31.

 桃色の液体に緑色の小粒とは、随分といかがわしい。そんな外見の薬だが、効果の方は期待できるのだろうか。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは手渡された小瓶を掌の上で揺らしたりしてみた。これまた、いかがわしい臭いが小瓶の蓋と口の隙間から漏れる――たとえるなら、草を汗で湿らせたかのような。

「そいつは強力な痛み止めですぞ。こっちは造血剤、食事の度に一つ、よく噛み砕いて飲みなされ。なに、若い男といえばただでさえ血の気が多くて、造血なんざ必要ないでしょうがね」

 ――ハッハッハ! と壮年の医者が豪放に笑いながら巾着を放り投げる。

 巾着を受け取ったゲズゥは、想定外に中身が硬くて重いことに目を細めた。

「ありがとうございます、先生」

 ミスリアが医者の正面に立って直角に倣った深い礼をする。

 医者は黒い顎鬚を一撫でしてニヤニヤ笑った。鋭い眉や鼻の高さ含め、猛禽類寄りの顔立ちなのがどうも気になる。胡散臭い雰囲気とは裏腹に、町内では名医として腕の良さに定評があるらしいが。

「それじゃあ、杖もつけてやりましょうぞ」

 そう言って医者は狭い診察室から廊下へとしばらく姿を消した。戻って来た頃にはその手に一対のT字形の杖が握られていた。

「その怪我でここまで歩く気合があったのは、結構結構。しかーし、せっかく縫った傷口が開いても困りますからな、なるべく安静にしてなされ。幸い、デカい患者様を診るのは初めてじゃない。この長さで足りますな?」

 ゲズゥは差し出された木製の杖を早速脇下に当て、試しに寄りかかってみた。重心は安定していて、脇に当たる部分も硬すぎず軟らかすぎずでちょうどいい。これなら負担も少なく歩けるだろう。

「問題ない」

 と、以上の旨を簡潔にまとめて答えた。

「よし。となると、支払いの話に移ってもいいですかな」

 猛禽類風の医者が椅子を引いてミスリアに勧める。はい、と頷いてミスリアは椅子にそっと腰をかけた。

 二人が金の話をする間、ゲズゥは無言で傍観に徹した。数字やら細かい交渉は面倒だ。必要な物はどうあっても必要なのだから、高い金を払うことになっても手に入りさえすればいいと彼は考える。ちなみに弟のリーデンは、必要な物の為にこそ完膚なきまでに値切る派ある。

 そんなわけで治療費の話はほどほど耳に入れつつ、己の身勝手な寄り道に文句ひとつ言わずに付き合ってくれている少女を、なんとなくじっと観察して過ごした。


_______


 夢を見ていたとしたら、内容は記憶に残らなかった。

 まどろみの中で唯一強く感じていたのは「寒さ」だけだったと思う。

 そんな膜のように薄い無意識から脱した時、まず最初に意識を射止めたのは左手に巻き付いていた柔らかい温もり、それから――

「あつい」

 ――手の甲を時々打つ、小さな熱。

「……え?」

 傍らで項垂れていた少女は、ゆっくりと頭をもたげた。その顔をおぼろげに認識して、ゲズゥは熱の源を知った。

「そういえば、涙ってのは、熱いんだったな」

 忘れていた訳ではないはずなのに、僅かな衝撃を覚えた。

「ごめんなさい」

 少女はすかさず謝った。

 別に嫌に思ったから言ったのではないのに。そう付け足そうと思ったが、その前にミスリアがまた言葉を零した。

「……貴方はいつも……熱い、ってぐらい体温が高いのに……今は、冷たくて。それがなんだか怖くなって……」

 ふと、左手に巻き付いている温もりが逃げそうになる。ゲズゥは力なく横たわらせていただけの手に力を込め、離れつつある小さな指を握って留まらせた。

「重く考えすぎだ。これくらい、すぐ回復する」

 実際は「寒さ」に顎がガチガチ鳴りだしているのを精神力で制して、最小限に抑えられるようにゆっくり話している。

「……嘘です。本当は凄く痛いんでしょう。苦しいんじゃ、ないですか」

「お前に会う前と何ら変わらない」

 聖気などと言う、非現実的だが極めて有用な力が身近に無かった頃。運が良ければ痛み止めなどに使える薬草が手に入ったが、それ以外の時は、気を紛らわせるなり無理矢理にでも眠りにつくなり、自力で回復するまでは耐えるしかできなかった。

 ミスリアは唇を噛み締めて押し黙った。大きな茶色の瞳は新たに涙を溜めて潤い、葛藤を抱えている様子だ。

 少女の涙も気にはなるが、それよりも、ゲズゥは激痛と共に、再び意識が闇に押しつぶされそうになるのを感じた。また潜るのはまずい、と勘が訴えかける。

「――話を」

「はい……?」

「何でもいいから、気が紛れる話をしろ」

 意図がわからなそうに、ミスリアは小首を傾げた。それでも、わからないままでも、素直に応えようと決めたらしい。

「それでは、あの子は何処に去ったのでしょう。帰る場所なんてあるんでしょうか」

「さあ。元々の帰る場所は、俺が奪ったからな」

「……そうですか……」

 いきなり会話が終了していることに、ミスリアは困惑気味に俯く。そして意を決したように顔を上げたかと思えば、次には矢継ぎ早に質問を連ねた。

「どうしてこんなことをするんです? 罪滅ぼしですか? これまでは罪の意識を感じてる素振りは見せなかったのに、どうして、あの子に関してだけはけじめをつけたいなんて言うんですか? 本当は何があったんですか」

「…………それは……」

 ゲズゥは瞑目した。

 熱に浮かされつつある頭は、一斉に浴びせられた質問をどう捌くべきかのろのろと思考する――

 ――そうする内に、あの女と相対した夜を思い返していた。

 首から下の肌という肌を覆い隠した、シャスヴォル国特有の、古風で厳格な服装。結い上げられた長い髪。丸い顔に小さい両目、低い鼻や古風な化粧も併せて、初見では楚々とした空気を醸し出す中年女だった、が。

 少数民族を同じ人間ではなく下賤な生き物と捉え、卑しむ眼差し。

 折に触れて生唾と暴言を吐き出す、紅の塗りたくられた唇。

 政治家の妹という立場にあり、「呪いの眼」一族に滅びをもたらした内の一人は、性根の醜い女だった。

「…………奴らを残らず殺すと、従兄と約束した。だから俺は前々から計画し、さまざまな角度から裏付けを取って、熟考し、実行した。だが居合わせた子供に余計な絶望と憎悪を植えつけた点だけは、手違い――……いや」

 認めたのは、いつだったろうか。それを今口にしたのは、熱の所為だろうか。

 或いは相手がこの少女だから、話しても良いと思うのか――。

「ただの腹いせだった。理にかなっていない、一時の感情だ」

「腹いせ、ですか?」

「俺はあの女が、妬ましかった」

 あれほどまでに好き勝手に他人を害しながら、全く邪魔されない人間などそうそう居ないだろう。イマリナ=タユスを拠点とした裕福な商人の元に嫁いでからは悪化したようで、女の外面の良さに磨きがかかればかかるほど裏では非行が積み重なった。しかも、主に少数民族や貧窮の者を追いつめる類の悪事だ。

 経歴から態度まで、鬱陶しいと感じない点の方が少なかった。

 だがゲズゥはその程度で取り乱すような性分ではない。報いは相応に――怨みを方程式に当てはめるように、それまで葬ってきた仇たちにしたように、淡々とすら呼べる手つきで女に惨たらしい最期を迎えさせようとした――

 最中に、存在だけは聞き知っていた、その女の養子が現れた。夫の亡くなった知り合いの子供か何か、そんな縁だった気がするが、とにかく邪魔だからと気絶させて横にどけようと動いた。

 子供は抵抗した。養母を助けようと死に物狂いで暴れ叫んだ。

 二人の間を飛び交う言葉を聴いて、次第にゲズゥの胸の奥では「羨ましい」を通り越した憤りが渦を巻いて嵐を生み出した。

「……俺がリーデンにしてやれなかったことを、あの女は養子にできていた」

 重々しく呟く。事細かに思い出せば、やはり黒い感情も一緒になって蘇る。

 ミスリアは言を挟まず、真剣な面差しで続きを待った。

「夫のみならずあの女の身近な人間は全員が闇に生きていた。なのに共に暮らしていながら、子供の瞳は無垢だった」

 今でさえ、子供は親の身の潔白を信じている。或いは一生信じたままで、復讐心さえ乗り越えられれば親の生きた道を辿ることなく真っ当に成長するだろうか。

 女が養子に向けて怒鳴った「お前はこっちに来るんじゃない!」という警告の真意をゲズゥは瞬時に読み取っていた。

 一緒に暮らしていながらも汚れた世界から一線を画し、己の本性を隠しながらも子供を守り抜こうとしていたのだ。

 それは自分が弟に与えてやりたかった、理想の具現化だった。

 否、一緒に居られなくてもいいから、なんとしても闇から守ってやりたいと思っていた。

 拾ってくれた老夫婦は二人も子供を育てるのは無理だと断じた。選ぶならば、無愛想で不気味な兄ではなく、愛らしい弟の方を育てたいと。

 ゲズゥは異を唱えなかった。せめてリーデンだけでも平穏な暮らしができるなら、と考えて潔く身を引いた。

 離れることになってもいいから普通に幸せに生きて欲しかった。毎日腹一杯、温かい食事を食べて欲しかった。そして、一族との終わらない悪夢から解放されて欲しかった。

 結局願いは叶わなかったが。

 ――冷静に考えれば、あの女と比べても仕方ないことぐらいわかっている。

 離れようと判断をした時のゲズゥは僅か八・九歳程度で、しかも地位や収入源も無ければ頼れる知り合いすらいない、人間一人を庇護できるような状況ではなかった。

 そもそも、思い描いていた理想は都合が良すぎた。同じ屋根の下に住んでいながら世界を住み分けようなどできるはずが無かった。だからこそそれを成し遂げた女が余計に腹立たしく思えたわけだが。

 わかっていた。

 だが、無垢な子供の瞳に映る己の姿に不覚にも驚いたのだ。穢れた自分を睨む子供に弟を重ねてしまったかもしれない。ひどく惨めな気分になり、頭が混乱した。

 激昂した、かもしれない。

 一時の激情の所為か実はその辺りはよく覚えていなかった。女の息の根が止まったのを確認した後は速やかに惨劇の場を去って、養子がどんな様子でいたのかなんて見向きもしなかった。

 思えばこうしているのは罪滅ぼしではなく、自身の無力さを呪っての自傷なのだろう。気が済むまで血を流したいのは、自分の方だ。

 ――たった一人を守れなかった悔しさを紛らわせようとして。

 ぽつぽつと語り終えたゲズゥは、その時になってやっと傍らの少女に目の焦点を当てた。瞬く度に大粒の涙が次々と溢れる程、ミスリアの瞳は濡れている。

「何故泣く」

「貴方が、泣かないからです……!」

 わけがわからない返答に、ゲズゥは無言で眉を吊り上げた。ぽたぽたと涙が手の甲に落ちている。

「でも、ちょっとだけ、安心しました」

 ミスリアは目元を左手の袖で拭いながら続けた。

「私はずっと、ゲズゥが感情に乏しいとか何かが人として欠落してるとか、実は心の中が空っぽだったらどうしようって、思ったりしたんです。でも違うんですね。何の変哲も無い石を裏返せばその下にたくさんの虫が生きているとわかるように、空虚に見えても、心の奥では色々な想いが蠢いていたんですね」

「……正直だな」

「す、すみません。空っぽだとか虫だとか、ふ、不快にさせてしまいましたか?」

 露骨に怯む少女が、何故だか段々と可笑しく見える。

「いや、わかりやすい例えだった」

 昔から自分は人よりも感情表現が希薄だというのは周りからの言動でわかっていた。心が空っぽと思われても仕方がない。

 唐突に、ミスリアが両目をかっ開いた。

 あまりに唐突だったのでゲズゥは疑問符を放ちながら身じろぎした。

「…………笑いました」

「は?」

「今、一瞬だけ貴方の顔の筋肉が笑顔をつくったように見えたんです」

「そうなのか」

「そうですよ」真剣だった眼差しに楽しそうな煌めきが灯った。いつの間にか涙も止まっている。「あの、もっとよく見たいので、できればもう一回笑って下さいませんか」

「……………………」

「いえ、言ってみただけです。すみません」

 少女は目を逸らしてどこか恥ずかしそうに笑う。

「リーデンさんのことは、私にはよくわかりません。あの少年との因縁もどうすればいいのか、簡単に答えが出るような問題ではないでしょう。私はお力になれるかわかりませんけど、でも今日はゲズゥが一杯お話してくれただけでもすごく嬉しいです」

「そうか」

「はい」

 再び目が合った。

 素直だな、とゲズゥはミスリアに聴こえないように囁いた。

 いつだったか、罪人の魂を救済できると証明したくて助けたのか、みたいに責めたことがあった。だが今となっては、知っている限りのミスリアの性質と照らし合わせて考えると、そんな傲慢な意図は感じ取れない。

 日頃からやっているように――顔も知らない、どこかで破滅に向かって生きている人間の話を聞いて――心を広げたのだろう。そう考えると納得が行く。

 もしも気が向けば、その内訊いてみようと思う。

 魂が救済されなくとも何かしらの救いを既に得ているのではないか――。

 そんな考えが芽生えかけるも、痛覚が発する荒波に流されて、形を成すことなく消える。

「行くか」

 ゲズゥは右手でミスリアの肩を軽くぽんと叩いた。

「は、はい」

 左手に巻きついていた温もりは今度こそ離れた。しかも少女は何故かこちらに背中を向けてしまった。

 名残惜しいような心持ちで、ゲズゥは己の左手を一瞥した。


_______


 ミスリアと旅をするまでは教会とはほぼ縁の無い人生を送っていた。

 そのせいかはわからないが、この巨大な建物をうまく形容する語彙をゲズゥは持っていなかった。

「空をそのままお城にしたみたいな……昔、絵本にもこういうの載ってるのを見ました」

 ため息交じりにミスリアが感想を漏らす。

 宗教施設を城と呼ぶのはいかがなものか。しかし規模だけで言えば城と呼んでもいい気がする。色合いは蒼穹か藍色か、透き通るような深い存在感を醸し出していた。「神秘的」の言葉が似合いそうである。

 目の前の教会は、ただでさえ色彩に欠かないこの町の中でも、異質に見えた。

「教団本部の建物はもっと大きいんですけど……綺麗さではどっちも……」

 と、尚も感嘆を表すミスリアを横目に、ゲズゥは別のことに意識を向けた。

 視界の端で、近くの建物の屋根の上を走る人間をみつけたのである。しかもこちらに向かって駆け寄ったかと思えば、屋根から身軽に跳び下り、宙で二回転して着地する。猿を連想させる動きだ。

「こんにちはー! 奇遇ですね」

 男は片手を挙げ、馴れ馴れしく声をかけてきた。

 人の好い笑顔をちょうど囲う長さの前髪が、右から左へと重量を感じさせない具合にふわふわ流れていて、後ろ髪は細く短い三つ編みにまとまっている。小柄な体型と童顔な顔つきの男は指の開いた手袋を着用し、身軽な動きの妨げにならない程度に、程よい装備を身に着けていた。

 他人の姿かたちを記憶できないゲズゥでも流石に昨日の今日で覚えている。例の聖女の護衛の男だ。なんて名前だったか――

「エンリオさん!」

 ミスリアが驚き交じりに応じた。

「はい! 今日は雨があがってて良い天気ですね。夕方の参拝ですか?」

「いいえ。通りを歩いていたらこちらの教会の屋根が見えて、気になって寄ってみたんです。大聖堂カテドラル……司教座聖堂があるとは知りませんでした。この町に着いてからはまだご挨拶に伺う機会もなかったので」

「そうだったんですかー」次にエンリオという男は乳白色の瞳をこちらに向けた。「何故杖を? 大丈夫ですか」

 そいつにしてみれば好奇心と一緒に手が伸びたのだろう。

「触るな」

 怪我に触れられる前にゲズゥは一言で制した。

「あ、はい。すいません、軽率でしたね」

 エンリオはパッと身を引いて両手を挙げた。表情からして気を悪くした様子は無い。

「貧血キツくありません?」

「医者の所で寝てきた」

 と、ゲズゥは答える。

 見かねたミスリアが更に付け足した。

「複雑な事情が絡んでいるのでできればあまり訊かないでいただけると助かります」

「わかりました、訊きません」

「ところでエンリオさん。お一人ですか?」

 他の二人は一緒ではないのかと、ミスリアが周囲に目を走らせている。

 訊ねられたエンリオは大聖堂の方を振り返った。視線が順番に、柵、前庭――最後に開け放たれた正面玄関へと巡っていく。

「レティカ様は中ですよ。何でも、この町では毎晩日暮れと共に祭壇の水晶に祈るのが慣わしだそうで」

「そういう町があるのは聞いてましたけど……イマリナ=タユスに水晶を祀る祭壇があったのですね」

「はい。中庭コートヤードを突っ切った先にあるそうです。ま、ボクはどうせ入れないんで今はレイだけがお供してますけどね」

「入れない?」

「身元が不確かな人間は奥の祭壇に近付けさせてもらえないんですよ。レイは父親の代で落ちぶれちゃいましたけどあれでも騎士の家の出ですからね。ボクは孤児でしたし『穢れ』もあるんで司教様がうるさいんですよ」

 やれやれ、とエンリオは頭を振りながら肩を竦める。

「そちらの護衛の方も入れないんじゃないですか? 人を殺したことがあるんでしょ? それも五人や十人なんてかわいいものじゃない」

「……お前こそ」

 別にゲズゥの「肩書」を知っていて言っているのではないのだろう、そう直感した。

「ボクは人間を手にかけたのは護衛になってからが初めてです。殺す以外のアレコレならしてましたけどね」

 片手を胸に当て、片手をしなやかに翻して、エンリオはパフォーマーみたいな一礼をしてみせた。そして何を思ったのか、一歩近付いてひそひそと話した。

「同じ人殺しでも、『罪人』と兵士や騎士の違いって何だと思います? 罪人には、代わりに背負ってくれる人が居ないんですよ。自分の罪は全部自分の責任、死ぬまで一生、向き合って生きるしかできない。いいえ、死んでも逃れられないのかもしれない。何せ魔物は――」

 ゲズゥは話を聴きつつも裾が引っ張られるのを感じた。視線を向けなくとも、ミスリアの仕業だろうとわかった。

「この話は不要でしたか。知ってますよね。とにかく『摂理』はともかく、社会の目は背負ってくれる人が居るのと居ないのとでは全然違ってきますし、気の持ちようも変わるんです」

 エンリオは一歩後ろに下がった。その表情は建物の影に隠れてよく見えない。

 昔、似たようなことを言われた覚えがある。かつて多くを教えてくれたあの男だ。


 ――大義名分を口実に戦という状況下で千や万の位に達する数の命を奪っても、大量虐殺を罪に問われないどころか、吟遊詩人の歌の中で永遠に美化されて語られ続ける人物もいるという。何故、己や身近な人間のために一人二人殺したくらいで罪人になる? くだらん正義さえ唱えれば非道も正当化される人の世というのは、実に理不尽だ。だが、そんな世の中でも、我々の生き方が間違っているとは思わない。


「白昼堂々となんつー話をしてるんだって感じですね。今のはレティカ様には内緒にしてください」

 ゲズゥたちは相槌を打たなかった。ただ、この男は生きづらい世の中に揉まれ慣れていそうだ、と脳内に記しておいた。

「レティカ様と言えば……いけない、油を売ってる場合じゃなかった」

「何かご予定があるのですね」

「下見をしなきゃならないんです。そうそう、もしお暇でしたら、ボクの用事に付き合ってもらえませんか? 他の人も居た方が色んなことに気が付くでしょうし。貴女がたにも無関係ではありませんよ、明日討伐に行きますからね」

「では下見と言うのは討伐予定の場所へ?」

 ミスリアが問いかけた。

「そうです、際どい時間帯に行くのがポイントです。詳細の説明は歩きがてらで」

 一度、ミスリアが気遣うような眼差しでこちらを見上げる。ゲズゥは小さく頷きを返した。

「決まりですね。じゃああっちへ向かいます」

 エンリオは北西の空を指差して言った。


_______


 曰く、イマリナ=タユスという町は二つの河と縁があるらしい。正確には片方が本流でもう片方はそちらから分岐する派川であり、分岐点は町よりもずっと北に位置しているという。

 より広く大きい本流は街の東側に接している方の河で、町が河沿いの都と称される所以である。

 派川の方は北西の野田を通り抜け、所によっては狭くなったり浅くなったりと舟を通すのに不向きで、小川と呼べる規模に該当する。昨晩はよくわかっていなかったが、魔物退治しに行ったのは本流ではなく派川の方だった。

 最近まさにこの周辺で魔物が多く目撃されているらしい。

 本日の目的の場所は昨日行った河のほとりに近い位置、その更に上流を辿った辺りにあった。

 魔物が最も多く出現する場所は分岐点の手前だそうで、近頃は範囲がどんどん上流に、つまり北に伸びている――もしもそうやって分岐点にまで至れば、今度は本流の方に伝って南へ被害が広がるのではないかと危惧されているそうだ。

 流れに逆らって魔物たちの出没領域広がっているのか、そこまでは定かではない。水流に乗って南行する可能性がどれほどなのか、そこもやはり定かではない。なので魔物狩り師たちにとっては優先順位の低い問題として扱われていたらしい。

「討伐隊の結成……ですか?」

「そうなんです。ボクらも今朝、町の魔物狩り師連合から協力要請を受けました」

 三人は広い場所に出て河に面していた。

 河の横幅は広がり、両岸の草原に視界を妨げる物がほとんどない。イマリナ=タユスの領域を出ているため、人や民家の姿も無かった。右を向けば、昨夜世話になったあの滝も遠目に見える。

 東の空では太陽が一日の勤めを終えて地平線に眠ろうとしていた。

「町民は以前から気味悪がってあまりこの辺に近付かないんで、放っておいても害は無いだろうと連合も軽く見てたんですが。今月に入ってから不安がる声が増えてるって司教様が気付いて、対策を立てようって連合に問題提示をしたそうです。ボクらも同時期にこの町に来たんですぐに相談を受けてます」

「では聖女レティカが辺境を掃討しようと選んだのは……」

「そーゆーことです。一月近く、毎晩のように頑張ったからやっとちょっと数が減って範囲も狭まったかなー、って思います。でも一番ヤバい中心地はまだノータッチです」

 この地点がそうだとエンリオは補足した。

「連合もついに手が空いたのか、ようやく大人数を率いての連携が実りそうです」

 それを聞いてゲズゥは納得した。大人数を率いるにしても狭い場所では身動き取れないが、この広大さであれば問題ないだろう。

「私たちも参加するんですか?」

「お願いします。昨日誘った時点に予定していたのとはちょっと違いますけど」

「そうですね……」

 二人の会話に、ゲズゥは何気なく耳を傾けていた。

 大変だな、と他人事のような感想しか沸かない。

 そういえばリーデンも連れて行く約束だった。予定変更に関しては、大人数での魔物討伐など、アレは面白がるかもしれない。

「でもそんな深刻な戦局に怪我人を連れて行くのは憚られます」

「本人はどうなんです?」

 二人の視線が杖に寄りかかって立つゲズゥに集中した。

 医者の腕が良かったからか傷はすっかり回復に向かっているが、当分は安静にしていなければならない。

 数秒考えて、答えた。

「自分とミスリアの身ぐらいは、片足でも護れる。俺は攻勢には出ない。戦力になってやれないが、聖女の力は貴重だろう」

「ごもっともです。聖女ミスリアが加わるだけでも皆にとってかなり有利に働きます」

「大袈裟ですよ」

「いえいえ、聖気ってのは重宝すべき奇跡の力ですから」

 エンリオは自分とちょっとしか身長の違わないミスリアに向けて一礼した。小さな聖女は照れ臭そうに笑う。

「さて、少し見回って来ます」宣言してから、エンリオはポケットからラクダ色の紙をパイプ状に巻いた代物を取り出した。「吸ってもいいですか?」

「あ、どうぞ」

 ミスリアはそれだけ言うと、同じく辺りを見回るように歩き出した。

 火打石の音が弾く。エンリオはすうっと一息吸い込んでは吐き、こちらを振り向いた。

「貴方も要ります?」

「断る」

 臭いからして、一般的に普及している煙草とは異なる草であることは明らかだ。

 聞いた話に寄るとそれは長期に渡って使用すると心臓などの機能を低下させ、即ち運動能力の低下に繋がる代物だった。ゲズゥにとって麻薬類は嗜むものであって多用するものではなかった。運動能力に影響が出たら面倒だからだ。

「そーですか。いやぁ、ボクは吸わないと、護衛の仕事中に起きたヤなこととか思い出してやってらんないんですよね。慣れませんね、死は」

 重い台詞を吐き捨ててエンリオは煙をばら撒きつつうろうろし出した。河の水を掬って観察したり、足元を確かめたり、その辺の岩をどかしてみたり。

 ミスリアも似たようなことをしている。

 手持ち無沙汰のゲズゥはただ日没を眺めた。何故だか宵闇の訪れと共に、背筋が疼くような感覚がする。場所の所為だろうか。

 ふと、別の方法で情報を得ようと考えて、彼は左眼を使うことにした。

 まだミスリアには説明していないが、視界の共有だけでなく、血縁関係の強い相手とは意思の伝達ができるという便利な機能が付いている。ただし離れている方が同調が起こりやすい視界の共有とは真逆に、距離が近くなければ通じにくい。現在の距離でギリギリ有効範囲だろう。

 ――河の「分岐点」近くに魔物が多発してる話を知ってるか。

 返答はすぐには返らなかった。普段から、一方的にどちらかが話しかけて終わる場合が多い。しかもリーデンから「話しかけられる」ことはあってもゲズゥがこうやって呼びかけるのは珍しい。いつも応えない仕返しとして無視されても仕方がない。

 それでなくともさっきの出かけた際の別れが穏便ではなかった。

 だが一分ほどして、応答があった。

 ――知ってるケド、それが何?

 ――明日魔物討伐に行く場所だ。今下見に来てる。大人数で討伐隊を組むらしい。

 また、間があった。

 ――ふーん、それはそれは。ていうかそこ、噂話が酷いよ?

 ――噂話?

 ――誰が赴いてもどんな大人数の隊も全滅するんだってさ。よく新しい討伐隊を組もうなんて気になるねぇ。

 ゲズゥはしばらく考え込んだ。噂が本当だとするなら、連合が腰を上げたがらないのもうなずける。

 ――他人事みたく言ってるが、お前も明日行くんだろう。

 ――そうだねー、楽しみだねー。

 楽しそうな弟に対して、ゲズゥは無意識に眉をしかめる。

 ――ねえ、そんなことより、兄さんさっきなんか怪我してない?

 気付かれないように遮断したつもりだが、向こうに漏れていたらしい。怒気を孕んだ問いをゲズゥは無視することに決めた。通信はそこで終了する。

「ミスリア!」

 いつの間にか大分遠くに行っていた少女を呼び止める。

 彼女は弾けるように顔を上げた。

「引き上げる」

 夜になれば面倒なことになるのは間違いない。今の状態では満足に立ち回れないし、危険である。

 察したミスリアはゲズゥの傍へと駆け戻る。

「ボクはもうちょっと見て行きます。敵さんが出てきたら颯爽と逃げるのでご心配なく」

 エンリオはひらひらと手を振った。ミスリアも手を振って挨拶を返す。

 猿も顔負けなあの機動力と脚力があれば心配するまでも無いだろう。ゲズゥは杖を繰ってサッサと帰り道を歩み始めた。

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