60.

 妙なモノに遭遇した。

 昼食後、教団の敷地から出て走り回っていた時のことだ。

 そのモノは何故か追ってきた。敵意は感じないが、ゲズゥ・スディル・クレインカティは警戒した。見知らぬ相手には警戒するのが定石であり、しかも気配は突如として現れたのである。

 怪しいの一言に尽きる。人の直感の源が胃袋であると誰かが言っていた気がするが、この場合はゲズゥの左眼から警告が発せられたように感じられた。

「やあ! きみ、いつも走ってるね」

 こちらと並走しながらも人影はありのままの事実を述べた。もしゲズゥに会話する意思があったなら、だからどうした、としか答えようが無い切り込み方である。

「ぼくも一緒してもいいかい」

 喋っている人物の方を振り向かずにゲズゥは走り続けた。この速さでも喋る余裕があるとは、見た目の華奢さによらぬ体力の持ち主だ。

 それにしても、左眼は何に反応したのか。

 魔物は言葉を操れないし、真昼間の太陽の下を堂々と活動できない。「混じり物」であればまた話が違うだろうが――

 よくわからない。面倒臭い。

 放って置いても、教団の近くだ。問題のある存在なら自ずと勝手に討伐されてくれるだろう。

「無視するなんてひどいね。ぼくはきみとお友達になりたいな。最初は一緒に走るだけの間柄からでいいよ。少しずつわかり合って行こう」

「興味ない」

 鬱陶しくなって、ついに口を開いてしまった。

「そうか、それは仕方がないね。やっぱり口数の少ないひととは心を通わせるのは難しいか。ではきみのことは諦めて、きみの大切なお姫さまの方とお友達になってみるよ」

「……!」

 足を止めて振り返ったら、人影は忽然と消え去っていた。

 残り香が鼻をついた。薬草っぽいような、肉っぽいような、甘ったるいような、鮮烈な花の匂い。何の花かは思い出せない。

 眩暈と頭痛がする。長く走った後の気持ち悪さや疲労感とは全く別の、沸いて出たような圧迫感が頭を蝕んでいる。

 どういうカラクリかはわからないが、あったばかりの邂逅を忘れそうになっているらしいのはわかった。

 歯を食いしばって耐えた。忘れないように、断片に縋ろうとする。

 ――聖女さんがこれからの予定を話し合おうって言ってる。戻って来てー。

 思考に割り込んだのはリーデンの呼びかけだった。それによって忘れかけていたものが完全に消えてなくなるが、同時に思い出せたものがあった。

 ――ユリ科。あの匂いは、間違いなく……。

 ――は? ユリって言ったら「肉体を離れた魂の無垢さ」を象徴することから、よく墓に添えられる花だよね。急にどうしたの、兄さん。

 ――わからん。今、戻る。

 左眼がズキリと疼きを訴えかけたが、教団の敷地に再び踏み入った頃には、一連の出来事をすっかり忘れ去っていた。


_______


 近頃何かと気を張っているけれど、召集ではまた違った神経のすり減らし方をしたものだ。

 先ほどの話し合いを思い返し、ミスリアはため息を吐きそうになる自分を制した。考えを整理する為に一度深呼吸をすると、それはため息と大して変わらない気がした。

 此処は教団本部の中庭の一角である。大きく息を吐いて誰かに聞かれでもしたら、恥ずかしい――そう思って辺りを見回すと、こちらをしっかりと見向いている人物と目が合った。その者は、深い紫色の衣で何重にも身を覆っていた。目と口以外、露出している部分が無い。

 首に提げられている身分証が目に入らなかったとしても、この人を見間違えたりはしないだろう。

「こ、こんにちは」

 ミスリアは急いで敬礼をした。相手に声を掛けられるまでは、下げた頭を上げない。

 しばしの間があった。

「その方、疲れているようだな」

 男とも女とも取れない、中性的な声が頭上から降りかかる。ため息を指しているのだとわかって、頬に熱が走った。

「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「気遣ってなどいない、疲労は期せぬ失態を引き起こすと言っている」

「気を付けます」

「そうしろ。ああそうだ、小さき聖女。その方は聖獣を求めて北上するそうだな。我が組織からも同行者を出す」

「え……!?」

 思わず顔を上げて目を見開いた。赤みがかった琥珀色の双眸が強い眼差しを返してきた。

「我々も、北に用があるからな」

「それは勿論わかっていますけれど――」

 ミスリアは言い淀んだ。

 彼らが調査している案件とミスリアの旅路が交わる可能性は大いにあると、先刻の話し合いを通じて理解している。

 しかし対犯罪組織ジュリノイの人間には正直、いい思い出よりも悪い思い出の方が多い。有事の際にゲズゥたちとの連携がうまく取れるとも限らないし、この段階で旅の人数を増やすのは不安だ。どう断ればいいのか、逡巡した。

「その方らの総帥には既に話を通してある」

「総帥……? 教皇猊下のことですか」

「ああ、そういう役職名だったな。そうだ。人選も私が直々に下したゆえ、生死のかかった場面で信用できるかの問題は無い。その方の命に危険が及ばぬように動けと、命令してある」

 組織の上役にそこまで用意してもらったとなると、異を唱えることができない。しかも教皇猊下の承諾済みとあっては――

 ぐっと顎を引いて、頷いた。

「承知しました。わざわざ手配をして下さってありがとうございます。サエドラの件でも、お世話になりました」

 ミスリアが礼を言うと、相手は不思議そうに眉を吊り上げた。

「サエドラ? ああ、ウフレ=ザンダの辺境の町か。報告は聞いたが……もしや小さき聖女、人違いをしているな」

 相手は左腕で右腕の長い袖をまくり上げて、拳を開いた。

「あの場に赴いたのは私ではない。その方が会った者は、刺青が手の甲にあったのではないか」

 ずいっと差し出された手は無骨で、骨格が男性寄りとも言えなくも無かった。

 組織の成員らしく、神ジュリノク=ゾーラを象徴した独特の刺青が彫られている。「総ての悪事と嘘を見通す眼」の部分が掌に始まり、「正義を執行する斧」が手首より少し下の位置までに続いている。

「……よく憶えていません」

 ジュリノイの代表者たちは基本的に顔を隠すものなのか――目の前の彼は瞳と唇しか見えないし、サエドラで会った人間に至っては、頭からローブを被っていて、息をする為の網みたいな部分があっただけだ。

「観察力が足りぬな。まあいい、別人だと私が教えているのだから、そのまま鵜呑みにするが良い」

「わかりました」

 ミスリアが素直にそう答えると、相手は気が済んだように話題を変える。

「周知のとおり、我が組織とその方らの団体の関係は決して良好とは言えない。だがそんな悠長なことも言っていられなくなった。癪な話だが、我々の管轄とその方らのそれとの境界線が、近年曖昧になってきている」

 彼は刺青の施された右の拳をゆっくりと握り締めた。

「ゆえに……しっかり励め」

 顔は依然として見えないままだが、この人からは茶化したり見下ろしているような素振りは感じられない。これまでに会ってきた組織の他の成員に比べて、話が合いそうだなと感じてしまった。

 誠意を込めて応じるべきだと判断した。

「命ある限り、心身ともに使命に尽くすことをお約束します」

 通常の挨拶のスカートを抓み上げる礼ではなく、心臓に手を当てて深く腰を折る礼をする。

 すると、次に会話が続くまでにまた数秒の間があった。

「己の命の使い道が早い内に決まることは、神々からの祝福であり、そして呪縛でもある。その方にも、いつか決断を迫られる日が来よう」

「決断ですか?」

 顔を上げようとした。そこに、ぽすん、と頭に重みがのしかかる。

「抗うのもひとつの勇気だ。『個』を安易に手放すなよ、聖女」

 わしゃり、と一度だけ髪を撫でられる。

 言われた意味がわかりそうになった頃にはもう、深い紫色の後ろ姿が遠ざかりつつあった。

(もしかしてあの人は私を通して別の誰かを見ていたのかな)

 出会って間もない人間への接し方にしては、向こうの距離感が意外に近かった気がした。次に自然に思い当る節は、別人と重ねて接していたのではないかということ。

 ミスリアはのんびりと思考に耽りたい気持ちを振り払って、歩き出した。

 猊下による連日の召集は今日で最後だった。必要な情報も出揃ったところで、要点を忘れない内に、仲間たちの元に行かねばならない。

 寄宿舎の方を目指して歩を進める。その道中に、会おうと思っていた護衛の片割れを見つけた。

「リーデンさん、それに聖女レティカも。こんにちは」

 驚きを隠さずに話しかけると、二人が笑って振り返った。珍しい組み合わせだな、と思ってミスリアは首を傾げる。

 それぞれ挨拶のやり取りを終えると、どうやら彼らが教団の庭の造形を共に観賞する仲であることが判明した。

「えっと、今後の予定についてお話があります」

 そのようにして本題を切り出す。

「わかったー。僕らが借りてる部屋にでも集まる? 兄さん呼んどくよ」

「お願いします」

「ではわたくしはこれで」

「あ、待って下さい」

 話の流れで立ち去ろうとした聖女レティカを、なんとなく引き留めた。

「聖女レティカも同席してくれますか? 私一人で語るよりは貴女も居てくれた方が、色々と話が整理しやすいと思います。お忙しいのでしたら、無理にとは言いません」

「わたくしでお役に立てるのなら、喜んで」

「ありがとうございます」

 まとまったところで、皆で寄宿舎に向かう。三階廊下の突き当たりの部屋の戸を開くと、フリージアの爽やかな香りが迎えてくれた。

「どうぞ好きにくつろいで。すぐにお茶を淹れるからね、マリちゃんが」

 リーデンがそう言って掌を翻すと、足音も立てずに彼女は現れた。まるでひらひらと宙を舞った手の背後から現れたかのような錯覚を覚える。

 まるで手品みたいですわね、とレティカが楽しそうに称賛した。

「ではお言葉に甘えさせていただきます」

 腰を落ち着ける場所を求めて視線をあちこちに巡らせる。

 客用の部屋はミスリアが見習いだった頃に寝起きしていた寮に比べて、かなり広くて快適そうだ。寝室のみならず台所と食卓、そして小さな居間まで付いている。低く丸いテーブルの上には、読みかけの本が無造作に開かれている。

 いかにも古そうな本をそっと手に取りつつ、ミスリアはテーブル横の椅子に座った。テーブル横のもう一つの席にレティカが座る。

「どんな本ですか?」

 問われてカバーを確認した。開かれたページの場所をうっかり失くさないように、親指を挟んで。やはりよほど古いのか、ぱりっ、と紙の軋む音がする。

「南の共通語ですね。『征圧された人民の歴史』……ですか」

 思わず二人して、近くの青年を見上げた。本棚に肩肘をのせて優雅な立ち姿を演出している彼は、とろけるような笑みを浮かべる。

「それはマリちゃんの私物だからね。読み書きの練習に欲しいからって、ずっと前に僕が買ってあげたんだよ」

「……この本を教材にしてその方は字を学ばれたのですか?」

 胡乱げな目で訊ねる聖女レティカ。

「他のお気に入りは、『奴隷無き世の実現性』とか『王制の存在意義を問う』辺りかな。どれもお役人さんに見つかるとその場で燃やされるようなヤバい作品で、元々の生産数も二十冊と無いよ」

「そんな危険な物を此処に持ち込んだのですか――いいえ、やっぱり見なかったことにしますわ」

「あははは、気にしちゃ負けだよ」

「……」

 沈黙に割って入るように、お茶とお菓子を運ぶ盆がすっとテーブルに降りてきた。その後、開けっ放しの本をイマリナに返すと、彼女は無邪気な笑みで愛読書を受け取った。

(無邪気、なんだよね?)

 なんとも言えない気分でミスリアは微笑みを返した。

 お茶に濡らして食べるタイプの硬いクッキーを、黙々と口に運ぶことに専念する。渋めのお茶を吸った甘いクッキーが、ちょうどいい口どけになっていて美味しい。

 やがて世間話が一通り終わる頃に、戸が開いた。

 思わず肩が跳ね上がりそうになるのを堪えた。視線をやらずとも、入って来たのが誰であるのかは察しが付いた。僅かばかり息が上がっているらしいことにも耳ざとく気付いて、何故か自分も呼吸が速くなった。

 入室したゲズゥの姿を認めて、開口一番にリーデンが「で、ユリって結局なんだったの」と問い詰めたのは、どういう意味だろうか。

「ユリ?」

「兄さん、ユリ科がどうとか言ってたじゃん」

「言ったか……?」

「えー、何で忘れてんのー」

 この旨の問答がしばらく続いたものの、結局要領を得ることなく終わった。何だったのだろう。


_______


 一本の蝋燭に火が灯ると、細々とした明かりが、殺風景な空間を照らし出す。辺りはやたらと静かで、空気が微かに湿っている。

 明るい色の衣服を纏った華奢な男が持つ蝋燭に引き寄せられるかのように、暗い色の衣服を纏った男が歩み寄った。

「被り物をしなくていいのかい。君は素顔を隠すのが原則だろう」

 来訪者をゆっくりと見上げて、蝋燭を持つ彼はそう言った。

「問題ない、どうせ貴様は既に私の素顔を知っている。あまり被ってると息が詰まるのでな」

 暗い服の男は抑揚の無い声で応じた。掠れた声は、彼が公衆の面前で話す時と違っていくらかトーンが低い。こちらの方が地声であり、中性的な声は意図して出しているのだ。

 此処は数あるヴィールヴ=ハイス教団の隠し通路の中でも、とりわけ存在を知られていない。書庫の一角の隠し扉を越せば、この場所に至ることができる。

 教団そのものの歴史は浅いが、拠点は旧い城砦を再建・改造したものだ。こういった仕掛けは把握しきれないほどに残っている。それを私用で使うのは本来ならばあってはならないことだろうに――権力を持て余す彼らには、堅苦しくない秘密基地のひとつやふたつ、求めてしまっても仕方がない。

 二人は昔から特別仲が良かったわけではなく、たまたま同郷の者であった。

 歳が七つは離れているため、ほとんど会話を交わしたことが無かった。故郷を発った時期は別々であり、その後もそれぞれの人生を刻んで十数年――ある時、彼らは職務中に再会した。双方ともに正装をしていたが、互いを認識し、思い出すまでにそう時間はかからなかった。

 以来、歩み寄りと呼べるほどの動きでないにしろ、なし崩し的に話す機会が増えた。

 友人だなどとは決して思わない。失くしても心が痛まないような腐れ縁だ。しかし繋がっている内は、使いたくなる縁である。

 彼らに挨拶や世間話は不要であり、話し言葉も普段よりやや崩れる。

「例の小さき聖女と話をした」

 刺青の施された方の手で、男は燭台をかっさらった。己よりも体力の無さそうな相手に、物を持たせるのが落ち着かないからだ。

「それはそれは。彼女を怖がらせてはいないだろうね」

 燭台を奪われた男はふわりと笑みを浮かべる。

「私ごときに気後れをするようでは、この先身が持つまい」

「聖女ミスリアは勇敢だよ。けれど生命を脅かすものへの恐怖と、権力への畏怖は全くの別物だ」

 そこにしばしの間があった。対犯罪組織を率いる役割を負った男は、隠し通路の先にある行き止まりの方をなんとなく見つめる。聖女との会話を静かに振り返った。

「ほんの少しの才能を持って生まれ……それを伸ばせるような生き方を選んだのなら、祝福こそすれ、他人が哀れむのは野暮なものだとわかってはいるが。聖人や聖女というのは、酷な役職だな」

「では私と君の違いは、そんな人を可哀想だと思うかどうかだと、君は言うのかい」

「ほざけ。違いがその程度であったなら、組織と教団の協力体制はもっと早くに整ったはずだ」

「そう言わないで下さい。違っていながらも私たちはこうして協力できていますよ」

 からかうように、教皇は丁寧な言葉遣いに替わってくすくす笑う。

「現在はな……貴様の死後、どうなるかな」

 対する男は腕を組んで鼻で笑った。教皇の残り寿命が如何ほどであるのか、他でもないこの者は知っている。

「大丈夫です。後任者候補の目星も付けてあるので、きっと私亡き後も誰かがうまいことやってくれるでしょう」

「個を捨てた筆頭が、貴様よな」

「失敬な! そんなこと、貴方にだけは言われたくありませんよ」

「ふん、我々は個人主義者の寄せ集めに過ぎぬ。組織としての体裁を保ってはいるが、指揮系統やら成員の管理やら、貴様らの団体とは非なるものだ」

「本当に? 洗脳紛いの『信仰』はそちらの専売特許ではありませんか」

「笑わせるな。組織は洗脳紛いの真似をしているかもしれないが、大して効力は無い。人が人を裁く為に神の名を借りているに過ぎない」

「自分が属している組織だと言うのに、辛辣ですね」

「泥臭い部分を見過ごしてでも尽くす価値があるが、泥自体は消えない」

 男がそう答えると、嘲るような笑いが双方から漏れた。蝋燭の炎が突然の吐息に揉まれて、揺れる。

「……もっぱら当面の問題は、実際に洗脳紛いの信仰を広めている、あの連中ですけどね」

「同感だ」

「どうにもあの子を、猛獣をおびき寄せる餌代わりにしているようで、気分が悪いです」

 教皇は首を後ろへかしいで、小さくため息を吐いた。

「引き受けたのは本人だ。ならば同情は不要」

「おや、さっきと言っていることが違いますけど」

 へにゃりと笑って教皇が指摘する。すると、男は教皇を見下ろして歪に笑った。

「あれは個人の感傷。そしてこれは、人の上に立つ者としての覚悟。人を使う、覚悟だ」

「お止めなさい。大切な聖女を道具のように使い捨てるのは許しませんよ」

「語弊だ。自己犠牲の精神に敬意を払って、最大限に有効活用してやるのさ」

「生き延びる心積もりで挑むなら、自己犠牲ではないでしょう。ものの見方がとことん合いませんね、君とは」

「大義の為に人命を費やすところは同じではないか。ただし貴様らは本人自らそれを望むように推奨して、我々は命令している」

 結果にいかほどの違いがあるのか――と男は笑った。

「個人の一生を尊重する君が、逆らえぬ部下たちに残酷な命令を下して組織を前進させる様は皮肉ですね。その矛盾をどう消化しているのです」

「簡単だ。命令に従うことに疲れたら出世すればいい、とのように下っ端どもを慰めている」

 男は不敵そうに言い切った。

「…………君は、なんていうか――長生きしそうだね」

 元の砕けた口調に戻り、教皇は呆れ気味に目を細める。

「安心しろ。少なくとも貴様の倍以上は生きるさ、寝首さえかかれなければな」

「ふふ。その寝首をかかれなければ、が難しいんじゃないか。せいぜい頑張りたまえ」

 直後、二人を取り囲む闇を満たしたのは、気を許した者同士の間に流れるような暖かい空気だったのか。少なくとも、悲壮感などでは決してなかった。

 誰が言い出したわけでもなく、二人は似たタイミングで歩き出した。

 通路を抜けて、隠し扉の前の本棚を押し戻し――責務と重荷が待ち受けている、現実世界へと再び足を踏み入れる。


_______


「というわけで、当初の予定通りに北に向かいます。問題は、当初の予定よりも時間がかかるかもしれないことですね」

 ミスリアはコーヒーテーブルの傍の席から、部屋に居る仲間たちと聖女レティカの顔を順に見回した。

「このヒューラカナンテから見て北東に都市国家、北西にウフレ=ザンダ。けれど真っ直ぐ北上した先は、ほぼ未踏の地になります」

「そうですわね。緻密な地図は手に入りにくく、地形と天候が厳しいのですものね」

 テーブルの向かいに座る聖女レティカがさりげなく補足する。

 更には、おそらく危険な集団による不穏な動きが予想されると、幾度に渡る召集によって警告されたのである。現に案内役を伴って調査に出かけた組織の成員からの連絡が途絶えたと言う。

 そのことと、旅の一行に組織の同伴者が加わることを話すと、護衛たちは黙り込んでしまった。

 こちらの話を今も聴いている様子であるが、お喋りなリーデンでさえ数分ほど発言をしていない。

(もしかしたら二人で秘密の談義を……?)

 呪いの眼を共有する兄弟の特殊な会話方法を思い浮かべた。

 だからと言って当人たちに問い質すわけにも行かず、ミスリアは手の中の方位磁石を回して暇を持て余した。

 その内、壁際の本棚にもたれかかっていたリーデンが顔を上げた。

「ほぼ未踏の地だけど、案内役を頼める人間がいるくらいなら、完全にそうじゃないんでしょ」

「はい、時季によってはあちこちに野営地が見られるみたいです」

「集落じゃなくて、野営地なんだね」

「現地人は主に遊牧民が多いそうです。跡地の位置ですら地図に載ってないそうですけど」

「ふーん、それは知らなかったな。僕は聖女さんに会うまでは、ヤシュレより北に行ったことなかったからさー」

「私もあまり詳しくは無いですね」

 ミスリアは思わず苦笑した。遊牧民のことは、召集を通して聞き知ったのである。

「でもこの地で修行したんでしょ。ファイヌィから此処までだと、なんだかんだ色んな場所を通過したんじゃないの」

「私は九歳の頃に教団本部に来たんですけど、何ヶ月も馬車に揺らされて気持ちが悪かった以外の記憶は無いですね……。全く寄り道しませんでしたし」

 そして去年――教団を発って一度里帰りを、ついにはゲズゥと出会うまでの道のりでも、道草をする余裕は無かった。

「それは勿体ない気もするね。そっちの聖女さんは? 『北』は行ったことあるの」

 話を振られた聖女レティカは、真っ直ぐな青銅色の髪を揺らして頭を振った。

「アルシュント大陸をそれなりに旅しましたけれど、それでもヒューラカナンテより北は、わたくしにとっても未知の領域ですわ」

 聖女レティカの返答を受けて、リーデンは唇に親指の先を当てた。

「気になることはイロイロあるんだよねぇ。魔物信仰、遊牧民、それと……九人、だっけ」

「何がですか?」

 突然の数字が指すところがわからず、ミスリアは首を傾げた。

「前に枢機卿の人が言ってたよね。旅に出ている聖人聖女の中で、現在でも連絡が途絶えてないのは、君含めて九人って」

 リーデンが掌でミスリアを指した。彼の手首に連なる腕輪チャクラムが、しゃらん、と耳障りのいい音を立てたのと同時に、ミスリアの脳裏にグリフェロ・アンディア枢機卿猊下の声が蘇った。

『三十六名が過去二十年以内に聖獣を蘇らせる旅に出て、未だに旅を終えていません』

 旅を終えていないと判じられる基準に想いを馳せる――おそらく、一に聖獣がまだ蘇っていないことと、または二に、本人がヴィールヴ=ハイス教団に帰還していないことだろうか。

「その数字ですが、わたくしが先日聞いた限りでは、五名になったそうです」

 横合いからレティカが静かに口を挟んだ。「一人は死が確認されて、残る三人は先月を最後に、音沙汰が無くなったそうですわ」

「まあ、そういうこともあるよね。焦点を移そう」

 何故かリーデンは消えたかもしれない三人については何も言及しなかった。彼はもしかしたら既に耳にしているのかもしれない。

(消えた三人の内の一人が、北に向かったってことを)

 その者は年配の聖人だったそうだ。それ以上のことは、詳しくは聞かされていない。

「二十年の間に行方不明者が二十人以上出てるんだよね」

 問われて、首肯した。

 本棚から身を起こしたリーデンが、にっこり笑って近付いて来た。

「さて、聖獣を蘇らせるには、『幾人』の聖人聖女が要るのかな」

「――」

 無意識に、ミスリアはひゅっと喉を鳴らす。

 またもや無意識に、目が泳ぐ。扉の脇に佇むゲズゥを一瞥すると、底なしに黒い瞳と視線が絡み合った。数瞬ほどそのままだったが、どこか責められているような気がして、目を逸らしてしまう。

 台所にて鍋を火にかけているイマリナの後ろ姿を眺めながら、どう答えたものかと思案する。

「白状しますと、そのように考えたことがありませんでしたわ」

 幸い、レティカが先にそう言ってくれた。後に続く形でミスリアも口を開く。

「……私は少しくらいはあります。でも行ってみなければ答えに至ることはできないと、思います……」

「ん。それもそうかー」

 くるりと裾を翻して、リーデンはあっさり引き下がった。

 ――どうしてこんなにも察しが良いのだろう。

 いっそ寒気がするほどだった。

 そしてまた話題は移り変わる。

「ねえ教えてよ、聖女さん。聖地を巡っていた順番に何か意味があったんだよね。これから北上するってことは、もう巡礼はいいの?」

「まだひとつ、聖獣の元へ向かう前に訪れなければならない聖地があります」

 くだんの場所は他ならぬ教団の敷地内にあるのだと、ミスリアは語った。

「聖地を保護する団体の拠点が、これまた聖地の上に建てられたのは、自然な流れなんだろうね。どっちにしろ、近場みたいで安心した」

「すみません。何かと移動ばかりでは疲れますよね」

「んーん。のんびり時間に余裕を持って移動してるから、疲れるなんてことは全然無いよ。むしろ、此処に着いてからは君に比べて遥かに暇かな。ねー、兄さん」

 ああ、との返事があった。

 たったそれだけの声を聞くだけで、どうして心が掻き乱されたように感じるのだろう。唇の端を軽く噛んで、ミスリアは雑念を振り払った。

 ――出発は来週。

 明後日は典礼に出席し、それから聖地を訪れる。

 予定を伝え終えると、ミスリアは話を切り上げて部屋を出た。聖女レティカを伴い、大聖堂の方へと緩やかに歩を進める。

(カルロンギィ渓谷から此処までの道のりに関しては、何も訊かれなかったな)

 訊かれたとしてもどう答えたものかわからないのだから、それで良かった、はずだ。

 悶々と思考が絡まって足を止めると、ふいに行き先の変更を提案された。

「わたくしの部屋に行きませんか。よろしければ、心中をお話しくださいな」

 レティカから優しく声をかけられた。彼女の宝石のように美しい碧眼を見つめ返して、逡巡する。相談に乗ってもらえるなど願っても無い話である。

 旅の仲間とは別の、友人というものの有難さ。本当は、近くに居るだけで、わけもなく心強く感じていた。ミスリアは礼を言って承諾した。

 そうして二人は小さな個室に行き着いた。

 見習いから修道士までは共同寝室を利用するが、聖人以上となると個室を申請することができる。個室と言っても家具は最小限であり――窓ひとつに、ベッド、机、上開きのチェスト――修道院の独房と大差ないらしい。

 窓枠に置かれたポプリの小瓶から、ローズマリーの香りが漂っている。落ち着ける場所に入った反射か、小さなため息が唇の間から漏れた。

「どうぞ」

 机に付いている椅子を引き出して、レティカは座るように勧めてきた。ぎっ、と短い軋み音を立てて腰を下ろす。一方のレティカはベッドの方に腰を掛けたので、見下ろすような形になってしまった。低身長なミスリアは、どうも人を見下ろすのに慣れない。

 咳払いで気を取り直して、口火を切った。

「私の姉も聖女だったという話はしましたよね」

「ええ、聞きましたわ」

「実はこの前、ウフレ=ザンダという国に行ったのですが……」途中で言い渋る。あの辺りの旅の記憶を遡るのは、容易ではなかった。「すみません、順序を考えてもいいですか」

「構いませんわ」

「ありがとうございます」

 まずはカルロンギィ渓谷で見知ったことを話すことにした。そしてそこから生じた疑問点も。

 最初に巡った数か所の聖地は、次に向かうべき場所を視覚などに訴えかけて教えるという、直線的な情報をもたらしてくれた。

 しかし、カルロンギィ渓谷のあの岩壁からは違った。

「確かに導かれました。遠くから『話しかけてきた』どなたかが、私に言葉を授けて下さったのです」

 聖獣のものと思しき意思は、そこが次の巡礼地かどうかは教えては下さらなかった。その点が曖昧だったが、姉が命を賭して守った地に足を踏み入れたら、またしても声は接触してきた――。

 静聴していたレティカの面差しに、共感の色が広がった。やはり彼女も、聖獣に至るまでの聖地巡礼とはただ一直線にこなすものではないと理解しているようだった。

「本人が聖獣さまと同調しやすいかどうかが決め手みたいですわ。わたくしは貴女よりも同調しにくいようなので、聖地を七つ巡ってもまだ、かろうじて途切れ途切れに声が聴こえた程度です」

「教団はこのことは……」

「伝えませんわ。伝えられないのでしょう」

「……はい」

 隠蔽とは必ずしも、悪意と謀略を背景にしていない。聖獣と同調した果てに待つのが何なのか、教団が知らないはずが無いのだ。

 頭ではわかっていても、心の方はまだ、追い付かないのである。

「それ即ち『死』と同義。恐れをなして誰も旅に出なくなりますものね」

 ミスリアは目を伏せて頷いた。

 蓮の咲く池の傍でエザレイ・ロゥンと一緒に明け方を待った夜に、悟ってしまった。

「自ら答えを紐解き、それでも使命を果たす気持ちが萎まない者のみ、先へ進む資格があるのかもしれませんね」

「ええ。完全に同調できた果てには……至上の聖なる存在と語らい、ゆくゆくは教団を導く尊き大聖者になれる。などと、夢見ていた頃がわたくしにもありました」

 レティカの整った顔立ちに翳りが浮かんだ。白い手袋に覆われた細い指が、首から提げられた薄いナイフへと伸びる。す、と革の鞘をなぞる仕草が、哀愁を帯びている。

「わたくしは、一度は心が折れた者。二人の葬式の間、ずっと、ずっと考えていましたの。もう一度立ち上がるべきではないかと……けれどいくら悩んでも、この先新しい護衛を見つけて旅を続ける決意は、わたくしの中には見つけられませんでした」

 突如として彼女はナイフの鞘を握り締めた。手袋の絹と鞘の革が擦れ合う嫌な効果音が耳に響く。

 反射的にミスリアは身を乗り出し、己の掌をレティカの震える手に重ねた。

「その選択は……聖女レティカ、貴女だけのものです。どのような結論を出したところで誰も貴女を責められません」

「そう、そうですわね」

 レティカの手から力が抜けたのがわかって、こちらも手を放して椅子に腰を掛け直した。

「私だってどこかで切り離せたらなって思うんです。護衛が私たちと運命を――末路を、共にするのは――」

 いやです、と言い終わることはできなかった。

 途端に息苦しくなり、心臓辺りに右手の爪先を食い込ませた。

 ――嫌だ、嫌だ。耐えられない。置きざりにするのも――

「無理ですわね。魔物信仰を是とする輩が潜む以上、一人で旅をすることは、危険すぎますわ」

 レティカが諭すように柔らかく言う。

「でも切り離さないと、私は……」

 考えたくなのに、望まないのに、想像してしまう。

 別れの際にあの無表情の青年は、それこそどんな顔をするのか。いつも通りに動じないだろうか、それともずっと言えずに居た自分を軽蔑するだろうか。

『それがお前の願いなら、俺は手伝おう』

『お前の時間を少し貰えれば、それでいい』

 髪を引っ張られた時の痛みが鮮明に頭皮に蘇る。

(言わなきゃ。でもこのまま避け続けて、嫌われた方が正しいのかも)

 たとえそれが最善だとしても、どうしようもなく寂しい。既に何日も、まともに話していないのだ。

(せっかく心を開いてもらえたのに、今度は私の手でその戸を閉じなければならないなんて)

 嫌われるのは辛い。傷付けるのも辛い。傷付けることで自分が傷付くのも、泣き出しそうなほどに嫌だった。

「お辛いでしょう。せめて、かつて呆然自失としていたわたくしに貴女がそうしてくださったように、お力になれそうなことがあれば何でもお申しつけください。本当に、お話を聞くことしかできないかもしれませんけれど」

「いいえ、十分ですよ」

 心遣いが胸の内に染み渡る。

 レティカの優しさに甘えて、ミスリアはつっかえていたたくさんの想いを明かした。肝心な「先への不安」に関しては多くは語らなかったが、これまでの旅を声に出して振り返るだけで、いくらか気が軽くなる。

 果てには姉の話に至り――肩を震わせて大泣きをした自分をそっと包んだ温もりには、深く感謝した。

「わたくしは忘れませんわ、聖女ミスリア。貴女がどのように生きて、どのように戦ったか。わたくし自身、これからどうなろうと、絶対に忘れません」

「ありがとうございます。私も、絶対に忘れません」

 いつしか教皇猊下の仰られた通り、人と出会うことは、世界を広げることである。

 ――他人との縁は、人生の宝。

 レティカと固く抱き合いながら、ミスリアはその事実を噛みしめていた。


_______


 長い間、何故だか息をしていなかった。

 天井の中心を占める六角形の窓ガラスから差し込む力強い光が、瞼に「開け」と否応なく命令しているようで、ついでに意識を覚醒させてくれた。

 窓から入り込む光は、複雑な形の巨大な角柱プリズムを通り、虹の色を余すことなく壁に映し出している。それらに照らされし、壁に描かれた図形や模様もまた美しく、地に生きる物としてのあらゆるしがらみや苦しみを一時でも完全に忘れさせてくれた。

 太陽の角度から察するに、時刻はきっと正午だろう。

 聖女ミスリア・ノイラートが大聖堂の大理石の床の上で大胆にも仰向けに寝転がっていたのは、この地が大昔に聖獣と聖人が対話したという神聖な場所であるからだ。典礼に使われる聖堂の背後、敷地内の建物の並びで言うなれば中央の一点。

 ミスリアはまず、肺が機能を再開してから間もなく、指の関節を動かしてみた。次いで手首や足。

 衣越しに背中に触れる硬い床は、まるで血が通っているかのように微かに温かい。それは触れている内に移ってしまったミスリアの体温ではなく、太陽から授かった熱でもなく、聖気が集中しているがゆえの温かさであるのは、意識の奥深くから感じ取れた。

 次第にゆっくりと上体を起こす。

「旅立つ為に必要な知識は揃いましたか、聖女ミスリア」

 正装姿の教皇猊下が訊ねてきた。特徴的な大きな帽子の所為で、小柄な猊下がますます小さく見える。

「はい。道はちゃんと、頭に叩き込みました」

 我ながら覇気の無い声だ。

 必要なお導きは確かに得られた。

「予定通りに出発します」

「よろしい。どうかあなたがたに聖獣と神々のご加護がありますように、これからも長らく健やかに過ごせますように」

「ありがたき幸せにございます」

 猊下が差し伸べてきた手を取り、立ち上がる。シーダーの香りが鼻孔を掠めた。

 穏やかな碧眼からは何の裏も感じられなかった。けれどミスリアには、たった今いただいたばかりの言辞をどう受け取ればいいのかわからなくなっていた。

 得られたのは、安眠の地へのお導きだけではなかったからだ。


 ――聖なる資質を秘めたものよ、そう怯えるな。

 ――我はどのようにして活動しうるのか。なんじら人間どもは、仕組みを理解していない。

 ――希望と絶望はそれほど違うか?

 ――穢れし愚か者を携えた聖女。汝が鍵となろう。


 ――さあ、疾く我が元へ来るがいい。永き眠りから、我をヒトの蔓延る大地へと蘇らせてみせよ――!

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