第三章 描くもの

「訪ねるのが遅くなって、ごめんなさい。ずっと、気にはなっていたんです」

 日向が、意を決して真剣に話し出した。

「カレンちゃんとは、同じものが好きで知り合ったんです」

 何を言い出すのか、と裄夜が日向にうろんげな視線をやる。カレンの母親にしても同じで、いったい何を介した知り合いなのかと思い、不可解そうだ。

「カレンちゃん、アイスが好きで。新製品の話とか、旅先で見かけた限定品の話を、やりとりしてて」

 日向がいくつかのメーカー名を挙げていく。心当たりがあるようで、母親の眉間が和らいだ。

「きっと忙しいんだろうとか、アイスに飽きたのかもしれないとか、いろいろ考えたんですけど、たまたま、知り合いがカレンちゃんが入院してるって教えてくれて……何があったんですか?」

 千明カレンが明良を使い走りにしてアイスなどを集めていたのは、裄夜や日向にとっては、周知の事実。幸いなことに、自宅でもアイスにこだわりがあったようだ。

 そういうこともあるだろう、と母親は頷いていた。

「せっかく訪ねてくださったのに、ごめんなさいね、今はそれどころじゃないの」

 中学生だったカレンが、近所の小学生とともに、トラックにはねられたのは随分と前のこと。昏睡状態になったのは運転手だけではない。

 それらの事情を改めて母親から聞き、日向は真剣な顔で頷いた。

「じゃあ……その事故の後、カレンちゃんも、お隣りさんも、誰も起きなかったんですね……」

「そう、そうなの。でも、運転手の方はまだ眠っていて、カレンと、お隣のいっくんが、いなくなってしまって」

 気丈に持ちこたえていた母親の声が、あっという間に震えだす。動揺する母親に、日向は精一杯提案した。

「カレンちゃんが行きそうなところとか、何かお心当たりがあれば、教えていただけませんか? 私も手分けして探してみます……!」

「あぁ、でも、」

 そんなことを、初対面の、見るからに未成年である者に、話して、頼んでいいものだろうか?

 母親は戸惑いを隠せなかったが、やがて、通っていた学校や、通学路のこと、部活や友達のことを話してくれた。藁にもすがる思いなのだろう。日向は場所を復唱してから、連絡先を交換する。

「私、あんまり長居できないんですけど、今日行ってみた場所と様子はご連絡するようにしますから!」

「ありがとう、日向さん」

 力強く言い切った日向は、お礼の言葉を契機に、裄夜の手を引っ掴んだ。

 堂々と廊下に出て、そのまま移動し、やがて、うめき声をあげてしゃがみ込んだ。

「私、失礼じゃなかった? 大丈夫だった? あんなに心配してる人に、嘘ついて、どうしよう」

「ものすごく自信満々だったから、どうしたのかと思ったよ」

 日向の背中を抱えて、裄夜は廊下の端に避ける。

「カレンちゃん、ほんとどこ行っちゃったんだろう……」

「考えてもみれば、浩太さんなら式神なり何なりで、追跡もできるんじゃないかな。病院にいたことは確かだし、いなくなって間もないなら、痕跡もあるだろうし」

 これまでより、どこかにいる、の「どこか」の範囲は、狭まっているはずだ。

「キセは? キセならできるんじゃない?」

「その辺にいるんだとは思うんだけど、出てこない」

「当てにならないんだから!」

「全く否定できない」

 ざわり、ざわり、廊下には人の気配と、ひそひそした話し声のような、何かが満ちている。

 寄せては返す、波のような。

 裄夜は、落ち着いたらしい日向の背中を、軽く押した。

「仕方ない、ここから一番近そうな、学校の方に行ってみよう」

 セキュリティ的に入れないかもしれないが、カンガルーのような何かがあって、かいくぐれるかもしれない。病院長居して目立つよりは、いいだろう。

 お腹空いた、とこぼす日向の補給を売店でしつつ、二人は病院を後にした。


 束の間、霧のような、靄のような、白い水蒸気の流れが薄くなった。

 辺りはまだ日の高い、昼間。

 庭から眺める景色は、いつもとほとんど変わりばえしない。

 剣さばきを、心得を、父親から習うために、子どもたちが集まってくる。それぞれの背中、それぞれの話す日々の有り様。

(何故だろう。懐かしい……もう、ずいぶん長く、見ていない気もする)

「どうした、冷刃」

 明るげな声を出して、子らの一人が顔を上げる。

(あぁ、知っている)

 私は知っている。

 それを緩やかに、白い靄が覆い尽くす。

 何を知っていたのか、ここがどこなのか。

 胸の底で、拙い声が疑念を投げる。

 ねぇ、冷羽、ここはどこなの?


 何度だって繰り返す。

 だって、それが、お前の望みだろう?


 くすくすと笑う声がして、拙い声が、叫びをあげた。

 和風の住宅は、住居というよりは、観光地の、人の出入りの多い広場のような風通しがあった。

 襖で仕切られているが、おそらく庭を囲んで広々と、部屋が連なっている。襖を開け放せば、体育館並みの広さが取れるような気がした。

 一室に案内され、瑠璃子とまゆらはいったん正座した。足は崩していいからねと言われたが、言われなくてもすぐにそうする。

 御陵は一度引っ込んで、お盆に茶と茶菓子を載せて戻ってきた。

「それで、今日はどういった用向きで」

 かた、かた、部屋の隅からたびたび音がする。


「心配しなくても、大丈夫だ」

 部屋の片隅に向かって、御陵は告げる。見やっても、さわさわした空気以外、襖などの建具しか目に入らない。

 それでも、何か神経に障るものがあって、瑠璃子はこれ見よがしに顔をしかめた。

「何を飼ってる?」

 それ、と、何もない片隅を顎で示してやると、御陵は多少戸惑ってから、

「妻、かな?」

 と答えた。

「え、そこ何かいるの? 幽霊?」

 あれだけ事件に巻き込まれておいて、まゆらには、怪異を見る素養がないらしい。感じる、というか。

 見ないならその方がいい、怪異のことなど、踏みにじって踏み越えればいい。怪異が気になるのは、何か付け入る隙がある状態だから、だ。

 菅浩太に付け入られたように。

「見なくていい」

 ふてくされた声で、瑠璃子はまゆらの頭を引き寄せた。当然、痛いとか何があるの、ねえ、とか反抗にあうが、知ったことではない。

 仲が良いなと言いたげな、ほのぼのとした様子の御陵に、瑠璃子は余計に苛立った。

「あんたがこれを描いたワケか?」

 端末に、水滴のあふれる絵、その写真を表示させて、瑠璃子は凄む。

 一瞥したかしないかで、御陵はすぐにうべなった。

「幼い頃から、描くものに妙なものが宿ってね。死にかけた鳥は生き返るし、これは正しいことではないと思っていた」

 御陵の家では、庭を訪れる小鳥に、冬場は柑橘などをやっていた。やけに人慣れした小鳥を、ある日描いてやった。眉毛のような模様のある小鳥は、真冬の、急に厳しく冷え込んだ日に、敷石に落ちて死んでいた。描いた絵から、ぽとり、と、同じ小鳥が抜け出たのはそのときだった。

「そのものが、生きているうちに絵から出てくることもあるが、大抵は死んでからだ。いたましいものを、いたましいものとして描けば、ほとんどは出てこない。死者の鎮魂であれば、描いたものは死んだままだ。けれど、生きたものは」

 そのとき生きているものは、描きとったときに、縁ができる。おそらくは。

「人でも、獣でも。けれど、もとは人でも獣でもない。絵でしかない……」

 雨が降れば滲み、紙がよれて、それでも無理をして動くと引きちぎれる。

「元の道具は特別なもんじゃねぇのか? 墨と和紙? ビニール袋と油性ペンとかはどうなんだよ」

「気が乗らないな……鉛筆と画用紙でも、事象は起こるが、私は鉛筆画はそれほど得意ではないから」

「デジタルは?」

「試そうとは思わない。機器の中で永久にさまよわせるのは、さらに申し訳ない」

 申し訳ない、が今ひとつ分からないまま(だって紙であっても冒涜さ加減は似たようなものだし)瑠璃子は話を戻した。

「この絵、もともと飾られてるときは何ともなかったのに、どうして急に水が出たんだよ?」

「何か、きっかけがあったのだろうと思う。都市部で飾られているうちに、良くも悪くも、別の何かが宿ってしまったり、目が覚めてしまったりする。だから本当は売りたくないんだが」

 贖罪の、いたむための絵でもあるため、手放す必要はない。けれど、描いたものが人目に触れる機会があり、あれよという間に、画家として立ってしまった。

「結局売ってしまうのは、所詮は、画家でありたい己の欺瞞でもある」

 瑠璃子は舌打ちした。

「おっさんの、その、人に悪いなっつって思ってんのに身勝手にやっちまうのが……自分で自分を許せないのは誰にだってある感情だろ。迷惑だけど、いちいち責めねぇし。ただ、こっちに関係あることだけは、落とし前っていうか、手を貸してもらいたいわけ」

 差し出した、端末に写るもの。それに目を落として、瑠璃子は、静かに続ける。

「おっさん。この絵に触ったのは、こいつなんだけどさ」

 こいつ、と呼ばれた大野まゆらが、ぴんと背筋をただした。

「今はあんまりやってないけど、変若水ってやつを作ってたことがある」

「作ってたわけじゃないんだけど」

「それで、その頃に、この絵に触ったんだよ」

 まゆらを制して話した瑠璃子に、意図を汲んだのか御陵は声を和らげた。

「他の画家の絵に触れても、同じようには動かないのだろう?」

「水、出たり出なかったりはするんですけど、おかしくなる度合いが、御陵さんの絵だと強いです」

「だったら、君だけのせいではない。その絵が動いたのは、私が描いたからだ。絵にとっては、君のことが多少の刺激にはなったかもしれないが、君が触れなくても早晩同じことは起きただろう。私は、もう消えた、なくなった水を描いたつもりだが、半分は生きた水を思い浮かべて描いたのかもしれない。絵自体が不安定ではあったんだ。君たちが気に病むことはないよ」

 怪異のようなものについて、理解があるようだけれど、あまり関わり続けない方がいい、と御陵は茶菓子を二人に勧めながら告げた。

「オチミズと言ったね? 私は術者ではないが、そうした家系の端には名が連なっている。だから何とはなしに、本来のそれがどういったものか知っているつもりだ。……もし本来のものと似た効能があるならば、老婆心ながら、表に出さないようにしたほうがいい。多くの生き物は、死なず健やかに暮らしたいと願うものだから」

「もう、利用された後なんですけど、ほとんど力は残ってないから、大丈夫です。少し残ってるから、まだ面倒な手続きがあるみたい、なだけで」

「過去のことでもね、お嬢さん。噂で聞き知った者が、後から訪ねてくることもある。恫喝されても宥めすかされても、既にないものは出せない、できないものはできない、それが、通用する相手ではないことも、多々ある」

 例えば貴方の体に意味があると思えば、心は壊され、連れ去られてどこかの泉に沈められる。そうした可能性も、ないわけではない。

 御陵の言葉に、二人は同時に言い返した。

「悪趣味だな!」

「ひどい!」

「同意するよ。私がたまたま、ここで妻と暮らしていられるのは、術者の家系に連なっているからだ。家系の術者も、ろくでもない者だが、連中の駆け引きの狭間で、それよりひどい扱いをする連中に連れ去られたり、むごい目にあわされないですんでいるだけだよ」

「さっき玄関先に来てた奴も、術者か?」

「あれは……そうだね。そういう連中の一人だ」

 術者。

 好き勝手に瑠璃子をよみがえらせ、札師とともに、意図の分からないことをさせられたのは、ごく最近のことだ。

 ふいに瑠璃子は立ち上がった。

 苛立ち紛れに乱暴に服を脱ぎ始める。

 まゆらと御陵は慌てたが、瑠璃子が真剣な様子なので半端にあたふたして止まった。

「おい。これが、人間に、見えるか?」

「まぁ、そのようには」

「私は、元は人間らしい。それでよぉ、今は、おっさんの描いた絵でできてるらしい」

 御陵が息を詰まらせた。

「それは……いや、しかし、私は、生きたものはできるだけ描かないようにして……まさか、彼女が触れたのか?」

「違う」「違います!」

 二人の声は重なったが、本題からそれると判断してか、まゆらがすぐに瑠璃子に譲った。

「頼まれて、鎮魂だか何だか知らねえが、描いたな? あんたの物覚えがどの程度かは知らない、でも自分が描いた絵の、顔かたちぐらい、覚えててもおかしかないだろ? 見覚えが、全くないとは言わせねえ」

「多少、似てはいるとは、思った」

 御陵は思い返す。絵の依頼のようなもののことを。流れるような、呟くような、呪でも唱えるような滑らかさで、彼は、相変わらず玄関先より上には上がらず、上げられずに、話をして帰った。哀れな娘でねえ、自死したことになっているが、あれは人ではない、境目のものらに追い回されて死んだらしい。悼んでくれる家族もなく、嫌悪され憎悪され挙げ句の果ての死であったとか。

「私の……親類に、峠という者がある。ろくでもない術者だが、たまに、私に術者の道に入らないかと誘いに来る。断っているが」

 だからあれは、依頼ではなかったのだ。

 哀れな娘の話を聞かされ、峠が帰った後で、たまたまニュース記事を見た。

 あぁ、これか。ふと、心が動いて。描きはした。

 その絵を、いつの間にか峠が持ち出したのだろう。

 絵は、アトリエにした部屋に、無造作に積みあげていたから。額装も表装もなく。もちろん、絵は画商が持ち出すこともあったが、いや、あれは峠の仕業に違いない。

「すまない、何と言っていいか……君は、その」

「同情しやがったらぶっ飛ばす」

 瑠璃子は怒鳴るでもなく、冷ややかだった。

「おっさんが描いたなら、どうにかしてくれ。あんた、私を、もたせられるか?」

「もたせる?」

「この体、紙と墨でできてんだろ? 雨にも負けて風にも負けるんだろ? そうじゃなくてもっと丈夫にしろ。そんなに長生きし直したいわけじゃないが、やらなきゃならないことができたから」

「もともと、多少の風雨には耐えられる。度合いによるが……」

「この体に何かあっても、何枚か描いといてもらえばスペアで使えるとか、ねぇのか?」

「ない。試してはいないが、その考えは死をいたむこととは相容れないものだ」

「おっさんの腕は、気持ちが乗らなくても同じ現象が起こせるんだろ? いたまなくても、可哀想がらなくても、絵は描ける。鳥みたいに、描いた後でコトが起きる。描かれた奴が生きてる間は起きない」

 それが分かってるなら、描け、と瑠璃子は低い声で凄んだ。

「こう言ってほしいか? あんたのせいで、死んだはずの自分が弄ばれた。どうしてくれる? って。あたしに慰謝料くれよ?」

「君はなぜ」

 生き生きとふるまい、話す瑠璃子を、戸惑いがちに御陵は見上げる。

 瑠璃子は鼻息荒く吐き捨てた。

「道化扱いしやがった術者を、ぶん殴ってやる。どうせどこかで見てやがるんだ、どこかで突然また何かさせられるなんてごめんだぜ。もともと、させたいことがあったから、こうして実体化させられたんだろうが、それが本当は何だったのか、成功したのかどうかも分からない。分からないでびくついて暮らすより、ぶん殴って上下ひっくり返してやる」

 菅浩太に言われたから動き始めたものの、誰かに言われて動くだけなんて、くそくらえだ。自分の、漠然とした怒りと目的を、そこに乗せた。

 横から、まゆらが加勢する。

「私は、友人として……あんまり無茶苦茶なことが続いたから、何が正しいのかなんてよく分かりません。だけど、この人が、このまま暮らせないのは、何ていうか、もどかしいっていうか」

 お互いに、巻き込まれあったようなものだ。片方だけが、何事もなく日常には戻れない。

 既に日常には戻り得ないのかもしれないが。

 まゆらはふと我に返って、瑠璃子に服を着せ始める。

 人の、姿に見える。触れば人の皮膚であり、髪に触れればその質感だ。

 本当に、生きているかのような。

 二人の様子を、御陵はしばらく見つめていたが、やがて深いため息をついた。

「だとしても……今の私では、君を手直しして長くこの世にとどめることが、良いことなのか思いかねる。すまないが、帰ってもらえないか」

「こっちは力ずくでも、言うことを聞いてもらうつもりはあるんだぜ?」

「それはできないよ」

 ぱちん、ぱちんと、家鳴りがひどくなる。

「何だ、この、」

 瑠璃子が鼻白んだとき、家鳴りがひときわ大きく響いた。

 ぱちん!


「あ?」

 瑠璃子は、足裏に硬いものを感じた。片足ずつ持ち上げる。見間違いようもない、靴下の下には、アスファルトが広がっていた。

 家並みに面した、道路である。

 同様に、靴もなしに放り出されたらしいまゆらが、

「服着てて、よかったね!」

 と、せめてもの慰めを口に出した。

「よくねえだろ!」

 半分脱げかけた服の裾を正していると、上空からかなりの勢いで、靴が二足降ってきた。

「そんな放り出し方があるか! 危ないだろ!」

 生垣をむしって庭を覗き込むが、生垣は生き物のように(植物ではあるが)もさもさと揺れてそれを阻んだ。

 舌打ちにつぐ舌打ちに、生垣はつんと澄ましている。


 その近くを、男女の二人組が通りかかる。

「裄夜、あれ、各務さんと大野さんじゃない?」

 日向は首を傾げた。

「何してるんだろう」

 合流した方がいいのだろうか?

 こちらはカレンの通う学校に向かう道すがら、である。

 裄夜は二秒考えて、

「後にしよう、巻き込まれない方がいい気がする」

 と答えようとしたが、各務瑠璃子に存在を気づかれてしまった。

「おい! お前らどこ行くんだよ」

 転がった靴を履きながら、瑠璃子が追いかけてくる。

「何見てんだクソが!」

「見てない見てない! 見てるのはそっちの方では?」

 日向はまゆらの方と話し始める。

 お互いに、菅浩太に振り回されて行動しているらしいと知り、同情し合って、手持ちのお菓子を交換した。

「別件だから今は手伝えないけど、何か関係ありそうなことが起きたら連絡するね」

「中津川さんありがとうございます、こちらも、その千明カレンさんって子が見つかったら連絡しますから」

「でも、大変だね。画家の人って気難しくない? 前にいた高校の美術の先生が、画家のついでに教師やってるって言って美術教室で寝泊まりしてたことあるよ」

「うーん、気難しいんですかね、あれって」

 押せば落ちるような気がする、と、まゆらは呟く。

「どっちかというと、画家の人より、その奥さんが問題かも」

「奥さん?」

「姿形がなくて、家をがたぴし鳴らして、こうして私たちを外に瞬間移動させるひと。人なのかな」

 日向が、む、と眉根を寄せる。

「御陵さんって画家の人、奥さんは、透明人間なの?」

「たぶん。私には見えなかったけど、物音はしてました」

「裄夜、知ってた?」

「全然」

 離れたところで瑠璃子の八つ当たりをかわしていた裄夜は、素早く日向に返した。

「知らないよ、御陵っていう画家本人が、術者とか、人間じゃないとか、でなくて?」

「ないみたい」

「キセがいないから、今すぐ聞くのは難しいけど。浩太さんに連絡は取れないの?」

「取りたくもねーよ!」

 瑠璃子が挟まってくる。裄夜は一瞥して、

「こっちは、連絡がつかないでいるから……後は、たすく君に投げてみようか」

「えっ、そっちに?」

 本人が術者というわけでもないというから、日向は中城たすくに連絡を取ることは考えていなかった。

「何だかんだいっても、そこが、一族的な基点になるんじゃないかな」

「じゃあ聞いてみよう」

 結局、すぐには連絡がつかず、裄夜と日向はカレン探しの方に戻り、連絡がつけば、まゆらに繋ぐ約束をして、この場は別れた。

 立ち去る者たちを、生垣越しに眺める者がある。

「もう、帰ったか?」

 御陵が声をかけると、生垣の上方にあった顔がこちらを向いた。手足も胴体もまだ生垣の向こうを気にしているが、顔つきは穏やかだ。

「仕切り直して、お茶にでもしようか。考えなくてはならないことが、たくさんあるから」

 妻は首を傾げ、傾げして、また生垣の外を見やる。

「気にかかるかい? 追いかけて、話しかけてみるか?」

 それには首を左右に振った。柔らかな肉の体を、かがめて、御陵の顔を覗き込む。

「心配しているのかい? 大丈夫だよ。私より、あの子たちの方が心配だ」

 生き返らせ続けていいものか。そのまま朽ちさせるのも無責任ではないか。

 揺れ動く心を、御陵は精査するため、部屋に戻った。

 日向からの電話は、中城の家には一度繋がった。電話に出たのは、たすくだ。


「打てる手があれば、手助けするよ」

 軽く請け負って、たすくが電話を切る。

 銀月の一族の中で、中城が取り仕切る屋敷は、今はほとんどひとけがなかった。

 一人で応答した和装の少年は、固定電話を離れて玄関先へ向かう。

 間もなく、人影が玄関の外に立った。

「いらっしゃい、今日はどういった用向きかな?」

 年齢のさほど変わらない相手に向かって、たすくは、鷹揚に話しかける。

 話しかけられたほうは、黙って頭を下げた。

「里見さん、何だか面白いマスクだね」

「浩太さんがこれを、と」

 元は白い、何の変哲もないマスクだが、黒々と墨で文字が書いてある。日常会話中なのでスルーしてください、と。

「それ、普通の人には見えないようにしてあるのかな」

「見える人もいるみたいですけど、何にも話せないよりは、もどかしくないから仕方ないかなと思います」

 里見孝は、ウタウタイの力を引き継いでいる。ウタウタイの存在は、周囲の人外たちの衆目を集め、話す言葉は、必ずや叶えてやろうととらえられる。言葉で世界を変えるのは、遊芸の者らも似たようなものだが、そのつもりがなくて大仰な事件を起こす、怪異らによって起こされるのは、ウタウタイ当人には甚だ迷惑なことだった。

「言い方を変えても何をしてもだめなので、このマスクをつけているときは、スルーするようにとお願いしています」

「大変だね」

 他人事のように、実際他人事であるたすくが応じて、孝を屋敷の中にあげる。

「今、明良は外に出ていてね。他にも家事を仕切る者はいるけれど、今は表には居ない」

 たすくは茶器を用意して、孝に茶菓子を持たせ、テーブルに向かった。

「すみません、急に来てしまって」

「構わないよ。自分はたいてい、屋敷にいるから。里見さんの兄は息災?」

「はい、新しい仕事先でも、ちゃんと働いてます。僕の方も、わりと普通に学校に通わせてもらって……あの、浩太さんや、一族の方のおかげです。ありがとうございます」

「礼はいいよ。これは君の力を借りる口実にもなる。こちらの益にも繋がるから」

「でも、安定するまではどんなトラブルを起こすか分からない。とても、力になるなんて」

「君の言葉は力になる。だから、否定の言葉で枷は付けない方がいい」

「そう、なんですが」

 たすくがお茶を出すと、孝は手を震わせながら受け取った。

「怖いの?」

「怖いです。ちょっとした言葉で、何が起きるか分からない」

「度合いの差はあっても、僕も似たようなものではある。怪異は起こせないけれど、指示に失敗すれば、自分も明良も死ぬだろう」

 さらりと言うから、孝が口元をこわばらせた。

「怖く、ないんですか?」

「怖いよ」

 たすくは応じる。

「怖いけれど、この賭けから降りる段階にはない。降りると決めた時点で、命がないかもしれない。せっかく、今は立場と命があるのだから、どうくぐり抜けるか、僕も考えているところ」

 何しろ、術者を擁し、怪異を傘下に抱えてはいるが、今の銀月の一族を仕切るのは、中城という、本来はただの人間、なのだ。

「銀月の一族は、今やいかなる権力ともほとんど無縁。僕も、里見さんも、過去の因縁の精算を投げつけられて迷惑しているわけだ」

「まぁ、そうかもしれないですけど」

 また雨足が強まってきた。

「さて、今日の用向きは何だったかな」

「ウタウタイとして、というか、自分として、どうやって生きようかと思って……相談できるところが思いつかなくて」

「あぁ、水瀬裄夜と中津川日向は、千明カレンを探しに出かけているから。後日、また話をしに来たらいい」

 せっかくなので、孝はたすくと、置かれている状況の確認と、整理をすることにした。何かに巻き込まれた仲間として。

「冷羽、どこへ行くの?」

 靄が晴れるたび、カレンは、繋いだ手の先に声をかけた。

 曲がり角で、紫陽花に手が触れる。水滴の冷たさ、瑞々しい葉の音で、意識がはっきりする。

「冷羽、後ろから来てるアレは、何?」

 カレンも元は運動部だったし、体力はそこそこあった。けれど、ずいぶん長く眠っていたのだろう、手足は細くなり、すぐに息が切れる。

 走れなくなるたび、冷羽は走るのをやめ、隣を歩く。立ち止まれないのは、背後を警戒してのことだ。

 何か聞くと、すぐに謝られる。

「私は、冷羽に謝られたいわけじゃないよ! 何が起きてるか知りたいだけなのに」

「すまない」

 自分とよく似た、けれど芯の通り方の違う顔が、本当にすまなさそうな表情をする。

「安全なところまで逃げ切ったら、話して」

 カレンは、力強く言い募る。瞬きした冷羽の、驚いた表情に、胸が軽くなった。やっと、私を見てくれた。気づいてくれた。

 カレンは、可哀想な、守られるだけの子じゃない。

 繋ぐ手に力を込めて、カレンは隠れられそうな場所を目指して走り出した。

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