第八章 残り火

   *

「よォ、ヒトゴロシ」

 いちいち文節を区切りながら、蔑みの露わな声が降った。

 孝(こう)はびくりと立ちすくむ。けれど数秒おいて呼吸を整え、決意して振り返った。

 言葉は使い方次第。

 気をつければ、彼女を殺すこともない。

 振り返れば、果たして各務瑠璃子(かがみるりこ)の姿があった。

 毛先をすいた髪を頬にはりつけ、風に逆らうように首を振って、舌で唇をなめた。

 手首には相変わらずの痕。

「……自分ばっかり不幸だって顔、しないでよ」

 孝は思わず口走る。両親のことも何もかも、別に瑠璃子だけが苦しい思いをしたわけではない。

「何言ってンの!?」

 壁を金属のフォークで引っ掻いたような声に、孝は右手で片耳を塞ぐ。

 それを見て我を取り戻したのか、瑠璃子は前のめりになっていた体をわざとらしく余裕ぶって揺らし、腕を組んだ。

「アンタさぞかしいい気になってンだろうねェ、思い通りにあたしは死んだし? 逃げたいと思ったら逃げられたし? 茅ヶ崎死んだし! アハハ、万々歳ってヤツ? 次は誰を殺す気? 殺しといてまぁ可哀想だなんて顔よくできるよねぇ、あァ違ったっけ、無関係!? どっちでも良いよね!? 自分だけは被害者で弱いけどそうなんだってひけらかさないで生きてますッて顔して、はん! それがひけらかしだっつーんだよ、この薄汚い野良犬!」

 孝は瑠璃子の思いこみに眉をひそめる。

 孝は彼女に対し、一度たりともとは言わないが、少なくとも継続した悪意は持っていない。

 ただ、今は、誤解された解釈に憤る――伝えられないことが腹立たしい。正しく、思っていることを、言葉にはできない、伝えても伝わらない。そのことが孝を苛立たせる。言葉は聞く耳を持たない者については無力だ。

「各務さんが死ねばいいとか思わないし、他の人についても同じだ。こっちは別に関わるつもりなんてないし、そっちを傷つける気も無いよ、何で、分からないんだよ……っ」

「分かって貰えるとでも思った? はッおあいにく様! 言葉ァ尽くしたって、それはアンタが他人を蹂躙するってこと以外の意味持たないンだよ! だッれが聞くか!!」

 こちらの言い分は聞かないと言われ、孝はでは何故不毛な言い争いを求めるような真似をするのかと不可解に思う。これではまるでストーカーを相手にしているようだ。実のところ先日から何度も、登下校中に後をつけられたりしている。目的が分からなくて、孝は誰にも相談できないまま瑠璃子と対峙を続けていた。その時からもずっと、瑠璃子はこの調子である。

 会話をする気がまるでなく、一方的にこちらを罵倒しつくして、それだけ、でしかない。

 ただの憤りのはけ口であれば人形でも構わない筈だ。各務瑠璃子の憤りは、しかし残虐に孝を貶めたいという目的があってなされた。

 瑠璃子の命を絶ったのは瑠璃子自身ではなかったのか。何故孝の責任を問う?

 世界を動かした事象は、すべて、各々の範囲で転がされていっただけのこと。別に、孝の所為ではない。

「……っ」

 しかし孝は顔をしかめたまま沈黙を続けた。言葉だけが乱雑に頭の中を渦巻いている。このまま、瑠璃子の憎悪に引きずられてこちらが怒れば、出ていく言葉が即凶器になる恐れもある。そうなれば瑠璃子の思い通りだ、孝が瑠璃子を憎み殺そうとしたというシナリオが完成する、彼女にそんな「理由」は与えてやらない。

 生き返った理由など、与えてはやらない。

 押し込められた言葉の奔流が喉元でうなる。脂汗が額に滲む。

 あくまでも善人で弱い者だという立場を貫き彼女の怒りを逆なでする――それは望まないことだ。けれど、孝はどちらも選べないから、言葉を行使しない方を選ぶしかない。

 言葉を行使するか、行使しないでいるか。

「そんなに馬鹿なんだったらさァ、生きててもしょうがないよね」

 不意に瑠璃子が語調を緩めた。甘い声で孝に近づく。

「アンタバカだし? ヒトゴロシだしそれ認めないし、最低だよホントに。気付いてる? あんたの周りの連中、皆あんたをお荷物だと思ってるよ、当たり前だから分かってるよね? くっだらない羊の皮被ってるけど他の誰より強く他人を殺せる狼サン、だから皆檻に入れたがるのよ、心底憎んでても殺せないし!」

 別に孝も、自分が特別誰かの役に立つとは思っていない。自分一人居なくなっても、むしろ周りの負担が減るだけだ。悪い方向へは何一つ変わらない。死んでも生きても変わらないのだ。

 でも特別死にたいとも思わない。

 だから瑠璃子に殺される道理もない。

 瑠璃子が孝の目を見つめて、それからいきなり右手を振り下ろした。

 爪がまぶたをかすり頬を傷つける。一撃は受けておこうと思った。

 もしこれを避けていれば瑠璃子は更に怒り狂う。

「一回は、殴られといたから」

 孝は震える声を出して、瑠璃子の膝蹴りをどうにか後ろに下がってかわした。

「各務さんが苦しんだのは本当でも、それが僕の所為なわけじゃない。僕がやったことじゃないし、逆恨みして何になるんだ。化けて出るくらいならいっそ最初から死ななきゃ良かったんだよ!」

「――ッてめっ!」

 本気で蹴られ、顎を切った。孝はアスファルトで手と膝を擦って、それから慌てて立ち上がる。瑠璃子が制服のポケットから、千円札ほどの大きさをした紙切れを取り出すところだった。

「ぶッ殺してやる」

 炎が揺らめく。目の錯覚ではない。

(やばい)

 慈雨爺(じうじい)など、見えないものを見ることや過去のことの一部は思い出したが、しかし孝はまだ、まるで力を使えていない。あくまでも里見孝(さとみこう)は里見孝、それ以上でも以下でも無い。

 ウタウタイは、まるで遠い親戚のお爺さんのことのようだ。

 その存在は、実感があるようでない。

 瑠璃子が炎を右手にまとわりつかせ、にい、と笑った。

(あの時のように都合よくはいかない)

 あの時、村人に追い回され、髪を鷲掴みにされて引きずり戻され命を絶たれるという出来事は完遂されなかった。山狩りは不成功に終わった。それはあの時にウタウタイが符崎キセに拾われたからだ。偶然、黒衣の僧形をした男が現れて、山の奥にある小さな堂の前に転がっていたウタウタイを発見した。人狩りとは趣味が悪いと青年は呟いてウタウタイを担ぎ上げ、近くにあった一族の一つの拠点に歩を進めた。

 偶然は重なる。その時その屋敷にあのひとたちが居たのだから。

(銀月王と花陽妃)

 銀色にけぶる、存在自体が希薄で、それでいて雪景色そのものに成り代われそうな圧倒的な寒さ。精神的な凍えを感じた、あの男。真夏の庭にも冬を呼び込む冷たい眼差し。そして対照的な、緋色とも表現できそうな橙に近い髪色の女。神さびた表情で無心に佇むかと思えば急激に面を変える。童女のように幼女のように、不可解な笑みを浮かべて手をさしのべる、それは狂気に近いとしても、今眼前に居る各務瑠璃子とは格段に違う。

(あのひとは怖い……人ではないけれど)

 瑠璃子は命の炎を持てあましている、けれどあの女には消し炭さえない。

 ただ胡乱(うろん)に生かされているだけ。

「どこ見てンだよっ」

 頬に焼け付く痛みが走る。距離は充分取っているのに、瑠璃子の腕の一振りで頬の薄皮一枚がそがれた。血管は傷ついていない。ただ表面の神経に障った。

(まずい、よね……でもどうしたら……分かってもらえるんだろう……)

 いや、永遠にそぐわないかもしれない。

 気が付いて、ぞっとする。雪の中に仰向けに倒れていたように、背中一面が冷たくて妙に痛がゆかった。

 ふと、切り札のことを思い出す。逃げるのは嫌だ、逃げ出したいけれど、今背を向ければ一撃であの炎が孝を焦げ付かせる。

 どうする?

 孝は唾を飲み込む。対処法が分からない以上、彼に頼るほうが足手まといにならなくて却っていいのかもしれない。

 ふと思い出す。自分の身は自分で守れ――その言葉は胸の奥に、ひどく引き裂かれるような痛みを与えた。自分でどうやって守れると言うのだろう? 相手は勝手にこちらを恨むのに。どう防御しようとしても、あの学校で孝は標的にされた。そのことについては訳もない。人は無力だと、そう思った瞬間手足から力が抜ける。

(あきら、める? それとも、声を、使う?)

 無力な状態でいきがって自滅するのも危険である。何故ウタウタイとしての制御法を学ぼうとしなかったのだろう、孝はそう後悔した。後悔したあと不意に気付いた。

 これから学べば済むことだ。

 こんな簡単なことにも頭が向かない状態だった――鬱積がまるで長年の雪が枝を押さえつけるように、傷つけ、しならせ、折り曲げていた。ただ、人格は生き延びようとして方向を変えただけ。それに良いも悪いも無い。

 各務瑠璃子も。

「ッ、各務さ」

「うるさい!」

 頭を両腕で抱え込み、瑠璃子は震えながら左右に体を揺らした。

「うるさいうるさいうるさいうるさい……!」

「各務さん気付いて!」

 びくん、と瑠璃子が棒を飲んだようにのびた。一枚板に似た直立具合に、孝は思わず口を押さえる。

 言葉が効いたのか彼女自身の行動のゆえなのか、分からなくて心臓が圧迫され息が苦しい。

「……何、今更何を言おうって言うン……ッ」

「頭が痛いの……?」

「っか……うるさ……ッこの!」

 瑠璃子が右腕を振り下ろした。その所為でなのか、通りの向かいにある喫茶店の全面ガラスの一部に罅が入った。細かく散るガラスの破片やその状況に、人々が半ばパニックになる。

 騒ぎを煽りあう群れを見て、孝は足で地面を踏みしめた。

 孝が逃げないでいることで彼女に対し何ができるわけでもない。それでも、走り去るよりはましな回答であるような気がした。

 孝は静かに、言葉を選ぶ。ズボンのポケットに入れた札を信じて。

「菅浩太(すがこうた)さん、できれば、来てください……!」

「っと、結構早かったね、二人の接触」

 唐突に中空から声をかけられ、孝は驚愕して口を開けたままになる。

「おや驚いた? 驚いたんだ、そりゃそうだよね、俺も驚いた」

 浩太の驚きと孝の驚愕の間には深くて長い溝がありそうだが、孝は口を開閉し、言葉を出せずに押し黙った。

 白衣の裾を翻し、浩太は近づくと孝の頭を押さえるようにして無遠慮に撫でた。

「俺ねぇ結構君らのこと大事なのよ青少年大好きなのよだって馬鹿でアホで間抜けで可愛いじゃないこの先すごく化けるかもしれないしできたら羽化のお手伝いくらいしておきたいのが人情でしょ」

 だから、呼んでも構わないのだと、浩太はかすかに微笑んだ。

「きついことも言うけどね。一応、俺も心配してるから。あんま伝わってないみたいだけど。まぁ俺も若いし」

「……すみません」

「謝られるために来たんじゃないんだけど」

 瑠璃子が、どう手を打つかと半眼で思案している。だから浩太も、それに報いるべく孝から手を離し、きびすを返して向き直った。

 各務瑠璃子に。

「あんたがやンの?」

 鼻で笑う仕草に、浩太は無言で一礼した。そして面を上げたとき、指先が懐から静かに抜かれる。

 孝を守ろうとした物の怪らの動きが封じられ、代行される。

 人為的に。

「兵は神速を貴ぶべし、機を失うべからず!」

 びし、と音を立てて手を合わせ、開く。そこからこぼれ落ちる一枚の札。

 それを、指で捉え、なめらかな動きで引き裂く。

「いでよ、――」

 聞き取れない。

 いつもよりも低く、凛として響く声に、しかし明快には理解がついていかない。

「う、わ!」

 孝は思わず目を瞑る。

 風が視界を奪う。

 舌打ちが明晰に耳元で聞こえた。孝は浩太の後ろに引っ張られ、庇われたまま口元を押さえた。余計なことを口走らぬように、孝は必死で舌を歯の奥に押し込める。

 瑠璃子が何か叫んでいるがよく聞こえない。辛うじて、一言届いた。

「ざッけんなよ……! ぶっ殺してやる」

 少女のどす黒い顔が、アスファルトの上に近づいた。倒れた、と思ったが浩太が小さく呟くので違うと分かった。

「しまった……ミスった」

 同時に浩太が次の札を破る、詠唱は無い。

 瑠璃子が地面の上に指先で何かを描く。素早い動きのついでのように、あの独特のヒステリックな笑いが響いた。

「行っけェ!」

「孝くん下がってろ!」

 突き飛ばされ、孝は舌を噛みそうになる。尻餅をついて、しかしそこから慌てて立ち上がって逃げる。数メートル離れると、状況の異様さがよく分かった。

 誰もこれに気付いていない。

 黙殺されているのだ。

 見えて聞こえているはずなのに認識されていないのだ――この道を通る気分にならなくなったりし、人々はここを迂回して、避けてしまう。先程のガラスの損壊は分かっているが、それでも騒ぎは沈静化している。ごく普通に静かに、処理が進んでいた。

 大事が起こった筈なのにそれが消える。忘れられる。それはその速さをのぞけばごく当たり前のことだ。

 巻き込まなくて済むので良いのだが、孝は体の震えが止まらなかった。

 あるのに無い。

 そう扱われる様はいじめなどで見ている、けれど、本当に感知できなくなるのは、とても異常だ。

 もしかしたら自分は色々なものを見落として生きているのか。もしかしたら孝が存在していると知らないまま家族が目の前を通り過ぎてしまうことがあるのか。

 戸籍ごと周囲から消された自分が、本当に生きていると言えるのだろうか。

 今は辛うじて、兄と、銀月の一族と言う見知らぬ者らが認めてくれる。里見孝がこうやって生きてきたのだと言っても嘘だと言わず、消されたのだと言ってくれる者がいる。

 けれど、本当は――?

 過去の自分を忘れてしまったように、孝はいつか消えるのではないか?

 自分自身の手によって?

「惑わされるな!」

 浩太の声が耳を打った。しびれそうになった右後ろ頭に、浩太の声が聞こえている。

 吹き飛ばされたアスファルトの表面の一部をかぶり、孝の後ろにまで位置を変えざるを得なかった浩太が札を地面に押しつけていた。

「自分をしっかり持て!」

「でも……っでも自分って……!」

 何ですか。

「頭可笑しくなったんじゃないの?」

 瑠璃子が空気を吸い込みながら笑う。

 その手にはチョーク。学校からくすねてきたような白いチョークがそこにある。

「自分自分って、何ソレ。おッかしぃー! 今までさんざ人の所為にしてきといて、今更何が自分なのさ!?」

「孝君どうする? これ。生かす? 殺す?」

 浩太が呟くように、しかし確かに孝に問う。孝は反射的に首を左右に振り、「絶対に殺さないで」と言いかけて、その適用範囲の広さを思い、踏みとどまる。

 絶対に殺さない――だとしたら浩太が攻撃をしかけると逆に被害を被ることや、何をしても、引きちぎられた破片だけになっても死ねなくなる恐れもある。普段無意識に使用している言葉すら、状況に合わせて人の頭脳が判断し意味を絞っていることがよく分かる。

「ふうん?」

 静かに首を振るだけの孝に、浩太は間を置いてから鼻でわらう。

「ま、最初ッから殺そうとか考えてるヤツに手助けなんてするつもりはないけどね俺もほら人道的支援じゃなきゃ嫌なわけうっわ可愛いよちょっと前の自衛隊みたい社会派の見せかけ! 俺最近新聞も見てないなそういえば」

 その間にも瑠璃子の嬌声めいた笑い声が響き、炎が尖った氷の欠片を模して地面を抉った。孝は思わず腕で頭を庇う。

「ねえ何で!? 何で何も言わないわけ!?」

 笑いながら、急に真顔に表情が変わった。深夜うっかり見上げてしまった月のように。昼間、ふと目覚めて室内に居たはずの誰もが留守だった瞬間のように。

 その様がどこか途方にくれているように見えて、孝は一歩出そうになる。それを遮って浩太が手で下がれと指示した。

「は! 自分で何も言えないわけ? やっぱオカシイんじゃん」

 冷笑し、彼女は緩やかに腕を上げる。弛緩したようにしか見えなかった全身に緩やかではあるが力が満ちる。

 満ち潮のようにごく自然に。しかして月という異物によって左右されながら。

「ふ、」

 浩太は目だけは笑わず、ただ胸元に右手を引き寄せる。

 どちらが先か。

「我エイをもって死となし」

「ざけんな! 行けえええェえッ!」

 舌打ちし浩太は札を破る。黄色の紙片が宙を舞い、地面へと走らせた茅野のチョークから炎が生まれてそれを裂いた。

「死、既に死すべし! 既に影無き月の僕であるがゆえに!」

 方針を転換し、浩太は指を組んで素早くうたった。

「労さずして捕らうるか、非ず! 関せずして惑わすか、非ず! なれば我が声によりつきて対象に関し対象に触れて一時の戸を乗り越えて来よ!」

「何ぶつぶつ言ってンだよッ」

 チョークから手が離れ、それに巻いていた紙が分離してアスファルトに落ちた。

「来たらんか……」

 浩太の言葉には意味がない。

 意味あるものとして、また意味を付与するものとしての言葉という属性で言えばそれはまるで「無い」に等しい。

 これはただの「呪文」である。

 自分自身を高みへと引きずりあげるための記号。

 殆ど聞き取れない声で唱えつつ、浩太は静かに人差し指から順繰りに指をほどく。

「縛」

 急に、瑠璃子が膝を突いた。意味が分からず後ろ手になった指を左右にひくが、微動だにしない。がちがちと歯を鳴らしながら体を細かく、大きく揺すった。

「何しやがッたァっ!?」

「自縄自縛という言葉を知ってるかい?」

 頬に散らばる細かな髪が、呆然としたような瑠璃子の顔からざらりと落ちた。

「……何言ってやがンだよ」

 人に媚びることを知っている獣がするように、瑠璃子はその双眸を歪めた。

「フ、あははは! あんたバカ? それで勝ったつもりなわけ?」

 孝はそこでやっと気が付く。瑠璃子の手首に巻きつけられた包帯は、端以外は白くない。白いけれど、違うのだ。垂れた端から見えるのは、巻き付けた部分の裏側に向けて、墨で何かが描かれているもの。

 浩太に知らせようとして、孝は更に異変を察知した。

(あれは)

 道路上に、通り過ぎていく人の波の中で平然と立ちながら、一人の青年がこちらを見ていた。殺したいと願いながらそうできずにいる、被害者が加害者に向ける憤怒に近い眼差しを持つ。

 それが誰なのか分かった瞬間、孝は心臓を鷲掴みにされた。

(兄貴がいるわけがない。あれは違う)

 では、誰だ?

「あんた、ずっと前にあたしらの下僕になってるッてのに?」

 瑠璃子の言葉が嘲弄を含み、やがて悠然と彼女を立ち上がらせる。術が途中で無効化されたこともさることながら、別の事実が、浩太の顔から表情を除いた。

「どういうことだ」

 声はあくまでも平静を装っている。けれどその目の冷たさが、彼女への詰問が、既に彼の無知をさらけていた。

 浩太は彼女たちの作戦を知らない。

 にいと口の両端をあげて、各務瑠璃子が包帯をほどいた。その一枚に連綿とつづられた薄墨は雨に濡れて殆ど読めない。

「あたしはさァ、そういう、おきれいな、悟りきったみたいなバカな顔は嫌いなんだよねぇ」

 粘つく声が鼓膜へと流れ込む。ゼリーのように一定の粘度と浸透圧を保ち、それは胸底を狙って不意をつく。

「あんた、あとどれくらいそのままで居る気? 山へ帰ればいいンだよ、あたしがこの世に居ちゃいけないッていうんならサ!」

「……ッそ! お前どこまで!」

 瑠璃子の唇がにいと上げられ、不安定に揺れて、とまった。

「皮が剥がれたではないか! 愚かしいとは思わんのかね」

 誰だ?

「今の声、一体誰が」

 孝の声がうつろに響く。

 浩太はひそめ続けていた眉間に指を当てた。答えは無論返さない。

 疲れたように瑠璃子がぺたりと座り込む。それが意識的にではないことは明白だ。なぜならばその足は小刻みに震え、どうにかしてその体を二本の足で立たせようと必死に筋肉を動かしていたから。

 ただ力の入れ加減、そのバランスが悪かった。うまく立てず、前傾になって四つ足で這う。

「ふ、はは、」

 半開きになった口から音を立てて唾液がこぼれた。

「愚かしや、山の神がかくあるか」

「何者だ」

 名乗る前から封じるための札を抜き出している浩太に低く笑い、瑠璃子の形を使う者はその頭(かしら)を物憂げにあげた。まるで浄瑠璃めいた動作で、背後から操られるようにふらりと立つ。

「……名などあるまい? かつて神は名乗るまい、名乗るは既に帰りやらんゆえに俗であるよ」

「俺もそうだけどね、神さまの名前は無いけどね」

 指が、ささやかに札をちぎる。その最初の一裂きで、瑠璃子が顔面から倒れ伏した。

 もとから地上からの距離が短かったとはいえ、それでもボウリングのボールが落とされるように地面が揺れる。額が割れたらしく歪んだ模様で血が流れ出た。

 何なんだと毒づき、浩太は裂きかけの札を白衣のポケットにしまう。

「意味が分からないんだけど孝君」

「はいっ」

 慌てて浩太の顔を見た孝に、浩太は完全に渋面を作った。

「ねぇそっちに誰か居た? さっきからすごい気にしてたみたいだけど――敵とか知り合いとか誰か見てた?」

「あの……」

 これは言っても良いことだろうか。この男は元々この各務瑠璃子の件については完全に無関係であって、自分の所為で巻き込んでしまっただけの人だと思っていた。だから孝はためらいが抜けない。睨みつけられ、浩太が普段よりかなり余裕を失っていると分かる。孝は蚊の鳴くような声でこう答えた。

「兄に……里見裕隆(さとみひろたか)にそっくりな人が、こっちを、睨んで」

「……里見さんが?」

「本人じゃないです、多分……」

 振り返っても既に姿がない。だから裕隆であったのか赤の他人であったのか、こちらを見ていた意図さえ判断がつけられない。

 ため息をつき、浩太は地面に直接腰を下ろした。

「……言ってなかったと思うんだけど……俺、戦闘向かないんだよね……元々土地神だし、メインは所詮浄化の方で……」

「……菅さん?」

 返事が無い。肩を軽く叩き、それからしゃがみ込んで両手で揺さぶる。

「菅さん? 菅さん!」

「ごめん寝てないから寝たい寝かせてお願い五分あと十分……」

 寝ぼけているような男と、顔から血を流している少女が一人、孝の側に残されている。

 どうしたものかと呆然としつつも、孝は、瑠璃子に近づいた。

「各務さん、」

 息があるのかと確かめようとした、その時。

「ふ、」

 左手首を掴まれた。腕が抜けるかと思うほど引っ張られ、孝は瑠璃子の隣に頭から転ぶ。右手を動かしバランスをとって受け身を取れたが、打ち付けた肩が鈍く痛んだ。それでも頭蓋骨をかち割るよりはよほどましだ。体育の授業でやった柔道に感謝する。

「ふはは」

 寝言のように不明瞭に笑い声をたて、半眼のうつろな眼差しでこちらを見てから瑠璃子はごとんと頭を落とした。白目をむいた彼女は怖いが、後頭部に手を滑らせ、怪我が無いようなので安堵する。

「でも……どうしたら」

 孝の声に答えるように、上から、ひょいと声が降った。

「手を貸しましょうか?」

 それは上品めかした笑みを浮かべた、シャム猫めいた青年だった。兄によく似た容貌の青年の急な出現に、孝は息を吸って、むせた。

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