第二章 かみのいえい

第二章 かみのいえい

   *

「ちょっと前まで、里見孝(さとみこう)くんはかわいいとかやさしいとかで、女の子には結構人気があったんだって」

 ときは少しさかのぼる。

 少女に呼び出された「ゆきや」氏は、少し緊張して頷いた。

 探偵を気取って広げたノートは、予想に反して白紙である。

 中津川日向(なかつがわひなた)は二年の襟章をあいたほうの手でいじりながら、「あに」に状況を報告した。

「でも、ある女の子が里見くんに告白したとき、里見くんはその子のことをよく知らなくて、断ったの。そのとき彼女が……すごく可愛い子でね、ぜったい落ちない男はいないとかいう子らしくって、プライド高かったみたいなんだけど、彼のこと派手に罵倒したらしいのね」

 頷きながら、水瀬裄夜は周囲を気にする。

 人通りの少ない、生物教室などがある棟への渡り廊下で話しているが、さきほど日向が呼び出しをかけて以来、少女たちの好奇の視線などがちらちらと向けられて居心地が悪い。

 参ったな。

 裄夜は少し立ち位置をずらし、なんとなく重心を変えてみた。

 目立ちたくないんだけど。あんまり。

「……で。ねぇ、裄夜、聞いてる?」

「えッ、あ、うん、もちろん」

 そう? と首を傾げ、日向は調査報告を続行する。どうやら喋りたくて仕方がないらしい。

「言っちゃったの」

「は?」

「里見くん、『そんなにいうんなら、君の方こそいなくなっちゃえばいいだろ』って言っちゃったんだって」

 そうしたら。

 少女はまるで神隠しにあったかのように、その日の晩を境に、その姿を消したらしい。

「直後じゃない、ってことは、彼の所為じゃない可能性もあるんじゃないの?」

「うん、屋上で告白してケンカしたらしいんだけど、彼女の友達とかが階段とかに群がって聞き耳立ててたらしいのよね。んでそのあと降りてきた彼女は、いつもの彼女らしくなくて、すごく憔悴してたって」

 彼女はフラレたショックで、なのか、精神的にくるものがあって、自発的に姿を消した、という線もある。そして、里見孝が、その日のうちに、ケンカの原因に由来して、始末をつけてしまったとも考えられる。

「……彼女、何て言ったの?」

「もーっ、やっぱり聞いてなかったんじゃないの」

 ごめん、と素直に謝る裄夜にむくれながらも、日向は自分の腕時計を確かめ、急ぎ足になって言う。

「『あんたの家、両親が殺し合って、お兄さんが肩を刺され、あんたも腹を刺されたそうね。なんでそのとき死んでおかなかったのよ。あんたが殺したんじゃないの? とどめを刺したのはあんたじゃないの? だって最後にナイフを持ってたのは、あんただったって言うじゃないの』……だって」

「それって」

 チャイムが鳴る。

 一足先に駆け出した日向は、もう振り返らない。

「それってどういうことだよ」

 一拍置き、裄夜は我に返る。

 教室に、教師がいままさに踏み込まんとしていたところだった。

   *

「かわいそうな子」

 闇の中で歌う声。

 少女にも見える、幼さの残る少年はうつむく。肩に手をかけ、なにものかが密やかに歌う。なぜだろう、その輪郭は見えるのに、凹凸も分かるのに、その唇の赤さもこの目に焼き付いて離れないというのに、目をそらせば記憶には残らない。細部がない。

 茅ヶ崎(ちがさき)アユムの肩は震えていた。

 罪には罰が必要だった。

 彼はもうずっとこうしてクローゼットに隠れて待っていた。

 誰が何のためにするのか、疑念も抱かず、高校三年生という年齢にも関わらず、ある種妄信的にそれを信じてはばからなかった。

 身長は女子平均よりやや低い。そんな彼だからこそ、マンションの一室に据え付けられたこの場所に潜んでいることができたのだ。

 ばらばらになった少女のことを、彼はまだはっきりと覚えている。

 いや、むしろ、時がたつほどに記憶の色は鮮明になった。

 茅ヶ崎アユムと里見孝は、そもそも友達同士だった。ただ学校などで一緒にいる時間が長かっただけ、ということもできるが、ともかく、よく近くにいたことは確かだ。


 ある日放課後に、教室で、札を見つけた。

 赤地に黒の墨痕が生々しかった。

 女の子がよくやる、おまじないのたぐいだろうか。

 それにしては後味の悪くなるような、恨みがましいアトだった。

 ふざけていた彼らが、数人であやまって倒した机から、札と位牌が落ちてきたから、それはいっそう無気味だった。

 しかも位牌は二つにわれて、床にその身をさらしていた。なにより彼らを恐れさせたのは、その机から転がり落ちたその位牌が、その席に座る人物自身のものだったことだ。

 全員が、口々に言い合って、騒いで、やがて逃げ出した。

 翌日、ひとりの少女が自殺する。

 名を各務瑠璃子(かがみるりこ)。

 前日、彼らが倒した机のぬしだった。

 自傷癖があり、よく身体中に怪我をしていたこともあったが、自殺は事故だなどと疑われることもなく、ただ静かに葬儀が執り行われた。

 しかし、彼らにとっては、ただのクラスメイトがただ死んだという、それだけの意味ではなかった。

 彼女は、孝とアユムたちが登校してきて、校舎に近づいたとき、まるではかったような正確さで、目の前に落ちてきたのだ。

 あのとき、倒した机の前で、あんな女なんかしんじまえばいいんだよ、と誰かが言って、アユムがよせというのに位牌を窓の外に捨てた。

 それと同じようにして砕け散った瑠璃子の死体。それは、


 あんなふうに赤かっただろうか。


 身震いする。

 でも、あんなことをしたのは、アユムでもなければ忌々しい里見孝でもあり得なかった。

 そう。

 肝心なことはただひとつ。

 僕じゃない。

「……僕じゃ、ない……ッ」

 声を出したら見つかっちゃうわ。

 耳元で女はささやく。

 女。

 ――女?

「っあ、う……っ」

 獣じみたうめき声しか出てこない。

 当たり前だ、女はありったけの力を込めて、アユムの首を絞めていた。

 先程から何の疑念も抱いていなかったのだが、アユムは女が居ることにここで初めて気が付いた。いつの間に、と思う暇もない。

「ひっ、あ」

 いやだ、いやだこんなことは、だって本当は、僕だって反対したんだ、こんな、


 どこかで、ぼきり、と鈍い音がしたのを、アユムは他人事のようにその耳で聞いていた。


   *


 線路は、まるでどこまでも続いているかのようだった。

 かぁんかぁんかぁんかぁん

「ゆーきやー」

 遮断機の下りた向こうで、日向が懸命に手を振っている。

「さき、かえっちゃうねー」

 うらぎりもの、とぼそりと呟き、裄夜はブレザーのポケットに片手をつっこむ。

 指定鞄と買い物袋を一緒にさげて、裄夜は高校生らしくもない特売のティッシュペーパーのボックスを抱えた少女を見送った。

 重いけどね、そりゃじゃまくさいけどね、荷物。

 なんとなく、周囲の視線を感じた裄夜は、いたたまれなくて口の端を下げる。

 同じアパートに帰り、材料も余る一人分の食事を作るのが面倒で、夕食はたいてい一緒にとるようにしている。ときおりカレンや明良の部下が訪ねてくるが、基本的には他に知り合いはない。

 安普請の建物だ。足下が軽い音を立てる。裄夜は買い物袋をいったん床に置き、ポケットから鍵を取り出す。

「中津川さん、これ、こっちの冷蔵庫にいれとくよ」

 声を投げると、向かいの部屋から、うわうわ、うぎゃー、と悲鳴が起こる。

 一瞬肩をあげ、激しい物音に目を閉じた裄夜は、悲鳴とあとに残る無気味なまでの沈黙に再びそっと目を開けた。

「なかつがわさん」

「な、なによー……あっ、あたたたたた」

 いつまでも名字で呼び続ける裄夜に半ば呆れ、日向は室内で体を起こした。超人的な反射能力は、ごくまれにしか現れては来ない。台所の、水場の上にある戸をあけて鍋を出そうとした日向は、身長が足りないぶん椅子をもってきて補った際、安定が悪かったため派手に転んだ。

 したたか腰を打ち付けて、うめいて痛みを散らそうとする。

 廊下で、ため息をつく気配。

 うう、悪かったわね、間抜けで、と腹の奥で呟いて、日向はごろごろと床を転がる。

「ねぇなんであたしたちこんなことしてなきゃならないの」

 些細なことで、ふと気づく。

 なぜ家に帰れないのか。

 なぜ。

 分かっている。

 人がしぬ、ということは、そこを占めていたはずの空間が、もう二度と同じには埋まらないということだ。しかし日向は違う。あいた隙間にさえ気づかず、世界は日向のいた空間などまるでなかったもののように暮らす。

 帰れない。

 あったはずの、隙間がない。

「負けない、って決めたじゃない」

 ぱん、と音を立てて頬をたたき、日向は思い切って立ち上がる。

「ぜんぶ知るには、動かなきゃ」

   *


 日が昇り、いつもと同様、立ちあがらなければならない。

 だるくて思うようにはならない体をどうにか起こし、孝は重いため息をつく。

 ベッドから降りる、それだけのことが、ひどく億劫に思われた。

 なんだか大仕事をした気分で着替えをすませ、部屋を出ようとして。


 耳に、音を拾う。


 窓の外を眺めると、比喩ではなく灰色の世界に、糸を引いて雨が降っていた。

 親の残した一軒家を維持するのは容易ではなかったが、兄は仮住まいを選ばなかった。二階建ての狭い家屋だが、それなりに庭がある。

 ぱたた、と庭木をはたくように、雨が朝から降っていた。

 視線を室内へと戻し、孝はきしむ廊下を一人行く。

 今日は休日、なのではない。

「もう走っても遅刻って感じかな……これは……どうしようか」

 目覚まし時計はキライなので使っていないが、壁掛けの時計が、廊下の突き当たりで静かに時を刻んでいた。

 時計の針は十時五十分を指している。

 あまり動じていない自分を不思議に思い、孝はぼんやりと、水を飲もう、と思い至る。

 居間に入ると、テレビがつけっぱなしになっていた。

「兄貴、また消し忘れて」

「……ああ、起きてたんだ」

 呟くと、兄がひょいと起きあがる。彼が(床に寝転がって)いるとは思ってもみず、孝は妙な声を挙げて後ずさった。

「いっ、いっいっ、いたの」

「いたよ。居ちゃ悪かった?」

「そうは言ってないだろ」

「孝のがっこの生徒、なくなったよ」

 唐突に裕隆は口にした。

「は?」

 とっさに漢字に変換できず、意味が分からなかった孝は、間をおいてから問い直す。

「――なくなったって、しんだってこと?」

「そう、今朝連絡網が回ってきて、登校するなって。だから起こさなかったんだけど。晩もね、孝が寝たあとに電話がかかって、行方不明だけど知らないか、って親御さんが」

「だ、だれが?」

 声がうわずる。

 まさか。

「えっと……ちょっとおいしそうななまえ」

「ちがさき?」

 不謹慎なことをいって叱られると予感した裕隆は、孝が蒼白になっていて目を見張る。

「孝、どうし」

 最後まで言わせず、孝は裕隆にすがりついた。

「どうしよう、僕の、ぼくのせいだ」

「なんでまたそんな」

 そういえば、いまだに行方不明のままとなっている、三浦珠洲みうらすずの失踪当時も、孝はこんなことを言っていなかっただろうか。

「大丈夫だ、だっておまえ、人殺しなんてできないじゃないか」

 背中を軽くなでてやる。

 そう、孝にはそんなことはできやしない。

 いっそ無邪気なほどの信頼だった。

 孝はじっと押し黙り、下を向いて震えている。

 裕隆はそれをつらくて泣いているのだと解したが、孝はむしろ、苛立ちであふれ、感情の奔流に耐えていた。

「そんなの、兄貴になんで分かる」

 孝にそんな勇気はないから、孝にはひとなんてころせやしないから。

 言葉が妙に心をえぐった。

 何かがゆがんでおかしくなった。

 二人はそれに気づけない。

 孝は怒りでくらくなった視界に目を閉ざす。

「なんで、分かったふうな口を、きくんだよ」

 凡庸に見える孝であっても、人を恨まぬことはない。

 取るに足らない、ささいな理由で、殺意だって口にできる。

 ただ多くの人間と同様に、それを実行できないだけだ。


 実行すれば、自分についても行なわれると、おそれているかのようなゲーム。


「孝、お前、おかしいぞ」

 孝の思考を読めるはずもなく、裕隆はむやみに弟を刺激する。

「クラスメイトが死んで……べつに、お前が殺したってわけでもないのに、なぜそんなに過敏になる必要がある」

 孝は黙って動かない。

 しかし、それはただの沈黙ではない。

 孝は肺からせり上がる、発作的な叫びを封じることを己に課した。

 数瞬呼吸ができなくなるが、やばい、と知らせる直感に従う。


 駄目だ、声に出しちゃいけない。


 昔から孝は、ちいさな、それでいてもしかしたら恐ろしいものかもしれない、あるジンクスを持っていた。

 兄は最近、孝が歌を歌うのを禁じるが、たぶん彼は本当の意味で孝が歌ってはいけなかった理由を知らない。

「おまえ――ちょっと自意識過剰じゃないか?」

 兄はわずかに柳眉を下げる。

 ひそめた眉を見なくとも、孝ははっきり、感じていた。


 味方のふりをして、けっきょくはバカにしている肉親の姿を。

 弱い、と。その弱さを蔑み、弱さのないことが正しく、明るさだけを善とする、ある種無邪気な信頼を。


 孝は裕隆をつきとばした。

 二人とも床に座り込んでいたから、突っ張った腕で思い切り胸を突かれた裕隆は、尻を打っただけですむ。

「こらっ……孝!」

 孝は振り返らない。

 振り返ったら、追いかけてくる裕隆の姿を捉えることができそうだった。

 そうして、一言、くるな、と叫ぶ自分のことも、なぜか明晰に想像できた。

 だから孝はひたすら走った。

 玄関で靴を履くのももどかしい。突っかけただけで表に出る。

 傘に一瞬手を伸ばしたが、廊下からせまる足音に慌てて門の外へ出た。

「こう!」

 呼ばないで。

 ぐちゃぐちゃになった頭の中で、孝は泣きそうになりながら叫びをあげた。


 可哀想ね、ほんとにかわいそう

 なぁにあのこ、なんにもしらないのかしら

 そうよきっと。歌い方すらわすれてしまっているようだもの

 なさけないわねえ

 やくたたずよ


 どのくらい駆けただろう。

 増水した河の上、橋を渡りながら孝はささやく声を聞く。


 ちからだけはつよいくせに

 こわいのね

 つかえもしない

 くだらないわね


 紫陽花もこんなことをささやいてはいなかったか。

「なんなんだよ……!」

 あの日。

 カガミルリコが死ぬ前日から、歪みは大きくなっていった。

 ことばがひどく使いにくくなって、――そう、それはたぶん、位牌を割ったとき全員が何らかの形で恐怖に近い嫌悪を、しんでしまえという呪いを吐いたためでもあって。

 本当は、たぶん、誰の所為でもないはずだ。

 そう思いながらも、いきなり突きつけられたタイミングの良すぎる死の符合がおそろしい。

 あれからいったい、何人が死んだ?

 吐きそうになる。

 それならあのとき、どうすればよかったのだろう。

 今も、どうすればいいというのだろう。

 兄を思いだし、瑠璃子を思いだし、孝はどうしようもなくて行き場を失った力をもてあます。

「なんなんだよ……」

 嫌いだった。自分の弱さも、それを許せないでいる自分自身も、孝が明るく清く強く生きていることしか許されないことも、すべて苛立たしくてたまらなかった。泥も血も涙も、無い者なんているのだろうか。

 なぜ人はああまでして、焦がれるものを押しつけるのか。

 できないでいる者を、求めて手を伸ばさない者を、叱咤するのか。

 ――その正しさの歪みに気づかないのか。

 多分、それは孝も同じだ。そうでなければこんなに胸は痛むまい。痛いのは、届かないから。いろいろなものが遠すぎるから。優しさも、正義も、ほしくても信じさせてほしくても決してここにはないものだから。


 求めても手に入らず、望んでもかなわず、そうであることを否定され、これ以上どうしろという?

 ――ましてや彼女は――瑠璃子は、戻ってこないのに。


 くすくすくす、くすくすくす

「だま、れ……ッ」

 空に向かって叫ぶ少年に、行きすぎる人々は怪訝な顔をして道をあける。


 いつの間にか、商店街の方に来ていた。

 人通りは多く、ずぶぬれのまま走る少年に不審の目が向けられる。

 もちろん、だれも声などかけはしない。

「大丈夫?」

 不意に、青い傘が目に入る。

 斜め後ろ、同じ高校のブレザーを着た少年が、きょとんとしてこちらを見ていた。

「大丈夫、じゃあなさそうだね」

 さほど表情も変えることなく、呟いたのは、たしか同じ学年で、最近隣のクラスに転校してきた学生だ。先日見かけたときはまったく覚えがないように思われたが、今はなぜかはっきりと思い出せた。

「……だいじょうぶ、です」

 青ざめた顔が少しでも気にとまらないように、必死になって彼は微笑んで見せたが、願いもむなしく相手は彼を支えるように近づいた。

「ええと……どこか休めるところ」

「ほんとに大丈夫ですから」

 ひょっとしたらこの人も、クラスと同様、親切のふりをして近づいて、だまされた孝をわらうのかもしれない。そんなことはわからない。

 人はだれだってトゲがあるもの。

 みんな、どこかでバカにしあって生きている。

「でも……いっぺん出くわして声かけちゃったものは、仕方ないでしょう、気になるっていうか」

 人目を気にして、少年は肩身が狭そうにそっと孝の手を引いた。

 彼も周りに流されるタイプだ。

 孝は内心、吐き気がしていた。

 醜い考え方をする自分が、嫌で嫌でたまらない。

「ほ、ほっといてください……!」

 小さく、しかしはっきりと叫んだとたん、孝は発言を後悔したが、相手は後ろから叩かれたようにふと目をほそめ、すぐに孝の手を、今度は有無を言わせず引っ張った。

「まだ発動しきってないんじゃん」

 それを、デパートの喫茶店でパフェをつついていた一人の女が見届けた。


   *


 茅ヶ崎アユムは、昨日行方不明になり、早朝、遺体で発見された。

 遺体と呼んでさしつかえないのか、その、ひとであったらしい肉塊は、彼の所属する高校の、現在の彼の席に無残にうち捨てられていた。野犬におそわれたにしては損傷が激しく、ましてや、死後ここまで運ばれてきたようなのだから、犯人は野犬ではありえない。

 アユムである証拠は視認では確認できなかった。

 これからDNA鑑定で、完全に確認をとることになっている。

「こりゃあ」

 菅浩太は寝ているところをたたき起こされ、丁度見ていたのが悪夢だったために妙に緊張していたのだが、朝食を摂らなくて本当によかった、と悪くなった胃にむかって呟いた。

「人間じゃなくっても、わかりゃしませんね」

「なんのための検屍官だこら」

 こづかれ、仕事を再開する。

 遺体を大学付属病院まで運びたいのは山々なのだが、組織の大半が床や机にこびりつき、先にこのまま遺体の状況をみておいたほうがいいだろうと判断され、早朝から呼び出されていたのだ。

「むー」

 渋面を作った浩太は、いきなり、ケータイを取り出した。

 薄く、皮膚にぴったり張り付くゴム手袋を、数枚重ねた手でコール。

 いち。

 まだ刑事は気づいていない。

 に。

 やべ、まだ寝てるかも。

 さん。

 いま何時だっけ。

「けいぶー、いま何時ですか」

 ケータイを自分の体で隠し、浩太は刑事に聞いてみる。

「四時二十分」

「ども」

 刑事が後ろを向くのを確認し、再びケータイを耳にあてがう。

「あれ?」

 沈黙。

 コール音がまるでせず、浩太は自然、首を傾げた。

「どっこほっつきあるいてんのよ、このすけべ!」

「うわ!」

 すませた耳に、急に大音量が効く。

「茅野ちゃん」

「いま何時だとおもッてんのよバカ王子ッ」

「おーじって。茅野ちゃんたらもー」

「なんのようよッ」

 グロッキーな少女の様子に、浩太はさっさと用件を伝えた。

「出た、いぬがみ」

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