第七章 臆見億劫(おっけん、おっこう)

   *

 校舎内は、居残っている者らの甲高い笑い声さえすぐに飲み込む。

 影がただただ長く延びて、やがてすべてを覆おうとしている。


「大野ー、お前、なぁ?」

 大野まゆらは眉を寄せたままで沈黙している。一枚貝が岩に張り付いているように椅子に座り込んでいる少女を見て、担任教師はため息を押し殺した。生徒にはそれぞれ、事情というものがあるのだ。

 しかしこれはいただけない。

「親御さんと、ちゃんと時間、調整したんだろうな? 面談ある日も確認して貰って、時間が今日のこの時間で良いってちゃんと約束、取り付けたんだろうな?」

 少女は黙ってうつむいている。しかしその表情には殊勝と言う言葉はおよそ似合わない。彼女は怒りを殺しながら机の一点を睨み付けていたからだ。

「……大野、先生も忙しいんだ。今週中にまた、時間決めてくれるか」

「すみません」

 やっとのことで、噴出しかけた思いを押さえつけながらまゆらが口を開く。三者面談の時間表を渡されて、まゆらは受け取り、それを鞄にしまい込む。西日の強い教室に、次の生徒が顔を出した。

「おー、水瀬、すまんな呼び出して。さっき面談やったばっかで何だが、片づけ手伝ってくれよ」

「いえ、別に僕は構わないんですが」

 西日に目を細める少年はまゆらを見て、軽く会釈をした。まゆらは慌てて席を立って廊下へ出ていく。背を超える位置の毛先が宙を流れ、本人に遅れて扉の向こうへ消えていった。


 結局、大元は学校には来なかった。

(何なのよ!!)

 まゆらは力任せに足を踏みならしながら階段を下った。

 あの父親、元々おかしな男だったが、あの日からいっそうおかしくなった。

(他人の面倒は見ても実の娘の私はどうでも良いってわけ!?)

 別にどうでも良いけど。良いけど!

 まゆらは昇降口に辿り着き、一旦は肩を落とした。西日の差す廊下には、人の気配が殆どない。

 それをしんしんと胸の裏に感じ、まゆらは思い切り腕を振って自分の靴を履き替える。

(あーもうやめやめッ! あたしそんなにあいつのこと信じてるわけじゃないし)

 それでも、悲しいというのにも似た感触は確かにあった。あの能天気な笑いでごめんごめんと何でもないことのように謝られると思うと、腑が煮えくりかえる。

 裏切られた、という感覚に近い。

 悲しくて、とても腹立たしい。

「……っ」

 何故もっと投げやりになれないのだろう。あんな男に期待してしまうのだろう。

(私は、娘、なのに)

 涙がこぼれそうだったから、まゆらは素早く瞬きして顔をあげた。その目に飛び込んできた展覧会の看板に引きずられるようにして会場に駆け込む。

 随分歩いて商店街まで来ていたが、そう遠い距離でもない。しょっちゅう一人ででも友達とでも、漫画や雑誌や服を買いに、ときにはただ食べながら喋るためにこの商店街には来ていた。けれどよく有名な海外の画家の作品展をやっている程度の小さな画廊に足を踏み入れるのは初めてだった。

 アーケード街を見下ろして、五階建ての建物が建っている。一階は小物店で、階段をあがって行き、まゆらはそのうちに涙が引っ込んでいくのに安堵した。

 小さな会場の筈だがそれなりに人の行き来があって、まゆらも泣くわけにはいかない。気分も、階段を上りきって絵を見て帰ってやる、という目標ができたので前向きになった。


「無料、なんだ」

 無意識に呟いて受付の青年に笑われた。頬を赤くしたまゆらに謝られ、けれど青年は明るく笑う。

「気になさらなくて構いませんよ、御陵和馬なんて、若い方はご存じないかもしれませんし――最近名前が本にも載るようになった程度の、日本画家ですから。お金を取るには知名度がありません」

「あっ、えっもしかしてあの」

「いえ、私ではありません。私はただのアルバイトの受付です」

「あ、すみません」

 何度も謝る姿はあまり美しいとは言えないが、青年は気分を害することもなく朗らかに笑っている。パンフレットを一枚差しだし、彼は狭いですがごゆっくりと、とまゆらに会場を指さした。

「一周すれば、またここに戻ってきますから。迷子にはなりませんよ、安心してくださいね」

(何だこの人)

 マイペースな男だな、とまゆらは思いながら絨毯敷きの部屋に足を踏み入れた。青年の背に束ねられた長めの茶の髪といい、それを結ぶ緋色のヒモといい、浮世離れした感が否めない。

(ああいう人って、バイトとかしてる姿しか思い浮かばないや……)

 それなりに真面目そうなのでオフィスに居てもおかしくはないが、それでもあの雰囲気では気付いたら仕事を貰えなくなっていそうな気がする。特に理由はないのだが、そんな気がしてまゆらは苦く笑みを浮かべた。

(パパとおんなじ)

 あの男は合わない仕事にしがみついていたのだ――母が死ぬまで続いたあの頑固さは、今度は違う方面で発揮されている。変な宗教紛いのことを始めた父親にため息をつき、まゆらは「寄付金自分からほしがらないだけマシか」とどうにかフォローすることに成功した。

「あれ……?」

 無名に近いらしい割りに人が多く、まゆらはどうにか人の波を泳いで渡り、ようやく一枚の絵とまともに相対した。

「……何コレ」

 かつて水墨画を見たことがある――あれは日本史の資料集にカラーで載せられていた。それが新聞を折ったような大きさの薄くクリーム色がかった紙にざらりと砂めいた絵具をのせるかたちで、灰色以外の色を使って目の前に置かれていた。まゆらにはそうとしか表現できない。日本画がどういうものかは分からない。ただ、もっと生ぬるい、マンションなどで一室だけせめてとばかりに作られた和室にある襖絵のようなものを想像していたため、くっ、と心臓の上の辺りを叩かれた気分になる。

「……何、これ」

 呟くことで、息ができた。目の前の鮮明な色で、丁寧にモズと柿の割れた姿が描かれていた。

「荒いと均一に塗るのが難しいですからなぁ」

 誰かがそう言いながら外へ出ていく。それを目で追って、まゆらは反対へ向き直った。

 壁一面にかけられたのは、くろぐろとした地にのせられた金属光沢の竜の鱗。その頭が見えず、見たいような見たくないような思いで、じりじりとまゆらは先へ進んだ。目が尾から胴を結ぶ輪郭を追う、それによって食道の辺りが締め付けられるような感じがした。

(怖、い)

 言ってしまえば楽になると、それで解放されると、本能が知っている。けれどまゆらは敢えて我慢することを選んだ。一歩進むごとに緊張が高まり、テスト前のような気分になる。自分がこの勝負に勝つことを信じてやまない、高ぶりがある。

(負けない)

 鞄を握りしめる手が、自然と体の前に来ていた。

 頭まで辿り着き、その目の力にびくりとしつつ、まゆらはどうにかその先へ進む。次の絵は小品だった。けれど小さな苺一つが籠の前に置かれているだけの絵だというのに、苺が寡黙な老爺にも似て夕暮れに佇む、その気配をつぶさに感じた。

(何か、これ、)

 気持ち悪い。

 まゆらは弾かれたように顔をあげた。そういえばどれもこれも、ここにある絵はことごとく生き生きとしすぎていた。しかもすべてが明るくあるわけではない。そこにある恨みさえこめて、生有る姿から夕暮れへと向かうエネルギーの、ふいとした一瞬をとらえていた。

 負けたくはないと思ったが、違和感は拭えない。忌み負けだな、という大元の声が耳元に聞こえたような気がして、まゆらは一気に出入り口に歩いた。

 最後の一枚は滝から流れ、ゆるやかになる水。

「なぁんだ……別に、普通の絵じゃん……」

 言って、まゆらはガラスに覆われていないむき出しの最後の一枚にかすかに手を触れた。何故かその一枚だけは触れるなという注意書きもなく壁に無造作にかけられている。指で突いてから、まゆらは受付まで歩き、先程の青年に会釈をしてから外へ出た。階段を下りきって、雑踏に逃れるとたちまち五感が鈍っていく。

 先程は全身が目であり耳のようになっていたのだと気付くには、彼女はいささか子供過ぎた。目の前の店でケーキが安売りされているのを見て、まゆらは喜色満面でそこへ飛び込む。

 絵画展のことは、綺麗さっぱり忘れていた。


「いよっナオタカ」

 少女は音を立ててガムを噛みながら階段を上って、片手をあげた。一瞬顔をしかめた青年は、受付台の中からパンフレットを差し出した。

「どうぞ、ごゆっくり」

「嫌味かよ。あたしそういうの興味ない。用はそれじゃないし。人間ごっこタノシイ?」

「それはそれなりに。大体私はただの人間ですから」

「どうだか」

 尚隆は人の波が途切れたことで、仕事外の会話に切り替えた。

「それよりそっちはどうなんです? うまく行ってますか」

「えェ? まァそれなり」

「そうですか。そういえばさっき大野の娘が来ましたよ」

「あァあれ? あの子どうなの、何アレ」

「嫌いですか?」

「あたし即座に人スキキライで分けようとする考え方キライ」

「それは悪うございました」

 再び現れる来場者にパンフレットを渡し、見送ってから尚隆は舌打ちする。

「何ソレ。どうかした?」

「いえ……さっき大野まゆらに、明日今回の画家が来ることを教え損ねたなと思いまして」

「ふうん? 何が良いわけそれ。仕事のタメか」

 ぶらぶらと包帯の巻き付けられた腕を振る少女に、幾人かが眉をひそめて足早に通り過ぎる。それを見て瑠璃子は威嚇するように喉の奥でガッと吠えた。脅すような態度にため息をつき、尚隆は新しく箱から出したパンフレットの束を指先でさばいた。

「それにしても。本当に、貴方も見ていきませんか。なかなか良いですよ」

「うあァ? 要らない別に。気持ち悪いし」

「気持ち悪い?」

「そう」

 頷き、瑠璃子は顔をしかめる。

「この会場中、生ぬるいっつーか気持ち悪い。絵も全部同じに見える」

「そうですか?」

 確かに、絵に興味のない人間から見ると同じ題材を使った絵などが並んでおり、つまらないのかもしれない。

「まぁ、林檎や苺とかの盛り合わせな絵とかですからね……あと風景とか、鷹とか……日本画とは思えない金属みたいな抽象画もありましたけど」

「何あんた結構見てンじゃん」

「面白いですよ、こう、脳の神経に来るから、大人しく座って居られないというか」

「はァ?」

「そうですね……端的に言えば、札を書きたくなる」

「あァ成程。よく分かんないけど要するに湧くんだ、対抗心」

「そうですかね?」

「きゃあっ」

 ふとすぐ近くで声があがり、尚隆は席を立った。

「どうしましたか?」

「あっ、あのこれ」

 見れば、一番出入り口に近い位置にある作品が濡れている。床へ流れ落ちた水に靴底が滑って、女性が一人転んだようだ。雨でもないのにいきなりのことでバランスを崩したらしい――絨毯が敷かれていない部分だったことで雑巾で拭けるのだが、怪我をされることは困る。

「申し訳有りません」

 急いで女性を助け起こした尚隆は、壁の絵に眉をひそめる。

 絵はまるで息を潜めるように、水の湧くのをやめてしまった。

「結露でしょうかね、花瓶の水かもしれません、本当に申し訳ございません、お怪我はありませんか」

 優しく声を掛けながら、尚隆は視線を受付に走らせる。

 瑠璃子は軽く肩をすくめて、外へ出ていくところだった。


 一滴、絵の下辺から、透明なしずくがしたたって、落ちた。

   *

「進路かぁ……」

 進路指導のための用紙を広げ、日向はカバンを投げそうなくらい前後に揺らした。

 裄夜の三者面談のために学校に来ていた明良は、現在、図書館に行ってしまった裄夜にではなく帰路につく日向に随従している。

「どうしようかな」

「日向様は進学なさらないおつもりですか?」

 今通っている高校では毎年毎学期のように進路指導が行なわれている。進学にしても就職にしても、早くから意志を固めておけという圧力らしい。

「ううん、前はね、大学行こうと思ってたんです。進学校だったし」

 理由が何となく情けなくて、日向は曖昧に笑みを浮かべた。

「就職とか、させたがらない学校だった。今みたいな学校にきて、初めて、自分がやりたいことに向かってくっていうの考えて。……ううん、前は、考えてたけど思いつかないから、いけるとこまで行ってみようって、行ってみたら何か変わるかもしれないって、思って、ただ門前払いを食わないために勉強してました」

「好きなこととか、興味のあることは何かございませんか?」

 明良の声に、日向はうーんと喉でうなる。

「特に思いつかないです」

 したいことどころか、今生きている理由など、聞かれても答えられない。

 足下をすくわれるような寒い風が小雨を伴い吹き付ける。先程まで晴れていたのに急なことだ。裄夜は折り畳み傘を持っていたから大丈夫だが、急ぎ足になるところを見ると明良も傘がないらしい。さりげなく日向をかばってから、明良はふむと頷いた。

「確かに、私もそのくらいの年齢ではっきりした夢を持っていたとは言いがたいですね」

「明良さんは、何か好きだったもの、ありますか? 趣味とかで」

 明良は不意に眉をひそめる。その仕草が、何か針で突かれたようなものに見えて、日向は触れてはいけないものに触れたなと直感した。

「すみません、不躾なこと聞いて……!」

「いえ、大学で法律を学んだ後、院にあがることもできず実家に引き戻されましたからね。何か具体的な夢が有れば、こんな訳の分からない一族に付くお役目など引き受けなかったことでしょう」

「あ、そうか、ですよね、ちょっと意味分からないですよねこの一族。っていうことは明良さんって元から一族に居たんじゃないんですか?」

「まぁそういうことにはなりますか。大学を卒業するまではそういう話を一切聞いたことがありませんでしたから……そもそも私は両親と共に出身地を離れた場所で暮らしていましたからね、昔の事情を知らないんですよ」

 小雨をものともせずにサラリーマンらが新聞を片手に歩いていく。それを横目に、明良は駐車場までの距離を着実に埋めた。

「すみません日向様」

「えっ? あっだって明良さんだけ車取りに行かせるなんてできませんよ、それに一人で待ってるのって寂しいですし」

 歩きながら、余計な会話のできない様がまるで父と娘のようだと二人はそれぞれに内心でぼやいた。明良は薄暗くなった空を仰ぎ、それからふと話題になりそうなことを思い出した。

「これでも、小学生の頃までは粘土が得意だったんですが……」

「ねんど、ですか?」

 ええ、と頷くと、日向が目を輝かせていた。

「どんなもの作ってました?」

「どんな、と言われましても。たいしたものではありませんよ、小学生かそこらの年齢の人間が作るものですから」

「でもやっぱり楽しかったりする記憶って、こう、強く残りますよね。今でも粘土、楽しいとか」

「そうですねぇ……」

 明良は記憶を探ったが、いつからかそういう物作りにはまったく関わらなくなっていた。

「学生時代はずっと、勉強だの飲み会だのアルバイトだのと駆け回ってましたからね。法律関係は暗記してそれを応用できるようにしなければならなかったですし、そんな暇がありませんでしたから……もう、遠ざかった過去の思い出ですよ」

 そこで「良い」思い出だと言えなかったことに、明良は引っかかりを覚えた。

 小さい頃は、粘土が好きだった。粘土細工というにはおこがましいが、そういうものをいくつも作っては手足をつけて遊んでいた。

 いつからだろう。そうしなくなったのは。

(――いや、できなかったんじゃない)

 明良はそこでぎょっとする。心臓の奥の方を、冷たい素手で掴まれたような気持ちが走った。

(いつからだ?)

 日向が不安げに見上げてくる。それに微笑みながら自問するが、問いは問いを産み、決して答えをなしはしない。

 ただループする呪文。

(つくっては、いけない?)

 ウタウタイの少年が歌を自らに禁じたように、明良は作ることを自らにやめさせた。

 どうして?

「私は、ただ、作りたくて……作りたくなかったわけでは、ないのですが……」

(作っては、いけない)

 指先から音が、色が、かたちが、狂おしいほどの思慕を持ってあふれてくる。

 それで明良は作ることをやめたのだ。

 あの日から。

「どうして」

(それで、とはどれだろう)

 記憶が、ない。肝心なところが、三段論法よろしく欠落している。

 ――意識の抑圧を説いたのはフロイトだったか。

 エスは叫ぶ、無意識の名を借りてすべてをことさらに露呈しようとする。すべて、今、ここに任せればそれは叶う。

「――与えては、ならなかったから」

 ほら、抑圧の隙間から、滑り出る。

 ことばがおちてくる。


 工作室、汚れて傷だらけになった机、誰かが残していった筆入れ、水の残り、何かのすえた匂い、木くず、良くできた不格好な展示品、それから、薄暗がりの中の蛍光灯。

 窓には無数の水滴。

 雨、雨、雨。

 外では木々がくろぐろとさえずる。

 しんとした教室で、下校時間を過ぎても、明良は一人で残っていた。

 先生が薦めてくれた陶芸用の粘土、ごつごつした顔や体を作っている最中だった。

 気づかなかったのだ、初めは。

 ひたひたと、背筋を這いのぼるような寒さだった。

 コートを着込むほどではないのに、その日は天気の所為もあって、やけに一日中が薄暗く、温度が上がらない日だった。

 だから明良は、粘土を指で均しているとき、遠くの廊下のかすかな物音がときおり怖いと感じるくらいで、まだ作業をやめて帰ろうなどとは思ってもいなかった。

 蛍光灯のたてるかすかな音が、雨の降りそそぐ音よりも大きく響く。

 ふと集中をとぎらせると、教室中のがらんどうを間近に感じた。

 自分一人で埋め尽くされていた意識が、急に空疎になって薄まり、明良は大きく息をつく。

 却って頭がすっきりするほど、打ち込んだ日だった。

 時間をみてもういいかと思い、片づけて帰ろうとして決意する。

 粘土はよく乾かして、明後日くらいには先生に手伝ってもらって窯に入れよう。そう決めて、不意に、気配を感じた。

 言うなれば、広い空間に自分だけがいるのにも関わらず、真後ろや隣に、密度の高まりを感じ取るような、妙な野性の働き方。

 ボールが飛んできて、いきなりその面の肌だけがあわだって、知らずに避けてしまうような。

 明良は、自分の恐怖を押さえつけ、わざとゆっくりと振り返った。

 それが余計に自らのうちに黒い不安を生むとも知らずに。

「あれ?」

 振り返っても、教師もお化けも見あたらず、ただ入口がぽかりとあいているばかりである。外の妙な暗さの中に、ここの明かりが吸い込まれて消えている。

 何もなかったが、明良はやはりはやく帰ろう、と決意を新たにした。

 そして粘土板を手に、歩き出そうとした、瞬間。

 悲鳴をあげた。


「あ、明良さん!?」

 日向に手を置かれ、明良は我に返る。幼いあの頃のままに、シンクロして、悲鳴をあげていたらしい。座り込んで震えている自分がどれほど格好がついていないか、想像しただけで頬に血がのぼった。

「す、すみません……!」

 肩に置かれた日向の手をそっと握り、外させてから立ち上がる。

 少しふらついたが、叫んだおかげで内側からの恐怖は少し減った。

 記憶は生憎、まだ続いていた。内側と外側の乖離のように、フィルムを回すように淡々と脳内には映像が、記憶が、流されていた。


「体をおくれ」

 それは、一見すると小さな人間のようだった。緑色をしていたり、トカゲの手足を持っていたり、ねじちぎれた首を外気にさらしていたり、火傷をそのままにしたような様々な姿のものたちが群れていた。気づくと手にも指先にも指の間にも頭の上にも、鼻先にさえ彼らがもごもごとしがみつき張り付いて離れなかった。

 彼らは皆一様に体をくれと叫んでいた。

 まるでカナリアかコウモリの群れに頭をつっこんだような、きいきいともひいひいともつかない種々の雑多な、それでいて、統一された悲鳴。

 美しく思えるが、それよりも怖気が先行した。

 それらは、決してこの世に正しくあるものではないような鳴き方をしていた。

 まえまえから、「体」を求めて、これらの見えざる客人が訪れることはあった。ただ、作らない時期が長ければ自然と数が減っていったし、疲れからくる幻聴や幻覚のたぐいだと見なすことはできた。(それはたいてい、制作に没頭しすぎた後にやってきたのだ)

 違うのだ。

 それらは決して幻ではない。

 今、明良ははっきりと自覚する。

 作らなくなったのは自衛のためだ。

 彼の作る物自体には、生命活動というものはあり得なかったが、それは魂のこもった作品であるという周囲からの評価の通り、魂を込めるにはふさわしいものだった。生き生きとした空の器。体をほしがるものたちにとっては、今にも動かんとして待っている肉体は最適にして最上だった。

 小学生の作るようなものだ、稚拙さは明らかである。

 それでも、彼らはいくらでも尽きず、延々とあらわれては体を乞うていく。

 そして、求めてやってくるものたちが、すべて、明良や周りに害を及ぼさないものであるわけもなく、すべてに体を与えてやれる訳でもない。不平等が生じやすく、ヘタに機嫌を損ねれば明良自身に危害が及ぶ恐れがあった。

 一度、目の前で人ならざるものたちが、一つの小さな体を巡って血みどろの争いを繰り広げたことがある。

 明良は今、それをまざまざと思い出し、吐きそうになっていた。

「日向さま、水を、いただけますか」

 それだけを、やっとの思いで絞り出すと、日向は頷き、誰か居ないかと周りを見回した後、明良を何度か振り返りながら駆けていった。

 人に去られると、どうしようもない空虚感にさいなまれる。失敗だったかとほぞをかんだが、目の前にあるかのように思い出される赤い血糊と匂いの幻を追い払うので精一杯だった。

 けれど、このことを明良は、日向らには黙っていることにする。

 これ以上ややこしい事態を招く気もなかった。それ以前に、この特徴が元々一族の出だと言う明良の家の血を思い出させるだけで、何かの役に立つとは到底思えなかったためだった。

 戻ってきた日向に缶紅茶を渡され、他にも数個種類の違うペットボトルなどを見せられて、明良は思わず笑ってしまった。それで、忘れてしまえば良いと思った。


 忘れてしまえば、去ると思った。

   *

「卵ニンニクニラ砂糖、みんなで楽しく」

 適当な歌を歌いながら、大元はふと顔をあげた。社務所代わりでもある建物から自宅へ、渡り廊下を使って戻る途中、いつもは人気のない一室から物音が聞こえたのだ。

 急いで自宅に戻ってみると、見慣れた輪郭がその部屋に座っていた。ドロボウではなかったので娘に危害を加えられることはない。安堵しながら声をかけた。

「おいまゆら、何してるんだ、こんな時間に」

 電気もつけないで、と大元は壁のスイッチに手を伸ばす。娘の影が、ひどくぶれた。

「駄目っ」

 一瞬、ついたばかりの蛍光灯の明かりに目がくらむ。驚いて取り落としたものを呆然と見つめてから、セーラー服姿の娘は振りかえった。

「パパひどい……っ」

「は?」

 娘がひざまずき、畳の上に落とした母のいえいを持ち上げる。写真の前を守るガラスの表面にひびが入っていて、大元はそれを娘の手から取り上げようとして激しくその手を叩かれた。

「ま、まゆら、危ないからそれ、お父さんに貸しなさい、」

「……イヤ」

 なぜ、普段は滅多にこない仏壇の前に居たのだろう。大元は疑問を抱きながら壁を見て、引っ掛けられたカレンダーの日付を見て合点がいった。

「……命日か……」

 写真の中で、妻はあの日のままの姿でとまっている。大元はずいぶんとたるんできた自身の腹を見下ろしてため息をついた。道理で年をとるはずだ、妻の死んだ日に小学生だった娘は、いまや立派に高校生になっている。

 大元の呟きにまゆらは震えながら立ち上がった。

「忘れてたの……?」

 記憶が、消えようも無いと思っていたのにいつしかかなり薄れてしまった在りし日の記憶が、おぼろげながらの輪郭を立ち上げる。

「ひどい……」

 あの日の胸の悲しみが、そこはかとない不安が、白い壁の前に並ぶ白衣が、脈拍を告げる機械の塊に阻まれてよく見えない母のこけた頬が。

 あったのに。

「ひどいよ……」

 まゆらは唇をわななかせ、震える指を父親につきつけた。

「あんたのせいだからね!? あんたが、あんたがそういうやつだったから!! だからママは……っ」

 大元は戸惑いながら、反論はしない。ただおろおろと両手が宙をうろつく。

「……っく」

 どう責めたら気が済むだろう。悔しくて歯をくいしばる娘に、父はゆっくりと諭すように言った。

「すまん、俺がちゃんと、あの日帰れていたら」

「帰ってきてたっておんなじことよ! ママはあんたのせいで寂しい思いいっぱいしてたんだから! ふざけんじゃないわよ! いったいどれだけ自分勝手なのよ、自分が暇になりたいからって勝手に仕事辞めて……じゃあ何でもっと早くそうしないの!? ママの死に目に会えたって何にもかわんないよそれじゃあっ」

「俺も、気づくのが遅かったんだ……遅すぎたんだ、だからせめてこれからの人生は、お前と一緒に」

「はぁ!? 何いってんの!? あたしは家出るっての! 何のために県外の大学受けようって必死になってると思ってるのよ! それに今日が何の日か本気で分かってないでしょ、今日、三者面談だったんだからね!?」

 もう保険会社のサラリーマンでは無くなった大元は、両手をさげて、拳だけをゆるく握る。

 瞠目して待つのは、自分自身の受けた衝撃の理由。

「ごめん、な。学習能力が無くて悪いが、仕事が、忙しくて……それと、もしお前がどこかへ行くつもりなんだったら、寂しくないようについて行こうかと思ってた、思ってたから、その、びっくりした」

 その自分勝手な言葉に、まゆらは心底呆れた。

「自分が寂しいだけじゃないの」

「うん、そうかもしれん」

 これまたあっさりと認め、大元は頭をかいた。

「俺も勘違いしたままだったんだなぁ……ずっと、仕事することが家族のためになるって思ってた、妻を失って急に、今しかいられないんだったら精一杯そばにいてやろうと思って、まぁ今も仕事に翻弄されてはいるけど……でも、よく考えたらお前も、いつか出てっちゃうんだな、誰かと結婚するとかしちゃうんだな」

「パパ……」

 そんなにしおらしいふりをしても駄目だ。

 まゆらは哀れみをこめたまなざしで父を射抜く。

「偽善者」

 言って、まゆらは襖を引き倒さんばかりの勢いで開け閉めして出ていった。投げつけられた小さな写真立てを両手でつかみ、大元は無精髭をそっと動かす。

「すまんかった……」

 けれどいくら悔いても時間は戻らない。

 だから大元は精一杯、娘のそばに居て楽しい思い出をつくっておきたいと、つくってやりたいと、そう思うのに、もう娘はずいぶんと大人びていて、母を殺したようなものだと大元のことをひどく憎んだ。

「反抗期かなぁ……」

 母親をなくした当初は泣きながら大元に昼も夜も張り付いてきていたというのに。

 本当に、仕事馬鹿から戻ってくるのが遅すぎたのだろうか。

 けれど。

「……すまんなぁ、苦労かけたなあ」

 大元は写真の中の妻に涙声で話し掛け、それから新しいガラスをいれようと思い、写真たてから写真だけを抜き取った。

 かすかに鼻に届くのは、古い紙特有の埃っぽい匂いで。

 ますます悲しくなってきたので、大元はアレルギーみたいだなと妙な納得をしてから部屋を出た。

   *

(信じらんない信じらんない信じらんない信じらんない)

 まゆらは廊下を無遠慮に突き進む。いつの間にかひろびろとした屋内はいつもどこかひんやりとして冷たい。けれど木でできているためか、どこかしっとりとしていて落ち着く。

(ママがいたときはちっちゃい兎小屋だったくせに)

 社員住宅に詰め込まれて、母は近所の上司の妻たちから執拗にいやがらせを受けていた。違う地方からきた母にとって、まるで見たこともない土地での暮らしはそれだけでも辛かったことだろう。

(パパは、いつも家にいないから分からないンだ)

 そう何度思ったことだろう。けれど母が死んで、会社を辞めた父は、そばに居る時間が伸びた分、余計にうっとうしさを増した。

 世の中には理解できない相手がどうしてもいるものだと、まゆらは悟らざるをえなかった。

「……腹立つー……」

 いまさら父親づらをされても良い迷惑だ。自分ばかりはしゃいでいて、彼はまゆらのことを見てくれていない。

 この点での矛盾に気づかず、まゆらは父親を大嫌いだと結論付けた。

 外では憂鬱な雨が降り続いている。

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