図は無く――俄かに兄弟で剣を交わらせた。

 ――ところで、この頃聖女さんが兄さんを避けてるのは何でかな――

 重ねられる一合一合の衝突音の合間に、脳内に直接声をかけられた。

 答えなかった。

 先ほどと立場が真逆に、今度はゲズゥが突っかかって、よりアグレッシブに木剣を振り回した。遊び半分の試合とはいえ、通常の精神状態であったならばこんな行動に出ない。

 避けられている理由の心当たりならある。

 傷付けたからだ。

 答えようとして、詰まる。思考回路が回想に入ろうとしている。残るは剣の試合に意識を割くだけで精一杯となり、返答の言葉を組むことができなかった。


_______


 波打つ栗色の髪を指で梳いて、甘くていい匂いがする、と思いながら待っていた。

 高望みをしたつもりは無い。人の好さにつけ込んでいるのではないかという後ろめたさは多少あったが、これまでに築き上げてきた土台があるからこそ、受け入れられる可能性もそれなりにあるものだと踏んでいた。

 当人の意思以外に立ち塞がる障害もあるのだと、理解していた。たとえ聖獣を蘇らせることに成功し、そこに至るまでの働きを認められて死刑は取り消されても、何かしら罰が下されるに違いなかった。

 しかしゲズゥにとっては望みが実現されるか否かは二の次で、ミスリアの意思を確かめたいだけだった。

 長い沈黙が続いても、大人しく待っていられた。

「どうして」

 やがてそう切り出した少女の吐く息は、薄っすらと白い。

「……利害が一致した関係だと……そう言っていた頃もありましたのに」

 溢れそうになる何かを必死に抑え込んでいるような細々とした声で、ミスリアは続けた。

「どうしてこんな風に…………距離を、縮めるんですか……?」

 問いをみなまで聞いた途端、ぐっと指に力が込もった。髪が絡まり、ピンと張る。

「痛っ! や――」

 痛がる声もバタバタと叩いてくる手も、意に留めず。訊き返した。

「ならお前は何故、遠ざかろうとする」

「……!」

 強張り、息を呑む。それは理不尽な言いがかりをつけられた者の反応ではない。言及されている内容を瞬時に思い当たった者のものだ。

 原則としてゲズゥは他人に興味が無く、したがって他人の心情にあまり多くの思考時間を割り当てていない。だが関心を持った人間の感情の機微には敏感だった。

 異変に気付いたのはいつからだったか。おそらくはカルロンギィ渓谷を後にした辺りだろう。

 最初は皮膚に刺さったガラスの破片のように、有無が不明瞭なものだった。それが今では、拭えない疑惑にまで膨らんでしまっている。

 ちがう、との囁きが半ば雷の音に喰われて消えた。

「違わない。何を隠している。北へ行けば行くほど、囚われて――」

「放してっ!」

 腕の中のミスリアが暴れる。ベランダから落ちないように咄嗟に手を出すが、弾かれた。しばらくもつれ合うも、数秒後には逃げられた。

 振り返った少女の顔は髪の影に隠れて見えなかった。

「全部の思惑を共有する必要が無いと言ったのはゲズゥですよ。相手が貴方でもこればかりは教えません、教えられません。いいえ、」

 ――貴方だからこそ明かしたくないんです。

 急に振り仰いだ双眸は、濡れていた。見入ったのは一瞬、すぐに小さな背中は部屋の中へと消え去った。

 知らぬ間に息が止まっていたのだと、その時になって気付いた。

 首都の風景に再び向き直って、呼吸を再開する。胸の内がささくれ立っているような気がした。

 ――突き放す言葉を投げつけられたというのに――あんな、助けを求めるような目をするのか。

 理解したいからと、互いに歩み寄ったのが最近のことだったように感じられる。

 ところが引き合いに出たのは出会った当初に交わした会話ばかり。まるで退化している。

 下手に手に取ろうとすれば、ヒビが入って、壊れる――。

 こんなに扱いにくくて恐ろしいものがこの世に存在したのかと、ゲズゥはひとり慄いたのだった。


_______


 両手で木剣を振り下ろした。父親の形見の大剣に比べれば遥かに重量の無い剣だと言うのに、片手でも十分だと言うのに、ありったけの力を込めた。

 こちらの渾身の一撃を受け流しきれなかったリーデンは、無理に踏ん張るよりも握る力を緩める選択をしたらしい。練習用の剣は遠くまで弾かれて、通行人の背中に当たった。

 通行人の男は振り返りざまに激昂した。神聖なる教団の敷地でなんて非常識な奴らだ、痛いではないか、そもそも貴様ら何故服を着ていない――吐き出される文句の数々を、リーデンが笑顔であしらう。

「失敬な、服ならちゃんと着てるでしょー」

「このような人目のつく場所で下半身だけ覆って上半身を晒しているのは『ちゃんと服を着ている』とは言わない!」

「えー、でも動き回ると暑いし。洗濯物かさばらないように気を遣ってるんだよ」

「こ、こんなところで暴れ回っていることとて非常識だ!」

「木剣を当てたのはごめんって、わざとじゃないんだ。何なら手当てするよ」

「断る! 訓練場を使えば良いものを――」

「僕らは入れないのに?」

 さすがにその返し方には文句の付けようがないのか、男はぐっと怯んだ。

 とにかく気を付けろ、と捨て台詞を吐いて通行人の男は立ち去った。

「あーあ。まだ時間あるけど、兄さんはどうすんの」

 つまらなそうに木剣を回収したリーデンが、これからの暇潰しについて訊ねる。

「森で走る」

 ゲズゥは無機質に答えた。

「ん、いってらー。うっかりミソギをサボったら聖女さんにシワ寄せが来るだろうだから、ほどほどにね。僕は適当に寝るかな」

 言ったそばから、リーデンは草の上で仰向けになった。

 ゲズゥも間を置かずに敷地を出た。注意されたばかりだが、更に汗だくになる予定なのだからやはり衣服は最低限で十分だ。門番の非難の視線を顧みずに、軽く走り出した。

 まだ会話をしようと思えばできる速度で、考え事も然りだ。

 自然と思考の流れ着く先は定まっていた。

 言いたくないのなら無理に話さなくていい、ただ言いたくなったら聞く者が居ることを忘れるな――そんな言葉をかけてやったのも、最近のことのように思う。思いやりだったのだろう。それが今は、己の我儘としか形容できない、「知りたい」欲求とせめぎ合っている。

 結果、大切にすべき対象を傷付ける有様となった。

 本当にミスリアの為を想うなら、無理強いせずに成り行きを見守るのが正解かもしれない。それができないのは、明らかに葛藤しているとわかっていて、頼ってもらえないことが悔しいからなのか――

 ――何が正しいのか、何をどう割り切れば良いのか。あの助けを求める目をどう捉えればいいのか。

 もう何も考えたくなかった。

 進む速度を全力疾走にまで繰り上げる。

 筋肉が軋み肺と心臓の動きも追いつかなくなり、思考が完全に停止するまで、無心に走った。


_______


 リーデン・ユラス・クレインカティがその後、次に聖女ミスリアと顔を合わせる機会を得たのは夕餉に近い時刻だった。道沿いのベンチに腰を掛けて、祈祷書を熱心に読んでいる姿を見かけたのだった。

 此処に来てからは彼女は聖職者たちと食事を採る傾向にあり、リーデンたちは寄宿舎で淡々と食事を済ましている。

 なんとも、窮屈な日々であった。

(早く調べものとか報告とかお勤め終わらせて、サッサと旅の続きに出ないかなー)

 と思っていても、口には出せない。口元に笑みを貼り付け、手を振る。

「やあ、聖女さん。奇遇だね。邪魔しちゃってもいい?」

 我ながら白々しい挨拶であった。

 偶然ではないのはわかっている。一日の予定が詰まっているはずのミスリアが隙間時間を此処で過ごしているのは知れたことだ。寄宿舎に泊まる護衛たちとは近過ぎず遠過ぎず、かと言って直接会いに来るわけでもなく、微妙な距離を保ち続けている。

 その様子は、少しゲズゥのそれと似ていた。心の乱れを単調な作業などで強引に正そうとしているのだ。

 ミスリアは祈祷書から顔を上げて、ふっと笑った。

「こんばんは、リーデンさん」

「うん、こんばんは」

 特に断りなく隣に腰を掛ける。ミスリアはきょとんとした表情で見上げてきた。

「あの……」

 消え入るような声の後、大きな茶色の目があちらこちらと泳ぎ出した。心の内にある質問を、口に出そうかどうかを決めかねているようだった。

「どうしたの」

 この正直者の少女が何を訊きたいのかなど、簡単に想像が付く。だが敢えて本人が自分から言い出すまでを待つのは、リーデンのちょっとした悪戯心であった。

「えっと、その……ゲズゥは、一緒じゃないんですか」

「さあ。それなりに近くに居る気がするんだけどね。その辺の樹でも揺すれば落ちて来るんじゃない」

「そんな、虫みたいに」

 ミスリアは苦笑した。

「心配しなくてもお腹が空けば勝手に出てくるよ。聖女さんは気になる――」

「いいえ」

 食い気味に返された否定の言葉に、俯き加減に傾かれる頭。これは早目に本題に入らないと口のみならず心の窓まで閉ざしそうだな、とリーデンは判断した。

「ずばり君の悩みってアレでしょ。『いつか来る別れ』に関係してるんだよね」

「…………」

 呼吸に僅かな乱れが生じたのが聴こえた。しかしそれを除けば、反応が薄い。胸板は規則的に上下を繰り返し、目線は隠れたままだ。

「こっちは否定しないんだね」

 ひたすらに、沈黙があった。

「ねえ聖女さん。もしもの話だけどさ」

「……はい」

 ようやく顔が上がった。光を映さない双眸がこちらを向く。

「もし君が兄さんの為だと思って何か大事なことを隠してるなら、思い直してね」

 ぱちり、ぱちり、と静かに瞬く瞳。

「知らないことを知った時にどんな反応をするかなんて、その時になってみないと本人にだって予想できない」

 リーデンがそう言ったのと、ミスリアの唇がぎゅっと引き結ばれたのは、ほぼ同時だった。

「こういうことに『前科』がある僕が言うのも説得力無いかな? 相手の為だと思ってやってることが、実際は相手の気持ちを完全に無視してるなんてザラでしょ。話し合って、ぶつかり合って、こじれてもまた歩み寄るのが人付き合いってもんじゃないの。先回りして向こうの気持ちを読んでるつもりでも、そういうのって、あんまりうまく行かないよね」

「そう……ですね」

 囁きのような肯定が返る。

「あの人が壊れたとしても、君がそこまで責任を感じる必要は無いんだよ? 結局のところ、どんな環境や出来事に直面しても、心の状態は本人の自己責任でしかないんだ」

 だから思い切って打ち明けてしまいなさい、とリーデンは言葉の裏から念じた。

「そんなつもりは、ありません。私が臆病で、楽な方へ逃げたがっているだけです」

「ふむ。君には君の心を守る権利がある。たとえそれで誰かが傷付いたとしても、ね」

 目が合うように、ミスリアの顎を指先でそっと方向転換させた。

「ありがとうございます。そう言われると、少しだけ楽になります」

「相談に乗ってあげたいのは別に僕がいい人だからってワケじゃないよ? 君の精神状態が気になるのは、君のことが好きだから、だよ。そこんとこ憶えといてね」

 ちょん、とミスリアの小さな鼻に人差し指を当てた。

 照れ臭そうに笑って、彼女は応じる。

「あ、ありがとうございます。私もリーデンさんのこと、好きですよ」

「それは嬉しいね。でも僕以上に君と付き合いが長くて、多分僕以上に君のことを見ている人を、いつまでも無知という闇の中に閉じ込めないであげてね」

「善処します」

「うん」

 一通り言いたいことを言い終わったリーデンは、くるりと裾を翻して立ち去ろうとした。

「私は」

 背後から声をかけられて、ベンチから遠ざかりつつあった足が止まる。

「いつか訪れる別れの――形と、時期が。思っていたのと違いそうで、苦しいんです」

 暗に、それ以上の本音は存在しないと断言するような口ぶりでミスリアは伝えた。

 リーデンは何も言わずに目を細めた。そして微かな笑みを返してから、踵を返す。広大な敷地の中でも、比較的人気の少ない西側の庭へ向かった。

(違いそうじゃなくて、違う、って確信があるんだね。君は嘘が吐けない人だと思ってたけど……そんなこと無かったみたい)

 袖の中で、リーデンは人知れず拳を握る。

(他人事じゃないんだった。別れは、等しく僕も味わわなければならない)

 足の下の大地が沈んだように感じられた。重くなった足をなんとか激励して歩を進め、空を仰ぐ。綿のような雲が太陽にまとわりついているのが見えた。無意識にまた、足が止まる。

 改めて想像してみると、心中穏やかではいられなくなるものだ――

 出会いと別れは人生に於いて決して避けられぬプロセスである。なのにこんなにも受け入れ難いと感じるのは、愛着が沸いてしまったからだろうか。ミスリア本人へのそれだけでなく、「聖女ミスリア一行」という在り様への愛着だ。

 かなめである彼女が抜けてしまった後、自分たちはどうなるか。元のギスギスとした関係に戻るのだけは、御免被りたい。

 それどころか、兄が一体どんな行動に出るのか全く予測できない。できないからこそ、第三者として突いてみたのだが。

(何を言ったところで、当人次第だよね)

 リーデンは腕を振り上げて大きく伸びをした。こみ上げる欠伸をかみ殺して、緑豊かな庭を進んでいく。

 西の庭には教団の創立者たる、ラニヴィア・ハイス=マギンを象った石像があった。

 後世の彼女へのイメージがこういうものなのかそれとも実際の人物像の記録に準じてこうなったのか、リーデンの感性に言わせてみれば、石像はなかなかに奇異なデザインであった。

 躍動感に溢れている。助走をつけた跪拝、とでも呼べばいいのか。華奢で儚げな女が懇願するような表情で掌を天上に向けて伸ばし、片膝を地に着け、片膝を宙に浮かせている。石像の若そうな女は、現代の聖女が正装とする白装束とヴェールによく似た服装をしている。

 忘れてはならないのが、首から提げられた教団の象徴。腹部まで垂れる巨大なペンダントは恐るべき精密さで石像にも再現されていた。ペンダントの角度にさえも躍動感が満ちている。

 この愉快な石像を訪れるのは既に三度目くらいだが、今日は先客が来ていたらしい。

 まさしく現代聖女の礼装を着た人影はリーデンの足音に気付いて、肩から振り返る。白いヴェールが、ふわりとなびいた。

(あれ)

 驚き、瞬いた。思わず声をかけてしまうほどに、見知った人物だったからだ。

「聖女さん」

 と言っても、ついさっき会ったばかりの聖女ミスリア・ノイラートではなく、自身がこれまでの人生で関わりを持ったことのある、二人目の聖女だった。

「貴方は……」

 聖女は白い手袋をはめた手を口元に添えた。碧眼が見つめる先はリーデンの顔を通り過ぎて、輪郭の外側をなぞった。何を見ているのかは大体察しがついた。

「君、確かお猿さんと厳ついお姉さんを従えた聖女さんだったよね」

「レティカ・アンディアですわ。イマリナ=タユスの町では大変お世話になりました」

 聖女は裾の長いスカートを抓み上げて優雅に一礼した。真っ直ぐな青銅色の髪が、ハラリと肩から流れ落ちる。

「どーも。元気そうで何よりだよ」

 心の篭らない挨拶を並べながらも、リーデンも腰を折り曲げて礼を返した。聖女レティカと会うのは去年以来だ。あの時の彼女は、護衛の二人が死んだばかりで自暴自棄になっていた。

 今の姿からはあの時のような影は無くなっている。護衛の男の形見であろう投げナイフを革の鞘に収めて首から提げているが、それ以外の違和感は無い。教団の敷地で鉢合わせたのも、自然な成り行きだ。此処は大陸中の聖人・聖女たちにとっては、帰る場所のひとつだろう。

「貴方は、ラニヴィア様の石像を観賞しに来たのですか」

「そんな感じー。なんかわかんないけど面白いんだよね、このポーズ。本人もこんなことする人だったのかなーって想像すると楽しいんだ」

「ポーズがですか」

 レティカは石像を一瞥した。

「地上の人々は天上の神々に己の総てを曝け出すべし――跪拝とは何かを願う為にのみする行為でなく、『我は摂理の一切を受け入れる』と知らしめて、この身をどうぞよしなにお使い下さいと天に伝える意もあるそうですわ。聖画などでも、よく見かける姿勢です」

「……その話はさすがに僕の理解の範疇を越えているけど、なるほどね」

「わたくしも、完全に理解しているとは言い難いですけれど」

 聖女レティカは一瞬表情を綻ばせたかと思えば、皮肉そうに笑って続けた。

「実際のお人柄に関しましては、想像の余地がありますわね。アンディア家に伝わるお話では、ラニヴィア様は大層なおてんば娘だったそうです。それからもっと…………肉付きのよろしいお方だったとか」

「ぶはっ! そうなの!? 百年やそこらでここまで事実を捻じ曲げるなんて、教団も必死なんだね」

「それは言わないでくださいませ……」

 気まずそうに自分の髪の毛先を弄るレティカを眺めるのもまた、リーデンには面白かった。

 ふとその時、どこからか鐘の音が鳴り響いた。定時に鳴らされる時計塔の曲とは異なる、反復的で短い旋律だった。

「夕餉の鐘じゃないね」

「ええ。召集の合図です」

 聖女レティカの、彫りが深い横顔からは「ついに来たか」と腹を決めたような輝きが見え隠れした。

 カリヨン(組み鐘)の音が重要な会合の始まりを報せているらしいのは、なんとなく感じ取れる。

「そんなこと、部外者の僕にサラッと教えちゃっていいのかな?」

 半ばからかう口調で問うと、レティカは心外そうに眉を吊り上げた。

「部外者ではないでしょう。聖女ミスリアから何も聞かされていませんの?」

 質問を質問で返されて内心では不愉快だったが、微塵も顔に出さずにリーデンは適当な嘘を吐いた。

「最近彼女忙しいからさ、ゆっくり会う機会無くてねー」

「でしたら、仕方ありませんわね。ではお話の途中で失礼をすること、お許しください。わたくしは行かなければなりません」

 再びスカートの端々を抓み上げる礼をして、聖女レティカは歩み去ろうとする。

「待って」

 声を低くして呼ばわった。打たれたように、レティカは立ち止まった。

「君たちの議題ってさ」

 質問を脳内で構築し、舌や歯や唇などで言葉にしようとして、しかしリーデンは思い止まった。開いていた口を閉じ、肩を竦めて微笑む。

「やっぱやめた。後で、僕らの聖女さんに訊くことにするよ。じゃあね」

「それが良いと思いますわ」――レティカは小さく頷き、去り際に付け加える――「貴方の周りの空気は、以前に比べて随分と柔らかくなりましたのね。これからもどうかお勤めに励みますよう、わたくしからもお願いいたします」

「はーい」

 何を願われているのかイマイチわからずに、リーデンは間延びした返事をした。レティカにとってはミスリアは友情を築いた相手であるはずだから、護衛に頑張って欲しい、という心理だろうか。

(周りの空気か。性質だとか因子だとかに色が付いて見える、って話だっけ)

 イマリナ=タユスで関わった頃の聖女レティカは、リーデンやゲズゥを長く直視すると気分が悪くなっていた。それがいつの間にか、普通に会話をしても平気になったようだ。

 小さくなっていく後ろ姿を見つめる。変わったのはレティカではなく、自分。

 ついリーデンは下唇を舐めた。

 変化とは根強く継続される種の変化であるか、それとも聖女ミスリアとの繋がりが切れれば容易に白紙に戻る程度のものか。

 ――自分自身、どっちであって欲しいかがわからなくて、何故だかゾクゾクした。

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