45.

 ――充血している。

 頭蓋骨の中の圧迫感と不快感に引きずられるようにして、リーデン・ユラス・クレインカティは目を覚ました。

 薄暗い場所だった。己の居る位置に陰がかかっているがゆえに暗く感じるけれど、視界の中には青空のものと思しき明るさも入っていた。なのに、どこか釈然としない。

(ああそうか、青い色が「下」にあるからだ)

 それでいてこの不快感と、足首に食い込む無機質な硬さ。何故こうなっているのかは全くもって不明だが、鎖に繋がって逆さに吊るされているらしいことだけはわかった。

(逆さである必要性がわっかんないんだけどー。股間のパーツも重力の餌食になってて不快だなぁ)

 身ぐるみ剥がされたのか、最も内なる層を除いて衣服が丸ごと消えている。つまり腰周り以外の肌が自然の脅威に晒されているのだ。

 リーデンの場合は、これをスッキリしたとは感じずに、心もとないと感じる。肌寒さは当然のこと、愛用の武器や暗器も奪われたのだ。

(んん、違った。一つ残ってた)

 鼻の前にぷらん、と黒い石の首飾りが揺れているのが目に入った。この黒曜石のナイフが唯一手元に残っていて何よりだ。いざとなったらこれで敵の目玉をくり抜くなり首筋を掻っ切るなりできそうだ。ただし、相手が一人であった場合に限るが。

 それにしても寒い。

 春の風とは思えないほどの強風が吹き抜けている。空気の匂いや轟音からして、ここは高い場所なのだろう。

 記憶が途切れる前まではカルロンギィ市国の渓谷に向かっていたはずだ。一度単独でヤシュレ公国に寄ったリーデンは渓谷の手前でミスリアたち三人と落ち合う手筈であった。まさに合流寸前、数ヤード先から顔を見合わせて声をかけたところまでは憶えている。その直後に何があったというのか。後頭部の鈍痛と関係がありそうだ。

 とりあえずは、兄の気配を探ってみた。意識は無いようだが、近くに居るらしい。素直に安堵した。

 残るミスリアやイマリナの身を心配しても現状はどうしようもないため、リーデンは次に状況を把握すべきと判断した。

(ここは谷の側面かな)

 風や雨から守られたこの空間は洞窟と呼ぶには浅く、ちょっとした岩棚か谷肌を抉ったみたいな地形に思えた。

(逆さじゃわけわかんない、な)

 改めて映像をもう一度分析せねばなるまい。

 ふと目の乾きを潤わせようと何度か瞬いて、カラーコンタクトをいつの間にか紛失していたことに気付く。

 瞼の下の感触を頼りにそう感じているだけで、指を使って確認できるわけではない。腕は背中側に縄で縛り付けられていて動かせないのだ。

 身じろぎしてみた。他人には決して悟らせないが、リーデンはこう見えても筋力の鍛錬を怠らない。腹筋のみを用いて逆さ吊りの体勢から反転するくらい造作も無いのである。上体を捻り、周囲を見回そうと試みた。

「おふ」

 真実の「下方」が見えた途端に思わず変な声が出た。ちょうどその時、鼻水が一滴落ちた。すぐにそれは大気の一部となって消えた、ように見えた。

 地面が落ちてなくなったのかと疑うくらいに遠いのである。

 そこでこの吊り方――高所恐怖症でもない、むしろ高い所は割と好きなリーデンでさえ、意味不明な嗚咽が漏れる程度にはとんでもない状況だ。捻った姿勢を解く為に腹筋から力を抜こうにも、慎重にやらねば気絶しそうだった。

(こいつはひどいや)

 ゆっくり元の体勢に戻った。岩棚と言っても真下には足場が無いし、反対側の側面はここからの距離が目測できないほどに遠い。仮に鎖から自由になれたとしても、逃亡は難しい。

(そもそも、どうやってこんな所に運ばれたんだろうね)

 一応、この場にはリーデン一人しか居ない。左右を見やると空いた足枷が何個かぶら下がっている。人を捕え置く為の場所なのは間違いないが、まだわからないことだらけだ。

 これは次なる展開を大人しく待つしかないのだろうか。

 どれくらい放置されてたのかによるが、当分はこの体勢でも生きていられると推測する。似たような拷問方法を見たことがあるため、若く健康な人間であれば最も危惧すべき問題が脱水症状であることはわかっていた。とはいえ、それはあくまで生死のみの問題であって、どこかしら血栓ができたり、心臓が過労に蝕まれたりしないとは限らない。

 などと考えていたら、上方から人の気配がした。瞬く間に、何か大きな荷物を二人がかりで抱えた男たちの姿が現れる。二人とも腰に縄を巻いて降りてきているらしい。服装は麻布でできた砂色の簡素なもので、顔には鼻と口を覆う布を巻いている。

(なんじゃこりゃ。ぶら下がる系文化?)

 かろうじて考え付くのは、横取り対策だ。捕えた獲物を屋外で処理・保管している間、他の野性動物に盗られない為の措置とも考えられる。しかしそうだとするなら、自分はおそらく食用として保管されていることを意味する。

 いかに広い大陸でも、食人の習慣を良しとする国は存在しなかったはずだ。では他の用途があると仮定して色々可能性を探るも、思いつかない。未だに何もかもが謎だ。

 男たちは巧みに岩壁に沿って降下し、手荷物を抱え直した。確かめるまでもなくそれもやはり人間であろう。そいつも今からリーデンと同じ目に遭わされるのだ。

 別段、誰何や抗議の声を上げようとも思わず、リーデンは無言でその作業を眺めた。

 すると男の一人が視線に気付いた。布越しに何かをぼそぼそと相方に呟いている。何故か二人は色めき立っていた。

 四、五回の言葉の応酬を経て、ようやく取っ掛かりを見つけた。舌を巻くなど訛りが濃いが、単語は北の共通語と、文法はシャスヴォルの言語と似ている部分がある。「白い」「トカゲ」「目」と言ったのはわかった。

「しかし、こっちの黒い男は聞いた通りの見た目だったのに目が違ったぞ」

 脳内翻訳の的確さはともかく、リーデンにはそう言ったように聴こえた。

「銀髪の男なんて聞いてないな。だが白い、トカゲの目だ」

「さっきは緑だったぞ!」

「見間違いだ。今は白い!」

 ――この男たちはもしや呪いの眼を探しているとでも言うのか。

 どうして、という疑問も沸いたが、それよりも少し前の発言の方が気になった。

(目が違った?)

 奴らが抱えている荷物の正体はもうわかっていた。うつ伏せにされていてもわかるあの濃い肌色、引き締まった筋肉、硬そうな漆黒の髪、やたらと大きな図体――それらが揃っていればもう兄に相違ない。しかしどうやらそちらはコンタクトを落としていなかったのか、目の色が正しく認識されていないようだ。

「ならこっちも見間違いだったのか?」

「いや? ほら、やっぱり。この黒い方の男は、左目が無い」

 ゲズゥをうつ伏せから転がして、得意げに指差す男。

「ハァ?!」

 リーデンは素っ頓狂な声をあげた。

 何故なら指差された兄の左の眼窩は――本当に眼球がお留守の、ただの空洞となっていたからだ。

 突発的な声に男たちはぎょっとなり、警戒気味にこちらに視線を走らせた。が、そんなことは丸きり無視して記憶の中を漁る。

 一体どの時点で眼球は失われたのか。遠くからミスリア一行を見つけて声をかけた時はまだ距離があったし、ハッキリ確認した気がしない。出会い頭に相手の両目が揃っているのかどうかをわざわざ確認する方が稀だ。

(兄さん前髪また伸びてるし……そりゃあ遠くからじゃわかんないのも当然だよね)

 たった一つの異変を除いて、外傷の痕らしき痕が無い。血などが乾いた痕跡ですら見当たらない。まるで眼球だけをどこかにポロッと落としてしまったかのようだ。

(まさか目玉が自分で足を生やして逃げるわけでもなし――いや、そうとも言い切れないか)

 呪いの眼と呼ばれるモノは、魔物を人体に取り込もうとした実験の成れの果てである。リーデンがその事実を知ったのは比較的最近だが、知っている以上、あらゆる不条理な可能性をも考慮すべきである。魔物とは元よりそういう存在だ。

 こうして考え込んでいる間に男たちが隣の空いた鎖を取った。ゲズゥをも逆さ吊りにする気だ。妨害をしても無駄だと判断し、ガチャリと嵌められていく足枷をリーデンはぼんやりと見つめた。

 そこで一つの発見をする。

 近くにあると思っていた兄の「気配」は依然動かぬままだ。即ち、近くにあるらしいが、少なくとも半径15ヤード(約13.7メートル)以内に居ないように感じるのだ。それだと目の前の男は、この矛盾はどうしたものか。

(僕らを繋ぐ見えない「糸」の支点が左眼だとするなら、その繋がりが眼と一緒になくなるのはわかる。でも――)

 繋がりは活きている。ただその端点が目の前にぶら下がる男に無いだけだ。これは本気で、眼が独立した状態で活動していると考えねばなるまい、とリーデンは珍しくげんなりしていた。

「こっちこそが――――だ!」

 手ぶらになった男たちの注意が再度こちらに向いた。

「そうだな。白いな。お前の言う通り、コイツが――――かもしれない」

 男たちは一つ、リーデンに聴き取れない単語を使った。

「は? 何言ってんの君たち」

 北の共通語で話しかけてみたが、奴らは興奮していて聞く耳持たない。あろうことか岩壁を伝って近付いてきている。

「ヴゥラフよ、歓迎する」

「失礼をした、ヴゥラフよ」

 相変わらず意味は知れないが、何度目かで発音を聴き取ることができた。

「ちょっと、どういうこと? ヴゥラフ? って何それ」

 と問いかけても返事が無い。

 男たちはせっせとリーデンの足枷を外してくれている。次いで肩を掴んだり腰に縄を巻いたりと、少なくとも枷を外してそのまま谷底に落とすつもりは無いようだ。

 自由になれることに対する期待が生まれたと同時に一つの焦りが浮かんだ。これでは多分、兄と話す機会が失われる。

 そうとわかれば即決した。唯一届きそうな右脚を伸ばす。

「起っきろォ!」

 距離や体勢の関係で、蹴りは腕をかする程度の衝撃しか与えられなかった。それでも逆さの兄をぐるぐると横に回転させるだけの勢いはあった。これで意識が戻らなかったら唾を吐きかけるくらいしかもう策が――。

 幸い、数秒後には瞼が震えた。ちょうどその頃に回転も収まった。

「に、い、さ、ん? 君はー、僕にー、色々と説明しなきゃなんないコトがー、あるんじゃないかなぁ?」

 黒い右目の焦点が合うより先に、リーデンは毒気を吐きつけた。

「…………同意だが、後に回すしか無さそうだな」

 状況をざっと見回したゲズゥがやはりげんなりとした様子で応じた。こちらのやり取りなどお構いなしに捕獲者たちがリーデンを抱えて上へ上へと引き上げている。

「しょうがない! 今の表情カオが面白かったから、それに免じて許してあげよう!」

 下方に遠ざかる兄に向けて、ほんのちょっぴり上機嫌になったリーデンが叫びかけた。

 ――あっという間に景色が流れる。

 気が付けば縄を外され、足の下には大地があった。黄緑色の低い草が疎らに群生しているが、察するにこの土地はあまり潤ってないようだ。

 下半身の血行は流石にまだ回復しない。立つのが困難なリーデンを、左右から他人の腕が支えたけれども、礼を言う気は起きない。そんなことよりも周囲をじっくり見渡すことにした。

(へえ。居住区があれ以上にもっと高いとこにあったとはね)

 岩陰からにょきにょきと生えるキノコ、と言えば最もイメージが似ている。木板で組み立てられた、やぐらにも似た印象を受ける家がそこかしこに建てられている。木材は別の場所から運んできたのだろうか?

 やがてリーデンは、二十軒ほどの家をつり橋で繋いで中心を広場にしたような、不安定な場所に連れられた。中央近くの座布団を勧められ、そこにありがたく胡坐をかいた。砂を詰めたみたいなずっしりとした座布団である。

 囲う人だかりから、女が歩み出た。白髪の割合が高い髪を後ろ首で団子にまとめ、他の民と同様に口や鼻を布で覆っている。

 光の加減によっては緋色と見間違いそうな、濃い茶の瞳と艶やかな睫毛が美しい。女は顔の布を顎下まで引き下ろして一礼した。改めて見ると、五十代に突入していそうな者だ。それなのに衰えをまるで感じさせない佇まいと顔つきには素直に感心した。

 女は片手を挙げてざわめく民を静まらせた。真っ直ぐにこちらを見下ろしたかと思えば、目前まで来て片膝をついた。

「失礼致しました、ヴゥラフ」

「へえ、君は共通語が話せるんだね」

 条件反射で、リーデンは非の打ち所のない笑顔を返した。

「はい。これまでのご無礼をどうかお許し下さい」

「じゃあ訊くけどさ、あんなとこで僕らをぶら下げたのは何で?」

「余所者は不運を運んでくると言い伝えられています。都市部に招き入れる前に、風の女神サルサラナに清めていただく為、一時間から八時間ほど谷風に晒すのです。かける時間はお相手の態度次第になります」

 女は流暢な北の共通語で惜しみなく答えた。

「それは旧信仰?」

「いいえ。我が国は教団のみ教え通りに聖獣を崇め奉っております。昔ながらのいくつかの習慣が、生活の中に残っているだけなのです」

「ふうん」

「それから、女性は逆さに吊られないのでご安心を」

「あっそ。あの子たちが無事ならそれでいいよ。後で会わせてね」

 内心では相当にほっとしていたが、周りに悟らせない程度に軽く応じた。

「勿論でございます。お慈悲のほど、ありがとうございます。ヴゥラフ」

 女は胸に手を当てて頭を深く下げる礼をした。

「さっきから気になってたけど、その呼び方なんなの」

「ヴゥラフは、ヴゥラフでございます。我らを圧した者たちから解放して下さった主、ゆえに解放主ヴゥラフです」

「解放主、ね。どう考えてもそれって僕のことじゃなくて……ん? 解放? そこんとこもっと詳しく」

「あなたさまはかつてこの都市に圧政を敷いた憎き敵を滅ぼしたお方なのでしょう? 我々カルロンギィ渓谷の民は解放主にお目にかかったことがありませんが、白と金の、龍のような鋭い眼を持った、若い男性だと聞き及んでいます」

「ああなるほど。そういうこと」

 そこまで聴いてリーデンは合点が行った。なんてことはない、別々だと思っていた噂が実は同じ出来事を指していたというわけだ。

「それはわかったけど、今になって『解放主』相手にこんなに騒ぎ立ててるのは何故?」

「あなたさまのお力を再びお借りしたいのです。新たなる敵からこの地を解放してくださいませ」

「いわゆるお悩み相談ね」

 またまたリーデンは納得した。これで事態の把握はほぼできた――彼らは過去に自分たちを救ってくれたらしい人物が再び苦難の時期に姿を現したことを、偶然ではなく運命の導きだと解釈したのだ。

(本人ですら忘れていた縁か。都市国家カルロンギィ、俄然興味が湧いてきたよ)

 見知らぬ土地で生き延びる上で、恩を売る機会ほど都合の良いものはない。とんでもない面倒ごとが待ち受けていたとしても、ここは乗るのが最善策とする。

「現時点で僕に何ができるか、一つとして保証はしない。でも相談には乗ってあげるから、遠慮なく話してみなよ」

 リーデンは頬杖ついて微笑んだ。

「ありがとうございます、解放主」

 女が涙ながらに一層礼を深くする。その背後では同じように跪く人間や歓声をあげる人間と、とにかく全員が心から嬉しそうにしている。

 こちらにしてみれば愉快な光景だった。


_______


 聖女ミスリア・ノイラートは狭い場所で目を覚ました。

 むくりと上体を起こして、寝ぼけ眼を上下左右に向ける。

(六角柱の……檻?)

 細い鉄格子と、六角形の天井がぼやけた視界の中で色付いた。

 さて床はどうなっているかなと思って視線を落とすと――

「ひぃっ!?」

 下は網だった。問題はその点ではなく、網目の向こうに見えた景色だ。深い谷を見下ろす形になっている。

 ――とてつもなく、高い。

 いつの間にやら網に立てていた両手の爪が、ガチガチと音を立てて震える。寝ぼけていた頭など一気に冴え渡った。

(なんで、何でこんな所に)

 檻の中には自分しか居なかった。他の皆を捜し求めて視線を彷徨わせ、そうして少し離れた場所にも檻を見つける。

「イマリナさん!」

 力なく項垂れている女性に幾度か呼びかけたがまるで起きる気配が無い。

 ごうごうと吹き抜ける風に撫でられて、ミスリアやイマリナが納められている檻が揺れる。崖のふちからぶら下げられているようだった。一体誰が、何の為に。

(ゲズゥやリーデンさんは……)

 おぼろげな記憶の中では二人の護衛は力づくで昏倒させられていた。駆け付けようとしたところで記憶は途切れている。

(どこ――?)

 思考がまとまらない。膝を抱え込んで、押し寄せる恐怖の波に耐えた。しかし一分としない内に耐え切れなくなり、叫んだ。仲間たちの名前を順番に呼ばわる。次第に誰でもいいからと返事が欲しくなり、切羽詰まった悲鳴をあげた。

「誰か! 誰かいませんか!?」

 声は反響することなく、谷に飲み込まれる。その時になって首周りをまさぐったのは、無意識からだった。

 ――無い。またアミュレットを失くした。

 ならば更に希少価値のあるアレはどうなったのか。

 胸を押さえつけ、内ポケットに収容されている小物を探す。すぐに硬い感触が指に伝わった。

(よかった、水晶だけでも無事で)

 聖獣の鱗であったこれには、持つ者への強い守護を期待できる。手元にあるだけで安心した。それでも、なお不安要素が多すぎるが。

 もう一度大声を出そうと、息を大きく肺に吸い込んだ瞬間――

「叫んでも無駄だ。仲間にも、捕えた者らにも、届きはしない」

 ――ガシャン!

 大きな音と共に、檻が激しく揺れた。質量の多い何かが上に飛び乗ったと受け取れる。人語を発したからには、きっと人間だ。

(檻ごと落ちる!?)

 全身を硬直させ、ミスリアは知らず青ざめた。胃の中身が渦巻いている。

 こんな時になんだが、自らのスカートの裾が一箇所、不自然に盛り上がっているのが目に入った。まるで丸い小石が中に隠れているかのようである。

「いい格好だな。聖女」

 ――誰?

 吐き気を堪えつつ、真上からかけられた挨拶を不審に思った。聖女の特徴的な白装束ではなく一般的な部屋着しか着ていない上、アミュレットも身に着けていない。教団の象徴を象ったアミュレットを盗った当人でなければ、ミスリアの身分を知っているはずが無いのだ。

「上の集会所では、大勢の人間が集まっている。『呪いの眼』の持ち主を祭り上げる為にな」

「祭り、あげる……どうしてそんなことを」

 思わず返事をしてから気付いた。上から降りかかる男性の声は、南の共通語を使用している。共通語、しかも南のを話せる者はこの周辺ではかなり珍しいのではないか?

「利用したいからに決まっている」

「!?」

 男性の応答とは無関係に、ミスリアは驚愕して口元を手で覆った。スカートの盛り上がりがもぞもぞと動いたからである。狭い檻の中で後退ると、ころんと何かが衣の下から転がり出た。

 瘴気を微かに立ち昇らせる白い球体。

 小型の魔物――最初に浮かんだのはその可能性だった。が、この檻の中は眩い陽光に満たされている。魔性の物が実体を保てる環境ではない。

 ミスリアが息を潜めて見つめる中、球体は震えた。たとえるならば、輪郭を変えて「足」を作ったようだった。その足で網を掴み、全体の向きを変えた。

 前後反転したそれには見覚えがあった。

(目玉?)

 白い色の中には細かい赤筋が見て取れる。同じ白でも外周より澄んだ白が中心で円を成しており、そこに散らばる金色の斑点、そして深い切り込みのようにも見える、縦長の黒い瞳孔。

 何故目玉が自力で動き回っているのか、何故形状変化ができるのか、疑問は多い。けれども何よりも注目したいのは、眼球に見覚えがある点に他ならなかった。たった今話題に挙がった「呪いの眼」である。

 恐ろしさよりも好奇心が勝る。ミスリアはゆっくりと手を伸ばした。

 そんな時、檻の上の人物がまた話しかけてきた。

「お前の連れの中にもう一人、呪いの眼の持ち主が居たとはな。あの銀髪は見たところしたたかそうだ。人違いであっても、うまく祭り上げられるやもしれん」

 頭上の声が移動し始めている。

 深く考えずにミスリアは眼球を掌に包んで背の後ろに隠した。肌に伝わる感触はねっとりとしていて、意外に温かい。不思議と気持ち悪いとは感じなかった。

 謎の人物は鉄格子の間に長靴の踵を嵌め込んで足場とし、降下してくる。右手で鉄格子を掴みながら、左腕は何故かだらしなく垂れている。

 彼の体重が移動している所為で檻が大きく揺れ出した。明らかに男性はミスリアよりも重い。

 こちらも空いた手で鉄格子を掴んだ。そうでなければ檻の中を投げ飛ばされたり振り回されそうである。

「人違いって何のことですか」

「なんだ。ゲズゥに聞いていないのか」

 右手の中で目玉がぴくりと動いた。もしかしたら見えなくても会話が聴こえているのかもしれない。理屈はきっと、考えてもわからない。

(それより今の感じって……)

 男性の、何気なくゲズゥの名を呼ぶ悠然さには覚えがあった。今となっては遠い昔みたく感じられる、邂逅の日を思い出す。

 降りてきた男性は砂色のフードとマントに身を包み、鼻から首までもを同色の布で覆っていた。窺えるのは褐色肌と、刺すような藍色の双眸――。

「……オルトファキテ殿下?」

 囁きで問いかける。男性の目元の緩みからして、笑ったようだった。

「此処ではその名に意味など無い。長ったらしいだろう、端折って呼べ」

「は、はあ。では、王子」

 ミスリアにとっては精一杯の譲歩である。まさかゲズゥみたいに「オルト」と呼ぶには恐れ多いというか、単に恐ろしかった。得体の知れない人間との、得体の知れない場所での再会を喜ぶ気にはなれない。

 オルトファキテ王子は顔の布に指を引っ掛け、そのまま引き下ろした。以前会った時と何ら変わらない顔が露になる。

 彼は一つ不敵に笑った。

「ここから出してやろうか」

 そう言われてミスリアは数拍の間考え込んだ。

 助けて欲しいという望みが形になる前に相手方から提案されるのは、流石に警戒してしまう。

「失礼ながら信用できません。そうして貴方は何か得することがあるとでも?」

 動揺を見せないように、努めて冷静に言い放つ。

「無論だ。私は等しく有能を愛し、無能を嫌悪する。能ある人間ならば何者であろうと可愛がるさ」

 王子は歯切れよく宣言した。器が大きいのか小さいのかよくわからない発言である。

「交換条件は何です」

 流れに飲まれてなるものか、と声を低くする。

「察しが良くて何よりだ、聖女」

 ふっ、と笑って彼は頭を僅かに斜め横に逸らした。見下ろすような目線は相変わらずである。

「まず言っておくが、お前が先に私の条件の方を飲まねば、助けてやるのは不可能だ」

 助けてやらない、とは言わずに彼は不可能という言い回しを使った。何かが引っかかる。

「意味がわかりません」

「なに、別にややこしいことではない。要求は単純で、しかもお前にしか果たせない類のものだ」

「私にしか……?」

 そういえば妙だと思った――彼が何かを求める相手がゲズゥでなく自分であるのは。どんな事情かはわからないけれど、普通に考えて王子は無力な自分よりも確かな戦力を必要としそうだ。

 彼は鉄格子に嵌めていた踵を引き抜いて、長靴の爪先を嵌め直した。そうして前のめりになった姿勢で重心を安定させ、右手を自由にする。

 空いた手でマントを肩の後ろへと払った。そこから現れただらしなく垂れ下がった左腕を、右手で持ち上げる。

 左腕が動かせなかったのか、とミスリアは理解した。緩く包帯に巻かれた腕はよく見ると毒に侵されているかのように紫黒色に変色していて、手は赤く腫れあがっている。

「この檻の鍵は上からかかっていて、尋常でなく頑丈だ。生憎とそれをこじ開けたり壊したりするには道具が無い。が、意外と下の網は脆く、鋭利なナイフ一本で切り開ける」

 貴方は試したことがあるんですか、と訊きたいのを我慢し、ミスリアは言葉の意味を噛みしめた。

 宙ぶらりんの檻を下から切り開くには両手が使えなければ難しい。片手では落ちないようにするだけで必死だ。

「私が腕を治した直後に貴方が逃げてしまわないという、保証はありませんね」

 言ってから、疑り深くなったものだなと自覚する。

 以前の自分なら何の疑問も抱かずに首を縦に振っていたかもしれない。ゲズゥたちの影響だろうか。これを成長と呼んでいいのか、なんとも言えない気分になった。

「心配には及ばない。何故なら、私はお前個人に更なる使い道を見出しているから」

「使い道…………」

「それも、ややこしいことではない」

 藍色の瞳はミスリアから離れ、遥か下へと向かった。

「谷底だ」

 つられてミスリアも谷底を見た。一瞬、息が止まるほどには、やはり高かった。

 底そのものはもやがかかっていてよく見えない。奥にどんな景色があるのかまるでわからない。

 注視していると、段々と一つの不安が沸いた。このうすら寒い予感を言葉にするなら――

「カルロンギィの人々は夜に怯えている。その意味、聖女ならばわかるだろう」

「……予想はつきます」

 静かに答えた。

「私の目的の為にヤツの排除は必須だ。協力しろ。ここから出すついでに有益そうな情報もくれてやる」

「魔物退治を手伝えと言うんですか」

「少し違う。見様によってはヤツは人でなければ、魔でもないし、しかし両方である」

「それ、は」

 王子を振り返りながらも、いつの間にかミスリアの掌から上って袖の中に隠れている目玉に意識が行った。

「おかしな挑戦をしたらしい。魔物と同化するという、挑戦を」

 大きく目を見開いて、ミスリアはオルトファキテ王子を見やった。

 王子はその心中に何が潜んでいるのか、随分と複雑そうな表情をしていた。

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