49.

 全身を幾重もの衣で覆った十人ほどの人間が、闇の中を走っていた。数人が持つ小枝のみを松明とした、隠密に徹した一行だ。

 元々身軽でしなやかな動きを特徴としていたのだろう、その進みは流れるように速く、滞りなかった。衣服を着込んでいるというのに、帯をこまめに絞めているためか、はためく音はほとんどしない。しかも意図して足音を殺している走り方である。

 迷いなく洞窟の中を走り抜ける姿には一本の芯が、使命感が通っているのがわかる。

 ただし、集団が今しがた走り抜けた空間――その遥か上に空洞があり、直径五フィートほどの外と通じる窓があることを、彼女らは知らない。


 窓を囲む人影は三人。内、フードを目深に被った男が静かながらも力強い声を発した。

「牢があるという事実。それは、たとえ短くても攫われた女たちが生かされている期間があることを示唆する。連中の目的は、女を取り返すことだったか」

「でもこのままでは、『混じり物』の少年たちにはち合ってしまいます。無事で済むとは思えません」

「だから?」

「彼らを守りましょうとまでは言いませんけど、できれば傍観以上の手助けをしませんか」

 ミスリアが食い下がると、オルトファキテ王子はフッと鼻で笑った。

「最初からそのつもりだ。でなければ此処まで足を運んだりしない」

「そうですよね、よかった。では二人とも気をつけて――」

「それでいいのか」

 送り出す挨拶を、ゲズゥが遮った。黒曜石を思わせる右目と前髪の間から覗く白い目が、じっとこちらを向いている。

「?」

「俺は、お前の護衛だ」

 不用意に離れても良いのかと暗に問うているらしい。ミスリアは軽く笑って答えた。

「大丈夫です。私はここから絶対に動きませんし、危険を感じたらすぐに逃げますから」

「…………」

 ゲズゥはまだ何か言いたそうに眉を寄せる。その傍らで王子が話を進めていったため、やがて視線は逸らされた。

「ざっと見下ろしただけではわからんが、男に見える体格を持つ者も居たな。私ならうまく紛れ込めるかもしれん。飛び抜けて背の高いゲズゥではその役割は無理だ、二手に別れるぞ」

「わかった。お前は牢で、俺は研究室とやらに向かう」

「ああ。この窓から下りよう」

 早速王子が窓の縁に手をかけると、その背後からゲズゥが名を呼んで引き止めた。

「敵の大将に会ったらどうする気だ。殺すのか、利用するのか」

 それを聴いてミスリアは小さく息を飲み込んだ。そういえば王子はこれまでに一度も、ハッキリとどういう決断を取るのかを口にしていない。

「いい質問だ」

 振り返りざまに王子はニヤリと口角を吊り上げる。まさかとは思うけれど、懐柔したいと企んでいる可能性が――? その疑惑を、彼は次の返答で払拭した。

「私は未知なる領域に手を出す挑戦心には共感するが、ぎょせない力を追い続ける愚かさは評価しない。ゆえに、その男に会えたら、葬り去るさ」

 なるほど、と興味が失せたようにゲズゥは視線を逸らした。

「ミスリア」

 振り返らずに、呼ぶ。

「はい」

「落ちるなよ」

「わかってます」

「なら、いい」

 話はそれで終いとなり、二人の男性は瞬く間に地上から姿を消した。

 両手両足をつけて窓の中を覗き込んでも、もうミスリアの瞳が奥の闇から何かの輪郭を見出すことは叶わない。諦めて頭をもたげ、周りを見回す途中、寒気にぶるっと身体が震えた。

 気味悪い静けさが鈍い眩暈をもたらしている。それでなくとも足場はやや不安定だった。つい座り込んでしまうのも当然のことだろう。

 ミスリアたちは巣窟の裏口を確認した後に、運良くこの窓を見つけたのである。巣窟の入り口はどれも河に面した地上に位置しており、それらの視界から隠れようと思えば、狙いの付けどころは「上」しかなかった。

 ここから絶対に動かない――そう約束したのも、暗闇で迂闊に動こうものなら、うっかり足を滑らせて谷底に落下してしまいそうだからである。

(……ただ待つしかないってのは、想像してたよりも辛い)

 冷えつつある両手に吐息をかけたのと同時に、鋭い悲鳴が聴こえた。聴こえたけれども、どうすることもできなかった。里の人たちが、裏口に向かったジェルーゾと遭遇したのかもしれない。既に双方の血が飛び散っているのかもしれない。怒声や衝突音からは、詳しい事情が読み取れなかった。

 このままでは悪い方向に想像が捗りそうだ。唇を噛みしめ、一度深呼吸した。

「なるべく穏便に。みんな無事に、済みますように」

 両手の指を絡め合わせてミスリアは無心に祈り続けた。時折近付く魔物に祈りを妨げられないように、小さな結界を張ることも怠らない。

 大切な仲間の名を一人ずつ呟き、大いなる存在の加護が届くようにと、かつては聖獣の鱗であった水晶にそっと願いを込める。

 どれくらいの時間そうしていたかはわからない。地中から響く騒音は未だ止まず、むしろ音量が増していたように感じられた。

 ふいに、総毛立つ。

 腰を落ち着けた姿勢なのに、何故かよろめいた。慌てて後ろに片手をつけると、その原因に思い当たる。谷が、正確にはミスリアが座している辺りの谷肌が、揺れたのだ。

 窓を覗き込むのが怖かった。一体何が這い上がって来るのか? 知りたいけれど、知りたくない――

 状況は、迷う暇すら与えてくれなかった。

 ――ずぼっ。

 チューブ状の空間にパンパンに詰まっていた物が抜け切った瞬間の、小気味いい音。抜け出てきたソレは、傷や穴だらけの骨ばった翼を広げて浮遊する。

(竜!? まさか、ジェルーゾ)

 直後、身構えるミスリアに向かって、飛竜らしき影が声とも言えない声を浴びせた。

 蛙が呻いているような潰れた音だった。大音量なため耳を覆ったが、聴き取れるだけの言葉は成されていない。

(普通の魔物か)

 ミスリアは少なからず安堵した。結界は正常に作動しているし、攻撃が中まで届いたりはしないはずだ。現に、異形のモノは幾度となくその爪を視えない壁にぶつけていた。

 諦めてくれるまで待つのも一手だろう。しかし、度重なる衝突は激しさを増すばかりである。こちらの集中力が途切れても困る。

 アミュレットを手に取り、ミスリアは浄化を始めんと聖気を展開する。

 ところが、突如として飛竜が離れた。全体に比べてアンバランスに大きい頭部を仰け反らせ、また何か声を発して、滑空した。

『……ない……逃が…………さ、な……』

 ――途切れ途切れとはいえ、まごうことなき共通語!

 驚愕した。そして次の瞬間、その驚愕は倍となっていた。

 異形の姿はミスリアの視界の下端から抜け出て消えたのである。

「ぐっ!」

 お尻や脚に、振動が伝わった。かと思えば、胃が持ち上がるような感覚が襲った。

 反射的に、枝でも石でも何でもいいから谷に連なる取っ掛かりを求めて――後ろ手で探った。ずり落ちること数秒、ようやく左手一つで小さな木の根からぶら下がる形に落ち着いた。その時点では既に結界は消えていた。

(嘘。私の周りに干渉できないからって、足場を崩したの!? そんな知能、魔物に備わっているわけない)

 自然と導き出される答えは、混じり物が既に存在が割れている三人の他にも居たと言うことを意味する。つくづく、後手に回ってしまったものだ。

(どうすればいい!?)

 パニックで頭が巡らない。迫り来る危機を前にして、目を瞠ることしかできない。

 ――若い女を集めているのが本当ならば、無傷で捕えようとするのではないか。

 縋れる希望は、そればかりだ。

 竜はまた衝突してきた。

 ミスリアの喉から短い悲鳴が漏れる。腹部に走る痛みは、呼吸を奪った。

 自分の意思とは無関係に、竜の背中に前のめりにもたれかかった。視界がチカチカする。咳き込みながらも瞳に涙が溜まった。こうして絶望の底まで連れ去られるのかと危惧したら、その予想は外れた。

 喜ばしい外れ方では無かった。竜はミスリアを背負って飛び去ろうとはせずに、高度を引き上げ、新たに加わった荷物をいとも容易く放り投げた。

「――――っ!」

 窓のあった場所よりも更に恐ろしく高い位置にて、谷に激突した。幸か不幸か、落下は免れる。たまたまそこに突き出た岩があり、ミスリア一人が横になる程度の幅があったからだ。

 かき混ぜられた思考、遠ざかる意識。脳震盪を起こしたのかもしれない。

 そんな中、脈絡もなく疑問が舞い降りた。

(そういえば……聖地って……)

 近付いていた時は気配がしたのに、巣窟に着いた後はそれがわからなくなったのだ。魔性のモノたちの穢れや瘴気が混ざったからだろう。

(ど、こ……だろう……)

 ゆっくりと瞼が下りる。

 疑問の答えは、すぐ傍にあった。


_______


 ヤン・ナヴィの百足の左腕が、恐ろしい素早さでリーデンの顔面を狙う。それを盾で防ぎながらも腰を落とし、剣を薙ぎ払った。

 すんでのところで百足が引いた。剣は尖端だけをかすらせて空回る。

(チッ、半分くらい斬り落としてすっきりさせてあげようと思ったのに。無粋な奴)

 呑気な思考はすぐさま引っ込んだ。伸びる触手をさばくのに集中しなければならないからだ。

「おおっと」

 背筋に悪寒が走った。

 防御の体勢に入りながらもくるりと前後に回転し、蛇の右腕の牙から間一髪で逃れる。

「解放主、援護いたします!」

 里人たちが化け物に向かって吹き矢の嵐を放った。どういう構造なのか、中距離武器としてはなかなか効果的だ。矢が飛ぶ速度や精度はクロスボゥにすら引けを取らないように感じられる。援護射撃をもらっている手前、そう錯覚しているだけかもしれないが。

『小賢しいわ!』

 ヤン・ナヴィは顔面を憤怒の色に染めた。毒矢などいかほども効かないだろうに、その怒りは相当である。

(攻撃を痛がってもいないし……何に対して怒ってるのかな)

 答えがわかれば使えるかもしれない。リーデンはこの隙に一旦距離を取って、思考した。

「解放主、お願いします!」

「あなたさまが頼りです!」

 懐疑的な想いで喚声を聞き流す。

 ほとんどの里人が本気で応援しているにしても、その一部はどこか胡散臭かった。よくわからないがお膳立てをしているらしいのはわかる。

『おまえ、不快だ』

 触手が怒りに揺らめいた。膨れ上がった頭蓋からは湯気が立ち昇っているようにも見える。厳密には魔物ではないため、あの青白い燐光とは少し異なるが、きっと本質は同じようなものだ。

 怒りの矛先がリーデンであるのは間違いない。しかし奴の腹に生えた大型猫の頭の視線の先を追うと、しきりに観衆をも気にしているのは明らかだ。おかげさまでこちらへの注意は散漫となっている。

(おやおや、彼はこの応援が気に入らないようだ)

 何かがピンと閃いた。ナラッサナはナヴィをよく知っている。不特定多数の敵をあてがうよりも、彼にとってのたった一人のやりにくい相手をつくり上げることに成功したわけだ。

(よほど親密な関係だったんだろうねぇ)

 先ほど思った世論操作や母権制社会がどこかで関連していそうな気がしたが、考えてもわかる気がしないので忘れることにした。

(攫われた女たち、それに牢と研究室。これで大体のが見えてきたな)

 自分の役割を理解したところで、リーデンはニヤリと口の両端を吊り上げた。

 ちょうどその時伸びてきた蛇の腕を、華麗な宙返りでかわした。観衆からワッと歓声があがる。着地の姿勢にも気を配り、地面に片膝つきつつ剣と盾を優雅に構えた。

 近しい知人――主に兄――が見たら漏れなく失笑するほどの、絵になる完璧な身のこなし。襟足の入った長い銀髪も、大きな輪の耳飾も、この暗がりの中では特別な宝物が如く輝いていることだろう。

 戦場で格好をつけるなど、余計な動作でしかない。だが今はそれが、面白い具合に敵に打撃を与えていた。ヤン・ナヴィは逆上して攻撃を重ねてきたが、どれも的を捉えられずに周囲の壁ばかりを破壊する。

(踊ろう踊ろう)

 リーデンは表情の変化も細かく操作し、いかにも真剣に闘っているていを装った。触手がイマリナや観衆を危うくかすると、心配するような声をかけたり、下がるように号令をかけたりと、とにかく芸を絶やさない。勇敢に化け物に立ち向かう、民に支持された英雄。

 そんな実に馬鹿げた像に収まり切って、流れを支配した。本来ならば巨大な異形が一貫して優勢だっただろうに。

 茶番劇に飽きた頃、リーデンは元の「顔」に戻った。もう十分に時間稼ぎはできたはずだ。その時点で、彼はまだかすり傷しか負っていなかった。

「やあ、ナヴィのダンナ。一つ訊きたいんだけど。君は、『正義』というモノが嫌いなのかい?」

『……』

 奴は応えなかった。立ち昇る湯気の汚臭に鼻をしかめながら、リーデンは次いで言った。

「じゃあもう一つ。君は、ヤン・ナラッサナが嫌い?」

『当然』

「!」

 地面が揺れた。本能的に跳ぶべきだと、リーデンは判断する。足元に視線を落とした。

 ――地中に触手を這わせた――!?

 宙に浮いたまま混乱している内に、右脇下に衝撃が走った。

(しまった、下に気を取られ過ぎた!)

 百足の足や顎が肋骨を抉る。背中にも硬い感触がぶつかり、肺が圧迫された。

 瞬きの間に、グロテスクな顔が眼前に迫った。

(近い近い近い近い)

 様々な要因によって嘔吐したくなるも、壁に押しやられている所為で身動きが取れない。臓腑ぞうふの中身を空にしたくてもできなかった。

 咳き込むことすら苦難だった。

「ちょっと、ひどいなぁ……親の顔を……拝んで、みたいね……」

 精一杯力を振り絞って、毒を吐く。

『あの布を剥がしてやれば、見れるだろう。表情の仮面は、剥がせないがな。ナラッサナはあの手この手を尽くしたが、おれを変えることはできなかった。子が何に心を奪われるかなど、所詮は親には制御できんものよ』

 ――ああそうか、親子。

 この素行、一体ナラッサナはどういう躾をしたのか。やんちゃにもほどがある。歳を逆算して、ナヴィは少なくとも三十は行ってそうなのに。

『おれはおれのやり方で、国王に取り入るつもりだ。邪魔は、させない』

 その一言に込められていた感情を、リーデンは肌で感じ取った。

 嫉妬、対抗心、矜持。

 腐ってもヤン・ナヴィもカルロンギィ王家の血縁者なのだ。親への反抗心の奥には、もしかしたら愛国の心も潜んでいるのかもしれない。母権制社会に対して正当な革命を起こそうとしているとか、なんとか。

(まあ、それがわかったところで僕にとってはどうでもいいんだけど)

 ここからどうやって巻き返すか。リーデンは両目を細めて、四肢の中でまだ動かせる部分を探った。


_______


 当のヤン・ナラッサナが混じり物の少年と邂逅する瞬間を、オルトファキテ王子は人知れず眺めていた。

 ナラッサナは、すぐに少年の素性に気付いた。

「イェルバ・ジェルーチ! ナヴィに付いたのですね」

 彼女は驚きを押し殺して声を低くする。

「おうよ、面白そーだったからな! ヤンのおばさん、ひっさしぶりー。今からでもオイラたちの仲間になる?」

 シビアな雰囲気のナラッサナに相反して、イェルバ・ジェルーチの応答は馬鹿みたいに明るかった。

「転落死したとの話でしたけど、密かにわたくしは生き長らえたと思っていましたよ。ジェルーゾの方も近くに居るのかしら」

 質問を完全に無視して、ナラッサナが話を進める。

「ルゾ? いるいる。なに、オイラたち死んだことになってんのー? やったね、うまくごまかせたって感じ」

「浅はかな真似を! お前たちの母は、我が子を喪った悲しみで床に臥せ、朦朧と弱りながら亡くなったと言うのに」

 苛立たしげなジェスチャーを交えて、ナラッサナがなじる。それをまるで気に留めないようにジェルーチはあっけらかんと答えた。

「ふーん。そんくらいでダメになるなんて、弱いんだなぁ」

「恩知らずな子たちね。それだけ愛されていたのですよ」

「なーにが恩知らずだ。親ってヤツは恩着せがましーんだよ。別に産んでくれなんて頼んでねーし。こんな、男か女かもわかんないような半端モンにさー」

 静聴する王子の脳裏を、半陰陽インターセックスという言葉が過ぎった。察するに、元々里では肩身の狭いを想いをしていた子供が、里を離反した大人にホイホイとついていったのか。あまり想像に難くない話だった。

「戯言もほどほどになさい。まあいいわ、ここで言い合っても時間の無駄。お前はそこをどいてくれれば良いのですよ」

 ナラッサナを始め、覆面の集団が武器を構えて少年ににじり寄った。

「やぁだね。オイラがどいたら、女たち逃がす気なんだろ。ダメダメ、苦労して集めたんだから」

 ジェルーチは頭の後ろで腕を組んで、ゆっくり頭を振った。

「どうせ、逃がしたって無駄じゃん?」

 ――無駄?

 少年の言動が引っかかる。王子は集団からそっと離れ、誰にも気付かれずに牢を調べる道を探した。

 ――何が無駄なのか、確かめねばなるまい。

 ジェルーチやナラッサナの死角に滑り込み、陰に身を引っ込める。陰伝いに進んで、忍び足で牢に近付いた。カビに覆われた鉄格子に触れないように注意して、中を覗き込む。

 牢の中の女たちの様子が異常なのは、近付きながらもわかった。恐怖に心を失って泣き崩れる者、何故か格子に頭をぶつける者、地面にのた打ち回る者。

 幾人かは、腹が歪に膨らんでいる。それだけでなく、焦点の合わない目で口や耳から泡を吹く者も居た。漂う異臭に関しては言及するまでも無かった。こころなしか、空気が重い気もする。

(捕えた女を孕ませるという話だったが、たとえ「混じり物」に生殖能力があったとしても、受け取る側が無事で済むとは限らなかったな)

 さしづめ研究室の方に居るのは産み落とされた異形の成れの果てか。ここまでやっておいて、ただの色好きが子だくさんを目指しているというわけでは無いだろう。

(ゆくゆくは軍事目的で兵力を量産するか)

 そう予測したのは、勘からだった。しかしこれが正解なのだろうなと、彼には自信があった。

「無駄なものですか! お前を退けて、娘たちを返していただきます!」

 ナラッサナの叫びを合図に、連中が一斉に攻撃を仕掛けた。

「別にオイラを倒せても、無駄だけど? だってさー、成功例はオイラとルゾだけだけど、失敗作ならいーっぱい、他にも居るんだぜ? あ、さらったんじゃなくて、自分の意思でついてきた奴らだかんな!」

 つまりは女を攫い、男を誘って、勢力を広げてきたとでも言うのか。王子は顎に手を当てて笑った。

(面白い。広がりようのない勢力とはいえ、試みは面白かった)

 成功例が極めて少ないのが、ヤン・ナヴィという男の運の尽きだ。もしも母親の横槍が入らず、もう少し研究が発展できたのなら、或いは奴は自身の目的を果たせたのかもしれない。

 あくまで結果論である。突っ走った道の先に待ち受ける報酬よりも、道中支払わねばならない代償の方が圧倒的に重いのなら、その道は選ぶべきではない――と、オルトファキテ・キューナ・サスティワは考える。

 何やら形態変化を始めたジェルーチの方に目線をやって数秒、ふいに硬い感触が内太ももに触れた。眼球を巡らせてみると、鉄格子の向こうの気配が一つ、やたらと近くに移動しているのがぼんやりと見える。

 ――これは驚いた。他者に意識を向けられる者が残っていたとは――。

「悪いね。今は大きな声が出せないから、こうするしかあんたの気が引けなかったのさ」

 女の掠れた声。実際、何日も水を口にしていない可能性は大いにあろう。

 己の大腿だいたい動脈近くに押し当てられた鋭利な石塊を、王子は冷ややかに見下ろした。まともに立ち上がれないからこそ、首ではなくこの動脈に狙いを定めたのだとしたら、大した女だ。下手に刺されてしまえば面倒極まりない。

「用向きは?」

「この状況でなんでそんなに落ち着いてんのさ。腹立つね、その澄ました顔」

 女の無駄話に対して、王子は舌打ちした。

「お前は私の時間を何だと思っている。今すぐ話す気が無いのなら、死ね」

 格子の間に右の肘を絶妙に滑り込ませて、女の鼻を殴った。女は「ひぎゃん!」と叫んで床に崩れる。弾みで石塊がズボンと太ももの皮膚を切ったが、浅い。

「こ、こっから出せ――――じゃない、出してくれ! 頼むよ!」

「断る。その程度のアピールでは、おねだりとも言えんな」

 王子は何の感慨もなく、踵を返した。背後から悲痛な声が追って来た。

「あ、あんた、この有りさまを見といてよくも背が向けられるね! ひとでなし!」

「同郷の者たちが大勢助けに来ているではないか。どこの誰ともわからぬ私に頼むまでもないぞ」

 振り返らずに答える。

「それはありがたいけど、不安なんだよ! あいつらきっと双子にやられる……ジェルーチがこっちに気付かない内に、なあ、あたいだけでも逃がしてくれよ!」

「何を言っている。数ある捕虜の中でもお前の自我が奪われていないのは、奪う必要が無かったからだ。つまりお前も、多少なりとも奴らの目的に賛同しているのだろう? 何故敢えて牢に収まっているのかは不明だが」

「……! わかった、全部吐くよ。牢に入ってるのは、あのクソ双子とのかくれんぼに負けたからだ。別に深い意味はないさ」

「それも嘘だな。くだらん」

 牢の中を調べ終えた今、この場に残る理由が失われている。女たちはおそらく、外の世界に逃しただけでは正常な状態に戻れない。こればかりは自分ではどうしようもないのだと、王子は既に結論付けていた。ならばジェルーチとナラッサナの決戦に参加した方が有意義というもの。

「ま、待ってくれ! 言うよ! 今度こそ本当のことを言うから、行かないでくれ!」

 聞く耳を持った、という意思表示は、足を止めるだけで表した。そうして女の次の言葉を待つ。

「…………牢に入ってるのは、身ごもったからだ。妊娠が進めば進むほど、みんな正気を失って暴れ出すからさ、拘束しなきゃなんないんだ」

「ほう」

「だけど、あたいは狂ったりしない! 人としての意識を保ったまま産んでみせる! だからこっから出て、ヤンに――」

「奴に泣き付いて、私の首を撥ねさせるか?」

 少しだけ振り返って、問いかけた。

「ち、違う。別にそんなことしない。アイツだって、誰彼構わず殺そうとしないよ。邪魔するやつと、嫌いなやつだけ。むしろ味方になるってんなら……」

「邪魔、か」

 王子は鉄格子の前まで戻ってしゃがみ込み、女と目線を合わせた。

「言え。奴は何の為にこんな『研究』をしている?」

 女は視線を彷徨わせる。ここに至っても時間を浪費するだけか、と王子は腰を浮かせかけた。慌てた女は葛藤に表情を歪ませたまま、伸びすぎた前髪をわしゃわしゃと撫ぜた。

「……それは、王さまが、迷ってるからだよ。平和主義の保守派のナラッサナさまに付き合ってられないって、ヤンはそれで、変革を望んで……もっと力を付けようって……」

「要領を得ないな。国王は何を迷っている」

 その問いを口にした途端、オルトファキテ王子は自ら答えがわかった気がした。それでも女の返答を待つ。

「よくわかんないけど、都市国家の連盟がどうとかって。連盟なんてタテマエだ、カルロンギィはまた他の国の下に敷かれちゃっていいのかって、ヤンは怒ったんだ」

「連盟……くくくっ、そうか。そうだったか」

 掌で覆い隠そうにも、笑い声が漏れた。

 かつて本当の「解放主」によって滅ぼされた国があった――そこに長年虐げられていたカルロンギィの民は一部、最近の都市国家の動きに怯えたというのか。連盟に加入したらそれが平和や発展ではなく、暗黒の未来に繋がると思ったのか。抗うには、現在のカルロンギィでは歯が立たない、そう主張したのがヤン・ナヴィ――。

(持続性の無い、一度に燃え尽きるのが前提の策も味がある)

 着想は悪くない。複数の国を敵に回して生き残るには、飛び抜けたナニカが必要となろう。が、やはり浅慮である。自国民を犠牲にして作り上げる戦力など、いずれ狩り尽くして終わりだ。

「なんだよ、キモチ悪い笑い方しやがって」

 女は気後れしたように言った。

「今の情報の礼に、逃がしも殺しもしない。ついでに、巻き込んだ詫びだ、脚に傷を付けられたことは大目に見てやろう」

 王子はサッと立ち上がった。鼻と口を覆う布を整え、フードを被りなおす。もうこの女との会話は終わりだ。

「巻き込んだって何だ? あんた、ずっと偉そうだな。こんだけ話したんだ、いいかげん出してくれよ!」

 ――ガン! と、女は鉄格子に肩からぶつかった。 伸ばされた手が、王子のマントの裾をかする。

「まあ落ち着け。何もせずとも、お前たちを救いたがる物好きが現れる。今はそこに居た方が安全だ。それとも怪獣のとばっちりを受けたいのか」

 彼はジェルーチの居るはずの方向を指差した。その先に視線をやった女が、ぐっと唾を呑み込むのが聴こえる。混じり物の少年はとうに変貌を遂げ、成人男性の身長を二回り超えた大きな鳥の姿となっていた。

 ヘビクイワシと呼ばれる足の長い鳥が大陸に存在する。名の通り、蛇を狩って食すことで知られている肉食獣だ。

 さてその姿を模した化け物はどんな物かと言うと、翼の飛行能力や強力な蹴りを繰り出す長い脚は、同じと言っていいようだ。そして全身から熱気を発し、周囲の人間を乱雑に蹴散らしている様は、獰猛そのものだった。

 王子はヤン・ナラッサナの居場所をめざとく見つけて駆け寄った。巨大な鳥と必死に交戦している群れの一番後ろで、毒の吹き矢を用意している最中だった。

「カルロンギィ国王の姪、ヤン・ナラッサナに問う」

 そのように切り出した王子は、他の連中と同じ砂色のマントとフード、そして顔の下半分を覆う布を身に着けている。ナラッサナは、緋色の双眸に驚きを走らせた。

「里ぐるみで人間と魔物の『混じり物』の研究を推進していたのではないのだな」

「違います。断じてそのようなことはしておりません。何から何まで、あの子の独断ですわ」

 面に浮かんだ驚きは一瞬で過ぎ去った。すっと目を細めて、ナラッサナは淡々と話す。喋りながらも手を止めない。吹き矢を筒に装填して、構えに入っている。

「そうか。その言葉を信じて加勢するぞ」

 王子もまた、自身のクロスボゥを構えた。

「加勢には感謝しますけれど、あなたは何者なのですか。我々の中に紛れ込んでいましたね。発音からして、南のかたでしょうか」

「私か。私は、お前たちの王との謁見を望む者だ」

「伯母上と……?」

「お前たちの王は近年引き篭もっていて、簡単には交渉ができないからな。文を送れば音沙汰なく、使者は追い払われた。直接出向くしかなかった」

「陛下と交渉ができる立場の者となると――よもや、やんごとなきご身分の方がこのような場に来られたとは言うますまい」

 胡乱げな視線がこちらに向けられた。ナラッサナだけでなく近くで話を耳に入れた人間も何人か、疑わしげに見つめてくる。王子はそれが可笑しくなり、声に出して笑ってしまった。

「そんなわけがなかろう。私は通りすがりの暇人だ。北東地方の国際連盟立ち上げに共感しているだけの、な」

「謁見の話は、この局面を無事に切り抜けることができれば検討します。そこから先は何もお約束できませんけれど」

「十分だ」

 やっと当初の目的が果たせそうな予感がして、王子は満足した。

(最終的には都市国が連邦となって統治されればいいと思っているが、その段階に到達できるとすればまだまだ先だ)

 ふと、飛び散る白黒の羽が偶然、頬をかすった。

「つっ」

 羽は焼けるように熱かった。その一瞬で、彼は悟った。

(接近は禁物だな)

 黒く縁取られた美しい翼を広げ、ヘビクイワシは鋭い嘴を開いて威嚇する。

「お前たちが使っているのは何の毒だ」

「全身を痺れさせて動きを奪う即効性のものです。一定量が体内を侵せば瞬きもできなくなるはずなんですが……人間とは勝手が違いますね」

 ナラッサナの傍に居た若い男が答えた。

「もっとくらわせれば効くのではないか?」

「我々もそう考えて、さっきから撃っています。ですが、なにぶん動きが速く、翼が……」

「翼の有利を奪うには、より狭い通路に追い込むのがよかろう。私も手を貸す。急がねば、竜の双子が合流するかもしれん」

 言い終わる前にも王子はクロスボゥから矢を三度放った。狙いは、ヘビクイワシの頭上だ。礫を落として視界を奪い、隙を作った。

「脚の間合いに注意しろ!」

 手持ちの矢を全て使い切りそうな勢いで、天井と頭部を交互に撃ち狙った。力押しで後退させ、追い込むのだ。

「皆の者、彼に続けて撃ちなさい!」

「はいっ!」

「ヘビクイワシと構造が同じなら脚を攻撃しても無駄だ! 胴体か頭を狙え!」

 なんでも、ヘビクイワシの脚は分厚い鱗で覆われているという。おそらくは地上の生物に噛みつかれないように、蛇の毒にやられないように守る為だろう。

 見たところ剣の刃も通りそうにないほど厚い。

「だからと言って、私は噛みつくのを諦めたりしないぞ」

 ついに毒の効き目が出たのか、ジェルーチは後退りながら足をもつれさせた。その隙を見逃すオルトファキテ王子ではない。

 剣を鞘から抜き、投げた。

 それが奴の胸辺りを刺したのと同時に、背後から咆哮が響く。心の蔵を握り潰されるような重苦しい音だ。

(来たか)

 兄弟をやられて怒り狂った竜が、特攻してきた。


_______


 ひどい臭いを嗅いだことはこれまでにもあったが、この閉鎖空間に篭もった悪臭は過去に嗅いだどの臭いとも比べるべくもなくひどい。ゲズゥは持っていたハンカチで鼻と口を覆った。

 研究室は無人だ。誰も居ないのに、生物の反応――気配、はそこら中にあった。意を決して、たまたま点いていた一本の蝋燭の方へと手探りで歩いた。目標は長方形の台の上にあった。

 蝋燭のすぐ近くには籠が置かれている。籠の中身に、直径十インチ(25.4cm)の丸まった塊が収まっているのが薄っすらと見えた。

 赤ん坊のような声をあげながら、塊の表面がうぞうぞと蠢いた。そのグロテスクさ、言葉では言い表せない。ナニカと、目が合った、気がした。

 いくらゲズゥでも流石に胃が不穏だ。

 彼の与り知るところではないが、この空間にあったのは、まさにオルトファキテ王子の予想に沿った物ばかりであった。

 一刻も早くこの場を去ろう。そう思った時、視界の端をひゅっと何かが横切った。

 気配はもう一度しゅっと音を立てて、遠ざかった。

 ――その方向は!

 嫌な予感がする。ゲズゥは瞬時に動き出した。

 気配を追って、来た道を辿る。そうしている間に自分やオルトが降りるのに使った天然の窓まで来ていた。

 魔物とも人間とも判じがたい醜い存在が、ゲズゥを待ち受けていたかのように窓の真下で鎮座している。次いで、ニタリと笑ったようだった。

 追いつかせる気が無いのは明白だ。怪物は穴だらけの羽をはばたかせて、上昇した。

 裏口まで戻らねば――。

 ゲズゥでは飛んで窓から外に出るのは不可能だ。遠回りになるが、致し方ない。

 一人にするべきではなかった。自分が巣窟の中に入ったところで、研究室の汚泥を見て回っただけで、何も得ていない。勿論それはやってみる以前からわかるものではないが。

 悔やんでも後の祭りである。

 ただ無心に走った。

 出口に近付くにつれて人の気配が増したが、気にせずに走り続けた。

 途中、質量の多い物が頭上を通り過ぎたような風圧をも感じたが、それも気にせずに走った。

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