第一章 起動
雨が降っている。裄夜が中条の母屋で宿題を進めていると、玄関先が賑やかになった。
「ただいま!」
日向が、先日拾われた黒犬の、散歩から戻ったのだ。
下校後、一度ここに立ち寄っているので、制服でなく私服になっている。
「さっき、浩太さんから連絡があったよ」
「ふうん?」
玄関で、出がけに準備しておいたタオルを使って犬を拭き、明良に預けた日向が、室内に顔を出す。
「何の用事なの?」
「千明カレンが見つかったかも、って」
「カレンちゃんが?」
裄夜は先ほどの会話を思い返す。浩太は相変わらずの高速回転で、自分の要件だけを一方的に話していった。
「最近カレンちゃんを見かけなくなっていたから探してたんだけど、本体の場所が分かったから行ってほしいんだよね」
「ものすごいいきなり言いましたね」
「他のものを探してるときにたまたまなんだけどね、まぁ公権力の関係で分かることってあるじゃない? 名前で検索したら分かる魔法の箱があるんだよね、」
「どうやって探したのか聞いてるんじゃないんですけど」
「住所言うからメモして行ってねとりあえずまだ大まかな最寄り駅しか教えてもらえてなくてさ、詳しい住所は後で追加連絡するから。すぐ」
「本当にすぐですか?」
「すぐすぐだから、迎えに行ってあげてよ。たぶん自分では来られないみたいだから」
当てにならなさそうだが、浩太はやけに急かしてくる。
「何で本人が来られないのか、浩太さんは、知ってるんですね?」
「あぁうんその辺りもねまた後でね、ちょっとここ騒がしくて落ち着いて話せなくてほんとごめんなんだけど」
「何で浩太さんが行かないんですか?」
「俺ねぇ他の件で体があかなくてほんと徹夜が体に響くんだけど俺何で三人くらいいないの? 裄夜くんなんてキセと二人じゃん」
矛先が怪しくなってきた。裄夜は適当に相づちを打って、必要な情報を書き留める。それから、面白そうな顔をして事態を見守っていたたすくに、「ちょっと出かけてきます。急ぎみたいだけど、中津川さんを待って、支度して、明日にでも」と話しかけた。
「うん。頑張って」
たすくからは、簡素な返答がある。そのまま会話は終わりかと思ったが、たすくは明良を呼び、いくつか指示をして、また裄夜に向き直った。
「見つけてもらえるなら、それは助かる。まだ知りたいこともいろいろあるし。冷羽と名乗ってこの体を乗っ取ってきていた現象も、急に激減して、こちらではもう本人に問いただすこともできないから。人ではないと思っていたから、人としての拠点が別に存在しているとは、あまり思わなかったし」
そんなものかと思いつつ、ぼんやりとこれまでのカレンの様子を思い返した。明るく、テンションの高い少女、のように見えたのだが。考えていても何も進まないので、とりあえず今のうちにと、勉学に励んでいると、日向が帰ってきた。
経緯を話すと、日向が顔をしかめた。
「えっ今から行くの?」
「明日の朝、すぐ出発しようかと思って。ちょうど休日だし、学校を休まなくても済む。中津川さんも来るよね?」
「ううーん? 何持って行ったらいいの? カレンちゃんに何かお土産とか」
「いや要らないと思うけど」
「だって、つまりカレンちゃんって、本人の……ちゃんとした本人に、私たち、会ってないんじゃない? シズクとかキセみたいに、私たちが知ってるカレンちゃんと、本人は、別で……」
「そこまで悩まなくてもいいとは思うけど」
問題があるなら、キセかシズクが止めるはずだ、と裄夜は思っている。たいした問題でもなければ何もしてはくれないが。
「それで、どこに行くの?」
「浩太さんは、紫陽花観光のつもりで行ってきたらって、言ってたけど」
「紫陽花?」
日向の視線が庭へ向く。庭の紫陽花は、大粒の雨に葉を打たれて、ゆらゆらと揺れていた。
「紫陽花で有名なところ?」
ただいま戻りました、と、明良の声が玄関先で響いた。さっき日向から黒犬を受け取り、家の裏手に繋いできたはずなのに、なぜかスーツのジャケットを羽織り、片手には紙袋を提げている。
「こちらを、念のためにと。たすく様からの指示です」
菓子折だ。小さくてそれほどかさばらない。
「それと、移動用に、チケット類を入手してきました」
「明良さん早くないですか?」
「電子チケットもありますが、まぁこういうものはいっそのこと駅で直接話した方が早いこともありますので」
どこからともなく、他の者が現れて、何か必要なものがありましたらすぐ用意しますからねと言って、旅行に使えそうな鞄類を置いていった。
明良がチケットと薄い観光パンフレットを裄夜と日向にそれぞれ持たせる。
「宿の手配もいたしますが、これは現地に着かれてからご連絡をいただけたら助かります。詳細な場所と、必要な時間が分かりませんと、不便な宿にしてしまうかもしれませんし」
「でも、日帰りできそうなんですけど」
「日帰りじゃないの?」
「日帰りできるとは、限らないのでは?」
日向と裄夜の思いに、たすくが疑義を呈する。
「千明カレンの、本体の場所と、本上のは言った。本人ではなくて。そして、自分では来られないと」
不穏な物言いに、日向と裄夜がぎこちなく固まる。
「これまでのことを思えば、とても、何も起きないとは言えないし、起きてくれなければ行く意味もない。何が起きているか、知りたいと言ったのは君たちでもあるから。まぁ、何事もなければ、観光を楽しんでくればいい」
全く心の休まらないフォローではあった。
※
「悪かったとは、言わないから」
いきなりそんなことを言い出されて、大野まゆらは手を止めた。病院のベッドはやたらと白くて、最初のうちは目が慣れなかった。しばらく使ううちにシーツや寝間着の感触は、身になじむ。白さだけは、慣れない。
病室に踏み込んだ女子高生が、コンビニ菓子の入った袋を放り投げた。
袋はうまくベッドの端に着地する。
「どうしたの、これ」
「何もなしに話すのも、アレだろ」
話しにくいから、さっき買い出しに出かけたのだろうか。
「話って、何? 悪かったって言わないって、何。何か、あったの?」
「あったも何も。あっただろうが!」
ベッドサイドに置かれたイスは、簡易的なものだ。少し身じろぐだけでも音が鳴る。今は、女子高生が一人、座っていた。がたがたと激しく鳴らす。
病室は六人部屋だが、たまたま、まゆら以外の人は退院して去ったばかりで不在だった。迷惑をかける一般人はいない。いないが、まゆらは、ちゃんと話したいから、
「各務さん?」
呼びかけると、相手は舌打ちした。
「いろいろ! あるだろうがよ!」
各務瑠璃子は吐き捨てる。反抗的な態度を隠さないまま、制服の裾をからげて足を組んで座り直した。相変わらず体は傷だらけだが、かさぶたが増えて、新しい傷は減ってきたように見える。
「まず、お前の親父。半殺しにしただろ」
「死んでないし、大怪我もしてないけど」
そもそも、まゆらの父は、何か得体の知れないものに取り憑かれて山中で大暴れしたのだ。ぼろぼろにはなっていたが、まゆらと違い、安静措置はすぐに終わって、院内をそこそこ自由に闊歩している。
「だから! こっちのせいで巻き込んで悪かったっつって」
「巻き込んだ?」
「そう」
瑠璃子は、謝るのも気持ち悪いとばかりに顔をそむける。まゆらは息を吸い込んだ。
「そんなこと考えてたの?」
「出会わなかったら、あそこまで壊れなかったんじゃねーの」
「巻き込んだのは……貴方を巻き込んだのは、私の方なんじゃないかって、思うけど」
「はあ?」
「さっきね、各務さんが出かけてた間に、すごく早口な、よく喋る警察の人が来ていたんだけど」
「は?」
あの口先三寸男か、ちょっと一発殴ってくるか、と、瑠璃子が息巻く。どうやら、まゆらより先に話をしたことがあるようだ。
「殴らなくてもいいよ。今は、パパと話してる」
「それで待合の廊下がうるっせえのか」
まゆらは、手元に視線を戻す。薄い、学生用の紙のノートには、黒鉛で、思い出したことなどが書き留められている。
父と行った場所、話したこと、水を飲んだときのこと……。
「何があって、各務さんが私と一緒に行動してくれたのか、まだよく分からないけど、家出中も心強かったし、嬉しかったよ。ありがとう」
「あ?」
お礼を言われている感じの対応はされなかった。剣呑に威嚇される。そうかもしれない、と、まゆらは思う。この人、わりとずっと威嚇している。いろんなものに。
「雨とかに、濡れないように気をつけてるんだよね?」
「何、それ」
瑠璃子がますます顔をしかめる。
「警察の人が言ってたんだけど、私が触れると、ときどき、水が湧くんだって」
「へえ」
「特に、何か強い情念が込められたものに触れると、変若水の、効果の強い水が湧くって」
「それで?」
「……以前見た絵、私、触っちゃったことがあって。鯉とかが、跳ねて逃げたらしいの」
「へえ」
「絵を描いた画家って、何人かいたみたい。でも、一番問題になったのが、御陵和馬っていう画家の絵。触ってないものまでだんだん変なことが起きたんだって。絵の鯉が動いて逃げたとか、描いてあった野菜が転がって消えるとか、ありえないでしょ? だから、画廊では、汚損したことになってて。警察の人は、そのくらいなら買い取ってもいいって言ったけど、」
検索したら、一枚でも、とても一介の女子高生には払えない額のようだった。
「今、お父さんも、半分見張られてるし、財産も家もおさえられてるし、そんな額、自分で払えない。賠償できない。でも、代わりに払ってもらうのなんて、気持ち悪いよ。それで、何か裏があるんですよねって聞いたら、詳しいことが知りたいって言われたの」
何が起きたのか。その、説明を。
「頭もぐちゃぐちゃして、よく分からないんだけど、パパは、取り憑かれたみたいに暴れてたのが、嘘みたいにすっきりして、何か、すごく普通っていうか。なんだけど、私だけ、まだ、よく分からないものから抜け出せなくて。これが何とかなるなら、いいかなって思って、経緯を書いてるんだ」
「こっちだって同じようなもんだけどな。意味分かんないもんはいっぱいあるし」
まゆらは、顔をあげる。病室の戸口に立った人物に、声を投げた。
「ねぇ、私の力って、まだあるんですよね?」
「うっわ出たクソが。いつからそこにいた?」
瑠璃子の呟きに構わず、男が頷く。まゆらが、よく喋る警察の人、と呼んだ相手だ。
「こんにちは、二人とも元気そうで何より」
「さっき会ったけど」
「さっき見かけただろ」
女子高生二人の声が揃ったので、男は少し笑った。
「仲がいいねえ」
「よくねえよ!」
「さて、君たちが知りたいことはいくつかあるんじゃないかな? 俺が知りたいこともあるんだけどまぁそれは置いといて。水のことだけど、ほとんどが先日の、大野大元に取り憑いていた何かが離れたときに消えたと思っていたんだけれどね、まだ、少しある。おそらく、君は一番最初に水を飲んだんだろう。汲めども尽きぬ湧き水といっても、力の大小や波はあるのかもしれないし、野の鳥獣が十分先に飲んでるんだろうから、最初っていうのが肝心かどうかは分からないけれど。ともかく、そのままにはしておけない。おけないので、一応保護します」
「保護」
「君のお父さんには話をしてある。保護と言っても、別に家を用意したりも何にもしない。ただの身元引受人。何か起きたら、菅浩太が連絡先になります」
それだけ、と男は軽く言ってのける。何日か寝ていないのか、よく見れば、くたびれたスーツだが、声はそこまで疲れていない。
「それで各務瑠璃子なんだけど」
「呼び捨てうっざ」
「瑠璃子ちゃんって呼ぶ?」
「きっもち悪ィ」
「君はときどき雨の日も行動してるし、濡れることもあったろうけれど、よくよく見ると、完全にずぶ濡れって感じでもなかった。雨が避けてるっていうか。それは、君がもうこの世に肉体がなくて、その体は、紙と墨でできているから?」
瑠璃子が息を止める。二秒、視線がまゆらの指先に触れた。
「……そうだろうな。誰がやったとかクソ細けえことは知らない」
「起動には、水は使われていると思う?」
「知らないなァこっちより札師に聞けば?」
「連絡先は?」
「知るか。あんなのと組まされてクソ迷惑」
「そうなんだーへー。まぁ札師の居場所は見当がつくから置いといて次」
「つくのかよ」
「描いた絵描きについて俺は心当たりがあるんだけど行ってくる気ある?」
「はあ? 何でだよ!」
「君のさぁその元気の良さは買うけど、そのまま暮らすわけにもいかないでしょやっぱりね。大野大元は各務瑠璃子を養子にしてもいいと考えてるみたいなんだけど」
「はあ? 頭わいてんのかよ」
「贖罪のつもりかなって俺は思うけどね」
たとえば、巻き込んだ娘への。その他の人への。迷った子どもを、宗教としての力を失った後でさえ、放り出せないでいる、自分自身への贖罪としての。
「ばっかみてぇ」
「そう。馬鹿みたいだと君が言うとしても、だよ。君は最近なぜだか知らないけれども英語とか勉強しちゃってるみたいでしょう?」
どこで見た、と瑠璃子は鳥肌を立ててイスを揺らす。
「大野まゆらと、友人として、人として、社会生活を営みたいのなら、問題が山積みな気がしない? するよね? 君は何人か殺したり殺しかけたりしたんじゃなかったかな、あぁ睨まなくてもいいよ別に。君は人ではないし、人の範囲の償い方はもうしなくても構わない。でも、君にはまだ、後ろめたさがあるよね」
「クソ野郎」
「前よりも罵倒の範囲が狭くなったよね、いいことなのかな」
苛立ちで、瑠璃子が足を踏みならす。
「あぁ! 腹立つ! 蹴り飛ばしてその辺のゴミ箱に突っ込んでやりたい!」
「君を紙切れ一枚から人に変え、札師と組ませて動かした誰かさんは、大野まゆらの力を、そのままにすると思う?」
「はぁ?」
「各務さん、私、その、大丈夫だから、あの」
まゆらがどう声を掛けたものか迷っていると、
「腹立つ!」
ひときわ高く叫んだ瑠璃子が、立ち上がって、戸口の男に詰め寄った。
「何をさせようってんだ?」
「たいしたことじゃないよ、君の紙と墨の元になった人に会って、どうやって作ったか聞いてくればいい。長持ちさせる方法も聞いたらいいよ」
男は詰め寄られても微動だにせず、機嫌良く瑠璃子にそう告げた。
「……それだけ?」
「他にも頼むかもしれないけど、今のところはね」
「裏切ってぶっ刺してやる」
「君はしないよ」
「腹立つ!」
まゆらは、ペンを握りしめる。
この警察の人は、まゆらと瑠璃子の会話を、本当に知っているのだろう。英語をもう少し勉強したいとか、翻訳をしてみたいとか、たわいもない、女子高生の会話。
瑠璃子が、人ではなくて、もう、人としての生活なんてなくて、自暴自棄であんなに人を怒鳴って、それでも、何かを、望んだところを。
「私も、何か手伝います」
宣言したまゆらに、男が苦笑いした。
「君にはもう頼んであるから他のことは今のところいいよ」
「手伝います。だから、各務さんや私が、ちゃんと、普通に、暮らしていけるように……保証とか、手助けとか、ちゃんとしてくれませんか」
「……怪異を引き起こしまくったわりには強気だね」
まゆらも思う。もっと、いろんな人に、責められるべきなのかもしれない。でも、まゆらも父も、寄りすがるひとを助けようとしただけだ。
善悪も是非もなく。ただ。
「心配しなくても、何か起きたら後ろ盾くらいにはなるから。でも、あんまり変なことに首を突っ込まない方がいいよ。君たちいずれ普通の女子高生をやるんでしょ」
男が呆れたふうに吐いて、連絡先だけ交換して去って行った。
病室が、静まりかえる。
がさ、と、コンビニで買った荷物が自己主張した。
瑠璃子が、珍しく呆然とした顔でまゆらを見やった。
「おい、あいつ、絵描きのとこへ行けっつったわりに、住所とか何にも言わなかった」
「うん」
「頭おかしいんじゃねぇか」
「うん」
瑠璃子の呟きに、まゆらもそれしか返せない。
「うん……連絡先に、連絡してみるしかなさそう」
「めんどくせ」
呟いたけれど、きっと瑠璃子は行くのだろう。
「一緒に、行こうね」
まゆらの言葉に、瑠璃子は鼻で笑った。
「安静にしてなきゃならない奴なんか、足手まといだろ」
窓に雨が打ち付ける。瑠璃子がコンビニ袋を引き寄せて、まゆらに、好きなものを選ばせた。
※
ヒトがばらばらになって落ちている、というのも、難儀なことだ。
小雨とはいえ梅雨時期のせいで、空気はすっかり重たく湿っている。着ているシャツも、数日の泊まり込みの影響を免れず、ずいぶんくたくたになっていた。そろそろ、署に戻る前にでも銭湯に寄りたい。
現実逃避している間に、検視が終わったようだ。
駅ではたびたび魔が差して人がホームに落ちたり落とされたりする。そう珍しくもないが、あまり慣れたくもない。
今回の被害者は、ひいた運転士のほうだろうが、ひかれたほうは、自分たちが追いかけていた事件の犯人とおぼしき人間だった。だからわざわざ来たわけだが。
「ん?」
ホームにしゃがみ込んだ茶髪の男が、すいすいと、地面を人差し指でなぞっている。
客は排除されているから、関係者のはずだ。
白衣みたいに裾のある上着を、こんな梅雨時分にまとっていて、かなり怪しい。
(こんなやつ、いたか?)
見たことのない顔だ。
「あぁどうもどうも! お邪魔してますわたくし応援で呼ばれて参りました菅浩太と申します以後お見知りおきを」
異様に早くて軽快な喋り方だ。さっと立ち上がり、握手を求めるように手を差し出す。
薄気味悪い心地がして一瞬だけ片手を触れさせた。
「あぁすみませんつい。俺も一応は帰国子女の一種なのでときどきついフレンドリーに過ぎることがあるんですよね」
帰国子女かどうかと、それは、関係あるのだろうか。
「で、あんたはいったいどこの応援だ? この辺りじゃ見かけないが」
「あぁ他県です他県。ちょっと気になるものがあったら呼び出されるようにできてるんです」
「できてる?」
「本間さん」
と、自分の部下が後ろから袖を引いてきた。
「その人アレですよ、アレ。今朝の会議で一瞬だけ名前出てたの」
「は? 知らないぞ」
「人間じゃない何かとかの疑いがあるときに呼んでくるんだって」
「人間じゃない?」
よほどの凶悪犯がらみの件だろうか?
怪訝な顔をすると、部下は億劫そうに離れていった。
菅と名乗った男は、至近距離でそれを聞いていたが、変わらず薄笑いを浮かべている。そうして、
「数日で祓えるように時間差で仕掛けておきました。一気に祓うと相手にバレてしまうので」
「はらう?」
「追跡を、したいのは、刑事事件の側だけではないので。こちらの事情も優先させていただきました。数日は、ホームへの引き込みが発生するかもしれない。続けて起きすぎないように調整はしましたが」
「何の」
何の話をしているんだ?
ぞわりとする。
「まぁ一般の人にはそれほど関係のないことなのでお気になさらず。ご遺体は他の人たちで回収済みです」
振り返れば、確かに、現場は清められている。
菅が気楽そうに他の署員に話しかけた。今後の段取りは追って青木から連絡する等。あぁ、と思う。検視については、青木ならば問題ないだろう。腕は間違いない。
なぜか、知っている人が身元を保証してくれたような気がして、それもまずいなと本間は苦笑した。油断は避けるべきだった。できるだけ、疑えるものは疑っておかないと、何が起こるか分からないのだから。
「あ?」
ふと、目の前を、桜の花びらみたいなものが飛んでいった。気づけば、肩や手にも張り付いている。
「何だこれ?」
白くて、反対側が透けて見える。年輪のような模様がある。まるで、
「魚の鱗みたいだな?」
「おやおや」
呟きに対して、近くで相づちを打たれた。菅だ。
「本当ですねこの辺に魚屋さんでもあるんですかね」
「んなわきゃないだろうが」
あったとしても、こんなふうにばらばらと、店先から鱗が乾いて飛び散っていくことはないだろう。
菅が目を細める。
「これはまた、大きな鱗だ。人魚でも落ちてるのかな」
「は?」
昔のテレビの怪奇特集を念頭に置いて、本間は顔をしかめた。
「見世物小屋でもあるってか?」
「そういうことじゃあないんですけど」
そう、なのかな、と、若干の迷いを見せた菅は、先程と打って変わって、幼くさえ見える。まだ本間と比べると、随分と若いようだ。けれどその揺らぎもすぐに拭われる。
「大丈夫ですよ、本間さん」
菅が力強く断言する。
「そのうち何とかなりますって」
「何がだよ」
「お宅の娘さんが人魚を見たとか言ってても、そんなものはたいてい思春期の迷いですから」
「おい、何で」
何で知ってる。どうせゲームの話だと思って、あまり聞いていなかったが、娘は確かにそんなことを言っていた。
「この辺の川は昔は人魚のいいつたえもあったみたいですけど、実際にはカワウソであったりサンショウウオであったり、道に迷ったあざらしやアシカであったらしいので。だから、何かと見間違えているんですよ」
「ゲームの話じゃなくて、実際に、何か見たっていうのか?」
「そのうち、目撃情報も減っていきます」
なぜか、菅が断言を続ける。
本間の掌に、鱗みたいな、花びらみたいなものがまたくっつく。ひらひら。
かすかな生臭さを感じて、本間は、早く家に帰りたい気分になった。
※
描くことは、鎮魂だった。墨を磨り、ときには色墨を手に入れて、絵具を支度する。
わずかな水を加えながら、練り上げられた固形の墨を、再びばらばらのものに変えていく。自分自身まで粉々の粒子になった心地がする。
妻が寝起きする物音がした。屋敷は広く、十数部屋以上を主にはふすまで仕切って生活しているが、住まいしているのは妻と自分だけで、使用人すら置かなかった。庭の手入れは定期的に、外注した庭師に任せている。日本庭園は手入れを怠るとあっという間にぼさぼさになる。
先日、訪ねてきた者があった。峠は親類で、けれど物の考え方が違うから、ほとんど会話したいとも思ったことがない。いつの頃からか、外法を好んで拾い集めるようなところがあった。
峠には関わりたくはない。絵ばかり書いていた自分に対して、呪術に使うための絵、図画、呪符を求められたので、御陵(みささぎ)は断った。
鎮魂のための絵なのに、どうしてその絵を、他のものを殺めるための術に使用させられるだろうか。
するするとふすまが開く。白い手が、端に添えられている。
妻に振り向いて、御陵は笑った。
「もうそんな時間か。休憩にしよう」
妻が頷く。出会った当初よりは背が低くなったが、御陵より少し大きい。人の形を保っていた頃よりは随分と。
白い塊は、ぬるり、ぬるりと廊下を進む。背を追いかけているうち、妻の姿がことりと消えた。状態が不安定のようだ。
御陵は少しうなだれて、しんと静まった台所で湯を沸かした。
世界には、まるでやかんと自分の二人きりのようで、絵によって鎮魂されているのはむしろ自分であったようで、浅ましさに嫌気がさした。
呼び鈴が鳴る。また峠だろうか。
空気がざわつくのを、御陵は、大丈夫だよとなだめる。いつでも、夫に害のないようにと心を砕く妻は、姿が見えなくても気配だけは漂わせている。
「おや?」
インターホン越しに外を見やると、見知らぬ何かが立っていた。画商でもなく、訪問販売でもない。
言うなればそれは、人間だった。まだ若い、女子高生みたいなもの。
モデルを頼んでいた訳でもないが。
御陵は、ファンが押しかけてくるような画家でもない。ただ静かに、各地の医師などの好事家が絵を買って、その代価で暮らしている。鎮魂であるのにそのようにしているのは、御陵にも業腹ではある。あまり口数の多くない画商に乗せられて、気がついたらこうなっていた。
しかしそれにしても。
「……どちら様ですか」
居留守を使おうと思った気持ちが、好奇心に勝てなかった。
女子高生のように見えるその娘は、制服の上の首がなかった。手足も見えない。これがインターホンなどを通さなければ見えるのだろうかと、思ってしまった。
女子高生とおぼしき者は、舌打ちした。名乗るほどの名も持ってない、と彼女は言った。たぶんあんたの描いたどれかじゃないのか、と責める響きで続けて言った。
御陵は、鳥獣や魚、植物を描いて、人もたまに描く。その絵の中に、果たして首のない幽霊画があっただろうか。
(いや、そもそも)
自分の描く絵に、力はあると言われたことはある。峠からも。画商からも。けれど、それを、起動する術は、別のものだ。術をかけなければ絵は動かない。
描いた絵が動くなど、そんなことは……誰かが、仕組まなければ起きはしない。
門扉のロックを外して、御陵は、彼女を招き入れることにした。
妻の気配は凪いでいる。だからきっと、悪いことにはならないだろう。
※
もう、随分になる。
子どもは細い枝の上で、両足をたらして、辺りを見ている。
穏やかに連なる山々、朝と夕におりてくる霧、けれどこの松の周りは少しだけ開けていて、赤土めいた荒れ地が、広がっているばかりだった。
足下を見る。普段は人も通らぬ場所だというのに、今日は珍しく、何者かがやってきていた。
ひょろりとした頼りない赤松の木の下で、誰かが何事か呟いている。
何だろうと首を傾げているうち、それは土を掘り返しはじめた。おぞましくて触れることも出来ないような、血の黒ずんだ、においが、した。
気持ちが悪くて、子どもは軽く身震いする。幸い、相手にはこちらの姿など見えていないようだ。小鳥が木にとまっていても気づかぬ者もあるので、そんなものかもしれない。ざくざくと相手は土を掘り返し、やがて、目当てのものが見つかったのだろう、手で細心の注意を払い、それを持ち出す。
「見つけた」
ぞわりと総毛立つような、暗い喜びを秘めた声だった。取り出したものの表面を、泥だらけの指で、丁寧に拭う。泥と小石で奇妙な音が鳴った。
黒塗りの箱は緋色の帯で封をされていたが、長年土に埋められていたわりに、異様なまでに美しかった。漆は傷みはげて帯は腐り落ちていように、まるで、いましがた埋めたばかりのよう。
子どもが見ている前で、男は箱に頬ずりでもしかねないふうだったが、やがて、箱を持って、行ってしまった。
「……」
風が吹いている。
子どもは、木に登っている理由がなくなったので、下りてもいいことに気がついた。
あの、気味の悪い箱が埋められたせいで、木から下りられなくなったのだから。
箱がなければ、どこへなりとも行けるのだ。
よかったあ。
これでもう、早く迎えに来てと、願う必要はなくなった。
あとは、迎えの者を、迎えに行けばいいのだ。
「待っていてね」
くすくすと笑って、子どもはゆっくりと地面を目指した。
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