29.

 木の根が土から抜け出す音に、慄然とした。

 一瞬たりとも無駄にできない。

 河の中に倒れた大木の上を這って進んでいたゲズゥは右腕を伸ばし、やたら落ち着いた様子の子供を掴み上げては後ろの岸へと思いっきり投げた。

 そして激流に喰われつつある樹から転がり落ちて、自分自身は何とか滝を落下せずに済む。

 破いた衣服を結び合わせて作った即席の命綱が、ピンと張ってゲズゥを揺さぶった。己の腹部と近くの樹を繋げただけの頼りない物だ。

 流されていた大木が視界から消え、次いで大きな衝突音が響く。

 川底が切れ落ちる先がここからだと少しだけ見える。高さは5ヤードも無いのがかえって危険に思えた。落ちた先に尖った岩でもあれば、頭蓋骨を割って終わりだ。運良く落ちた先が深ければ即死は免れるかもしれないが、逆に溺れる危機が増す。

 水を呑み込まないよう注意しつつ、とにかく綱を上って岸に戻ろうと努めた。指が寒さにかじかんで思うように動かない。川水の冷たさは刺すような痛みをもたらし、今にも四肢の自由を奪わんとする。

 抗う時間が長ければ長い程、体力を消耗してしまう。流れに身を任せられたらどんなに楽なことか。

 それでも無理矢理にでも手を動かすしかない。指先ではなく掌に集中して力を込め、拳を握るようにして綱を掴む。

 河岸に手が届きそうでまだ届かない距離に達した途端、命綱が軋む気配を感じた。布が破れそうなのか――。

 ふいに小さな影が岸を降りてきた。

 影の正体、聖女ミスリアは破れかけている箇所とゲズゥの間に入り、綱を握って引こうとしている。だが先程もう一人の聖女が言ったように急傾斜で足場が悪く、丸く滑らかな石の上を白いブーツが滑っていく。

 どう考えても無謀な試みだ。

「はなせ」

「いやです」

 大きな茶色の瞳に映った頑固さと必死さに、何故かゲズゥは焦りを覚えた。

「放せ! 俺とお前の体重比じゃどうにもならない」

 気が付けば声を張り上げていた。ただでさえミスリアは非力だ、綱を引くどころか摩擦で掌が擦り剥けているに違いない。

「嫌です! 放しません。私だけが生き残る結末なんて、受け入れませんっ……!」

 泣きそうな声が返る。

 だからと言ってこのままではどうしようもない。

 二人とも流されて絶命、となってはそれこそ最悪の結末だ。

 残る時間はせいぜい五秒。岸にさえ手が届けば或いは助かるだろうか。

 それを成す為の手段を、今は一つしか持っていなかった。もはや渋っている場合では無い――。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは脳から己の「左眼」に向けて、とある命令を発した。

 一瞬もしない内に「左眼」が応えた。

 きゅるり、といった形容しがたい感触と共に左の眼窩に違和感が芽生え――次には、違和感ごと「左眼」が身体を離れていった。


_______


 無我夢中に綱にしがみついていたミスリア・ノイラートは、足場が崩れていよいよ自分まで河に落ちそうになった所までは覚えている。その次の瞬間からの記憶があやふやだった。

 とりあえずは濡れた草の上に座り込んで目を瞑り、荒い息遣いが落ち着くのを待った。

「何も訊くな」

 頭の上で疲労に彩られた声が静かに呟く。

「……はい」

 その一声から何が起きたのかを思い出したミスリアは、ゆっくり目を開けた。

 落ちそうになったのをゲズゥが片腕で抱き止めてくれて、そのまま彼はどうにかして岸を上がったのだった。どうやったのかは見えなかったし、訊かないで欲しいと言うのなら別に知らなくてもいいと思う。

 未だ抱き抱えられた形のままのミスリアは、自分が知らずしがみついていた腕が寒さに震えていることにハッとした。

「……助けようとしたのに、結局また私が助けられてしまいましたね。いつも無茶をお願いしてすみません」――言ってから、呂律の回りにくい舌とガチガチ鳴る歯に気付き、自分も寒さに震えているのだと知る。

 ふいに、ミスリアはすぐ傍に濃い瘴気を感じた。

(まだ魔物が居る……?)

 ミスリアはゲズゥを仰ぎ見て――そして目を瞠った。

 彼の左眼から瘴気が漏れているように見えたのである。しかもミスリアには聖女レティカのような人を囲む空気を視覚化する能力は無い。目に見える程の瘴気となれば相当に濃いことになる。

(でも訊かない、今は何も訊かないわ)

 ミスリアは小さく頭を振る。

 ゲズゥが何か答えようと唇を開きかけて、途端に後ろを振り向いた。視線の先には彼が助けたばかりの少年が佇んでいた。

 汚れた衣服の下には骨と皮しかなさそうな細すぎる少年は、虚ろな眼差しでゲズゥを凝視している。

「危ない!」

 またしてもエンリオの警告の叫びが響き、立ち上がりかけていたミスリアは身を硬くした。少年の頭部めがけて小さなエイの魔物が急降下している。

 すぐに魔物は横合いから飛んできたナイフに撃たれ、軌道を逸れた。

「聖女ミスリア! 大丈夫ですか!?」

 レティカ一行の内、エンリオが一足先に駆け付けたらしい。彼は暴れるエイを踵で何度も踏みつけ、その動きが完全に止まったのを確認してからナイフを引き抜いた。

「遅れて申し訳ないです。レティカ様はああいうとこ頑固でしてね、手間取ってしまってすいません」

「いいえ、彼女の言い分もわからなくはありませんから」

「ボクは気負い過ぎだと思うんですよね……」

 エンリオが白いため息を吐く。

 彼の手を借りてミスリアは立ち上がった。

 隣のゲズゥは自力で立って服をはたいては着直している。と言ってもシャツなどは命綱に使われたので、素肌にコートを羽織っているだけになる。

「兄ちゃんたち、この町のひと?」

 少年が唐突に口を開いたので、一同の注目がそちらに集中した。少年の長い髪から雨水がしきりに滴っている。

「どーなんだよ」

 虚ろな目にして虚ろな声だと、ミスリアはふと感じた。

「いえ、旅人ですけど――」

「あんたじゃない、でかい方の兄ちゃん」

「んなっ! 小さくて悪かったな!」

 興奮のあまりか、エンリオの丁寧な口調が崩れかける。

「エンリオ、度が過ぎた卑屈も流石に見苦しいぞ。しかも子供相手に声を上げるなど」

 やっと到着したレイが仏頂面でそう言うと、対するエンリオは口元をひくつかせた。

「レイ……貴女には小さい人の苦労なんて一生わかりませんよ」

「わからないし、わかりたくもない」

「ぎいいいっ! レイなんて来世はナメクジにでも生まれ変わればいいですよ!」

「よく吠える子犬の言は聴き取りづらくてかなわないな。元より私は転生など信じていない」

 強面で寡黙だと思っていた彼女は何故か、エンリオの相手をする時だけ毒舌が発揮されるようだった。表情筋は固定されたままではあるけれど。

(あれだけ動き回った後なのになんて元気な人たちなの……)

 などと、ミスリアは呆れ交じりにこっそり感心していた。

 一方で少年は突っ立ったまま黙りこくっている。

 彼が一度たりともその視線をゲズゥから外さないのが、段々と気味悪く思えてきた。どう考えても命の恩人に対する眼差しとは違う。感謝や憧れどころか、好奇心ですら映し出さない暗い瞳だ。

 そもそもこの子供を取り巻く状況すべてが不審だったのだから、当人までもが尋常ならぬ性質の持ち主であっても不思議はない。ミスリアはなんとなく身構えた。

「皆さま、ご無事ですか?」

 喚き合う護衛達を押しのけて、聖女レティカが進み出る。

「はい。なんとか」

 ミスリアは自らの護衛の様子を窺いつつ答えた。ゲズゥは例によってあさっての方向を見つめている。

「…………来た」

「はい?」

 彼の不可解な呟きに聖女レティカが訊ね返す。

 その時、大地が轟いた。

 地面が盛り上がり、ミスリアは数ヤードほど宙に投げ出された。大地の亀裂からは獣の舌を思わせる形の巨大な塊が伸びる。レティカ一行が咄嗟にその攻撃から飛び退くのが見える。

「きゃあっ」

 ミスリアは背中から着地した――草の感触からかけ離れた、黒い物の上に。

 そんなことには構わず、急いで舌の魔物を探した。

 おそらくは魍魎の類であるそれは正面2ヤード先に居た。

 赤い塊は一度後ろへ跳ね返ると、今度はミスリアめがけて蠢く。驚異的な伸縮力である。

 避ける余裕が無い。ミスリアは反射的に顔を逸らそうとした――

 ――刹那。銀色に輝く物が三度、視界の端を横切った。ぞっ、ぞっ、ぞっ、と短い音を立ててそれらは通り過ぎる。

(今のは……?)

 顔を上げると、そこには輪切りにされて地に崩れる魍魎の姿があった。

 そして更に向こうに、明るい色の、裾の長い服に全身を包んだ人影がいる。ミスリアは相手の爪先から顔の方へと視線を上らせ、忘れがたい顔を見つけた。

「リーデンさん!」

 絶世の美青年は不機嫌極まりない様子でこちらを見下ろしている。こういう表情はゲズゥに少し似ているかも、とミスリアは思った。

 勿論、どんな顔をしていても美青年の美しさは損なわれない。ついでに雨に濡れた銀色の髪が肌にくっついていて、色っぽさを引き立てている。

「何? その格好。無様すぎるんだけど」

 緑色の瞳はミスリアではなくその背後を睨んでいた。

「そうか」

 と、無感動な声が返事をした。

 自分が何を下敷きにしているのか薄々勘付いていたミスリアは、その声を聴いてすぐに立ち上がろうともがいた。

「重いですよねすみません」と謝れば「……いや、大して重くはない」と短い否定が返る。

 次はリーデンに向かってお辞儀した。

「危ない所を助けて下さってありがとうございます」

「別にいいよー。もう魔物は出ないのかな?」

「はい、えーと……」

 しばしの間、目を閉じて辺りを探った。先刻感じたあの妙な不安は消えないけれど、それ以外の悪寒は無い。

「居ないと思います」

 聖女レティカの同意を得ようと彼女を見やった。

 レティカは新しく介入してきた青年を呆然と見上げていた。薄闇の中でもリーデンの非凡なる容貌を認識できたのだろう。

「……え、ええ。わたくしももう居ないと思います、わ」

 上目をつかいながらレティカは乱れた青銅色の髪をフードの中に押し込めている。リーデンが何者なのかとても訊きたそうである。

「ならいいんだけど」

 リーデンはひとつ軽く微笑んだ。そして特に自己紹介をする気は無いのか、ずぶ濡れの少年の方へと興味の対象を変えた。

 少年が食い掛かりそうな勢いでゲズゥにズカズカ歩み寄っている。

 が、横から伸びた手に掴まれ、宙に足を浮かせることになった。

「じゃますんな! この、このっ」

 少年は自分を捕らえた人間に殴りかかろうとする。

「何の邪魔? なんかこのガキ、ムカつくなぁ。もっぺん河に落としちゃっていい?」

 暴れる少年の攻撃をどうでもよさそうに避けるリーデン。

「ダメです!」

 ミスリアは咄嗟に叫び、次いで怪訝に思った。

(リーデンさんはこの子が河に落ちそうだったって知ってるの?)

 どうして、と自問しても答えに至らなかった。この視界の悪さでは、近付く前からこちらの状況が見えていたとは考えにくい。まさか彼はエンリオ同様に凄く視力が良いのだろうか。

「はなせえええ!」

「はいはい」

 興味無さげにリーデンが子供をパッと手放す。子供は数秒の間じっとりとゲズゥを睨み付けると、そのまま踵を返して走り去った。

「あ、待ってください!」

 呼びかけても遅かった。少年は脱兎に勝る速さで姿を消している。

 怪我をしていたかどうか、帰る場所はあるのか、どうして夜に外に居たのか――訊きたいことはたくさんあったのに――。

 あまりに突然のことで、誰も追うことはできなかった。

「まあ、命を助けられただけでも良いんじゃないですかね」

 やがてエンリオが励ますように笑う。

「そうですね。そう思うことにします」

 ミスリアはゆっくり頷いた。

「にしても……随分と儲かりそうな顔ですねぇ。色んな意味で」

 値踏みするような目で、エンリオがリーデンを眺め回している。

「君は鋭いんだね。それなりに儲かってるよ、うん」

 絶世の美青年は食えない笑顔を浮かべた。

「なるほど。その不思議な飛び道具といい、天晴れです。どちら様か存じませんけど、なんなら一緒に魔物退治に励みませんか」

 意外とエンリオも食えない笑顔を返した。

「いいよー。明日でも明後日でも空いてるから、みんなで踊ろう。あ、僕はそんなに怪しい人じゃないよ。そこの可愛い聖女さんのお友達」

 リーデンは左目だけを瞬かせてみせた。何故かそこでレティカは恥ずかしそうに俯く。

「いいですよねレティカ様」

「わ、わたくしは構いませんわ。でも明日は用事が入りまして……明後日でよろしかったら」

「ふむふむ」

 レティカ達と連絡方法や待ち合わせ場所について短く話し合ってから、リーデンはミスリアの手を取った。

 指先がすっかり冷え込んでいたミスリアは微かな温もりに驚いた。

「じゃあ、そういうことで明後日ね。戻ろうか、聖女さん。マリちゃんに風呂沸かさせるし、ゆっくり温まってね」

「それでしたら私よりもゲズゥの方が寒そうです、お先に浸からせて下さい」

「寒中水泳なんかするからだよ」

 リーデンは肩から少し振り返り、棘を含んだ声音で兄に向けて言った。

(それも知ってるの)

 大雨の中では否応なしに誰もが濡れてしまっている。なのにゲズゥが泳いだと遅れて現れたリーデンに正確にわかるなど、何か自分の理解の範疇を越えた仕掛けでもあるのだろうか。

 レティカ、エンリオ、レイの三人と挨拶を交わしながらもミスリアはずっと考えを巡らせるのを止めなかった。


_______


 どこ行くの、と弟が問いかけ、街に出る、と兄が答えた所までは、昨日のやり取りと何ら変わりなかった。

 なのにこの剣呑な場面に何故いきなり転じたのか。ミスリアは横から見守りつつも、あわあわと変に指を動かすしかできない。

「そこをどけ」

「話があるから、ダメ」

 ミスリアの目には、出口に向かうゲズゥの前にリーデンがあたかも瞬間移動したかのように見えたのだった。

「俺には無い」

「やっとわかりそうなんだ」兄の言い分を無視して、弟はひとりでに語り出す。「共通点があるってことは前から気付いてたよ。それが何であるのか探るのに、裏付けをするのに、ちょっと時間がかかったけど」

 無言でゲズゥが眉根を寄せた。

 またもや何の話かはミスリアには想像もつかない。この兄弟は以心伝心を極めているのか、よくとみに会話を切り出している。

 ゲズゥはリーデンの左を回り、扉の直前まで進み出た。

「仇の最後の一人がね」

「――!」

 歯ぎしりが聴こえたような気がした。

「兄さん、教えてくれたなら僕は迷わず手伝っていたよ」

「……止せ。お前は手を出すな」

「出したらどうするって言うの? 何を渋ってるのか知らないけど、僕にも十分その権利はあるし、別にキレイに生きてきたワケでも無いんだよ」

 美青年の無表情は、それはそれで背筋の凍るものがあった。

 ゲズゥが身体を振り向かせる。

「そういう問題じゃない。手を引け」

 最後の一言の、怒りが込められた囁きは蛇が吐く音とどこかしら似ていた。聴く者を本能的に隠れたい気持ちにさせる音だった。

「断る。別に応援してくれとまでは言わないけど、いい加減、保護者面は止めて欲しいね」

「聞き分けろ!」

 ――ドン!

 ゲズゥの左拳が背後の鉛の扉を叩いた。驚愕と恐怖にミスリアは小さく息を呑む。

(こ、んなに感情を爆発させる姿なんて……見たことないわ……)

 ぐわん、ぐわん、と衝撃音が反響がする間、心は怯えで満たされていった。

 知り合ってからこれまでの間で見てきた表情の内で、間違いなく今のそれが最も恐ろしい。

 仲裁をしてみようという心意気は最初から少なかった。でももう、残らず消え失せてしまっている。

「絶対、嫌」

 リーデンは動じなかった。

「……」

「そこまで僕にやらせたくないなら自分で先に片付けちゃえば? でも君はそういう気も無いんじゃないの」

 鮮やかな緑色の瞳がミスリアを瞥見した。

 ゲズゥは一度だけ口を開きかけるも、声を発することなく無表情に戻り、その場を後にした。

 扉の閉まる音が心に重くのしかかる。

(ど、どうしよう)

 長身の青年の後を追うべきかどうかわからずにミスリアは狼狽した。

 しばらくして深いため息が静寂を破った。

「大丈夫、あの人まだ近くに居るっていうか建物自体からは出てないと思う」

 リーデンはミスリアに別の部屋でくつろぐように勧めた。彼はバーガンディ色の布カーテンをめくり、幾つもの柔らかそうなソファが揃った部屋に案内してくれた。

 壁際の二人掛けソファの端々にそれぞれ腰をかける。ソファは少し内向けに曲がった楕円形になっていて、互いに端に座ると顔を見合わせる形になる。会談しやすそうな造りだとミスリアは思った。

「結局、いつもこうなっちゃうんだよね」

 リーデンは肘かけに頬杖をついた。切れ長の目と薄い唇はやや垂れ下がり、憂い顔を作っている。

「……あの、出過ぎた質問かもしれませんけど……リーデンさんはゲズゥのことを快く思ってないんですか?」

 遠慮がちにミスリアが出した質問に対し、リーデンの眉尻がキッと吊り上がる。

「嫌いだよ。自分勝手で、人の話を聴かないところなんて特に」

「勝手……だとは思いますけど、話を聴かないなんてことは――」

 ミスリアの経験からするとゲズゥはいつも遠くを見ていても瞑目していても、なんだかんだで人の話の内容を耳に入れているように思えたので、つい身を乗り出して反論しかけた。

 けれども幾月前からの旅の護衛と十余年来の兄弟とでは関係の深さは比較にもならない。やはり出過ぎた意見なのかもしれない、と複雑な心持ちになった。

「ああ、あの人よくわかんないけど聖女さんの意思は尊重しそうだね」

「それは……どうでしょう」

「ねえ、聖女さん。家族ってのはどれだけ引き留めようとしても、行き先を阻もうとしても、行ってしまうものなんだね」

 憂いを帯びた美青年の言葉にミスリアは、不意打ちを食らったような気分になった。

 この人はまさか――姉が家を発った日の記憶を嫌になるほど何度も思い返してしまう自分と、同じ心境に――。

「そりゃあね。広い世界でたった一人の血縁だよ? 大好きに決まってるじゃん」

 ミスリアは饒舌な絶世の美青年を、ただじっと見つめた。

「どっちが本音なのか訊きたそうだね」

「そう、ですね」

 なんとなく訊く前から答えの予想がついていた。

「どっちもだよ。だからめんどくさいんだ」

 彼はふうっと嘆息した。

「…………大好きだからこそ、勝手なのが寂しいんですね」

 そう指摘すると、リーデンは頬杖ついた姿勢のまま、面食らったように硬直した。

 数秒経つと彼は「へえ」と一言呟き、長い睫毛に縁取られた両目を瞬かせた。

「相手の気持ちをわかっているのに、自分のわがままを無理に押し通そうとしてる。聞き分けできない子供だよね、ホント」

「そんな……」

 ミスリアにも心当たりのある話だ。胸がズキンと痛んだ。

「ちょっと、暇つぶしにさ。昔話をしてあげようか」

 こちらが是非を言う前にリーデンは立ち上がり、奥のイマリナに声をかけていた。数分としない内に低いコーヒーテーブルがソファの前に現れ、その上にお茶一式が広げられた。

「故郷を離れざるを得なかった時、僕は五歳前後だったかな。その頃の記憶を割と鮮明に持っている理由に関してはまた今度説明するよ」

 リーデンは優雅な手つきでティーポットを傾け、カップを満たしていった。

「当の忌々しい出来事については知ってるよね」

「断片的にではありますけど……」

 ミスリアは差し出されたティーカップと小皿を受け取る。

「じゃあ君の認識に、僕の話も付け加えておいて」

 いつの間にか左眼のコンタクトを外していたリーデンは、凄艶な笑みを浮かべていた。

 はい、とちゃんと返事を口にできたかは定かではない。

 左右非対称の瞳が醸し出す輝きは狂気そのもの――

 ――そういう錯覚が見えるだけなのかはわかりかねるが、慌ててミスリアはティーカップを口につけて、お茶と共に不安を強引に胃の中へと流し込んだ。

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