64.

「生き物は皆、生まれた瞬間から死に向かって生きている」

 地平線に淡い赤が昇り始めた頃合いに、なんとなしにゲズゥはその言葉を口にした。

 ビュッ、と鋭い風が雪原を一度通り抜ける。最上層の新雪は砂の如くさらさらと押し流されていった。芯まで冷える、寒々しい朝である。その上、鳥の鳴き声さえ聴こえてこない。威圧的な静寂が余計に寒さを身に沁みらせた。

 視界はどこまでも開けている。

 取り残されたように所々ぽつねんと立っている常緑樹を除けば、地上は白い峰々ばかりに飾られていた。

 人類の進退などとは無縁であろう、普遍的な景色。

 見事としか言いようがなかった。できればこれを讃える詩のひとつやふたつを詠いたい気分だが、生憎とゲズゥはそんな才に恵まれていない。

「死に対して恐怖は不要。死ぬまでにどういう風に生きるかが、勝負……」

 代わりに、かつて火あぶりにされるはずだった日に思い返していた台詞が、口をついたのである。

 あの日のことは昨日の出来事と同じくらいに詳細に思い出せる。大勢の観衆の視線も、国家元首の尊大そうな態度も――全ての流れを一声で変えた、小さな少女の笑い顔も。

「それは恩師の方が?」

 背後に立ったミスリアが問うた。肩から振り返り、憶えてない、とゲズゥはありのままに答える。確かにあの男が好みそうな理念だが、真相は記憶の彼方だ。

 正面を向き直ったのと同時に、地平線に色濃い変化が現れた。

 黄金色の輝きが炸裂する。あまりの眩しさに目を眇め、顔を伏せた。

「行くぞ。追っ手が来る前に」

「はい、あそこから尾根伝いに北東七マイル……そこまで行けば、目的地が見えてくるはずです」

 コンパスが手元に無いため、方角は太陽の位置から算出している。

「七マイル……」

 通常ならば数時間で歩ける距離であろうが、此処の地形での七マイルは半日かかるやもしれない。

「あれから星を見てないのに、わかるのか」

「星空を見なくても、聖獣が見せて下さいました。間違いありません」

 こころなしか早口で言い包められた。

「……ならいい」

 ミスリアが断言するのなら、是非もなく従うつもりでいる。聖獣に見せられた、という点が何故か引っかかったが、問い質したところで核心までは話してもらえない気がした。

 それからは、雪を踏む音だけが静かに続いた。

 雪崩に遭ってから丸三日、吹雪はようやく通り過ぎたのである。夜になると活発化するであろう魔物信仰の連中を振り切るには陽の高い時刻に行動するのが一番だ。出発する前に――雪を溶かして湯を沸かすことで水筒を補充し、非常食を食べ尽くした。後から追ってくるリーデンが、また食料を持って来てくれるだろう。

 雪の中を歩く。ひたすらに、歩く。時々転びそうになるミスリアを支えたり、足場の悪い道では手を差し伸べたりした。休憩も、程よく挟む。

 教団本部に住み込んでいた頃から雪を見慣れているからか、ミスリアは臆することなく歩を進めている。空気の薄さにも順応しているようだった。

 そうしている間も、太陽はゆったりと大空を横切る。

 静寂は時折動物の鳴き声によって破られた。シロハヤブサの影を見たのは、一度や二度ではない。

「寒くありませんか」

 ふと、少女はチラリとこちらを一瞥して訊ねてきた。丈が絶対的に合わない防寒コートを除いて、ゲズゥは己が着ていた上衣の一切をミスリアに貸してやっている。

「問題ない」

 我が身に残るは素肌の上に革の防具、その上に分厚いコート。立ち止まれば肌寒さを免れないが、動いている間はむしろ暑いぐらいだった。

 満足そうに頷き、ミスリアは足元へと注意を戻す。

 それに反して、ゲズゥは焦点を広げた。いつの間にか空の色は、淡く灰色がかった青に変わっている。両目に映る、山岳のそびえる様に感嘆すべきか飽きるべきか、最早どういった情動を抱けばいいのかもわからない。

 こちらが無我の境地か狂気の域に至りそうなところで、前を歩くミスリアが立ち止まった。着きました、と小声で呟くのが聴こえた。

「まるで最果ての地みたいですね」

「……そうとも言える」

 肩を並べて佇む。互いにしばらく無言で、目的地を見下ろした。

 複雑に曲がりくねった谷が、眼下に果てしなく広がっている。谷の奥では氷の浮かぶ湖が至る所で陽の光を反射し、極北の地の異様さを訴えかけてくる。

「あの湖のどれかに、聖獣が眠っているはずです」

「なるほど」

 正直、あまり気の利いた返事が思いつかない。この瞬間に於いて最も苦悩しているのは間違いなくミスリアだと言うのに、なんと声をかければいいのか、自分には見当も付かないのである。

 湖と谷のうねりに見入る。どれをとっても深く、近くまで降りるのに時間がかかりそうだった。

 ――随分と遠くに来たものだ。

 遠くに来たと言うのに、いざ終わりを目の前にすると、呆気なく感じてしまう。

 始まりは処刑台だった。南東地方の茹だるような暑さと大気の乾き、鬱陶しいまでに密集した人口を背景に、この小さな聖女に出逢ったのだ。

 ――これが、終わり。

 語り継ぐ者の一人も居ないこの広大な地で、間もなく彼女の一生は幕を閉じる。

 呼吸が浅くなるのを感じた。血流を巡る焦燥感には、恐怖に近いものがあった。

「神々を摂理とするなら……世界の摂理を守るもの、摂理に守られているもの。この下にあるのは、そういった大いなる存在です」

 極めて穏やかな声で。罪も心も洗い流せる壮大な風景だと、彼女は称賛する。

 ゲズゥはそう感じていなかった。むしろ心に開いた風穴に冷たい風が突き刺すような、物寂しい景色に見える。馬鹿げた感傷だが、実際にそう感じるものは仕方ない。

「プリシェデス・ナフタは問いました。どうして神々は、魔物が生じる世界を創ったのかと」

「…………」

 どうしてと考えるものだったのか。ゲズゥにとっては魔物は遭遇したら斬るもの――物心付いた頃から、その程度の認識でしかなかった。

「神々からの課題ではないでしょうか。穢れがあって瘴気があって、魔物が蔓延る。それらとどう向き合っていくかで、『人』の在り様は変わり続けます」

「……どう向き合ったところで、摂理そのものは変わるのか」

「摂理は変わらなくても、正しさの形には挑戦する余地はあると思います」

 そろそろ話題はゲズゥの理解の範疇を越えていた。相槌を打つのを止めて、静聴の姿勢に移る。

「四百年も、大陸が聖獣に浄化されない時代が続きました。その間、コヨネ・ナフタや魔物を信仰する集団が現れ、ゲズゥたちの先祖含める『混じり物』が現れました。下手すると本当に、魔物になることを人類の最終目的とした――そんな世界が来るかもしれない」

 ひと思案するように。ミスリアは一歩前に踏み出て、俯いた。

「でも逆に……いつか、聖獣が必要とされない時代も来るかもしれませんね」

 ――それこそ甘い夢想ではないか。

 思わず応援してやりたくなるような目標でもある。

「聖女ミスリア・ノイラートの肉体と魂が貯めてきた聖気を、此処に残らず捧げます。運命を動かすには足りるかもしれませんし、足りないかもしれません。私はその結末を知ることはできないでしょうけど」

 くるりと少女は身を翻す。己が終わる場所を――果てしない大自然の景色を背に、切なげに笑う。

 それを見せつけられた側は、肺を抉られたような気分になった。息など、ここ数分まともにできていない。

「どうか、見届けて下さい」

「…………」

 泣きそうな顔で懇願されては断れるわけがなかった。だがこのまま最後まで黙っていられるほどに、ゲズゥは思いやり深い人間でもない。

「……もしも、聖獣を動かす為に複数人が必要なら、お前がその一人じゃなくてもいいだろう」

 僅かばかりミスリアの瞳が迷いに揺れたのを、ゲズゥは見逃さなかった。

「引き返したいか」

 そう提案すると、茶色の瞳が更に見開かれた。そして次には眉間に皺が寄り、半眼になる。

 ゲズゥは極めつけの一言を放った。

「お前の気が変わって……世界の命運を左右しうる聖女から、ただの女に戻りたいと思ったなら――俺は加担する」

 途端に、毛に縁取られたフードが、ぼふっと音を立てて下りた。栗色の髪は隠れ、目元も隠れる。声を出さずに桃色の唇が「やめて」の一言を浮かべる。

 やめられなかった。

「俺はお前がいなくなるより、いなくならない方が良い」

 そんなこといわないで、と更に無音の抗議が返る。狐色の毛の下からじっと見上げる瞳をゲズゥはしかと見つめ返した。数秒後には観念したのか、被ったばかりのフードをおずおずと下ろして、ミスリアは唇を噛んだ。

「加担って……まるでいけないこと、みたいですね……。言い得て妙です」

 そこで複雑そうな表情を浮かべる心持ちもわかる気がした。一度は背負うと誓った使命から逃げるのは、後ろめたいのだろう。ゲズゥもまた、彼女の目的達成を手伝うと誓った身だ。約束をたがえたくないと思うからこそこうして自ら引き返すように唆している。

 まさか好感触を得るとは思わなかった。最終局面で逃避を勧めているのだ。恥知らずと罵ってもいいだろうに、これではもっと押してみたくなる。

「お前が聖女でなくなっても傍を離れたくない。その一点に変わりは無い」

 このような言葉が口から出たのは、自分でも意外だった。同様に向こうも面食らっている。

 しかし瞬きの間に少女の面様は寂しそうな笑みに移り変わっていた。

 ――心臓に突き刺さる棘が、ひとつ増える。

「私は九歳の頃から教団で生活してきました。ただの女として生きるというのがよくわかりません。実家には帰れませんし……両親は、顔を合わせれば笑いかけてくれますけど。あそこに私の居場所はもうないんです。私を見ても、お姉さまを失った痛みを思い出すみたいで」

「生き方なら、これから探せばいい」

 まるで相手よりも自身に言い聞かせるように告げた。

 ミスリアは再びくるりと身体の向きを変えた。聖獣の眠る珍妙な谷を眺めつつ、風に弄ばれる髪を首元で押さえている。

「組織ジュリノイの頂点ケデクさまが――『個』を安易に手放すなと仰いました。あれは個人の望みを大切にしなさいって、そういう意味だったのでしょうか」

 ゲズゥは「さあ」と肩を竦めた。顔を見たこともない人間の真意など測れるはずが無い。

 けれども頂点とやらの進言からミスリアがそういう意味を汲み取るのは、こちらとしては都合が良かった。

「……ありがとうございます。逃げてもいいとの選択肢を出していただけるだけで、私は幸せです。ほんとうに、貴方がくれる全ては、私には勿体ないくらいで」

 雪の中に軽く音を立てて、ミスリアが近付いてくる。互いを隔てる隙間が半歩となったところで。

 腕を掴まれた。コートのポケットに収めた右手を求められているのだと気付き、されるがままに任せる。

 引きずり出された手は、ミスリアの両手に捕えられた。

 ――すると新たな棘が心に刺さった。

 双方ともに厚めの手袋をしているため温もりを感じることはできない。それが無性に悔しかった。その代わり、己の手を握り締める力に意識を集中させる。

「幸せです」

 涙声でもう一度繰り返される。

 指の背に硬いものが当たった。捕えられた手が、俯いた少女の額に押し当てられているのである。前髪がはらりと落ちてくる感触が、細やかな振動が、肌に伝わった。

 ――ざわりと、心の棘が無数に増える。

「幸せなら、いい」やっとの想いで喉から返事を絞り出した。「お前の泣き声は、二度と聞きたくない」

「……その節はお世話になりました。もう大丈夫ですよ」

 もう大丈夫、が脳内で一瞬「さようなら」に変換される。

 抉られたように心が痛い。何かが欠如していくのを感じるが、それが何なのかがわからない。

「下りましょう。リーデンさんたちが追い付くまでに、お目当ての湖を探さなければなりません」

 微笑の後、手が放された。

 その場に立ち尽くした間は三秒ほど。後悔にも似た衝動に突き動かされ、遠ざかる小さな後ろ姿に向けて手を伸ばす。

 衝動はすぐに理性によって抑え付けられた。宙に浮かんだ拳を、力の限り握り締める。

 死ぬまでにどういう風に生きるかが勝負。人の一生を――行路を織り成すのは選択の連なりだ。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは大儀そうな足取りで歩き出した。聴こえないように、密やかに呟く。

「俺はどういう風に生きていたら」

 ――来たる別離を避けられただろうか。

 しかし違う生き方をしていたならば、おそらくミスリアと人生が交わることも無かっただろう。そればかりは、非情に容認しがたい結果である。

 結局は無意味な問答だった。


_______


 フォルトへ・ブリュガンドは無心に敵影を倒していた。近付く輩はとりあえず倒そう、という単純明快な心構えで三日月刀を振るっている。

 現在地は魔物信仰集団の砦から二マイル以内、聖女ミスリア・ノイラートが発った方向の延長線上にある。天候が落ち着いてからまだ半日と経っていない。

(十二分ってとこですかね)

 言い付けられた作業があらかた片付くと、フォルトへは防寒着にかかった雪を雑に払った。経過時間を数えるのは、戦闘訓練を受けた当時からの習慣だ。

(八人倒して、その内苦戦したのは二人)

 まだ自分一人でどうにかなる程度の負担である。日が傾けば連中はきっと魔物を引き連れて出てくるだろう、と考えると憂慮は深まる。

「先輩、どこですか~」

 ぼやけた視界の中、上司を軽く呼んでみる。ここだ、と背後から応答があった。声のした方へ行ってみると、ユシュハ・ダーシェンは腕を組んで立っていた。

 隣に並んでから両目を眇める。彼女の視線の先には、銀髪の青年と紅褐色の髪の女性が居るらしかった。しばらくして女性の方が立ち去った。

「随分と長いこと話し込んでいたな」

 女性の足音が遠ざかった後に、ユシュハがぶっきらぼうに指摘する。声は聴こえなかったのに、そんなに長い間話していたのかとフォルトへは首を傾げた。そうか、二人はきっと手話で会話していたのだ、としばらくして思い当たった。

「一週間経っても僕が戻って来なかったら手首切って此処で死ぬって脅されたよ」

 銀髪の青年の透き通った声が、物騒な内容を明るく語った。

「過激な女だな。それで何と答えた」

「そんな真似は許さないー、って。彼女は……イマリナは、命ごと僕の所有物だ。主の居ない所で勝手に死ぬことは絶対に許さない。ギリギリまで生きて、餓えて凍え死にそうになっても生きて、待っててくれって伝えたよ。いずれ僕が生きて帰っても、魔物として戻ってきても、ちゃんと迎えるようにって」

 ひゅう、と思わずフォルトへは口笛を吹いた。彼らの親密さが、羨ましいと薄っすら思う。

「情熱的ですね~」

 自分の感想は、上司に一蹴される。

「いや、滅茶苦茶だな。貴様の人格は破綻している。やはり罪人と浅からぬ縁があるだけに、か」

「やっだなぁ。早とちりはいけないよ、お姉さん。僕の人格形成に兄さんが関係している事実は否めないけど、こうなったのは、あの人の責任じゃないよ」

「ふん。血の縁は、否定できない。私の父もかつて罪を犯し、家族を壊した」

 彼女が背負う過去を、フォルトへは断片的に聞き知っていた。

(滅多に口に出さない話なのに、珍しい)

 もしやこの青年に同情にも似た感情を抱いているのかと、驚いてしまう。

「罪人は、死んでも罪人だって言いたいの?」

「人は簡単に変われない」

「……――簡単じゃ、ないよ」

 青年は静かに笑った。

「別に僕や兄さんを信用しなくてもいい。でも僕らを拾い上げてくれた聖女さんの生き様だけは、否定しないように」

「勿論です」

 また失言を吐きそうな上司に替わり、フォルトへが答えた。

「聖女ミスリアの妨げが少しでも減るように、自分らはここで追っ手を止めます。少なくとも、大烏が頂点さまの返事を持って戻ってくるまでは倒れませんよ~」

「うん、一応ありがとうと言っておくよ。聖女さん側としては、命投げ出してでも頑張って欲しいけど、君らも仕事だからってよくやるねぇ」

 肩を軽く叩かれる。次いで青年は踵を返した。

「言われなくても、連中の追跡は此処で押し留める。聖女の安全を確保するのが、我々の役目であるからな」

 返事は聴こえなかった。ぼやけた視界の中で、銀髪の青年の輪郭が手を振ったかもしれない。

 さて、これからが長丁場だ。立っている間に冷えてしまった身体の柔軟性を取り戻すため、また筋肉を温め直すため、フォルトへは腕を絡めて頭上や背後に伸ばした。足腰にも血が行き届くように、しゃがんでは立ち上がる、を繰り返す。

「先輩~、ひとつお願いがあります」

 雪が踏まれる音がすっかり聴こえなくなった頃。しゃがんだままの体勢で、フォルトへはぽつりと切り出した。

「何だ改まって」

「最後まで生き延びられたら、ご褒美ください」

「褒美?」

「えっとですねぇ、『ちゅー』してくださいー」

 しばしの間があった。

 流石に唐突だったか、とほんのり後悔して、ユシュハの方を見上げる。ここからだと顔が遠くて表情が見えない。

「不可解だな。私からの接吻なぞに褒美の価値は無いだろう」

 無機質な返事を聞いて、危うく転倒しそうになった。

「ありますありますー。いいじゃないですか、一回くらい」

「くだらん」

「えー」

 あからさまにがっかりした声を出した。いくら好意を飛ばしても跳ね返ってくるのが常だが、死地を前にしても、相変わらず冷たい。

「褒美の約束なぞしなくとも、死なせはしない。私はお前をこんなところで死なせるつもりで勧誘したのではないからな。くだらん」

「わ~、先輩ってば超男前!? 惚れ直しますねぇ」

「ふざけるのもそこまでだ。来るぞ」

 彼女の愛用の凶器、双頭のモーニングスターが、じゃらりと重い音を立てる。

「は~い」

 フォルトへも自身の刀を抜きつつ、上機嫌で上司の気配を追った。

 ――そうだ、ユシュハ・ダーシェンと一緒ならば、何も怖いことはない。自分は何も考えずに済む。手先の作業に集中していれば、それでいいのである。


_______


 はらはらと辺りに雪が舞い落ちる中、氷の浮かんでいない湖が目に入った。

 ミスリアは直感に従って水面まで近付いた。屈み込み、右手の手袋を脱ぐ。手を伸ばすと、中指が最初に水に触れた。そこを中心に滑らかに波紋が広がった。

 温かい。

 鼻水すら凍るような環境で、この生温かさはおかしい。手首まで水に突っ込んでも、濡れた指で顔に触れても、同じように温かく感じた。

 こうしていると、身体の芯から光が沸いてくるようなイメージさえあった。間違いない――湖底に、神聖な存在が秘められているのだ。

 ――パキン。

 遠く離れたどこかから、氷柱が折れる音が響く。次いで、折れた氷柱が雪の中にドサッと落ちるのが聴こえた。それらについ過剰に反応してしまい、ミスリアは異形の影を素早く探した。 しかし杞憂に終わる。空が薄暗いのは雪雲に覆われているからであって、魔物が現れる刻限までまだいくらか猶予が残っている。

 緊張で鼓動が速まるのを感じた。

 襲われることへの恐怖以上に己の最期への患いとおそれが強い。

 或いは夏に到着していれば、瑞々しい草花を眺めながら、もっと晴れ晴れとした気分で去りゆくことができただろうか。

(ううん。きっと同じだった)

 不安はどうしてもついて回っただろう。今でさえ、どうしようもなく手が震えている。

 幸せなのに。穏やかに眠れる気がしたのに、些細なきっかけだけで決心は揺れ動いてしまう。このままでは「私には荷が重すぎました」と逃げ出すのではないかと、自分が信じられなくなる。情けない話だ。

 些細なきっかけ、とは。

 極力身体の向きを変えずに、ミスリアは眼球だけを使って後ろを振り返った。黒いシルエットを視界に入れた途端、気付かれるのが怖くなり、目線を湖の方に戻した。

 谷に下りてからというもの、ゲズゥはまるきり口を利いてくれない。話しかければ目配せが返るし、質問には頷いてくれるけれど、それだけである。加えて、こちらを見る眼差しはまるで――ミスリアの遥か向こうを見通すような、別の何かを見ているようで、ゾッとする。

 勘付かれたのだろうか。大いなる聖獣との霊的な繋がりが、もしや彼には感じ取れるのだろうか。

 ――そんなはずはないと、ミスリアはその可能性を意識の片隅に押しやった。

(具合が悪いとか……?)

 それも有り得ない、と自答する。知り合ってからというもの、多分ゲズゥは食当たりに遭ったことすらなかった。

 直接、どうしたんですかと訊く勇気も無い。

(このままじゃやだな……)

 笑って送り出して欲しいとまでは行かなくても――大切に胸にしまって持っていけるような思い出を望んでも、いいではないか。それくらいの我がままは許されてもいいではないか。

 今をおいて、他に機会は訪れない。思い切って問い質すべきだ。ミスリアはすくっと立ち上がり、口を開きかける。

 そして青年がこちらに背を向けていることに気付く。しかも、首を少し仰け反らせて、何かを待っているようだった。

 ややあって人影が見えた。山を転げ落ちているのかと疑うほどの速度だが、目を凝らしてみると実際は折を見て滑降しながら効率的に下りているのがわかった。

 何でも器用に華麗にこなすその姿を見上げる合間に、過ぎる思考。

(リーデンさんはこの後、イマリナ=タユスに戻ったりするのかな。それともこれからもゲズゥと一緒に居るつもりなのかな)

 訊いてみようかと逡巡する。当のリーデンは脇目も振らず、真っ直ぐに突進してきた。よほど焦っているようだ。聖女さん、と大声で呼ばれる。

 切迫した声音を聞いて、ミスリアにも焦りがうつった。

(何かあったのかな。あんなに血相を変えて走るなんて)

 自分も距離を縮めようと十歩と踏み出したところで――瞬く間に視界が遮られる。清涼な香りに包まれ、ぎゅっと抱かれた。

「……何で話してくれなかったの、と責めたいとこだけど。大体察しがつくから、やっぱ何も言わなくていいよ」

 青年の声に思わぬ棘が含まれていた。はっと息を呑む。

 きっとゲズゥが知らぬ間に状況を説明していたのだろうと思い至り、ミスリアは素直に謝った。

「仲間に隠し事をされるのって、傷付きますよね……気が回らなくてすみません」

「まあ、僕は寛容だからね。そんなことで傷付くように見える?」

 力が緩められた隙に、表情を窺った。鮮やかな緑色の右目と白い左目のふちが、濡れたように煌めいていた。知り合ってからの期間は短いが、これまでの付き合いからわかることはいくつかある。リーデンは「嘘吐き」であり、「寛容」ではない。

 はい、傷付いているように見えます――と答えるわけにもいかず、言葉に詰まった。

「それとマリちゃんから伝言。『お別れの挨拶は保留にする。また会えるって信じてるから』だってさ」

「…………」

 ゲズゥに先ほど伝えた通り、もう大丈夫だからと、二度と泣かないつもりでいた。喉の奥からせり上がる苦しさに必死に気付かないふりをする。

「ね、どう、後ろ髪を引かれたでしょ。少しでも考え直してくれた?」

「それを訊くのはずるいです」

 ミスリアは苦笑交じりのため息をついた。どうしたものか、この兄弟は揃いも揃って手放してくれない。嬉しいようなこそばゆいような、妙な気分になる。

「ずるくて結構」

 白い吐息越しに美青年に見惚れた。この悪戯っぽい笑顔も見納めか、と一抹のもの寂しさを覚える。

 やがて、リーデンがその整った顔を寄せてきた。

「渦潮みたいな人生だったよ。どこかで舵を間違えたのはわかってるのに、抜け出し方がわからない。誰の同情も欲しくなくて、でも溺れ沈むのが嫌で」

「――――」

 何か大事な話を打ち明けられているらしいが、言葉がうまく頭に入ってこない。耳元で囁かれていては心臓に悪い。ミスリアは抗議しようと思って口を開いた。

「君だけだよ。心を砕いてくれたのは、君だけだった」

 気が付けば世界中の雑音がかき消えていた。耳に響く声の余韻に打たれて、ミスリアは小さく息を吐く。

 堪えていた衝動が、一気にこみ上がる。感情の大波にさらわれ、足から力が抜けそうになる。

 けれども先に泣き出したのは自分ではなかった。

「お願いだ、聖女さん」両肩がきつく掴まれた。掴む力の強さに驚き、そして掴む手が激しく震えていることにも驚いた。「僕らを、兄さんを、置いて行かないで」

 膝をついて嘆願する彼を見下ろした。

 他にどうすればいいかわからず、名を呼んだ。最初は遠慮がちに、次第にハッキリと。

 反応は返らない。肩を掴んでいた手もずるずると力なく下りていった。

「リーデンさん。こっちを見てください」

 不思議と心中は凪いでいた。一緒になって泣き喚いてもよかったのに、そうしてはいけない、という確固たる意思がミスリアの中にあった。

 サラサラの銀髪に触れた。拒まれる素振りが無いので、そのままそっと頭を撫でる。

(涙を見られたくないから、顔を上げてくれないのかな)

 感謝の想いに胸が膨らむ。愛おしさを込めて青年の頭を胸に抱いた。そのつむじ辺りに顎をのせ、音もなく涙する。

 ――希望と絶望はそれほど違うか?

 ――お願いよ。聖女にはならないで。幸せに、なってね。

 聖獣の呼びかけと、姉との思い出が脳裏に蘇った。亡き姉に向けて、謝罪と否定の言葉を綴る。

 誰かに必要とされる悦びを知り、同時に、その者を悲しませる痛みを知った。果たして幸福と呼ぶべきか、不幸と呼ぶべきか。きっとどちらでもあるのだろう。

「ごめんなさい。許してくださいとは言いません。未来永劫、私を恨んでも構いませんから、どうかこれからも健やかにお過ごしください。できればイマリナさんと――……ゲズゥと一緒に」

「わかってるよ」

 拗ねているかのような口ぶりだった。なんとなく、念を押したくなった。

「ちゃんとわかってますか? 危ないこととかもうしないでくださいね」

 具体例が浮かばないので、とりあえず「無茶はダメです」と口を酸っぱくして言う。

「はーいはい。あーもう、わかったよ。悪事から足を洗って、心を入れ替えて頑張るとするよ」

 やっと目が合った。

 左右非対称の瞳は宝石にも勝る艶を放っていた。近くで見つめると、尚更に美しい。

「ま、聖女さんなしに僕らが真人間になれるかどうかは、かなーり怪しいけど」

 整った顔の部位が、にんまりと悪い笑顔をつくった。

「私は心配してません」

「はは、ありがとう。あんまり期待しないで、ね」

 美青年は優雅に立ち上がり、その一連の動作を辿る内、ミスリアの頬に口付けを落としていった。ぶちゅっ、との効果音がやたらうるさく聴こえた。

「!?」

 言葉にならない悲鳴が唇から逃れる。

「いい反応だねぇ。はあ、これから僕は誰をからかって毎日を生きればいいんだろう」

「知りませんよっ!」

 あははははは、と声を高らかにしてリーデンが笑った――かと思えば、笑顔だけを維持し、一転して真面目な声色になる。

「旅の供として、ここまで連れてきてくれてありがとう。受け入れてくれてありがとう。楽しかったよ」

「はい、私も楽しかったです。こちらこそ、一緒に来て下さってありがとうございます」

「あのねー、聖女さん……最大の難関がまだ残ってるから、そんなに嬉しそうな顔しないでくれる」

 何故か青年は半眼になって、文句をつけてきた。

「安心して下さい。私の迷いはもう完全に吹っ切れました。使命は全うしますよ」

「違う違う」

 リーデンは親指でぐいっと後ろを指した。その先に居るのは――

「できる限りのフォローはするけど、あの人にとっての君は唯一無二だ。どうやったって欠けたものは埋められないよ。ついでに暴露すると、結構前から兄さん、不穏な感じがするんだよね。腹の底で負の感情がこう、ぐるぐると……うまく言えないや」

「負……」

「こればっかりは、僕は兄さんの味方だなぁ。てことで、あの辺で傍観してるねー」

 宣言通り、リーデンはさっさとその場から離れた。会話が聴こえない程度に距離を置きながらも、視線をしっかりとこちらに注いでいる。

 ミスリアは立ち竦んだ。リーデンが去ったことにより、空間に一人分の空きが生じたのである。

 遮蔽物が――つまり、黒い瞳と「呪いの眼」の凄味を隔てるものが、なくなっている。

 生唾を飲み込んで、こほんと咳払いをする。

「これまでお疲れさまでした。何度も私の生命と精神を救った貴方に、感謝してもしきれません。面倒なことも大変なこともたくさんあったと思いますけど、最後まで付き添ってくださってありがとうございます」

 無難な口上から始めた。そして、詰まった。目線を宙に彷徨わせる。意識せず、正面の人影を避けつつ、右へ左へと雪の結晶を目で追った。

(どうして……リーデンさんとの挨拶は、「楽しかった」だったのに)

 溢れる想いに、胸が潰れそうだった。

 口元を手で覆う。掌に吐息を吐き、その熱を鼻の頭に感じて、僅かながら心を落ち着けた。

(楽しいだけじゃ済まないような、旅だった)

 瞼を閉じて、さまざまな出来事を思い浮かべる。折々で自分がどんな気持ちでいたのか、ことのほか、よく思い出せる。

 初めの頃は怯えていた。

 人選を誤ったのではないかと不安になったのは一度や二度ではなかった。なんと言っても、この口数が少なくて感情表現の幅が極端に狭い青年は、普通に立っているだけでも、大抵の者を緊張させられる風貌なのである。

 一変して、その揺るぎない存在感に安心し――挙句、それを求めるようになったのはいつからだったか。飾らなすぎて、刃の如く胸に突き刺さる言葉の数々に、勇気を貰うようになったのは。

 彼の息遣いを、脈動を、体温を感じられるほどに。

 いつも、近くに。

「ここまで来れたのは、間違いなくゲズゥのおかげです」

 ――大切な約束をした。山羊の鳴き声と軽快な曲が流れていた、カルロンギィ渓谷での夜。どれだけ心強かったのか、この人は知っているだろうか――

 絡まり合っていた感情の糸は、澄み切った感謝の念に集束する。

「手伝ってくれて……ありがとう」

 今日この時までに、ゲズゥ・スディルに向けて謝礼を声にした回数は数知れず。その都度心を込めたつもりだったが、これまでのどの時をも超える想いを、言葉にのせて伝えた。

(私が聖女でなくても傍に居たいと、言ってくれた貴方は)

 なんと形容すればいいだろうか。

 他者でありながら己の存在を構築する一部であり、他者であるからこそ、絆を持てる。

 素敵なことだ。単純に、そう思った。

 気付かずに吐息を漏らしていた。

 直後、吐き出した息が微かに跳ね返るのを感じた。

「いくな」

 聞き慣れた声が脳を揺さぶった。ように、錯覚した。

 あまりに近い。

 目を開けて最初に見たものは――

(涙……?)

 まずは、白地に金色の斑点を特徴とする瞳の縁を彩る透明な煌めきに、呆気に取られた。

「二十年近く生きてきて、自分が他人とどこか違うことは理解していた」

 よく通る低い声に呪縛された。仰ぎ見る姿勢のまま、呼吸が乱れるのを自覚する。多分、初めて見るような無防備な姿に驚いているのだ。

「俺はお前の純粋さと喜怒哀楽に触れて……ようやくまともな人間に近付けそうな気がした」

 音もなく、滴が零れた。刹那の熱がミスリアの頬に触れる。濡れた肌を掠める風が、ひどく冷たく感じた。

 左に続いて今度は黒い右目から涙が漏れんとしているのを見かねて、背伸びした。謝りそうになる自分を制する。謝ったところで気が休まらないだろう。

「いくな、ミスリア」

「大丈夫です。貴方に起きた変化は、残ります」

 ――ぱた。

 落ちた涙は今度はミスリアの左の頬骨近くを濡らしていった。心地良い熱が、意識の奥深いところをくすぐる。

 欲しがっていた答えがここにある――

「貴方と過ごした一年半は、私の人生の中で最も濃密な……最も充実した、時間でした。自分が確かに生きているのだと、こんなに強く実感できたのは、この旅を経たおかげです」

 およそ一生の間に得られたであろう経験のほとんどを、短縮された期間の中にまとめて受け取ったのだと思う。

「出逢えてよかった。これだけは確かです」

 爪先立ちになり、思うがままに行動した。元々屈んでくれていたのだから、詰める距離はそれほどなかった。

(ゆるして)

 唇で唇を探る。

 目を閉じて視界を闇に落とすと、代わりに不可思議な感覚が広がった。

 自我がとろけて形を失くしそうになるのを、甘んじて受け入れる。安らかに溺れているようだ。

 束の間の接触の後、爪先立ちを止めた。精一杯の微笑みを浮かべた。

「聖女ミスリア・ノイラートの人生には意義があった。今なら胸を張れます。とても、満たされた気分です」

「……そうか」

 ゲズゥがスッと両目を細める。

 突然、背中を押す力があった。何が起きたのかと思案する間もなく、抱き寄せられていた。

 さっきよりも密接に――唇の柔らかさを思い知った。冷えて乾いていた皮膚は、吐息の湿度と触れ合う摩擦で、次第に熱を増していく。

 涙腺を抑えていられたのはここまでだった。閉じた瞼の間から、幾筋もの涙が逃れた。

 頭がくらくらする。足の下に地面があるのか不安になり、手当たり次第に何かを掴む。未だに背を支える手が有り難い。

 ようやく放された頃には、視界はすっかり滲み切っていた。

 行け、との声で我に返る。

「俺はもう引き留めない。行って、お前の大義を、果たせ」

 こくんと無言で頷いた。白くも暗い空を振り仰ぎ、そして次には、聖なる湖を見据えた。

「生きて」――巣穴からここまでの間、ずっと借りていた服を脱ぎ、ゲズゥに手渡す――「私の……いいえ、私たちの『空間』を、守ってください」

 是非の返答はなく、ゲズゥは無表情となって後退った。

 入れ替わりにリーデンが歩み寄る。最後にもう一度抱擁を交わした。

 踏み出す。未知なるモノとの境界線を踏み越える為に。

 あと一歩というところで踏み止まった。踵を返して、仲間たちの見送る姿をしかと目に焼き付けたくなったからだ。

 名残惜しい想いに浸りながらも、笑ってみせた。

「さようなら」

 ――返事は聞かない。聞きたくない。

 ミスリアは大いなる存在への祈りを唱え始めた。アルシュント大陸極北の地の寒空の下、二人の青年に見守られながら、地上を去る。大切な人との思い出と、その残り香を胸に抱いて。

 水の跳ねる音はしなかった。

 五感が遮断されたようで。同時に、感覚が広がったようでもあった。

 意識が何かに吸い寄せられている。ほどかれている。

 あらゆる事象と一体化する手応えを覚えた。とてつもなく素晴らしいものだった。畏怖を伴いながらも、人間の感情と意識という枠から解放されている。

(私の魂は二度と『個』としての自我を持たないかもしれない。けれど、もしもまた私が私として再び形を成せるなら――)

 ゲズゥの元に還りたい。

 或いは、彼の傍でなければ、何処にも自分は存在できないかもしれない。

(ああ最後にもう一度だけ……あのきれいな白い眼を、じっくり眺めたかった、かな……)

 聖なる因子に包まれ、微睡みの中で、そんなことを思った。


_______


 小さな聖女が湖に沈んだ。

 水の中に飛び込んだわけでも落ちたわけでもなく、湖面の方が波打ち、その身を大仰に迎え入れたのである。

 ゲズゥ・スディル・クレインカティは一部始終を見届けた。

 数分後、湖が元の静穏を取り戻す。ついさっきの出来事が嘘だったみたいに、風景から生命の気配が離れた。

 やがて運命が動き出すまで。微動だにせずに、ただひたすらに右目の中に――忌まわしくて空虚な世界を映し続けた。

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