第七章 出会ったそれは運命の
悲鳴は、悲鳴のようなものに変わった。
初めの悲鳴は、銀色と日向が話している足元を、すねこすりのようなものが触っていったからあがったものだ。次の声は、それが綺麗な毛並みの三毛猫だったから。賛美の声だ。
悠然とした足取りで、猫はひょいと塀にのぼる。
「かわいい〜!」
飼い猫だろう、和柄の生地の首輪が、白いくびに掛かっていた。
日向は端末で写真を撮っており、銀色も楽しそうだ。
何事かと反応した裄夜も、すぐに警戒を解いた。
なんだ、猫か。
キセだけが、面倒そうな顔をしていた。
「言いたいことがあるなら、早めに話してくれた方が助かるよ」
「……あれは猫ではない」
「妖怪か何か、ってこと?」
「そういった類のものの、斥候だ」
塀の上で、猫が鳴く。ついてこいとでもいうように、尾を一振りして振り向いて、もう一度鳴いた。
「斥候に呼ばれてるみたいなんだけど」
行っても大丈夫なものだろうか。
消えもせず、実体あるような姿でキセが迷っている。都合が悪ければすぐ姿を消していたくせに、どういう風の吹き回しか。
「行きたければ……」
「キセは行きたくなさそうだけど、どうしてなの」
「先程の……占術を専門にする者の、誘いだろう。あれに占わせる内容は特にない。呼ぶほどの用事が、向こうにあるのが面倒だ」
「行くと何かを頼まれるかもしれないとか、そういうこと?」
猫は一匹ではなかった。気づけば足元に何匹かいて、ぐいぐいと頭を押しつけてくる。何匹かは、爪を出した前足で叩いてきた。
「断れる感じじゃないんだけど」
銀色と日向は、猫についていくようだ。キセがため息混じりに歩き出したので、裄夜もそれに続いた。
※
店を出て、他の店舗を冷やかして歩く。日差しはいつの間にか大分傾いていた。
「いったん帰ろうか」
まゆらは、見えない御陵の妻に呼びかける。瑠璃子もうんざりした顔で、妻のリアクションをまゆらに説明した。さっき調べたクリオネの映像に、イカなどを足したような形に変わったらしい。
「もうちょっと遊びたいのかな?」
「いや遊びじゃねぇんだよ、こっちはオネガイしに来てんの。お前の夫がちょっと融通してくれたら済むことだっつーのに」
ぷう、と妻がフグのように膨らんだらしい。せっかく仲良くなったのだから、と、まゆらは慌てる。
「いいよ仕方ないよ、一日や二日で打ち解けて友達になるのも、場合によるよ。また明日、話をしたらいいよ。晩ご飯食べに行くのまで今日やったら、妻さんはもしかしたらお腹いっぱいになりすぎて御陵さんの家でいつも通り過ごせないかもしれないし。今日は、お茶だけにして帰ろう、ね」
「お前こっちの目的の話をしたの、もう忘れたか? 交渉しに来てるっつうの、友達じゃ……」
ない、と言い切りかけて、瑠璃子が怯む。
何やら妻とやり取りがあって、瑠璃子がまゆらに謝らされた。
「何でお前ら仲良くなってんだよ……」
「えっ何でだろ? 小さいサイズの服ならミニチュアのドールのがいいとか、大きなサイズなら輸入通販もありだとか、そういう話でちょっと盛り上がったからかな?」
瑠璃子は、ハァもうお前ら何なんだふざけんな、と小声で毒吐きながら、妻を丁重に掴んで、御陵の屋敷の裏手に運んだ。
生垣は、所々に大穴がある。
直しとけよ、と瑠璃子が突っ込みながら、妻を生垣の間に突っ込んだ。
が、何もない空間部分だというのに、手が押し戻される。
「あ? 何でだよ、もう遊びはおしまい、今日は疲れたから帰んの。お前も帰れ」
びちびちと妻が暴れているらしい。まゆらにも、生垣が揺れるのがよく分かった。
「おいやめろ、てか本体どこだ? 庭で待ってるんだろ? は? 置いてきたんじゃねえの? 全部? 全部を圧縮してこの形にしたの? は? お前、それあのオッサンに言ってからやったのか? 言ってないよなぁ……」
「どういうこと?」
「妻の一部とこっそりお茶しに出たはずが、全部、屋敷から抜け出した。夫がどのくらい気配に聡いか分からないけど、妻が屋敷中から消えたから探してるかも」
しれないし、という言葉は尻すぼみに消えた。
生垣の向こう、池のほとりに、虚無のような眼差しの御陵が立っていた。書き物でもしようとしたのか、手には筆、足元には紙片が散らばり、暴れたような跡が地面に残されている。
ぞっとした女子学生達を置いて、妻が生垣にぴょんぴょんとぶつかった。自分で作った結界ではなかったのか、多少の苦労をして、中に押し入る。
はっと、御陵が振り返った。
妻を呼ぶ叫び声が、垣根を揺らす。
瑠璃子がぼやく。
あぁやっぱりこいつも、まともじゃない。あんな肉塊を、妻のように、主人のように、天女のように扱うなんて。
妻が元の大きさに戻っていく。半透明の輪郭が一瞬たわんで、それが庭の天井めいた何かにぶつかって火花を散らした。さすがにそれはまゆらにも見えた。
「御陵さんって、その、術者ではないんだよね……?」
「絵が描けるだけ、っつっても、結局こいつら化け物じゃねぇか」
瑠璃子が身構える。御陵の鬼気迫る顔が、目が、こちらをとらえたからだ。瑠璃子だって、札師の札もなく、ただの、よみがえりでしかない。何ができる?
それでも瑠璃子は前に出たし、まゆらは彼女に押されて下がらされた。
「ごめん、私無力だ」
「分かってる」
自分で言ったのにまゆらは傷つく。それでいいんだよと瑠璃子は答えるが、何が良いんだ。
「瑠璃ちゃんが絵で、あの人と上下関係的なものがあるなら、私……変若水はまだ、尽きてないか貸せる、」
「黙ってろ」
ここは御陵の敷地の外だ。御陵は既にこれを知っているが、他に誰が聞いているか分からないところで、手の内を晒すのは愚かなことだ。何もいないように見えても、通りすがりに目はあって、耳もある。どこにでも、だ。
じりじりと、御陵が妻を押しやって生垣に向かってくる。妻は何度も、必死に止めようとする。
一触即発、のところを、急に業を煮やした御陵の妻が夫をくるみ、沈めて黙らせた。
「おい、お前、旦那、殺してねぇよな……」
呆然と言う瑠璃子に、生垣が割れてさざめいた。入っていらして、と言うように、玄関に向かってウェーブする。生垣からの侵入は勧めないようだ。
夫の誤解は解けていないが、とりあえず妻の招きで、二人は御陵の家に再度入ることになった。
先刻通されたのと同じ部屋で、瑠璃子とまゆらは正座していた。
目を覚まして説明を聞き終えた御陵は、半眼を一度閉じ、開いて妻を見て、再び二人組に視線を戻した。
「……では、妻を攫ったわけではないと」
「攫ってない」
「妻は……こう言ってはなんですが、情が深いもので……意図的に接触したこと自体が、罪に当たるというか、話しかけた時点で情が湧いてしまったのが良くないというか」
「オッサン過保護すぎんだろ、どんだけ妻に執着してるんだよ。こっちはそういうのないから。攫おうなんて気、起きねえよ」
「お庭で話しかけられたから、立ち話もなんだからってお茶を飲みに出ただけですから!」
まゆらの話では、攫ったようなものに聞こえる。
瑠璃子は舌打ちしたが、御陵は、妻ばかり気にしていた。
「あのっ、奥さんは、貴方のことが大事みたいで。私たちのこと、お茶する友達くらいの遠さで見てくれてるかもしれないけど、貴方が決めるべきことは口出しできないって、言ってました」
まゆらが実際に妻の肉声を聞けるわけではないが、店での話を端的にまとめるとそのような結論だった気がする。
御陵はとりあえずといった風情で、財布を取り出した。金で解決するつもりか、と苛つく瑠璃子に、御陵は、妻のお茶の代金を払うと答える。
「あなたがたが払ってくれたのでしょう。申し訳ない。妻は、その、結婚当初よりはずいぶんと人の世に慣れてきてはいるのですが、店に入るのは初めてで、作法も分からずに奢っていただいたのでしょう」
「神様気取ってるやつのすることは、貢ぎ物か捧げ物をされることだろ。自分の手持ちから払う時は、クソみたいな厄災を良いものみたいな顔で押しつけやがる」
「ええと、つまり、瑠璃ちゃんは、奥さんはそういうものなので黙って奢られてていいです、ってこと…かな?」
「しかし、貸し借りは」
渋る御陵に、では、とまゆらは居住まいを正す。
「瑠璃子ちゃんの……貴方が描いた紙の、防水というか、長持ちのさせ方を。教えてください。教えてくれなきゃ、泣きます。奥さんの、お友達になるかもしれないか弱い女子高生二人を、このまま追い返すんですか?」
そういうことをする(かもしれなかった)から警戒されたのではないか、と思いつつ、瑠璃子も隣で御陵を睨み、圧をかける。
妻はどうしたものかとおろおろし、部屋を行ったり来たりしている。御陵と瑠璃子の視線がそれを追いかけ、次第に、それぞれの表情が恍惚と嫌悪に分かたれた。
「私のありようが不自然であろうが、あんたの妻と比べたら些細なことじゃないのか? そいつ、どこから来てどこへ行くつもりだったのかは知らないが、ここに祀られてる場合じゃないもんだろ。本当なら、ここにあるべきじゃない。それは分かってるんだろ? 私が死んでて、紙切れで蘇ったとして、今ここにいて意志があるんだ。あんたの妻がここに居たがって、ここに置いてやるのなら、こっちの意志にも情状酌量があってしかるべきじゃねぇのか」
瑠璃子の方便に、御陵がうめく。妻がゆらゆらと姿を見せる。まゆらにも見える、薄ピンク色の肉。柔らかそうな、臓物の色。
臓物?
「分かった……やってみよう」
鎮魂のためであり、長くもたせるための技術は磨いてこなかった、だからうまくいくか分からない。試してみるが、試作に時間がかかる。その、時間が、間に合わないかもしれないが、許してくれるかと御陵は言う。
「一時しのぎのための技術も、今は浮かばない。膠で覆う、いっそ防水スプレーを使う、ビニールコーティングするなどは案としてあるが、それで紙自体の何かが妨げられて、死に直しでもすれば、二度と今の形には戻れないだろう。だから、他のものには悪いが……いくつか、似たようなものを作って、試してみなくてはならない」
「いいぜ、ちゃんと手入れしてもらえるならそれで」
御陵はつまり、信条を曲げて、意図的に生きた野菜や鳥獣を作り出し、瑠璃子のために長持ちさせるための実験をすると言っているのだ。
結論が出るまでの間、生活で気をつけるべきことを教えてもらい、まゆらが記録する。瑠璃子は面倒がって話を聞くだけだったのだが、それでは数日後に忘れてしまったら困る。
「ところでオッサン、あんたの妻は、私と同じような紙でできてるのか?」
「いや……この形に近いものとして、降ってきた。私が描いたものではないよ。この天女の美しさは、私の腕では描ききれない」
「ふうん……」
天女か。
瑠璃子は目をすがめた。
妻は再び姿を隠し、まゆらどころか瑠璃子にも見えなくなっている。透明な、物音だけを立てる何か。
関わり合いになりたくないが、余計な縁があることは確かだ。
(本当は、解放してほしいんだろうが)
瑠璃子は顔を顰める。
どれだけ夫を好んでいても、情があってここにいるのだとしても。
この化け物は、普段は庭から出られないのだ。夫は妻を失うことを恐れて、外に出したがらない。
出せば、妻は去るだろうから。
情があっても、妻はそもそも、ここに降り立って暮らすつもりではなかったはずだ。
行くつもりの場所が、他にある。
古来、天女は羽衣を松にかけ、水浴びをする。漁師が羽衣を隠し、帰れなくさせて、妻とする。
御陵は、何を隠して妻をここに留めているのか。
(あ〜面倒くさい……)
不気味な肉塊にして、あざやかで恐ろしい力を秘めた何者か。
これが、本当の本体でなく、何かの落っことした一部でしかないとしたら、ひどい悪夢だなと、瑠璃子は思った。
※
猫です。猫。猫は良いもの。良いものよ。撫でてもいい。たまにご飯をくれてもいいのよ。
日本家屋の庭に、ぞろぞろと猫が集まっていた。屋敷の表側は洋館、裏手は和風で、文明開化の頃に流行った様式だとキセは言う。
猫にまとわりつかれ、日向と銀色は嬉しそうだ。裄夜もちょっと撫でさせてもらう。身は柔らかく、肉球はかたい。猫はごろごろと喉を鳴らして歓迎してくれるそぶりだ。
キセもまとわりつかれ、仕方なく手をのべる。その時、猫の前にぬっと割って入ったものがあった。
「な、中津川さん……」
「はっ!」
猫とキセの間に頭を突っ込んだ日向は、あれっ何でだろうと首を傾げるが、キセが思い切って頭を撫で、それから乱れた髪型を軽く直してくれたので、赤面した。
「何これ? 裄夜説明して」
「いや僕に聞かれても」
「シズクだった? 今私、シズクだったの?」
裄夜と日向がキセを見上げれば、彼は瞑目した。
「……お前が……裄夜が撫でればいい」
「何で」
改めて日向を見やると、ものすごく嫌そうな顔をされた。
「心外なんですけど」
撫でるつもりもないのに、もう犯罪者扱いの支線だった。
和風の庭に似合わぬような、黒いベスト姿の老年の男が、歩み寄ってきた。
「この度は呼びつけるような真似をいたしまして、申し訳ございません」
「いや、それは構わない」
キセが応じる。銀色と日向は、猫達が身を翻して走っていくので、一抹の寂しさから、がっかりした顔をした。
「主人は不在でございます。お伺いするのを忘れていた、と申しておりましたので、私めが代わりにお話をさせて頂けましたら」
「問いですか」
「確認事項でございます。屋内にお茶の用意もございますが、お急ぎでしたらここで。庭にも結界はございます、他言はありません」
「聞こう」
ありがたいことです、と男は恭しく頭を下げた。
「覚えてはおられぬかもしれませんが、戦前は主人と、私の父祖がお世話になりました」
見た目ではキセが若い。けれど彼がもっとふるいものだとは、裄夜も日向も知っている。どうやら銀色もそこそこ昔の生まれのようだ。
彼らに世話になった、という男は、見たところの年齢では、戦前の生まれのようには見えなかった。老いていてもその年齢とは限らず、もうかなりの年月をこの姿で過ごしているようだ。
「それで、話は」
「はい。見つかりましたか、と」
「……まだ」
「どなたのことか、までは主人は仰いませんでしたが、私めはいくつかの意味を汲みました。私からも、意味の確認をさせて頂けましたら。一族の主人は、どちらもまだ、と」
「主人ではないが、探している」
「承知しました。主人は探すことはできると言っています。探すと、気配に触れるので、機嫌が悪ければこちらに害が及びます。そこへ配慮頂ければ、手助けは惜しみません」
「先程も伝えたが、今、占ってもらいたいことはない。見つかるべき時に見つかるだろう。物事の順序があり、こちらの次第か狂うと、本来得られるはずのものが得られない恐れがある」
「成程。迂遠に探されたいと仰る。嫌味ではございません、私めは、我が主人のお力を、信じているものですから」
それを借りられるのに断るのが、不思議なのですよと、男は言う。
キセは微かに苦笑した。
「なりは歳を経ても、まだ気は短いな」
「覚えていてくださりましたか。貴方はいつものんびりしておられる。私も歳を経れば泰然とすると、思っておりましたが、何、戸惑うばかりです」
「然るべき時に、然る手を借りよう。主人に伝えよ、害のないように一族は努める。しかし大元が災害のようなものだから、それは手に余ることもある」
「許されよ、と。そうでしょうね」
何をなされるおつもりか存じませんが、人の身にも、そうでない身にも、ずいぶんとそれは災いのような面があるでしょう。
頷いた男は、猫を見失ってしょんぼりしている者達に、ちょっとしたお菓子と飲み物を差し入れてくれた。
「ほんの小さなことしかできませんが、元気の出るものです」
謙遜でもなくそう言うので、日向は早速一つ包みを開けて頬張る。裄夜も、差し出されたクッキーや和菓子をそっと食べた。さっきからこうして燃料ばかり注いでいて、まだ本格的には何もしていない気がするが、気疲れはしていた。
嬉しそうな彼らを尻目に、キセはいくつか男とやり取りして、表門から屋敷を後にした。
※
靄を振り切っても、すぐに湧いてくる。
「冷羽、どうしたらいい?」
カレンは、アスファルトの路面を踏んで声をあげる。道端の紫陽花は美しく咲く。色とりどりもさることながら、八重やガクが縮れたものなど、種類が多い。
寺院の石段を登り降りしても、いい案は出なかった。
現在の景色の上に、ふわりとグラスを被せるみたいに、ゆがみが生じて、そこへ白く靄が繁栄していく。
「ぜんぜん、抜けられないし! キセにもまた会えるのかと思ったのに出会えないし」
「すまない」
「何が引っかかるの?」
冷羽がためらいがちに答える。
「思い切りが足りない」
「思い切り?」
「あの繰り返しを、断ち切りたいが、救いたかった思いは消せない」
「助けたかった人たちのこと、諦めてしまえば、幻の繰り返しは止まるって、冷羽は考えてるの?」
伏し目がちに、冷羽は頷く。
「諦めたら繰り返しは止まるけど、諦めたくないんだよね?」
責められていると感じるのか、冷羽は顔を上げようとしない。カレンは、思い切り強く、冷羽の手を引っ張った。
「助けたいんだよね? 私も、あの人たちを放り出すのは嫌。だったら」
カレンが声に力を込めた。
「その幻、私にちょうだい!」
冷羽がややあって、瞬きしながら顔を上げた。
何だって?
その表情に、カレンはいっそおかしいなと笑いが込み上げてくる。
「私、きっと予定外なんだよ。冷羽一人では出られないなら、冷羽じゃなければいい。幻的には、初対面なんじゃない?」
「いや、何を言っているのかうまく把握できないんだが……」
「幻は、うまく取り込めば思い通りにできるんでしょう? 本当は、冷羽が取り込んで、幻を手に入れた後で夢の中でみんなを助けたら気が済むと思う。でも、取り込んでからだともうあの夢に辿り着けないって思ってるんじゃない? だから、私が幻をもらって、冷羽の夢はそのまま見続けて、みんな助けてから、私と冷羽で旅立とうよ。私が、何が何でもハッピーエンドにする!」
「いや、カレンに幻の精算をさせるわけにはいかない。だから、迷っている……私が幻を抑え込んだら、君は、私ごとその幻を封じたまま生きていかなくてはならない」
冷羽抜きにカレンが引き受けても、冷羽が引き受けても、同じこと。結局は、カレンに冷羽が同居しているようなもので、幻のありかはこの体と魂になる。
冷羽は、カレンに、因果を引き継ぎたくない。
「あの夢に未練があるわけじゃなくて? 私のため?」
「ないとは言えない……引き継がず、夢の蹴りもつけられたらと」
これまで長年、幻を切り離す方策も浮かばないまま彷徨ってきた。今更それが、できるとも思えない。幻を、また抑え込むしかないのだ。覚悟を決める以外の道はない。そう知ってはいても。
躊躇ってしまう。
最上の望みが叶えられたらどんなにいいかと、迷ってしまう。
はぁ、とカレンが大きめのため息をついた。
「いいよ別に。ほんっとーに邪魔になったら、冷羽ごと放り出したらいいんでしょ?」
あっけらかんとカレンは請け合う。
「今、それしかないなら、私はそうする。貴方が見つけられなかった道でも、これから先、私が見つけるかもしれない。今じゃなくてもっと先かもしれないし、結局私だってうまくできないかもしれないけど、でも、このままぐるぐるしててもお腹空くばっかりだもん! 冷羽、一緒に行こう。村の人たちにごめんねって、さよならって、言いに行こう」
カレンが差し伸べた手を、冷羽は迷いながら取った。カレンは思い切り強く握ってから、
「じゃあ、次が最後ね!」
と、勝手に決断した。
※
繰り返しを続けるうちに、少しずつの差があることは知っていた。本当の、過去のあの日に、あの時間に、誰がどこにいたのかなんて、その場を離れていた冷刃には分からない。だから、きっとそうだったに違いない、と思える場所に、村人は配置されている。
そのことが、たまらなく悲しくて、でも少しだけ救いだった。
本当にこういう死に方をしたわけではない、のだから。
その罪悪感を、カレンは、仕方ないよと撫でていく。
誰にでもある、手の届かない間違いだ。手が届けば救えた、けれど、もういない、そこには行けない。
いつだって、選択したことだけが、残る。
冷刃は、縁側で相手に向き合った。
「実は急に、旅に出ることになってな」
「ほう」
「夕方にはここを立つ」
「本当に急だな」
「謝っておきたいことがあって……」
少しでも言い淀むと、そのまま、刻限になりそうで。説明しなくてはとか、そういう細かな配慮は、考えられなかった。
これは夢で幻だから、分かってくれる、と、信じるしかない。
「お前たちが死ぬのを助けられなくて、すまなかった。何度繰り返しても、どうにもしようがなかった。私が諦めるのを……私だけ、このまま去るのを、許してほしい」
「いいよ、そんなことは」
夢はすんなりと頷いた。何度も、思い通りにならず、死んでいった仲間の姿で、今回の夢は。
「さっき、お前に似た若い娘が、未来から来たとまくしたてていったんだ。死ぬと言われても、そうか、そうなのかと、思えた。普通は納得などしないけれど、何故だか、嘘ではない気がしてな。お前だって、そんな冗談を言うほうじゃなかっただろう。だから、納得はしづらいが、そういうこともあるのかと思った」
夢の中、友人は、腕を広げる。年若い友人。剣の腕は確かで、快活で、よく学んでいた。冷刃よりずっと、人々に愛されていた。誰にだって好かれていた。
失いたくなかった者と、抱擁を交わす。友人は、冷刃、もっと強くなるんだろ、と笑っている。何があっても。道が分たれても。どんなふうになっても。お互いに恥じない生き方を、するんだろう。
だから、お前は行け。行っていいんだよ。
お前はこれを夢だというが、ずっと抱えてきたのなら、足手まといにはなりたくないよ。
「それでも気になると言うのなら、たまには供養をしてやってくれ」
「……すまない」
「お前の武運を、幸運を、安全を、祈っているよ」
「冷羽っ! 獏が来るよ!」
カレンが、ゆらめく木々の間で叫んでいる。
別れを惜しんで、けれど友人は、冷刃をもう一度抱きしめて、離した。
「行ってこい!」
「あぁ、行ってくる」
そうして冷刃は刀を抜き、白い靄を斬り払って、カレンの隣に駆けていった。
「遅くなってすまない」
「冷羽は謝ってばっかり! そうじゃないでしょ」
カレンは少し怒ったように言う。
「私がいて、良かった?」
「あぁ」
「じゃあ、ありがとうって言うのがいいよ」
「……ありがとう」
初めは呆然と、つられて口にした言葉だった。
言葉を自分の耳にして、やっと、心が追いついた。
「ありがとう、カレン」
万感のこもった礼だった。カレンはくすぐったそうに笑って、
「じゃあ、冷羽。お兄ちゃんができたみたいで嬉しいから、今度一緒にデートしよ」
首を傾げる冷羽の手を引いて、カレンは進む。
靄は晴れ、何もない広々とした空間には、他に誰もいなかった。
「幻を制御できるなら、どんな場所にでも遊びに行けるでしょ? あ、でも、それはもっと後に取っておこう。これから、いろんなところに出かけようよ、それを覚えていたら、いつだって思い出の中でも遊べる」
幻のことを、苦しみと共に抱えてばかりだった冷羽は、カレンの、当たり前のような楽しさに、その眩しさに、目を細めた。
「そうか……そうだな。カレンが望むようにするといい」
「私だけじゃなくて、冷羽も、でしょ」
まだ抑え込んだだけで、うまく制御しきれている感触は少ないが、この明るさでもって、幻は別種のものに変わるかもしれない。
カレンが、夢の端の方にわずかに残る、助けようとしてくれた僧侶、朱雀やキセのように見える何かに、あいている方の手を振った。
彼らの姿も、解けて消える。
「そういえば、冷羽って、もともとは、冷たいに刃って書くんだね」
さっき、友達だという人に聞いたのだと、カレンは言う。夢の中のこと、幻のことだけれど、カレンは、きちんと会話した「ひと」として認識しているらしい。
「つよい剣になるようにって。刃の文字を入れていたんだって。羽に変えたのは、幻のせい?」
「そうだな」
そのままの名では、名乗っていられなかった。同じ姿形を持つけれど、もう戻ることはできなかったから。
幻の、閃くような動きは、儚さは、蝶の羽に似ている。ただの刃であった頃とは違う、人ではない何か、だ。
「幻を食べると、長生きになるの? その姿は、ずっと変わってないんでしょ?」
「おそらくはそうだろう。あまり意識したことはなかった」
「ふうん。じゃあ、冷羽を呼ぶ時とか、メールや手紙の時は、刃じゃなくて羽の方がいい?」
「それはどちらでも、カレンがいいように……いや、羽の方で」
カレンに睨まれて、冷羽は苦笑しながら応える。
刃ではなく、羽としてカレンに出会った。
あのまま、幻と共倒れして、誰かに葬り去られていてもおかしくはなかったのに、カレンがいたから、生き延びたのだ。
君が望むから、ここにいる。
せめて、きっと、君を助けられるよう、側にいよう。
※
急に、湿気の多い空気を吸い込んだ。
カレンはむせる。冷羽がその背中をさすった。
身長差はほとんどないが、冷羽の手は優しく、カレンよりもずっと力強い。
「すごく似てるけど、何となく違うんだね」
「? あぁ、顔か」
下緒もなくした刀は、腰帯に挟む。見た目の年代のお陰で真剣にはとても見えない。このまま、どこへ行けば良いだろう。
「そうだ、家に帰らなきゃ。病院から抜け出したんだよね? きっと心配してる……」
「いや、待て」
ほんの少し先、路面に黒い煤が広がっている。
み、つ、け、た!
獏の形が猛然と立ち上がる。
冷羽は驚くべき速さで一太刀浴びせ、かえす刀で薙ぎ払った。
それでは煤が散るだけだ。と、思ったが、崩れた煤は靄のように薄くなり、消えていく。
ふ、と一度息を切って、冷羽が血振りの動作をし納刀した。
「しばらくは実体を持てないだろう」
「思い切りが足りない時の冷羽にはうまく斬れなくて、今の冷羽には斬れるんだ……」
「まぁ、そういうことにはなる」
今斬ったことを褒められているのか、先程斬れなかった怒られているのかどうか分からず、冷羽は尻すぼみに黙った。
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