42.

 ミスリア・ノイラートは未だに信じられない想いで捕虜となった当人を見つめていた。

 縄で縛り付けられ、雪の上に転がされた女性は――紛れもなく、最近友達になったティナ・ウェストラゾである。

 外の降雪は吹雪に近い勢いを増しつつある。そんな中で、広がるのを止めない赤い染みに目が行った。ティナは怪我をしているようだった。

(せめて治してあげたいけれど……)

 憤怒の見え隠れする青緑の眼差しに、足が竦んで近付けない。

 短い逡巡の後、全て同胞の青年に任せることにした。その聖人カイルサィート・デューセは、数分前にリーデンと衛兵が揉めている場面を仲介し、場所を変えることを提案したのだった。

 常緑樹と一握りの人間が囲う中、カイルはティナのすぐ傍でしゃがんだ。

 横たわっていた彼女を起こし、金色の髪に付着した雪も軽く払ってあげている。二人は正面から目を合わせる形になった。

「君たちが知り合いらしいからなんとか問答無用で引き渡すのを阻止したけど……相応の理由や事情が無ければ庇い切れないよ? このまま口を噤むんだったら、困ったことになるかも」

 細面の聖人は心底困ったような表情を浮かべた。

「それって、どうなりますか」

 耐えかねてミスリアは横から問いを投げかける。

「そうだね。できれば教団に身柄を預けたいね。大臣様の今の精神状態だとまともな判断を下さないだろうし」

 カイルは質問への直接的な答えではなく、希望を口にした。その返答にミスリアは納得した。

 ティナを連れて邸内から離れたとはいえ、まだ目と鼻の先の距離である。早急に結論が出なければ事態がこじれるのは目に見えていた。屋敷の人間で唯一ついてきた衛兵隊長も不服そうに睨みをきかせている。

 屋敷の主人からの処罰を退けるには、皆を納得させるだけの材料が必要だった。

「改めて動機を聞こう。君は何を目的としてあの屋敷に近付いたのかな」

 問われた彼女の眼光は一層鋭くなった。

「ティナさん、ご協力お願いします」

 ミスリアも懇願した。事情が明らかでないまま友達を処罰されてはたまらない。せめて極刑だけは避けさせてやりたいと願うのは、甘さだろうか。

 突風が吹き抜ける。ミスリアは飛ばされそうになるヴェールを脱いで、懐に仕舞った。

 沈黙はもうしばらく続いた。

 やがてカイルやミスリアを交互に見やり、ティナは双眸に宿していた剣呑な光を少しだけ和らがせた。

「…………賞金稼ぎよ」

「はい、ダウト」

 間髪入れずにリーデンが口を挟んだ。全員の視線が、雪の上で頬杖付いて寝そべる青年に集まる。リーデンは青黒い痣の残る端正な顔を、笑いに歪ませた。「その動機は、疑わしいね」

「嘘じゃないわ。これまでにもあたしが獲った賞金首の数は十以上。役人に引き渡した記録もある。いいでしょ別に、賞金で生計を立てても。国家に迷惑はかけてないわ」

 ティナは躍起になって言を連ねた。

(――ダメ、今また喧嘩になるのは)

 そんなミスリアの不安は杞憂に終わる。

 そっと宥めるように、カイルがティナの白い吐息の前に手を挙げた。

「まあ、賞金稼ぎは違法行為ではないね。むしろ秩序を守る上では特に役立つ職業だとも言われている」

 それを聞いて、そういえばティナは女性の都での働き口の少なさについて色々思うところがあったらしいのを思い出した。まさか彼女自身もその問題に悩まされているとは思わなかったのだ。日雇いの仕事やごく稀に用心棒を引き受けて生計を立てているとしか聞いていない。

 よくよく考えてみれば用心棒のような仕事では男性の商売敵と渡り合うのが大変なのかもしれない。女用心棒の方が望ましいと考える女性依頼主も居るだろうけれど、それでも若い女性の身なりで信用を勝ち取るのは難しい。

「ん~、それでも一部嘘で一部事実、って感じ。兄さんはどう思う?」

 急に話を振られたゲズゥは瞑目した。

「同意見だ。その女は何かを隠している」

「ゲズゥまでそう思うんですか」

 少なからず驚きを覚えた。彼らは一体何を判断材料にしてそう主張するのか。他人を疑って生きてきたがゆえに磨かれる洞察眼か直感だろうか。ミスリアには到底真似できまい。

「賞金って言っても、張り出し紙を見なかったんだよね。僕は街道をぶらぶらしてる時もそういうの全部チェックして頭に入れてるケド、閣僚の顔はどこにもなかった。そもそもあんな社会的地位の高い人間に賞金かかったりしたら大騒ぎでしょ」

 上体を起こし、リーデンが説明を付け加えた。わかりやすく理詰めな言い分である。

「その通り。あの方に賞金なんてかかってない。となると『賞金稼ぎ』は建前で……公の話じゃなくて、個人に頼まれたって解釈すればいいのかな」

 カイルの琥珀色の両目が探るように細められた。ティナは動揺を見せたものの、黙り込んでいる。

「相手を庇い立てするの? ああいや、そうじゃなくて、庇うに値する相手なの?」

 カイルが質問を言い換えた途端に反応があった。

 まさか、とティナは嘲笑交じりに吐き捨てた。

「だったら名を隠すのは何故?」

「言えない」

「相手をなんとも思っていない、それなのに名を隠し通さなきゃならないとなると、もしかして君のおうちが関係してるのかな~?」

 茶化すように訊ねるリーデンを、さっと振り返る。

「孤児院のことですね」

「そ。一番シンプルな話、きっとお金が絡んでる。だから雇い主は寄贈者の誰かなんじゃない?」

 瞬間、ティナが怯んだのを目の端に捉えた。

「やめて……」

「案外ダイジンさんのパラノイア通り、政敵の差し金なのかもねー」

「それ以上はやめて、お願い」

「――ひとつはっきりさせて欲しい」

 二人のやり取りに割り込んで、カイルがいきなり立ち上がった。

「大臣様が『命を狙われてる』と感じていた点について、心当たりは?」

「ティナさんが暗殺者まがいの真似をするはずがありません! ありませんよね!?」

 本人が答えられるより先にミスリアは訴えた。それは、聞きたくない真実を先延ばしにする為のただの悪あがきに過ぎない。

「さあーどうだろ。誰にも誰かを完全に理解するのは不可能だし、人が人を殺そうとする理由なんていくらでもあるんだよ。率直に感じたままに言うと、ティナちゃんに前科は無いと思うけどね」

 いつの間にかすぐ後ろまで歩み寄っていたリーデンが、これまでと打って変わって真剣な声音で囁く。

「いくらでも、ですか……」

 幼少期の内に早々に手を汚したリーデンが言うと、嫌な説得力があった。他に何も言えなくなり、ミスリアは諦めてティナの返答を待った。

「悪いけどそれも言えない」

 しかしあくまで彼女は頑なだった。ふむ、と顎に手を当ててカイルが考え込む。

「ここで君にとって一番良いシナリオは――脅迫されて行動に移したのだと、周りに認めてもらうこと、か。その雇い主はまさか助け出そうとはしないだろうし」

「なんと! 聖人様、まさかその女を逃がすつもりですか」

 それまで静観していた衛兵隊長が愕然としてカイルに詰め寄る。対するカイルは穏やかに微笑むだけだった。

「逃がすとは言っていません。ただ、捕虜への対応を誤って背後に居る人物の正体を探れなくなるのは不本意です。取引の一つや二つ、用意して然るべきでしょう。例えば協力してもらう代わりに罪状を軽くする、とか」

「無駄よ。あたしはアイツに盲目的に従ってたんじゃない、自分の行動に自覚はあったわ。どんな報いも受ける。でも、口を割るのだけは絶対にできない」

「それでは……ティナさんの帰りを待つ子供たちはどうするつもりですか。報いが大きすぎたら」

 極刑を科された場合を思って、ミスリアは抗議した。この国の法律はよく知らないし、大臣さまの出方も予測できない。友達に死刑か長期に渡る懲役が科されるのかと思うと、いたたまれなくなる。

 当のティナは押し黙った。

「とりあえず今一度事態の整理が必要ですね。この件は任せていただけませんか」

 カイルの笑顔にはしなやかな威圧感があった。彼はその勢いのままに「しかし」や「旦那様が」とまだ反論したがる衛兵隊長を説き伏せた。


_______


 次の日、監視と言う名目の下にミスリアたちはティナの買出しに付き添っていた。昨夜以降、彼女は大人しくなりこれといって反抗の意思を見せていない。

 人通りの忙しない街道を歩きながらもティナは時々チラチラと後ろを小さく振り返る。先頭としては後ろの全員がついて来ているのか、様々な意味で気がかりなのだろう。

 よく観察して見ると、ティナの視線がリーデンのまだ痣が完治していない目元に集中していることに気付いた。

 リーデンも気付いて視線を返した。そこでようやく「ねえ」とティナは口を開く。

「顔を蹴ったこと、怒ってたりするの」

「うーん。爽快なハイキックだったなー、とは思ってるよ。久々にむっちゃ痛かった」

 リーデンは形の良い眉を捻りつつ答えた。

「ご、ごめ……」

 その一言がとても言い難いことのようにティナは躊躇していた。

「別に謝らなくていいよー? 僕も兄さんも謝らないし」

「でも」

 ティナがこちらを一瞥し、切り傷のあった手に触れた。

(もしかして、自分の怪我は治してもらったのにリーデンさんのが治ってないのを気にしてるのかしら)

 だとしたら要らぬ気遣いである。リーデンが聖気による治癒を自ら断ったのだから。

「ウェストラゾ……ウェス……アスト……?」

 背後を歩く青年の一人がブツブツと呟き出したので、ミスリアは彼を振り返った。

「どうしました? カイル」

「そちらの方と似た語感の名前を最近聞いた気がしてね。なんだったかな。アストラ……『アストラス』?」

 ティナの指先がぴくりと身じろぎしたのが目に入った。

「そうだ、それだ。ティナさん、レイラ・アストラスという名前に何か縁があったりしない?」

「……今はしたくない話だわ」

「ティナちゃんて秘密多いんだねえ」

 茶化すようにリーデンが言う。

「よりによってアンタみたいな胡散臭い奴には言われたくない。女に秘密はつき物よ」

「僕と歳あんま変わんないでしょ? 女に秘密だなんて、そんな熟女みたいな物言いでいいの」

「誰が熟女よ!」

 二人の言い合いが白熱するに連れ、ミスリアはなんとなく後ろに下がってゲズゥとカイルの間に並んだ。

「それでレイラさんとはどう言ったお知り合いで?」

「あれ、レイラさんじゃなくてレイナさんだったかも。僕の知り合いじゃなくて、司教さまが昔、彼女の葬儀を執り行ったらしいんだ。その娘さんの行方を捜してるっておっしゃってた」

 問われたカイルはすんなりと答える。

「娘さんを?」

「そう、葬儀の際に会ったきり、ずっと息災かどうか気にかけてるそうでね。件の娘さんも『ティナ』って名前だったような気がするんだけどな」

「偶然でしょうか」

「さあね」

 カイルは小さく肩を竦めた。

(司教さまと会ったことがあるからって、何がどうなるわけでもないのかな……)

 本人の意味深な応答が無ければ、無関係と考えても不思議の無い話だ。ティナという名前はこの辺りではこれといって珍しくもない。

 そうこう考え事をしている内に、荷物が着々と増えていった。普段の買い出しよりも人手が多いからか、ティナはほぼ休まずに食物や生活用品を買い続けては、男性陣に持たせていた。自分について来る一行を監視というよりは荷物持ちとして認識しているようだ。

 一方で男性たちの扱いがひたすら雑なのに対し、ティナは買い物袋を自分の肩や腕に重ねることはしても、ミスリアに何かを持たせようとはしなかった。

「あの、私も持ちます」

 流石に申し訳なくなってきたので、自ら申し出てみた。

「でもミスリアちゃんに瓜より重い物を持たせるのは人として間違ってると思うのよ」

「そ、そんな。瓜より重い物……確かにちょっと自信ありませんけれど……」

 ここで見栄を張れない自分に複雑な気持ちになり、俯きかけた。けれどもティナの方が更に複雑そうな表情になった。

「……ミスリアちゃんは、こんなことになっちゃって……あの屋敷に現れたのがあたしで――軽蔑した?」

「いいえ。理由を教えて欲しいと、そのことばかりを思っています」

 偽りのない本心を述べて頭を振った。なのにティナの整った顔には翳りが増す一方だ。

「そんな目で見ないで」

 彼女は軽やかな金髪と首に巻いたスカーフを翻しながらくるりと背を向けてきた。傷付けてしまったのかと思って焦る。

(どんな目をしていたのかしら)

 自分ではわからない。表情を確かめるかのように頬に手を当ててみても、目まではどうしようもない。

 ややあって、ぎこちない静寂を破ったのはカイルだった。

「極刑を怖れないという君に、罪状をどうこうではなく、別の取引材料を提案しよう」

 聖人の正装である白装束の長い袖を捲り上げ、カイルは爽やかに笑った。対するティナは青緑の瞳に僅かな興味を示した。

「あら。聞くだけ聞きましょうか」

「君の守りたいものの安全の保証」

 静聴するティナはすうっと目を細めた。

「君が雇い主に逆らえないのは、その人との繋がりが露見すれば孤児たちの現状が確実に悪化するから? 加えて、どうしても好転する見込みは無いと思っているから、僕らに協力して何かを得ようともしない」

 鋭いのね、とティナは小さく漏らした。

「どんな弱みを握られているのかは想像できないけれど、それは教団の手助けがあってもどうにもならない次元の問題なのかな」

「教団が助けてくれるわけが無いでしょうよ」

「どうかな」

「大体、この都の中では教団の影響力もたかが知れてる。いつも政治的権力に直面すると、逃げるか、傍観を決め込むばっかり」

「それが真実だったなら、とても残念だ」

「過去じゃないのよ。昔も今もこれからもずっとそうよ」

 二人の会話に聴き入っていたミスリアは、唐突に思い出した。ルフナマーリの司教座聖堂では割と最近に代替わりがあったのだと。

 転機である。方針までもが引き継がれなかったのなら――

「ティナ姉、干し芋買って~!」

「芋! 芋!」

 台車を押す芋売りが通り過ぎて間もなく、小さな影が後ろからティナに体当たりした。

 彼女はさして驚いた様子を見せずに振り向いた。十歳くらいの男の子と女の子の二人組である。

「あなたたち、また城壁の穴から入って来たの?」

「うん!」

「懲りないわね。いつか人攫いに遭っても知らないわよ」

「うっそだー、どうせティナ姉が助けに来てくれるだろー」

「そうだけど、調子に乗ってんじゃないわッ」

 空いた手で子供たちの後頭部をはたこうとするティナ。勿論、子供たちはちょこまかと逃げ回っていてなかなか当たらない。

 そんな微笑ましい光景を目に入れたままミスリアは考え事に耽った。

(状況がどうしても好転する見込みが無いってどういう意味だろう……? お金の問題じゃないのかな)

 金銭問題でなければ、他に何があるだろうか。たとえば治安が悪くて街の外に住んでる――は何か的外れな気がするし、後は子供たちかティナ自身が抱える事情だろうか。

 なんとなくカイルを見上げると、彼は小声でミスリアの名を呼んで手招きした。招かれるままに距離を縮めた。

「僕は孤児院について探ってみる。君は、さりげなく子供たちに聞き込んでみて。きっと引率者の彼女よりは口がゆるいよ」

 声が漏れないように彼は耳打ちしてきた。それをミスリアは承諾した。

「わかりました。やってみます」

 ――などと首を縦に振ってみたものの、その機会はすぐには訪れなかった。買い物を終えて孤児院に戻っても料理の下ごしらえなどをずっと手伝い、子供たちと話せずにいた。

 ようやく夕飯の準備がひと段落したところで、ミスリアは裏庭の様子を見に行くことにした。

 まず最初に、松ぼっくりを投げつけられているリーデンの姿が目に入る。ことごとく華麗に避けている。

「ハハハハハ! 全っ然当たらないねー。子供は好きじゃないけど、こういう遊びなら好きだよ」

 十代後半の青年は身体の柔軟性や脚力を駆使して松ぼっくりを避ける。子供たちは悔しそうにしながらも感嘆の声を挙げた。

「兄ちゃんスゲー! 人間の動きじゃないぜ!」

「ぶはっ! ていうか変なポーズで避けんなよ! キモいし!」

「片手で逆立ちできんの!? やり方おせーて!」

「お断りだよ。生憎、人に物を教えるだけの忍耐力は無いんだー」

 そう言ってリーデンはどうでもよさそうな笑顔を返す。子供たちのやる気に火が点いたのか、宙に舞う松ぼっくりの数が倍増した。

 楽しそうでいいな、と感想を抱きつつも流れ弾に当たらないように庭の端をそーっと迂回した。

「みっすん、みっすん」

 足元から呼ばわる声があった。

「デイゼルさん? そこで何をされてるんですか」

「秘密基地。みっすんもちょっと来なよ」

 巻き毛の少年は木の幹と岩陰の間からひょっこりとニヤニヤ笑いを覗かせている。

 一瞬たじろいだものの、これはチャンスだと気付いた。カイルに勧められたまま、何か訊き出せるかもしれない。

 早速スカートの裾を両手で持ち上げて姿勢を低くした。デイゼルは歳の割に少し小柄で、ミスリアとほとんど体格が変わらない。彼が通れる隙間なら自分も通れるはずである。

「何処へ行く」

 突然、木の葉の間から低い声が降りかかってきた。振り仰いでみると真上に黒い塊が見えた。

(なんとなく定位置に居そうなのは感じてたけど、この木だったのね)

 少し声を張り上げ、ミスリアは護衛の青年に返事をした。

「大丈夫ですよ。ここにいますから」

「何かあったら叫べ」

「はい」

 何故、呼べ、ではなく叫べ、だったのだろうかとぼんやり考えながらもミスリアは地面を這った。

 隙間を通り抜けると、そこはちょうど岩に囲まれた闇の空間だった。外の世界の光はほとんど入って来ない。狭い闇に包まれて、心地良くもあり恐ろしいとも思う。少なくとも夜に一人だったなら虫や蛇が気になってどうしようもない。

 ところが今は、少年の楽しそうな笑い声が近くにある。膝同士がぶつかるこの距離では、彼の吐息も体温も近くに感じられて何やらくすぐったい。

(そういえばデイゼルさんだけ、街中に入って来たところを見たことないわ)

 ふとそんなことを思い出していた。他の子たちは漏れなく遊びに来るのに――彼は街に興味が沸かないのだろうか。

 ついでに言えば最年長でリーダー格でありながら、時折こうして何気なく姿を消している気がする。

「実は話があるんだ」

 変わらず楽しそうな声が囁く。

「何でしょう」

 言った直後に、軽く返事したことに多少の不安を覚えた。秘密基地でする話はやはり秘密なのだろうか。彼がこれからどういう話をするのか全く予想できなかった。怪我した小鳥をティナに内緒で匿っている程度の話か、それとももっととんでもない爆弾を投下されるのだろうか。

「おれ、本当の名前って、デイゼリヒ・エニセ・ルードアク、って言うんだって」

 少年は闇の中に静かな声を響かせた。

「長いのによく覚えられましたね」

「もっと小さかった頃に一回きいておぼえた。わすれていいものじゃないって、あのとき、そんな気がした」

「そうですね。名前はとても大切です」

 あの時とはどの時なのか、訊いていいものか迷う。

 ひとまず当たり障りのない返事をしながら、記憶の中を探った。ルードアク、とはどこかで聞き知ったような名だが、果たしてどこだっただろうか。どうしてか、やんごとなき身分の家筋と通じていそうだと思った。

 デイゼルの次の言葉がその予感を一層強いものにした。

「本当の名前は知られちゃいけないんだ。おとしだね、なんだって。おれたちみんなそうなんだよ。いつもキフくれるえらい奴が言ってたの、前にこっそりきいたんだ」

「おとしだね?」

 これはとんでもない爆弾の方の打ち明け話なのだと直感が訴えかけている。

「みっすんはおれと歳一個しかちがわないけどさ、『大人』なんだろ。どういう意味なのかわかるんだろ」

「え……」

 もう一度考えを巡らせてみた。

(落としだね――って、まさか落胤のこと)

 思い当たったと同時に理解した。どうしても好転する見込みの無い状況とはまさか、孤児たちが孤児であり続けなければならない所以にあるのか。もしかしたら、実の親は彼らの存在を容認していないのに、生かす為の金銭的支援だけを続けているのかもしれない。

 寄贈者の中には――落胤の存在が明るみに出れば困るという――他の協力者が混じっているとも考えられる。

「ティナ姉がさ、最近元気ないんだ。きっとおれたちのせいだ。おれたちのために何か悪いことしてるんだって、ほんとは知ってる」

「……知っていた、んですか」

 驚きを押し隠して応じた。

「おれだけじゃなくてほかにも一人か二人いる。知ってて、知らないふりしてる」

「いつから気付いてたのですか?」

「わすれた。けっこー前だよ」

 膝か腕に顔を埋めたりしたのだろうか、その先の発言はくぐもって聴こえた。「おれたちが生きてるから、ティナ姉はしあわせになれないんだ。これからも、他にやりたいこととか一緒にいたい人が見つかっても、きっとあきらめちゃうんだ」

「そんな悲しいこと言わないで下さい。ティナさんは貴方がたと一緒にいるのが何よりの幸せなんです」

「わかってるよ。でも、ヤなんだよ。一人でぜんぶ背負ってるティナ姉と、一緒にいてもたのしくない。自分のことを一番にできないのは、つらそうだ。見てるこっちだってつらい」

「彼女が貴方がたを優先してしまうのは、そうしたいからです」

 母親の無償の愛と同じで、無理に我慢しているわけではないから――と続けたくてもできなかった。会って間も無い人間を知った風に語っていいとは思えないのだ。

 かける言葉を失ったミスリアは、自らの踵を意味もなく抱えた。何度か口を開き、やはり閉じてしまう。

 その内、なあ、とデイゼルがまた声をかけた。

「せいしょくしゃって、たのしい?」

「え?」突拍子も無い問いかけにミスリアは数秒ほど目をぱちくりさせた。「聖職者が……? 楽しいかどうかと言うとよくわかりません。大変なこともたくさんありますけど、いつでも誰かのお役に立てますし、とてもやりがいのある仕事ですよ」

「ふーん」

 心なしか興味を持ったような返事だった。

 彼ももうじき成人した歳になる。己の将来の可能性を色々と検討しているのだろうか。それは、選び取るだけの将来が彼に許されているのが前提ではあるが。

「あのさ、たのみがあるんだけど」

 少年の真剣な声がぐっと近付いて来た。それに対してミスリアは、同等の真剣さで応えねばならないと思った。

「私にできることなら可能な限り力を貸します」

「ありがと。みっすんは、いいやつだな」

 ――そうして秘密が漏れる心配のないこの狭き場所で、デイゼルは一つの望みを言葉にした。


_______


 聖人カイルサィート・デューセは人気の無い教会の食堂の片隅で、静かにミスリアの話に耳を傾けていた。長方形のテーブルで二人向かい合って座し、カモミール茶を間に置いて会談している。

 彼女は夕方にデイゼルという少年と交わした会話の内容を一通り話した。その間、カイルサィートは燭台の炎を見つめていた。話している相手と目を合わせないのは失礼だろうけれど、こうしている方が複雑な情報を整理しやすいのである。

「……なるほどね。何もかもが腑に落ちたよ」

 少女の話が途切れてほどなくすると、ぽつりと呟いた。ゆらり、炎が形を崩してはまた強く燃え上がる。

「本当ですか?」

 ミスリアが僅かに驚いて訊き返す。

「多分ね。事情は大体見えてきた。『ルードアク』は、現王陛下の家名だ」

「それではデイゼルさんは、ディーナジャーヤ国の帝王家の血縁者ってことですか!?」

「そうなるね」

 カイルサィートはしばしお茶を啜るだけの間を置いた。蝋燭の炎に照らされるミスリアの顔は青ざめているようだった。

 今度は自分が調べた内容を話す番である。寄贈者たちについて深く調べる内に、気になる人物が浮かび上がったことを。

「居間の暖炉の上にあった肖像画を覚えている?」

「はい。一組の男女が描かれていましたね」

「男性はね、大臣の席に空きができたとしたら、次に選ばれるであろう最有力候補だよ。そしてあの孤児院が建てられる少し前に奥方の方は亡くなられている」

「大臣候補ですか。ではやはり狙いは……」

 ミスリアはみなまで言わなかったが、意図は十分に汲み取れた。知れば知るほど、ティナの雇い主が狙っているのはあのお方の失脚ではないかと、状況は示唆しているのだ。

「ところでデイゼリヒ王子は、親について何か言っていたかい」

「会って話したことは無い、と……。どこかの屋敷の一棟に閉じ込められて使用人だけを相手に生活し、たまに遠くから見つめてくる綺麗な女性が居た、とおっしゃっていました。その人はきっと自分を産んだ母親だと、なんとなく感じたと」

 カイルサィートは右手の人差し指でトン、トン、とゆっくりとテーブルを叩いた。これもまた情報を吟味しているゆえの所作だ。

「屋敷を出たのはいつ?」

「三、四年前でしょうか。ある時急に追い出されて、直後、殺されそうな目に遭い――その時にティナさんに助けられたそうです。二人で幾月か浮浪してから孤児院に移り住んだと。ティナさんがどういう風にして孤児院を手に入れたのかまではわからないと言っていました。他の子供たちは後ほど預けられ、徐々に増えてます」

「そう…………彼が屋敷を追い出された時期と絵画の夫人が亡くなった時期はおそらく一致する。詳しい関連性はまだ不明とはいえ、推測するなら、デイゼリヒ王子を隠して生かす為に孤児院が建てられたんだろうね。彼含めた子供たちが里親を得ることも、誰かしら妨害しているのかもしれない」

 つい漏らしてしまいそうになるため息を、カイルサィートは手の甲を唇に当てることで遮断した。

(殺されそうな目に遭って……ねえ)

 誰かが一度はデイゼルを消そうとして、ティナが介入してから思い直したのか、それとも事情が変わったのか。

 身分ある者の落胤というのは存在を知られれば悪用されがちである。特に帝王の縁者ともなれば、王位継承権が発生するかもしれない。たとえ正当性に欠けても、謀反のタネにされてもおかしくはない。

 大人の都合で社会の片隅に追いやられ、或いは大人の都合で死に逃げることも許されない。子供たちが不憫でならなかった。彼らは好きでそう生まれたわけではないのに。

「とにかく後は、ティナさんの証言があればこの件は解決できそうだ。処罰についても交渉の余地は残っている」

 なるべく柔らかく告げてみると、向かいの少女がいくらか気を緩めたように瞼を下ろすのが見えた。つられて自分も頬を緩めた。

「それとミスリア……彼の望みを叶えることは可能だと思う、とだけ言っておくよ。十三歳の身でよく考え抜いてくれたものだよね」

「本当ですか!?」

 ミスリアの表情がパッと明るくなった。

「他の子たちにも、今よりもっといい生活を確保してみせる。本来なら子供の未来を支えるのは大人の役目だから」

「はい! ありがとうございます」

 椅子から勢いよく立ち上がり、ミスリアは長いテーブルを回り込んで駆け寄ってきた。何故わざわざそんなことを――と疑問に思っている最中に、抱きつかれた。

 相変わらず感情がストレートに伝わりやすい少女だ、と和みながらも軽く抱擁を返した。

「護衛だなんだと誘ったのは僕の方なのに、こんなややこしいことになったの、なんだかごめんね」

「いいえ。関われてむしろ良かったと思ってます。そうでなければ友達が苦しんでいることにも、私は気付けなかったでしょうから」

「確かにそうだったかもね」

 それからおやすみの挨拶を交わした後、ミスリアはふわりとスカートをなびかせながら歩み去った。

 扉を閉じる瞬間までも彼女は最後まで気付かずに、通り過ぎた。壁にかかる陰と同化しつつある青年に。

(一体いつこの部屋に入ったのだろうね)

 黒髪の青年ゲズゥ・スディルは武器を背負っていなければ恐ろしく静かに移動する。

(でもそんなことより、興味深いのは……)

 カイルサィートは現在の距離を保ったまま話しかけた。

「君は、最初に会った頃よりもずっと、雰囲気が穏やかになったね。何があったのかとても興味がある」

「訊くまでも無いだろう」

 あまり間を置かずに返事があった。

「そうかな」

「文通していたのならな」

「ああ、そういうこと。確かにふみである程度の顛末は知ったけど、本人の口から聞くのとは違うよ」

「…………」

 青年は陰った壁から離れて、蝋燭に照らされている方へと僅かに歩み出た。歩み出てもその瞳や表情や口は、何も語らない。

 カイルサィートには彼の態度は特に気にならなかった。懐かしいとも思う。ゲズゥからはこんな深夜には有り難く感じる、落ち着いた空気が漂っている。

「ミスリアと仲良くしてくれてありがとう」

「……保護者」

 単語一つからは彼が何の意味を込めているのかはわからない。思わず首を傾げた。

 保護者と言えば、確かにミスリアと過ごしていると妹を思い出すこともある。しかしどうあがいても別人は別人である。リィラには二度と会えないし、他人を重ねてミスリアに接するような失礼はしたくない。

 気のかけ方が保護者ぶっていたかな、困ったな、とひとりごちてカイルサィートは小さな笑いを漏らした。

「友人だよ」

「…………」

「あの子が楽しそうにしていると、こっちも嬉しいんだ。これからもできれば健やかに笑っていて欲しい。君もそうではないのかな」

 問われて、青年は特徴的な両目を細めた。瞳の向こう、脳内の中ではどのような思考が展開されているのかは不明である。

 そして彼は何の結論に至ったのかを明かさないまま細めていた目を再びスッと元の大きさに開き、くるりと背を向けて部屋を後にした。

 何も答えない、カイルサィートにはそれ自体が答えのように感じられた。


_______


 帝都ルフナマーリに最近就任した司教さまは、一言で表すならば「目立たない」人物だ。

 身長は平均より低めで年齢相応に恰幅も少し良いくらいの体型で、清潔に整えられた薄茶の短髪や優しげな瞳、笑顔の周りに刻み込まれた皴にしても、あまり際立った特徴は見出せない。というのも、位の高い男性聖職者にはこのような外見をしている者が大勢いるからである。華奢で長髪の教皇猊下が例外なのだ。

 それでもティナという少女にとっては、記憶に残る人物であるらしい。司教さまを孤児院の居間に通してからもずっと、難しそうな顔をして考え込んでいる。

 カイルサィートはミスリアと共に二人の邂逅を数歩下がった位置からしっかりと観察していた。

 ティナの座る長椅子には、頬杖ついたデイゼルの姿もあった。彼もまた考え込んでいるような顔をしている。

「えっと……何? つまりおっちゃんは、おれとティナ姉がであったちょっと前に、ティナ姉にあってる……でいいんだよな?」

「こらデイゼル、おっちゃんとか言わないのよ。この都の司教さまよ」

「あ、そうだった。しきょーさま」

 バツが悪そうに少年は舌をちょろっと出す。司教さまは口や目の周りに皴をつくって笑った。

「ほほ、おっちゃん、で構いませんよ。そうです。まだ私がルフナマーリで司祭をしていた頃、ティナ嬢を教会に招き入れて泊めたことがありました。あれはそう――」

「できればその頃の話はしたくないわ」

 足と両腕を組んで、ティナは昔話を拒絶した。

「ええ、すみません、私の配慮が足りませんでしたね。貴女にとっては、お辛い時期でしたのに」

「い、いいえ。気を遣わせちゃってあたしの方こそごめんなさい……」

 あまり強く出ない司教さまにティナは毒気を抜かれたのか、あっさり引き下がった。

「お元気そうで良かった。本当にずっと、心配していたのですよ。いきなり消えたものですから」

「……黙って出てったのは悪かったと思ってる。それより、今日は違う用事で来たんでしょう」

 訊ねながらもティナは司教さまの微笑から顔を逸らした。

「そうでしたね。では本題に入りますと、当孤児院を教会の管理下に置かせて下さい。今日はそれをお願いしに来ました」

 さりげない口調で司教さまは言う。窓際で静観していたリーデンが口笛を吹いた。

「なっ――んですって」

 ティナは驚愕に顔をしかめた。

「子供たちの身の安全や秘密の厳守、今後の教育も全て我々が約束します。寄贈者の束縛から解放します代わりに、彼の検挙にご協力下さい」

 司教さまが暖炉の上の肖像画へと視線を走らせるのを見受けて、ティナは頭を振った。

「無理よ。アイツからの解放なんて望めるわけが無い」

「解決の糸口は、そちらのデイゼルさんが持ちかけて下さいました」

「……え? どういうこと」

 ティナの青緑の瞳が隣の少年を向いた。少年は真っ直ぐに視線を合わせる。

「きょーかいに守ってもらえば、みんな今よりもフツーの生活ができるよ」

「他の子たちはそれでどうにかなるかもしれないけど、デイゼル、あなたはっ! あなただけは――」

「しってる」

 少年は強い語気で遮った。彼は己の出自だけでなく仲間たちについても熟知しているようだった。

 ここには帝王家に直接血の繋がりを持った彼の他に、帝国有数の貴族や軍人たちと縁深い子供たちもいる。存在をひた隠しにされているデイゼルと違って、他の子供たちは根気良く調べるだけで血筋が明らかになった。

「だからおれ、シュウドウカイに入るよ。セイジンも目指してみたい。そっちは、ソシツってのが無いとダメみたいだけど」

「聖人はともかく、修道会? って何? 知らない」

「修道会ってのはね、いくつかの厳しい誓いを立てた信徒の集まりのことだよ。会員になると簡単には俗世に出られないし、一般人と関わることもほとんどできなくなる」

 ティナが挙げた疑問に対してカイルサィートがそっと説明を呈した。

「でも彼にとっては最善の選択だろう。修道司祭以上か聖人になれば、もう政治的権力者でも容易に手出しができない。たとえ素性や居場所が漏れたとしても、帝王に即位させるのは不可能だし――何の企てにも役立たないのなら、攫ったり暗殺する意味が無いからね」

「…………本当にそれがあんたの望みなの。教会に言いくるめられたとかじゃなくて」

「そーだよ。おれはこれでいいんだ。どっちみち外の世界を好きかってにうろうろできない人生なら、だれかのために使いたい」

「デイゼル、人生は使うものじゃないわ」

「使うもんだよ」

 いつの間にか姿勢を正していた少年は、声色から仕草に至るまでに迷いが無かった。

 思えば彼は幼少の頃は屋敷に閉じ込められ、現在は孤児院から離れられない狭い世界での生活を強いられている。そんな生活から脱したところで、権力争いに巻き込まれてしまう。

 実に過酷な運命であり、だからこそ実に潔い判断だった。この少年はきっと最後まで歪まずに立派な大人になる、そんな予感がした。

「ティナ姉もほかのみんなももう会えないかもしんないけど、おれはこれでいいんだよ」

「修道者になったとしても全く外の世界に出ない、なんてことにはなりませんよ。時折の聖地巡礼や、他の修道院へ赴く場合もあります」

 司教さまがそのように付け加えた。

「でもこのもじゃもじゃ髪をもう切れないのは、いやよ」

「どうせ成人したら切ってくれないんじゃん」

 デイゼルの巻き毛をわしゃわしゃと乱していたティナの手がぴたりと止まった。そしてそのまま彼女はもの悲しい微笑みをつくった。

「だいじょーぶだって。出発は早いほうがいいっていうけど、そんなすぐおわかれじゃないんだからさ。だからティナ姉、もうわるいことやめて。兄ちゃんたちが助けてくれるよ」

 ティナは長いため息をついてから、司教さまに向き直った。

「信じていいのね」

「約束します。私の持つ全てでお力になります」

「わかった。それじゃあ、アイツのことを話すわ」

 ティナはこちらに向けて短く目配せした。察するに、この先の会話を十三歳の子供に聞かせたくないという心境だ。

 司教さまやミスリアたちが話を聞いているのならそれで十分だろう。カイルサィートはデイゼルの肩に手を触れ、部屋から連れて廊下に出た。

 子供たちが揃って昼寝しているからか、廊下はしんと静まり返っている。二人の衣擦れの音や足音だけがやたらと響いた。

 俯き加減のデイゼルに、ふと思い立って話しかけてみる。

「君が修道者になるなら、いつかどこかで僕のお父さんと会うかもしれないね」

「ふーん。せーじんの兄ちゃんのおとーさんってどんな人なん」

「さあ?」

「なんだそりゃ」

 立ち止まって、鼻をぎゅっと皺くちゃにした顔が見上げてくる。視線を合わせるようにしてカイルサィートは僅かに上体を傾けた。

「顔は似てるんじゃないかな。でも僕の知ってる父さんがまだ残っているのかどうかは、わからない」

「んー、じゃあ兄ちゃんのおぼえてるのはどんなん」

「そうだね。信心深くて、笑顔が温かい人だったよ」――言葉を連ねながらも懐かしさが胸に満ちる――「良き夫で、良き父親で、良い兄だったんだろう。少し優しすぎたかもしれないけど」

 心が優しすぎたがために、現実の重圧に耐え切れずに脆く壊れてしまった。思えばそういったところは、父と叔父はよく似ていたのだろう。今更責めたいと思うことは無いが、それでもたまに思い出しては一抹の寂しさと失望を覚えることはある。

 それに、殻に篭もってしまった父を未だに救ってもやれない己の無力さにも失望する。

「僕はできれば父さんとは似ない方がいいな。君みたいな逞しい男になるよ」

 カイルサィートは視線を廊下の先へと戻して宣言した。

「はあ? もう大人なのに、おれ目指してどーすんだよ。ぎゃくだよ」

「あはは、清々しい正論だ。どうするんだろうね」

「兄ちゃんなに言ってるかわけわかんね。へーんなのー」

 デイゼルは急に小走りになって廊下をドタドタと進んだ。仲間たちの様子を見に行くのだろう。一緒に居られる時間がそう多く残らない、仲間たちの。

(ああ……父さん、叔父上。生きるというのは、ままならないものですね)

 額に片手の指先を押し当てたのはほんの数秒の間だった。この絡まるような想いは、何であるのか。

 少年は気付いているはずだ。大切なものは自分が何もしなくても、どんどん掌から零れていく。

 守る為に敢えて手放して、後悔する日が来ないと良いが――。

 目を覚まし始めた子供たちの声が微かに聴こえる。そこに、悪戯っぽいデイゼルの笑い声が重なる。

(これから先どれほど大きな目的を追おうとも、守るべき宝が何なのか、それだけは見失わずにいよう)

 決意を新たに胸に抱いて、カイルサィートは居間へと踵を返した。

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