第三章:この世で最も価値がある

27.

「ひとりが好きなの?」

 母にそう訊ねられた時、首を傾げたのを覚えている。確か、林の中の樹を登って回って、数時間も家に帰らなかった日のことだった。探しに来てくれた母は、怒っているのか呆れているのか、どちらとも言えない微妙な顔をしていた。

 ――気が付けばいつも誰かが傍に居たし、でも逆にふと気が付けば一人になっていたこともある。特に意識していなかった、独りが好きか嫌いかなんて。

「わからないのね」

 答えずに居たら、母が納得したように呟いた。

 ふと、興味深い物を見つけたのか、母は近くの樹の枝から何かを摘まんだ。

「手を出しなさい、ゲズゥ」

 言われた通りに両の掌を上にして差し出した。母はそこに、柔らかい毛の生えた何かを落とした。

 小さな命が、掌の上で身をよじり、這い出す。緑色に黒い斑点のついた細い体にゲズゥの視線は釘付けになった。

「芋虫、かわいいでしょう」

「くすぐったい」

 粘着質な虫の足の裏が、手の皮膚をひっかけては放す。

「この子は大人になったら空を飛べるのよ。でも今は小さくて足も遅いから、簡単に食べられたり潰されたりしてしまうわ」

 その話を聞いて訳もわからず胸がもやもやした。当時はまだ「かわいそう」という言葉を知らなかったのだと思う。

「そうなってしまっては悲しいけれど。でもね、一瞬でもいい。この世に生きるというのは素晴らしいことなの。生を、世界を経験する奇跡は、何にも代えられないわ。いつか終わりが来るとしてもね」

「すばらしいって、なに?」

「とてもすごいとか、ステキって意味よ」

 母はどこか得意げに笑った。

「私は生きている歓びを誰かと分かち合えるのが、一番素晴らしいことだと思うわ」

「よく、わかんない……」

 話の内容についていけなくなって、とりあえずゲズゥは芋虫を樹の枝に戻した。

「いつかわかればいいのよ。さあ、帰りましょう。呼んでるわ」

 そう言った母の視線の先に、銀髪を風になびかせて走り寄って来る小さな子供が居た。子供は「にーちゃー」と叫んでいたかもしれない。

「走ったら転ぶわよー」

 口元に右手を添えた母が楽しそうに言うと、数秒後、その通りのことが起きた。

 子供の後ろについてきていた女性は困ったように微笑んだ。


_______


 河沿いの都イマリナ=タユスは、大帝国ディーナジャーヤの属国であるヌンディーク公国の、最も人口の多い町と言われている。

 貿易が盛んであり、帝国や近隣諸国からの船が毎日のように入港する。大勢の商人たちが陸や河を通って行き来し、その上、数百年の歴史と文化を誇る町ゆえに観光に訪れる人間も多い。

(大通りに出れば歩く必要が無い、とも言われているのよね)

 呆けて立っていれば押し寄せる人の波に流されるからである。ミスリア・ノイラートは今まさに、それを身をもって体感していた。

(どうしよう)

 焦燥感ばかりが募る。全方位を人に囲まれている所為で、身長の低いミスリアの視界は相当に限られている。

 ――袖を握っていたはずなのに。忙しなく歩き回る商人にぶつけられたり横切られたりしている内に、離してしまったのだ。

(あんなに目立つのに見失うなんて)

 どっちへ行けばいいのかわからないまま足を竦ませていると、次々と人がぶつかってきた。香草や陶器、ワインや木材など、商品と思しき物の匂いが通り過ぎる。

 ミスリアには土地勘が皆無である。今から地図を買ったところで、よく考えたら落ち合う場所を決めていた訳でもないから、役には立たない。

「きゃ!」

 突然、前方から歩いてきた人の肘が肩に当たり、尻餅ついた。こんな場所では落ち着いて考え事もできない……。

「ゴメンゴメン、大丈夫?」

 涼やかで透明な、少年か青年の美声がした。彼はこれまでミスリアにぶつかってきた人たちと違ってそのまま去ったりせずに、象牙色の手を差し伸べてきた。手首周りのいくつもの鉄の腕輪が朝日を反射させて輝いている。

「は、はい、すみません」

 声の主を見上げた途端、ミスリアは開いた口が塞がらなくなった。

 ――絶世の美青年!

 そんな言い回しが許されるなら、まさにこういう人の為に使うべきなのだろう。むしろ、他に何と表現すればいいのかわからなかった。

「まあ、君が転んだのは僕がぶつかったからだよね。謝らなくていいよ」

 青年がとろけるような笑顔を浮かべたせいか、ミスリアは見惚れて返事を返せない。

 歳は十代後半くらいだろうか。明るい緑色の瞳は宝石よりも美しく、長い睫毛に縁取られている。スッと通った鼻筋や艶やかに吊り上がる薄い唇、全ての顔のパーツは絶妙に位置付けられ対照的に並んでいる。

 どちらかといえば繊細な美貌でも、涼しげな目元や輪郭や眉の形など、随所に男らしい凛々しさも表れている。本来ならば女性らしく見えるであろう大きな輪っかの耳飾が、この人の場合は不思議ととても似合っていた。

 ミスリアは自分は人の造形美に執着しない方だと自覚している。けれども、この青年のそれには絶対に無視できない引力があった。周りの人々も、彼の前をすれ違う一瞬だけ、サッサと歩く足をつい止めてしまう。

 人の顔に見惚れて腰を抜かすこともあるのだと、生まれて初めてミスリアは思い知った。

「あの……ええと、いいえ。す、すみません。ジロジロ見られるなんて不快ですよね」

 未だかつてない程しどろもどろと返事をしつつ、目を泳がせつつ、差し出された手を取る。意外とその皮膚はタコや傷やらでざらついていた。

「ううん、別に? 慣れてるよ」

 青年はあっけらかんと答えた。それを聞いて、躊躇いがちに目を合わせた。

(……本当にキレイな人)

 大陸中によく見るプラチナブロンドとは明らかに異なる、銀色に輝く柔らかそうな髪が印象的だ。段の入った髪型で、首筋に沿った襟足の毛先が不揃いに流れている。

(衣服は麻じゃない……見たことの無い生地。華やかだわ)

 青年は、この町に入ってから時々目にするようになった、地方の衣装と思しき珍しい服を着ている。

 光沢を放つベビーブルー色の布地に白と銀糸の刺繍。紺色の詰襟は首元から右脇へと続き、その境目には花の模様みたいな形のボタンが二個、交差している。袖口は広く、手の甲にかかるほど長い。角度によっては腕輪が袖に隠れて見えない。腰を回る紺色の帯からは、掌よりも大きい銀の輪がいくつか下げられている。

 服との統一性が高い装飾品の中に一つだけ、浮いている物があった。

 幾つもの逆三角型の黒曜石――よく見たら中心の一番大きいのは矢じりに似ている――をターコイズのビーズで挟んだネックレスである。本人にとって何か特別な物かな、と何となく思った。

 青年はにこにこ笑いながらミスリアをぐいっと地面から引き上げた。繊細な美貌からは想像付かない力だ。

 ミスリアは感謝を込めて一礼した。その手を、青年は何故か離さない。

「ところでお嬢さんは何か困ってるのかな。顔に書いてあるよ」

「はい?」

「よかったら相談にのるけど?」

 透明な声に、甘やかな笑顔に、ミスリアは抗うことができなかった。抗いたいとも思わない。

「……実は旅の連れとはぐれてしまって」

「どんな人?」

「二十歳ぐらいの、背の高い男の人です。漆黒の髪と瞳と、濃い肌色をしています。顔は端整……だとは思うんですけど、凄く不愛想で……後は、大きな剣を背負ってるはずです」

「ふう、ん。なぁるほどねぇ」

 彼は一体何に納得したのだろう? ミスリアは僅かに首を傾げた。

「ザンネン、僕は見てないな。見てたら、忘れないと思う」

 青年は悪戯っぽく笑った。

「こんな所で大変だねー。向こうの噴水広場で待つのがいいと思うよ。有名な待ち合わせ場所だから、連れの人もその内気付いて目指すんじゃないかな」

「待ち合わせ場所ですか……」

 町の地図を買わなかったのは、何故かゲズゥには必要が無かったからである。訊かなかったけれど、彼はこの町を知っているのかもしれない。だったら、有名な集合スポットも知っていると考えられる。

 ミスリアにはどちらとも判断できない。ゼテミアン公国を出て以来、ゲズゥは何かを探っているような、追っているような曖昧な道筋を進んだ。行き先を最初から決めていなかったのか、何度も方向を改め、やっとイマリナ=タユスに着いたのである。

「うん。こんなとこで人波に揉まれててもしょうがないんじゃない? とりあえず行ってみようね」

 青年はごく自然にミスリアの手を引いた。

 そのまま二人は滑らかに人混みの中を通り抜けて行った。というよりも、人々が青年の為に道を開けるのである。しばらく経つと視界は開け、水音が響く場所に出た。

 大きな白い円型の噴水、その中心の魚のオブジェから水が噴き出している。縁に座るのは食べ物を手にした男女のカップルか子連れの家族という組み合わせ、又は一人で誰かを待っているらしい人たちが大多数である。

「さ、ここだよ。本当は冬に備えてそろそろ噴水も停止されるんだけど。まだやってるとはね。寒かったらゴメンね」

 青年は縁の空いてる場所にまずはミスリアを座らせてから、自分も隣に優雅に腰を下ろした。太腿同士が触れる近距離にである。

「ご親切にありがとうございます。もう私は一人で大丈夫です」

 ミスリアは努めて平静に言った。それから、もう少し距離を離そうと身をよじる。

「そう?」

 せっかく離れようとしたのに、青年は自ら顔を近付けてきた。

「は、はい。貴方の貴重なお時間をこれ以上取る訳には……行きませんし……」

「気にしなくていいよー、そんなことは。僕が君の連れに会ってみたいってだけだからね」

 意気揚々と答える青年に対してミスリアは笑みだけを返した。どうあっても彼は付き合う気らしい。

 それからは、静かに広場の人々を見回す時間になった。と言っても、ミスリアはどうにも落ち着いて座っていられなかった。本当にゲズゥが此処に来るのかという不安もあるが、単にこの青年の隣に座っているのが落ち着かないのである。通り過ぎる人々を観察するはずが、逆に皆がこちらに好奇の視線を向けてくる。時折、青年の顔見知りらしい人間が手を振ったりもする。好奇の視線を受ける度に、きっと自分のような小娘がこんな美青年の隣に座っているのがおこがましいのだ、みたいな苦悩がミスリアを苛む。

 サァァ――という噴水の音が背中に当たり、時々水しぶきが後ろ髪に飛びつく。

(早く来ないかな)

 隣の青年の横顔を目に入れると何故かドキドキするので、人混みを眺めるのに疲れた時には、代わりに地面などに視線を注いだ。

(……指輪が)

 青年が右手の小指に宝石をあしらった指輪を付けているのが視界の端に見えた。小さな宝石の複雑な光沢は初めて見るものだ。眺める者の心を奪う輝きである。まるで、持ち主の瞳と同じ――。

「この指輪が珍しい?」

 いきなりの青年の声に、ミスリアは肩を震わせた。

「デマントイド・ガーネットって石だよ。僕の目の色に似ているからって、商人に強引に売り付けられたんだ」

「そうなんですか。綺麗な緑色ですね」

「……んー、やっぱ女の貢物だったかなぁ。自分だと思って大切にして下さいって泣き付かれてさー」

 青年は思い出す素振りを見せた。真剣なのかどうかよくわからない表情だった。

「す、すごく情熱的な方だったんですね」

「あははは。ホントはね、どっかの町で見つけて、気に入ったから適当に買っただけ。その程度の、大して面白くも何とも無い話だよ」

 悪びれずに青年はころころ笑う。

(……この人は何なの)

 次々と嘘を吐かれ、終いには何が本当なのか見失ったというのに、怒る気が起きなかった。

 彼の一挙一動にいちいち動悸がおかしくなる。笑顔を目にする都度に目がくらむ。ミスリアは膝の上で両手を握り合わせ、気をしっかり持とう、と自分に言い聞かせた。

「あ、そういえば名乗ってなかったね。僕はリーデン・ユラス。君は?」

 ふいに顔を覗き込まれ、やはりミスリアはどきりとした。

「私はミスリア・ノイラートと申します。リーデンさん」

「ふうん。かわいい名前だね」青年は目を細めて笑った。「ところでさ、お迎えさん来たみたいだよ。良かったね?」

「えっ」

 リーデンの目を追った。すると二人の正面に、いつの間にか大きな人影が立っていた。

(――!?)

 常に無表情なゲズゥにしては鬼の形相である。

 驚きのあまり、ミスリアは怯んだ。というより純粋に怖い。

「知らない人間についていくな」

 親が子供に言い聞かせるようなありふれた言葉なのに、彼の低い声が呟くと、極めてシビアに聴こえる。

「すみません。でもせっかく親切にして下さった方にそれは失礼です」

 ミスリアは負けじと言い返してみた。

「親切な人間にこそ警戒しろ」

 そう答えたゲズゥはミスリアではなく隣の青年を見下ろしていた。表情の険しさは増している。

「リーデン」

 意外にもゲズゥの様子には敵意でも警戒でもなく、不機嫌、が表れているように見えた。これまでに見たことの無い表情である。

 どういうことかと憶測をするよりも、ミスリアは二人のやり取りを大人しく見守ることにした。

「う、うん。久しぶり」

 一方で絶世の美青年は唇を噛み締め、笑いを必死に堪えているかのような歪んだ顔になっている。

 そしてついに、堪え切れずに笑い出した。何事かと周囲の人間がチラチラとこちらを一瞥する。

「あー、ダメ、もう。保護者っぽい君とか、ナニソレ、面白すぎ。あーはっはっはっは」

 リーデンは仰け反って膝を叩いた。咳き込みそうな勢いで笑っている。

「…………」

 それに対しゲズゥの眉間に更に皴が増える。

(旧知の知り合いだとして、あまり仲が良いとも言えなそうね)

 一方は相手をずっと睨んでいて、もう一方は相手を思いっきり笑い飛ばしているのだから。

「ふー、笑った笑った」

 十数秒ほど経つとリーデンは笑い過ぎで滲み出た涙を指で拭い――打って変わって、企みを含んだ妖しげな笑顔を浮かべた。そういう顔も、息を呑む程魅力的だった。

「で、何の用? 僕を探してたんでしょ? 途中からゴメンねー。気付いたからにはちょっと遊んであげようかなって、あちこちうろついちゃったよ」

「お前は相変わらずだな」

「いいじゃない、それでも君は追いつけたんだし」

「…………」

 話の内容について行けなくなったミスリアは、あることに気が付いた。リーデンのとろける笑顔は、どうやらゲズゥの心を動かすには至らないらしい。「何の用」という質問の答えを、彼はいつまで経っても口にしようとしない。

 そんなゲズゥを放って置いて、リーデンはミスリアの方を向いた。

「とりあえずウチ来る? お茶ぐらい出すから。ゆっくり話でもしようか」

「でも……」

 ミスリアは未だに不機嫌そうなゲズゥを一瞥した。彼は無言のままだったが、何となく、断って欲しい訳ではない気がした。

(この人を探してたのが本当だとするとやっぱりここは受けるべき……よね)

 どう返事をしようか一考する。

 ふと、象牙色の指がミスリアの白い指に絡まってきた。思いがけない温もりに手が硬直した。温かいよりはぬるいと言えるような体温だが、そんなことは今の状況に関係が無い。

「あ、あの――」

「愛らしい女の子に出逢えたからには、もっと一緒に居たいからね」

 狼狽えるミスリアをよそに、リーデンは急に耳打ちする。

 それに伴って爽やかな香りが漂った。森だか石鹸だか洗剤だか、よく思い出せない何かの匂いが、鼻腔を満たす。

 頭がぼうっとする。

 何だか何も考えられない。耳にかかる熱がじわじわと近付いている――

 ――唐突に、熱が消えた。

 視覚が二つの動きを捉えたけれど、動きが速すぎてそれが何であったのか脳はまだ解釈できていない。

 瞬けば、リーデンの長い裾がはためいているのが見えた。

「いきなり蹴りかかるなんてひっどいなぁ。そういう物騒なトコ、何とかなんないの」

「なるか」

「だよねー。今更ねー」

「…………」

「ちょっとした挨拶だってば。怒った? 勘弁してよ、いくら僕でも君の蹴りはそう何度も避けられないからね」

 秋風に弄ばれる髪に片手を添えるリーデン。その他愛ない笑みをミスリアはまだぼうっとする頭で見つめ、何処か浮世離れた存在を観賞しているような不思議な気持ちになった。


_______


 リーデンに先導されて風の通らない路地裏に入った。そこら中に、行き場を持たない汚臭が漂っている。

 ミスリアは足を踏み下ろす度に泥や生ゴミを踏まないよう、注意する必要があった。なのに軽やかに先を行くリーデンのブーツには何故か全く汚れが付かない。

「この先を左に曲がって、更に先で右に曲がったら、一番奥の建物だよ」

 振り返り、美青年は励ますように明るく言った。

 ミスリアは頷きを返した。

 噴水広場からここまでの道、既に何度曲がったのかミスリアには思い出せない。最初こそは覚えようとしたけれど、今となっては完全に方向感覚が麻痺している。それだけ複雑な路地裏だった。しかも大体の建物は似た高さと造りで、平凡な外装をしている。何か一つでも目印になるものを探し求めて視線を彷徨わせるも、徒労に終わりそうである。

(また居る……)

 時々、建物の間に隠されたゴミの山を通ると、その中をガサゴソと潜る人間の姿を見つけた。

 ゴミ山を住処としているのか、別の住処はあってもゴミを漁らなければ生活できないのか、一目見ただけではどちらとも言えない。

 他には、路頭で寝そべる人間を見る。誰もが痩せこけていて、生気が無い。彼らには冬を越せる場所がちゃんとあるのだろうか。

 やるせない気持ちがこみ上げてきて、ミスリアは足を止めかけた。それに気付いて、物を乞う手が伸びる。それまで寝そべっていただけの男性が、身を乗り出している。

 ミスリアは親指を欠いた手を凝視した。自分がこの手に何を与えられるのか、懸命に思索した。

「お前の考えていることはわかるが、無駄だ。都市そのものが対処しないとどうにもならない」

 答えが出ない内に、背後のゲズゥが口火を切った。

「そん、なこと……そうと決まっている訳では……」

「決まってるよ。こういう連中にはいくら渡そうと、お金は酒や娯楽に消える。そうでなければ自ら収入源を確保して、衣食住を手にしているはずだからね。この辺だったら最低生活費はめちゃくちゃ安いし、選り好みしなければいくらでも『収入源』は見つかる。浪費癖はどうしようもないけど」

 リーデンが付け加えた。

 これまでと同じ爽やかな話し声なのに、どうしてかゾッとした。

「自分の足で立とうとしない人間に同情する必要は無いよ。そもそも、よほどの大富豪でないと一度に全員を救えないから。そういう町なんだよ。食べ物をあげたって一時の空腹の解決にしかならない」

 リーデンの言い分に対する反論をミスリアは持っていなかった。しばらくして三人はまた歩き出した。

(教会が子供しか引き取らないのは……)

 自分の足で立てない大人を甘やかさない為かな、と一瞬だけ思った。大人ともなれば当然、教会に住み込む人間にはご奉仕という名の労働が義務付けられている。最低限の衣食住を得ても、給料ももらえず、自由にできる時間は少ない。好んでそんな生き方を選ぶ人間はごく僅かだった。

 ヴィールヴ=ハイス教団が無条件に民に食事と宿を与える日は月に一度だけである。

 ただ与えるだけでは、相手に対する配慮が、思いやりが足りないのだろうか。かつて授業ではどう教えていただろうか――。

(……それにしても、リーデンさんの人生観って)

 理由ははっきりしないけれど、ゲズゥのそれとどこか似ている気がした。割り切っている所だろうか。

「んー、懐かしいねー。ずっと昔は僕らもああやって生き延びてたね」

 遠目にゴミ山を漁る人間を見つつ、リーデンが言った。

 ゲズゥは返事こそしなかったが、しばらく目を細めてその方向を見つめていた。

(……自分の足で立とうとしない人間に厳しいのは、彼自身が乗り越えた問題だから?)

 ふとそう思った。

 そして「僕ら」と言った以上、彼らは過去に一緒に生活していたのだろうか。

(飛躍しすぎかしら。二人ともそれぞれに同じ風に生きていたってだけかもしれないし)

 訊きたい――でも未だにゲズゥからは不機嫌そうな波動が発せられている。今は諦めるべきだとミスリアは判断した。

 やがてリーデンは一階建ての建物の前で足を止めた。

 人の気配はしない。建物は廃棄されて久しいようで、壊れた扉が開けっ放しになっている。

 ギッ、ギッ、と扉が揺れ軋む音が小さく響く。

 訳もなくミスリアは生唾を飲み込み、忍び足で踏み込んだ。

「ここがリーデンさんのご自宅ですか?」と訊ねると、「違うね。たまに、色々な用途で他人に貸し出している場所の一つだよ。誰も使ってない時に泊まったりするけど」などと微妙に要領を得ない説明が返る。

 そんな建物の中には真っ暗な空間が広がっていた。

 火を灯さずとも外はそこそこ明るい午後の曇り空であり、普通なら全くの闇にはならないはずである。即ち建物には窓一つ無い。

 壊れた扉から伸びる淡い光が、ゆりかごみたいにゆらゆらと優しく揺れている。

「居住空間は地下ね」

 躊躇いなくリーデンはゆりかごから踏み出し、闇に呑みこまれて行った。

(あ、待って)

 呼び止めようと手を伸ばしかける。止まってはくれないだろうとわかっていながら。

 数秒ほど立ち尽くしたが、背後にゲズゥの視線を感じ、仕方なく歩き出した。リーデンの足音を追って慎重に進む。

 ようやく下り階段を見つけて降り始めると同時に、ミスリアは独り言を漏らした。

「全員救えなくとも、たった一人の為にできることがあるなら、私はそれを無駄な試みだとは思いません」

 それはさっきの地上での会話を思っての言葉だった。

「お前はそうだろうな」

 背後から相槌があった。

「でもやっぱり……総てを守ろうと、理想を追い求める人間もこの世界には必要ではないでしょうか」

 ミスリアは教皇猊下と友人のカイルを思い浮かべた。ミスリアの知る中で一番、大きな目的を果たせる人たちだ。町一つの状態を改善することだって、きっとできる。

「偽善だと思いますか?」

「実現できれば偽善の域を出る」

「……そうかもしれませんね」

「目指す気か」

「いいえ、私は一人ずつ向き合うのが精一杯ですよ」

 ミスリアは小さく苦笑した。

「――ああ」

 一瞬、何か違和感を感じた。

(……笑った?)

 振り返った所で暗闇の中からその顔を見出すことはできないし、はっきりと笑い声を聞いたわけでもない。ただ、そんな気がしただけである。

(まさか、ね)

 話を打ち切り、二人は階下まで降りた。

 先に下に着いたリーデンがいつの間にか火を点けている。

 鉛色の、見るからに重そうな、大きな扉の前に出た。扉の取っ手の周りには何か特種な錠が施されているらしい。

「ちょっと待ってねー。ダイヤルを回して五桁の暗証番号を揃えるだけだから」

 とリーデンはにっこり言って、早速錠を外しにかかった。中指だけで手早くダイヤルを弾いている。

 取っ手は六角形の額みたいな物に囲まれ、角に一つずつ錠が位置している。つまりリーデンは五桁の数字を六つ記憶していることになる。

 素直に凄いと思った。長い詩や聖歌は暗記できても、ミスリアは数字にはそこまでの自信が無い――と言っても、これほどまでに厳重な仕掛けも初めて見るけれど。

 ついに六つの錠を外したリーデンが、扉の取っ手を九十度ほど時計回りに回して、引いた。ガゴゴ、と鈍い音を立てて扉が地面を擦る。

「さー、どうぞいらっしゃい」

 楽し気にリーデンは言う。

「お邪魔します」

 扉が全開になると、ミスリアは驚きに目を瞬いた。扉の向こうは明るかった。殺風景な部屋のたった一つのテーブルの上には灯された蝋燭が幾つも置かれている。初めて見るような細かい形の蝋燭立てばかりで、それだけでテーブルにはどこかお洒落な印象が出る。

 数秒経って扉は自動的にまた閉じた。

「ただいまー、マリちゃん」

 リーデンは奥の方に向けて声を飛ばしている。人の気配は相変わらず無いのに、人が居るのはミスリアにもわかっていた。そうでなければ蝋燭が点いてなどいない。溶けた蝋の量は少なく、出かける前にリーデンが点けっぱなしにしたという線は可能性が薄い。

「あれ、聴こえてないのかな。マリちゃーん」

 再度リーデンが呼ばわる内に、ミスリアは部屋の中を一通り見回してみた。

 四方の壁に、布カーテンのかかった棚らしきものが所狭しと並べられている。家具と言えば楕円形の食卓とそれを囲む六つの椅子、それから奥の壁際に長椅子が一つだけ。後は床に水瓶や盥があるだけで、まるで娯楽性や生活感すら漂わない居住空間である。寝室や台所が別の部屋にあるのだとしても、パッと見では見つけることができない。

 それもカーテンの所為かもしれない。別の部屋と繋がる出入り口が一貫して布に覆われている。

 そのバーガンディ色の布の一つがめくれ、背の高い女性が姿を現した。それと共に香ばしい料理の香りが流れてきた。

 女性は脇下まである長い紅褐色の髪を三つ編みにまとめ、前髪をヘアバンドで抑えている。黄褐色の肌色が蝋燭の灯りに照らされて輝いたように見えた。

 彼女はリーデンの姿を認めるなり、頬を緩ませた。次いで、一跳びでその胸の中に飛び込む。

「あはは、マリちゃんは甘えん坊だなぁ」

 リーデンは女性の額に口づけを落とした。平均的な成人男性より少し身長のあるリーデンの目線に頭が届く程だから、女性もかなりの高身長だ。

「ヤシュレに居た時、奴隷商を襲ったついでに拾ったんだよ。名前が無かったからこの町の名前から取ってイマリナ。略してマリちゃんだよ、よろしくね」

 リーデンがイマリナの頭に手をのせて半ば強引にお辞儀させている。と言ってもイマリナも素直に従っているが。

「よ、よろしくお願いします。ミスリア・ノイラートです」

 何とも反応し難い紹介内容に困りながらも、ミスリアはスカートを広げて礼を返した。

(奴隷商を襲ったついでって、どういうことなの……!?)

 ヤシュレ公国もまたディーナジャーヤの属国の一つであり、かつては数多くの少数民族が住んでいた地である。しかし時代の流れは残酷で、彼らはやがて奴隷として狩られ、今となってはヤシュレからの帝国への献上品として認識されている。

 イマリナの喉元にも焼印の跡がある。リーデンに解放された奴隷、ってことになるだろうか。

 ――喉元?

「マリちゃんは口が堅いから、ここではどんな内緒話をしても平気だよ。ぶっちゃけ、大昔の喉の傷で声が出ないらしいんだよね」

「そんな、ひどい……」

「気にしなくていーよ。この子も今は全然不自由なんてしてない。手話なら通じるし、文字も多少はわかる」

 まるで見計らったかのように、イマリナがにっこり笑った。少し吊り上がった細い眉、丸い上瞼、垂れ気味の黒い瞳、厚めの頬骨、低い鼻、大きな唇。それらが全部、彼女の微笑みをより柔らかく優しいものに見せていた。

 ただ、リーデンよりは年上に見える彼女を彼が「子」と呼んでいるのは何かの愛情表現かな、と疑問に思った。

「それより僕は君の話が聞きたいな? 聖女さん」

 一瞬にしてミスリアの首の後ろが硬くなった。

「……私、自分が聖女だって言いました?」

 服装も普通の町娘と何ら変わらないはずである。

 何故こんなに焦るのか、わからなかった。

 一方で部屋に入ってからずっと隅に陣取っていたゲズゥは、腕を組んだ姿勢で微動だにしない。

「言ってないよ。でも『天下の大罪人』が小さな聖女さんのおかげで命拾いしたって話は小耳に挟んだし、そうかなって思ってね。シャスヴォルはこのことが外に漏れないように隠蔽しようと動いたみたいだけど、見物人の口にまでチャックをするのは不可能だね」

 呆れたように肩を竦めてリーデンは頭を振った。弾みでしゃらしゃらと輪っかの耳飾が鳴る。

「そう……ですか」

「んん、怖がらないで。別に取って食ったりはしないよ? 僕に何の用なのか知りたいだけ」

 またあのとろける笑顔を向けられて、ミスリアはあっさり気を抜いた。

「でもその質問の答えを私は知りません」

「そうだろうね。そんであの人はゼンゼン語る気無いだろうね」

 リーデンはゲズゥが佇む部屋の隅に一瞬視線をやってから、「とりあえず君にわかることから話してもらおーか」と言ってミスリアに座るようにと椅子を引いた。

「ありがとうございます」

 ミスリアは素直に腰を下ろした。それとほぼ同時に、イマリナが再び台所の方へと姿を消した。さすがは元奴隷とでも評すべきか、足音一つしなかった。ヤシュレ出身の奴隷はその存在を誰にも悟らせることなく主人の身の回りを世話すると、そう聞いたことがある。それゆえに気配がしなかったのかもしれない。その気になれば誰にも姿を見せずに黙々と仕事をこなすだろう。

 ティーセットを持って再びイマリナが現れた。

 三人分のお茶がカップに注がれ、茶菓子が盆からテーブルへ置かれてゆく。イマリナの動作の一つ一つは、流れるように速くて静かだった。彼女を見るリーデンの目はどこか誇らしげだ。

「ホントはね、僕が一目惚れしたから、奴隷商の荷馬車を襲ったんだよ。絶対お持ち帰りしなきゃ後悔する! って直感がね」

 これにはミスリアは頷きだけを返した。彼の「ホントはね」をどこまで信じていいのか、疑問が芽生え始めている。

 テーブルに近寄ろうとしないゲズゥをイマリナが不安そうに眺める。そんな彼女にリーデンが手話で何かを話しかけた。イマリナも手話で応え、お茶と菓子を一人分、盆に戻しては再び台所へ消えた。

(下げたのかな……それとも後でまた持ってくるのかな……人と食べたがらないゲズゥの性質をリーデンさんが知っているなら……)

 とはいえ、考えてもわからないし、口を挟む気にはなれない。

 ミスリアは湯気の立つお茶にそっと息を吹きかけ、飲んでみた。土を思わせる芳醇な香りがする。包み込むような深い味わい、それでいて後味は若干甘い。

 お菓子のバタークッキーはアーモンド入りで、ちょうどいい具合に焼けている。

「で? 何で僕を追って来たの?」

 数分後にリーデンが口火を切った。

「何でと訊かれても……誰かを追っていたなんて私は知りませんでした。お二人はどういう関係で?」

 思えばゲズゥのミスリアへの頼み事は「寄り道がしたい」の一言だった。何故、何処へ、は訊いても答えが無かったので、深く考えないことにしていた。目的を果たせた今でも、謎は謎のままだ。

「切っても切れない縁」

「え……」

 リーデンの笑顔が消えた。ミスリアは更に質問をしようか迷ったが、あっという間に美青年の顔に愉快そうな表情が戻る。

「ふうん。つまりそこの人が急に言い出したから聖女さんは付き従った、と」

 リーデンはミスリアたちが何故旅をしていたのかまでは問わなかった。或いはもう知っているのではと思う。

「わっかんないなぁ。何で今なの? 直前までどういう状況だったの」

「直前は……」

 ミスリアは顔中の筋肉から力が抜けていくのを感じた。

 あの時の状況――ゼテミアン公国領の城に連れて行かれた日――を思い出すのは憚れた。やっと、悪夢に見る回数が減ってきたというのに。

 すみません、その話はできません、と断る気力も無かった。城主の顔を思い出してひどい吐き気を催したからである。

 向かいに座るリーデンはまるでお構いなしに呑気にお茶と菓子を堪能していた。ミスリアの様子がおかしいことに気付いていながら気付かない振りをしている風だ。

「そーだね、変わったこととか無かった?」

「……変わったことですか」

 色々あったのは確かだけれど、ゲズゥがいきなり寄り道がしたくなるようなきっかけがあったか、改めてミスリアは考え直した。

「――あ」

「なになに?」

「そういえば聞いたことのない単語を耳にしました。クレイン、とか何とか……クレイカ? でしょうか」

「ああ、『クレインカティ』ね」

 美青年が緑色の瞳を妖しく光らせた次の瞬間、それまで微動だにしなかったゲズゥが突然目を開かせた。やはり重要な言葉なのだ、きっと。

「何ですか? その、クレインカティ、って」

「戦闘種族の系統の一つだよ。生まれつき他の人間よりも頑丈でスタミナあって、脚力とか腕力とか全部平均以上なんだけど、一番の特徴はズバ抜けた瞬発力だってね」

 リーデンが美声を発する程にゲズゥの視線が鋭くなっている気がしてならない。それでもリーデンは気にせずに喋っている。

「幾つかの戦闘種族の中でも特にクレインカティは兵士や暗殺者として求められた。それはもうしつこく狩られ続けて、ついに嫌になった彼らは姓を捨てたらしい。半世紀前から誰もクレインカティを名乗ってないはずだよ。まあ、そもそもそんなに生き残ってないだろうけど」

「なるほど……」

 ならばあの時、ウペティギを黙らせるように気絶させたゲズゥは、自分の系統を言い当てられて不快だったのだろうか。

「そんなクレインカティの女の人が、何世代か前に『呪いの眼』の一族の村に流れ着いて、匿ってもらったそうだよ。そのまま居付いちゃって結婚までして、おかげさまで呪いの眼の一族の人間の一部には戦闘種族の血が混じってるってワケ」

「え、ええ?」

 つい、ミスリアはお菓子をぽろぽろと口元からこぼした。話の内容以上にリーデンがそんな話をしていること自体に驚いた。どう考えても一般知識ではない。

(これも適当についている嘘……?)

 などと疑ってしまう。

「随分と詳しいですね」

「そりゃそうだよ。だって――」

 ふいにリーデンは頭を下げて、左目に人差し指をやった。ミスリアはその手の動きを目で追った。彼の左手の人差し指の上に、小さな物がのっている。透明に見えるが、よく目を凝らすと、何か色が付いているようにも見えた。

「ガラス玉……?」

「薄く伸ばしたガラスに色をつけた代物だよ。『カラーコンタクト』と呼ばれてる技術」

 ミスリアは視線の先を上にずらした。そして、目を丸くした。

 それまで緑色に見えていたリーデンの左目が白いのである。白地に金色の斑点、縦長の瞳孔。

「リーデンさん、その目は……」

「うん。ほら、僕も『呪いの眼の一族』だから」

 彼は首を傾げて無邪気に笑う。

 彼の斜め後ろに居るゲズゥは未だに会話に介入して来ない。

「君もこういうの使った方がいいんじゃない、兄さん。前髪で隠してるだけじゃあね」

「……………………」

「ご、ご兄弟? ですか?」

 驚き過ぎてミスリアは混乱した。もう何がなにやら。

 でもよく見比べてみると、二人の体格や切れ長の目や鼻の形など、似ていると言えなくも無い。

「そ。改めて初めまして聖女さん、僕はリーデン・ユラス・クレインカティ。そこのやたら図体のデカい人――ゲズゥ・スディル・クレインカティ、の血の繋がった弟だよ。腹違いではあるけどね」

 左右非対称の瞳をした絶世の美青年が微笑む。

 何と言えばいいのかわからず、ミスリアは二人の青年を交互に見た。そうして訪れた沈黙の中、リーデンのお茶を啜る音だけが響く。

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