40.
三週間に一度の買出しに都へ行ってきた帰り、彼女は森の中に異物をみつけた。
冬立木と溶けかけの雪に縁取られた景色の中心に、翳りが浮かんでいる。
見知らぬ男の後姿だ。たとえ知り合いだったとしても、男は一目に警戒を誘うような外見をしていた。
稀に見る高身長で、遠目には細長い体格に見えなくも無いが、痩せているのとも違う。力強い佇まいからは隙が一切感じられなかった。背負っている大剣が更に男の危険さを主張している。
見た目が異質であると同時にその場に染み込むような静かな存在感があった。感心しつつも、何故だかぞっとした。
(こんな所で……凍った沼地の前で何をしてるってのよ)
怪しい、怪しすぎる。
普段であれば彼女はこの沼の脇を通って帰路に着くのが常だった。別の道もあるが、ここの風景が好きなので通るようにしている。
予期せぬ不審人物を見つけた今、関わるのを避けて、気付かれないように去ることだってできた。
それをしないのは、縄張り意識に火がついたからだ。自分の住処にこれほど近い位置に知らない人が現れたのは見過ごせない。
聖地と言えど冬の参拝者は滅多に来ないし、来たとしても皆わかりやすい外観をしている。強いて言うなればこの人となりは魔物狩り師なのかもしれない、が。
それでも警戒をして損は無い。これだけ落ち着いた存在感であれば、突然襲ってきたとしたら、子供たちはすぐには反応できないだろう。
彼女はそっと荷物を雪の中に下ろし、音を立てずに移動した。距離を保ったまま、横から観察しようという企みである。何せ上着のフードに隠れて相手の顔や髪がよく見えない。
獲物を付け狙うハンターが如く慎重さで一歩ずつ踏み出した。
(濃い肌色は南東の人かしら)
木々の間をゆっくり進んで観察した。フードの下から見える髪も漆黒だ。
(……何よあれ?)
視線を下へと滑らせると、つい歩みを止めて二度見をしてしまう物を見つけた。
男は左手に花輪を持っていた。
今度はそれの色鮮やかさが異質に見えた。全身真っ黒の男の手にそっと握られる七色の花輪が、白と茶を基調にした冬景色の中で浮いている。
(真冬に花なんて、てんでおかしいわね)
彼女は睨むように目を細める。
花輪に気を取られていた所為で、次に起きた出来事に不意打ちをくらった。
――パキッ。
薄い板が割れる音。つまりは氷が割れる音だとすぐにわかった。パキパキパキリ、とそれは小気味よく続き、やがて大きな水音がした。
その時初めて、男の他にもう一人誰かが居たことを知る。
後ろからだとちょうど死角になっていて見えなかったのだ。小柄な人物は氷の割れ目からずぶりと沼の中へと落ちた。水飛沫が四方に跳ねる。
「ちょっと! 大丈夫!?」
急変した事態に伴い、彼女は余計な雑念を忘れて走り出した。
(女の子が溺れてる!)
その位置なら浅いはずだが、今は冬だ。早く助け出さなければどうなるか知れない。
黒尽くめの男は慌てふためく様子が一切なく、右手で大地に短剣を突き刺し、左手で少女を引き上げた。腕が長いからこそ楽々とできたことだろう。自分が落ちない為の短剣の使い方といい、まるで全ての展開を予想していたかのような対応だった。
ひとまず彼女は安堵の短いため息をつき、次には怒鳴った。
「何で落ちるまで放置したのよ、無責任ね!」
子供を氷の上で遊ばせたお前の監督不届きだ――そう責め立てたい気持ちと、きっと怖い思いをしてしまった女の子への心配を抱きながら、彼女はずかずか二人に歩み寄った。
近付くにつれて、革と鉄の臭いが鼻を突いた。もっと近付けば汗の臭いがするかもしれない。
嫌悪感がこみ上げる。やはり「男」は嫌いだ。奴にあともう一言物申してから、女の子に助けの手を差し伸べよう、そう思った時。
ひゅっ、と風を切る音――
背筋がぞわっとしたのと後ろに飛び退いたのは同じ一秒の内に行われた。鉄の煌きが視界を右から左にと走るのを、遅れて視認する。
男が振り向きざまに短剣を薙いだのだ。危うく斬りつけられるところだった。
こちらを見据える右目は底なし穴のように黒かった。
――なんて研ぎ澄まされた敵意――。
不覚にも、彼女の足は竦んだ。
視線を固定したまま、男は己に寄りかかって咳をしている少女をそっと離して背後に押しやった。
誰何のやり取りも無しに奴は無言で呼吸をするだけだ。正面から眺めると、意外に若いことがわかる。
硬直がとけ、第一に抱いた警戒心を思い出し、彼女は身構えた。
この場合、自分と同等以上の警戒心を相手が見せるのは当然だった。それゆえ責めるのは場違いだとわかっている。わかってはいても、掠って裂けた衣服を見下ろすと怒りが募った。
(い、きなり何するのよ……!)
怒鳴り散らしたい衝動を抑え込んだ。いくら心が望んでいようと、その行為は体力を消耗するだけで得策ではない。息を整え、もう一度状況を見直した。
(それにしても、どういう関係かしら。兄妹にしては似てないわね)
少女の髪は柔らかな栗色だった。肌も白く滑らかそうで、一緒に居る男とは何一つ似ていない。
どう声をかけようか、と迷っていた時間はそう長くなかった――
ふと気が付くと視界から黒い男が消えていた。
刹那の悪寒。
視覚で脅威を確かめるより先に、左斜めに仰け反った。今度は短剣は掠るまでもなく通り過ぎた。
(受けられるよりも避けられる方が体勢を立て直すのに時間がかかる!)
その隙を使って攻勢に出よう――左の膝を落として重心を安定させ、右脚で中段蹴りを繰り出した。
思ったほどの隙は開かなかった。渾身の一撃はいなされる結果となった。
男は左足を踏み出して体の向きを九十度時計回りに変えたと同時に、左肘を張って防御をしたのである。
(こう見えても長靴の爪先に鉄仕込んでるんですけど!?)
視界の左側に、陽光を反射した短剣が目に入った。
すぐさま奴は空いた手で突く動きに転じたのだ。
剣の切っ先を、彼女は素早いサイドステップで避けた。
(痛がれとは言わないけど、少しくらい動きが鈍ってもいいのに……。これ以上後手に回ってたまりますかっ)
伸ばされたままの腕を挟むようにして封じ、折りにかかる――
途端、顔前に拳が迫った。咄嗟に腕を離して身を屈めた。
「なっ――あったまきた……! 乙女の顔殴るのにちょっとくらいは、躊躇、してよ!?」
彼女は持ち前の脚力で斜め前に跳び上がった。その勢いで男の腹に頭突きを入れようとするも、空振りした。
男が身を引いて距離を取ったのだ。
「逃がさない!」
瞬発力で競り負けるのは初めてだ。何かが引っかかる。が、そんなことは今はどうでもいい。とにかく攻め込むのだ――
風切り音と共に、何かが飛んできた。彼女は反射的にそれを蹴り落とした。草に刺さった凶器の輪を見て、新手の登場を知った。戦輪が飛んできた方向をキッと睨む。
そして思わず呆気に取られた。大嫌いな「男」がもう一人現れたのだ。それは間違いないのに、黒い男とは別な異様さを放つ容姿だった。
女性顔負けの繊細な美貌。彼女が苦手とする種の男らしさとは最もかけ離れていながらも、中性的とも呼べない、明瞭な凛々しさ。挙句、新手の男からは爽やかな森の香りがした。
魅了と嫌悪の狭間で眩暈がする。一体何なのだ、今日は。
「…………二人とも、やめ……ください。その方は、きっと、しんせつで、ちかづ――」
その時、小さな少女が咳の合間に言葉を紡ぎ出した。清らかで可愛らしい声だ。
しかしその一声で男たちの動きがぴたりと止まったのと、歳に似合わず発音や言葉遣いが丁寧なのが、どうにも気になった。
沈黙が訪れ、二人の男は顔を見合わせる。
先に銀髪の美青年の方が動いた。肩を竦め、指の間に挟んでいた輪状の武具を帯に収めてから、口を開く。
「まあ、聖女さんがそう言うなら。引き下がってもいいよ」
「聖女……って、まさかあなたたち巡礼者なの?」
「そういうことになるねぇ」
美青年の発する涼やかな言葉は、耳に残るような流暢な発音で綴られていた。それなのにどこか人を馬鹿にした印象を受けるのは何故なのか。
銀髪男が答えている間に、黒尽くめの男は少女を横抱きにして連れてきた。いつの間にか少女の濡れた外套を脱がせて代わりに自身の黒いコートで包んでいる。
外套なしの姿になった男は、土色の長袖の上に袖なし革ベスト一枚といった薄着なのに、何故か平然としている。
「お騒がせしてすみません。私は聖女ミスリア・ノイラート、この二人は私の旅の護衛です」
少女は頭をぺこりと下げた。睫毛が寒そうに震えている。
(野郎どもはともかく、この小さな自称聖女はどこからどう見ても無害そうね)
彼女もぺこりと頭を下げることにした。身構えていた体勢を休めて、応じた。
「あたしは、ティナ・ウェストラゾ。こっちこそ、いきなり近付いてごめんね。怖がらせたなら尚更ごめん」
「大丈夫ですよ、気にしないでください」
「ならいいわ。ありがとう」
「ティナさんこそ怪我されませんでしたか」
「平気よ。服が少し切れただけ、こんなの大したことないわ」
「それを聞いて安心しました」
男どもに対する警戒をまだ完全に解かないまま、ティナは笑ってみせた。聖女ミスリアも微笑みを返す。
「ふうん。それだけ?」
せっかく和んできた場を、銀髪の男が妙な質問を挟んで邪魔をした。見れば奴は顎に手を添えて、良く整った顔を笑みの形にしていた。気に障る笑い方だ。
「それだけって、どういう意味よ」
つい突っかかるような応答を返した。
「んー、名前のこと。それで全部なのかなって。ティナちゃんって、戦闘種族だったりしない?」
「…………」呼び方の馴れ馴れしさと、その単語に対してもムッと来るも――「知らないわ、そんな種族。初耳よ」と不快感を顔に出さぬように努めた。
「本当にー?」
「リーデンさん……失礼が過ぎないようお願いします……」
ミスリアが苦笑い交じりに護衛の詮索好きに制止をかけた。
「あはは、それもそうかー。僕はリーデン・ユラス・クレインカティ、よろしくね」
「!」
あまりに軽々しく名乗ったので、耳を疑った。冗談なのか本気なのか判断がつかない。
(まさか流行の偽物……!?)
業界によっては特定の種族であるだけでかなりの増給が望める。それだけに帝都では金目当てで名を騙る連中は絶えない。
(この娘も詐欺に遭ってるんじゃ――)
しかし、先程の戦いが脳裏にちらついて、ふいに心当たりができた。ティナは未だに一言も発していない男の方を見上げた。
「あんたも『そう』なの?」
訊ねたら、黒髪の男はどこへともなく視線を向けたまま答えない。
(無視されてる?)
問い方が不明瞭だったからだろうか。言い直そうかと逡巡している内に、またもやもう一人の男が口を出した。
「質問に答えて欲しければ、そっちも手の内を明かせ――みたいなこと思ってるみたいよ」
「は?」
「この人が喋る気になるまで待ってたら日が暮れるから、僕が通訳してあげる」
「はあ……何よそれ」
このままでは話が進まないし、手の内を明かすつもりも無かった。ティナは男どもとの会話を中断してミスリアの方に声をかけた。
「えーと、ミスリアちゃん、って呼んでいいかしら」
「どうぞ」
「着替えが必要よね。良かったら貸すわ。家、近いのよ」
「それは大変助かりますけど……」
少女は連れの青年たちの顔を順に見上げた。
「甘えていいんじゃない? また熱出したら困るでしょ」
遠慮がちなミスリアに、護衛のリーデンが肯定的な意見を出す。またと言うからには、最近そんなことがあったのだろう。
「そう……ですね。ではお願いして良いでしょうか、ティナさん」
「ええ勿論。詳しい話は着いてからにしましょう」
そのように決定したからには、ティナは軽やかな足取りで荷物を回収しに行った。一度振り返り、彼らがちゃんとついて来ているのを確認すると、それからは一気に足を速めた。
_______
ティナ・ウェストラゾと名乗った女性の家は個人で経営している孤児院だった。現在住んでいる子供の数は十人、と小規模である。
レンガ造りの丈夫そうな建物は横幅の広い二階建てになっている。家の側面は花園に、裏庭は菜園にぐるっと囲まれ、近くには果樹らしき木が何本かそびえ立っていた。都に頻繁に入らずともある程度は自給自足ができる備えだ。
ティナの部屋で着替えた後、ミスリアは奥の居間に通された。そこは意外に落ち着いた雰囲気の内装になっていた。長方形のネイビーブルーのカーペット――その上には香ばしい木製の家具、柔らかいクッションが並べられた長椅子がある。
まだガチガチと震える手をこすり合わせ、暖炉に歩み寄った。
「この
暖炉に薪をくべていた女性が笑顔で振り返る。彼女はそう言って椅子に腰をかけた。どうぞ座って、と掌で向かいの長椅子を示す。
「素敵なお部屋ですね」
ミスリアは素直に感嘆した。長椅子に腰をかけてからも、ついきょろきょろするのを止められない。その間にリーデンが音を立てずに隣に座り、ゲズゥは入り口付近の壁にもたれかかった。
(この家……)
十代後半ほどの人間が一人で管理するには、あまりに立派な住居である。自ら買ったり建てたりしたとも考えにくい。
(遺産として受け継いだのかしら)
その旨についてミスリアが訊ねると、向かいのティナは声に出して笑った。笑ってから、「いけない」と口元に手を当てた。子供たちはちょうど全員が遊び疲れて寝ている時間だ。これは毎日のパターンで、夕飯前に起こして準備を手伝わせればそれでいいらしい。
「あたしの所有物じゃないわ。都の援助で建てたの。この人たちみんなそうだけど、主な寄贈者はそこの夫婦よ」
暖炉を囲う壁には、額に入った肖像画が何枚か飾られている。最初は家主の血縁者や先祖なのかと思ったけれども、なるほど、よく観ると絵画に描かれた人物は誰一人ティナとは似ていなかった。
絵の人々は皆が明るい肌色と暗い髪色の持ち主であるのに対し、ティナの髪は透き通るような金色だ。肌と言えば、夏の内によく焼けたのが今でもわかるような小麦色である。
主な寄贈者という、暖炉の真上の絵の二人をもっとよく眺めてみた。
まずは微笑をたたえた美しい女性。真珠のような肌、身体の曲線を強調した豪奢なドレス。複雑に編み込まれてまとめられた髪はまろやかな珈琲を思わせる濃い焦げ茶色だ。優雅な姿勢で椅子に腰をかけ、膝上にそっと両手を揃えている女性の背後には、同じく豪華な衣装に身を包んだ壮年の男性がぴしっと背筋を真っ直ぐにして立っている。
「早い話が、帝都の外に孤児を放り出す場所が欲しかったのね」
「え」
肖像画観賞を止めて、ミスリアはティナの青緑の双眸と再び目を合わせた。頬骨の高い、どこか美少年っぽいとも呼べる凛々しさを備えた顔立ちの女性は、一瞬だけ嘲り笑ったように見えた。
「なんでもない。それより、ミスリアちゃんの話を聞かせてよ」
そう言って彼女は長い脚を組み替えた。淡い緑色のチュニックの下に、スカートではなく麻ズボンを履いているのが印象的である。
仕草や佇まいには健康的な勢いがありながら、気品も漂っていて不思議だ。すらりとした肢体といい、ゲズゥたちと張り合える運動神経といい、「かっこいい女性」とでも称すればいいのだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら、ミスリアは自身の旅の事情を語り出した。
「――――それで沼底にただならぬ気配を感じ、凍った表面に足を踏み出しました。決して氷の上で遊びたかった訳ではありません」
「……そう」
話し終えたら、何故かティナからは納得していないような返事が返った。
表情を窺おうと思ってミスリアは振り返った。
始めは向かいに座っていたのに後ろに回られたのは、話している間にティナがタオルを取って「髪、乾かしてあげる」と言い出したからである。断ったものの、繰り返し勧めるので結局甘えることにした。彼女の手は温かく、何度か眠ってしまいそうになったほどに心地良かった。わしゃわしゃと揉むのではなく水気を吸うように優しく髪を叩いてくれたのが特に好感を持てた。
見上げると、ティナの表情は半信半疑だった。
ちょうど乾かし終えたのか彼女はタオルを持った両手を引いた。その瞬間、紅茶と箪笥みたいな家庭的な香りが鼻腔をくすぐった気がした。
「聖地巡礼って、ただ近付いて祈りを捧げるものとばかり思ってたわ」
「私も未熟者なのでうまく説明できませんけど……沼底を視なければ先に進めない、その一点に関しては確信が持てます」
沼に近付いた時に感じた、あの五感では捉えられない引力。あれはこれまでに追って来た大いなる存在の残滓に相違なかった。潜在的な部分で訴えかけているのだ――底に何かがある、と。
「本当に聖女だったのね」
ティナはバツが悪そうな顔になり、垂れてしまった金髪の一房を耳にかけ直した。厚みがありながらふわっとした短髪はうなじに触れるか触れないかの長さである。
「疑ってたのですか?」
驚き、ミスリアは問い返した。
「ごめんね。聖人や聖女と直に関わったことなんて無いから、フツーがどういう人間かわからないのよ。それに失礼だけど、ミスリアちゃんほど幼くて、なれるものだとは思えなくて」
「そう思ってしまうのは仕方ありません。聖女になっても巡礼を始める平均年齢は十八歳くらいですし」
「歳も問題だけど。身体が小さいと、出会い頭の他人なんかには第一印象でナメられそうね。大変じゃない?」
「な、なめられる……ですか。そんなことは……無い、とも言い切れないような……」
「例の奇跡の力を見せ付ければ大抵の人は本能的に従っちゃうのかしら」
「いえいえ、そんなことも無いと思いますよ」
苦笑い交じりに、頭をぶんぶん振って否定した。
それまで黙っていた隣の青年が己の意見を提供した。
「聖女さんはコンパクトな感じが最高に可愛いんじゃない」
唐突に立ち上がり、絶世の美青年はくるっと一回転してカーペットに片膝をついた。何事かと瞬いている隙に右手をさらわれ、指先に口付けを落とされた。ドキッと心臓の音が跳ね上がる。
「な、なにを……おたわむれを……」
混乱のあまりにおかしな言葉を口走ってしまう。目の前の風景がひとりでに回り出した気がした。それは勿論、気のせいである。
(可愛いだなんて、そんな色っぽく言わないでー!)
涙目でリーデンを睨むも、彼は実に楽しげににこにこしているだけで手を放してくれない。上目遣いがまた、心臓によろしくない。
「いちいちキザッたらしい奴ね」
再び正面に腰掛けたティナからは冷ややかな感想が出た。
「うんそうだねー、ありがとう」
「褒めたつもりは無いわ」
「君がどういうつもりだったのかなんてどうでもいいよー」
ティナの方を振り返ることなくリーデンは応答した。彼の肩越しに女性の怒りの表情を見つけて、ミスリアは一瞬たじろいだ。
「まあ、全く小さくない護衛が二人も付いてると、ナメられる心配も無いでしょうね。でもミスリアちゃん? その野郎どもには気を付けた方がいいわ。なんだか、すごく、うさんくさい。特に無駄に顔がキレイな方」
いつの間にか怒りの表情から冷めた笑顔に移り変わっている。
「大体、こんな奴らどこで見つけたの――」
「心配して下さってありがとうございます。大丈夫ですよ」
それ以上詮索される前に急いで遮った。
ついでに間の良いことに、背後から何やら物音と子供のはしゃぐ声がした。
「げ、あいつらもう起き出してる。夕飯作らなきゃ」
壁にかけられた時計に目をやり、ティナはすくっと席を立ち上がった。
「長居してしまってすみません」
つられてミスリアも立ち上がる。やっと手を放してくれたリーデンは、長椅子を離れてゲズゥの傍に行った。共通語ではない彼らの言語で何か話しているのが聴こえる。緊張感に乏しい、のんびりとした会話である。
「気にしないで。本当は食べて行かないかって誘いたいんだけど……買い出し分はセロリの本数まで細かく計算してるの。予期せぬお客さんをもてなす余裕が無いわ」
「お構いなくー。僕らは宿泊先に戻れば多分もうご飯できてるしね」
と、リーデンが勝手に答えた。
「あんたに食べさせる分なんて
舌打ちの後、ティナは鬱陶しげに言い放った。女性の舌打ちには男性のそれとは違った迫力がある。
(どうしてかリーデンさんには突っかかるなあ……)
言動や行動が難ありなのは認めるけれど、それにしても反応しすぎだと思う。無視するなり流すなりすれば、彼もそこまでからかおうとはしないはずなのに。案の定、リーデンはもっと煽りたいという気持ちがひしひしと伝わる笑みを作った。それ以上の応酬を未然に防ごうと、ミスリアは声を張り上げた。
「ティナさん! 服ありがとうございました。後日またキチンとお礼をさせてください」
「あら、お礼なんていいのに。そうね、友達になってくれれば、それで十分よ」
「私で良ければよろしくお願いします」
「ありがとう。嬉しい」
ティナはふいに顔を綻ばせた。表情の変化が忙しなくて、さっきまで剣呑な顔をしていただけに、笑顔には見る者の目を奪う威力がある。切れ長の目は僅かに細められ、眉は寄せられる前の元の滑らかな形に戻った。
美女であったり美少年であったり、境目を引くのがそもそも無意味なのかもしれない。
慌ててミスリアは「私の方こそ」みたいな言葉を並べ立てた。
(ぽろっとそういうこと言えるなんて、いいな)
友達になって――そんな台詞を自然と口にできるのが羨ましい。自分がいかに気の小さい人間であるのかを思い知らされる。人と繋がりに行くのは、難しい。
カイルやレティカなど、思えばこれまでにできた友人と呼べる友人は、いずれも相手の方から歩み寄ってきてくれたものだ。
「ああ、そうそう、沼底を注視したかったら、春まで待った方がいいと思うわよ。冬の間もずっと水が濁ってて、上からは何も見えない。潜らないといけないから」
「そうなんですか……。ではそのつもりで今後の予定を立てます」
「ほんと? これからも会う機会がありそうね」
「はい。もし何かありましたら都内でお世話になってる教会を――――」
ティナと連絡先を交換してから、居間を後にした。
ミスリアたちは廊下に群がる子供たちの合間をかいくぐり、帝都ルフナマーリへと戻った。
_______
「おかえり。意外に遅かったね」
「ただいま、カイル」
教会の会議室で、友人はテーブルに頬杖ついて分厚い本のページをめくっていた。部屋着の上に毛糸のショールを羽織っただけのラフな格好でくつろいでいる。
「待ってて下さったんですか?」
「せっかくだし、一緒に食べようと思って」
「ありがとうございます」
ミスリアは素直に喜んだ。誰かと同じ空間で生活していられる期間は、いつだって本当は悲しいくらいに短く、呆気なく終わってしまう。たまたま同じ場所に居て共に過ごす暇があるのなら、その機に感謝して飛びつくべきである。
カイルは分厚い古書に木彫りのしおりを挟んで、閉じた。表紙は随分と古びている。しかももう使われていない神聖文字で書かれているらしく、たとえ習った身でも一目見てすぐに読めたものではない。
「聖地について調べてたんだよ。なんでもあの沼では、聖獣が水浴びをしたって記述があるらしいよ」
ミスリアの視線に気付いて、彼は補足の説明をしてくれた。
「水浴びを? そんな凄い場所だったんですね」
友人は隣の席を引いて、ミスリアにも座るように促した。有り難く腰をかける。
沼の聖地について掘り下げるより先に、別の質問を口にした。
「今日はこちらで泊まるんですか?」
カイルは元々ミスリアたちとは別の教会に滞在していた。帝都ルフナマーリはあまりの広さと人口ゆえに、ヴィールヴ=ハイス教団に連なる教会を司教座聖堂含めて三軒建てている。
「ううん、君たちに用事があって寄ったんだ。今夜は魔物狩り師と見回りをすることになってる」
「私、たち? に用事ですか」
なんとなくミスリアは後ろのゲズゥを振り返った。リーデンに至っては、厨房で働くイマリナを構いに行ったのでこの場には居ない。
「
「司教様とカイルの頼みでしたら断われません。出来る限りお力添えします」
「助かるよ。君自身の力と――」彼は爽やかに笑った。「それと、君が連れている『戦力』を貸して欲しい」
カイルの琥珀色の目線がミスリアの背後を通り越して、長身の青年の上に止まる。同じようにミスリアもゲズゥに視線を注いだ。彼の意思も聞きたいと思うからだ。
ゲズゥは無表情を崩さずに口を動かした。
「何の相談だった」
「詳しい話はまだ聞けてない。その方はノイローゼになりかけてて会話が成立しにくかったんだけど……」
カイルは一度目を伏せて、次には両手を組み合わせて深刻そうな顔をした。
「命を狙われてる、と言っていたよ」
会議室の中にしばしの沈黙が訪れた。
「なら、依頼は護衛か」
やがて何かを察したようにゲズゥが言った。
「そうだね。そのお方の護衛と、できれば敵の捕縛かな。命を狙う敵というのが妄想じゃなくて実際に存在していると前提してだけど。お願いできそう?」
「問題ない」
教会が介入している点を顧みると、狙っている何者かが魔物である可能性も考えられる。とはいえ人間相手でも異形相手でも、ミスリアたちはそれなりの対戦経験を積んでいる。ゲズゥは懸念を抱く素振りを見せたりしなかった。
「リーデンさんにも話した方が良いでしょうか」
自分が引き受けたからって彼らに無理強いをしたくない、という気持ちで提案した。あくまで己の意思で選んで欲しいのである。
「気にするな。アレは、こういう話には常に乗り気だ」
そのままゲズゥは踵を返した。
通り過ぎた横顔が微かに笑っていた気がして、ミスリアは内心で仰天した。
「決まりだね。よかった」
隣のカイルは普通に本を片付けたりしていて、気付いた風には見えない。
(私の見間違い?)
きっとそうだったのだろう、と無理矢理納得することにした。以前からゲズゥは身体を動かすことや戦闘に対して楽しそうに見えたことはあったけれど、表情まで変わったことは無かった、はず……。
「そろそろ食事行こうか」
「はい」
気を取り直して会議室を出て行った。
食堂に着くまでの間、今日の出来事や沼底の問題、これからの予定などについて、カイルとずっと話し合っていった。
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