28.

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは、弟が苦手だった。小さい頃はあんなに素直で可愛かったのに、今となっては同じ空間に居るだけで気疲れする。たまに会うことはあっても、好んで行動を共にすることはない。

 どこかで元気に生きていればそれで十分――ずっとそう思っていたのにわざわざ今更リーデンを捜したのは、ミスリアに言われた言葉に思う所があったからだ。

 そうして無事に会えたはいいが、これからどうしたいのかまでは、まだゲズゥ自身にも整理しきれていない。

 一方、リーデンの告白を聞いてから数分、未だにミスリアは新事実を飲み込めずにいるのか、難しい顔をして唸っている。

「呪いの眼の一族の生き残りはたった一人だけでは?」

「厳密には一人じゃない、と前に言った」

 これにはゲズゥが答えた。数ヶ月前、まだ故郷の村の近くに居た頃の話である。

「…………そういえばそうでしたね。全然話題に上らないので接点の無い遠い親戚の方かと思ってました。まさか弟さんとは」

「僕は普段は正体隠してるしねー」

「今しがた、軽く明かしたが」

「聖女さんは特別。表情も口数も少なくてつまんない兄さんと、飽きずに一緒に居てくれてる人だもんね」

 兄の抗議に対し、弟はふふっと笑った。

「つまらないだなんて思ってません」

 ミスリアの大きな茶色の瞳が困惑気味にしばたく。

「そう? 女の子はもっとこう、お喋りするオトモダチが欲しいでしょ。こーんな愛敬の無い人と歩いても楽しくないよ、間が持たないよ」

 などとリーデンが言うと、ミスリアは苦笑交じりに「楽しさを求める旅では……」と答える。

「…………」

 胡乱な目でゲズゥは弟を見つめた。

「どうかした?」

 緑色の右目と「呪いの眼」たる左目が視線を返す。

 相変わらずこの男は、人を馬鹿にしたような笑い方をする。しかし何故かそういった印象を受けるのはゲズゥだけで、周りの人間は老若男女共にこの笑顔の前では魂を奪われたように無防備になる。奇怪な現象だと常々思う。

 それはそうと、確かにゲズゥは一つ気になっていることがあった。

「クレインカティの名を浮上させたのはお前か」

「えー? 何のことかなー?」

 わざとらしいとぼけ方がいちいち癇に障る。行いを認めているようなものだが、意図までは見えて来ない。

 ――舌はよく回るくせに、肝心なことだけは言わない。

 他人の本心を勘で探り取るタイプのゲズゥにとってリーデンは接しにくい相手だった。

「兄さん、そんな話よりさー」

 リーデンの声が急に低くなった。

「僕に助けを求めたならいつでも出してあげたのに」

 弟の独り言なのか質問なのかよくわからない呟きに、ゲズゥは答えないことにした。

「今回も脱獄するのかと思ってたから放置したんだよ。まさか処刑台まで行くなんて思わないじゃん」

「…………」

「本気で殺されてやるつもりだったの?」

「あのまま処刑が進行していれば死んだだろうな」

 どこか他人事のようにゲズゥは抑揚の無い声で言った。

 ――疑う余地も無く、ミスリアが到着していなければ、その日に人としての一生が終わっていた――。

「僕はそーゆーことが聞きたいんじゃない」

 苛立ちを隠さない声が返ってきた。リーデンは左手で頬杖ついて、右手の指先でトントンとテーブルを弾いている。

 リーデンが怒る理由はわかっている。その上で、どうしてやるのが一番良いのかがわからない。わからないままもう十二年も過ぎている。

 そして今もまた、ゲズゥは背を向けるしかできない。

「どこ行くの」

「街に出る。……ミスリア」

「あ、は、はい」

 背後から少女が急いで立ち上がる音が聴こえた。

「はあ、もう、しょうがないなぁ。話はまた後ね、どうせ僕も用事で忙しいから」

 諦めたようにリーデンが言った。

「で、街に出るんなら買い物頼まれてくれないかな。君たち、この国の紙幣持ってる?」

「ゼテミアン公国で使っていた紙幣ならあります」

「うん、共通してるからそれで大丈夫。どうせしばらくイマリナ=タユスに滞在するでしょ? ココ泊めてあげるかわりに、ちょっとパシられてくれない」

 振り返ると、リーデンはミスリアに何か手描きの地図とメモを渡していた。

「東側の街道で、ここに書いてある品物をこの値段以下で買ってね。相手が渋るようならコレ見せればいいから」

 リーデンの左手が素早く動いて、何か煌めく物を飛ばしてきた。ゲズゥは片手でそれを受け取ると、一瞬の鋭い痛みを覚えた。掌を開かなくても何であるのかは察しが付く。

「じゃあ、気を付けていってらっしゃい~」

 まるで普通の家族が交わす普通の挨拶みたく、やたら整った顔が笑ってみせた。

「いってきます」

 ミスリアが律儀に挨拶を返す。

 その頃にはゲズゥはもう扉を押していた。

 地図のままに進み、四十分ほどして二人は東街道に着いた。半分は路地裏の迷路から出るのに要した時間である。

 イマリナ=タユスの構造は縦に厚く、特に河近くとなると三段以上に町が重なっている。街道の東側、階段を下りた所には一番低い段があって、そこは港に繋がっている。

 西側は階段を登れば更に高い段――先程居た噴水広場や大通りを含んだ場所――へと繋がる。が、階段を登らずにアーチをくぐればまだ町の二段目の続きが広がっている。流石は都と呼ばれる規模の町だ。地図があっても十分に迷えた。

 はぐれないようにかミスリアはずっとゲズゥの裾を握っていた。てくてく歩きながらも物珍しそうな顔で周りの店や屋台、道端で演舞を披露する踊り子、地面に座り込んで賭けチェスに熱中する連中、鍋から揚げ物を掬い出して売る老婆、などを観察している。

「それにしてもリーデンさんが買って欲しいと言うこの――ちゃく……チャクラム? って何なんでしょうか」

「大量に身に着けている鉄の輪」

「え? あの輪っかをあと二十個も買うんですか? よっぽど好きなんですね」

「……?」ふいにゲズゥは立ち止まってミスリアを見下ろした。「まさかお前には装飾品にでも見えたのか」

「装飾品じゃないんですか」

 不思議そうにミスリアが訊ねる。

 返事の代わりにゲズゥは右手を開いた。そこには掌よりも少し小さい、チャクラムと呼ばれる鉄の輪が乗っている。

「血……!?」

「刃物だからな」

 雑な受け取り方をしたため、外側の刃によって皮膚がザックリと切れてしまっていた。面倒臭くて手当ては後回しにしている。これくらいの傷でミスリアの聖気に頼るのも馬鹿げているので、彼女が言い出す前に己の拳を再び握って閉じた。

「アレは全身凶器。本質では俺よりもずっと物騒だ」

 そう断言しながらチャクラムをミスリアに渡した。ミスリアは戦輪を注意深く受け取って眺めた。鋭利さを確かめる為に、白い指先をそっと刃に押し当てている。

「本当に凶器なんですね。腕輪や耳飾まで全部刃物だなんて……あ、帯にも」

「指に挟んで投げたり指で回して飛ばす、中・遠距離用の飛び道具だ。よく切れる」

 そしてゲズゥの記憶が正しければ、リーデンは懐にナイフを隠し持ち、ブーツの先と踵にも刃物を仕込んでいるはずだった。まさに全身凶器である。

「何だか、リーデンさんの印象を思い直さないといけない気がしてきました」

「そうしておけ」

 その方がお前の身の為でもある、とまでは言わなかった。

 数分後、リーデンの地図に記された一角を見つけた。屋台の武器商人は最初は強気な態度だったが、リーデンのチャクラムを目にした途端にみるみる青ざめ、こちらの言い値にあっさり従った。ついでに二個、チャクラムをオマケしてもらった。

 品物の詰められた革袋を商人から受け取り、ミスリアが紙幣を払い渡していると、上から何やら女の声が降ってきた。

「この世界は今、病んでいます」

 直後に観衆か何かの応援の喚声が響いた。

「演説ですか?」

 商人から釣りを受け取る最中のミスリアが振り返る。

「――大陸を蝕むこの病に罹らない地などありません! 一見平和そうな村にも、戦に明け暮れる国にも、魔物は現れます!」

 声は音量を上げてまた響いてきた。

「最近この町に来た聖女サマだってよ。民衆の支持なんか集めたって魔物は倒れないだろーに、何のつもりだかね。いつもはあそこの演台はニュースとかお触れを伝えるおっちゃんが居るはずなんだ」

 商人は演説を聞いても感銘を受けなかったのだろう、不満そうにぼやいている。

「そうなんですか。教えてくださってありがとうございます」

「おう、まいどあり。ユラスのダンナにもよろしくな」

「はい」

 袋を受け取ったミスリアが女の声のする方を見上げたまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「――ですが! 恐れることはありません! 私たちヴィールヴ=ハイス教団ゆかりの者が、命をかけてこの世界を変えてみせます!」

 また歓声が沸き起こった。「聖女様――!」「おれたちを救ってくれ!」「救世主が光臨なさった!」などの叫び声がする。

「布教活動」

 と、一言ゲズゥは呟いた。

「みたいですね。聖人聖女わたしたちはそういう活動はしないはずなんですけど……」

「偽者か」

「どうでしょう。行ってみてもいいですか?」

 ミスリアの問いに頷きを返した。

 二人は階段を上り、演壇の前にできている人だかりの端に紛れる。

 人々の注目の的はここからでは遠くて良く見えない。かろうじて、白いヴェールの下に隠れているのが肌の白い女だとわかる程度だ。女の左右には護衛と思しき人物が一人ずつ佇んでいる。片方は小柄で軽装、片方は逞しい体格に鎧を着こんでいる。

 護衛二人の内の小さい方が大袈裟に手を動かしながらまくし立てた。声からして若い男だ。

「さあさあ、今日はどなたが『奇跡の力』を体験されます!? レティカ様の恩恵を賜るのは一人だけですよ! 慢性的な頭痛から最近の怪我まで、何でもよくしてみせます!」

 すぐに、オレだ私だと喚きながら飛び跳ねる人間が続出した。人だかりそのものが振動しているようだ。

 やがて一人の足腰の悪そうな老人が選ばれた。片足を引きずりながらの酷く不安定な足取りで、周りの人間に手を借りながら、老人は演台の前に出る。

 ヴェールを被った白装束の女はしゃがんで両手を組み合わせた。ぼそぼそと何かを祈りながら、長い間その姿勢でいた。

「……あ」

 隣のミスリアが何かに気付いたように口元に手を触れた。それが何なのか問い質せる前に、聖女とやらが声を張り上げた。

「さあ、もう一度歩いてみて下さいまし」

 促されるがままに老人は立ち上がり、歩き出した。今度は誰の手も借りない、しっかりとした足取りである。

「お、おお……痛くないです! 腰も足もどこも痛くないですよ、聖女様!」

「おめでとうございます。奇跡は起こりました」

「ありがたや、ありがたや」

 老人は地に膝をついて聖女を拝んだ。するとまた人だかりが騒ぎ出した。我々にも奇跡を、と望む声が次々重なる。

「下がって下さい! レティカ様の奇跡は一日一回のみという決まりです。下がって! 明日もまたこの時間、この場所に来ますから」

 護衛の男が民衆に呼びかける間、もう一人の護衛が盾の如くして聖女の前に立った。押し寄せる人の波はそこで進みを止めざるをえない。

 が、人だかりは大して粘らなかった。数分の内にほとんどの人々は散開して去った。ゲズゥとミスリアは去り行く人間を避けつつも、その場に残った。

「インチキには見えなかった」

 ゲズゥはずっと聖女一行を観察し続けている。お布施を集めるつもりかと思えば、それらしい素振りが無い。

「距離が離れているので自信はありませんけど……僅かに聖気の気配を感じました。彼女はれっきとした聖女だと思います」

 ミスリアは物思いに耽りながら栗色の髪を指先でくるくるともてあそんだ。

「わかりません。結局あの方は何がしたいんでしょう」

「直接訊けばいい」

「はい」

 誰もがその場を去る中、二人は敢えて聖女の傍に近付いた。

「すみません、本日の活動はもうお終いで――うっ」

 言いかけた聖女が振り返る。そしてゲズゥを向いた途端、あからさまに気分を悪くしたように、白い手袋をはめた手で口元を押さえた。

 護衛の二人が聖女に駆け寄る。よく見れば、大柄な方は薄茶色の髪を短く切り揃えた強面の女だ。

 青ざめた聖女はゲズゥを見上げて声を絞り出した。

「なんという穢れ……それだけの業を背負ってよく生きていられますわね。普通は耐えられなくてとっくに発狂か魔物化してますわ」

 民衆相手に語りかける時と比べ、聖女の口調はきつかった。

「何だって!? レティカ様に近付くな、罪人め! 穢れた空気に当てられたらどうしてくれる」

 小柄な男が牙をむく。

 ゲズゥは特に反応しなかった。まず何を言われたのか理解できない。代わりに、背中に隠れていたミスリアがひょっこり出てきた。

「あのっ、何か誤解があるようで……私たちはお話がしたいだけです」

 例の聖女はミスリアの姿を認め、はたと止まった。口元に当てた手が離れる。

「あら、まあ。こちらは稀に見る清浄な気ですわ。もしかして『同業者』かしら?」

「聖女ミスリア・ノイラートと申します。彼は護衛のスディル氏です」

「あら! 失礼しました。わたくしは聖女レティカ・アンディア、それからこっちは護衛のエンリオとレイです。以後お見知りおき願いますわ」

 聖女はスカートを広げる礼をした。ヴェールの下から、青銅色の髪が一房漏れる。

 ミスリアもその礼を返し、ふと顔を上げた。

「アンディアと言ったら、まさか……」

「ええ。アンディアの姓を持つ現・枢機卿の一人は、わたくしの大叔父様です。ちなみに聖女アンディアと言ったら、先年亡くなられたひいお祖母様のことですから、わたくしのことはレティカ、と名前で呼んでくださいな」

 聖女は誇らしげを通り越して自慢げに言った。彫像の聖女を思わせる、まるで鏡の前で長い時間練習して完成させたかのような、よく整った笑顔だ。

「わたくし一年も旅していますけれど、同業者に出会えたのは数えるほどしかありませんのよ。うれしいですわ」

「こちらこそよろしくお願いします。ええと、私のこともミスリアと名前で呼んで下さい」ミスリアは演壇の方へ目配せした。「聖女レティカは毎日このようなことを?」

「民にはどんな暗い夜にも仰げる月が、希望が必要ですもの。聖職者を多く輩出してきたアンディア家に相応しい聖女であれますように、わたくしは立ち上がらなければなりません」

 聖女は言い終わるなり小さなお辞儀を付け加えた。その弾みで薄紫色のショールが肩からずれ落ちたのを、護衛の女がすかさず直す。

 どうにも、ゲズゥには聖女の主張が滑稽に思えた。何せこの町が抱える、現在進行形で絶望に打ちひしがれている大半の人間が、演説を聴けた訳でも奇跡に立ち会えた訳でもない。本気で人々を救いたいと思うなら路地裏や貧しい区域へ行くべきである。これでは自己満足にしか聞こえない。

「それで、どうして一日一回なんですか?」

 聖女の主張には触れずに、次にミスリアは別のことを訊ねた。

 そこはゲズゥも気にかかっていた点だ。もしかして出し惜しみすることでより劇的な演出を狙っているのではないかと推測したが、返答は意外なものだった。

「力を温存しなければなりませんの。夜は、町の外れに出る魔物を退治しに行きます」

「では町の結界の外へ?」

「ええ、イマリナ=タユスの結界が覆っているのは都の中心部だけ。結界の外で過ごす夜はとても危険ですわ。神職に携わる者、民の安らかな暮らしを守るのが務めです」

 聖女の碧眼が気合に燃え上がっている。面倒臭い女だ、とゲズゥは率直に感じた。

 突然、聖女はパンッと両手を打ち合わせた。

「そうです! もしよろしかったらご一緒にどうでしょう? 人数が多い方が心強いですもの」

 問われたミスリアは目に見えて怯んだ。

「私たちよりも魔物狩り師と連携した方が良いのでは」

「難しいんですよ、コレが。いかんせん町が大きいだけに、彼らは東西南北いろんな方向に散らばって活動しますから。持ち場を離れさせるのも悪いです」

 小柄な護衛の男が横合いから口を出した。

「お忙しいのでしたら無理にとは言いませんわ。いかがなさいます?」

 振り返ったミスリアに、好きにしろ、の意を込めてゲズゥは点頭した。どちらにしてもリーデンに頼まれた買い物を届ける以外に予定がある訳でもない。目の前の聖女一行に付き合うことに対しては面倒臭そうな予感がするが、魔物退治自体には興味ある。

「お誘い下さってありがとうございます。ご一緒しましょう」

 ミスリアがそう答えたのとほぼ同時に、いつの間にか雨の気配を漂わせていた空から、小さな水の粒がぽつぽつと降り出した。


_______


 夕暮れより三時間程過ぎた時刻に聖女レティカと町の外れで落ち合い、彼女が手配した馬車に乗り込むこととなった。レティカの護衛たるエンリオとレイはそれぞれ馬に騎乗して馬車を護っている。キャリッジの中にはミスリアとレティカ、そしてゲズゥが座し、三人とも雨具を抜かりなく装備している。

 馬車は河の上流をずっと遡った先のほとりまで行くという。段々と道が険しくなってきているのが、激しい揺れと車輪が石に当たる音でわかる。

 雨音がキャリッジの屋根を忙しなく打つ。

(魔物狩り師たちに持ち場を離れさせたくない、って言い回しからきっと人気の無い場所まで行くとは思っていたけれど……)

 ミスリアは膝の上で手を握り合わせた。誰も居ないのなら魔物退治をしに行く意味があるのだろうか、と最初は懸念していた。そこでレティカは、この周辺に魔物がたくさん潜んでいてやがて町に近付くのではないかと人々が怖がっているそうだ、と説明した。

 理屈には合っている。けれども何故か妙な不安を覚える。

 向かいに座るレティカを見上げると、彼女はちょうど展開していた聖気を閉じた所だった。白い手袋をはめた手は、ゲズゥの右手を握っている。

「もう大丈夫ですわ。痛みはありませんか?」

 レティカはゲズゥの手を放して、微笑んだ。どこか既視感を覚えるやり取りかと思えば――そうだった。初めてゲズゥに会った日、ミスリアもこうやって掌の傷を治してあげたのだった。

 聖女の礼服の上にコートを着込んだレティカは、長く真っ直ぐな青銅色の髪を首のすぐ横で束ねていた。こうして近くで微笑まれると、高貴な生まれの人なのだろうと、初見で思い込ませるような顔立ちだと感じる。人の持つ物を欲しがっては駄目だ、そう自分に言い聞かせつつもミスリアの胸の内では劣等感に似た何かが芽生えていた。

 なるべくして聖女になった人。まるで、姉のカタリアみたいに――。

 掌を凝視していたゲズゥは、前髪に隠れていない方の黒い目を聖女レティカの碧眼に合わせた。

 彼はお礼を言わなかった。むしろ、細められた目は煙たそうにレティカを見下ろしている。

「小さな傷だからと油断してはなりません。貴女も聖女なら、ちゃんと気付いて差し上げなさい」

「いえ、私は……」

 思わず苦笑した。ゲズゥが隠したがっていたので手を出さなかっただけで、気付いてはいた。でも彼女の先ほどの言葉を借りるなら、力を温存するのも得策だ。魔物の浄化は当然のこと、いつも戦闘の過程でゲズゥがひどい怪我ばかり負うので。

 ふいにレティカの微笑みが引きつり、彼女はサッと顔を逸らした。

「……いけませんわ。だいぶ慣れたつもりでしたのに」

「どうしたんですか?」

「わたくし、生まれつき人の周りの空気や因子の性質が視覚化されますの。色がついて見えるんですわ。たとえば聖女ミスリア、貴女の周りは淡い黄金色に輝いていて」

 聖女レティカはチラッと視線をゲズゥの方へ走らせた。上向きの長い睫毛が瞳と一緒にぱちぱち瞬く。

「そして彼の周りは……黒。いえ、淀んだ色ではなくて、いっそ清々しいくらいの漆黒。虚空のようで呑み込まれそうですわ。その状態になるまでどんな罪を犯したというのです? もしくは、ご先祖様の業を背負われているのですか?」

 訊ねられたところでゲズゥが応えるはずもなく、ミスリアといえば曖昧に笑うしかなかった。

(先祖の業……「呪いの眼」かクレインカティ一族関連で何かあるのかしら)

 そこに自身の罪も重なれば。

 どれほどの穢れなんだろう、と想像してみて、ミスリアは訳もわからず気が沈んだ。

 いつまで経ってもゲズゥは黙ったままなので、その内聖女レティカは気まずそうなため息をついた。

「聖獣を蘇らせることがかなえば、どんな穢れも清算されるでしょう。それだけの偉業ですものね。お互い頑張りましょう」

「そうですね」

 とミスリアが頷けば、ちょうどその時に馬車が止まった。

 キャリッジの戸が外向けに開く。フードを目深に被った大柄な人が姿を現し、レティカに手を差し伸べた。おそらくレイと言う名の寡黙な女性だろう。

「足元注意して下さいね」

 喋ったのは聖女レティカの護衛の一人、確か名前をエンリオと言った男性である。彼はレイが開けたのと反対側の戸を開いて、ミスリアに手を差し伸べた。

「ありがとうございます」

 その手袋のはめられた手を取り、言われた通りに下を見ながら足を踏み出した。両足とも地面についてから彼と目線を見合わせる。するとエンリオはフードの下で何か意外そうな顔をしていた。

「……小さい聖女様ですねぇ。このボクの目線よりも下に頭があるなんて――」

「エンリオ! 女性に対して失礼ですわよ」レティカの叱る声が馬車の向こう側から響く。「そもそも人の真価は見た目などで定まりません」

「す、すいません。いえ、ほら、ボクも小さい部類ですから、決してバカにしてるんじゃないですよ。純粋にびっくりしただけです」

 と、彼が慌てて弁明した。レティカが厳しい声で「先入観をお捨てなさい」と釘をさす。

「私は気にしてませんよ。事実ですし」

「ならいいです。ホントすいませんでした!」

 そう締めくくってエンリオは馬車の御者へ声をかけた。支払いがてら一時間半後に迎えに来るように指示している。この場で待たせたら危険に晒されるかもしれないと配慮してのことだ。

(……精進しなきゃ)

 ミスリアは自分が小さいだけでなく聖職者にしては異例の歳なのは自覚している。世間一般が描く聖女のイメージはどちらかと言えば聖画に住む聖母や聖人たちのような、理知的で神秘的な大人たちだろう。時々向けられる人々の目が「こんな子供が大陸の命運を変えうるのか」と訝しんでいるのはわかる。

(誰にどう見られようと、実力が無ければはじまらない)

 聖女ミスリア・ノイラートは夜の闇の中を一歩、踏み出した。ぐしゅ、っとたっぷり濡れた地面を長靴が踏みしめる。

 河のほとりは夜の雨という膜に完全に覆われていた。月明かりが雲の向こうから漏れているゆえ真っ暗ではないけれど、視界は阻まれ、物音を聴き取ることも困難で、しかも土や濡れた緑の匂いが濃くなっていて腐臭に気付けないかもしれない。いきなり何かが襲い掛かかったとしても、反応が遅れてしまうだろう。

 こういう時に最も頼りになる青年の隣まで歩み寄った。

 真っ黒な革製コートに全身を包んだゲズゥは静かに周囲に視線を巡らせている。コートは一旦リーデンの元に戻った時に持ってきた代物だ。夜も出かけると伝えたら、リーデンはどこからかそれを取り出した。フードの下は詰襟で、裾はふくらはぎまで届くほど長く、リーデンの着ていた服のように右肩と脇辺りにボタンが付いていた。どう見ても高価な物だろうに、彼は何でも無さそうに貸し出したのであった。

「――多いな」

 脈絡なくゲズゥはそう言った。

「敵の数がですか」

 どうやって探っているのかは、考えても仕方ない気がするので訊かない。

「ああ、すぐに囲まれる。本当にやるのか」

 じっと見つめられる気配を感じた。ミスリアは視線を返して答える。

「討伐の為に来たんですから。できる限り倒しましょう」

 そう言うと、背後からレティカが相槌を打った。

「ええ、その意気ですわ。この一帯を一掃しますわよ」

 後ろに居た彼女は進み出て、開始の合図が如く右手を振りかざす。

 レイがレティカの前に立ってロングソードを構えた。その横をエンリオが走り抜ける。走りながら彼はレインコートを脱ぎ捨てている。

「お任せ下さいレティカ様!」

 コートの下からナイフベルトが現れた。腰や脚や腕にまで、びっしりとナイフが収納されている。

 まるで呼び寄せられたかのように、タイミングよく上空に影が三つ浮かんだ。カイト(凧揚げの凧のこと)みたいにひし形から線が伸びている。三つの影はそれぞれ回転しながら急降下してきた。

「アレって魚の一種じゃないですか? 魚のくせに空飛ぶなんて生意気な!」

 変な文句を言いつつもエンリオはナイフを三本放っていた。どれも見事に的中し、魔物たちはけたたましく叫びながら地に落ちる。

(そうだわ。図鑑で見た海の――エイという動物に似ている)

 それを思い出した所で何の役にも立たないだろうけれど。

 次いで、上流の河辺から何かが複数現れ転がり落ちるのが見えた。よく見えない、何だろう、と思っていたらエンリオが素早く後退った。

「ぎゃああああ! 人面団子虫ぃいいいいっ」

 転がって来る何かの姿が彼にはそう見えるらしい。人面が外殻に現れているせいか、魔物たちの転がりようは不自然にぼこぼことしていて一直線ではない。

「うるさいぞ、エンリオ。夜中に叫ぶな」

 やっとレイが喋ったかと思えば、第一声がこれだった。

「叫ばずにいられますか! 気持ち悪すぎですよ! だーもうっ、こっち来るなあああ」

「前衛のくせに気の小さい男め」

「どうせボクはビビりですよ! でも気持ち悪いのは関係ないですっ」

 小柄な護衛は口数が多かったけれど、それと同じくらい手数も多かった。叫んだり悶えながらも的確にナイフを放ち、敵の進攻を止めている。そして隙を見て投げたナイフを回収するのも怠らない。

「注視せずにさっさと倒せばいいだろ」

 そう言うレイは近くまで転がって来た一体を斬っていた。

「むり! 目が良くてすいませんね」

「二人とも、喧嘩していないで集中しなさいな」

 前に出たレティカが静かにたしなめる。彼女は動きを止めた魔物を次々と浄化して回った。

「はい。すみません」

「レティカ様がそう言うならわかりましたよ……」

 慣れた様子で動き回る三人を、始終ミスリアは口を開けて眺めていた。

(すごい……)

 多分自分も参加すべきだろうと思いながらも、見とれて動けない。

 そういえば、ゲズゥがこの時点でまだ戦闘に参加していないのが意外だ。そう思って見上げると、彼は大剣を構えて突然体をくるりと前後に反転させた。

「一応、後ろを引き受ける」

「え」

 ミスリアも後ろを向き直った。大小さまざまな空飛ぶエイの群れが向かってきている。数は軽く三十を超えていた。

 戦慄せずにはいられない数だ。

(聖女を二人も一箇所に集めると、それまで遠くに居た魔物も一気に引き寄せられるのかしら)

 人数が多ければ心強い反面、そういった問題も浮かび上がる。が、わざわざ獲物を探しに行かなくていい点では、楽なのかもしれない。それで倒しきれないほどの大群が来たのなら本末転倒だろうけれど。

 それにしたって、異常な数である。

「だ、大丈夫そうですか?」

「さあな。こういうのは、リーデンの方が得意だな」

「それは……残念ですね」

 魔物退治に出かけると伝えた時、リーデンも一緒に行きたそうだった。ただ、今夜も何かしら用事が忙しくて都合が合わず、だから明日なら一緒に行けると彼は言った。

「試しに呼んでみるか」

「呼んでみる、って?」

 ゲズゥは既に臨戦態勢に入っていて、答えなかった。跳び上がり、近付いてくる敵を順に斬り伏せている。レティカに倣って、ミスリアは落ちた敵を浄化していった。

(もっと効率的なやり方が無いかしら……カイルは何て言ってたの)

 咄嗟に思い出せないのが悔しい。

「危ない!」

 突然のエンリオの叫びで、地に落ちたエイを浄化していたミスリアは顔を上げた。新たに迫り来るエイの列が目に入る。

 そして次の瞬間には黒い背中が視界を遮った。

 横薙ぎに振るわれた大剣は銀色の弧を描き、その軌跡に絡めとられた魔物たちは紫色の液体と断末魔を辺りに撒き散らす。

 ゲズゥは速やかにまた攻勢に入った。敵の数には限りがあるように思えない。すぐに打開策を考える必要がある。

(弧…………?)

 とりあえず今思い付いたことは――剣に聖気を纏わせ円弧を伸ばせば、通常よりも多くの魔物を一薙ぎで掃討できることだ。しかしそれだけでは何かが不足している気がした。

 ならば展開した聖気を円形に組み替えれば、自分に惹かれてやってくる敵を残らず倒せるだろうか。

(でもそれは地を転がる個体ならともかく、上空から襲ってくる魔物には効かない)

 加えて、広範囲に聖気を展開させるということは、それだけ自身の消耗も早くなることだ。

(足りない。まだ何かが足りない)

 ミスリアは懸命に考えながらも四方に視線を飛ばし、ヒントを探した。

 いつの間にか気温が大分下がったのだろう、吐く息が白い。無意識に体が寒さに震えた。

 あちこちで、倒された魔物たちは腐臭と湯気を立ち上らせつつ、口のような箇所から泡を噴いている。

(泡? 違う、泡じゃなかった――)

 それを見た途端、カイルが話していた応用方法を思い出せた。彼は「シャボン玉」にたとえて説明したのだった。

(そうだわ、球体……半球なら!)

 内側が空洞となっている球体ならば消耗を最小限に抑えられる。そのぶん明確なイメージと集中力を要するが、死角無しに敵に対応できる利点を思えば、試す価値は十分にあろう。

 当然、薄い聖気の壁だけで魔物を完全に浄化できるとは考えていない。弱らせる程度でいいのだ。

 ミスリアは未だ冷静に敵を斬りさばいているゲズゥの傍まで駆け寄った。

「――提案があります!」

 そう叫べば、ゲズゥが肩から振り返った。ミスリアはたった今の思い付きの要点をかいつまんで伝えた。

「……理解した」

 黙って聴き終えた彼は短い言葉で同意を示す。

「お願いします!」

 間髪入れずにミスリアは聖気を展開した。いつもとは違う形を丁寧に、詳細に思い描く。

 まず自分の周りに黄金色に輝く、空っぽの球体が出現した。

 次にはそれを自然に広げるイメージ――。

 こうしている間にも二種の魔物は休むことなく迫り来るが、それらは黒衣の青年に任せて、ミスリアは焦らずに己の作業に集中した。

(まだ、有効範囲を広げられる)

 いつの間にか聖気の球体は半球に変わり、大人の人間を十人は覆える大きさになっている。

 限界はこんなものじゃない、と自分を奮い立たせると、一気に広がりは加速した。

 そうして黄金色の波動は半径10ヤード以内の魔物たちを通過した。

 想像通りにそれは、敵の進攻を揺らがせるには事足りた。

 急に動きが鈍くなったエイや団子虫を次々にゲズゥが両断していく。小さい個体などは、手を出さなくとも既に浄化が始まっていた。

 作戦がうまく行ったことに安堵し、ミスリアは僅かに気を抜いたのか、急に寒さに震えた。

 ――しまった、と思っても時既に遅し。

 展開してあった聖気はフッと消え、ミスリアは地面に崩れた。

(もう一度同じことを繰り返すには時間がかかるけど……)

 周囲を見回し、その必要が無いことを確認する。

 あれだけ無数に居た敵の数がすっかり減っている。立ち上がり、フードを被り直してから、ミスリアは残った魔物を全て浄化していった。

 振り向けばレティカ達の方もあらかた片付いているようだった。

「素晴らしい機転でしたわ、聖女ミスリア。あのような力の使い方、まるで秘術です」

「いいえ。そちらこそ、見事な連携でした」

「それくらい当然ですわ」

 そう答えるレティカの声はどこか嬉しそうだった。

「――あああああッ! アレ!」

 突然の叫びに、ミスリアは肩を跳ねあがらせた。

「今度は何ですか、エンリオ。敵でしたら騒がずに倒してくださいな」

「違いますレティカ様! 上流!」

 エンリオは河が流れて来る方角を指差した。

「上流が何です? 何も不審な物は見当たりませんわよ」

 ちょうどエンリオが指す方向は樹や岩などの視界を遮る障害物が無かった。雨の中目を凝らせば遠くまで見える、はずである。

「ずーっと先の、川底が急に切れ落ちて滝になってるトコですよ! 倒れた樹に子供がしがみついてます! 今にも落ちそうです!」

「ええ!?」

 今度はミスリアが大声を出した。自分には何も見えないけれど、エンリオがそう言い張る以上は無視できない。

「助けなければ!」

 何故こんな時にそんな所に子供が居るのか、考えるよりも行動が先だ。ミスリアは上流に向かって走り出した。

「レティカ様、ボクたちも――」

「いいえ」

 制止の声は聴く者が思わず怯むほど厳しかった。ミスリアも無意識に足を止める。

「許しませんわエンリオ、レイも。昼間に視察に来た時を覚えていますでしょう? あの辺りの河岸に足場はありません。流れも速く、樹が河の中に倒れたと言うのなら、助けるのは困難です。私一人ならまだしも、進んで貴方たちの命を危険に晒す訳には行きません」

「そんなの、レティカ様一人で行かせるなんてもっとダメです!」

 エンリオが抗議した。

「貴方たちの命は私が背負っているのです。軽率な真似はできませんわ」

「でも、行ってみれば案外いい方法が見つかるかも……」

「なりません。苦しいでしょうけど、堪えて」

 二人の言い合いは尚も続いた。

 護衛の命を背負っているのは自分だという唐突な自覚に戸惑い、ミスリアは逡巡した。それはとても今更な気がしないでも無いけれど。どうすればいいのか決められないまま、黒衣の青年を見上げた。

「くだらない」

 ゲズゥは迷いを一蹴する一言を発した。そのままミスリアを片腕で抱き抱え、豪雨に濡れそぼったほとりを走り出した。

 言い争う声が背後に遠ざかる。

「どう言う意味ですか?」

「お前に救われなければどのみち俺は死んでいた。後にお前の為に死んだとしても、何かが失われる訳でもない」

 わかりそうでわからない理屈に、ミスリアは首を傾げた。

「リーデンさんはそう思うでしょうか」

 先刻の彼の苛立った様子を思い出し、訊ねる。

「アレ、は……。恨まれないように逃げるんだな」

 どこか投げやりな返答に、ミスリアは頬を膨れた。

「恨まれませんよ。貴方は死にませんから」

「……そうだな。お前は、一人では生きていけない」

「事実だとしても、そんな言い方しなくたっていいじゃないですか」

 そう言ってまた頬を膨れさせた。

 眼前に、件の滝が迫っている。

 エンリオが叫んだ通り、倒れた大樹に十歳未満の男の子がしがみついていた。しかし樹脂を掴む手から力が抜けているのだろう、少年は少しずつずれ落ちているように見えた。このままでは奔流に飲み込まれるのも時間の問題だろう。

 どうやって助ければ――ミスリアは視線と思考を必死に巡らせた。

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