第四章 追うものたち

 それほどセキュリティの厳重な学校ではないらしい。門扉は閉じられており、裏門には警備員代わりに監視カメラ作動中の札が下げられているが、部活動中の学生は自由に出入りしている。

 半ば後ろめたく思いつつ、卒業生と言い張るつもりで、裄夜と日向は敷地内に入る。

 どこまでも普通の、ただの学校だ。

「カレンちゃん、居ないっぽいね」

 騒ぎの起きている様子はない。

 庭木の紫陽花に、ゆらり、と白い靄がかかっている。

 ふいに裄夜は肩をひかれた。和装の男が、金色の目をすがめて立っている。

「キセ、どこ行ってたの」

「何を探している?」

「何、って」

「カレンちゃんに決まってるでしょ」

 日向が答えつつ、手持ち無沙汰気味にお菓子を頬張る。キセはそれを一瞥した。

「探して、どうする?」

「探して……トラブルが起きていれば助けようと思うし、無事なら連絡が取れるようにしておきたい」

 裄夜が答えると、キセは少し思案した。

「……これから、「夜」が来る」

「夜?」

「夜と呼ばれる、人の見る幻を食うことを好むものだ。特に悲鳴や苦痛を好む」

 靄が、濃くなっていく。

「本来であれば、冷羽一人で消すべき相手だ。けれど、迷っている」

「冷羽が? カレンちゃんが?」

 日向が、お菓子を食べる手を止めた。

「前者が。自身の食った力との相性も悪い」

「冷羽の力、じゃなくて、食べた力なの?」

 キセが言い淀んでいるうち、校門の方が騒がしくなった。学生が数人、校庭に向けて走ってくるが、途中で倒れた。

「何、あれ」

 白い靄に覆われているというのに、真ん中に黒い塊がある。

 ぐお、ぐお、と吠えたそれは、怯える者や昏倒後も魘される者たちを楽しげに舐めて歩いていた。

「あれが、夜?」

「そうだ」

「どうして冷羽が一人で倒さないといけないの?」

「……冷羽が招いた事態だから、だ。あれは、冷羽が制御し損ねた幻を、食おうとして、追ってきている。その辺りの学生のことは、ついでだろう。そんなものより、冷羽の持つものの方がよほど腹が膨れる。そちらが本命だ」

 冷羽が食って得た幻。それは、一体、

「うわこっち来る……」

 日向が呟いて、つ、と表情を改めた。

「もしかして、シズクのほう?」

 裄夜に対して、日向は、ちら、と視線を返す。

「わん」

「あぁやっぱり、シズクなんだ……」

「別行動できるように、カロリーで補おうとしていたようだが、間に合わなかったな」

「えっ、僕とキセが別行動してるのもカロリーの問題なの?」

「状態の安定性の問題だから、違う。シズクは、無理矢理飛び出そうとしたから……走り回るだけの体力を、中津川日向一人の体から捻出するのは、足りないと思ったのだろう」

 黒い塊が、のたりのたりと近寄ってくる。

「あれ、何か追い払い方とかないの?」

「夜は獏のようなもので、夢を食べて腹が満ちれば、しばらく停止する」

「夢を食べられた人はどうなるわけ」

「ひどい気分になるし、二、三日うなされる。体力も衰えるが、数日で回復する」

 シズクが唸り声をあげて威嚇している。夜は構わず前進したが、ふいに耳を澄ませる仕草をした。

 見つけた。

 にたり、と笑うと、体育館に駆けていく。

「キセ、夜は冷羽の幻を食べるために、冷羽を追いかけてるんだよね?」

「そうだな」

「夜を追えば、千明カレンにたどり着くってことか」

 キセは肯定も否定もしなかった。

「何か言いたいことがある? あるのに黙ってたら、僕には分からないよ」

「いや……迷っている」

「迷ってる? それでいろんな人が大変な目に遭ってる気がするんだけど」

「冷羽を、引き取りたいか?」

「……分からない。けど、あの子が大変な目に遭ってるなら、見過ごしたら寝覚めが悪いよ。たぶん、千明カレンさんも、僕らと同じで、何かに巻き込まれてるんだろう」

 キセが、少し困ったふうに瞬きした。いつも落ち着いて見える相手から、そんな、素直な反応があるとは思わず、裄夜はキセの袖をひいた。

「キセも事情を教えてほしい、困ってるなら、何もできないかもしれないけど一緒に怒るから」

「うう」

 シズクが唸って、待ちきれずに体育館へ駆け出す。キセの袖を掴んだまま、裄夜も後を追いかけた。

 校内のどこへ逃げても、靄が来る。

「まだ、あれは本体じゃない」

 走り疲れて、理科室にしゃがみ込んだカレンに、冷羽が教える。

「追ってくるのは、獏だ。靄の一部は、獏が伸ばした枝葉のようなものだ。私はあれが何か、よく知らないが、私が持つものを狙っているのだとは思う」

「冷羽の、何を?」

「幻を」

 和装の少年は、どう答えたものか苦慮しているようだった。

「私は、元は人間だった。あるとき、これを封じてからは、行き先をなくした」

「幻って、呪術か何かなの?」

「そんなようなものだな」

 ときおり、冷羽が何かを構えようとする。カレンは剣道部にいたこともあるから、教師が真剣の居合いを見せてくれた日のことを思い出した。

「冷羽は、武士なの?」

「では、ないな。結局、その息子であっただけで」

 ゆらりと揺蕩う靄に、何度か垣間見た景色が映る。

 友人達、家族、勉学や稽古の日々。田畑を耕すこともあった。

 その美しい日々と、今とを繋ぐ鍵が、見えそうで、カレンにはまだ見えない。

 がたん、と靄が扉を鳴らす。

 冷羽が、カレンの手を引いた。何度か、冷羽は背負って走ろうとしてくれたが、体格がほとんど同じなため、カレンは負担をかけたくなかった。

 よろめく足を叱咤して、カレンは自力で走る。

 どこまで? どこに行けば。

「冷羽は、あいつよりたぶん強いんでしょ? それなら、何で倒してしまわないの?」

「今、靄の何割かは、獏ではなく、私が内側に封じたものが溢れ出ている状態なんだ」

 獏よりも、その方が問題なのだと、冷羽は呟く。

「力がうまく使えないってこと? 術みたいなものが使えないなら、冷羽、刀があれば、あいつを切れる?」

「おそらく」

「体育館に、剣道部の先生がいたら、もし居合いの見本を見せてくれる気があって刀を持っていたら、借りよう」

 貸してくれるわけがないが、それでも無理を通すつもりだった。

 他に当てもないためか、冷羽が従う。


 体育館に、知り合いが何人かいた。それぞれ、目も口も大きく開けて、カレンを見やった。

「えっ、千明?」

「お前何なの」

「どうしたその格好!」

 同級生が慌てて、病院着のままのカレンに、予備のジャージを貸してくれる。受け取ったが、着替える暇はなさそうだ。

「ありがとう、でも説明できないんだけど、すぐここから出て! 何かよくわかんないけど危ないんだよ」

「そのお兄さん、お兄さん……お姉さん? えらく綺麗な人だけど、千明の従兄弟か何かなの?」

「ずっと入院してただろ、大丈夫か?」

「危ないって何が?」

 口々に次々と話しかけられて、冷羽も戸惑ってカレンに視線をやる。

 カレンは自分の用事だけ口にした。

「先生は? どこ?」

「自主練って言って、さっきからどっか行ってる」

「ええ〜! 刀借りたかったのに」

「借りれないだろアレは」

「借りなきゃ意味ないよ! どうしよう」

 ひや、と足元が寒くなる。

 白い靄が、ぬるぬると、開け放した間口から入り込んでいた。

「来ちゃった……!」

 カレンの声につられて出入り口を振り返った同級生らも、異変に気づいた。

「何だアレ」

 扉に近い者から、ばたんと倒れ始める。

「何だ酸欠か? 貧血か?」

 靄から遠い者たちが、初めは助けに行こうとしたが、あまりに次々倒れるので、悲鳴をあげ、他の扉から外へ飛び出した。

「千明! 早く来い!」

 知り合いらが呼ぶ。

 カレンは迷ったが、冷羽が竹刀を拾ったのを見て、その場に残った。

 迎え撃つつもりがあるのなら、見たい。

 しなやかな剣さばきを。

(この人、たぶん強い)

 怪しいものが襲いくるというのに、カレンは、妙な好奇心を抱いていた。

 体育館に入る寸前、キセが錫杖を振った。さっきまで手に何も持たずにいたが、服装も僧侶めいた袈裟が増えている。

「えっ何それ」

 喋ろうとした裄夜は、途中で首根っこを引きずられてうめいた。文句は、さっきまで自分の立っていた場所に突き立つものを見て、霧散する。

「何あれ」

 ぎらつくのは、銛の先のようなもの。すぐに溶けて消える。

「やっと! 見つけましたわよ」

 凛と、やや幼なげな声が響いた。裄夜は問おうとして、キセが心底面倒そうな顔をしているのでなるほど知り合いだなと理解した。しかも面倒な知り合い。

 西洋人形のように、フリルのたっぷりとついたドレスワンピース、つやつやの革靴は、湿度が多いこの国の、梅雨の季節に似合わない。金の巻毛も、作り物のように輝いていて、真っ青な目はひときわ、美しく照りはえていた。

「あれ何? 術者か何か?」

 というか、以前、見かけたことがある気がする。その時は、もっとおぞましいもののように見えたが、多少の毒気が薄れたのか、疲れているのか、幼げな子どものようにも見えた。

「あれは、昔術者が道具にしていたものだ。明治期に、術者ではない者が買い入れて、普通の生き人形として連れ歩いた」

「うん待って、確認したいことがたくさんある」

 あるが、説明を聞く時間の余裕がなさそうだ。

「わん!」

 シズクは屋内に入り、ものすごい物音を立てている。何と戦っているのか、体育館の、うろのような天井の高さに、ずどんと重たい音が響く。

 キセが、このまま足を止められても困ると思ったのか、端的に説明した。

「あれはアンセルムスの剣。剣は自らの正義のためにふるわれる。元は、海の向こうから渡ってきたものだ」

「キセの知り合いなんだよね?」

「知り合い……」

 腑に落ちなさそうだ。

 対して、相手は地団駄を踏んだ。

「何ですその態度は! わたくしを弄んだのね!」

「弄んだの?」

「違う。術者としてはほとんど関わっていない。明治期に仮住まいしていた辺りに、それの主人が転居してきた。そこから戦前まで、たまに道端で出くわすことがあっただけだ」

「そうなの?」

 裄夜の問いかけに、アンセルムスの剣は地団駄を踏んで返した。

「それだけ? それだけですって? さんざん、わたくしを馬鹿にしたくせに! 道具のくせに切れ味のない、凡庸なものだと馬鹿にしたくせに!」

「そんなことしたの?」

 呆れた顔で見やれば、やはり腑に落ちない表情が返される。

「していない。そうだな……本人が、戦闘力が活かされないと嘆いていたから、呪術の世界から抜けられるなら、それで済むなら主人を守って静かに暮らすのも悪いことではないと言った気はする」

 大きな行き違いがあるようだ。

「えぇと、とりあえずアンセルムスの剣さん」

 裄夜が声を掛けると、美少女はぎらりとした目を向けてきた。

 その両手には、鋭く尖らせた、鉛色の何か。氷、だろうか。ぽたりと、水滴がたまに落ちる。

「貴方はどうして今、ここにいるんですか? その、キセのこと怒って、引っ叩きに来たんですよね? でも、怒ってる原因は、ものすごく昔だ。これまでの間に、何度か、他に機会があったのでは?」

「何度も言いましたわ! ぜんぜん、お話にもなりませんでしたけれども。でも、どこかには居た。文句は何度か、言いに行けました。たびたび見失うことはあっても。でも……」

 戦後、アンセルムスの剣は、キセを見失った。主人はただの人間で、アンセルムスの剣を娘か妹のように可愛がったけれど、長い時間のうちに寿命を迎えた。行き場のない人形は、人手をくぐり抜けながら、探していたのだ。あの頃を知る、懐かしい者を。

「ぶちのめすためにわたくしは来ましたの。主人が生きているうちは、全力で戦えませんでしたから。何しろ、可愛いお嬢様でしたもの。主人の前では、大人しくしていましたわ。でも、今は違う」

 このドレスも戦闘服でしてよ、と彼女は呟く。古びてはいるが、手入れのされた衣装だった。彼女は愛おしげにそれを撫で、そして、思い切り手を振りかぶった。

「わたくしの全力を、お前に見せておきたい!」

「だから、何で今なの!」

「そんなの決まっていますわ、やっと、今になって、気配を見つけたから。それだけです」

「今それどころじゃないんですけど! 何で怪異とかって、人の話あんまり聞かないの? 怪異だから?」

 知らぬ、と言いたげなキセが、少女に構わず屋内に踏み込む。氷の刃が追いかけてきたが、それはキセにも裄夜にも当たらない。靄を突き払って、少しだけ視界を明るくした。

「わう!」

 シズクがキセの側に戻ってくる。

 屋内では、何人か、逃げ遅れた学生が倒れている。

 立っているのは、キセ、シズク、裄夜、後ろからにじり寄るアンセルムスの剣、それから。

「あれは……冷羽?」

 竹刀を構えた冷羽、その後ろにカレンがいた。

 彼らの前には、にたりと笑う、黒い塊。

「冷羽」

 キセが一声投げて、一振りの刀を放り出した。以前、裄夜が、必要と言われて取りに行かされたものに似ている。

「どこにしまってたの……」

 裄夜の呟きをよそに、冷羽が機敏な動きで刀を受け取った。

 竹刀はすでに数度使われ、何本か引き裂かれて、取り替えられているらしい。足元のそれらを蹴散らして、冷羽は素早く鞘を払った。

 ぐあう、と、獏は伸び上がる。辺りの、靄という靄を吸い上げる。後ろで、巻き込まれたアンセルムスの剣が文句を言う。

 冷羽が靄の端をひらりと切り裂く。端だけのはずが、見る間に裂け目は広がり、黒い獏の真ん中を両断する。耳が壊れそうな叫び。ぼろぼろと、獏から黒いものが飛び散る。さまざまな悪夢の欠片は、嫌になるほど明晰に、触れたものに流れ込む。

「うわ」

 煤のようなそれらを、シズクが裄夜の前に出て、手で薙ぎ払った。けれど触れた以上は、悪夢は流れてくる。よろけたシズクが、

「あれ……私、今、」

 瞬きのうちに、どうやら日向に切り替わったらしい。悪夢を嫌ったか、押し負けたのか。

 キセが錫杖で軽く方円を描いた。結界。黒い煤は、それを避けて床に降り積もる。

「冷羽、迷うな」

「分かっている」

 獏が叫ぶ。散り散りになった煤が、ぶわりと細かく散ってから、再び獏の内側に吸い込まれた。

「冷羽!」

「分かっている!」

 今冷羽の手にある真剣は、何年もまともに抜かれていない。けれど裄夜が回収した時点で、中城が手入れをしたはずだ。錆も曇りもなく、しんと静かに、白い光を跳ね返している。

 静かな刃先だ。

 カレンは、ふと足元を見やる。

 靄が揺らいでいる。

 それは獏からも流れているが、同時に、冷羽の足元からも流れ出すように見えた。

 冷羽の言っていたもの。

 幻の。

「あ、痛っ」

 ちかりと、目にゴミが入るように、誰かの幻が視界を奪った。濃厚な何か。

 白い、白い闇だった。

 ふと誰かがわらう。わらう。低い声が聞こえる。美しい声だ。力強い、濃密な白い闇の向こうに、誰かが立っていた。その声が言う。幻の、端切れを見ただけの分際が、触れようというのか?

「え」

 ぐい、と冷羽がカレンの腕を掴む。切羽詰まった眼差しが、カレンの視線が定まると、ほっとしたように和らいだ。

「すまない」

「っ、だから、謝らないでって、言っ、」

 獏に背を向けたのは、完全な油断。

「冷羽! 後ろっ!」

 カレンの叫びに被さるように、

「真面目にやれ」

 飛び上がる獏を、キセが錫杖で吹き飛ばした。

 冷羽は、ちらりとキセを一瞥する。

「分かっているが、そちらにも非が無いと言い切れないだろう」

 キセはため息を返す。

「幻の、本体が来ても面倒だ。早く片をつけろ」

「分かってる」

 けれど何か足りない。冷羽が呟く。「あのときと、何かが」

「冷羽っ、靄が」

 カレンが冷羽の肩に触れる。白い靄は、今や獏よりも多く冷羽から溢れている。

 顔色をなくし、冷羽が刀をいったん鞘に戻す。

「獏はどうする」

「そちらで討てるか?」

「討てなくはないが、すぐに戻るぞ。これは元は実態がない。夜更けに移動することが多いから夜と呼ばれるが、どこからでも集まって増える……ここまで育ったのは、」

「私の不制御のせい、か」

 キセが結界を解き、反転させる。結界の内側に、獏を。

 暴れても、煤は内部に溜まり、また獏に吸い戻される。繰り返し、繰り返し。

「あまり保たない。どの程度待てば、制御する見込みがある?」

「分からない」

 煤が膨れ上がり、結界を吹き飛ばした。

 冷羽は、獏に近寄るとかえって自身の幻を奪われるため、退くことにした。

「あてはないが、行ったことのある辺りを通って、足りないもの探す」

「本当だろうな?」

「逃げもしない。私が隠れていたのは……そのことは、多少解決した」

「冷羽が隠れてたのは、私を守るためでしょ? 表立って動くと、獏がまた来るから。事故のあった日、車や人に異常を起こさせたのって、獏なんでしょう? 冷羽はあの頃はまだ、全然出てきたことがなかった。私が動けなくなってからだ」

 動けないということに、気づかないまま、カレンは夢うつつに、冷羽の力を利用した。それで冷羽も目が覚めたのだろう。自身が意識を持たなかった間に、幻を抑え込む力が弱まって、それが溢れ出していた。戻そうとしたが、うまくいかない。カレンが一部を使い、冷羽が制御に苦慮しているうちに、また獏が現れた。

 獏からの攻撃を、キセが払っていたが、やがて周りの学生らがゆらゆらと起きあがった。一様に悪夢にうなされ、具合が悪そうだ。彼らは本人達の意識とは無縁に、操り人形のように手足を振り回し始めた。

「冷羽、あの人たち、同じ部活の仲間なの」

「分かっている」

 刀は使えない。

「任せる」

「離脱は自力でしろ、こちらも回避する」

 冷羽に応じて、キセが裄夜の首根っこをつかまえた。

「キセ、ちょっと! 他にも呼び止める方法あるでしょ」

 何が起きているか、どうしたらいいか分からずにしがみつく日向を抱えて、裄夜はキセに振り向いた。

「逃げるぞ」

「えっ」

 言うが早いか、キセが錫杖で煤を払いながら屋外へ飛び出した。一瞬取り残されかけたが、裄夜は日向と共に、全力でキセを追いかける。

 反対側の戸口へ、冷羽がカレンを連れて離脱した。

 取り残されたアンセルムスの剣は、

「何なの!」

 と、大変道理のあることを叫んでから、氷を煤達にぶつけていった。

 氷で動きを止め、水の中に煤を取り込み、どんどん押し流していく。学生達は氷に殴られて倒れていく。

 埒があかないからか、求める幻の宿主が消えたからか、獏は煤を残して逃げていった。


 体育館を出てすぐ、少年が裄夜達の前に転がった。

 好きで邪魔をしたわけではなく、転んだらしい。

「大丈夫?」

 余裕はないが、裄夜は少年を助け起こす。

「ありがとうございます!」

 へろへろした声で、少年が礼を言う。その服装、手足の細さに、見覚えがあった。

「あれっ、君もしかして……」

 一方で、キセが構わず行ってしまうので、裄夜は呼び止めようとして数歩進んだ。日向も大分通り過ぎていたが、振り向いて、勢いよく立ち止まる。

「ま、待ってください!」

 少年は荒い息をつき、膝に手をついて声を枯らした。

「待って……あの、決して怪しい者ではないんです、話を聞いて」

「もしかして、カレンちゃんの、お隣のいっくんって貴方?」

 日向の問いかけに、少年が頷いた。

「えぇと、何で知ってるんですか? いや、こっちも、いろんな事情があって、友達を追いかけてるんですが、あの、体育館ですごい音がしてたけど、何があったんですか?」

 少年も混乱しているらしい。裄夜は少年の手を引いた。

「事情は後で聞くよ、今はそれどころじゃなくて」

「え」

「逃げなきゃならないんだ」

「え、何で」

「それは、」

 日向が裄夜を遮った。

「探してる友達って、カレンちゃん?」

「はっ、はい!」

「カレンちゃんのこと、どう思ってる?」

「はっ? えっ? 大事な友達です……」

「そっか、私たちも。一緒に逃げて、立て直して助けに行こうよ!」

 特に何のプランもないわけだが、日向の堂々とした態度に釣られて、少年は頷いた。よろめきながら、走り出す。


 その背後から、少年によく似た、美しい金色の光を纏う者が現れた。

「銀色、どこに行くの?」

「ひぇっ」

 少年は足を止めない。

「えっあれ明らかに人間じゃないんだけど、いっくんはどこで何があったの?」

「中津川さん、後で落ち着いてから聞こうよ!」

「だって何かやばいよ?」

「ねぇ、それなあに? 金色よりも大事なの?」

 金色の者が、滑るように走ってくる。早い。

「早いはやい! 裄夜! 何とかして!」

「そんなこと言われても!」

 さらにその背後、体育館を出た辺りで、取り残されていたアンセルムスの剣が、怒りに任せて両手をかざす。

「最大限……目にもの見せてやりますわ!」

「だから何で今!」

 曇り空の中、上空にひときわ大きな影が生まれる。見る間に雲の水蒸気を吸い上げ、巨大な氷の塊が育つ。

「あれ、落とすつもりか……!」

 日向が速度を上げる。早い。

「えっ、中津川さん?」

「わん」

 シズクに切り替わったらしい。シズクは、遅いと見なしたのか、裄夜と少年を、左右に俵担ぎにした。

 呆然とする男たちの感想を待たずに、アスファルトの路面を飛ぶように駆けていった。

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