第九章 愁訴(しゅうそ)

   *

 百目(ひゃくめ)は本独特の匂いばかりする狭くて古い住処で、古書店よろしく席に腰かけて客の入りを待っていた。埃くさい店内には朝日とも夕日ともつかない光が差し込み、本棚やそこからあふれた書物や掛軸たちの細かな凹凸にまで濃いくっきりとした影をつけていた。

「こんにちはぁ、ちょっと探し物があるんですが」

 アクセントが上につく喋り方で目が覚めた。

 からからとガラス板のはまった戸を引き開け、一人の客が姿を見せた。いつも、ここに来る客は日に一人か二人、その多くが人外である。

「ハイ何をお探しで」

 百目はひろげていた書を閉じ、よだれを拭いて客を見た。

 先日であった男のような、きつめに吊った狐目だった。けれどあの山神の男とは違う、何よりこの客は彼より一回り以上は年かさだったし、どこか老獪な笑みをたたえ、所作もこまやかであった。もっとも、一目見ただけで同類項には括りがたいことは分かっていた。紺の作務衣が近づいてくるにつれて百目は無意識に身構えている。

 この男、死臭に似た、どろついた陰惨なエネルギーを用いる術者のたぐいである。さっさと仕事を済ませるに限る――百目が取り繕った笑顔を向けると、男は狐の毛皮よりも煤けた金色の前髪を揺らし、もう一歩だけ近づいた。

「トウゲの本を探しているんだがね」

 ト、にアクセントを置いたので、トウゲとは恐らく名前だろう。そう判断し百目は聞いた。

「トウゲ? トウゲ――どの時代で何をなさった人ですか」

「そうだな……トウゲ流と言えば分かるだろうか」

「トウゲ流――あぁ思いだした、確か大戦末に謀反人が出て絶えたとか言う。白煉僧の出たトウゲですね」

「そう、それ」

 確か一冊くらいはあったはずだ。

「お待ちくださいね」

 背高い男の枯れ木めいた体にそう言うと、百目は奥の棚の前に立った。体中にある沢山の目が動き出し、くるくると眼球を回転させる。この世のものを見る目もあれば、過去の資料を見る目もあった。百目は所望されたものを探しながら、不意に客の方を向いた。

「そうだお客様、お名前は?」

「名前?」

 急に、客の骨の浮いた鋭角的な頬が引きつった。百目は「ひ」と言ったきり、目を開けたまま背をぴんと伸ばしている。店内で細かな塵が舞っていたが、徐々に積もり、空気が透明度を増していった。

 しばらくの間を置いて、男がふぅ、と息をついた。

「すまないことを……いえね、仕事柄、名を聞かれるのが苦手でして」

「こちらこそ申し訳無い……!」

 この店は、客の名前を聞いて、百目がそれを覚え、次回以降の探し物などを容易にするシステムで成り立っている。けれど人間の客というのは、人外ですら滅多に入りこまない「横丁の奥」の方にあるこの店に来るくらいだから、力のある術者が多い。彼らの多くは名による呪縛をいやに嫌う。

 着物を床につけて平伏した百目に、男は一転朗らかな調子でこう伝えた。

「いやいや、貴方が悪意を持って他を害することは無いでしょうに。過剰に反応しすぎました。許してください。私の名はミサキ。ほら、画家が居たでしょう、今は姓が変わってしまいましたが――御陵和馬(みささぎかずま)」

「は、それでは貴方は――あの御方の、お知り合いで?」

「親類なんですよ、私と和馬は。和馬が懇意にしている書店があると知って、ちょっと足を伸ばしてみましてね」

 それでここに来たのか、と百目の疑問は解消される。不可解な客は迷いなくここに辿りついた、それはあの、自分の尊敬する画家のおかげである。

(世の理を知りつつも理に無理強いせず修行僧めいて絵を描きつづけるような、あの方のお知り合い……)

 尊敬する人の知人が来た、ということで、百目は身も心も一気に軽くなった。

「あの方のお知り合いでしたら、いつも以上にしっかりと探させていただきますよ!」

 胸を張る百目に、ミサキは笑んで頷いた。

「そうしていただけるとありがたいです。私も早く、我ら一族の歴史を知りたいですから」

 書店内で、客は金色にも見える目を細くすがめた。

 百目はいそいそと仕事に取りかかる。男の眼差しについては考えもしないことだ。

 かすかに、本の呼吸する音だけが響いている。

 板床にはいつも変わらない、春先の夢のような日が差し込んでいた。

   *

 水瀬裄夜(みなせゆきや)は狭い階段をのぼっていく。まるで回し車の中のネズミの気分だ。上下左右から薄ネズミ色に変色した壁に圧迫される。むきだしのコンクリートは水を吸って染みを作っていた。

 買い換えたばかりの制服はうまく体になじんでくれない。体から皮一枚浮いているような感覚がする。前のものとは異なる校章が入っているその襟首に指を入れて、無意識に留め金を外し、我に返って留め直した。

 湿度の所為で肌がべたつき、自分が動くことが邪魔に感じられる。

 それでも目指す最後の一段をのぼりきる。すると、広くなった廊下があった。突き当たりにガラス戸が見え、そこに向かって早足になる。

「すいません」

 事務の部屋にはいくつかの机はあったが、人の姿は一つだった。裄夜は相手の姿を見てほっとして、はいと顔をあげた彼に笑みながら頭をさげる。

「仕事中、いきなり訪ねてすみません」

「裄夜君……今日は、どうかしたんですか?」

「里見さん、今、ちょっと、話しをしても良いでしょうか」

 すでに授業は始まっているらしく、鉄扉のそれぞれから声が漏れ、廊下は人も居ないのに妙にざわついている。里見裕隆(さとみひろたか)は少し手元に目を落とし、それから振り返って自分の机に向かって行った。その動作のどれもが、どこか穏やかで丁寧に見える。

「あぁ、大丈夫ですよ。そろそろ事務の上田さんが来られるので――外で話しても」

「いえ、別にここで話しても良いんです」

「……用件は、孝(こう)のこと、とかでは無いんですか?」

 最近、銀月の一族がらみでの事件もあった。里見兄弟はそれによって現在、これまでと別の場所を確保して生活する必要に迫られている。

 裄夜は誤解させたことを詫び、鞄を持つ手に力を込めた。

「すみません、そうじゃないんです。ただ僕がちょっと、成績が伸び悩んでて……塾に行こうかと思ってて。孝君は、大丈夫ですし、今のところ一族も特に目立った動きはありません。それで、塾なんですけど、行くならどこが良いかとか、教えてもらえませんか」

 裕隆は心配そうにひそめていた眉をゆるめ、最後には笑みを取り戻した。

「そうでしたか。最近立て続けに手に負えない事件が起きていて、つい悪いほうへ考えてしまうクセがついていて……。私は構いませんよ。ただ、塾講師である以上、公平さをさておいてここをお勧めしてしまうかもしれませんが――なんて、冗談はさておき」

 笑顔で言い、裕隆は事務所のソファーに裄夜を招いた。

「それで、どの科目が心配ですか?」

「全体的に、もうちょっと底あげしたいんです」

「全科目だとかなりの額になりますからね……それに、もう三年ですから、受け入れ先は直前講習ぐらいのものになります、苦手科目は?」

「英語がちょっと」

「私はとりあえず高校の教科のうち、物理と化学、音楽などを除いた科目を一通り扱うことが出来ます。ここでは英語と社会をおもに教えていますが、今通われている学校のレベルでしたら、こちらとこちらを勧めます」

 手元のファイルから別の会社のリーフレットが出てくる。他社を勧めていいものかと心配になって、裄夜は目を盗んで周囲の気配をうかがった。

「裄夜君は理系じゃないですよね」

「はい、文系ですけど、……やっぱりそう見えますか?」

「成績表か何か見せてもらえませんか?」

 裕隆の雰囲気だけを見ていると気が和らいで反応が遅れてしまう。裄夜は一人相撲を取ったことに照れつつも、慌てて鞄から紙を出した。

「全国模試と学校の成績ですね。志望校は――あぁ、ここなら二次試験が重要で、しかも英語の割り合いが大きい。この成績だとマークシート方式より筆記に力を入れたほうが良いかもしれませんね」

「そう、ですか?」

「学校では何と言われていますか?」

 ペンを手に、資料に落としていた目をあげて裕隆が問う。

「一応学校の進路の希望にはこの志望校で出したんですけど、この成績だと五分五分だそうで。出来れば現役で通りたいのでどうにかしたいんです」

「裄夜君は大学に行きたいんですね」

 裕隆は一度席を立ち、スチール棚に並べられた電話帳よりも分厚い冊子をいくつか出し入れした。

「こんなわけの分からない状態に置かれて、なおもこれまでの学業を続けるなんて……投げやりになりそうじゃないですか?」

「里見さんも、仕事してるじゃないですか」

 裄夜は目の前に情報誌を開かれて、世間話の内容にどう答えるべきか迷ってしまう。困惑した声で言われ、裕隆は苦笑をもらした。

「そういえばそうです。でも私の場合は……」

 目で促され、口を開いた手前濁すわけにもいかず、裕隆は続きを言った。

「私は、この状態が長く続くとは思わないんです。今は生活場所も提供され、不思議なことに生活費も出していただける。けれどこのまま生きる限り、それが打ちきられないとも限りません。そして籍や記憶から抹消されるという状態も、ある日ふと、突然解消されるかもしれない。そうなったら、私たちはどうやって生きていけば良いんでしょう? 社会での居場所は、小さくてもいくつか持っておいたほうが安全な気がするんです。それがどんなに小さくても――ないよりは、良い」

 それに何もしないで生きて良いとしても、気持ちが落ち着かないんですよ。言ってため息混じりに笑うと、裕隆はそれで、と裄夜に向かう。

「それで貴方は、どうなんですか? 怖いとは思いませんか、いつこの状態が解除されるか分からない」

 裄夜は答えが自分のうちに見つからない気がして狼狽えたが、すぐに我に返って答えた。

「でも、それは、どういう暮らし方をしていても根本的には同じですよね」

 先は見えない。

 不安は消えない。

 答えた裄夜に、それはそうです、と裕隆は少し首をすくめた。

「妙なことを言いだしたのはこっちです、すみませんね、話を戻して――では国公立を主眼に置いて、ここと、これを受けられるつもりで?」

「あ、はい」

「推薦は受けませんよね? あの高校はあまり推薦を出しませんし……私立は併願せずに行きますか? どちらにしてもこの学部でしたら数はありますし、この学力ならなんとかなると思いますよ、数学と英語が入学後も必要ですから、今までの勉強に付加してそれらを底あげしたほうが良いですね」

「はい、お願いします……!」

「裄夜君は、何ていうか、まだ子供なんですよね」

 急に何を言い出すのか。資料を見ていた裄夜は顔を上げ、それからどう反応を返すのが正しいのか、しばらく迷って結局は無言になる。

「すみません、こういうことを言いだして。でも別に馬鹿にしているとかそういうのでは無いんですよ。ただ、今、貴方は制限の少ない状態で自分で決めることが出来る」

 ふと裕隆は目を逸らす。真剣な表情で、それでいてまともに向き合うのを恐れてもいるような仕草だった。ともすれば自分自身のうちをも抉るように、かすれた声を絞り出す。

「それなのにまだ大学に行きたいんですか? 費用をかけて」

「……すいません、それはどういう」

「貴方は何を選ぶことも可能です。費用は一族のかたが負担してくださるかもしれない、貴方が将来返済するかもしれない。就職も進学も、選んでみても誰も阻んだりしません、阻むのは実力です。貴方は現在、危険に囲まれているかもしれませんが、誰彼の反対もなく将来を決めることが可能な状態にあるんですよ? それなのに貴方は、ただこれまでの一続きで、大学に入ろうとしていませんか。今は誰もが見守ってくれるかもしれません、けれど本気で反対されたとき、それでも戦えるだけの意志を示せますか」

 家族でもない人たちが、本気で貴方を叱って、その夢がいけないととめようとしてくれますか。夢を否定するだけの人間に潰されることは可哀想だとは思います、しかし応援するだけの人間は貴方をきっと駄目にする。

 そう続けて、裕隆は息をつく。雨音が徐々に弱くなり、それでこの部屋に窓があることに気が付いた。

 裄夜は言いかけた口を一旦閉じ、それからもう一度、息を吸い込んだ。

「僕は少なくとも、誰かに強制されて大学に行こうと思ったわけじゃありません。家では結構放任だったんで、家に誰か居たとかぶつかりあったとかいう記憶もあんまりないんです……大学に行きたいと思ったのは、学問っていうものに興味があったからで。実践に結びつかないような、もっそ底のところからを勉強できる、そういうのが必要な気がして。今は、当面の目標がないっていう情けない状態ですけど、それでも、大学を目標に成績をあげておくほうが融通が利くじゃないですか」

 言いながら裄夜は実際情けなさを覚える。確かに裕隆の言う通り、目的が殆ど無い状態で本気で反対されたとき、うまく説明ができない。

 学歴社会だとかいう単語は必要とされていない。恐らく裕隆は、当人の希望を聞きたいのだ。

「本気で、掴もうとしてください。生半可な気持ちで勉強をしても、何にもなりません」

 ようやく目を合わせて、裕隆は微笑んだ。薄茶色の虹彩が一部、天井の蛍光灯からの光を白く反射する。

「子供ですね、やっぱり」

「え」

「ちゃんと答えようとしてくれたからですよ。ある程度大人になると、適当に濁して終わりですから。もっと小さい子供なんかだと、ものすごく苦しそうな顔をして暴れてみるしかない子もいれば、あっさり何それ、って言う子供もいる。カンガルーになるのを何で反対されるのか分からない子もいる、それでも、答えようとはするんです。大人は、答えなくても構わないと知っているから答えないんです。もしくはごまかす」

 裕隆の意図が分からなくて、裄夜は手元の資料に目を落とした。

「でも、そういうこと言うから、里見さんも結構ロマンチストっぽいですよね」

 正直に言うと、裕隆が苦笑していた。

   *

「どうもすみません」

 総合病院の緊急用の入り口の前で、孝(こう)は相手に頭を下げた。兄によく似た容貌の青年は、微笑みながら肩を叩く。

「大丈夫ですよ。あの人はあんまり寝ていなかったんでしょう……最近言動がおかしくありませんでしたか? 仕事を詰めこむと却って効率が落ちますから……疲労が極限になって、眠り込んでしまっただけですよ」

 十分心配な内容を聞かされたが、孝に何が出来るわけでもない。ただ病気など疾患による昏倒ではないという話には安堵できた。

「本当に、何から何まですみませんでした、ありがとうございます」

「困ったときはお互い様ですよ」

 背に流れる髪の長さを除けば、彼は孝の兄にとても似ていた。それともう一つ違いがある。時折見せる、何もとらえない冷たいまなざし。

 あのとき――瑠璃子(るりこ)が倒れたときに、この青年は何やら化け物が戦っているような気配を感じて、どうすれば立ちすくんでいた孝らを助けられるかと困っていたらしい。それで睨まれていたのかと思ったが、説明がどうにも滑らか過ぎて孝は怯えをぬぐいきれない。

「落ち着かないでしょう? どうせなら後で送っていきますよ。といっても私も徒歩なんですが」

「良いんですか」

「えぇ。仕事は今日は終わったんです。予備校関連で他の先生が入ってましてね」

「講師……なんですか、塾とかの」

 まだ低すぎない幼さの残る声で言われ、青年は少し眉をひそめるようにして答えた。

「そういう、ことにはなりますね。本業は別だと言いたいところですが」

「本業?」

 ストレッチャーが運び込まれていく。音の騒々しさが病院に似合いなのかそうでないのか、にわかに判断は付きにくかった。

「あの、差し支えなければで良いんです、が」

「いえ、別に差し支えるような内容の仕事ではないんです。書を、たしなむものでして」

 それで表情に苦さが混じったのだ。孝は納得して頷いた。

 表情と目に時折去来する凍えた眼差し、人を捉えることにも貪欲な熱。それは芸術を追いかけていこうとするものにある、真理追究のための熱意と野望の光だ。それが妨げられることへの純粋な憤りが、彼らを深く鬱屈させうる。

「書道ですか。でしたら書道教室とかは」

「やりませんね、自分で書くのが、生きるついでのように、私にとっての必然的な要素であるだけですから」

「里見さん、里見孝さん」

 不意に名前を呼ばれた。

 どうやら検査が進んでいる間に、状況説明をしなければならないらしい。孝は重い病やひどい怪我を想定して唇を引き結んだが、後ろから肩を吸い付くように掌が押し包み、力づけて促してくれたので歩き出せた。

 兄によく似た顔で笑みを浮かべられ、孝は涙をこらえる。

 この、あり得ない状況にさえ見覚えがあった。

 深く、ただ悲しいと思った。

「貴方は、いつまでもそのままなんですね」

「何のことです?」

 肩口で髪の先が滑り、胸元へ流れる。それを目で追い、やがて髪を結ぶ組紐に向けて、孝は告げた。

「覚えているのに思い出せないんです。そういう、夢うつつのときってないですか」

「驚きすぎたりすると一時的に寝ぼけたような状態が引き起こされたりするんですよ。気が動転すると言うでしょう? 大丈夫ですよ、あの人は。大丈夫です」

 温かく言われ、それ以上、孝は何も言えなかった。

 胸の奥に不安が宿る。

    *

「あ」

 声が出たと自覚するまでにブランクがある。天井の白さに薄墨めいた汚れが目立つ。はたはたと何か鳴ると思えば、窓ガラスに小雨が吹き付けていた。呼吸を繰り返し、額に手を当てる。明かりは消され、窓からの日だけが頼りの視界だった。日の落ち具合から察するに、日暮れはもう近いか過ぎた。外は灰色だが黄色みを帯びた明かりが差し込んでいる。

 街灯。

 自分の名前と現状を不意に思い出した。

「しま……っ」

 しまったと舌打ちして起きあがると、当然のように点滴がついてきた。腕を額にあげていた際には気付かなかったが、ラベルに貼られた名称を読んで浩太(こうた)はため息をつく。

 別段病気の気配はない。ただの栄養剤に過ぎない。それもほとんど気休め程度だ。

 そんな患者を何故個室に放り込んでいるのか。ウタウタイである里見孝はどこへ行ったのか。

「大体、俺はまだ、話を」

 聞いていないのだ、孝が見た里見裕隆によく似た男のことを。

 各務瑠璃子(かがみるりこ)との対峙中、他の敵意をまったく感じ取らなかった。それは浩太の落ち度かもしれない。敵など本当に居るのか疑問だったが、一つ分かったことがある。

 敵は個別の誰かを狙っているわけではないと思いこんでいた。銀月の一族という不確定の多数をさしての敵であると錯覚した。そうではないのだ。

 見落としたのは、この間の事件と同じ点である。

「俺は、とんでもないミスを」

 点滴を大人しく最後まで受けてから医療費を払って出ていくほうが面倒がなくて良い。けれど浩太はドアに向かう。裸足で飛び降りた床はひやりとしていて、不安を身内に這い上らせた。

 敵は誰をも狙うのだ。

 それぞれ個別に敵が動いていれば、各々すべてが狙われることになる。

 銀月の一族そのものに害をなすものもあるが、それとの兼ね合いで、それをも含めて、世界は動く。

 もし隣人に妬まれても、直接攻撃がされることもあれば、同時進行でそれとなく、周囲の人間の反応が変わることがある。隣人が手を下さなくとも、元々不愉快に思うなど個人的な恨みめいたものを持つ者がこれを見て、便乗して、個別に攻撃を行なうことも充分起こりうる。

 一族が別の集団に狙われていることはあり得るが、個別の人間が同時に、誰かの標的にされる。別の集団と手を組んで攻撃してくることもあるだろう。

 特定の集団に属す同じ目的のもとに集った者たちが敵であれば分析することも可能だ。

 けれど、別々に標的にされているのであれば、それは難しいことになる。実際に浩太は自分の身に起こったことについては他の者に説明していない。どのような事件に関わっているのかも守秘している。同様に、日々の出来事すべてを他人に伝達しようとする者はおらず、またそれをされたとしても情報を整理しきれない。どこで「個人」を標的にした者が接触しているのか分からない。分かりようがない。

「だから、茅野を巻き込むなっていうんだ……」

 ようやくドアに辿りつくと、浩太はドアノブに手を伸ばした。

   *

 一時間ほど経って浩太が目覚めた。点滴をされてベッドの上にいた浩太は、孝から奴らが消えたことや瑠璃子が病院に運び込まれたあとどこかに逃げたと教えられて、孝を先に家に帰した。孝は一人でも帰れる。帰り際、できれば茅野ちゃんには内緒にしてねと言われた。情けないっしょ、自己管理できないなんて大人として最低だし、とも言われ、孝は自分を助けてくれたことに礼を言い、体を大事にしてくださいと頭を下げた。

 孝は病院を出る。そういえば誰が手助けしてくれたのかも説明していないが、聞かれなかったのでよしとしよう、と思った。

 ロータリーの部分で待っていてくれた青年が、兄そっくりの顔で孝を見て微笑む。

 けれど孝は兄と彼が違うことは分かっている。似ているのはパーツだけで、含む影の分量が違う。優しそうな表情は似ているけれど、不意に強く憎むような狂乱の影を見出すことができる。兄は決してそういった目で孝を見ない。まるで幼子が鏡を見るように、じっと、ただ見つめられることは、時折であれ孝をひどく動揺させた。邪眼という単語を思い出した。目を合わせ続けるのは呪いや魔法をかける方法だという話を聞いたことがある。

 そして何よりも孝を不安にさせるのは、古い記憶だ。

(ウタウタイの彼の、記憶に、ある)

 この青年が袴姿で、座敷の一部に戸を立てて、一人黙然と墨をすっているさまに見覚えがある。現在目の前に居る男はまったく記憶にない筈であるが、孝は兄に似ているというだけではないものを感じ、嫌な予感をぬぐい去れない。

 意識を失った浩太と瑠璃子を病院に連れて行き、一人で事情を説明する孝についていてくれ、飲み物を買ってきて気を落ち着けるようにと側で声をかけてくれた。

 彼はこんなにも優しいのに。

「……だから英語なら、あの塾が良いですよ」

 不意に清明に声が届いた。孝は穏やかさを装った会話に風を吹き込まれ、反射的に振り返った。交差する道路のゼブラを渡りきり、金にも見えるような淡い茶色の頭と、見慣れすぎた家族の顔が目に焼き付いた。

「兄貴……っ」

 駆け出そうとして踏みとどまる。先に、兄の連れが気付いた。

「あれ、孝く……え?」

 水瀬裄夜が、静かに眼鏡のつるにかかる位置で目をすがめる。それで分かった。孝は青年に一礼して、すぐに裄夜の側に行った。人込みが移動し続けるもので良かったと安堵した。おかげで比較的容易に流れの中に逃げ込めたのだ。

「どうしたの、あの人、誰?」

 驚いたような顔で黙っている里見裕隆に代わり、裄夜が声をひそめて問う。孝は自身の気の小ささに辟易しながらも、これに答えた。

「各務さんが来て」

「もう来たんだ……大丈夫だった?」

「菅さんが、その先の、すぐ近くの病院にいるんです、睡眠不足と過労とかで倒れて。こっちは菅さんに助けてもらったんで今のところ大丈夫です」

「そう、なんだ」

 あからさまにほっとした後、裄夜は盗み見るようにして青年を見た。

 無表情で裄夜と裕隆を見た青年は、目が合うと柔らかな微笑を浮かべる。

「あの人は、菅さんが倒れたときに、病院まで連れて行ってくれて」

「それは……すみませんでした、ご迷惑をおかけしたようで」

 裄夜より先に裕隆が頭を下げる。他人のそら似にしてはできすぎた姿に惑わされず、律儀に社会の常識を通した。

「いえいえ、困ったときはお互い様ですから」

 笑んで、青年は孝に目を移し、それから裄夜に目を向けて、目礼する。

「あの方は随分疲れておられましたし、身内の方はご心配でしょう? いきなりの入院ですから」

「入院、ですか」

「もう起きておられるかもしれませんし、一度行かれてはどうですか」

 戦闘で疲弊したのではないかと勘ぐった裄夜に、青年は穏やかに言葉を続けた。

「身内の方でしたら、裏口から警備の方に挨拶して行かれると良いですよ。面会時間自体は過ぎていますから」

「はい、一応行ってみます。里見さんはどうしますか」

「私は先に帰りますよ、当番ですから。孝はついて行って」

 後半は孝にだけ向けた小声になる。孝は頷き、それから裄夜と歩き出して、そういえば自分が何か不審を抱いたのでは無かったかと疑問を抱いた。

 何かとても不安だった、だから兄に出くわしたとき、何故か心底安堵したのだ。

 裄夜が後ろを振り返りつつも、先を行く孝とはぐれないために小走りに去る。

「すいません、じゃあ先に帰って、中津川さんとかに言っといて下さい、帰りが少し遅くなるって」

「はいはい、……何だか夫婦みたいな発言だなぁ」

 苦笑に似たものを浮かべ、裕隆は軽く手を振った。二人を見送りきり、笑みを浮かべた青年と二人きりになる。

「えぇと、私は今日の仕事も終わったし、料理当番なので買い物をして帰ることにしてまして。本当に、弟が……孝がお世話になりました、それじゃあ、これで失礼します」

 いささか素っ気ないと自覚しながらも、裕隆は無意識に急ぐ。青年はあくまでも人当たりよく笑顔を保っていたが、不意に氷のような針を突いた。

「やはり貴方は不愉快ですね、同じ顔で私とは違う、その恵まれた緩やかさと穏やかさとを時々ぶちこわしてやりたくなる」

「あれ……もしかして、この前、夜中に団地ですれ違いませんでしたか?」

 不穏で、あり得ない言葉を浴びせられたことは一拍遅れて自覚された。

 男は笑う。裕隆が気付くよりほんのわずか、先だった。

「気配に疎いと思っていたら――意外と、見るものは見ているんですね、貴方は」

 恨みを込めて、彼は名乗る。

「私は里見尚隆(さとみなおたか)と言います。まったく別の男の所為でまったく別の腹から生まれ出たのに、今生、また同じ姿を得ようとは露とも思いませんでしたよ」

   *

「ねぇ父さん」

 尚隆はそれでも気が急くのをとめられなかった。小学校帰りの子供の手を冷たい手でぎゅっと掴んで、父は無言で坂をのぼった。日は未だ高く、淀んだ白さが景色を焼いた。人気はなくて、ただどこからか海鳥たちの鳴き声がしていた。

 ほの暗く。


「どうしてまた、貴方が!」

 ぎっと睨まれ、裕隆は知らず後ろへ退いた。何か暗い思念をぶつけられ、初めて学生相手に教壇に立ったときよりも足がすくんだ。年はそうは変わらないが、この男は病んでいると直感した。あるいはそれは遅すぎる気づきだった。

 麗しき午後は過ぎてしまった。朝焼けに胸を躍らせ、朝日を浴びて忙しく立ち働きわずかな午睡にまどろみの喜びを覚えた、そう言った日々は終わりを告げた。

 夜が来る。

「待ちわびた」

 見ず知らずの相手であるがゆえに恐怖は倍加した。

「兄上」

「あ、に?」

 顔を見ればそれは紛れもなく血縁者のもの、しかも実の弟である孝よりも目の前の男のほうがずっと裕隆に似ている。それはまるで双子のように。

「しかし……兄弟が孝の他に居ただなんて聞いてない」

 親類縁者の中にも、一言もその話をした者は居なかった。あのおしゃべりな近所の者たちでさえ――あの話しかしなかった。孝の耳には入らなかったことが奇跡のようなあの事実。否、本当に孝は知らなかったのだろうか。

「ええ、今生では全くの他人の体ではありますが。あのウタウタイよりは魂はずっと近いところにありましたよ」

 昔から。

 昔――裕隆は、孝の言葉を思い出す。兄貴、気を付けて――銀月の一族じゃなくても、人じゃない者や人じゃなくなった者たちは本当は沢山居るものだから。だから兄貴、気を付けて。俺は言葉の力の所為で七人衆に入れられたけど、兄貴は――親王さまは元々はただの人間なんだから。

 訳が分からないというのが正直なところだった。しかし現に事態は動いている。裕隆は、それではどうするか、と目の前の男を睨みすえた。

 それではこの男はかつての弟。否。

「権力争いの末に廃嫡を受けた双子の」

「黙れ……っ!」

 ぱしりと頬が鳴った。裕隆は頬に手を当て、濡れたそれが汗や涙ではなく血の所為だと気付いた。

「貴方は未だ殺さない」

 赤い組紐が、その男の背で揺れている。

 長い髪と、穏やかさを装った笑顔。

 記憶が何かと重なって見えた。

 今見ている男が、まるで神職者のように着物を纏っていた。その細くも見える指先が筆の軸をとらえ、墨をするうちに溶かし込んだ時間と思いとを筆先で絡め取って紙に記す。その流麗にして苛烈な紋。

 実の父たる御門に一度も息子と見なされぬまま、札師として生き延びた男。

 あのころ初めてその存在を知ったのだ。高名なる深淵という僧侶が都に入って来た頃に。

「札、師?」

「いかにも」

 くすくすと今にも笑い声を立てそうなのに、同時に泣き出しそうな子供のような顔をしている。

「――どういう、ことだ?」

 札師も自分も人の子として生まれた。育ちも身分もまったく違うとはいえど、千年以上の時を経て再開する道理がどこにあろう。

「おや、兄上はすっかりお忘れのようだ。私は何一つ忘れはしないのに」

 正しい名を呼ぼうとして、裕隆は相手を知っているにもかかわらず名前を知らないことに気付いた。名を問おうとすると、尚隆は軽く吹き出すようにして笑う。

「もともと札師として生きていたあの男には名前がないんですよ。親王である貴方とは違って」

 視界に甦るのは深く焚かれた香の匂い。風の抜ける板床の上に人々の歩く世界。地面付近に犬が運んだ人間の手足があって、女官たちが面倒そうに掃除を言いつけている。

 自分は、と裕隆は自問しながら眩暈を堪えた。

「どうし、て」

「何がです?」

「何故、今になってこんなことを」

「恨みがまったく無くなるなどあり得ないんですよ。新しく積み重なることはあっても」

 風化することはあった。だから札師はかつて――。

「札師」

 不意に声が割って入る。札師はにい、と唇の端を歪めた。

「離れていて大丈夫なんですか? 大事な自分自身と」

「構わぬ。お前と違って俺はあれとは別動で不都合はない」

「成程?」

 ゆるやかに腕を組み、札師は裕隆の一歩後ろに立つ男を睨め付けた。

「貴方は未だにそこから抜け出すつもりはないわけですか」

「記憶が定まらぬゆえお前も随分と退行しているな、精神的に。俺と前後して一族に身を預かられた筈だが、現在はそれを忘れて歯向かうか」

「黙りなさい。私はもとよりあなた方になれ合うつもりなどない。なれ合っていたつもりもありません」

 ぴしゃりと払いのけた言葉だが、キセは鼻で笑い飛ばした。

「また利用される気か。最初は親王を疎んでいたが、自らの腕によってのみ立つことを誇りとしてやがて兄を蔑める程度に自我肥大したお前が、唯一、手出しもなく日々札を書き生活することで生き延びたものを、否定する気か」

「誤りだったというのです。誤りは正されるべきだ」

「正誤の問題ではなかろう。札師、お前後ろに何をつけている」

 札師であった男、現在の里見尚隆は悔しげに唇を曲げる。年齢にあわない幼い仕草に、矜持の高さが青年の気品をさえ損なって、愚直に騙される可能性を示唆していた。

 思わず、裕隆が言葉を述べる。

「あまり責めないでやってほしい、彼は辛い目にあってきたのですから」

「ッ! 貴方はまた! そういう、上っ面だけの言葉を吐く!」

 腕を振り上げたものの殴りつけるには至らない。札師は息を乱し、やがて自身が激情にかられたことを疎ましげにしてため息をついた。頬が赤いのは決して照れなどの好意的なもののためではない。

「私の中の憎悪は消えない。私だってこんなものは邪魔です。しかし、収まらない、それでは収まらないんですよ……!」

 何が善で何が悪か。それらがはっきりしていたとしても、心は決して納得はできない。

「貴方は報われて救われる、けれど私には何も残らない。すべては奪いつくされる。それなのにどうして貴方は私の視界に現れるのか。いっそのこと、まったく違っていれば良かったのに……どうしてまた同じ姿を、名を、職を、選ぶのです」

 それはまるで運命のように、いたずらに自身の思いに引き回されて、気付けば、同じ仕事さえ選んでいた。

 悔しげな札師に、キセは恬淡と告げる。

「お前の後ろの情念を払え」

「嫌です」

「払えずとも良い。何に荷担するにせよ、それがお前に好都合かと言えばそうでもない、札師としてもまともに評価されていまい? なればここに戻れば良い。折角の腕をすら駄目にするぞ」

「貴方も嫌いです」

 キセは目を閉じ、おもむろに開く。

「どちらでも構わぬ。札師が戻らぬならば問う。自身では用いられぬ札、今生用いるは誰だ」

「誰が教えますか!」

 どうせ自分では使えない。嫌悪混じりに吐き捨てて、尚隆はそれから、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。無理矢理作られた笑みだったので、却って裕隆の恐れを増やした。

「私は貴方を許さない。引き裂かれ疎まれてきた同じ血の運命をたやすく越える貴方など、私は認めない」

 握りしめた拳に手をさしのべた裕隆の頬に、爪を立てて尚隆は言う。

「私は貴方を許さない」

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