48.
ひとまずは、謎の第三者の働きでなんとか兄たちが事なきを得られてよかった。
通信を通しての報告だけでなく兄が左眼の視界を共有してくれたため、聖女ミスリアの元気な姿も確認できた。これ以上この件に意識を割く必要は無くなったのである。
これからどうしようか、とリーデン・ユラス・クレインカティはカルロンギィ渓谷の住民に即席で作ってもらった天幕の中、ひとり思案に明け暮れていた。
天幕の中はほぼ真っ暗だった。思考をするだけなら光は要らないし、むしろ視界に余計なものがあると集中できなくなるからだ。
(まだピースは揃ってない。そんなに難しいアレじゃない気がするんだけど……)
とりあえず、リーデンは外の会話に耳をそばだてた。天幕の周囲に見張りが数人つけられたのは、果たして大事な
しばらく聴いている内に何かしら言葉の意味を拾えた。連中はどうやら、先刻現れた「催促」の者が人里まで来ずに去ったことを不可解に思っているらしかった。催促の化物はそもそももっと間隔を開けて訪れるらしいとのことだ。
(間隔ねえ。ん~……肝心なことをいくつかまだ聞いてないな)
聞かされていないだけと言えばそれまでのことだ。こちらが質問しても、たまにはぐらかされることはあった。だからと言って、リーデンは気を悪くしない。立場が逆であれば自分は同じ選択をしていたに違いない。
天幕の外の声が突然大きくなった。入り口の布がめくれたのである。
次にイマリナが入ってきたため、リーデンは近くの燭台に火を点けた。他の誰かであればいざ知らず、彼女と暗がりで話をするのは困難だ。
「お疲れ。どうだった?」
そう声かける間に、すっきりとした香りが広がる。蝋に香草が練りこまれていたようだ。
『見た目は聞いてた通り。王子様というより、普通の人。でも、目がきれいだった。ご主人様みたい』
イマリナは地面の燭台の傍に膝を揃えて腰を落ち着かせた。分厚い三つ編みに結ばれた紅褐色の髪を肩の後ろにどけてから、巧みな手話を繰り出して答える。
「僕に目が似てるって?」
『色や形じゃないの。鋭くて、きっと頭いい人なのかなって、思った。ずるい意味で』
「なるほど、つまり僕に似て信用できない人物ってことね。兄さんの知り合いがまともじゃないのはしょうがないとして、聖女さんもかわいそうにね」
胡散臭い悲壮感を込めてそう言うと、イマリナがクスリと笑いを漏らした。
が、楽しい時間はそこまでとなった。再び天幕の布がめくれ、今度はあの五十代の女が顔を出した。
「失礼します、解放主」
初対面の際と変わらない、落ち着いた雰囲気と知的な眼差し。見たところ女はこの区域の代表者らしかった。少なくとも他にそれらしい影は無い。
加えて、他の民のやり取りを眺める内に、この都市国はもしかしたら母権制社会なのではないかという考えが頭をもたげている。何せ物事に対する決断力を発揮しているのは、主に年配の女ばかりだ。男はその年齢に関係なく、女の命令に頷いて従うのみ。実に興味深い文化である。
「失礼は別にいいよ、何か用? えっと、なんだっけ……」
リーデンは言を切った。女の名前をさっき聞いたのに、思い出せない。自身にとってはどうでもいい情報なのだが、好感度を維持する為には多少は気にかけているふりをすべきだろう。思い出そうとしている努力をアピールするため、表情を真剣そのものに歪ませた。
「ヤン・ナラッサナでございます」
女は優美に胸に手を当て、片膝をつく礼をした。砂色のマントが一瞬だけ翻る。
「そう、ヤンさん。どうしたの」
煌びやかな笑顔を向けながらも、リーデンは女の腰に提げられていた小さな矢筒を見逃さなかった。
「ワインをお持ちしました」
言うや否や、ヤン・ナラッサナの背後から盆を持った若い男が現れた。赤紫色の液体を陶器製のゴブレットに注ぎ、男はそれをリーデンに差し出した。
「こりゃご丁寧にどーも」
ゴブレットを受け取り、漂う甘い香りに鼻を近付けた。「どうせなら僕は……ヤンさん、君みたいな美しい女性と一杯を共にしたいね」
「そう誘っていただけるのは光栄でございますが、謹んでご遠慮申し上げます。わたくしはただ、あなたさまが快適に過ごされているか気になりましたので。このような簡素な天幕でなく、ちゃんとした宿をご用意しますのに……」
女の表情筋はまるで仮面を被ったかのように変動しない。発した言葉が嘘か真かを見抜くのが容易ではないということだ。
(布で鼻から下を隠してる時点で表情なんて見えやしないけどねー)
おそらくは砂が気管に入らないように覆っていたのが元々の理由だったはずが、今となっては別の用途に役立っている。
(僕も明日からはそーしよっかな)
と思ったものの、偽りの顔をつくるのは楽しい。誰にも見てもらえないのは些かもったいない気がする。
「快適快適。僕は天幕の方が良いって言ったでしょ」
「しかし……」
なおも食い下がる女は、俄かに首を巡らせた。天幕の外が騒がしくなったのである。彼女は厳しい声色で問い質す。
「何事ですか」
「ナラッサナ様! 魔物が出現しました」
ヤン・ナラッサナは眉間に皴をよせて「わかりました」と呟いた後、すぐに周りといくつか問答し、指示を出し始めた。出現した方角はどちらか、近くの女子供の避難は済んだか、迎え撃つ手筈は整ったのか――。
「手伝ってあげようか?」
未だにワインに口を付けず、リーデンは親指と人差し指との間でくるくるとゴブレットを弄る。
「いえ、このような些事に解放主のお手を煩わせるわけにはまいりません。あなたさまは、後日の作戦の為に力を温存していてください」
振り向きざま、ナラッサナはハッキリと断った。
(温存……? 適当な魔物相手にぶつけて、僕の実力を測りたいってキモチはないのかな)
正直、意外だった。彼らが何かを企んでいるとするなら、それくらいやってのけるのは当然である。
(相変わらず何かを隠しているのは明らかだけど。解放主ってヤツを、戦力を必要としない「使い方」をする気?)
その疑問が沸いたからには、リーデンは直接質問することにした。
「君たちは結局僕に何をさせたいの?」
――大いなる敵の餌にして、その隙に全員で総攻撃、とか?
笑顔の裏にそんな問いを潜ませてみたのだが、相手方が気付いたかどうかは知れない。
「解放主たる者、勇敢に先導して下さるだけで我々は救われます」
ヤン・ナラッサナは深く一礼して淀みなく応じた。
(よくもまあ、そこまで勝手なイメージを膨らませてくれるよね)
求めているのは高い統率力でも戦闘力でもなく、都合の良い英雄像に当てはまるような「タイミング良く現れた人間」。そこに呪いの眼のような限定された身体的特徴がついてくると、更に信憑性が跳ね上がる。
「そういうことだったら、ほどほどに期待してればいいよー」
信者たちににっこり笑いかけた後、出て行くように手の動きで促した。連中は無言で従った。
国全体が幻想に惑わされているならそれはそれでおめでたい話だが、どうもそんな気がしない。都合の良い英雄像の実用性とは何か? おそらく、世論を操作する為であろう。
――何故、世論を操る必要があるのか。誰に、その必要があるのか。
やはり真相は大してややこしくないはずだ、とリーデンには予感がしていた。
『毒見しようか?』
誰も居なくなった後、イマリナがワインを見やりながら提案してきた。
『んー、やめといて。マリちゃんが変なモノに当たるのも嫌だし』
ゴブレットを手放し、リーデンは手話で返事をした。声に出して返答しても良かったが、外の見張りに南の言語を解する人間がいるかもしれない。
(……にしても、あの矢筒。弓矢とかクロスボゥよりも、もっと小型の武器っぽかった)
ヤン・ナラッサナ以外にも同じ装備をつけている人間が居たことに、リーデンはしっかり気付いていた。
(谷底で王子とやらが負った傷と僕らが受けた攻撃は同系統……ううん、まったく同じ物)
渓谷に運ばれた経緯について、今一度思い返してみた。
一応兄やイマリナにも問い質してみたが、やはり全員が全員、敵と遭遇して攫われるまでの記憶が曖昧だそうだ。四人も居れば一人くらいは殴打の痕があってもいいのに、それらしい痕跡が無いのもおかしい。
ほとんど音を立てずに死角から攻撃できて、なお傷跡も残りにくい武器――
(もしかすると吹き矢か針かな)
先に塗られたのは、即効性で対象の意識を奪い、やがて時間差で麻痺をもたらす毒。男女の扱いの差を考慮すると、ミスリアやイマリナには解毒剤がいつの間にか与えられたのかもしれない。
常人よりは毒への耐性を鍛えてきたリーデンには、麻痺の効果が現れるのが遅れているのだろう。不審に思って、連中は別の毒を盛った飲み物を持ってきたのではないか。
「あーあ。コレに入ってるのが、解毒剤だったらいいのに。面倒なことになりそうだなぁ」
イマリナを抱き寄せ、呑気に耳打ちした。
_______
「貴重な隙間時間だ、少し話をしようではないか。と言っても、私の話は聴き飽きたであろう。まずはそちらから聞かせてくれ」
オルトファキテ王子が焚き火の傍でくつろぐように寝そべる。今日はもう休息を取ろうという流れになり、三人で岩陰に身を潜めたのだ。
(緊張感が無い……)
向かいで膝を揃えて座ったミスリアは、「飽きたなんてことはありませんよ」と苦笑交じりに手を振った。
ちなみにゲズゥは少し離れた場所で岩壁に背を預けて寝ている――ように見える。
「たとえば、カルロンギィ渓谷の長さは二十マイル(約32.2km)にも及ぶ。どの辺りに聖地が位置するかはわかっているのか」
「いえ、あまり」
「早めに調べた方がいいぞ。何せこの地域に馬は居ない」
王子は起き上がって胡坐をかいた。近くから採った野いちごを取り出し、話を続ける。
「主な移動手段は徒歩、そして大型の山羊。渓谷の地形に特化した種の山羊で、人間が騎乗できるほどに大きい。お前たちも連れ去られた際は馬までは攫われなかったのではないか」
「言われてみれば、私たちが連れていた馬もロバも姿が見えませんでした」
「荷だけ奪われて馬は捨て置かれたはずだ。カルロンギィでは価値が無いからな」
話す合間に王子は野いちごを手の平にのせている。片手でがばっと豪快に頬張ってから、「いるか?」とミスリアにも差し出して来た。その言葉に甘えて手を伸ばし、五個ほどつまみとる。
「ではもし聖地がここからずっと離れた位置にあったとしたら、徒歩で辿り着かなければならないのですね。或いは山羊を手配できればいいのですけど」
「ついでに言うと、この国では四つの区域に挟まれた中心部に一人の王が座している。区域を管理する者たちは皆、王の血縁者らしい。おそらくこの周辺の長もそうだ。山羊は重要な資産、事細かに管理されていて奪うのも買い取るのも一筋縄ではいかんぞ」
「詳しいですね」
説明を聞きながらもミスリアはいちごを口に含んだ。奥歯で噛みしだくとそれはあっさり潰れ、酸味と甘味を同時に爆発させた。
「興味のある事柄には自然と詳しくなるものだ」
そう言って王子は笑った。
「聖地――それらには必ず伝承がつき物だとはわかっていたが、まさか怪獣大戦だったとはな。化石でも残っていれば尚更面白い」
野いちごを平らげ、再び王子が横になる。彼の意味深な節回しには何やら記憶を刺激させる効果があった。そう、怪獣大戦とは、以前聖地の逸話を語った時にも彼が漏らした感想だったはず。
「――あ! そのお話の中で、聖獣が戦った相手が『竜』でしたね!」
かつて七百年前に聖獣がこの渓谷で一晩をかけて沈めた超大型の魔物、その姿は空を駆ける爬虫類だったと言われている。もっとも、聖獣の姿も似た系統のものと言われているが、重要なのは――
「私たちの前に現れた混じり物の子供の一人が、竜に変化していました。何か関係があるのでしょうか」
「あるかもしれないし、無いかもしれない。聖女よ、お前はどう見る? 私は関連していると思うがな」
見上げてくる藍色の双眸はとても楽しそうだ。
「な、七百年前以上から続く混じり物の筋、とか?」
「それは飛躍しすぎだ。誰の噂にも留まらずそれほど長く維持できるなど、考えづらい」
「でも、魔物信仰だってひっそりと続いて来たものです」
「仮に竜の血筋なんて代物があったとして、組織立った動きをすれば、教団か某対犯罪組織が嗅ぎ付けて来るだろう。戦闘種族などのように散らばっていた方が賢明だ」
「確かに……」
「少なくとも今この谷で起きている出来事は、少数の主犯者を軸とした事件だ。他の集団とも切り離されている。そう捉えた方が辻褄が合う」
「そうですね」
王子の推測には納得できるものがあった。
(……相手が少数だからってこちらも少数で対抗できるとは限らないけれど……)
不安という鎖が、心臓をがんじがらめにする。和らげる為に服の上から水晶の硬さに指を触れた。この仕草は段々とクセになりつつあった。
「まあ、国ぐるみで擁護しているという可能性も残るが」
「こ、怖いことを言わないでください……」
「オルト」
前触れなく、ゲズゥが会話に割って入ってきた。見上げると、寝そべった王子の背後にぬうっとその黒い影が立っていて、思わずミスリアは身構えかけた。
「何だ?」
「吹き矢について知っているか」
脈絡も無い問いかけに、王子は動じずに瞬く。
「ああ、知っているぞ」
曰く、皆が攫われた際に投与された毒、そしてそれが塗ってあった吹き矢が、谷底で王子が受けた傷の原因と一致するものであるという。
「あれは国の伝統工芸だ。関連付けるには十分だが、因果関係までは定かではない。谷底の者が里を取り込んだのか、里の者が谷底に流れ着いたのか」
オルトファキテ王子はそんな一言を添えた。
「やっぱり国ぐるみで何か企んでいるのでしょうか」
「わからない。それを前提として今後の展望を考えるのもいいかもしれないな。最悪を想定していた方が対策も立てられよう」
「もうひとつ情報がある」
そう切り出して、ゲズゥはリーデンから聞いた話を伝えた。耳を傾けている内に王子はまた起き上がった。
(この話、きっと呪いの眼の作用で通信したのよね)
あらかじめからくりを知っていなければ不自然に感じるはずなのに。情報をどういう方法で得たのかを王子が問わない辺り、信用の表れのように感じられた。
そして件の情報の内容は、ミスリアを戦慄させた。
「女が集中的に狙われていたというのは初耳だ。言われてみればあの里は若い女が少なかったな」
王子も驚いているようだった。
「十人の女を見ても、二十歳以下は二人も居なかったと。リーデンはそう数えたらしい」
「里の女はよく動いてよく働いていたからな。男よりも数が少ない印象はなかった。歳に至っては、あの顔を隠す布の所為で、私は気付けなかった」
「どうして女性ばかりを……」
つい思い出してしまうのは、ウペティギの城での一件だ。世間では男性が女性を数多く所望するのは、あまり珍しい現象ではない。そのことを自分も理解しつつあるけれど、恐怖に慄くのはやめられない。
ゲズゥは相変わらずの無表情のままで、一方では王子は色々とひとりごちている。その着眼点は、ミスリアとは少し違うところにあった。
「女を攫われたのが自演でないとなると、関連していても共犯とは限らないか? いや、その程度の工作くらいやってのけるか。この区域の長は聡明な女と聞く――聡明さが狡猾さと同義かと言うとそうでもないが、しかし自演をしているのなら目的は何だ?」
革の手袋の甲の部分を前歯に軽く引っ掛けながら独り言を続けている。よほど考え込んでいるのだろう。
(この人、頭の回転が速いけど、なんだか不思議な感じ)
人を疑う様に鬱屈としたものが無い。
(あらゆる可能性に考えが及ぶだけで、それは人間不信とかではなくて)
人は誰しもいつでもどの道にでも転ぶものだと、考えているようだった。人間の性根には必ずどこかに善意があるのだと信じたい自分や、その逆の考えを持っているらしいゲズゥたち兄弟とはまた、違う人生観である。
「最も問題視すべきはそこではないな」
王子は勢いよく立ち上がって、何故か荷物をまとめ始めた。
「どういう意味だ」
「予想以上に連中は切羽詰っているということだ。少なくとも明日明後日は動きが無いと踏んでいたが……もしかしたらもう、移動しているのではないか」
「……みたいだな」
両目を閉じて静止したゲズゥが、しばらく経ってから不機嫌そうに答えた。
「王子、貴方には敵の居場所がわかるんですか?」
「知っている。向こうは隠してもいないから、軽く偵察すればわかるような位置にあるぞ」
ただし、と彼は河の方に視線をやった。
「――向こう岸にある。泳いで渡るのは論外として、飛行能力を持たない我々では、橋のかかっている地点まで行く必要がある」
「橋があるってことは、向こう側にも里が?」
「いや、反対側に民家は無い。どうも猛獣が住処としているらしくてな、定住地に使えなかったそうだ。橋は主に狩りや採集に行く時や移動の為に使っているらしい」
どうやって調べ上げたのか、相変わらず王子はカルロンギィの事情に精通していた。
時間を一秒たりとも無駄にできないとわかって、すぐに全員でこの場を去る支度をした。速度を優先するため、食糧や毛布などの生活用品は捨てることになる。
「ここから距離は」
大剣を背負い終えたゲズゥが質問した。それに対して王子は闇の中を指差す。
「四マイル未満と言ったところかな」
「となると三十分前後か」
「待て待て、私をお前みたいな若々しい化け物と一緒にするな。無装備で走ったとしても四十五分以上はかかるぞ」
「………… 」
胡乱げな目をするゲズゥと、愉快そうに笑う王子。その横でミスリアは何とも言えない心持ちで二人を交互に見やった。もし自分の足で走ろうとすれば、一時間はかかる。
「くくっ、本気で置いて行きそうな顔をするなよ。あの銀髪はお前にとってそれほど大切か? すぐに駆けつけねばどうにもならない種の人間か?」
「……すぐに駆け付けなくても死にはしない」
くるりと王子に背を向けて、ゲズゥはこちらに手を差し伸べた。歩み寄ると、ふいに足が地面から離れた。そのまま軽々と青年の肩に担がれる。
何の合図も無しに、月下での疾走が始まる。振り落されないようにミスリアは逞しい背中にしがみついた。
「私は先回りして隠れ場所を見つけることを勧める」
しばらく走ってから、王子が口を開いた。息は上がっているものの、ゲズゥの方が彼に合わせて減速をしているようである。
「何の為にです?」
「決まっている。カルロンギィの民の出方を観察する為だ。運が良ければ目的も突き止められる。大体、深夜に『混じり物』の棲家に率先して飛び込みたいとは思わんな」
「そ、それは勿論私だってそんなことしたくありませんよ」
「だからこそだ。里の連中が行動に移したからには人員も揃えているはずだ。我々のみで突撃するよりは安全性が増す」
「でも私たちの安全と引き換えに彼らに犠牲が出るのでは」
「知らん。現状、そこまで気にしている余裕はなかろう」
「確かに――」
返事の途中、ただならぬ感覚が背骨を通り抜けた。
ゲズゥの肩に担がれているがゆえに向いていた後方ではなく、進んでいる方向を振り向こうと上体を捻る。
「どうした」
短い問いかけがあった。答えようとしても声が出ない。
(この感じ!? 聖地が、近い!)
そんなまさか、よりによって聖なる地の近くに魔性の者が居を構えるなど――
(まだそうと決まったわけじゃない。もしかしたら隣接してて気付いてないのかも)
これまでに巡礼してきた聖地では、傍で人が普通に生活をしていた。聖気を扱う訓練をしていない者がそこに何も感じないのは頷ける話だ。あの空気感を感じ取れるか取れないかは慣れから来るもの、ミスリアも回を重ねるごとに感度が上がっている手応えはあった。
けれども彼らは人ではなく、闇に闊歩する異形ではないか。
(真逆の性質を感じ取るはずだわ。好きでその位置を選んだってこと?)
聖地から漏れる気配に強弱があるらしいことに、巡礼している内にミスリアは気付いていた。或いは彼らにとっては気にしなくて済む程度の濃度なのかもしれない。
それとも、当て付けのつもりでそこに陣取ったとでも――
すぐ近くからあからさまな舌打ちが聴こえてきたため、思考は中断された。
「急に何だ?」
王子が舌打ちの発生源であるゲズゥに訊ねた。
「リーデンの意識が遠ざかった。連中に何かされたのだろう」
「想定の範囲内ではあるか……どちらにせよ、わざわざチヤホヤしてやったくらいだ、生かして使いたいのだろう。と言っても急いだ方がいいな。私も無駄口はやめるとしよう」
宣言通り、王子はその時点から黙り、つられてミスリアも口を噤んだ。
月が照らす夜の河辺をひたすらに押し進む。
河と風の流れる音を除いて、周囲は気味が悪いほどに静かだった。
_______
眠りについた記憶は無いのに、途端に目が覚めたような気がした。両手両膝を地面に付いた姿勢だ。
(あ、酔いが醒めた感じの方がよく似てるかも)
試しに掌の中に息を吐いてみたが、酒の匂いはしなかった。リーデンはゆっくりと瞬きを繰り返した。暗い。松明に照らされた箇所を探して目を彷徨わせるも、成果は芳しくなかった。
(気配……前方に一人と一ナニカ、背後に複数人)
半ば癖で兄の存在をも検索した。近くに居るらしいのはわかるが、別の空間なのか、多くの障害物に遮られているようだ。少なくとも目と耳の届く範囲で捉えることはできない。
耳と言えば――何やら馬鹿げた叫び声が聴こえてくる。
「解放主! 憎き怪物を退治してください!」
「彼女がやられてしまいます! お早く!」
実につまらない叫びが続いているな、と思ったが、やられそうになっている女が気になったので顔を上げた。
「そういえば攫われた女の子たちがその後どうなるのか、聞かせてもらえなかったな」
これは直に答えを見つけるチャンスだ。そう思ったのと時を同じくして、背後から松明が放物線上に投げられる。フォン、と炎が空を切る音がした。
刹那の間、巨大で気色悪い異形が照らされる。そしてソレの足元で蹲る女性の姿を見つけて、一気にリーデンの血液が頭部に集中した。
「あんのクソ
――なんて悪辣な策だ。思った以上の女狐だったか、いっそ称賛を送ってやりたいくらいだが、それはとっ捕まえて拷問にかけながらにしよう。
全てはこの局面を切り抜けられたらの話だ。
「マリちゃん、立って! 考えるな!」
――逃げなさい――
最も彼女と馴染み深い言語で怒鳴りつけた。
主人の命令を受けて、イマリナは一瞬だけ凍り付いた後、行動に移した。
奴隷という生い立ちが深層意識に根付いているがゆえに、行動パターンの柔軟性を封じられることがある。イマリナの場合は過剰に恐怖を覚えるとパニック状態に陥る。
リーデンがどれほどの訓練を施しても、害意に触れる瞬間に硬直し、身動きできなくなるのだ。
そうなってしまえば、感情を上塗りして肉体に染み込ませた反射運動に頼るほかない。
鍛えても鍛えても彼女に攻撃性を持たせることはできなかったがゆえに、リーデンはかわす働きのみを教え込んだ。それでも咄嗟に対応してくれないので、骨折り損に思う時もある。だが今はそういう時ではなかった。自分の、彼女にとっての唯一の主の命令する声がきっかけとなりえた。
「アンタらは里を脅かす谷底に居座った敵、ってイメージを描こうとしてたけどさ。とどのつまり、身内から出た錆なんでしょ」
闇の奥から伸びる魔手を身軽にかわしつつ退避する彼女と、後ろに控える里人たちを見比べた。その間リーデンは麻痺から解放されてきた手足を簡単に動かしたりした。
目の前でイマリナが高く跳んだ。すんでのところで的を外した触手が、べちゃりと地面を打つ。生肉を成熟させたような汚臭が散った。
「もう大丈夫だよ、マリちゃん」
慣らした足で前に歩み出て、彼女を背中に庇う。安堵のため息が漏れるのを聴いた。ここになって冷静さを完全に取り戻せたリーデンは、ようやく敵に注目した。
「さあて、オニーサン。よかったら君の家名と個人名を教えてよ」
そう呼びかけると、大気が拒絶に震えた。予想通り、目前のそれは自我や意識を持ったナニカであった。
『嫌だと言ったら』
山猫の咆哮のような声だ。それでいてかろうじて聴き取れるような、北の共通語。
「いいじゃん、僕のも教えてあげるから。リーデン・ユラス、だよ。ユラスは母の結婚前のメイデン・ネーム(旧姓)でさぁ、父親の姓名はクレインカティって言うんだ」
『ややこしいな。個人名を先に名乗るとは、他所の風習か。ここでは家名を先に名乗るのが主流だ』
奴がクレインカティの名を聞き流した以上、戦闘種族とは縁が無いのだろう。とりあえずそれを確認できたのは幸いだ。
「ふーん、そうなんだ。ねえもしかして、君もヤンさんだったりしない」
『どうやって知ったのかはわからんが、そうだ。おれはヤン・ナヴィと言う名だった。お前たちの中にヤン・ナラッサナの姿が無いが、暖かい家の中でお留守番か? いつまでも意気地の無い女だ』
一向に闇から姿を見せようとしないアンタはそれじゃあ意気地があるのかと突っ込みたかったが、我慢した。
「どこだろうね。ホント、回りくどいことしちゃって、ヤンおばさんの狙いは謎すぎるよ」
リーデンは大げさに肩を竦めてみせた。
(でも、いいよ。もうちょっとだけ踊らされてあげよう)
倒せるかは別として、ヤン・ナラッサナは「解放主」とヤン・ナヴィを
勝つ必要は無い。
目の前に立ちはだかっているのは圧倒的な絶望を撒き散らす存在だ。しかしリーデンの中に恐怖は生まれない――それを通り越した達観した場所に辿り着いている。規格外の相手に自分のできることなどたかが知れているのだ。当面の課題は、イマリナと共に生き残ることのみでいい。
人間勢の中でこの夜の結末を左右しうる者がいるとすれば、おそらく聖女ミスリア・ノイラートがその筆頭だろう。そう思ったのもまた、勘に過ぎなかった。世の中にはそれを「信頼」と呼ぶ者も居る。
『ジェルーチ、ジェルーゾ! 牢・研究室の周辺と裏口を確かめろ。こいつらは陽動だ。他にも部隊が居るはずだ』
咆哮が空間に響いた。反響によって、この場所はそこそこ広いながらも天井と壁があるのだと理解できた。
「あいよー! じゃーオイラは牢と研究室! ルゾは裏口な」
「めんどくさい、けど…… わかった……ヤンが言う、なら」
その叫びの応酬が交わされる間、呪いの眼を使用して情報を手短に伝達した。
――そういうことだから。そっちは任せたよ、兄さん。
返事は無いが、伝わったに違いない。
『健康そうな女だな。よこせ。そいつにも、孕ませる』
既にヤン・ナヴィはこちらににじり寄り始めていた。
ずる、ずる。
人間の腕ほどの太さをした無数の触手が這いずっている。背後の人々は固唾を飲む者が多数を占める中、松明を持って前に押し出る者も居た。
――未知の化け物はよく見えた方が恐ろしいのか、見えない方が恐ろしいのか? 答えはそれぞれだろう。
触手の繋がる源に、大型猫の頭部があり、その更に上には人間の男の胴体があった。男の肩や背中には歪な突起の影が見える。頭蓋は膨れ上がっており、眼窩に瞳らしい瞳はなく、どろどろとした液体が漏れ出ている。後ろ首からは大きな翼が生えているように見えた。
右腕は蛇、左腕は百足。
最初に抱いた感想は、化け物は化け物でもどこか神話的な姿だな、である。神話の類には疎いリーデンだが、何故だかそう感じたのだった。
「あー。うちのマリちゃんは触手お断りなんだ、ゴメンね」
リーデンはぐっと顎を引いた。覚悟を決めた仕草などでは決してなく、耳飾りを揺らしてチャクラムの重みを噛み締める為であった。
(本能的な危険信号を、わざと無視する日が来るなんてね。人生、何があるかわかったもんじゃないね)
柄にもなく、剣と盾を構えた。
さながら神話に登場する英雄のように、そうして彼は大いなる不浄の者に挑んだのだった――。
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