55.

「一人で行かせたぁ? やばくないか、それ」

 青年は中身が半分しか残らない水筒の底を見つめながら声を裏返らせた。聖女カタリア・ノイラートの姿が見えなくなってから五分経った頃、怪しく思って連れのハリド兄妹に問い質したのである。カタリアは用を足しに行ったのかとなんとなく思っていたが、どうやらちゃんとした用事があって離席したらしい。

 ハリド兄妹は道端のベンチでくつろいでいる。兄のディアクラは仮眠を取る気なのか、横になってヘッドバンドで目を隠している。その兄に平然と膝枕を提供する妹は、やすりで爪の形を整えている。そんなものを気にするくらいなら弓矢使いなんて辞めればいいのに――と思っていても、報復が怖いので口に出したりはできない。

「大丈夫ですわ。聖女さまだって子供じゃないんですもの」

 妹のイリュサが、視線を指先に集中させたまま答える。

「けどあいつ極度の方向音痴だろ」

「たかが往復十分の距離ですよ。昼間ですし治安も問題ありません。アナタ、私たち以上に心配性ではないですか」

 今度はディアクラが答えた。わざわざこちらに呆れた眼差しを見せる為に、ヘッドバンドを親指でぐいっと引っ張り上げている。

「や、だって初めて会った時、狭い町中を二時間もさ迷ってたって言うもんだから」

 青年が抗議すると、ディアクラは不快そうに目元を歪め、上体を起こした。

「そんな人が居るはずないでしょう。聖女さまは誰かと一緒だと気が緩んで周りを見ないそうですけど、一人で歩く時はちゃんと事前に地図を確認しますし、迷ったら通行人に道を訊ねます」

「んだと、ディアクラ。俺が嘘吐いてるって言いたいのか」

 青年は水筒を握る手に力を込めた。不快なのはこちらの方だ――

「ではアナタでないなら聖女さまが嘘を吐いたとでも? それこそありえない!」

「お待ちくださいな、兄さま」

 食ってかかりそうな兄の肩にイリュサが制止の手をかけた。どことなく楽しそうに黄金色の瞳を輝かせている。

「そうではなくて、聖女さまの方が少々脚色をしたのかもしれませんわ」

「なんでそんな必要があるんだよ」

「きっとアナタに構って欲しかったのではなくて?」

 イリュサが得意げに巻き毛の黒髪を払いのける。

 青年には全く意味がわからなかったが、ディアクラはどこか納得した様子で再び横になった。

「つまり誰でもいいから手を貸して欲しくて、実際よりも話を大きくしたのですね」

「そうに違いありませんわ。根拠はこのわたしの、女の勘です」

「はあ? お前ら何言ってんだ。あいつがそんな計算するかよ。いっつもぽわわーんとお花畑から喋ってるような奴だぞ」

「あら、それはどうかしら。聖女さまだって人の子ですもの。『寂しい』という想いの強さは決して侮れませんことよ、エザレイ・ロゥン」

 ふふん、と美女は鼻で笑う。腹が立つことこの上ない。

(…………上から目線かよ)

 厳密に言えば上目遣いだ。相手と言動が違えば可愛いと思ったかもしれない仕草である。

 しかし言っていることは否定できなかった。イリュサが自称する女の勘とやらは何かと当たるし、今回も何故か腑に落ちるものがある。

(要するに俺はあいつのことを、勘違いしてたと)

 きっかり五分後に満面の笑顔で帰ってきたカタリアの姿を認めて、エザレイは己が抱いていた認識に自信を失いつつあった。


_______


 徒歩での長旅は女性には辛いからと、馬車を手に入れた。

 そうして首都を発って二日目、リーデン・ユラス・クレインカティはシュエギと並んで御車席で馬の手綱を引いていた。

 この地帯は坂が多い。鋭い上り坂が続くと馬が疲弊するため、速度を調整しつつ進んだ。

 サエドラの町までの道のりはまだ遠く、はっきり言って退屈だ。夜はともかく、昼間は賊に出くわすことも無ければ対向車ともほとんどすれ違わない。

 牧歌的なほどに緑豊かでのどかな景色もしばらくすれば見飽きてしまう。

 知っている鼻唄を一通り出し切った後、リーデンは暇潰しに、記憶喪失の男に適当に話しかけた。

「泡沫のオニーサン、髪縛って髭剃ったらめっちゃ見違えたね。髪の色を別とすれば、二十代っぽいよ。第一印象だと三十とか四十って思ったのに」

「はあ、ありがとうございます」

 男もやはり適当に受け答えをする。光沢を全く放っていない灰銀色の双眸は一体何を映しているのやら。

 このまるで生命力を感じさせない顔も、隠れているよりは見える方がずっといい。伸び放題の髪を紐でくくって前髪を横に流し、髭を剃ってしまうと――あらふしぎ、意外に男前と呼べそうな顔立ちが現れた。これで表情にもうちょっと彩りがあれば、それなりに人目を惹けるかもしれない。

(別に聖女ミスリア一行に目立ち要員はこれ以上要らないけどー)

 要らないが、顔面偏差値が高いのは悪いことではない。むしろ、随所で利用できるものなので歓迎する。

「オニーサンってホントは幾つなんだろうね。なんなら一緒にお祝いしようか」

 ここでリーデンは、首都でバタバタした所為で流れかけた「生誕祝い」の案を掘り返す。

「お祝い?」

「こんな世の中だとさ、一年生き延びるだけで偉業だと思うんだよね。それをお祝いしようってわけ。生まれ月も時期も皆バラバラだから、全員分をまとめて祝おうって話」

「いい考えですね」

「でしょー」

 シュエギが本気で感心しているのが声色からわかった。自身の誕生月などわからない者には、こういう祝い方の方が嬉しいのも頷ける。

「それはそうとサエドラは今頃は平和と慈愛の女神イェルマ=ユリィへの祭事で慌しいかもしれません」

 さらりと、男は情報を落として行った。

 リーデンは一度硬直した。手綱が引っ張られる感触で我に返り、何と返すべきか迷った末――

「……よく知ってるんだね」

 と声音を低くした。

 シュエギがサエドラについて何か知っているらしいのは明らかだったが、これまでは問い詰めても成果が芳しくなかった。町が聖職者に風当たりが悪い話も風聞で得た知識と言った。

 ならばこの情報はどこから来たのか。少なくとも昨日今日の話題に上っていない。隠していたのか、それとも今思い出したのか。

「はて……。昔の記憶にあったのでしょうか」

「じゃあ訊くけど、君の中にそのお祭の視覚的イメージがあったりしない?」

「…………」

 今度はシュエギが硬直する番だった。

(聖女さんたちはこの人をあんまり刺激しないように決めたみたいだけど、僕はちょっと意見が違うんだよね)

 リーデンは嬉々として隣の男の反応を窺った。表情筋に動きは無いが、眼球が二度、素早く動いた。

「……ありません」

 ようやく零れた答えはため息のようだった。

「うっそだー。浮かびかけて、すぐに消えちゃったんじゃないの」

 諦めずに突いてみる。

「あなたの鋭さは……少々、気味が悪いですね」

「ありがとう。そしてごめん。自重はしないよ」

「はあ」

 そこで話は一旦区切られた。

 ちょうど上り坂がまた始まったので、二頭の馬に喝を入れる。

 いくつかの坂を上ったり下りたりして数十分。唐突に、ズゴッ、と音がした。御車席の二人はすかさず馬を停止させる。

「ちょっと止めるねー」

 降りて馬車の中に声をかけると、わかりましたとミスリアの返事が返る。

 反対側ではシュエギが既に車輪を確かめていた。どうやら車輪と軸の間に棒切れの形に似た石が挟まってしまったらしい。シュエギはそれを、車輪を傷付けないように注意して抜き出している。

 あれくらいなら一人でも十分対応できるだろうと思い、リーデンは御車席に戻った。そしてふと、視界の左端に異物を見つける。数フィート先の木の幹にぐったりと寄りかかる人影、汚れた衣服――しかしながらそこに命の気配は無かった。

(ありゃ、死体か)

 餓死したのか襲われたのか。

(聖女さんが知ったらわざわざ埋めてやりたいとか言い出しそう)

 見たところそれは白骨からは程遠く、生前の息吹がまだ色濃く残っている段階だ。

 必要以上に足を止めたいとは思わないし、ここは素通りしてしまうのが得策であろう。顎に手を当てつつそのように決断する。

 あの者が獣や魔物に襲われて一生を終えたのだとしたなら、尚更この場に長居するのは気が進まない。

「生者は常に死者に囲まれているのに、一番会いたい相手に限って二度と巡り合うことができません」

 御車席に戻るなり、シュエギは例の死体の方を向いて呟いた。口ぶりはどこか思慮深く哲学的だったが、内容は現実問題を噛み砕いていた。

「この地上に溢れる死者の魂を少しでも減らしてあげることが……生者の未練を取り除くことになって、救済に繋がるのではないでしょうか」

「急にどうしたの」

「さあ、私にもわかりません」

「それってオニーサンが考えたの?」

 問われて、白髪の男はゆっくりと頭を振った。

「いいえ……」

 呻くように答え、こめかみを指先で揉んでいる。奥深く沈めた記憶を呼び覚ます行為は頭痛が伴うのだろう。

「ふうん。出発するよ、ちゃんと手綱握って」

 馬車の中にも一言「出るよー」と声をかけてやった。

 そうして二頭の赤茶の馬に引かれてがらがらと動き出す。通り過ぎる瞬間、死体をもう一度だけ瞥見した。

(……「救済」かぁ。受け売りかな)

 都合の良すぎる解釈かもしれないが、この男が聖女に聞いた話ではないだろうか。何せ、教団の教えに沿いそうな言葉ではあった。

 灰銀色の瞳はまたどこともなく遠くを見つめている。こうしている今も、蘇る記憶があるのかもしれない。

 優しい緑色の景色の中をしばらく何事もなく馬車が転がった。

 やがて日暮れの時刻が近付く頃に、リーデンは改めて隣の男に話しかけた。

「ねえ、君の場合はどんな感じ? 思い出せない記憶を思い出そうとするのは。怖いとか、イライラするとか?」

「踏み入ったことを訊きますね」

 ぐるり、虚ろな目だけがこちらを向いた。

「だって気になるから」

 リーデンは口元を綻ばせた。微笑みかけたのは警戒を解かせる目的もあったが、純粋に興味があったのも一因である。

 ちなみにかつての自分の場合は外的要因によって記憶を封じられていたため、思い出そうとする過程はひたすらに苦痛であり何もかもが腹立たしかった。壁や家具を壊すまでの癇癪を起こしたのは二度や三度ではない。

 泡沫と呼ばれる男は、小さくため息をついた。

「何年も終わらない悪夢を――同じ霧の中をぐるぐると回っていたのに。あなた方と出会ってからは、たまに何気なく記憶が戻る瞬間もあります。自分が何者であるのか知らなくても、これまではなんとも思わなかったのに」

 もう一度大きくため息をついてから、シュエギは続けた。

「悲しい、のですよ。失った過去を取り戻すこともですが、これまで大切な人さえ忘れて生きてきた日々を想うと…………どうしようもなく、つらい。全て思い出したら悪夢が終わるのでしょうか」

 ――過去を取り戻すのが悲しい?

 もう少しそこを掘り下げてもらおうかと思案した途端、急にシュエギが勢いよく顔を上げた。

「町中が祭騒ぎに熱中している今の隙なら、奥の森に行ける、と」

「はいぃ?」

 断片的で、いかにも要領を得ない。一体何の話題なのかと、リーデンは付いて行こうと必死に思考回路を回す。

「手を打ち合わせて、そう言ったんです。若い女の人が」

「それが何」

「それが私が、サエドラについて思い出せた唯一のイメージです」


_______


 外から漏れる声は、車輪や蹄の音などにほとんど掻き消される。時折その隙間に流れる話し声の内容を、ゲズゥは意に留めることなくぼんやりとしていた。

 向かいの席では一枚の毛布を共有した女二人が肩を寄せ合って眠っている。一時期は揺れが激し過ぎて眠るのは到底無理な話だったが、それも大分落ち着いたものだ。このくらいの規則的な騒音ではかえって眠さが誘導される。

 その点、仮眠を取りたいのはゲズゥも同じだが、そこまでの眠気は無かった。とりあえずただ静かに過ごして思考を休めている。腕を組み、瞼を下ろして。

 馬の鼻息がした。その直後には、不思議な静けさが続く。もしかしたらこの時ばかりは柔らかく平らな地を走っているのかもしれない。

「奥の森には何があるの」

 いつになくはっきりと馬車の壁を越えてきたリーデンの声に、思わず片目を開ける。

「わかりません。何故そこに行かねばならなかったのか、も」

「町に入ったら、思い出せそう?」

 ――がらがらがら。

 静寂の時間が終わった。車輪の音に掻き消されて、シュエギと呼ばれる男の返事は聴き取れない。

 ふいに、馬車の中に動きがあった。

 顔を上げると、向かいの席で眠り込んでいた二人の内、小さい方の人影がもぞもぞと動いている。

 少女の大きな茶色の瞳は影がかかっていてよく見えない。少なくとも視線がこちらを向いているわけではないのは感じ取れるが、ならば何を気にかけているというのか。

「……ミスリア」

 小声で呼びかけたものの、応答は無い。少女は異様にゆっくりと、静かな息を立てている。まるで目を開けておきながらも眠っている状態が続いているかのようである。

「――――」

 桃色の唇が分かれ、その奥から声が漏れた。それはゲズゥの耳には不慣れな言語だった。

 独り言にしては抑揚が濃い。

 ――何を見ている。誰と、話している?

 この感覚には覚えがある。たとえば魔物を相手にしている時、心を砕いて歌いかけてあげる時。または聖地と対面した時の――現世を離れたような、曖昧な気配。

 聖女ミスリア・ノイラートは紛れも無い生身の人間でありながら、それが漠然と疑わしくなる時もある。

 いつの間にか彼女のそういった性質に慣れてしまっていたが、これは本当に「正常」なのか。いや、血縁者と目玉だけを通して謎の通信ができる自分がそれを問うのはおかしいか。

 聖なる役割の者の宿命とは、末路とは――

 わからない。何がわからないのかもよくわからない。これ以上考えるのは時間の無駄に思えた。

 右手を伸ばした。

「おい」

「――――」

 少女と目に見えないモノとの交信は、未だに途絶えない。

 指三本の先で頬に触れても、反応がまだ無い。痺れを切らして、掌全体を白い柔肌に押し付けた。

「おい」

 今度は反応があった。びくりと身じろぎした後、ミスリアは何度も両目を瞬かせた。

「ふ!? あ、え……なんでしょうか……この手は、あの……?」

 落ち着かない眼がゲズゥの手と顔を行き来する。

「…………戻ったか」

 いつの間にか止めていた息を、そっと吐き出す。

 するとミスリアは真剣な眼差しになった。

 暗い空間の中、確かに柔らかい手の温もりが手の甲に重なるのを感じた。

「心配、ありがとうございます。大丈夫ですよ。私はここに居ます」

 非常に引っかかる言い回しだ。大丈夫と断言されて、より一層安心という気持ちが遠ざかった。

「どういう――」

「そんなことよりもどうやらこの先……お姉さまが行こうとしていた聖地は、ただならないことになっているようです」

 遮られた。そのことにゲズゥは眉をしかめたが、結局手を引いて軽く頭を掻く。

「ただならないって、何だ」

「それは近付いてみないとわかりません」

「…………」

「保護されていると言っても、聖地の幾つかは教団の管理の手から逃れてしまってるんですよ。現地人との折り合いが悪いなどが理由で、どうしても詳しいことはわからないんです」

「お前の姉の報告書には」

 問い質すと、ミスリアは一度視線を落とした。足元に置かれた鞄の中の紙束を意識しているのだろう。

「サエドラを通って聖地に行こうとした以外には何も……。少なくともその先に目的地があったのは確かですが、間にどんな障害物があったのかまでは不明です。誰かに邪魔をされたのか、地理の所為で通れなかったのか――想像の域を出ません」

「そうか」

 一瞬、ゲズゥの脳裏をリーデンが口にした「奥の森」の言葉が横切った。それをミスリアに伝えるべきだ。そう思ったが、僅かに躊躇した。

「すみません。起こしてしまいましたか」

 いつの間にか目を覚ました隣の女に手話を向けている少女は、一見いつも通りの様子だった。

 言えなかった。

 その不安は初めて抱いた感情のようで、さざ波が大波に育つかどうかの瀬戸際であった。知るのが早いか遅いかの違いでしかないことでも、飲み込んでしまう。

 ――何に呼ばれているのかは知らないが、行くな。まだ俺たちにはお前が必要だ――

 それも、言わなかった。

 自覚はあった。もはやミスリアと離れる未来を拒絶している己の心を。自覚したところで、次に考慮すべきなのはどうすれば離れずに済むか、その手段である。

 頬杖ついて、掛け布から覗ける窓の外の景色をぼんやりと目に入れた。

「あの、もしかして何か怒ってません?」

 見れば、リーデンの従者の女はまた眠りについている。珍しい現象に出会い、戸惑う表情のミスリアがこちらを見上げている。

「…………」

「怒ってますよね……?」

 自信なさげな質問。そこで、よくわかったな、とは答えずに。

「寝てろ」

 とだけ言った。

「別に、話してくれたっていいじゃないですか」

 いじわるー、とミスリアは不平を漏らして口角を下げる。不覚にも可愛いと思ってしまったが、問題は別のところにあった。

 なかなか引き下がってくれない。となれば、反撃に出るしかない。

「そっちこそ、話してないことがあるだろう」

 車内の空気が凍った。

 少女の顔色が気まずそうなものに変わるのを見計らって、更に畳みかけた。

「何故このタイミングで、巡礼の道を外れて姉の手がかりを求めた」

 ミスリアは視線を逸らして黙りこくっている。

「それとも、実は外れていないのか。姉が消息を絶った地点がそのまま、次に向かうべき聖地か」

「……そう考えるのが或いは一番自然なのかもしれません」

「つまり、わからないと」

「そうですね。全ては聖獣のお導きです。真実を知りたければウフレ=ザンダに行け、と」

 ――み言葉を賜ったのです。

 薄闇に浮かぶ聖女の微笑みは儚げで、神秘的な燐光を帯びていた。

 まただ。また、浮世離れた印象がある――聖気を展開したわけでもないのに。

 胸騒ぎがした。これこそが己の、ゲズゥ・スディル・クレインカティにとっての最も「開けてはならない箱」である気がした。

 結論を恐れてまごついているのは性に合わない。だが、壊れ物の扱い方は心得ていない。無理にこじ開けようとした結果、とことんまで心を閉ざされたのでは救いが無い。

 これ以上の質問攻めをしていいものか。答えの出ないまま、逡巡はいつまでも続くように思われた――が。

 俄かに馬車が急停車した。その衝撃で窓際にのせていた肘がずれ、前のめりに揺さぶられた。

「どうしたんですか!?」

「ごめん、追手っていうかなんていうかー」

 リーデンの返事を聞き終えるよりも早く、ゲズゥは側面の扉を開け放って飛び出した。追手とやらは、すぐに目に入った。馬上の人間が五人。身なりからして夜盗の類だ。

 五人は妙な口笛で合図を取り合っている。

 ゲズゥは姿勢を低くして目を細めた。大剣は馬車の後方の荷物の中である。この場面で取れる選択肢はそう多くない。

「あなたは馬が怯えて逃げ出さないように制御していてください!」

 シュエギとやらがこちらに向かっているのが声の接近具合でわかった。

 夜盗までの距離が完全になくなるまで、残り数秒とない。

 鉄の鈍い光が視界の端に入った。メイスだ。グレイヴと違ってそれほど邪魔にならない武器であるからか、狭い御者席に座りながらも手元に置いていたのだろう。

 ――それよりも、迫る五頭の馬と乗り手だ。

 速度に差がある。馬車に向かう三頭の内、横並びになっているのが二頭。ここが狙い目だ。

 決断した。

 跳んだ。

 ゲズゥは並んでいる夜盗の内の片方に、抱き付くようにして飛びかかった。

「!? 放せ! この!」

 羽交い絞めにしたかったが、そううまく行くはずもなく。暴れられ、もつれ合い、落ちそうになる。その時点で速度は隣の馬にやや劣っていた。

 隣の夜盗が短剣を抜いて振り下ろす。ゲズゥは左の手首でその軌道を遮った。上着が裂かれる音がしたが、革の籠手が皮膚をかろうじて守り切る。

 男たちが北の共通語で何かを叫んでいる。

 構わずに右手を隣の馬に伸ばした。鞍を掴もうとするが届かずに空振る。代わりに尾を掴んだ――

 けたたましい嘶きの後、混乱があった。

 気が付けば強烈な衝撃に見舞われ、落馬していた。激痛で起き上がるのも困難だが、それでも落ちた他の二人よりも先に平衡感覚が戻る。膝立ちになり、頭から首までぬめっと流れ落ちてきた血を、袖で拭う。

 すぐ横で殺意が閃いたのを肌がいち早く察知した。

 しかし奴にはまだ混乱の余韻が残っているのか、幼児でも避けられそうなほどに短剣がふらついている。

 ゲズゥは上体を傾けて難を逃れ、次いで夜盗の手首をいともたやすく捻り上げた。

 奴の後ろ首に打撃を与えて気絶させたと同時に、残る敵が手を振り上げた。ゲズゥはその手から踊り出て来た物を、横に跳んで避けた。この身に代わって打たれた地面から、土が跳ね上がる。

 凶器の様相が残像となって目に焼き付いた。

 投げ出された勢いで伸び、鞭のようにもしなる、関節の多い鉄器だ。関節の形状は矢尻に似ている。

 当たれば肉を抉られるだろう。

 繰り出される一手ずつを避けつつ、対策を考えた。次第に息は上がり、額には汗の粒が浮かんでいた。絡み取られるのも時間の問題だ。

 ふと、ゲズゥの視覚と脳の繋がる場所で一つの認識が弾けた。不規則な動きの中での、唯一の規則。

 使い手のクセ。

 鉄器を投げ出す動きは他者が見切れないような幾つものパターンがあるが、関節のどこかが障害物に引っかかって主の手元に戻りにくくなった場合だけ、直後の攻撃は必ず――

 ――バシ!

 ゲズゥは左足を蹴り下ろして、靴底で鉄器を地面に押さえつけんとした。巻き戻る運動の威力の方が勝り、試みは失敗に終わる、が。

 ぎぎぎぎっ、と巻き戻る音が不自然に止まった。そこらにあった切り株に引っかかったのだ。使い手は慣れた手つきで腕を振り、引っかかった武器を外した。

 鉄器が巻き戻る。次の一撃は――

 ――向かって左上から逆時計回り――!

 予測さえできればなんてことはない。ゲズゥは流れに沿うようにして敵の懐に飛び込み、顎に立ち膝蹴りを叩き込んだ。

 これで自分が相手をしていた二人は倒れた。

 素早く馬車の方を振り返った。と同時に、物騒な音がした。骨が砕ける音であろう。

 白髪の男が、メイスを振り回している。ここからでは表情までは見えない。

 予備動作が全くない辺り、迷いの無さが窺える。この男にとっては人間の骨を砕くのと魔物の巨体を殴り崩すのに、大した違いは無いのかもしれない。

 個人的には常々、生物を「斬る」よりも「砕く」方が手に残る感触が不快だと思っていた。

 シュエギという男の現在の人格はそこをどう思っているのか、興味が沸いた。

 ごず、とメイスが敵を打った鈍い音の後、残っている敵の数は最初に居た五人の内一人だけとなった。

 最後の一人の頬骨に、チャクラムが命中する。

 絶叫が響いた。

「止まってる的の方が襲いやすいって思ったー? こっちだって止まってる方が動いてる的を狙いやすいんだよ」

 笑い声が敵の悲鳴に重なる。当のリーデンは御者席から一歩も離れておらず、いつしか馬車を前後回転させていた。

 鉄輪を投げたのは窓から身を乗り出した長髪の女の方である。今まで考えてみたことも無かったが、リーデンの従者なら暗器の扱いを会得していても何ら不思議はない。

 夜盗どもが例の妙な口笛を交わし合って逃げる動きに移っても、追ったりはしなかった。

 その理由は、こちら側にあった。

「大丈夫ですか!」

 馬車から転がり出たミスリアが、膝をついて項垂れた男の傍に駆け寄った。

 男はメイスを地面に立てて支えとしつつ、激しく咳き込んでいる。足元ではどこからか流れ出ている血だまりが、徐々に広がっていた。

「ゲズゥも、怪我をされたんですね」

 少女の心配する声がこちらにも向けられた。今更のように思い出したが、そういえば落馬の際に頭などを打っていた。

「俺は後回しでいい。治すなら、そっちの方が重傷だ」

 どう見ても最も合理的な判断だ。そう思って答えたのだが、シュエギとやらが何故か過剰に反応した。

 どこぞに穴が空きそうなほどに強く睨まれた。

 その割には、ゲズゥは自分が見られているとは感じなかった。灰銀色の眼差しはここではない遥か遠くの何かを視ている。息づかいから瞬きまでもが苦しげだ。

 シュエギは唇を開いて、声にならない声を発しようとしている――

「動かないでください!」

 慌ててミスリアが制止をかけた。奴の怪我した位置が、首の近くだったからだ。喉を裂くほど深くなくとも、いくらでも悪化のしようがある。

「な……んで――でぃ……」

 よくわからない音を発した後、その男は気を失った。

 間もなく黄金色の柔らかな光がパッと広がる。それは帯状になって傷を包み込む。

「えっと……運んでくれますか」

 五分ほどでミスリアは聖気を閉じ、遠慮がちにゲズゥに訊ねた。

「ああ」

「お手数おかけします」

「別にお前の所為じゃない」

「わかってます。でもありがとうございます」

 早速ゲズゥは倒れた男を肩に担いで馬車の中に運んだ。後はリーデンの従者の女が引き受けた。手際よく汚れを拭いてやったり、席から倒れないように固定して座らせたりしている。

 ゲズゥは馬車から後退して踏み出た。入れ替わりにミスリアが乗り込んだ。

「あの、貴方の傷の具合は」

 腰を下ろす前に少女は一度振り返った。

「もう塞がった」

 実際はまだズキズキ痛むが、この程度の痛みは無視して済む話だ。

「兄さん、こっちお願いー」

 リーデンが御者席から呼んでる。わかった、と返事をして、ゲズゥは馬車の戸を閉めた。


_______


 その夜、野営地として選んだ水辺の周囲にはこれと言って危険が無かった。現れる魔物も雑魚ばかりで、ゲズゥ一人ですぐに片付いた。

 剣を収めて野営地に戻ると、木に繋がれた馬車の傍ではミスリアが片手をかざしていた。尚も意識の戻らない男に聖気を当てているらしい。

「おかえり兄さん。ちょうどもう少しで焼き上がるよ」

 リーデンと女が中サイズの鳥類を三羽、串に刺して炙っている。美味しそうな匂いとは形容し難いが、食えるのであれば文句を言うつもりはない。

「あ、ゲズゥ。どんな様子でしたか?」

 かざした手をそのままに、ミスリアが顔を上げた。

「静かなものだ」

「よかった。それを聞いて安心しました」

 ミスリアはほっとしたように頬を緩めた。それを受けて、多分ではあるが自らの頬もつられて緩んだ気がする。

 ゲズゥは馬車の後方の荷物置き場への戸を開けて、大剣を鞘ごと肩から下ろした。小腹が空いたので夜食の鳥類の焼き加減を見に行こう、そう思って戸を閉めた時。

 微かな呻き声がした。

「気が付きましたか」

「!?」

 ミスリアの声で、男は勢いよく上体を起こした。肩までの長さの白髪が無造作に跳ね、かけられていたシーツが滑り落ちる。上半身が裸であるために皮膚に残った傷跡が露わになった。肩から腰上まで、背中に古い火傷の痕がある。

「気分はどうですか」

 ミスリアがいつも通りの穏やかな声で問いかけた。男は答えない。ただ、仰天した表情で己を包む金色の光を凝視している。

 ゲズゥはどこか冷え切った警戒心をもって観察し続けた。

「な、んだコレ――聖気か?」

 奥歯を噛みしめ、カタカタと音を鳴らしながらも男が訴えかける。

「はい。危険なものではありません――」

「じゃあおまえは聖女……なのか?」

「え? はい」

 ミスリアが眉根を寄せた。聖女という身分は以前からこの男に打ち明けてあるのだから、奴の動揺のし方をおかしいと感じたのだろう。

 むしろ全てにおいて様子がおかしい。ゲズゥは腰に提げている短剣に片手をやった。

「カタリア…………? じゃない、か……似てるけど、幼すぎる」

「え」

「誰だ」

 不可解な発言に続いて、男がミスリアに顔を近付けようとした。

 一歩、二歩。ゲズゥは大股で近付いて、間に割って入る。

 そこでシュエギは初めてミスリアの他にも人間が居ることに気付いたようだった。

 パニックに彩られた視線があちこちを飛び跳ねて、他の面々を順次巡っていく。

「おまえは――おまえらは、誰だ!?」

 物狂わしい叫びが嫌に煩く鼓膜に響く。思わず身じろぎをした隙に、ミスリアが背後から飛び出て、惑乱の真っ只中にある男の肩を小さな両手で掴んだ。

「落ち着いて下さい! 私は聖女ミスリア・ノイラートと申します。カタリア・ノイラートとは血の繋がった姉妹です! 似てるのはそのためです!」

 びくりと男の筋肉が痙攣して、静止した。

「姉妹」

「はい、そうです」

「あー……あいつ、歳の離れた妹が居るって言ってたな」

 感心して息をついたのも束の間、シュエギは表情を歪めて口元に手をやった。次いで上体を捻ってミスリアの縛を逃れ、後方の茂みに向かって反吐を出した。

 極度のストレスか怪我の後遺症が原因、生理現象はしばらく続いた。

 この機にゲズゥは今一度状況を分析した。そして直感に従い、抜きかけていた短剣を鞘に戻した。

「はいはーい。ちょっと整理しようかー」

 焚火から離れてこちらに来たリーデンが、男の隣で膝を揃えてしゃがむ。膝の上に組んだ腕をのせ、にっこりと笑った。

「記憶と人格の統合は済んだかな」

「……あんたは、いやあんたらは――……俺が道端で寝てた時に、出会った――んだったか」

 胃の内容物を一通り大地に還したシュエギが、しわがれた声で答えた。

「正解だよ。とりあえずお湯飲むー?」

 無音で現れた従者の女の手からリーデンの手へと、水筒が渡る。男は有り難そうにそれを受け取ってごくごくと飲み干した。空になった水筒は三者の間を、今度は逆の順に渡って戻る。

「君は、自分がダレなのか思い出したんだね」

 リーデンが問いかけると、男はおもむろに胡坐をかいた。数度の咳払いを経て、答えを語る。

「俺は『エザレイ』って名だった。エザレイ・ロゥン。聖女カタリア・ノイラートに誘われて、大陸を旅してた……いや、旅するところだった……?」

 取り戻したばかりの記憶が定着しないのか、実名をエザレイと名乗った男が、目を泳がせている。

 これでは未知の「箱」の蓋はまだ開いていないのと同じだ。

「ロゥンさん。改めて、気分はどうですか」

 ミスリアが恐る恐る問うた。

「ああ、さっきは怖がらせて悪かったな、カタリアの妹。気分は良くないが、一応生きてる。あんたのおかげだ。ありがとう」

 男は座したまま、深く頭を下げた。

「礼には及びません――」

「そうじゃないでしょ、聖女さん。僕らが訊きたいのは体調のことじゃないよね」

 裾をはためかせてリーデンが立ち上がる。男に目線を合わせたしゃがんだ体勢から、見下ろす体勢になった。

「ずばり、君は、全部思い出したの?」

 容赦なく主点を探るリーデン。

 蒼白な面に暗鬱とした笑みを浮かべ、その男は応じた。

「…………全部じゃない」

「ふうん?」

「全部じゃねえよ。一番肝心なトコだけ――あいつらと会えなくなった時期の、前後一か月くらいの記憶だけがまだ霧の向こうだ」

 ――やはり箱の蓋は開き切っていなかった。

 ゲズゥは何とも言えない心持ちでミスリアの反応を窺った。小さな聖女は拳を握り締めた以外には、これと言って動きを見せていない。

「使えない奴だって思ったか?」

「うんまあ、ぶっちゃけ思ったけど」

 包み隠さずに答えたリーデンを見上げて、男は陰鬱に笑った。

「銀髪、あんたさっき俺に怖いかって訊いたよな。そりゃ怖いに決まってる。忘れてないと生きてられない過去なんて、絶対ろくでもないだろ。取り戻したいわけあるか」

 数度咳き込んでから、続ける。

「でもいつまでも大事なモノが欠如したままなのは、それはそれで、気持ち悪い。こうなったら腹括るしかない」

 男の自嘲気味な嘆息が、先ほどの叫び声とは違った意味で鼓膜に長く残った――。

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