30.

 その時にはまだ、リーデン・ユラス・クレインカティは「死」という現象を理解できていなかった。

 人間のみならず林の動物が時々動かなくなるのは知っていたが、それについては兄から「終わったからだ」と過去に説明を受けている。まだリーデンは物事の「始まり」と「終わり」をあまりよくわかっていなかったので、当然、兄の説明では不足だった。

「おかあちゃ」

 リーデンは地に横たわる女性を片手で揺さぶった。

「おかあちゃ、あついよう。すずしいとこいきたい……」

 言いながらも母の肌の冷たさに怯えた。

 先程から村に何が起きているのか、五歳程度のリーデンの頭はまるで理解していなかった。

 どうやら足音のうるさい人たちが沢山踏み込んできて火をつけて回っているようだが、もともと寒くなかったし、何故そんなことをしているのか謎である。家が燃え崩れるから止めて欲しい。

 とりあえずは混乱の中を走り回っていた内に遠くから妹の泣き声が聴こえたので、そちらに向かってみた次第である。

 ところが駆け付けた時には小さな妹はもう泣いていなかった。母の身体に覆い被された赤ん坊は、変な方向に体が捩れたまま、ビクビクと痙攣している。

 ――何かの新しい遊びだろうか。

「おかあちゃ、おかあちゃ、おきてよう。ちっちゃいのがつぶれちゃう」

 いつの間にかリーデンは両手で揺さぶっていた。手に何かぬるっとした物がつくのも気にしない。

「おきてよう」

 あまりもの反応の無さにしびれを切らし、力の限りに母の肩を引っ張る。

 伏せられていた顔が、少しだけ地面から持ち上がった。リーデンは深く考えずに覗き込んでみた。

 頬には涙の跡、口元には鮮血、そして血走ったまなこを見開いたままの必死な形相。

 我が子を守ろうとして儚く散った彼女の、それが最期の姿であった。

 幼いリーデンには初めて見る母のこの表情からそこまで読み取れるはずが無く――ただ、わけもわからずに嗚咽がこみ上げた。

 動かないのに、寝ているのとは違うのだという認識が、徐々に染み込んでくる。

 背後では誰かがガサガサと草を踏み分けて近付いている。でもそんなことはどうでも良い、今はまだ母の顔から目を離すことができなかった。

「おい、こんな所にガキが居るぞ」

「まだ生きてるのが居たか。殺せ! 何歳だろうと関係ない、化け物の一族は根絶やしにしろ」

 男の一人が幼子の首を片手で軽々と締め上げた。リーデンの喉から呻き声が漏れる。

「まったく見ろよ、この白い目。病気みたいだ。何度見ても気持ち悪いな」

「そうだな。早く殺しちまえよ」

 もう一人の男が嫌悪感たっぷりに同意する。

 突如、何か黒いモノが旋風のように二人の男に衝突した。リーデンはその勢いのままに吹き飛ばされ、全身を打ちながら地に落ちた。

「何だぁ!?」

 旋風を巻き起こした人物は男たちを蹴り倒し、その内の一人の上に馬乗りになって、黒光りする鋭いモノを両手で掲げた。

「うがあああ」

 その男は顔面をめった刺しにされてこと切れたが、目の前の行為の恐ろしさをみなまで理解できないリーデンは、ただ上体を起こして呆然とした。

「てめえ!」

 残された男が剣を抜くよりも早く、血まみれの加害者は動いた――敵の喉を掻っ切る必殺の一撃を繰り出して。

 鮮血が周囲に撒き散らされる。

 そこでようやくリーデンは恐ろしさを覚えた。

 ――怖い。知らない男たちも、急に現れたこの血まみれの人も、燃える家の熱さも、そこら中に漂う変な臭いも、何もかも。

 屈んだ姿勢のその人が、素早くこちらを振り向く。よく見れば女の人だ。

「リーデン!?」

 呼ばれて、その人が誰なのかすぐにわかった。

 まっすぐな黒髪、きりりと吊り上がった両目、右目に泣き黒子。母をいつも助け支えてくれる人で、厳しいけれど、なんだかんだでリーデンの世話もしてくれる――兄の母親だ。

「うわあああああん」

 知った顔に安堵したのか、一気に嗚咽が号泣に変わる。すると彼女は宥めるように笑った。

「ごめんなさいね。怖かったでしょう」

 おいで、と呼ばわる優しい声の方へリーデンは走り寄った。

 義母はリーデンを腕に抱き上げ、「終わった」二人の身体を見下ろして、悔しそうに彼女らの名を呟いた。

「……無念を晴らすことはできないかもしれないけど、この子だけでも必ず助けるわ。安心して眠りなさい」

 右手を伸ばして、義母は開かれたままの緑色の瞳を静かに閉じさせた。

 一度ため息をついてから、彼女は林の濃くなる方を見据える。

「リーデン、樹の登り方はわかるわね」

 そう問いかけた時点で彼女はもう走り出していた。

 何故それを今訊ねられるのかはわからないが、リーデンは小さく頷いた。

「わかるよ。こわくないよ」

 兄にくっついて遊んでもらっている内に気が付けば樹に登っている日が多く、それゆえに自信があった。高い場所への抵抗も全くない。

「よかった。だったら、ここにちょうど良いのがあるから、できるだけ高い所まで登ってちょうだい。これなら下からは見えないでしょう」

 義母は走るのを止めて、一本の樹の前に立った。たくさんの枝と木の葉を誇る、幹の太い、大きな樹だ。

 なんで、と訊き返そうとしたリーデンは、義母の真剣な表情を目にして言葉を呑み込んだ。

「わかった? 高く高く登って、それから静かにしているのよ。何を聴いても、見ても、絶対に動いては駄目」

「でも……」

 リーデンは口ごもった。疑問は多くあった。ありすぎて、何から訊けばいいのかわからなかった。

「いいわね――絶対に絶対に、動いちゃ駄目よ。眠くなったら寝てもいいけど。たとえ下の方でどんなことが起きても、降りないのよ」

「う、ん」

 嫌だとは言えない雰囲気だったので、つい同意してしまった。

「良い子ね」

 義母の温かい唇が頬をかすめた。顔面に付着したままの血の臭いもしたが、それはさほど気にならないことだった。

「いやだよ」

 地に下ろされたリーデンは意義を唱えた。泣いて暴れて癇癪を起こしても良かったが、本能的に、きっと無駄だと悟った。なので、静かに呟くだけに留める。「おいてっちゃやだよ」

「……わがまま言わないで。樹の上でずっと静かに、良い子にしてたら、そのうち」――彼女はどこか寂しそうに微笑んだ――「お兄ちゃんが、来てくれるわ」

 その言葉を聴いたリーデンは思わず顔を上げた。

「ほんと? にいちゃ、くる?」

「ええ。ずっとずっと待ってたら、迎えに来てくれるわ、必ず。できるわね?」

「できる! まってる!」

「えらいわ、リーデン」

 そうして五歳児は一心不乱に巨木を登ることにした。もうこれ以上は難しいと思った高さで止まって、辺りを見回す。太い枝を選んで、足をぶらぶらさせつつ座った。

 木の葉の隙間から覗ける地上の世界が、まるで遠い景色のように彼の目には映った。

 勿論、その景色の中に黒髪の女性の影はもう何処にも無い。


_______


 一息ついて美青年は、色っぽい仕草で茶菓子を食んだ。弾みで彼の腕輪が小気味良い音を立てる。

 ソファの反対の端に腰かけているミスリアは、小さく口をぱくぱくさせていた。

(まさか、それだけ? というよりそこで止めるの?)

 そんなはずはない、再開するはずだ、と信じてミスリアはお茶を啜った。

 しかし当のリーデンはのんびりと茶菓子を称賛している。

「バノックってモチモチした食感が嫌いだからあんまり食べないんだよね。でもこれいいね、しっとりしてて。流石は僕の好みをわかってるって感じ。ちゃんと後でマリちゃんを褒め称えなきゃ。ね、聖女さん」 (バノック=スコーンの原点)

「……そうですね、すごく美味しいです。…………ではなくて、あの、それでお話の続きは」

「んー?」

「ですから、その。大人しく待ったら、ゲズゥは迎えに来てくれたんですか?」

 人を急かすのはマナーが悪い。そう考えながら、ミスリアは訊かずにはいられなかった。或いは兄弟の関係をより詳細にわかるヒントがあるのではないかとも思う。

 絶世の美青年はすぐには反応を示さなかった。どこへともなく視線をやりつつ、代わりに彼は不可解な問いを投げかけてくる。

「その前に、僕って幾つだと思う」

「歳の数ですか」

 言われて、真面目に考えてみた。弟と言うからにはゲズゥよりは年下でなければならない。それなのにリーデンの達観した雰囲気か眼光の所為か、どうにもよくわからない。腹違いなだけに実は同い年だったりするかもしれない。

(そういえば回想の中では五歳と言っていたかしら)

 あの出来事は十二年前に起きていると聞いているから……と、ミスリアは簡単な暗算をこなした。

「十七歳ですよね。お若いですね」

「君ほどじゃないけど」

「は、はあ」

 奇妙なやりとりにミスリアは笑うしかなかった。

「ねえ、聖女さんは臨界期仮定って知ってる?」

 リーデンはバノックの残りを切り分けながら問うた。その面には笑みが貼り付いている。

「生物の発育過程で、外的な刺激を絶対に必要とする時期のこと、ですよね」

 少したじろぎながらもミスリアは丁寧に答えた。

「よく知ってるねぇ。正直予想外だよ。教団の教育さまさまだね」

 ふんふん、と彼は何度も点頭する。

「教育の一環ではありません、言語学が好きな友人に聞いただけですよ。確か、臨界期の間に外的な刺激を受けないと、言語能力がその後の一生も完全には育たないって考えでしたよね」

「そ。大人になってから初めて人に話しかけられたんじゃあ遅すぎてちゃんと話せるようになれない、って特異な事例が幾つも確認される内に、そのように仮定が立てられた。放置された子供、無人の山の上で狼に育てられた子、耳が聴こえない人、などなど」

 物知り顔で語る青年を不思議に思い、ミスリアは小首を傾げた。

「リーデンさんこそそういうのに興味があるんですか?」

「興味っていうか身近な問題っていうのかなー。なかなかマニアックな話だけど、僕は詳しく調べ上げないと気が済まない性質でね」

 彼は再び頬杖ついた。左右非対称の瞳にまたもや妖しげな光が宿っていることに気付き、ミスリアは唾を呑み込む。

「一部の学者たちの間では、感情の発達についても似たようなことが説かれてるんだ」

「感情の発達……ですか」

「それの臨界期に該当する年齢については色々言われてるけど。細かいことを省けば、つまり子供でいる間に保護者に構ってもらわないと、誰かに愛情を注いでもらわないと、まともな精神が育たないって話」

 この会話は何処へ向かっているのか――ミスリアは疑問に思い、さまざまな方向に邪推し始めて、気を揉む結果となった。

 その心の揺れ動きをリーデンは敏感に読み取ったらしい。

「あはは、なんか勘違いした? そういうんじゃないよ。兄さんは昔からあんなノリだったけど、これでも小さい頃は可愛がってくれたよ」

「かわい――……?」

 ゲズゥと「可愛がる」が同じ文の内に示されていることに吃驚して、ミスリアは語尾のトーンを跳ね上げさせる。

「うん。あのあと確かに兄さんは、僕を迎えに来てくれたよ。半日後か或いは数日後だったのか、その辺りの記憶は曖昧だけどね。待ってた間に寝ては覚めての繰り返し、現実も悪夢も区別がつかないくらいどっちもひどかったもんだから」

 リーデンは一旦目を瞑って瞼の裏の映像を払うかのように眉間の皴を揉んだ。

 一拍置いて、続ける。

「兄さんは僕を背負って走った。村から遠く遠く離れ、それからは二人で町を転々と移ろいながらゴミ山を漁り、拾い食いをし、時には盗みもして食いつないで……。意地汚い生き方と言っても、幼い僕には多分、家族が一緒ってだけで結構満たされていたんじゃないかな。不思議と、思い出はいつも温かい」

「なるほど、そんなことが……」

 今回のお茶は苦いなぁ、と思いながらミスリアは話に聞き入っていた。お茶以上に、リーデンの語る過去は苦い。

 しかしゲズゥの幼少時代を想像してみるのはどこか新鮮な感じがした。

「そんな生活も長続きせず、やがて子宝に恵まれなかった老夫婦の目に留まって、引き取られることになったんだ」

 リーデンが次に語った予期せぬ展開に、ミスリアは瞬きを返す。

(よかった、ずっと子供二人で生きていたんじゃなくて)

 そして僅かな安堵を覚えた。

「その方たちは今はどうされてるんですか?」

「ん? もう大分前に死んだよ」

「す、すみません。お気の毒でしたね」

「別に謝ることないよ。僕が殺したんだし」

「――やめて下さい! なんて冗談を」

 無意識にミスリアは席を立ち上がっていた。膝がコーヒーテーブルに当たり、突然の揺れでティーカップが落ちそうになる。それをリーデンが素早く手を出して防いだ。

「ん~、事実だけど」

 テーブルの上に身を伸ばした姿勢のまま、彼が上目遣いで告げる。

「その二人も、数年にかけて愛してはくれたと思うんだけど…………なんて言うか、ある日鈍器で殴っちゃったよ」

 突然窓が開けられた時みたいに部屋の気温が下がったような気がした。だがここは地下の一室であって窓は一つとて無く、空気の流れもほぼ皆無である。

 気のせいに違いない。にも関わらず、ミスリアは全身が小刻みに震え出すのを止められずにいた。

「なに、を言って……」

 膝が痛みにじんじん痺れるのにも構わず、声を絞り出した。

「そいつらの所為で僕ら兄弟は引き離されたんだ。当然の報いでしょ」

 ――悪びれず朗らかに笑っている。

(本気で言っているのだとしたらとんでもない道徳観だわ)

 今聞いた出来事が実際に起きたという確証は無いし、事件そのものの情報が絶対的に足りない。だが真実がどうであれ、目の前の美青年は「何かがおかしい」と、ミスリアは確信した。

「物心ついたのかついてないのかどっちとも言えない年頃の子供がやったことだよ。育てた人間の失敗が導いた結果と考えるのが妥当で、僕の咎だと誰が責められる?」

 ミスリアは答えられなかった。

 ある意味ではうなずけるが、同時にそれは責任転嫁とも取れる見解だ。

 心底リーデンは、自分のしたことが何一つ間違っていないと思っているのだろうか。当時はともかく、アルシュント大陸での一般男性の成人年齢である十五歳を過ぎた今でも、省みる所は何も無いのだろうか。

(この人の精神構造はどうなっているの)

 今ばかりは、弟の狂気と比べて兄の罪は些事に思えてしまう。

 罪の数ではなく感覚の問題だ。ゲズゥは人としてまだ戻れる場所がありそうなものだが、この青年は――血の繋がりはさておいて、親殺しという紛れも無い大罪を犯している。

 彼の主張通り、注がれた愛情の方に問題があったのか? それともリーデンの言い訳に過ぎないのか?

 わからない。わかろうはずも無い。吐き気がする――

「あー、そういえば聖女さん」

 相変わらずの澄んだ美声が思考を横切って、ミスリアは身構えた。

「な、何でしょう」

「たった今、兄さんが建物から出ちゃったけど。どうするの? 追いかけるの?」

 リーデンは地下室の天井を見上げて訊いた。

「それは困ります! すぐに追いますので、お話の続きはまた後ほどお願いしますね、すみません。失礼しますっ」

 場を逃げ出す口実が出来たことにとてつもなくほっとしたのも束の間、次の瞬間にはもう走り出していた。

 背後から聴こえる高らかな笑い声が夢にまで響きそうである。ミスリアはこみ上げそうな涙をぐっと堪えた。

 地上へ続く階段を無心に駆け上がって、上り切ったら今度は路上に出るつもりで駆ける。

 その後はどこへ向かえばいいのか全く当てが無いけれど、ミスリアは足を止めなかった。

 案外、探し人はすぐに見つかった。リーデンが居を構える建物から数歩も離れていない位置に彼は佇んでいた。

(――っ、こんなに)

 ……安心するとは思わなかった。堪えていた涙が目元に少し滲み出たのは、午後の陽射しが眩しいからってだけではない。

 黒曜石に似た瞳が湛える静けさの中に、ついさっき露わになった激情は残っていない。だからだろうか、目が合った途端、さざなみ立っていた気持ちが少しだけ落ち着いた。

 長身の青年は、息を切らして膝に手をつけるミスリアを、怪訝そうに見下ろす。

「そんなに慌てずとも、別に置いて行ったりしない」

 彼は草か枝のようなものを一本口に咥えたまま無機質に言った。

「あ、はい。ありがとうございます」

 何故か熱が顔に集中したように感じて、思わず目を逸らした。そんな言葉をかけてもらえて――嬉しい、のかもしれない。言った方には喜ばせるつもりなど無かったとしても。

「そ、それで今日はどちらへ向かいますか?」

 気持ちを切り替え、笑顔を作って改めて訊ねた。今はまだ、地下に潜む銀髪の美青年について触れたい気分ではなかった。きっとゲズゥも話題にしたいとは思わないだろう。

「…………昨日の子供を探す」

 理由も無くなんとなく散策するのかと思っていたミスリアは、意外な答えに目を見開いた。

(あの子のことを心配しての行動なら感心するところだけれど)

 そう考えるのはどこか的外れな気がした。

「でも街に居るとは考えにくいですよね? 昨晩はあんな外れに居た訳ですし」

「おそらく高い所に行けば遭遇する」

「高い所?」

 訊き返したものの、返事は無かった。

 ゲズゥは黒いコートの裾を翻してさっさと歩き出していた。ミスリアもその後に続く。

 彼は時折止まっては周囲を見回し、行き先を決めているようだった。

(高い場所から町全体を見下ろして探す……? そんな言い方じゃなかったわ。おそらく遭遇する、ってどういう意味だろう)

 考えうる可能性があるとしたら、それは例の少年の方がこちらを探している場合――高い所に立って姿を見せるだけで近付いてくるはずだ。しかしそれならば何故探すのか、何故ゲズゥにその予想がついたのか、わからないことだらけになる。

 路地裏の迷路を抜けると今度は街をうろつき、やがて更なる紆余曲折を経てやっとゲズゥは立ち止まった。

 街の北端だろうか。草が繁茂した地域に、水道橋の一部がそびえ立っている。

 80フィート(約24.3メートル)をゆうに超える水道橋は、壊れた状態よりむしろ建設中に計画が放棄された風に見えた。一番高い所は二段目まで完成しており、一番低い所は一段目の柱のレンガが途中までしか積み上げられていない。

 ――悪い予感がする。

 おそるおそると隣のゲズゥを見上げると、彼は一言「のぼる」とだけ呟いた。

「あれを、登るんですね……!」

「嫌なら地上で待っててもいいが」

「……一番高い位置まで行く気ですか?」

「そうだな」

「わかりました。私は下で待ってます」

 とりあえずは妥協することにした。

 ああ、とだけ答えて、ゲズゥは古びたレンガに手を付ける。慣れた手つきで上へ上へと登っていく彼の後ろ姿を見届けてから、ミスリアは登りやすそうな所を探した。

 一番高いとまでは行かなくとも、少しでも登ってイマリナ=タユスを見下ろしてみたい気分である。

 レンガの積み上がった部分を足場に使い、何とか掴める箇所を順に見つけてよじ登った。五分ほどして腰を落ち着ける場所に着けた。その頃には爪が割れたり指先に多少の傷ができたりしたが、得られた成果はそんな煩わしさを掻き消すに十分だった。

 人の手が作り上げた絶景。そこには、大自然が魅せる光景とは別種の感動があった。

 故郷たる島国から一歩も出ることなく一生を過ごしていたら決して出逢えなかったであろう喜びに、思わずおののいた。

 視界いっぱいに広がる、手の込んだ造りの都には、どれだけの歴史とどれだけの人の夢や苦労が詰まっているのだろうか。ここから望める港や街道、住宅街や役所、果ては路地裏にまで。

 寒空の下、太陽が力強く照らすイマリナ=タユスの町では、さまざまな人生が行き交っている。その中にはミスリアにはとても想像できないような困難な人生も、燦爛たる人生も、多種多様に含まれていることだろう。

 彼等が思い描くままに道を往けるよう、妨げが少なければいいのに――と、ふとミスリアは手を握り合わせて祈った。

(でも、誰もがみんな望むままに進んだら、そのせいで衝突してしまう人生も出て来る)

 生きているというのは一筋縄では行かないものだ。自然界にだって、共生と相克がありふれている。人の世も同様に入り組んでいて、どちらの在り様が正しいのかなど、結論が出たためしは無い。

(せめて自分にできることを、聖女としての役目を、精一杯まっとうしよう)

 少なくとも大陸中の魔物を昇華していくことが人々にとってマイナスになるはずは無いのだから。

 物思いに耽り始めて数分、突風が周囲を吹き抜けた。ミスリアは長い袖と裾のドレスの上にショール型の外套を羽織っているがそれは薄地の部類に入る品物で、今の風に弄ばれはしても充分に防げた気がしない。特に背中や後ろ首辺りが一気に冷たくなった。

 フードが付いているのが幸いで、ミスリアはこれ以上髪が乱れないように、そして冷えないようにと目深に被った。

「ここ数日で急に冷え込みましたね」

 身震いしつつもミスリアはゲズゥが居る辺りを斜め上に見上げた。

 立っていれば余計に風が当たって寒いはずなのに、彼は平然そうな顔で直立していた。昨日使っていた膝まである黒コートをちゃんと乾かして着用しているからかもしれない。両手なんて、ポケットに収まっていて温かそうである。

「コレは貸してやれないが」

 こちらがコートに視線を集中させていたのに気が付いたらしい。

「わ、わかってますよ、リーデンさんのご厚意です。それに背丈が違い過ぎますし」そう答えると、ミスリアはあることを思い出して懐かしさに頬を緩ませる。「私には姉が居ましたけど、歳が離れていたので服の貸し借りはできませんでした」

「過去形」

 返ってきた一言の指摘にミスリアは苦笑した。

「お姉さまは私より先に聖女となって旅に出ました。そしてそのまま、失踪しています」

 一抹の淋しさに胸が痛んだ。

「つまり、お前のは捜す為の旅か」

 つとゲズゥが投げかけてきた憶説にミスリアは驚かない。以前から、自分は厳密には世界を救う為に旅立った訳ではないと、言明してあったからだ。

「そうではありません。いえ、全くそんなつもりが無いと言えば嘘になりますけど……」

 そこから先を語れなかった。裏付けを取れていない、ただの疑惑を口にするだけの勇気が足りなくて。

 ふらりと、心身の支えを求めてレンガの柱に背中を預ける。

 ミスリアが口を噤んだ後は静寂が続いた。否、人と動物の声が欠けただけで、静寂と呼ぶには風がうるさすぎた。まるで聴く者に何かを訴えかけるかのような高らかな風音が、間隔を置いて何度も周囲を揺さぶる。

 じっとしていると時々古城の映像がチラチラと脳裏を過ぎるが、今や無視できる程には慣れている。

 そうしてしばらく経ってまた口を開きたくなった時、再びとある名が舌の上を滑った。

「リーデンさんて複雑な方ですね」

 直後、上からは嘲笑に似た吐息が聴こえた。

「そういうのを婉曲と呼ぶらしいが」

「む、難しい言葉を知ってますね。婉曲表現になるんでしょうか」

「…………アレとの確執にお前を巻き込んだのは、悪かったと思ってる」

 いつもの感情に乏しい声とは違う、僅かだが確かに申し訳なさそうな声色だった。

「え? そんな、私は構いませんけど」

 条件反射でミスリアは答えた。

「いや。お前はアレを怖がって逃げ出した」

「――それは、だって……あまりに惨いことを言う、から……です」

 するとゲズゥは口に出しては何も言わなかったが、その沈黙にこそ「詳しく話せ」と求められているとミスリアは解釈した。

 俯き、途切れ途切れに語り出す。

「親……を。引き取って育てて下さった方たちを……ある日、自分が殺した、と。あの人は、そう言って笑いました」

 ミスリアは心のどこかでは否定して欲しくて語っていた。ただのほら話だから早く忘れろ、とでも言って欲しくて。

 そしてゲズゥは返事をした。

「事実だ」

「――――!」

 がばっと彼の立つ方を見上げても、レンガを覆う蔓草がちょうど邪魔で表情が窺えない。

「俺はその場に居なかったが、視ていたから、知ってる」

 あくまで淡々と、言葉は重ねられる。

「おかしいです! その場に居なかったのに『見てた』ってどういうことですか」

「左眼の特性の一つだ。血縁関係の強い相手と、視界を共有できる」

「視界を……?」

 ミスリアは訊ね返した。ゲズゥ自ら「呪いの眼」について説明する気になっているのが珍しくて、つい話題の中心人物よりもそちらの方に興味が向いてしまう。

「別に、常にそうなってるんじゃない。何故か距離が離れた方が頻繁に同調が起こるが、意図的に遮断するのも可能だ」

「すごいですね。そんな風になってるなんて……」

 途方もない話なのに、ミスリアにはすんなり信じられた。今の説明を受け入れさえすれば、昨夜のリーデンの言動に抱いた疑問がことごとく解消されるからだ。

「もしかして相手がどこに居るのか、距離感覚も備わってたりしますか?」

「大して頼れはしないがな」

「それでもこの町まで追って来て、見つけられたでしょう。リーデンさんだって、そうやって昨夜は河のほとりまで来たんですよね」

「ああ」

 ――謎がいくらか解けた。

 頭の中で、ミスリアはいくつかの点と点を繋いでいた。視界の共有、距離感覚。遠い昔、リーデンが誰の目も届かない場所に隠れていながらゲズゥが迎えに来れたのは、そのおかげだろう。それに、世界でただ一人の家族と遠く離れていても平気でいられるのは、或いはこの不可思議な能力があるからなのかもしれない。

(裏を返せば、それってもしかして)

 ミスリアはあることに気が付いた。便利そうな力に思えるが、良い事ばかりなはずが無い。何せ自分一人の経験だけではなく、別の人間の味わった悲しみや苦しみを直に受け取ることになるのだから。

 自分に置き換えてたとえれば、魔物に魂を繋ぐ歌を使うのと同じだ。

 あれは他人の記憶と過去、と最終的に割り切れれば正気を保てるものであって、身近な相手と何度も経験を共有していたら、他人事でない分だけもっと引きずりそうである。

 そして振り出しに、リーデンの話に戻る。

(老夫婦を鈍器で殴った場面を同調して視てた――?)

 視ていただけで、手を出せる範囲に居なかったのなら。一体どんな気持ちで一部始終を観察していたというのだろう。全く何も感じなかったはずが無い。

 気分が悪くなり、ミスリアはそれ以上は想像したくなかった。強制的に思考回路を止め、深く息を吸い込む。

 会話が今度こそ止んだので、太陽が西の空を悠々と横切るのを眺めようと思って顔を上げた。いつの間にかもこもことした灰色の雲が青の上を滑っている。陽の光が遮られて弱まる度に、気温は下がって行った。

 流石に寒くなってきた。できれば屋内に入って毛布に包まるなりお茶を飲むなりして温まりたいと思う。

(そういえば私たちは何をしに来たんだっけ。えーと、子供に会いに?)

 思い出したのと時を同じくして地上からガサガサと何かが野草を踏み分ける音がした。

 柱に片手を付けたまま、対象を見下ろそうとやや身を乗り出してみる。小さな人影だった。本当に、件の子供が現れたのだろうか。

 人影は水道橋を振り仰ぎ、長い髪に隠れていない唇を動かした。

 何かを言ったのなら、突風で聴き取ることができなかった。しかしその唇は、「みつけた」という単語を形作っていたように見受けられる。

 重く硬そうな布が風に絡まれる音と共に、ミスリアの視界を、大きくて黒い物が通り過ぎて行った。

「ミスリア! お前はそこを動くな」

 と、黒い物が振り向きざまに命じる。

「何を……」

 唐突に、猛烈な不安が心を占め尽くした。既にゲズゥは地に足を付けている。同等の身体能力を持たないミスリアが同じ場所に辿り着くまでには、必ず数分以上はかかる。

 何に対する不安なのかはわからなかった。動くなと言われはしたけれど、やはり降りた方がいいのか。

 逡巡していた間、ミスリアは二人の人影から目を離せずに居た。

 その時、小さい方の人影がずかずか進むのをやめた――

 かと思えば、次には叫びながら走り出した――

 少年は両手に、長くて危険なナニカを握り締めているように見えた。ミスリアは目を見開いたまま硬直した。

(どうして!?)

 警告を伝えようとしても、声が出なかった。

 疑問は少年の行動というより、長身の青年の方にあった。彼は着地して以来、真正面から突進してくる少年を前にして、小指の先ほども動かない。

 まるで鉈の切っ先へ吸い寄せられたかのように、最初からそれが狙いだったかのように。

 ほどなくして二つの人影は重なった。

 硬直が解けたミスリアは大急ぎで水道橋から降り始めた。

 叫び声が止んでいる。少年は頼りない肩を激しく震わせながら、荒い呼吸を繰り返し、鉈を引き抜こうともがいていた。

 血が伝う鉈の刃に、無骨な手が重なる。刃は刺した対象に、その全長の四分の一も食い込んでいない。

「たとえ――」ゲズゥが発した声はひどく冷静だった。「腕が上がらなくなるまで俺を刺しても、或いは殺したとしても、お前の心は晴れない」

「はな、せぇ!」

 子供はひたすら鉈を引き抜こうとしているが、びくともしない。腕力の差は明らかである。

(ダメ。引き抜いたら出血が)

 焦り、ミスリアはレンガの柱を滑り落ちるようにして降りた。

「恨みとはそういう物だ。楽になりたければ、別の方法をみつけるんだな」

「なに、言ってんだよ。そんなんどうでもいい! おばさんをめちゃくちゃにしたオマエを、絶対、ゆるさない! わすれたとは言わせないからなぁ!」

 少年は全身から憎悪をほとばしらせながら一言ずつを恨みがましく吐き出した。

「……憶えてる」

 ぽた、ぽたり、と深紅の滴が草を濡らす。青年はそれを全く気にせずに静かに答える。

(こんな子供が仇討ちを……?)

 衝撃のあまり、身体の動きが一瞬止まった。そしてどうしてかそのことより気になる問題があった。

 ふいにミスリアはシャスヴォルの兵隊長だった男性を思い返した。あの時ゲズゥは何と言っただろうか。

「お前が慕っていた女には殺されるべき理由が多くあった。故郷の村を滅ぼした『実行犯』の一人でもある。あの日に遡って選び直せと言われたら、何度でも俺はあの女を苦しめて殺す方を選ぶ」

「うるさい! おばさんはすごく優しくて、おれにとっては親だったんだ! 殺される理由なんてあるわけない!」

 ゲズゥは少年の必死の抗言を完全に無視して続けた。

「だがあの場に現れたお前に見せつける必要は無かった。お前の憎しみを悪化させた責任は、確かに俺にある」――彼は鉈にかけていた手に力を込め――「だから、思う存分、やりたいようにやればいい」

 やっと水道橋を降り切ったミスリアは、その勧めを聴いて一層強い焦燥感に打たれた。何やら整理しきれない感情を持て余し、覚束ない足取りで二人の傍へ歩む。

(過去の罪に対して罪悪感を感じているのは、良い傾向だと、喜ぶべきかもしれない、けど……)

 そう考えながらも信じられないくらいに自身の動きは緩慢としていた。

 少年がゲズゥの手助けを経て鉈を引き抜く瞬間が、目に見えて間近に迫っているのに、ミスリアの足は速まることができなかった。

『お前が俺に復讐するのはお前の勝手だ。そこで返り討ちにするのは俺の勝手だ』

 シャスヴォルの兵隊長を相手にした時に比べて、ゲズゥの態度が違っている。原因を辿ろうにも、彼が今しがた語った責任の話だけでは釈然としないものがあった。

 今はそんなことより、目の前で繰り広げられかけている悲劇を止めなければならない。

(きっとあの子にとっての取り返しのつかない過ちになる)

 それは、無関係な人間ならではの意見だろうか。どちらにせよ、心の奥底から人を恨んだことの無いミスリアにはわからない。

 止めなければならないという意思の方が、今は迷いよりも勝っていた。

 黒いコートに身を包んだ青年の背中が視界の中で段々と大きくなっている。あと数歩もすれば手が届きそうな距離に達すると、鉄の臭いが鼻についた。

 なんとか仇討ち少年を説得できないだろうか。気を引き締めて、ミスリアは横を回り込んだ――

 低く、形容しがたい音がした。遅れて両目が脳へと映像を読み込む。

 少年は血に濡れた鉈を持ってよろめいていた。

 栓の役割を果たしていた凶器が抜けても、ゲズゥの左脚から劇的に鮮血が飛び出したりはしない。代わりに、真っ黒な革に開いた穴の周りが音も無く潤い、嫌な光沢を帯びる。

「や――」

 その時点でようやっと、ミスリアは声の出し方を思い出していた。

 少年は、鉈を両手で逆手に握って、大きく振り被っている。今度は腹部を狙うのだろうか。

「やめて下さい!」

 かなり危険な真似だと頭のどこかでわかっていたが、それでもミスリアは飛び出していた。

 自分と大して身長の変わらない華奢な少年に体当たりをする。二人して転倒し、鉈は少し離れた場所に落ちた。

「なに、すんだよ!」

「お願いです、思い直して! 一日だけでもいいんです、引いて下さい!」

 骨と皮と髪ばかりの栄養不足な子供が相手では、ミスリアでも取り押さえることは可能だった。

 揉み合いながらも説得を試みる。

「今日の行動が明日からの貴方をどう変えていくのか――まだわからないかもしれませんけど、信じて下さい! 大切な人の仇だとしても、殺すのは、それだけは、いけません!」

 並べ立てている言葉に説得力があっても無くても構わない。止めたい、ただそれだけだった。

 組み敷いたような体勢になり、ミスリアは少年の痩せこけた顔を見下ろした。昨晩は虚ろな印象を与えた瞳が、今日は怨念に血走っている。

「うるさいいいいいい!」

 少年のどこにそれだけの力があったのか。

 刹那の激怒。少年はミスリアの頬を引っ掻き、下アバラに膝蹴りを入れた。痛みに蹲るほかなかった。

 視界の端で、ゲズゥが屈んでいるのが見えた。片手で鉈を拾い上げ、長い柄から差し出す。

「落し物だ。返す」

 己の血液がべったりとこびりついた刃に対して、彼は平然としている。普通は自分がとめどなく血を流しているだけでも仰天しかねないが、それは一般人の定義であって、今更ゲズゥに当てはめられるものではないとミスリアは知っていた。

「――――なっ……」

 逆に少年の方が動揺した。

 ミスリアはかろうじて上体を起こして目を凝らす。仇討ち少年は、これまでの激しい意識状態から醒めかけているようだった。

「う、あ……あ…………」

 ガタガタと全身を震わせ、鉈を受け取ろうとしない。

(怯えてる?)

 自覚が芽生えたのだろうか。行為の恐ろしさを、理解したのだろうか。

 変化に気付いたとすれば、ゲズゥはそれらしい素振りを見せなかった。彼は空いた手で少年の右手を掴み、強引に鉈の柄を握らせた。

 その過程のどこかで細い手首に深紅が付着していた。少年は戦々恐々と血痕を見下ろす。

「ああああああああああ」

 正気の色を映し始めていた瞳は恐怖に一際大きく見開かれる。

 そして昨夜と同じく、少年は足早に逃亡した。辺りに草が繁茂しているだけあって小さな人影が消えてなくなるまでに一分もかからない。

 ぼんやりとその後ろ姿を見送っていたらしいゲズゥが、やがて短くため息を吐いた。レンガの山を背もたれに求め、地面にずるずると座り込む。

 ミスリアは蹴られた箇所をさすりながら、何度か咳をした。次いでふらりと青年の隣まで近寄った。

「頬」

 見上げる黒い瞳は相変わらず平静だ。

「ちょっと引っ掻かれただけですよ。痺れはしますけど、大丈夫です。それより脚の怪我を見せて下さい」

 治癒しやすいように、彼の左隣に膝をついた。

 ところが、伸ばしかけた手は止められた。濃い肌色をした大きな手がミスリアの右の手首を長袖の上から握り締める。

 驚き、探る眼差しをゲズゥに向けた。心なしか血色の悪くなった顔が視線を返す。

「いらない。これはけじめだ。治さなくていい」

 思わずミスリアは何か言い返そうと口を開きかけた。けれども手首を締める強い力からゲズゥの決意の固さがひしひしと伝わってきて、言い返すはずだった言葉も失われた。

「…………ではせめて、お医者様に診ていただきましょう」

 と提案すると、「わかった」と彼は頷いた。握り締められていた手首も解放される。

「しばらく休めば歩けるようになる。……多分」

 はい、と小声で相槌を打ち、ミスリアはショールを破いて応急処置に当たる。コートを開くと想像以上に革が濡れていて重く、その下に現れた麻ズボンに大きな赤い染みが広がりつつあった。

 決して長く放っておけるような傷ではない。

「やっぱり少しだけでも聖気を使わせて下さい」

 包帯代わりの布を巻きながら、不安を隠せない声で言った。止血の為、傷口には充分な圧力を加えて、巻き終わった包帯をしっかり結んで――

 ――反応が無い。

 見れば、気付かぬ内にゲズゥは瞼を下ろしていたらしい。

 反射的に彼の首筋に人差指と中指を押し当てた。幸い、指先にはちゃんと生きた人間の血管が脈打つ感触が伝わった。しかし異様に速いのは気のせいではない。

 おそらく失血のショックで気を失ったのだろう。

 涙がこみ上がった。

 何とかしなきゃと思ってまた片手を伸ばすも、躊躇して何もできない。

 苦しみを少しでも少なくしてやりたいと思う反面、気持ちを汲んでやりたいとも思う。ここまで譲らないからには、何かしら深い理由があるはずだ。知らないまま踏みにじっていいとは思えない。

 この切なさは何だろう――妙な衝動に駆られ、ミスリアは青年の横顔に手を伸ばしていた。

(そういえば寝顔? を見るのは初めてなのかな……)

 ゲズゥは大抵の日はどこか目に入らない場所で寝ているか、ミスリアよりも遅く寝て早く起きている。

 よく人の寝顔は万国共通で無邪気だと言うが、これは厳密には寝顔ではないし、無邪気どころかやたら苦しそうである。

 ミスリアは余った布きれで汗の粒を拭ってやった。

 苦渋に寄せられた眉根も、不自然に速い胸板の上下も、見守るしかできないのがたまらなくもどかしい。

 衝動を生み出す渇望の正体を、ミスリアは知らなかった。

 知らないまま、ゲズゥの左手の下に己の右手を滑り込ませ、思いっきり握る。

 もう視界がぼやけてよくわからないけれど、その上に涙の滴が零れ落ちる気配を感じた。

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