第六章 待ち受けるもの
「あー、埒があかねぇ」
生垣の周りをまわりながら、各務瑠璃子はうめいていた。そろそろご近所に通報されそうだが、そうならないのは、屋敷の周囲に何かしら人を寄せない結界のようなものがあるのだろう。
大野まゆらにはそれは見えない。瑠璃子がときおり、生垣の上方を睨みつけて、舌打ちして、
「おい、見てんじゃねえぞテメエ。ぶっ潰す」
と威嚇するが、まゆらの目には、のんびりと生える生垣の木々しか映らない。
「そんなに大きなモノがいるの?」
「いる。興味津々ってやつだな。生垣の上に肘突いて、薄らぼんやりこっち見てやがる」
ふわふわ、取り留めもなく見ているだけで、攻撃はしてこないようだ。
「お前が、御陵の妻っつう奴か? あいつ完全にいかれてんな。お前、人間もどきの形してるけどほとんどただの肉じゃねぇか」
相手が大人しくしているとはいえ、煽っていいものか。
「ねぇ瑠璃子ちゃん」
「……今お前何つった?」
「えっ、ちゃん付けだめ? 瑠璃子さん?」
「……どっちでもいい。何言いかけた?」
「妻っていう人と、どこかで何か食べながら話そうよ。ずっと歩いてて疲れちゃった」
さっき出されたお茶も茶菓子も、まともに手をつけられなかった。
わずかな間を置いて、瑠璃子は大きな声を出す。
「は? あ?」
「だからね、妻の人とどこかカフェとか行こうよ」
「聞こえなかったんじゃねぇよ! 意味が分かんねっつうの」
「お腹空いたから、カフェで」
「いやだからそれは分かる、何でこいつと」
瑠璃子が振り仰ぐので、まゆらも釣られる。見事な曇天、濃い色をした生垣。
「うーん? 見えないってことは、コーヒーとか飲めない? 店員さんにスルーされるの嫌だよね。カラオケとかにする?」
「お前な……おい、お前もだ、何ソワソワしてやがんだ。出てくるな! 生垣壊れるだろ!」
まゆらには、生垣が突如ゆさゆさ揺れて、真っ二つになりかかる様子しか見えない。だが十分異様だった。
「ほんとに、大きなひとなんだね」
「人じゃねえだろ」
御陵の妻は、生垣に挟まって抜けなくなったらしい。何でだよと文句を言いつつ、瑠璃子が手伝って、絡まった生垣から外してやる。
「お前、身長とか変えられねぇの……うわ、今気づいたみたいな目ぇすんなよ気持ち悪ぃな」
生垣の上で、御陵の妻は試行錯誤しているらしい。生垣が揺れるたびに、瑠璃子が大きすぎとか小さいとか、怖いとか詐欺だとか相槌を打っている。
その間に、まゆらは素早く携帯端末を触った。
「で、何にする? コーヒー、紅茶、パフェの美味しいお店とか、ベーグルとか、フレッシュジュース。厳選野菜を使ったパスタランチ!」
まゆらは携帯端末で地図を示す。瑠璃子が、浮かれやがって、と舌打ちするが、手詰まりではあったのだ。適当な店をいくつか、指先で示す。どこに行くにしろ、客が多ければその店は無し、だ。簡易的な結界くらい自分で作れたらいいのだが、まゆらには見えないし学んでもできなさそうなので、無理は考えない。
一番近い店をチェックし、この場所からの経路を確認する。
小さくなったらしい妻のいる辺りに、瑠璃子が手を差し出した。その動きがどうも、妙だ。
「えっ、瑠璃ちゃん、人形みたいな持ち方する」
「人形サイズだから仕方ねぇじゃねーか」
「そうなの? 私にも見えるといいんだけど」
「いや、見えない方がいい」
人形のような姿だが、名状し難いらしい。
ひとまず三者でカフェに向かった。
※
「迷子になったところを、拾ってもらって、怪我が治るまで助けてくれて……恋愛結婚?」
このカフェは人はまばらだが、それなりの音量で有線放送がかかっている。最近改装したようだが、ステンドグラスふうの窓際も、観葉植物に囲まれていて人目も声も阻まれがちだ。ひそひそ話にはうってつけ。高校生が入る感じでもないが、観光客だからとそれほど気に病まずに、瑠璃子もまゆらも注文をお願いする。コーヒーと紅茶。ケーキは三種類から選べる。目の前の、御陵の妻のために、紅茶をもう一つ選択。これは、今日来られなかった友人のためだと説明しておいた。
「恋愛だの結婚だの、人間の思うような関係じゃねぇだろ」
もっとそれは、暴力的なものだ。
一方的に、人が野生の生き物を見やるような。野生の生き方を壊すような。何気ない仕草で、相手の生活はねじ曲げられる。
「もっと残虐で無慈悲だろ」
「どっちが? 妻さんがひどい目にあうの?」
「人間が、思うよりも、人間じゃねえヤツらの方が素っ頓狂なんだよ。向こうからすりゃこっちの方がイカれて見えるんだろうが」
気に入ったという理由で、人を通常の時の流れから切り離して連れ歩き、戻りたいと泣くので戻したら、人は時空の過負荷に負けて体が壊れる、とか。
「何か聞いたことある……浦島太郎?」
「それが当てはまるのかどうかは知らねぇよ」
とにかく、と瑠璃子が荒っぽくスプーンを振る。皿の縁に当てて鳴らしまくることはしなかったから、店員からの視線は来なかった。
「本当にあの画家の野郎が、コレに人間相手みてぇな恋愛ごっこを始めたにしても、人間じゃねえんだから際限なく与えて奪うぞ」
「与えるの?」
まゆらは、ひとりでに持ち上がったケーキ用のフォークを見やる。
フォークは戸惑うように行ったり来たりしている。
「奪うの?」
フォークは止まって、先をあげたり下げたりする。頷くというより、やはり戸惑っているようだ。
「何の恩恵を与えて、代わりに何を奪うのかは、こっちにゃ関係ない。御陵に協力させる。紙の保持をさせるだけだ」
フォークは、話が自分のことではないと分かっているらしく、ケーキを切り分け始めた。瑠璃子がうんざりした顔をする。
「うわ、そこ使って食うのか……」
綺麗に切り分けられたケーキは、ふいっと消える。
「口で食べてるんじゃないの?」
「あ〜、何つうか、クリオネ」
「クリオネ」
携帯端末で調べて、まゆらはとりあえず、自分のケーキに集中した。
「で、恋愛結婚して、だ。あいつ、何言ってやったらこっちの言うこと聞く?」
瑠璃子が直球を投げる。
ケーキが消え果てた皿に、瑠璃子は続けて自分の前の皿からケーキを分けた。
食べていいのかしら、と言いたげにフォークは新しいケーキの側面を撫でていたが、やがて思い切って全部食べた。切り分けもせず消えたケーキに、まゆらは硬直する。
「……って、私のもシェアした方がよかった?」
「よくない。供物はバランスが面倒くさい。お前はやんない方がいい」
「瑠璃ちゃんは?」
瑠璃子は、ため息を一つ。
「オマケがあるから多分大丈夫……よく考えたら、アレがあるってことは、そこまで走り回らなくていいってことか? いやでも不確かだよな」
「オマケ? アレって何?」
「前に行きあったヤツが、多分何かくれた」
それがあったから、瑠璃子は、怪異にそれほど絡まれなくなった。だから、これほどまでに、落ち着いて、ものを考える時間を得られたのだ。
思い返して。
「あ」
目の前が暗くなる。テーブルの上から、顔を覗き込んでくる、小さな御陵の妻。肉塊を三つ四つ積み重ねた体、白い素っ気ない布切れの服。目鼻立ちは凹みしかなく、そのうつろな眼窩の奥で、きらきらと、春の木漏れ日のような、激しい嵐のような、何かがたぎるのがよく見える。
こちらが落ちていきそうな、吸い込まれそうな何か。
似たものを、多分知っている。
「あっ、くそ!」
ばちん、と引っ叩かれる衝撃で、瑠璃子は目を閉じて額をテーブルにぶつけた。
「大丈夫?」
「イッテェ」
ざわざわ、体の内側の何かが、暴れている。溢れ出そうになる。必死で抑えて、ふと目を開けば、妻は変わらずこちらを見ていた。
「お前……ハァ……もう嫌」
フォークが皿の上に置かれる。
「あ? おい髪引っ張るなよ、何だよ。は? ケーキの礼なんてもういい、アレの縁者だろ、違う? は? 意味わかんね」
「瑠璃ちゃん、私にも通訳して」
「ちょっと待て」
紅茶が見る間に減っていく。半分飲んだところで、瑠璃子が上体をかがめた。
「いい人だから、押せば大丈夫? は?」
役に立たない、と瑠璃子は文句を言っていたが、まゆらは思う。
こうして、話をして、むげにはできないなと思ってくれたのなら、妻は半分味方のようなものだ。ケーキも美味しかったし。
「じゃ、こつこつ、何回か訪ねてみようか」
「お前さぁ、何のシナリオもなしに同じこと繰り返すつもり?」
「うん。それ以外に、こっちも出せる情報ないし、向こうが折れてくれる要素も思いつかないから。妻の人と一緒に行こうよ。それで、夕方になったら、妻の人と晩ご飯食べに行こう」
「遊びじゃねぇんだよ」
言い返す瑠璃子の声は、しかし弱かった。
妻がフォークを持ち上げて跳ねている。同意してくれたようだ。
瑠璃子はため息をついて、ケーキと飲み物の注文を追加した。
※
靄は相変わらず、強くなったり弱くなったりと波がある。何の匂いも運ばない、柔らかな、細かな水分の塊だ。
公園内のベンチも濡れがちで、日向は気が散りながらも、座ってキセの話を聞いていた。
もう少し、早く、素直に、教えておいてほしかった話を。
朝廷とそれ以外で、人間の勢力図が曖昧だった頃。もうじきに、日本史では有名な出来事が起こるだろう時分。あちらこちらで戦があり、それがやんでしばらくのこと。
冷羽は、もともとはただの人間だった。冷刃という名で、少しばかり腕が立つ。まだ歳若く、これから伸びてゆくひこばえであった。
けれど、その頃、山中をあるものが横切った。何気なく、意図があったのかどうかも分からず、ただ、幻の使い手である、ひとではないものが、呪いをこぼした。白い靄の姿として。それが、たまさか、村に流れた。
人々は、ひとたまりもなく命を落とした。村を離れていて助かった冷刃も、村へ戻ったときに、呪いに……幻の力にあてられて、同じ道をたどるはずだった。
けれど、その少年は、違った。怒りか、無念か、彼自身の天与のものか、はたまた死者たちの後押しか、呪われた幻に、彼は抵抗した。蝕まれる前に、それを封じ込めた。自分の中に。
「小鬼に、よくないものがいるから祓ってほしいと頼まれた」
銀月の一族は、そうした何らかの依頼に応じることがある。キセともう一人は、村へ向かった。
そうして、人ではいられなくなった少年を連れ帰り、一族の中に置いた。
「何で、早く言わなかったの」
裄夜が、キセの話を聞き終えて詰問調に言い、やがてため息をついた。
「責めたって、今後ちゃんと話してくれるように変わるわけでもないのかもしれないけど。変わってくれるなら、怒った意味もちゃんとあったことになるし、いいんだけど」
「本当、早く言ってくれたらよかったのに」
日向も、頬を膨らませがちに言う。
「聞いたって、私たちじゃあ状況は変えられないかもしれないけど、でも冷羽とかカレンちゃんってどういう力が使えて、それが本人たちにも危ない力なんだったらあんまり、使わせないで前衛に出しちゃだめなのかなとか、気を遣えるでしょ?」
もっともなことで、裄夜も日向も間違っていない。銀色童子は、そわそわと皆を見比べている。
「思い出せることと、曖昧なことがある」
「思い出せなかった、ってこと?」
「半分、眠っているようなものだ。本来ならば、俺もシズクもここにはいない」
繋ぎとめられてここにいる。
「もうちょっと、スムーズにできるといいんだけど」
「善処はしたい」
「頼りないな……で、私たち、カレンちゃんと冷羽を助けるために、何をしたらいいの?」
日向の声には、力みはない。そこまで追い込まなくても、話してくれるだろうから。
実際、キセは静かに言葉を繋げた。
「今問題になってることは、複数ある」
「冷羽と幻と、獏と、アンセルムスの剣と、童子?」
他にもあるような素振りだが、裄夜が聞き出す前にキセが続けた。
「冷羽の幻については、本人が制御する他に手がない。あまり長くあのままにしておくと、元々の幻の本体が来てしまう」
「本体?」
「迂闊に口に出して、招きたくはない。基本的には遭遇しない方がいいものだ。このまま制御できないのであれば、冷羽ごと、それこそ氷漬けにでもして行動不能にするしかない」
「カレンちゃんも氷漬けってこと?」
「そうならないために、冷羽にカレンがついていると考える」
「時間制限は、どのくらいなの?」
「一昼夜は持てばいい方だ」
「短いし……」
「冷羽が幻の対処に集中できるよう、こちらは適宜獏を散らす」
「えっと……必要なのは、千明カレンと冷羽が、冷羽自身の持つ幻を制御すること。彼らを追いかける獏は、幻を食べたいだけだから、蹴散らしてもいずれまた同じように追いかけてくるけど、幻の制御さえしてしまえば、食べづらいし立ち去るだろう、ってこと?」
裄夜のまとめ方に、キセは異論はないようだ。
「で、童子さんだけど」
「それは俺の感知するところではない」
「まぁそうなんだけど。で、銀色童子さんは、冷羽のことは見守るだけで、悪いようにはしたくないんだよね? 追いかけてくる金色童子さんが、銀色童子さんの熱烈ストーカーすぎて攻撃されそうで困ってる、と」
「困ってます」
童子はしょんぼりと頷いた。日向が、片手をあげて提案した。
「御仏っていうひとのところに行って、正直に報告する? それで、金色童子さんがストーカーすぎるから、ちょっと諭してくださいってお願いしてみるとか。上下関係があるなら、ボスから話してもらうのがいいよね」
「それは、考えたこともなかったですね……!」
そんなことで金色が止まるとも思えない、と銀色童子は顔をこわばらせる。
「止まらなくても止めないと。これまではどうしてたの?」
「逃げ回ったり、何日か呼びかけに適当に返事をしていたら、そのうちいなくなってました」
「今回もそうする?」
「どうでしょう、今回、かなり間が空いてるから……金色が飽きたか、来られない理由があるんだと思っていたんですが」
「何があったのか、話をよく聞いてみる? 話せる相手なのか分かんないけど」
「どうかな……その、金色は、わりとこっちにばかり執着気味だけど、話を聞いてくれるタイプでもないんですよね」
「ヤンデレストーカー?」
あっ、本当だ! と言わんばかりに、銀色童子がハッとした顔で頷いた。
「魂を集める仕事もあんまりしないし、べたべたしてくるし、一方的に好きって言ってくるし、畦道に生えてきたアザミとかも、かわいいって言ったらすごい顔して、むしりとって髪飾りにしてたし」
「言うのもなんだけど、私たちあんまり関わりたくないかも……」
「ですよね! 何とかしたいんですけど、話が通じないから逃げるしかなくて」
「向こうも貴方も、害したい訳じゃないんだよね?」
「こっちはそうですけど、向こうは分かりません……手に入らないなら、ってことも……」
ストーカーのことは分からないが、と前置いて、キセが言った。
「数年、一族で匿えなくはない。冷羽が幻を制御し、元の状態に戻るのであれば、あれの縁者として。多少は働く必要はあるが」
「何となく、冷羽を見ていたからどういう場所なのかは分かるつもりです。自分みたいな、ちょっと半端なものでも、居場所が得られるなら……」
道明寺にならないといいけど、と日向が余計な呟きをしたので、銀色童子のテンションが少し下がった。
「アンセルムスは、キセが誤解を解くんだよね?」
裄夜の声に、キセは返事をしなかった。
「よく分かんないなーみたいな顔するな。久しぶり元気にしてたーとかくらいの立ち話はしてあげなよ。知り合いでしょ」
「それほど会話もしたことはない」
「異国で長生きして友達もいなくて寂しがってるんじゃないの? ご近所にいたキセを追いかけてくるくらいだから」
「立ち話よりは、どこかお店に入って何か飲みながらの方がよくない?」
日向の提案に、裄夜が真顔になる。
「こういう会話、店でできる?」
「できないかもしれないけど! 結界でも何でもいいし、いっそのこと貸し切りとか、たすくくんの家でもいいよ。公園だと、何かちょっと寒くなってきたし」
靄がゆらゆらと流れてくる。触れると、生温いような、だんだんと冷えてくるような、少しだけ不快な侵入感がある。
「これからみんなで、冷羽を探す、周辺の獏は散らす、金色童子が来たら銀色童子が説得しながらちょっと逃げる、アンセルムスちゃんは後で話そうよって言って一緒に来てもらう。終わったら打ち上げ。先にどこかで休みたいけど、カレンちゃんの方の時間がないし……」
「中津川さんのまとめで、問題はない? じゃあ、ひとまず行こうか」
目的の人物達を探すため、キセが札を放つ。見送って、裄夜は顔を顰めた。
「何か忘れてる気がするんだけど」
「何?」
「連絡しておかないといけないこととか、あったような気がして」
「そういえば、浩太さん全然助けてくれないよね。こんなことになってるの、知らないでいるんだろうな」
日向が、裄夜の前を通り過ぎる。
そういえば、たすくと浩太に連絡をしていない。歩きながら、何度かコールすることにした。
※
「いや、大丈夫だよ」
たすくは、重たい固定電話の受話器を肩と頭で挟む。両手を開け、片方で犬の手綱を取り、片方で、玄関先を指差した。
「閉めて」
開け放した玄関の引き戸。飛び石のある道を歩けばすぐに、道路に面している。ゆらゆらと、黒い靄がこちらをうかがう。
入れて。いれて。いいもの見つけたの。いれもの。いれもの。
いくつか集まって、争いになり、靄は増えたり減ったりする。
「いや、大丈夫。大したことじゃないよ」
電話口の向こうで、若い、最近銀月の一族の傘下に入ったばかりの者が、心配の声をあげている。
大丈夫、ではないが、大丈夫だろう。
呪術と怪異に触れる一族にあって、中城は、それら自体の技術を持たない。
ひとは、左右されるばかり。
廊下に立つもう一人は、玄関の戸を閉めて、と頼まれたのに、震えて動けないでいる。さっき、呼び鈴を鳴らして勝手に戸を開けた何かを、警戒しているのだろう。
ため息を、つくのをこらえる。
言葉一つで、怪異が構う、従う、それが望まない形であっても反応がある、そのことを、ずいぶんと、その少年は恐れている。菅浩太に、言葉に反応させないためのマスクという代案をもらっていても、戸を開けた何者かに何をされるか、自分が何を言ってしまうか、分からない。だから怖いのだ。
少年、里見孝は、中城たすくより歳上だが、まだまだ怪異に遭遇することに不慣れな様子だった。
「里見孝さん。あれはここには入れない。戸は開けられてしまったけれど、押し返すことはできる。彼らの用事は、里見さん……孝さんとは別件だから、貴方の声を聞きたがってはいない、だから話さなくていい。彼らが求める器自体も、まだ未完成。乗り移られないように、浩太さん達も手を打ってくれているから。だから貴方が今、すべきことは、戸を閉めることだけ」
頷き、孝が恐る恐る玄関の敷石におりる。戸を閉める。向こうからは、孝の姿は見えないのだろう、ウタウタイについて触れるモノはいなかった。
ウタウタイは隠されているのに、彼らには何が見えるのだろうか?
聞きたそうな孝に、たすくは人差し指を立てて、静かにさせる。孝は元々話していないわけだが。
たすくは電話を終えて、犬を廊下に待機させ、孝を手招いた。中城の家は多少の使用人がいるはずなのに、よく静まり返っている。ちょっとした仕草の音が、衣擦れが、聞こえそうだ。
さっきまで、ウタウタイがどういったものなのか、どの地域で確保されたのかを記した古書の抜き書きを出して話していた。
原紙は明良が帰ってきてから出してもらうので、後日改めてということになった。孝が知りたいのは、ウタウタイと呼ばれていた過去の誰かが、この力とどうやって折り合いをつけていたのか、だ。
それは、ウタウタイでなく、たすくや明良などの他者の話を聞いても、参考になることだった。
「明良はまだ戻らないし、電話と呼び鈴で話の腰は折れたし、そうだな……せっかく来てもらったんだ、ついでに、見てもらえたらと思うものがある」
見覚えはないはずの、なくて当たり前の物だと告げる。
「器がね、あるんだ。大したものではないはずの。素人が、ちょっと趣味で作ったもの」
どこにでもあるような、小ぢんまりとした台所に入り、たすくはテーブルの上を指差した。
ちょうど両手のひらで持ち上げられるくらいの、木箱がある。
ことり、と、木箱から抹茶碗のようなものを取り出す。傾いてはいるが、どことなく繊細な土肌だ。釉薬はまばらにかかり、ところどころ星のような抜けが散っている。
「これはそこそこ古い……十年くらいだけど。これは、彼が作ったものだ」
「彼?」
孝の怪訝そうな視線に、たすくが碗を差し出した。思わず受け取り、孝はすぐにそれを、取り落とす。
ぞわりと、肌を撫でたものがあった。
不愉快な、魂を、肌を、内側から、長い舌で舐めとるような、何かが、いた。
碗に、何かついている。
「元々のものでなく、付喪神でもない。練られた時点で狙われて、焼き締められ、完成した途端に、取り憑かれたものだ」
そうして、高台にひとはけ、作者の名前と、その上から大きな、交差するばつ印が塗り込まれている。
その名を、孝は知っていた。
「名前は、分かります。こういう……焼き物を作ってるんですか」
「本人は、焼き物でなくても構わなかったようだ。学校の授業や、旅行先のイベントで、何かを作る機会があって、油断して作ってしまった」
「油断?」
孝の不安や疑念を込めた呟きに、静かな家の中の何かが、反応する。ざわざわした壁を一瞥し、たすくは、ウタウタイの力は難しいところがあるねと言った。せっかくマスクをしていても、今はまだ防ぎきれない物事がある。
「本人の望みが、口先と一致していると誤解される。本心を完璧に言葉に載せられることは、ほとんどないだろうに」
たすくの口調には、哀れみの影はない。感慨のない、ただの事実を述べるものだ。
「誤解を解く、誤解されないようにうまく立ち回る。それができるなら、苦労はしないよ。できないから、人は揉めるし、怪異も揉める」
器に触れ、たすくはそれを柔らかな布でくるみ、木箱にしまう。無地の布にも、木箱にも、見えないが術がかけてある。少し外に出しても、器自体は何もできない。誰かの手に渡り、何か活用方法を見出された時が面倒だ。
「器自体は、たましいが空っぽだった。何かを作る時、大抵は雑念がある。作られるものは、作り手の意図を反映する。どんなに下手でも、心を込めていなくても。不思議かな? 心を込めたから、何かが取り憑くような妖物の器になった、と聞く方が分かりやすい気がする。実際、彼の器は、見るとそれなりに主張する。工芸品ほどの完成度はなさそうにも見えるけれども、素人の作にしては、人が欲しがる。器が、いっぱいだから欲しがるわけではない。空っぽだから、そこに何かを注ぎたくなる。人の思いや、怪異の取り憑き先として」
その技術はすごいのかもしれないねと、たすくは続ける。
「器に興味のない、知り合いのひとびとに見てもらって、これは元が空っぽだったのだろうと言われている。作った本人も、周りも、ずいぶん気味の悪い思いをしたようだ。普段なら怪異など見聞きしないのに、何かを作る時だけ現れて、奪い合って揉める。時々、とんでもない妖物に実体を与えることがあるから、余計に手に負えない……だから今の彼は、あまり物を作りたがらない。ウタウタイは言葉を勝手に誤解されて振り回され、彼は作った物を勝手に求められて振り回される。なかなか本人の望むようにいかない」
器を見せて何がしたいのか、計りかねて、孝は黙る。
暇だったからかな、と、気まぐれにたすくは続けた。
「混乱しているのは君一人ではないし、けれど君の混乱や辛さは君だけのもので、誰かが隣で苦しんでいても何の救いでもない。ただ、ヒントにはなるかなと」
里見さんのお兄さんが来られないのは残念だと付け足したのは、どういう意味だったのだろうか。
※
どうしてか、作るものがよく、動く。
幼児の頃から、そうだった。手に、何の力を込めたというのか。ハサミを握り、切り紙した工作は、小鳥が宿った。園児たちは喜んだが、教師たちは怯えた。
彼の両親は、一族の大元からは離れていたが、どこかで、親戚にそうしたことに詳しい者がいることはしっていて、そうした者と関わることを、なぜかひどく恐れていた。正気ではない、と。
ありもしない怪異だと言って、息子に、物を作ることを禁じた。学校への提出物は、家族が肩代わりした。作文や絵、デッサンまでは、それほど怪異は起きなかった。
彫刻と粘土が、もっとも、良くなかった。
木や土を用いた造形物が。
幼い頃、古くて小さいながら、家屋の裏には庭があった。雨上がり、地面はぬかるみ、手で土を掘り、練ると泥団子ができる。面白がっていくつか作り、並べたところで、塀の上で小競り合いする猫の姿に気がついた。
猫、のように見えるもの。
細かな土人形の群れのようなそれらがぶつかり合って、互いに食い合って、猫のような輪郭を生み出していた。
我のもの、いや私の、わしの、おれの、あれは我々の器。
うめき、ひび割れた声が一斉に重なり、叫びをあげて、泥団子に飛びかかった。泥団子に取り憑いた何かは、実体を持てたことに喜びながら、庭の外へと逃げていく。路上で車にぶつかり、泥を投げた子どもとして叱られもしたが、それよりも、その後も庭でアレらに作るよう請われ、断って揉めるなどを繰り返して、他にも恐ろしい目に遭い、物を作ることは辞めた。
なぜ思い出したりしたのか。
銀月の、中城の家に戻ると、たすくが、孝にお茶を出していた。これ見よがしに、テーブルに木箱が置いてある。
なぜ、と顔を顰めると、たすくが面白そうに笑った。
「おかえり。目当ての用事は済んだ?」
「はい。たすく様、それは、」
「ウタウタイの、何か参考になればと思って」
「はぁ。大したものでもなく、情けないことに妙なものに憑かれているものが、役に立ちますか」
「役立つよ、明良」
スーツ姿の、中城の家令は、あまり納得がいかないまでも、追求することはやめた。主人は相当気まぐれだ。実態は中学生で、けれど先日まで、冷羽、と名乗った千明カレンに取り憑かれていた。本人に、怪異をどうこうする術力はないというが、この世ならざる何かに囲まれていて平然と育つなら、それ自体が異様な気もする。
茶菓子を出して孝とたすくに勧め、用事が言い付けられないのであればと下がろうとした時、たすくが、思い出したように言った。
「水瀬裄夜から連絡があった。面白そうな話があってね」
嫌な予感しかしない。だが、家令には断る権利がない。
怪異を離れ、法学を志し、けれどその道には入れずに別の行き場を模索していた明良を、面白がって拾い上げた雇い主が相手だ。
その縁を結んだのは、一体何だったのだろう。
「仏像に何かが宿って、それが意志を持って動くらしい。像自体は安置されたままで、中に生じたモノが、ふらふらと外を出歩くとか。千明カレンを探す中、像の一つが彼女に肩入れしていて、もう一つの像がそれを嫌っているらしい。何の妨げになるか、役に立つか分からないし、本体を押さえておこうと思う」
何をするかすぐに分かった。
「木彫りのね、像だそうだ。だいたいの場所も聞いてある。ちょっと調べておいてもらえる?」
「分かりました」
金色童子、銀色童子、それと、彼らを従えた仏像だという。
「誰が作ったものかな。また、あの名前かもしれないね」
たすくの、含みのある言葉に、明良は何のことだか、と無意識に肩をすくめる。
「たかだか、同じ名前を持っているだけですよ」
「そうかな」
明良忠信のことを、札師は知っていたようだ。ウタウタイの兄である、里見のことも。それは今の知識ではなく、もっと過去の。
「それと、御陵和馬と妻、その周辺の術者について、これも急ぎで調べてほしい。その他にもう一件、ウタウタイの資料の抜き書きは見つけたんだが、原紙の写しを出してほしい。里見孝さんが見てみたいというから。これは、また後日で構わない。日を急ぐものを先に頼むよ」
「分かりました」
「長く生きるものは、しがらみも増えて大変だね」
にこやかに話しかけられて、孝は困惑しながら、お茶を飲んだ。
※
連絡を終えて、裄夜はこっそりと銀色を見やった。
坂道をくだりながら、日向は銀色とカレンの話をしている。銀色は冷羽の頃からのストーカーめいているが、特に付き纏うでもなく、時々自分の事情を話しては、魂を抜かれるのは困ると断られる等するだけらしい。
「本体を押さえる必要って、あるのかな」
呟きに、キセが答えた。
「あれは、人とは違う道理の存在だ。人の願いの中で生まれたにせよ、人の善悪基準とは別の位置にある。人間に取り憑いたか、生まれ直したとしても、魂だけでは捕まえづらい。逃げられないよう、本体を押さえた方がいい」
「そこまで危険なものなのか?」
キセは少し言い方を変える。
「人間の形をしていても、中身がそうとは限らない」
「でも、銀色童子くんはずいぶん人間らしいっていうか」
あまり、言動にぞわりとするようなところはない。
キセが少しうめくようにぼやいた。
「本当に危険を避けるならば、多少の実力が必要かもしれないな。回避を心がけるだけでは足りないかもしれん」
「えっ、僕……?」
「実際の戦闘はシズクで足りるが、アレは長年の蓄積で動けるものの、位置や役割の指示はしてやった方がいい。気を遣いすぎるから消耗する」
「シズク、が?」
「物理的な破壊力なら、シズクで足りる。状況把握に気を遣いすぎて消耗しているから、無理はさせるな。術戦をお前が実地で学ばなければ、これから先、シズクをうまく使えない」
「シズクに指示してるのは、キセじゃないの?」
「いや、今は……」
目を細めて、キセは日向を見やる。
楽しそうに銀色と話していて、さっきまでの疲れはあまり見られない気がする。
意味を追及する前に、前方から悲鳴があがった。
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