43.

 ――何が目的だったのか、だと?

 愚か者どもめが。私が大臣の座などに執心しているとでも思ったのか。そんなものは目的ではなく、手段に過ぎない。

 私はただあの男を貶めてやりたかった。

 ――誰を?

 知れたことを。奴に決まっているだろう! 私の最愛の妻をたぶらかし孕ませておきながら、何食わぬ顔で今日も玉座に座しているあの男だ!

 私は……奴の腹心を一人ずつ封じてやる予定だった。

 ――失脚に追い込む?

 生易しい。恐慌状態に陥れて、折を見てかどわかすつもりだった。弱みの一つ二つ作って再び世に放つのさ。だからあの女を使った。あれは良くできた駒だ。昔から、私が望めばその通りに動ける、実に優秀な女よ。

 最初は老害の空いた席に私が滑り込むはずだった。そこから更に一人ずつ手中に収め、最後には帝王にくみする人間を一人とて残さずに掃く予定……だが貴様らの所為で総てが台無しだ!

 ――王子?

 あの薄汚い小僧か。幸い奴は中途半端に帝王にも我が妻にもあまり似なかったが、どうにも腹を痛めて産んだ妻は愛着を持ってしまったようでな。遠目に眺めるだけでいいからとせがむものだから、屋敷に置いてやったのよ。憎きあの男のせがれなぞ、私は絶対に目に入れないように生活していたがな。

 そんな妻は得体の知れない病で逝ってしまった。聖人連中にも治せなかった、心の病だったと言われている。妻の心が乱れたのはやはりあの男と小僧が原因であろう。最期には我らの嫡男の顔を忘れるまでに病んでしまっていた。ほら、わかるだろう? 私が何もせずにこれまでのように、帝王に仕える貴族のままでいられるはずが無かろう?

 妻が他界したからには小僧の方は殺して楽にしてやろうとも思ったが、そうすると魔物になって我が血族を呪うかもしれないと聞く。ならば仕方ない。

 ふん。思えばあの時、あの女ともども見逃して何年も生かしてやったのに、恩を仇で返す餓鬼どもだ。

 まあいい。好きにしろ。露見した以上、私は抵抗などせんぞ。

 なに、家が没落しようとも我が子たちが自力でどうにかする。甘ったれなぞ一人も私は育てておらんからな。

 ――貴族の伝統? 知らぬわ!

 あんな男含めた腐り果てた王族に仕えるのが命運だなどと、私は認めん!

 ああ、メディアリッサ、生涯ただ一人の愛しき我が妻。安心しておくれ。たとえ火の中水の中牢獄の中、私は君への愛を貫き証明する。

 帝王なぞ、永遠に赦さぬ。赦すものか――――――


_______


(愛って、なんなんだろう)

 聖女ミスリア・ノイラートは、後になって件の男性の供述を聞かされた。それはあまりに激しかった。考えれば考えるほど、彼の心情がわからない。

 腐り果てたと言えるような王族なのかも、わからない。帝王は後宮では飽き足らず人妻にまで手を出すほど女癖が悪くても、君主としての手腕はそれほど悪くないようだった。帝国と三つの属国は均衡を保ち、国民の生活もおおよそ安定している。

(デイゼルさんのことだって。男性は自分の子供じゃないからってそこまで邪険にするの……? 愛する奥様と一緒に大切するって選択肢は無かったのかしら)

 嫉妬、その辺りの心境はやはりミスリアにはよくわからなかった。妻を赦して相手を赦さないのはわかるとしても、それを理由で誰かを永遠に憎むというのはいかがなものか。正直な感想、とても疲れそうな話である。限られた生の時間を憎悪にばかり費やすのを、勿体ない、と思う。

 それほど激しく燃える怨念の炎を彼はずっと押し隠してきたと言う。

 心を病んで亡くなられた奥様はどう思っていたのか。そもそも病の原因は本当に帝王陛下だったのか。今となっては、真相が明るみに出ることは無いだろう。

 小さな唸り声を上げながら、ミスリアは隣に立つ青年を見上げた。特に予定も無く、今日は二人で街中を買い物などしてぶらぶらしている。

 青年は羊肉の串焼きを片手に持って食べていた。

 こちらの視線に気付いて彼が首を巡らせた頃には、串の肉は最後の一つが口内へと消えようとしていた。

「ゲズゥには、愛する人って、いますか」

 ふと訊ねる。

 ――バキャッ!

「だ、大丈夫ですか!?」

 串を噛み切ってしまったらしい。一瞬、無表情が渋い顔に歪んだ。

「食べている最中に声をかけるべきではなかったですね、すみません」

「…………どういう意味で訊いている」

 訊ね返してゲズゥは串の欠片を路頭に吐き捨てた。吐いた唾に血の朱色が混じっているのが見えて、ミスリアは近くのベンチに座るよう促す。ベンチは長さの半分ほどに木陰がかかっていて、彼は自らそちらの方を選んで座った。

 ミスリアの身長だと――こうして座らせでもしないと、稀に見るこの長身の青年の顔には届きにくいのである。

 それから傍らに立ち、手をかざして聖気を展開した。

「えっと、そうですね、家族とか仲間への愛情じゃなくて……恋愛、の意味合いでです」

 使い慣れない単語に言いよどむ。気恥ずかしさに微かに身じろぎしてしまう。その弾みで、かざしていた右手の小指の爪先がゲズゥの頬をかすった。

 何とも言えない刹那の感触。吃驚して手を引くと、後を追うように黒い眼差しが素早く動いた。

 黒曜石を思わせる瞳はその表面に晴れ渡った青空を映していて、綺麗だ。つい見入ってしまって動けない。なんとか呪縛を逃れたくて俯いた。

 彼が次に喉から声を発した時、ミスリアの目線の先は喉仏から顎を上り、最後に口元へと伝った。

「別段、興味は無い」

 口元を見ていた所為だろうか。発せられた低い声が、いつもと違う質感を伴っていたように感じられたのは。

 一拍遅れて我に返る。

「あ、そ、そうですか。くだらないことを訊いてしまいましたね。すみません」

 必要以上に落ち着きなく答えると、あろうことか青年は言葉の応酬を続けた。

「お前はあるのか。興味」

「え。恋にですか?」

 頷きが返る。

(恋愛、かぁ……)

 一気にさまざまな思考が脳内を巡った。まだ故郷の島に住んでいた頃に、同年代の友達や姉と、誰が誰の嫁になるのが一番お似合いかを想像して遊んだこと。修道女課程を修めていた日々の中、隠れて夜更かしして恋愛小説を読んでいた同室の子。ミスリアは教団に入った時点でそういった話題への関心は薄かったけれど、いつからか、全く自分とは無関係だと思うようになっていた。

 聖人聖女はその役職に就いている限り、異性と関係を持つことはできない。と言ってもそれは永続的な話ではなく、カイルの父親のように役職を返上して伴侶を得ることは可能だ。

 それでも少なくとも聖獣を蘇らせる旅が終わるまでは恋とは無縁に生きるだろう、とミスリアは受け入れている。

 見聞も経験も足りない分、それがどういうものなのかはほとんどイメージが無い。例えば周りに恋の花が咲いていたとしても、きっと気付けない。

 いつか未来で自分が恋をしている様子を色々と想像をしてみるも、うまく浮かばなくて悶々とした。相手はどんな人になるだろうか。相手……?

「なるほど」

 突然、ゲズゥが言った。

「な、何に納得したんですか」

 物思いを遮られた驚きに肩が跳ねた。

「反応が『女』だな」

 続く言葉を聞いても、彼が何に得心がいったのかは不明なままだった。どうやらこちらの表情や挙動の細かい変化を観察していたらしいが、そこから一体何を見出したのか。

「確かに私の性別は『女』ですけど、それは周知の事実で、改めて確認するようなことではないかと……?」

「そういう意味じゃ、ない」

「ではどういう意味なんです?」

 首を傾げて問う。

「自分で考えるといい」

 心なしか楽しそうに答えて、ゲズゥは立ち上がった。

(女でなければなんだと思ってたんだろう)

 いくら捻っても頭の中から答えが出てくることは無い。諦めてゲズゥの後ろについて行った。

 建物の間からかかる日差しが心地良い。それどころか少し暑いくらいだった。毛糸のショールを脱いで左腕にかけたら、ちょうど横の露天商から声がかかってきた。

「お嬢さん、ショールならこっちの春仕様はいらないかね」

 振り返ると、商人の中年女性がにこにこと自身の売り物が広げられたテーブルや洋服掛けのラックを指した。ラックに掛かるスカーフやショールはミスリアが冬の間にずっと愛用していた物よりも薄い生地を使っていて、模様や色使いが華やかである。

「綺麗ですね」

 つい手を伸ばしてじっくり見つめてしまう。柔らかくて薄くて、かぎ針編みによる縁取りが実に丁寧だ。一体何の毛糸で編んでいるのだろうか。少なくとも羊毛ではないのはわかった。さすがは大帝国の首都、目新しい品物がそこら中に溢れている。

「まだ春にはちょいとばかし早いけど、今なら安くするよ~」

「春着に替えるにはまだ早いですね」

「この薄紅と紅色の花模様なんてどうだい。お嬢さんに合うと思うね」

 女性はラックから一枚のショールを取ってミスリアの肩にかけた。そして近くの姿見を指差した。「ほら、言った通りさ。よく似合ってる」

「本当ですか?」

 清潔で身だしなみがちゃんとしていれば十分。と、服装にあまり固執しないミスリアも段々と口車に乗せられて来たのか、鏡に映る自分にいつもと違う高揚を覚えた。栗色の髪と溶け合うように交わる薄紅。瞬く度に、己の茶色の瞳が花模様の紅色と呼び合っているように感じるのは何故だろう。

「うんうん。少女が女性に花開く年頃には、ちょうどいいじゃないか」

「え、そんな、花開くだなんて……」

 頭に血が昇るのを感じた。きっと先程ゲズゥがよくわからないことを言ったから――

(そういえば)

 急に彼の存在を意識し出して、ミスリアは周囲を見回した。しかしそれらしい人影は何処にも無い。

「ん? 誰かさがしてるのかい」

「はい、一緒に歩いてた人を」

「おや。お嬢さん連れが居たのかい? あたしが声かけた時は一人しか見なかったよ」

「……――すみません! ありがとうございました!」

 後一歩で買いそうになっていた品物を手早く脱いで商人に返し、ミスリアはその場から離れた。背後から呼び止める声がするも、構わずに走る。

(嘘、何処ではぐれたの)

 木陰のベンチから移動した時はまだ一緒だったのに。よりによって何故いつも人の多い場所でこうなるのか。

(ううん、人の多い場所だからこそ見失う可能性も上がる訳だけれど)

 ミスリアは立ち止まった。闇雲に捜しても仕方がない気がしてきたからだ。

 なんとなく道なりに進んだは良いが、来た道を戻ったかもしれないし、よく考えたら「上」を捜した方が早いと思った。思い立ったからには首を仰がせた。街道に並ぶ店の屋根上、ベランダ、近くの木の枝などに視線を走らせる。

 その間、イマリナ=タユスでの一件を思い出していた。あの時ゲズゥは自分を捜しに来るであろう少年にわざと見つかる為に、高い水道橋を登ったのだった。

「んっ」

 突如、後ろから口周りを布か何かで押さえられた。物凄い力で後ろへ引っ張られ、日の当たらない路地裏へと引きずられる。

 何が起きているのか頭では薄ぼんやりと理解していたが、実感は遅れてついて来た。人攫い? だとするなら、その目的は?

「ずいぶんと無防備じゃねぇか。なあ」

 欲望に満ちた、ぞっとする声音だ。しかも頭にかかる息はやたら熱くて湿っていた。

「ほんとだぜ。都でぼけっとしてたら喰われっぞ? なまじ人が多いから、毎日一人二人消えてもだーれも気付いちゃくれねえ」

 陰の中からも二人、汚れ切った風貌の男性が現れた。

「なあ、どうすんだよ」

 彼らが北の共通語で何かを熱く論じ出したのが聴こえた。

 また前の女みたいに何処かに閉じ込めて長く飼おう。いや、少し可愛がってから高く買ってくれそうな店に売ろう。いっそ、帝都は規則が多過ぎるから他国に奴隷として流そう。

 全てのやり取りをまるで遠い世界の出来事のようにミスリアには感じられた。耳の奥で大波が流れるみたいな音がして話し声がうまく聴き取れない。

(ああ、そうか。この音は加速した心拍を反映してるんだ。頭の中を流れる血の音かな)

 自分をどうするかの会話を耳に入れながらも、これからどうなるのかを懸命に想像してみた。

 今以上に恐ろしい局面に追いやられたことは過去に何度もあった。それでも、この瞬間にも溢れる涙を止められない――。

 信じなければならなかった。助けを信じ続ける心の強さを持たなければ、自分は一年近くの間何も進歩していないことになる。

(きっと来てくれる。きっと)

 暗示のように何度も心の中で繰り返した。陰の中から伸びてくる無骨な手を見つめながらも、絶えず繰り返した。

「ちょっと、白昼堂々と何してんのよ。ホンット男ってクズばっかり!」

 救いの光は背後から射した。

 若い女性の声が響いたと同時に、旋風が巻き起こる。ミスリアを羽交い絞めにしていた腕からは力が抜け、傍まで迫っていた他の二人も突き飛ばされた。おかげで体勢を崩し、地に尻餅ついた。

「ふう。怪我は無い?」

 聞き覚えのある優しい声。バッと顔を上げて相手の顔を確かめた途端に、全身に安堵の波が広がった。

「ティナさん! ありがとうございます。本当に、何とお礼を言えばいいか」

「礼には及ばないわ。ゲスい声が聴こえたから寄ってみただけ」

 清々しい笑みを浮かべ、彼女は手を差し伸べてきた。有り難く手を取って立ち上がる。

「でもティナさんが来て下さらなかったらどうなっていたことか……」

 もう一度想像しそうになって、ミスリアは己を抱き締めた。

「別に大丈夫だったんじゃないかしら」

 緊張感の無い様子でティナが首を傾げる。その拍子で、いつの間にか肩まで伸びていたふわふわの金髪が揺れた。

 どうしてそんなことが言えるの――疑問に思ったのも束の間、一度は蹴り倒された人攫いらしき男性たちが起き上がる姿が目の端に入った。

「テ、メェ。よくも」

 真っ先に起き上がった一人の男が懐からナイフを取り出して、ティナの背中めがけて振り上げている。

「危ない!」

 ミスリアの警告の声に彼女は動じない。せいぜい煩そうに振り返る程度だ。

 ナイフが空気以外の何かを切ることは無かった。

 大きな黒い塊が空から降ってきたからだ。ミスリアの視界の中でそれが人間、更に青年の姿として認識された時点で、既に彼は攻勢に出ていた。曲者の方は何が起きたのかわからずに踏みとどまる。そうしてできた隙に――

 ゴゾッ、となんとも言えない音を立てて、青年は曲者の顔面を掴んで近くの壁にめり込ませた。元々緩くなっていたのか、衝撃を受けた箇所を中心に、レンガがポロポロと崩れ落ちる。

「ほらね。大丈夫だったでしょう?」

 得意げに話している間にも、ティナは別の者に跳び蹴りを食らわせていた。

「は、はい」

 ミスリアは呆然と見守るしかできない。気が付けば役人を呼んで一件落着し、路地裏から普通の街道に戻っていた。

「ありがとうございます」

 落ち着けたところで、ゲズゥに軽く頭を下げてお礼を言った。信じていた通りに助けに来てくれた護衛に。

「あつい」

 彼は一言だけ答えて上着を脱いだ。

(ゲズゥにとっては全然大したことしたをつもりは無いんだろうけど……私は、また助けられた)

 複雑な想いが絡まる中、ミスリアは苦笑した。

「よくここがわかりましたね」

「……向かい側の建物の屋上から人混みを探っていた。お前が立ち止まったのが見えて、追った」

「そうだったんですね……やはり上に居ましたか」

 不思議な気分である。上に居るかなと思って立ち止まったために攫われそうになり、なのにそのおかげで助かったわけでもある。と言っても、助けに来てくれたのは彼だけではなかった。

 隣を歩く女性に視線を移し変えた。彼女は桃色のチュニックに麻ズボンと、いつものように動きやすそうな格好をしている。

 あの強烈な蹴りを繰り出す脚を、焦げ茶色の革の長靴を、ミスリアはじっと眺めた。布越しに薄っすらと窺える太ももの筋肉の盛り上がり以外に、この脚の真の破壊力をにおわせる特徴は見られない。

「初めて会った時も思いましたけど、ティナさんってすごい身体能力ですよね」

 感心して言うとティナは「あら」と上機嫌に応じた。

「これでも物心つく前から鍛えてたのよ。母親は傭兵だったから、毎日のように訓練に付き合わされたわ」

「お母さまの影響だったんですか」

 その母親とは何年も前に死別したのだと思い出し、ミスリアは気まずい想いで表情を曇らせた。当事者のティナは一度寂しそうに笑って、次の瞬間には明るく大声を出していた。

「それは良いとして、ちょっと暴れすぎたかな……明日筋肉痛になったら面倒ね。でもやっと外に出られたんだから、じっとしてるよりはマシだわ」

「あ! そういえばお久しぶりです」

 攫われかけた衝撃の方が大きくて失念していた。実際のところ、ティナとは二ヶ月近く会っていない。会いたくても会えない場所に彼女は居た。

「おつとめ終わってたんですね。またお会いできてよかった」

 閣僚をつけ狙った事件の後始末の一端として、ティナは短期懲役を言い渡されたのだった。屋敷を何度も襲う内に大怪我をした衛兵も居たため、どうやっても処罰なしでは済まなかったのである。

「出た後も当分は強制労働を義務付けられてるわ。無償で働かせられるのはキツいけど、このくらいで済んだのは幸運だったと思ってる。聖人さんや司教さまのおかげね」

「はい」

 ミスリアは深く頷いた。約束通りカイルたちは大臣や役人相手に奮闘してくれたので、ティナにとっての好感度も上がったようだ。それがまるで自分のことのように嬉しい。

 特に目的地もなく歩いていたら、気が付けば一同は街道を外れて見晴らしの良い一角に出ていた。帝都ルフナマーリの城下町がよく見渡せる。あれだけの数の人々が忙しなく生活するのを少し立ち止まって眺めているこのひとときに、何故だか特別な気分になれる。

 自分たちの居る位置の思いがけない静けさと目線の先の騒々しさとの落差を味わい、浸った。

「『施設』はひどい場所だったわ」

 ふとティナが俯き加減に呟いた。伸びてしまった髪を、右手で梳いて左肩に流しまとめる。

 ミスリアはハッとなった。無意識からの仕草だったのか意識的に見せてくれたのかはわからないが、チュニックの襟下の小麦色の柔肌に青黒いアザが幾つも浮かんでいた。一体何の痕なのだろうか、訊くのが怖い。

「それでも母さんが死んだばかりの頃とは比べられないくらい気が楽だった。だって、耐え抜く意味があるのだもの。出てきたらまた子供たちと暮らすんだって、あの子たちの成長を見守るんだって強く想っていたら何だって平気だった。待ってる人がいるだけで何もかも違ってくるのね」

 かける言葉に窮し、ミスリアは視線ばかりを彷徨わせた。するとゲズゥの闇のように深い黒目がじっとティナを捉えているのが見えた。

「母さんが居なくなって司教さま――あの頃は神父さまか――の元から逃げ出した後、のたれ死ぬのも悔しくてさ。否が応にも生きようとしたわ。でもあたしね、すぐにやる気がなくなっちゃって。食べ物を探すのも盗むのも満足にできなくて。良心が空腹に勝ったのかな。生きる力そのものが足りなかったのかな。よく倒れてたわ」

「……どうして神父さまから逃げたんですか?」

「怖かったの。神父さまは底なしに優しかったけど、あの優しさが怖かったというか――ううん、あの世界が怖かった。普通の人が生きる普通の生活に入っていけると思えなかったのよ。母さんは絶対に他人を信じるなと釘打ってたし、普通の人の世では私たちは生きていけないよって、ずっと言ってた」

「戦闘種族だからか」

 いきなりゲズゥが会話に割り込んだ。

「そうね。本名はティナ・アストラス・クレインカティ。あなたたちとは同系統ね」

「同系統って、じゃあティナさんとゲズゥやリーデンさんは、先祖で繋がっているんですか」

「多分ね」

 ティナの肯定に、ゲズゥは「道理で」と呟いた。

「母はこの名を誇ったけど、あたしは大嫌い」

 そう言って彼女は階段のある場所までゆっくり歩いて、座り込んだ。その後に続くも、今の彼女の傍に座っていいものかミスリアは躊躇した。

「ミスリアちゃん、引かないで聞いてくれる? ずっと誰かに話したかったの」

「勿論構いませんけれど……」

 数フィート離れた場所に立つゲズゥを一瞥した。彼は耳が良いので、この距離でも話の内容は漏れるはずだ。

「そいつに聞かれるくらい良いわ。同じ穴のムジナっぽいしね」

「そ、そうですか」

「ミスリアちゃんも、こっち座っていいよ」

 彼女は自分の隣をぽんと叩いた。その言葉に甘え、スカートの裾を持ち上げて腰を落ち着ける。

 そうしてティナは静かに語り出した――母や、己の生い立ちを。

 母親は凄腕の傭兵で、元々はディーナジャーヤ帝国の各地での賊討伐や反乱分子の鎮静などによく駆り出されていたという。彼女は常に戦闘種族であることを大っぴらにし、好戦的な性分であった。戦闘種族は凶暴で危険だから排すべきだ、と帝国で囁かれるようになったのも彼女が原因であろう。

 そんな彼女もやがて娘を一人で産んで育てることになる。ティナの父親となる人物とはどこでどのように会ったのか、そしてどうして別れたのか、母がついぞ語ってくれたことは無かった。

 傭兵としての生活の中で娘を引きずり回し、それでも二人で何年もなんとかやっていけていた。

 ある日、母は戦場で負傷した。片腕と片足を失う大怪我だった。

 義足義手では普通に生活はできても以前のようには動けず、兵士として生きることは断念せざるをえなかった。瞬発力が売りであるクレインカティ一族としては、動こうとするだけでも深い屈辱を味わっていたらしい。

 遠く新境地へ越して生きる術もあっただろうに、何故か母はそれを選ばず、帝国に残ることを望んだ。ところが顔も噂も知れ渡っており、どんなに頑張ってもまともな職には就けなかった。ゆえに彼女は娼婦となった――。

「義足義手だし、美人だし、イロモノ好きの旦那様方が多いこの国ではお金の入りだけは困らなかったのよね。でも結局それが仇となって、母さんは性病を患って死んだわ」

「そんな…………」

「変にプライドの高い人でね。医者か教会に行けば助けてくれるかもしれないよってあたしは言ったんだけど、絶対動いてはくれなかった。あたしがやっと医者を見つけて連れてきた頃には手遅れだった」

 ティナの顔には自嘲に近い薄ら笑いが浮かんでいる。しかしミスリアは考え込んで答えなかった。

 慰問に訪れていた聖人や聖女は近くに居なかったのだろうか。

(医者にも行かない人なら、ダメかな。奇跡の力を胡散臭いと言って信じない人はたくさんいるし)

 娘の為を思えばなんとしても生きようともがくはずなのに――ティナの母親は人生に諦めてしまっていたのかもしれない。あれだけ苛烈な人生であれば、無理もない。

 或いは自分が居ない方が娘の未来が輝くのではないかと、そう考えたのだろうか。

「後になって振り返ると、母さんは過度に血統に依存してたんだなって思うわ。理由はやっぱりわからない。あんまり自分の気持ちとか考えとかを口に出す人じゃなかったから。でもあたしは絶対に隠し通す。幸い、顔が知れていたのは母さんだけだった。アストラスの名も、似た語感に替えて名乗ってる」

 ティナは階段に両手を立てて、後ろに伸びをした。

 ――彼女が纏っていた無害そうな魔物の群れは、近しい人間の残留思念じゃないかな。

 ふいに、カイルの言葉を思い出す。

 帝都の中は毎日のように魔物討伐や浄化が行われている。負の感情がある内は完全なる「無」に達することはないにしろ、全体的に瘴気が薄いはずだ。魔物狩り師たちに討伐されきらない魔物も、存在はできても育つことはできない。

 小さな個体ともなると、被害者が教会に浄化して欲しいと直々に申請しない限りは放置される。

「わかりにくい人だったけど、大好きだったわ。たった一人の肉親なんて、好きになるしかないじゃない」

「はい。お母さまも、ティナさんが大好きだったと思います」

 彼女は一体どこまでわかっているのだろうか。気になりながらも、訊かないことにした。

「その後、五人と居ない葬儀で出会った神父さまは、あたしを教会に泊めてくれた。暖かい食事と新しい服をくれた。ずっとここに暮せばいいよって言ってくれた……その優しさには心底感謝してるわ。感謝していても、受け取ることはできなかった」

 それから、逃げ出して何度目かに行き倒れていた時。

 偶然ティナは斬られそうになっている少年を見かけて、身体にまた力が入ったと言う。理不尽な世界への憤怒で――。

 救い出した少年はどこかおかしかった。妙に落ち着いた雰囲気に、相対するこちらの方が心休まらないような。


 ――ねーちゃん、なんでそんなにしにそーなの。

 ――あんたを助ける為に無い体力使っちゃったからよ。ありがとうって言ってよ。そっちこそ、なに大人しく殺されそうになってるのよ?

 ――だっておれ「いらないこ」だから。うまれてきたのがまちがいだってさ。たすけてくれなくてもよかったよ。

 ――ひどい言われようね。そんなこと言う大人なんて蹴飛ばせばいいのよ。好きで生まれたんじゃないんだ、つってね。もう遅いんだもの、生まれちゃったからには好きに生きればいいんだわ。あたしだって……こんなんでも、好きに生きたいけど、お腹が空いて、もう、無理かな……。

 ――ふーん。じゃあおれがなんかとってきてやるよ。そしたらあんたにとって、「いるこ」になる?

 ――は? とってくるってどういう――ちょっと待っ……話、聞きなさいよ!


 数分としない内に、少年は宣言通りにどこかから食べ物を物色してきた。後になって気付いたことだが、彼は機転の良さや小賢しさに恵まれていたのである。

「デイゼルは図太かったわ。あたしはあの子を助けたんじゃないの、あの子があたしを助けてくれたのよ」

「さすがですね」小さく感想を漏らした。とてもじゃないがミスリアには真似できそうにない。身一つで路頭に立たされたら、どうしようか戸惑っている内に餓死しそうだ。

「あたしや他の子供たちにとって、『いらない子』じゃなかったわ」

 ミスリアは深く頷いた。経緯はどうあれ――デイゼルは、そしてティナは、得難い家族に出逢えたのである。

「どうしてるんだろ? まだ教団本部には着いてないかしら。心細くはないかしら。最後に会った時は笑ってたけど……あの子はね、周りが不安がるからって絶対弱みを見せないの。一人の時は泣いてるかも」

「どうでしょう。私だったら、泣きそうです」

「あたしだってそうよ。あいつ、本当は王子としてもうまくやれたんじゃないかしら。まあ、王位継承権の所有者が一人増えなくたって王宮は今でも十分にドロドロしてるんでしょうけど」

「産みの母親の伴侶がああいう性格で、ある意味では良かったのかもしれませんね。彼はデイゼルさんを排除することばかり考えて、王子の後見人としてのし上がろうとは企まなかったんですから」

 帝王に妻や人生を滅茶苦茶にされた怨みを抑えて、デイゼリヒ王子を傀儡にして帝位につかせることだってできたはずだ。が、当のデイゼルはそうなればもうどう足掻いても穏やかな日々を過ごせない。まだ隔絶されていた方が幸せと言えよう。

「直情的な人だったのね。きっと」

 ふ、と彼女は小さく笑う。

「もうじき春かー。くっらい話はもうこの辺にしましょうか」

 ティナは階段からずれて、近くの芝生にごろんと横になった。

「暖かくなりましたね。聖地のためとはいえ、随分居座ってしまいました」

「そんな風に言わないでよ、寂しいわ。春になって沼を調べたら、次に行っちゃうんでしょ?」

「知るべきことを知ることができれば、発ちます」

「そっか」

 落胆の濃い返答が返る。

 そこで、ミスリアは青空を見上げて己の旅路に想いを馳せた。

 警戒態勢が解かれた東の城壁の塔を訪れても、めざましい手がかりは得られなかった。聖地としてあの塔に満ちた聖獣の残滓と同調はできても、過去の映像や空を飛んでいるという恐ろしく鮮明なビジョンを視ただけで、次に行くべき場所まではわからなかったのである。頼みの綱は沼地だけだ。

「話変わるけど、今日は小間物屋を見て回ろうと思ってたの。一緒に行かない?」

「小間物――……あ!」

 ティナの提案を聞いた途端、買い損ねたショールを思い出してミスリアは無意識に膝を叩いた。その旨を伝えると、ティナは起き上がって「戻ろう! 今すぐ!」と目を輝かせた。

「い、いいですよ。どの道にあったのか正直憶えてませんし」

「そんな、頑張って探しましょうよ。素敵な一点物との、またとない出会いだったかもしれないでしょ」

「でも――」

 本当にあれが欲しかったのか、商人に言いくるめられていただけなのかもわからないのに。なんとなくゲズゥの方に目を動かしたら、絶妙なタイミングで彼の背後にパッと誰かが現れた。

「やあ、聖女さん。今日も可愛いね。春の日差しを待つまでもなく、君の傍はぬくぬくと気持ちよさそうだ」

 もはやクセなのか、絶世の美青年は優雅に片膝をついてミスリアの手の甲に唇を付けた。

「リーデンさん。こんにちは」

 人間は何でも慣れられるものらしい。彼と共に過ごしてきた数か月の内に、この挨拶には大分驚かなくなっていた。とはいえ肌に触れる温もりばかりには、気を抜けばすぐに頬の紅潮を許してしまいそうだけれど。

「よっくもまあそんな歯の浮くよーな台詞を」

 傍観していたティナは苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「この程度のことで浮くほど僕の歯茎はヤワじゃないよー。って、あれ? ティナちゃん、釈放されたんだ。おかえり~。髪伸ばした方がもっと美人さんだね」

「褒めたって何も出ないわよっ!」

 叫び声と一緒にサンダルやら石やらが宙を飛んだ。何も出ないというより、正確には「手が」出るらしい。リーデンはころころ笑いながら兄を盾にして避けている。

 とばっちりを食らってゲズゥには色々な小物が当たっていた。

(避ける気ないのかな)

 と思ったら、青年は緩慢と欠伸をした。眠いからか、または面倒だからか動きたくないようである。

「そうそう、聖女さん」

 いつの間にか傍に近寄り、リーデンは覗き込むようにして話しかけてきた。銀色の髪がサラサラと風に揺らされている。

「はい、何でしょう」

 この美貌を至近距離で眺めるのにはいつまでも慣れそうにない、などと思いながら訊き返した。

「君に頼まれてたヤツ。結構苦労したけど、もうすぐできあがるよ」

 勝ち誇ったように彼は右目だけを瞬かせた。

「えっ、本当ですか。ありがとうございます!」

 仕草に見惚れたのは一瞬のことで、次には嬉しさのあまり、破顔しながらお辞儀をした。

「何のこと?」

 横合いからきょとんとしたティナが問う。

「水めがね。沼ときたら、裸眼で潜るわけには行かないからね。内陸だから帝都ではあんまり流通してなくて、人づてに特注するしかなかったんだよ」

「ああ、なるほど。これで準備万端、後は暖まるのを待てばいいわけね。ねえミスリアちゃん、待ってる間って暇?」

「おそらくは……聖女としてのお勤めも体力の限界がありますし、毎日用事があるわけではないですね」

「じゃあよかったら一杯遊んでね。子守りは、なるべく頼まないようにするけど。春の行事なら苺の収穫祭とかあるのよ」

「収穫祭! 楽しそうですね、是非行きたいです。子守りは私はあまり上手にできないと思いますけど……できるだけ手伝います」

「その気持ちだけでも十分よ。意外とそっちのデカブツたちは、楽々と子供たちの遊び相手になれるみたいだしね。体力が有り余ってるからかしら」

 リーデンらを瞥見し、呆れたように彼女は肩を竦めた。

 それに対しミスリアは「さあ……」と最初は苦笑いしたものの、二人が子供に囲まれて遊んでいる図を思い出して段々とおかしくなり、気が付けば声に出して笑っていた。

 お喋りを主体とした買い物の時間に続き――それからこの日は、朗らかな笑い声の絶えない午後となった。

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