61.
大陸の最北部は、冬の訪れが早い。
ミスリアの知る暦の上ではまだ秋なのに、辺りは既に今年初の積雪を経ている。数インチではなくフィート(十二インチ、約30.5cm)単位の分厚さの雪は、常緑針葉樹林の床に繁茂する苔に重く圧し掛かっていることだろう。
寒々しい向かい風が、乾いて赤みを帯びたミスリアの頬をチリチリと掠って行った。
樹林と樹林の間を抜けると毎度こうなのである。この地帯の針葉樹は細長く伸びて群体となって密集しているため、中に居る間は風の勢いが削がれるが、その分、開けた場所を通るのが苦難であった。
一行を乗せた屋根付きソリは筋骨が盛り上がった逞しい馬四頭に引かれて、広大な大自然を横切っていく。
これから先も赤茶や緑よりも白の度合いが増す一方だと思うと、心中は複雑だった。
昼夜の割合が何よりも気がかりだ。ヒューラカナンテの冬でも昼が短く夜が長かったが、極北の冬は更にそれが顕著だと言う。気温と過ごしやすさの問題はさておき、太陽の恩恵を受けられる時間が短いのは――反比例して魔物と遭遇する機会が多いということだ。
「豪雪地帯、恐るべし。なんにもないですね~」
深刻な物思いに耽るミスリアをよそに、気が抜けるような呑気な感想が前方からもたらされた。たった今、鼻声で喋った男性を見上げて応じる。
「平和が一番だと思いますよ」
「ぞうでずげど」
ずびっ、と鼻水をすする音。ソリの最前列に座る男性は、ハンカチで一度鼻をかんでから再びこちらを振り返った。
「あまりに何も無いと、逆に不安になりませんか? もう教団を経ってから三週間は経つのに、最初に小さな集落を幾つか通った以降は……現地人と遭遇しないどころか野営地の跡地にも当たらないなんて」
「それだけ広大な地で、人口密度が低いってことでは」
「どうでしょうね~」
「私も気になるな」
男性の隣で馬の手綱を握っている剛腕の女性が、振り返らずに言った。灰色のニット帽を被った男性と違い、彼女は狐の毛に縁取られたフードを被っている。その所為で声はくぐもってこちらに届くのだが、それでも難なく聴き取れるほどに、力強い喋り方であった。
「あの……今更かもしれませんけど……組織からの同行者が貴方がただったのは驚きました。まさか私の護衛を引き受けてくれるなんて、夢にも思いませんでしたよ」
不快感を隠し切れずに正直に話すと、フォルトへ・ブリュガンドという名の男性が、ふへへへ、と声に出して笑った。
「前に言ったじゃないですか~、自分は聖女ミスリア応援してますって。この話が来た時は、断ろうなんて微塵も考えませんでしたよぉ」
好意的に答えた部下に対し、上司のユシュハ・ダーシェンという女性は平淡に言った。
「ケデクさま直々の命令だ、従うに決まっている。仕事に私情を挟んだりしない」
「その『ケデク』とは?」
「ほらぁ。聖女ミスリアもお会いしたはずです。全身を隠した怪しい感じのお方ですよぉ」
瞬間、フォルトへの横腹にユシュハの肘が素早い打撃を与えた。ぐえっ、との呻き声が続く。
「不敬だぞ、弁えろ」
「え~、だって怪しいですもん。自分も初めて間近で見た時は、どんな不審者が入り込んだのかと思いました」
部下の言い分を無視して、ユシュハがひとりでに話を続けた。
「組織ジュリノイの最高権力者は十一人居る。彼らは全員、黒い
「ケデクってのは、旧い言語で『頂点』って意味ですからね~。十一芒星の角を指して、
「そんな意味があったんですね」
あの人がブローチをしていたかどうかまでは、思い出せなかった。相対した時は緊張のあまりか、あまり隅々まで注意して見ていなかった気がする。
「おっと」
唐突にユシュハの声がした直後、ソリが何かにつっかえたような衝撃があった。馬が驚いて嘶く。ガシュッ、と柔らかい雪が跳ね上がった。
前の席の背もたれを掴んで体勢を保った。隣から「大丈夫?」と手話で話しかけてくるイマリナに、大丈夫ですよと笑って答える。
「石か木の根ですかねぇ。見てきます~」
前の席から軽々とフォルトへが飛び降りた。その間、ユシュハは馬を落ち着かせる為に声をかけ続けている。
二人に任せれば安心かなと思い、ミスリアは座り直した。膝からずれ落ちた羊毛のブランケットの位置を整えて、空を見上げる。
最初は己の白い吐息しか視界に無かった。それが冷たい大気に溶け込んで消えると、空に桃色が伸びているのが見える。
「……極北の夕暮れは、本当に早いですね」
決して文句を言っているのではなく、率直な感想だった。むしろ今の自分たちは夜の時間にこそをソリ走らせている。日中は野営して睡眠を取り、午後の遅い時間に出発している。
「聖女ミスリアは南方出身でしたっけ~」
地上から締まりのない声がする。
「はい。教団で修行を積んだ頃に、初めて本物の冬を知りました」
フォルトへさんたちにそんなこと話したかしら、と不思議に思いながらも肯定した。それにはユシュハが反応した。
「夜が長いというのは、好都合だったろうな。魔物退治の実戦経験を積む機会がいくらでもありそうなものだ」
「まあ……そうですね……」
教団で過ごす夜は、強力な結界に守られていた。そのぶん敷地から一歩踏み出せば、いくらでも遭遇してしまう。実戦は常に討伐隊編成が抜かりなかったため死人が出たことが無いが、初心者には全てが恐怖でしかなかった。それをある程度乗り越えられるようになるまでが訓練だった。
ヴィールヴ=ハイス教団本部が北にある理由は聖獣の近くに在りたいがため、そして俗世から少し離れていたいためだと勝手に解釈していた。こうして考えてみると、ヒューラカナンテ高地地帯は聖人・聖女という特殊な聖職者集団を鍛え上げるに最も適しているのかもしれない――。
「終わりました~。もう進められますよ――……」
引っかかっていた石を全部どけたらしいフォルトへが、何故か立ち上がる途中で言葉尻を切った。途端に馬の嘶きが激しくなる。
「先輩、右方注意っ」
彼の緊迫した声に、動物が威嚇する声が重なる。
続いて、パシュッ! と短い音がした。それがユシュハの右手に装着されたクロスボゥの音だと、一瞬遅れて気付く。
恐々と右方を見た。
少し離れた場所に、矢に撃ち倒された哺乳類の姿があった。
「コヨーテか。群集を好む動物のはずだが」
「この個体、何かから逃げてたみたいですよぉ。てことは――」
彼がみなまで言わずとも、答えが横の針葉樹林から飛び出て来た。
巨大で歪な影。異形。即ち、魔物。
ミスリアの全身に緊張が走り、無意識に、服の下のアミュレットに手が行った。
まだ地上に足を下ろしていたフォルトへは逃げようと判断したらしく、動かぬソリの最前列に跳び上がっていた。
「おい。戦え」
敵に背を向けて逃げた部下に、上司が厳しく叱咤する。
「勘弁してくださいよぉ、先輩。自分の特技は人間の攻撃を先読みすることであって、行動が予測不能の魔物相手じゃあどうにもならないどころか、自分ド近視なんで超不利ですって」
緊張感の無い返事が返った。
「情けないにもほどがあるぞ!」
「まあまあ。後ろのお二人にお任せしましょう」
人差し指を弾くようにして、フォルトへはにこにこと最後列を指し示した。
つられてミスリアは振り返る。
まるで見計らったのかのように、ちょうど「呪いの眼」を有する兄弟が、ソリから飛び上がっていたところだった。
大剣が閃く。鉄の輪が宙を舞う。
ミスリアが息を吸い込み、次に吐き出したまでの短い時間で、魔物は無力化されていた。
魔物を大雑把に分解した状態で捨て置いて、ゲズゥとリーデンは食用としてコヨーテの
本来ならば魔物を浄化せずに放置するのは心苦しいが、遭遇する度に浄化していてはこちらの体力がもたない。今の隙に馬たちを宥めすかし、なんとかその場を離れた。
夜の風はまた一段と辛い。髪が乱れぬようにミスリアはコートのフードを深く被った。ユシュハのそれと同じで、フードはふわふわとした狐の毛に縁取られている。極寒を越す為のコートの入手元は全員同様にヒューラカナンテ付近の集落なので、揃っているのはそれゆえだった。
「お疲れ様です」
片手でフードを押さえつつ後ろの列に声をかけた。それにはリーデンが微笑みを返し、ゲズゥはどこか遠くを見ていて反応しない。
「ありがとう、でも労うのはまだ早いよ。夜はこれからでしょ」
リーデンは目を細めて天を仰ぐ。白く冷たい、結晶化した水分の粒が降り始めている。
「そうですね。では、今晩もよろしくお願いします」
「任せてー」
この護衛たちはいつもながら、昼夜逆転した生活にすんなりと順応する。職業の性質上、よく夜更けに出回っているはずの組織ジュリノイの二人は、それでも毎度寝起きに不機嫌そうにしているのに。
地平線をしばらく見つめてから、再び振り返る。ついゲズゥの手元に目をやった。先ほど仕留めた獣の躯を逆さに吊るして、血をソリの外へと滴らせている。幸いにも矢が内蔵に命中したため、積む前にある程度血抜きができたのだった。
純白の一面に血の道を残しているのは野獣を招きそうなものだが、雪の上を走りながらも新たな雪が降りかかっている。赤い跡はすぐに埋もれてなくなった。
(重くないのかな。片手で吊るすの大変そう……)
などと思っていたら、黒い瞳がすうっとこちらを向いた。一瞬だけ目が合い、居心地の悪さを感じてしまう。なるべく自然を装って体勢を前向きへと直す。
「……魔物は動物を襲わないのに、コヨーテはどうして逃げたんでしょう」
振り返らずに大声で問うた。
「襲われないのと怖いのとは、また別の話なんじゃない? アレが実は亡者で人間に対してしか捕食本能が発動しないなんて、知ってるのは人間くらいだし。たとえば動物が観察と経験によってその事実に気付いたとしても、やっぱ咄嗟に逃げるでしょ」
「あのぅ、自分も疑問に思ったことが……あるんでずが」
前列のフォルトへが会話に参加した。
「はい」
「人間と魔物の関係ってフィードバック・ループなんですよね。死人の魂が瘴気に反応して、魔物が発生する。魔物は人間を喰らって、より大きくて凶悪な塊となる。じゃあ喰らう人間も居ないような無人の地では、どんどん存在が弱くなったりするんでしょうか~」
「いいえ、飢餓感が強まって周囲の瘴気をもっと呼び寄せてしまうという一説もあります。生きた人間を取り込んでも飢餓感がなくなるわけでもないのですけど……自然に弱まる例は無いはずです」
「そうなんですかぁ。いえね、毎朝霧散して毎晩また再構築されるんじゃ、人の魂か肉体を取り込まないと、徐々に存在の絶対量がすり減らされるものかと」
フォルトへの言葉に、ミスリアは少し黙り込んだ。
(霧散と再構築のサイクルにより存在が弱まる……仮にそうだったなら)
人口の少ない場所では凶悪な魔物が跋扈していないのが条理。死者の魂か、生者の魂か肉体を追加しない限りは――分解された後の再構築で、集まる負の因子が毎度少なくなる。
例が確認されてないだけかもしれない。それか、物凄く長い時間をかけての減少かもしれない。
「貴重な見解をありがとうございます、フォルトへさん」
「え? よくわかりませんが、お役に立ててうれしいです~」
「しかしどうする、聖女。今夜は雪で空が曇っている。星を読んで道を定めていたのだろう?」
既存の会話の流れに構わず、ユシュハが強引に話題を替えた。
彼女に問われたことはもっともであった。主に夜に移動しているのは魔物に対して油断しない為であるのと同時に、星を見る為でもある。
星座を追うことこそが、聖獣より授かった「行路」をなぞる方法だ。
現在、馬ソリを走らせている方向は、昨晩の内に見定めた方角に合わせている。そろそろ再確認が必要になる頃合いだろう。それでなくとも星や月の明かりが無くては、馬を走らせるのが危険に過ぎる。
「これ以上闇雲に進めば、明晩には軌道修正が必要になるかもしれませんね。仕方ありません、野営できそうな場所を見つけて今夜は休みましょう」
ミスリアが判断を言い渡すと、同行者たちは賛同の意を示した。
食糧は三ヶ月分を想定して、乾燥させたパンなどをソリに搭載してある。途中で狩りや採集をして補ってはいるものの、冬場なので得られる物はあまり多くない。
極北での旅の進行がこんな具合では、目的地に辿り着けるイメージがまだまだ遠い。
(着けるかしら、三ヶ月以内に)
せめて現地人と出会えたなら、この漠然とした不安も多少は和らぐだろうか。フォルトへが言っていた通り、こうも誰も居ないとなると、この地そのものに大きな問題があるように疑ってしまう。
「ねえ、九時の方向に見えるのって野営地じゃない」
静かな降雪も吹雪に加速せんとする頃、後列のリーデンが人の痕跡を見つけた。
「どうやらそのようだな。向かうか?」
馬を御すユシュハが問う。お願いします、とミスリアは即答した。方向転換による遠心力に備えて、前列の背もたれをしっかり掴む。
近付くに連れ、野営地に人の気配が皆無なのだとわかった。煙も立っていなければ炎の熱量もどこにも無く、そこはまさしく人が居た跡地でしかなかった。
馬を止め、地に降り立とうと身体を傾いだ瞬間。
「微かに臭いが残ってます」
いつになく緊迫した声で、フォルトへが言った。
鼻を伸縮させて大気を嗅いでみたけれど、ミスリアには何も感じ取れなかった。他の者たちもピンと来ないような顔をしている。
「雪が被さっていくらか経つようですから、わかりにくくなってます。血と臓物……死、の臭いです~」
よく嗅ぎ取れたね、とリーデンが褒めると、目が悪いので他を頑張っちゃうんですよぉ、とフォルトへは照れ臭そうに応じた。
「この地に何があったかはわからんが、一応警戒はしておくか。食糧など、使えそうな物資を手分けして探す」
馬の手綱をフォルトへに渡して、ユシュハがソリから飛び降りた。
「んー、何で君が仕切ってるのと言いたいとこだけど、提案には賛成だからそうするよ」リーデンは毛深いフードを被った。「マリちゃん、聖女さんと此処に残っててもらっていい?」
「待って下さい。私も行きます」
抗議したミスリアの前に、美青年が歩み寄った。至近距離で覗き込まれる形になり、不意打ちで心臓がドキッと跳ねた。
「聖女さんは待ってて。すぐ終わるから」
「でも……」
「死の残り香なんて不穏でしょ。君は降りちゃダメ。何か襲ってきたら、マリちゃんとそこの帽子のお兄さんとで対応してね」
「……わかりました。気を付けて下さい」
「うん、君たちもね」
火も持たずに闇の中に消えたユシュハの足跡を一瞥してから、リーデンは数秒の間考え込んだ。
「僕はこっち行くから、兄さんは逆から回ってくれる」
「ああ」
ソリが地面からぐっと浮き上がる。搭乗者の中で最も体重のあるゲズゥが降りたのだ。瞬く間に、兄弟も闇の中に消えた。
待つだけと言うのはなんともやりづらい。ミスリアは気もそぞろに足元の荷物を整理したり、手袋に包まれた両手を擦り合わせたりした。
前列のフォルトへが席を立ったのが見えたので、なんとなくついて行った。
馬の世話をするつもりらしいのだと察し――彼が干し草と水を与える間、ミスリアはブラシをかけてあげることにした。
「えっと、リーデンさんでしたっけ。あの人はああ言いましたけど、近くに魔物は居ないと思います。気配に敏感な馬たちも無反応なんで~」
「無反応と言えば……動物の死体を積んでも、あまり嫌がりませんね」
「個体差ですよ。集落の人たちはそういった経験が豊富な、図太い子たちばっかり売ってくれたんです。大事にしなきゃですねぇ」
「はい」
今晩に限らずこれまでにも数度、魔物から逃げる際に活躍してくれたのだ。感謝の意を込めて声をかけ、丁寧にブラッシングをしていく。
手を動かしていれば、待つ時間は苦ではなくなった。二十分くらい経ち、逞しい体付きの女性が戻ってきた。
「食糧は見当たらなかったが、使えそうな竈を見つけた。そこで湯を沸かして水筒を補充しよう」
「お疲れ様です、それは助かります」
ミスリアはそう言って出迎えた。
(食べられる物が見つからなかったのは残念だけど)
野営地は放棄されて長いのか、それとも使った人々は何一つ残さずに持ち去ったのか。後者であるなら、竈だけを残したのはおかしい気もする。忘れてはいけないのがフォルトへが最初に漏らした、死の臭いがする、の一言だ。
数分後には兄弟も戻ってきた。拾ってきたらしいスノーシューズを抱えて「
「ところでさ。揉め事の跡があったよ」
各人、テントも張り終わって食事を腹に収めた頃。リーデンが小声で切り出した。
「雪の下から何かが突き出てたのが見えてちょっと掘り出したんだけど、血痕の付いた桶だった」
「そんなものが……。他には何か見つかりませんでしたか」
リーデンも、そしてゲズゥも否定の意で頭を横に振った。
「僕らの印象だとどうも、此処を使ってた人たちは中途半端に去ったみたいに感じるんだよね。推測すると、襲われて連れ去られたんじゃないかなー」
「我々が追い求めている『奴ら』が、近いのやもしれんな」
発言をしたユシュハの方へとリーデンの身体が向き直った。
「そういえばお姉さんたちって、敵を見つけたらどうするの。二人で征伐しろって命令されてるとか?」
「貴様らにそこまで話す義理など――」
「どうするかは現場の状況次第で判断しろって言われてます~」
拒絶で応えようとしたユシュハを押しのけて、フォルトへがあっさりと明かした。
「つまり、二人でどうにかなりそうならどうにかして、どうにもならなそうなら援軍要請を出しますねぇ」
「応援要請なんてどうやって届けるの」
リーデンは周りの景色に目配せした。確かに人里離れているこの地では、連絡手段があまりに限られている。
「実は
「へえ、お利口なカラスさんなんだね」
「すごいでしょう! 頂点さま方はみんな飼ってま――あだっ!?」
フォルトへのへらへらとした笑顔が痛みに歪んだ。ユシュハの肘鉄を背中に喰らったらしい。
「いい加減にお前は社外秘という言葉を理解しろ、阿呆が」
「すみませんんん……でも下手に隠して聖女さま方にいざという時に信用してもらえなかったら、生存確率が下がりそうじゃないですか~」
「ここぞとばかりに正論を出すな! 口の軽さを叱るべきか、思慮深さを褒めるべきかわからん!」
じゃあ褒めて下さいよぉ、と何故か両手を差し出す部下の頭を、上司が思いっきりはたいた。
この女性の第一印象を思い返し、ミスリアは苦笑する。傍若無人で威圧的な人だと思っていたけれど、最近ではそれほどでもない。
(相変わらずゲズゥを見る目には殺意と憎悪ばかり篭ってるけど……)
少なくとも、仕事に私情を挟まないとの一線を、守り抜くつもりであるのはなんとなくわかる。
「組織の大事な秘密だと言うのに話して下さってありがとうございます」
礼を伝えてみると、ユシュハは一度こちらを睨み付けてから「ふん」と顔を背けた。
リーデンが小さく咳払いをする。
「で、話を戻すよ。大人数を送り込まなかったのってやっぱ、敵の存在の有無と所在地が不確定だからなのかな」
「そうだ。大人数の行進ではより時間がかかる上、敵にも警戒されてしまうからな。その点、聖女の巡礼の形に便乗すれば、怪しまれるどころかむしろ標的にされやすくなる。そうだろう?」
ユシュハがこちらを一瞥した。ミスリアは迷わず頷きを返す。
「はい。教団から魔物信仰集団に関する警告を受けて、その上で敢えて踏み込めとの指示でした」
「餌をチラつかせて、連中を穴倉からおびき出すってとこね。おびき出せた後の作戦の詰めが甘い気がするけど」
「何も難しく考えることは無い。聖女を守り抜き、ついでに、魔物を崇める集団に付いてできるだけ情報収集をする」
――それだけだ。
腰に手を当てて断言する女性はミスリアには大変頼もしく見えたけれども。
魔物信仰。
こうして改めてその呼び名を口にすると、心の内に冷たい物が落ちていくようだった。
伝聞により認識するのとは果てしなく違うのだ。
姉カタリアとエザレイ・ロゥンが関わったサエドラの町。その奥の森には魔物を造り出し、使役する人々が暮らしていた。それは独特の信仰心の表れだったのだろうか。彼らの所業を思うと、行為の根本にある思想や信仰を解明せずとも、絶対にわかり合うことは不可能だったと確信を持てる。
では、これから衝突するやもしれない、魔物を崇める集団はどうか。
言葉と交流を重ねてどうにか目線を合わせられるような人々であるだろうか。
答えは十中八九、「否」だ。今からでも予想が付く。
では、会話でわかり合えない相手をどう扱えばいい? この旅を始めてから、何度も似たような壁にぶつかっている。
それなのに永遠に解答に辿り着ける気がしなくて、ミスリアは目頭が熱を帯びるのを感じた。
_______
次に人の痕跡を見つけられたのは、五日後のことだった。今度の野営地も無人である。
申し訳程度の食糧を見つけ出し、そしてユシュハが両腕一杯の荷物をかき集めてきた。
地面に投げ出されたのは、どれもミスリアにとっては見慣れない道具である。それらを囲って立つ面子の中ではフォルトへだけが使い道に即座に思い当ったらしく、スッと屈んで、一本の長い縄を手に取った。
「先輩~、これってアレですよね」
「ああ。景色の凹凸と積雪が増えて来たからもしやとは思ったが、雪崩の可能性が高い地域に入ったようだな」
「この野営した跡地が遊牧民のものだったなら、そう考えて間違いないんでしょうねぇ」
極北についてそれなりの知識を叩き込まれてきたという二人のやり取りを、残る四人で黙って見守っていた。ほどなくして、組織ジュリノイの成員二人は意外そうな視線を向けて来た。
「なんだ。貴様らこういうのを見るのは初めてか」
「んー、流石に雪かき用シャベルは見たことあるよ、っていうかソリに積んであるんだし。そっちの棒は何? 三節棍って武器をどことなく連想させる……けど、棍棒にしては細すぎる」
「これか」
リーデンが指差す物を拾い上げるユシュハ。六本の棒切れは紐によって連なっており、両端の二本は先端が円錐状に尖っている。
「プローブだな。暴力目的の代物ではない」
使い方を見せようとしたのか棒を広げかけて、しかし彼女は考え直し、折り畳まれたままで腰のベルトに挟んだ。次いでシャベルを拾う。同じく折り畳み式らしく、全長四フィート以上が携帯できそうな大きさになる。
「とりあえずこれは貴様が持っていろ」
ぽいっとシャベルをリーデンの投げ渡した。
「雪崩対策に関しては、フォルトへ」
「はい~。まず、雪が流れてくる方向が確認できた場合は流れの外まで逃げることです。そんな猶予が無いのがほとんどですね。埋もれることを前提とすると、救援者が少しでも見つけやすいようにすることです」
雪崩に対する心構えなどを、彼らはそうやって説明していった。ミスリアたちは素直に静聴する。
いざ埋もれた後にどうするかまでに至ったところで、説明会は中断された。遠くから人の呼び声がしたからだ。
皆一同に声の源を探し、難航する。ここはもはや雪原。毛布のように大地を覆う雪が音の勢いを吸い取るため、人間の聴覚では頼りない。
やがて宵闇の果てに影が現れた。
野営地から見て北東の丘から、痩せ細った人影が覚束ない足取りで向かってくる。狂ったように泣き叫び手を振り回してるさまに、呆気に取られる。その人は丘を下り初めて転び、そのまま斜面を転がり落ちてきた。
遅れて我に返り、ミスリアは走り出した。
「大丈夫ですか!?」
慣れないスノーシューズを履いているせいかうまく進めない。転がり落ちてきた人物までの距離があと十歩というところで、黒いものに遮られた。持ち前の運動センスの違いか――既にスノーシューズでの走り方を会得したらしいゲズゥが、間に入ったのである。
「迂闊に近付くな」
振り返る黒い瞳がじっと見下ろしてくる。何を責められているのか思い当って、すみませんと返すしかなかった。焦っていた自分を一旦落ち着かせた。そしてゲズゥの肘から回って顔を出し、下りてきた人物をゆっくり観察する。
華奢そうだと思っていたら、若い女性だった。
「ひ、人! よかった――たすけッ、お願いです! 助けてください……!」
女性は長い巻き髪を乱したまま、四つん這いで近付いて来る。濡れそぼった髪はつむじの赤黒い色に始まって、毛先は薄茶色だ。翡翠色の双眸や彫刻並みに整った輪郭と相まって、吸い込まれるような美しさを持った女性だった。
それだけに、衣服が所々に破れ傷んでいるのが目に付く。露わになっている白い腕から、鮮血が滴るのも。
加えて、疎らに付いた紫黒色の泥から漂う腐臭。
ミスリアは全身が硬直するのを感じた。
「魔物に襲われたんですね」
「はい……はい……。わたし自身、放牧していたエルクの世話をしていまして、その隙に…………! 戻ったら野営地、が!」
恐怖に激しく震える女性の様子に、心が痛んだ。
なんとかしてやりたい。なのに傍に行こうとすると、旅の連れである者たちが何故か行かせてくれない。
「危険な方へ自ら進む気か」
と、ユシュハが無機質に問う。
「見過ごせるような話ではありません」
「貴様にとってはそうでも、我々は同意しかねるが」
「ではせめて私を止めないでください」
「貴様の命を護るのが我々の任務ゆえ、どうしても行くと言うのなら縛ってでも引き留めたいところだが……そうなると、忠実な護衛どもに噛み付かれそうだな」
「そうなるねー」
答えたのはリーデンだった。
「わからんな。貴様らとて、護衛対象が自ら怪しい方へ行くのを止めたいだろう」
「勿論そうだよ。ついでに僕は、助けを求めてるっていうこの女の何もかもが演技だと思ってる。でも証拠が無い以上はねー……兄さん?」
「……要所で信条を曲げた事実が、今後の自分に影を落とす。罠だろうと危険を冒すことになろうとも、妥協できない局面がある、と」
話を振られたゲズゥが、その低い声で一言ずつをハッキリと紡いだ。
「そういうことだから。マリちゃんは馬と残ってもらうけど、君たちは一緒に来るかどうか、自分で決めてね」
細かく語らなくても心中を汲んでくれた二人に、ミスリアは小さく感謝の言葉を告げる――。
「自分はどうしましょうか、先輩」
「そうだな……」
ユシュハが顎に手を当てて考え込む姿勢を取った。
「よし。フォルトへ、お前はついて行け。私はとりあえずソリの傍に残る。戻りが遅いと感じたら、自己判断で追うぞ」
「了解です~」
言うが早く、フォルトへは身に携帯している武器や防具の確認をした。更に、例の異様に長い縄を腰に結び付けて垂らしている。
「ありがとう……旅人の方々、ありがとうござい、ます……わたしはプリシェデスと申します。シェデ、とお呼びください」
助けを求めて来た女性が、雪の上に平伏した。
「私はミスリア・ノイラートです。シェデさん、取り急ぎご案内をよろしくお願いします」
「はい、ついて来てください! 急がなければ、皆喰い尽くされます……!」
女性はひとりでに立ち上がり、滑らかな丘を慣れた足取りで上り始めた。彼女のすぐ後ろにフォルトへが続き、その後ろにリーデン、ミスリア、ゲズゥが並んだ。転ばない程度に、早足に歩く。
丘を上り切るまであと数歩のところで、フォルトへが何故だか露骨に鼻をすんすんと鳴らしている。それも、先導する女性のうなじに寄せるようにして、だった。
(何か匂うのかしら)
疑問に思ったのは自分だけではなかった。
「あの、何か……?」
ぎこちない表情でプリシェデスが振り向く。
「いいえぇ。魔物以外に、何か不思議な匂いがするなー、と。花の可憐さの中に潜む凶暴性さとでも表現しましょうか」
どうしてか、女性は返事をせずに前を向き直った。
「ユリの一種だったと思うんですけど~。胡椒っぽくてスパイシーな、ツンと鼻に残る芳香」
「え、ユリって言っ――」
「見えてきました、あちらです!」
問い質そうとするリーデンの声に、プリシェデスの叫びが重なった。丘を上り切った先には、僅かな平面の後、より険しい傾斜が待ち受けていた。
あちら、とは。現在地から三十フィート(約9.1m)先を意味している。
白や茶色ばかりの景色の中、目前の峰の麓だけが幾つもの派手な赤い模様に彩られていた。人々を蹂躙する巨大な異形の姿が見えて、背筋から震える。
異形はこちらに気付いて、跳躍した。
巨体の着地時の振動が、足から這い上がって腰を揺さぶる。
毛むくじゃらの魔物の巨大さに愕然としたこと、数秒。静かな時間の中、魔物の首と思しき辺りに鎖が巻かれているように見えて、それの意味するところを思うと戸惑った。
思わず現状をも忘れる。意識の範囲内には己と魔性しか居ない。
――ビィキッ。ギキキ、ビキビキ。
凄まじい音の連鎖が地面の奥深いところを伝った。ハッと目が覚める。
たとえるならば導火線。
亀裂の入る音がどんどん遠くへ去ってゆく。無意識に目で追っていたら、行き着く先は、峰――
「傾斜三十度以上!」
そう叫んだのは多分、リーデンだった。
――崩れる。
理解の追いつかない頭でぼんやりと。息のし方も忘れるほどに夢中で。峰の側面に付着していた雪が、崩れ落ちるのを眺めた――
押し飛ばされた。
内蔵がぐっと圧されて潰されるような感覚が伴うほど、強い力で。
この突然の力には覚えがあって。鋭く囁いた「逃げろ」の声にも当然、覚えがあって。危機に瀕した際の自分の反応の悪さにもいい加減、覚えがあった。
「がはっ」
落下の痛みが全身を打つ。
この身を包む地面の冷たさが、叱責に思えた。けれど、何も生み出さない自責の念に捉われている場合では無かった。
「――う」
ひどい咳と眩暈がするのも構わずに、急いで起き上がった。暗いはずの視界にチカチカと火花が散っている。治まれ治まれと念じる内に視界は何とか晴れてきたが、聴覚は未だに使い物にならない。股関節を襲う激痛があり、骨折したのではないかと疑った。
けれど、そんなことよりも。何処だ。皆は、何処に――
しばらくして迎えてくれた映像に、ミスリアは絶句した。
洪水だ。雪崩という名の、雪の奔流。
自分は流れの外まで飛ばされたらしく、一連の恐ろしさを横から一望できるようになっていた。
峰から丘へ、丘からもずっと下へ。流れ、ひたすらに流れる。
大切なものが掌から零れ落ちて、二度と戻って来れないところまで落ちてしまうと、直感した。
必死に探した。彼らは何処へ流されたのだろうか。怪我をしていないだろうか、意識を失っていないだろうか、助けに行かねば――!
けれども立ち上がれない。
何故か、嘲笑が聞こえた。
「ばかだね、きみは。見ず知らずの人間を助けようとしたばかりに、大事な仲間を死なせるんだ」
「ぅ、あ」
耳元に囁きかける声に、何も返せなかった。振り返ると、人影はひとつだけだった。
どうして彼女だけ此処に居るのだろう。どうして他には誰も、奔流の外に居ないのだろう。声も涙も出せないまま、ミスリアは瞼と口を空しく開閉する。
「救いようのないばかだけど、才能を見込んで、殺さないことにしたんだよ」
「シェデさん、あ、なたは、一体」
「ぼくと一緒に来なさい、聖女ミスリア・ノイラート。嫌とは言わせないよ」
「――! いやっ」
脇下から引っ張り上げられている。抗った。精一杯、暴れた。
「放して! 皆さんを助けないと、埋もれて、し、早くしないと、死ぬかもしれないんです!」
「今や歩けもしない非力なきみに、かれらを助けることなんてできやしない。諦めた方が賢明だよ」
「放して……這ってでもいい、私は、行かない、と――」
突然喉を圧迫されて、それ以上何も言えなくなった。驚いて目を見開くと、首を絞める細腕が目に入る。
細い腕には似つかわしくない力だ。
「きみの帰る場所は失われた」
「――っ」
後ろ首にとてつもない衝撃が走った。
(認めない。これが、お別れだなんて、嘘)
遠ざかる意識の中で、ミスリアは絶望と悲しみを凌駕する悔恨の念に押し潰されていた。
視界が闇に落とされても、雪崩の轟音はいつまでも続くかのように思われた――。
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